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第三夜 立花浩二
鬼の語る話であります。といって、角の生えた赤ら顔に虎皮の腰巻など御伽噺の鬼を思われては心外です。
鬼とは舞を舞う死者のことでありますれば。
では、死者であるのかと? 死者の声に耳を傾けてはならない、彼の世に呼ばれてしまうと? うふふ、恐れているのですか。賢明なことですね。まあよろしい。続きで御座います。その皮袋は、まだまだ水で清めておかねばなりません。今宵の語り手は立花浩二殿です。
……神宮の森深くに、この学び舎はあるんや。いつからあるんか、それは知らん。
五十鈴川を隔てて、人の世と切り離されとるらしい。唯一、細い橋で繋がっとるんやて。その橋を渡るには、たもとの祠で認められやなあかんと言われたわ。
まだ頭がぼうっとして、難しいことは考えられへんし、いまのところ橋を渡る気もないで、どうでもええけどな。
高島先生の話では、わては鬼に喰われて死んだんやて。なぜ、ここにこうしとるんか、立花浩二という自分への違和感は何なのか、考えると苦しうなってまう。
せやで、考えるのはやめた。
いまは、寂しい学び舎の奥から聞こえる呻き声の正体を知りたい。忘れてしもたことと関係があるんやなかろうか。わては地元の高校に通とった学生で、兄一人、妹一人の三人兄妹の二番目やった。普通の家庭で普通に育った。その十数年の記憶は確かにあるのに、それだけと違う何か大事なことを忘れているみたいや。家族に会えないのは寂しい。けれど、それ以上に呻き声が気になって仕方がない。
人気のない学び舎は広く、寂しく、昼なお薄暗い。呻き声は、ある時は近く、またある時は遠い。高島先生に尋ねても、気にする必要はない、時が来れば自ずと機会はあるなんてことを言うだけで要領を得やへん。くたびれたサラリーマンみたいな格好をしよって。ええ先生やけど、あんまり頼りにならんわ。
結局、わては独りで呻き声の出所を探し回った。そのおかげか、自ずと機会が来ただけなのかわからんけど、とうとう見つけたんや。
わての頭ん中が狂っとるんか建物が生きとるんか、そんなことを思うほど学び舎の造りは複雑で、目覚めるたびに間取りが変わっとるみたいやった。その日、例の呻き声は廊下の先を曲がってすぐの扉から聞こえとった。
いつもなら近付く前に止んでしまい、扉も見つけられない。どこから聞こえるかわからない、寂しさと苦しさと懐かしさをないまぜにしたようなその声が、まだ聞こえとった。
森の匂いがする木造の建物の奥に、不意に、赤錆びた鉄の扉があるんや。無理やり埋め込まれたような違和感だらけの扉には、
決して開けるべからず〈校長〉
と記されていた。もちろん、開けるに決まっとる。ルールは破るためにあるんや。
そやけど、残念ながら鍵が掛かっておったわ。そらそうか。生臭い匂いのもれる扉の前で耳を澄ませると、およそ生ある者が発するとは思えない呻き声が響き、それは恐ろしくも助けを呼ぶ声のようやった。なんとか扉を開けようとガチャガチャやっとる最中に、背後から柔らかな声が聞こえてな。
初老の女性が凛として佇んとった。茶髪のセミロング、すらりとした長身、細身、切れ長の目、泣きぼくろが半ば皺に埋もれとる。こちらも高島先生や。旦那さんは平の先生、奥さんは教頭先生で、と言っても、生徒も少なく先生もほんの数人やけど。
何をしているのです。
そう聞く教頭先生にこそ聞きたかったわ。何を持っているんやと。ぷんと匂うバケツを手に、そこから生臭い匂いが溢れてたんさ。なんやろと思って見とると、無言で扉に近付いて肩の高さにある小窓を開いた。
いくつもの鍵で厳重に施錠されていた小窓を開けるや、中から溢れたのは、バケツの中身以上に生臭い匂いと背筋も凍るような叫び声やった。これまで呻き声やと思とったのは、厚い扉の向こうの叫び声やったんや。
開かずの扉の向こうには何かがおる。
教頭先生がバケツから無造作に掴み出したのは血の滴る生肉や。それを小窓の前に差し出すや、叫び声が止み、中から青白い腕が伸びて来た。目に映ったのは一瞬のことで、ひったくるように生肉を奪うと引っ込んでしまう。ぐじゅぐじゅと咀嚼する音が続く。
鬼がいるの。
小窓を閉めて冷たく言い放つと、ぱちん、ぱちん、がちゃん、がちゃん、いくつもの鍵をかけて封じてしもた。教頭先生の指先から血が垂れて床を汚す。それを見とるうちに、さっきまでそこにあったはずの鉄の扉が消え失せておった。振り向くと先生の姿もない。
わては独り、廊下に立ち尽くすしかなかった。扉があったはずの壁に手をおいても変わったことは何もない。ただ、床には血に染まった長い髪が数本散らばっとった。
鬼の髪なんやろか。拾いあげた髪は、細く長く弱々しく、掻き毟られたそいつは、昼間の蛍のように幽かに輝いておったんや。
その時は、妹の久美と二人で鬼の世話をすることになろうとは思いもよらんかった。人生、一寸先は闇や。何が起きるかわからん。
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