第五十四夜 九鬼隆久

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第五十四夜 九鬼隆久

 山中他界(さんちゅうたかい)とは何か、聞いたことがおありでしょうか。古来より伝わる死生観のひとつです。少し敷衍(ふえん)するなら、山は異界であり、人外(じんがい)の者の住む場所であると。  遠く伊勢の地、神宮(じんぐう)鬼門(きもん)となる地にそれはあります。さほど高くない山ながら、古くから多くの神籬(ひもろぎ)が立てられて参りました。一般的な物とは異なり、四角い柱状(はしらじょう)卒塔婆(そとば)が高く林立する様は、まさに山中他界の光景と云って良いでしょう。  外宮参道から姿を消した御船龍樹ですが、そのまま行方知れずになってしまうようです。  朝まだき、卒塔婆の林を掃き清めていた一介の僧、九鬼隆久(くき たかひさ)が妖しい雰囲気の女性と出逢(であ)う。それが龍樹であるかどうか、ともかくも語ってもらうと致しましょう。 ……今朝(けさ)(からす)が多い。  立ち並ぶ卒塔婆よりも、烏の方が気になって仕方がない。世の人々からすれば、卒塔婆の小道をこの世ならぬ異界と感じもするのだろうが、見慣れてくると普段の光景に過ぎない。  日課としての掃き掃除を丹念(たんねん)に行う。こうした日々の勤めが己を作るのであろう。何にも惑わされず、心乱れることもない。  そう思いながら極楽門(ごくらくもん)へ戻ろうとしたところ、振り返ったその目の前に若い女が立っていた。しっとりとした黒色の着物に紅い炎があしらわれている。短い黒髪の下、細い目がこちらを見ているのかいないのか。  心乱れぬどころではなかった。  虫や鳥の声が聞こえるほどの静かな時間に、いつのまに背後まで来ていたのか。なんの気配もなく、場所が場所だけに、もののけか幽鬼(ゆうき)(たぐ)いかと思えた。  山中の美女は妖しさを感じさせる。そこに居るはずのないものだからだろうか。  しかし、むろんのこと、もののけなどであるわけもなく。その女は軽く頭を下げると、にこやかに言葉を発した。  おはようさんです。  そう告げる姿は、見た目よりずっと年上のようで、まだ違和感があった。けれど、影もあり、足もあり、たしかにそこに()る。生きた人間であることは確かだ。  こんな朝早くから観光ですかと問いかけると静かに首を振って、  ちょうど二十年ほど前、大学生の頃に一度。今朝は懐かしくて来てしまったのです。 と応じていた。  そうして互いに頭を下げて道を譲り合い、その女は奥の院の方へ消えていった。その時になってやっと、その女がまだ高校生くらいにしか見えなかったことに思い至った。見た目の年齢と女の話とが噛み合わない。  ふっと腹の力が抜けるような思いがしてその場に(しゃが)み込むと、細い参道を風が吹き抜けていき、頭上で烏がカァと鳴いた。
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