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第七十一夜 沢蟹
獣の心に善も悪もない。白も黒もなく、といって灰色でもないのです。ただ、在るものを在るままに受け取るのでしょう。
暗い部屋を出た時に、輝きを増すセカイのように。ひだまりの猫のように。答えはそれぞれの中にあります。私たちはそれが見えなくなっている、聞けなくなっている、触れなくなっているのです。
クラムボンが何者か、そんなことは知らずとも良い。ただ、かぷかぷとわらっておれば良いのです。水底から見上げる空は波を打ち、きらきらと美しい。遥か昔より、人知れず隠れ斎王に仕えてきた沢蟹の語る話をお聞きあれ。かぷかぷ、かぷかぷと、わらっておききあれ。
……わたしたちは、ずっとここにいる。
隠れ斎王様すらご存じなかろうが、ずっとここでおつかえしている。西の国では、怪物退治に来た英雄に挑み、虚しい最期を遂げたものもあるときく。
今宵の出来事は、それと真逆といってよい。
社殿に首をねじこんだ化け犬を、わたしたちが追いはらうのだ。結界を破り、扉を破って入りこんだそれは、自ら首を切り落とした。落ちた首から九匹の黒い犬が生じ、残された胴体は無頭の蛇となって屋内に入った。
待ち受けていた立花兄妹や佳乃、うずめらによって九匹の犬は難なく倒されたものの、むろん、それで終わりなどではない。無頭の蛇は倒された犬に触れると、それらを取り込み、犬の頭を生やしたのだ。
蛇の胴体に、九つの犬の頭が生じた。
それぞれの頭が忙しなく動いて、毒々しく黒いへどろのようなものを吐き、触れたものは、たちまちに腐れて溶け落ちる。
うずめと斎王様それに浩一、久美に佳乃と白い犬それに浩二とが、へどろようの毒液に分断されてしまっている。
斎王様に向かって毒液が飛び、それをうずめが庇う。さらに浩一が身を挺して庇った。苦痛に呻く声が響くが、佳乃らに矢を放てと指示を出すことも忘れない。
その佳乃らは、久美の力に守られながら機会を窺っているらしい。三人の前に蛇の鱗模様の壁が生じていた。蛇そのものではなく、久美の心の臓に残された力だ。もっとも、近くに蛇神の気配を感じるゆえ、その力でもあろうか。
多頭の化け犬が毒液を吐き続けるために、隙をつくことが難しく、いずれも攻めあぐねている様子だった。
わたしたちがやらなくてはならない。
多頭の化け犬の下肢は蛇体となって社殿の外へ続いている。やがてはいくつもの細い糸のようになっていくのだが、それこそが毒液の源であり、現世の穢れを吸っておるのだ。
だれもしらぬが、かぷかぷとやろう。
わたしたちは、蛇体から伸びる糸状のものを小さな鋏で断ち切った。ぱちり、ぱちり、ぷつん。ぱちり、ぱちり、ぷつん。
たいせつな糸を断たれたと知った化け犬は、蛇体を尾のように振るって、わたしたちを叩きつぶした。そうして死んだということを斎王様もご存じないが、しかし、わたしたちは、クラムボンのように、かぷかぷとわらったよ。
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