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同じ日、空中都市クルロワ付近の別の空域で。
高空の大気を切り裂いて飛ぶ赤の機体があった。
棘棘しい鋭角なシェイプに、炎とみまがう鮮烈な赤色のペイント。
自ら炎の中に飛びこんで再生を繰り返すという伝説の不死鳥にちなみ、「フェニックス」の名でよばれるその赤い機体を操るのは――
中年と言っても良い程度の年を刻んだひとりの男であった。
名は、ラル・ネル・コーデルバーグ。
一般には『真紅のラル』の名で通っていた。なにしろ赤を好んだ、この男は。服から靴からベルトの色から何から何まで。そして髪も瞳も、赤と言っても通るだろう。が、より正確には、その髪は赤を含んだ茶色、あるいは「赤銅色」に類する暗めの色だった。
年はとっくに三十を超えている。四十に、もうすぐ手が届く。が、見た目はそれほど老けてはいない。脂肪ひとつついていない精悍な体躯に、痩せすぎと言えるほどにこけた頬。長すぎもせず短すぎもしない、少し縮れた髪。顎には髭が踊っているが―― それらは特に、好んでそれを身に着けているというよりは、手入れが面倒で結局こうなった、と言うかのような。飛ぶこと以外、あとは、赤の色を人より好むこと以外で―― この男が興味を抱く領域は少ない。噂ではこの男、過去には南半球のとある帝国空軍のエースとして戦場の空を飛んでいたとか。まあ、あくまで噂である。その噂のどこまでが真実を含んでいるか。それは誰にもわからない。
ふだんはこの男、ある熟年の魔法砲手の男と組んでギドの奈落を目指す例の競技に参戦している。というか、していた。先週までは。そこでの戦歴はすさまじく、最長距離の記録を二年で七度も更新した。目下、参戦する幾多の飛空艇乗りの中で最高の記録保持者、かつ、常にそれを塗り替えようとしている。それが『真紅のラル』だった。この都市でワイアット・ヒートに少しでも関わる者なら、ラルの名を知らぬ者はいない。
ところが理由は不明だが、この真紅の男、今週から別の魔法砲手と組み、これが二度目のテスト飛行となる。(今週開催の競技ラウンドには、なぜか参戦すらしなかった。)
その新たな魔法砲手は女だった。見た目は若い。二十に届くかどうか。その程度の。まず目につくのが、その赤い、やたらと長い乱れた髪だ。その赤さは『フェニックス』の塗装の赤と比べても、けっして劣ってはいない。女は機内の低い位置に設定された砲座の窓から眼下の空域の一点を凝視し――
ひたすらに無言。無駄な口をいっさいきかない。寡黙だ。
もとより『真紅のラル』も、どちらかと言うと寡黙な男だ。ここまでふたりは飛行上、本気で必要不可欠な情報伝達以外で、口をひらくことはなかった。
『フェニックス』は音の少ない機体だ。細部の形状と塗装の色は異なるものの、基本の設計コンセプトはザークが乗る『白ツバメ』と、それほど大きな違いはない。というより、設計の専門家がつぶさに見ると、それはまるで双子機と言って良いほど機体の構成は似通っていた。
ただし素人目には、主に、その明らかな色の違いと、砲座の位置の違いから、二つの機体の類似性にはあまり目が行かない。二つの機体の極端な類似に気づいている者は、じっさいこの空中都市にも、ごくわずかしかいなかったろう。
「もう十分だ。降りよう。テストは終わりだ」
女が声を出し、そこから斜め上に位置する操縦席に目をやった。鋭く切れ長の赤の瞳には、とくにこれという感情は宿っていない。が、疲れた目、あるいは、何かに倦んだ目だと。人はその目を評するかもしれない。
「おまえが「飛べる」男だということはよくわかった。もう十分だ」
「もういいのか?」
「ああ。もういい。来月、もう一度飛ぶ。それまでは誰か、別の適当な砲手と組んで飛んでいろ。だがあまり、無理はするな。深く行き過ぎて、戻れなくなることは避けろ。とにかく死ぬな。落ちるな。それだけ心にとめておけ」
「ふ、たいしたアドバイスだ。耳を疑うよ」
「だが、本気で言っている。落ちるな。この一か月は、死ぬな。来月、またわたしと組んで飛ぶ。その時までは――」
「ま、それはそれでかまわない。おれもとくに死ぬつもりもない。同乗する砲手の素性にもうるさくない方だ。が、」
真紅のラルが、視界の前方に目を固定したまま答えを返した。声はマスクのため、少しくぐもっている。
「ひとつ質問をいいか?」
「なんだ? 何を訊きたい?」
女が視線を眼下にむけ、感情のこもらぬ声を返した。
「あんたの魔力の強さはわかった。正直おどろいた。この軽さなら―― これだけの魔力の支えがあれば、楽に、その、ギドの奈落ってやつを超えられる、と。いま確信を持った。最初はやはり、半信半疑だったが」
「それは質問ではないな。感想だ」
「質問と言うのは、つまり、」
真紅のラルが逡巡する。正しい言葉を、そこに引き出そうと、意識を集中させる。
「ならばなぜ、待つ必要がある? そこがわからない。わざわざ来月まで待つ理由が、だ」
機体は今、海氷が密集する海域の上をとぶ。眼下に雲はなく、視界の下には途切れない海氷の連なりが、ひたすらに視界の果てまでを埋めている。ときおり低空で何かが光る。あるいは飛空艇? しかしこの高度からは、その詳細を見定めることはできない。
「答えを知りたいか?」
女が答える。声にあまり意欲は感じられないが、かといって全くの無関心というわけでもない。
「ひとことで言う。単独では厳しい。それが理由だ」
「竜か?」
「そうだ。一機ではとても切り抜けられん。竜の数は多い」
「だが、ワイアット・ヒートは単機単位で競い合うものだろう? 矛盾していないか?」
「矛盾―― そうだな。だが意図はある」
女が言う。視線はどこか、海氷のはるか先を。
「今にわかる。もうすぐだ。じき、わかる。特にそれほどの秘密でもない。ただ、もう少し先で、だ。それまで待て」
女は厳しい目で、ひたすらに遠くを見ていた。
その視線の作り方、その目つきは、じつは『白ツバメ』を操る飛行時のザークの目と、とてもよく似ていたのだが―― だがそれは女自身も知ることはなかったし、ザークの方でも、知るよしもないこと。それはただ、ひたすらに遠くを見る者の―― ここではない、どこかずっと先を見る者に共通した目の輝き、あるいは、目の強さ、深さとも言うべきものだ。その目が測る距離は、およそこの惑星の基準では測れない。その次元の距離を、いま女の目は、見つめている。しかしそこには情熱はなかった。あるのは冷め切った、ただただ深い何かであった。
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