第三十六夜 名坂月子

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第三十六夜 名坂月子

 おや、不安そうな面持ちですが、どうかされましたか。はあ、温州蜜柑のことですか。もちろん忘れてはおりませんよ。毎夜、毎夜、一粒、一粒、神水に(さら)し、清め、()り、風に吹かせて皮袋に入れています。  あの鬼に喰われることがなければ生きたであろう時を、立花浩二と久美の兄妹に。早すぎる死を(いた)まれるのはこの二人に限りませんが、私はただ失われた時をお返しするだけです。  あわせて温州蜜柑にも良き時を与えてやりたい。いまあるものの多くが百年先には失われてしまう。だからこそ、温州蜜柑と佳乃には人として再会してほしいのです。  さて、十七年後のセカイで、立花浩二として生きる蜜柑、加藤佳乃として生きる佳乃、それぞれは如何(いか)にして日を過ごしておるでしょうか。これもまた懐かしき月子様の話です。旧姓稲田、いまは名坂月子様で。例によって番台に座っておられます。 ……はぁ、若い子はいいわねぇ。  肌のハリとツヤが違うもの。私も歳のわりには若いって言われるけど。ねぇ?  今日は学び舎の子らが来てるから賑やかだわ。足神(あしがみ)様のところで持久走をしてたみたい。まだ暑い時期に大変ねぇ。でも、汗と日焼けが(まぶ)しくってうらやましい。  若い女の子のむきだしの手足と張りついたシャツと、これは男の子たちには目の毒だわ。初等部、中等部、高等部と分かれているって話だったかしら。  初等部の子も可愛らしいし、将来きっと美人になるわね。中等部の子は元気そう。ボーイッシュな感じが素敵だわ。体の方はまだまだね、ふふ。あとの何人かは高等部の女の子たちかしら。黒髪ショートの子は着痩(きや)せするタイプね。それから……  あら、あの子、ちょっと変わった感じがするわ。長い黒髪に牙みたいな八重歯(やえば)が愛らしい。きっと、あの子が佳乃なのね。昔と雰囲気が違うのは、すべて忘れてしまっているからなのかしら。思い出してほしいような、いまが幸せならそのまま忘れていてほしいような、そんな気分だわ。  きみの湯は天然温泉ですからね。佳乃も蜜柑も、人として湯を楽しんでいってほしい。でも、なにかしら、佳乃の肌に古い傷跡がいっぱいだった。あれはなに? 鬼の娘として育てられたって、そういうことなの?  あ、ごめんなさい。お客さまですね。今日は学校行事で夕方まで貸し切りなんです。って、千里(ちさと)にスーじゃないの。あなたたちならお客さまじゃないからいいわ。どうぞ入ってちょうだい。そう、やっぱり佳乃と蜜柑のことが気になって来たのね。  そう言って二人が浴室に向かったあとのこと。悲鳴のような声が響いて佳乃が倒れてしまったの。のぼせたような佳乃は、ここは……わたくしは……と繰り返してた。温泉のせいか、スーや千里の顔を見たせいか、それはわからないけれど、私のことも思い出してくれたようだったわ。やっぱり嬉しいかも。  おかえりなさい、佳乃(よしの)
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