第六十四夜 工藤直人

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第六十四夜 工藤直人

 どこへ持っていったのかというと、それは此処(ここ)にあるわけですね。  百夜参(ひゃくやまい)りもすでに折り返し、第六十四夜となりました。そろそろおわかりでしょうが、多くの語りは、かつてあり、またあるかもしれぬ事柄(ことがら)で御座います。  皮袋こと温州蜜柑を、立花浩二、久美の兄妹とともに黄泉(よみ)がえらせることができるかどうか。それはまだ誰にもわかりません。  再び、十七年先の物語に戻るとしましょう。外法箱(げほうばこ)より転がり落ちた骨を食わされたクロがどうなったか。その行方(ゆくえ)を案ずる老人、工藤直人(くどう なおひと)の話です。 ……どこへ行ってしまったのか。  少し変わったところのある犬でしたが、私には(なつ)いていたと思う。それなのに、もう何日も姿を見せない。  (えさ)は無くなっているから食べに来てはいるのだろう。ただ、妙なことに皿も一緒に無くなっているのです。  普段は山に居て、時々里へ降りてくるところなど、山神(やまがみ)の使いのようにも感じられる。薄汚(うすよご)れた毛並みにもどこか気品があるような。毛の色に合わせて、クロ、クロ、と呼んできた。もしかして、安易(あんい)な命名が気に食わなかったのだろうか。いや、まさかそんなこともなかろうし。  飼っているわけでもなく、心配するのも余計なことだ。だが、余計なことこそが人生なのかもしれない。寂しい生活のなかで、存外、クロの占める割合も大きかったとみえる。  そう思って、クロが来ているであろう深夜に様子を(うかが)うこととした。なに、この時期は泊まりの者もいないのだし、私ひとりが一夜を明かすに支障もない。  平板な日常にほんの少しの変化を。その程度の気持ちで夜を待ったその夜は、忘れがたい夜になったのでした。  徹夜するつもりが、寄る年波(としなみ)には勝てず。うとうとし始めていたころ、宿所の外から音が聞こえてきた。はっと目を覚まして耳を澄ませると、ごそごそと(えさ)(あさ)っているようなのです。  ははぁ、来たなと。なぜか姿を見せようとしないクロを(おどろか)かせてやろうと思いながら、そっと屋外へ出て、(えさ)を置いたあたりに向かいました。  秋月(しゅうげつ)の明るい光が照らし出したのは、たしかにクロでした。たしかに。目で見て頭では、たしかに。名を呼ぼうとして、自分の(のど)が乾いて、舌が喉に張りついてしまっていることに気付いた。目と頭とは、見慣れたクロと認めて呼ぼうとしているのに、自分の舌がそれを拒否していた。  暗闇に浮かぶ一対(いっつい)の目。その下にあるはずの口のあたりから、バキバキと金属的な音が聞こえてくるのです。すっと顔をあげたクロは、ステンレス製の餌皿(えさざら)(くわ)えて、それを、バキバキと噛み砕いていた。咀嚼(そしゃく)し、飲み込み、たしかに食っていた。  ああ、餌皿が無くなっていたのはこのせいか。餌皿なんて食べるものじゃない。腹を壊すからやめさせなくては。そんな愚かなことを考えていた。ありえないことであるのに。  クロは餌皿(えさざら)も、もちろん中に入っていた(えさ)も、すべて食べてしまったらしい。なぜなら、なぜなら、舌なめずりしながら私を見て近付いて来るから。ああ、もっと餌が欲しいのか。そう思えたらどんなに良かっただろう。私にはわかっていた。クロは私を食べようとしている。  頭では走り出し、すでに逃げ出していた。けれど、けれども、身体は強張(こわば)って動こうともしない。  ああ、このまま犬に喰われて死ぬのか。飢えた犬の腹を満たすことが私の人生の意味だったのか。そう思いながら生を(あきら)めかけたとき、クロがくるりと向きを変えてどこかへ行ってしまったのです。  私など喰う価値もない。そういうことかと、おかしな考えが頭をよぎりましたが、どうやら、そうではなかったらしい。  走り去ったクロの後を、白い犬が追って行ったのです。見たことのない犬で、その毛並みは月の光を吸うように、(みず)々しく輝いていた。
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