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第六十六夜 名坂礼央
穢れ思想は、我が国特有のものではありません。触れることによって良くないものがうつるという考えはわかりやすく、感覚的に納得できますからね。
経験による衛生上の意味合いもあるのかもしれませんが、怪我人、業病者、死者などに喜んで触れようとする者は少ない。だからこそ、古代ギリシアの王女も、戦場のナイチンゲールも、オルレアンの処女も、聖女として讃えられることになるのでしょう。
血塗れになりたがるのは、聖女か悪魔かと相場が決まっているのです。
今宵は、聖女ではなく、と云って悪魔などでもない普通の少年の話です。まっすぐな優しさと強さを合わせ持ち、穢れに臆することのないその子の名前は、名坂礼央で御座います。
……白い犬を見たんだ。
おかげ横丁の外れで、ケガをしているのか、よろよろと歩いていた。でも、誰もそんな犬のことなんて気にしてない。そこにいることさえ目につかないみたいに。
白い毛は汚れていて、ぼさぼさになっている。誰かに飼われているとも思えない。ただ、よろよろと歩いているはずなのに、なぜか追いつけない。すっと先へ行ってしまう。
それでも気になって後を追ううちに、知らない路地へ入り込んでいた。両側から覆いかぶさるようにしている民家の壁は、どこか異様で、この世のものではないように思えた。
まっくろな壁が崩れ、もぞりと動いた。
壁と見えていたそれは、黒いネズミの群れだった。キーキーと音を立てながら互いの体を乗り越え、もつれあい、噛みつき、路地の奥へ向かっていく。波のように奔る群れの先に、白い犬が蹲っていた。
もう動くことができないのか、ネズミの群れに呑み込まれてしまう。キーキー、ガサガサと響く音の合間に苦しそうな鳴き声が聞こえる。ネズミを蹴散らしながら白い犬を助けようとしたけれど、山のようになっていたネズミたちが僕に襲いかかってきた。無数の赤い目が僕を睨み、小さな牙で噛みついてくるんだ。
全身、腐った溝川のような匂いに包まれ、噛みつかれる痛みと恐怖と嫌悪に気を失いそうになる。膝を着いた僕の体を押しつぶそうというのか、黒い小さな獣が殺到してきていた。
獣の歯と毛皮の不快な感触が感じられ、頭から首から、手も足も呑み込まれてしまう。視界が黒く塗り潰されていくなか、わずかな隙間から、白い犬が身を起こすのが見えた。
よろよろと立ち上がると、こちらを見ながら、ゴウと吠えたんだ。
すると、僕の周囲にいたネズミたちが動きを止め、いっせいに白い犬の方へ向かっていった。それらに噛みつき、噛みつき、吐き捨てながら、その犬は、もう一度、ゴウと吠えた。行け、逃げろと言っているかのようだった。僕は後ろを向いて路地の外へ逃げ出そうとした。
けれど、やっぱり逃げてはいけないように思えた。あちこち噛まれて傷だらけでも走ることはできそうだった。だから、振り向いて路地の奥を確認した。
白い犬がネズミたちを引きつけているその先、ずっと遠く、本当はそれほど遠くでもないのだろうけど、その遠くに明るい表通りが見えていた。目の端では白い犬が力尽きて、また黒い群れに呑み込まれそうになっていた。
少しだけ足を伸ばして、深呼吸。
だっ、と走り出して、こちらを向くネズミたちの目を睨み返しながら白い犬を抱えあげる。ぐったりしているせいで、思った以上に重い。
走って、走って、走ってするけれども、光は遠く、まるで近づいてこない。走っているつもりが、だんだんと足が遅くなり、早足ほどでもない状態になる。ヒルのように飛びかかってくるネズミたちのせいで体が重い。白い犬を抱えている手が痺れてくる。この犬を置いて逃げれば逃げられるかもしれない。でも、そうはできなかった。
ああ、母さんが心配するだろうな。神宮のすぐそばでこんなことになるなんて。
足が上がらない。もつれて倒れたところにネズミたちが殺到し、僕を押しつぶしていく。もう逃げ出す力はない。ぎゅっと犬を抱えるようにする。耳たぶを囓られている、指先を囓られている、全身くまなく囓られて、少しずつ殺されるんだろうか。痛い、苦しい、だれか、だれか……。
気を失いそうになりながら、もがいた手の先が路地の先へ少しだけ届いた。ほんの少しの日の光が全身を包み込むように温かい。
そこへ、橋姫の高笑いが聞こえたんだ。
『かかかか、小僧、よくやった。親父殿に似て芯のある男よな。あとはわしが面倒をみてやろう。ネズミ風情がなにするものぞ。この橋姫の膝元で大きな顔をしよって。根こそぎ、祓うてくれるわ!』
その声を最後に、僕は気を失った。相変わらず腐った溝川のような匂いを嗅ぎながら、でも、少し安心しながら。
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