第七十四夜 稲田葛音

1/1

24人が本棚に入れています
本棚に追加
/100ページ

第七十四夜 稲田葛音

 近頃は健康食とやらが人気と聞きます。  昔は食べるに事欠く暮らしでしたから、食べるものに気をつけるなどということは、いまひとつ理解し難いところです。  とはいえ、体を形作る食事が大切であることは(げん)()たず。同様に、心を形作る言葉も大切で、取り入れる言葉は選ばなければなりません。  飲水思源(いんすいしげん)という言葉が御座います。  どのような意味に取られましたか? 私には、自らの源に思いを馳せよと言われているように聞こえるのです。本来の意味とはまるで違うのですがね。  貴方(あなた)は、自らのルーツを御存知でしょうか。今宵は、稲田三姉妹の二女、稲田葛音(いなだ くずね)の語る話をお聞きあれ。そもそもの始まりの物語で御座います。 ……伝承があるんだよ。  戸隠(とがくし)の鬼と言い、紅葉(もみじ)と言う稀代(きたい)の鬼女。鈴鹿御前(すずかごぜん)やら、立烏帽子(たてえぼし)、はたまた呉羽(くれは)葛葉(くずは)、かさねと様々な名で呼ばれるんだ。  戸隠(とがくし)黄泉(よみ)の戸であり、また天の岩戸でもあるとか。貴人の子を宿すも、その子は母の血を恥じて自害したという。  酒呑童子や大嶽(おおたけ)丸、土蜘蛛(つちぐも)退治と、時の(みかど)から宣旨(せんじ)を受けて討伐された悪鬼ども。戸隠の鬼もまた、その一人。でも、本当にそうかな。  昔々、ここらの盆地一帯は大きな湖で、山と山とを舟で行き来していたとか。いまでも十二神社には、舟繋(ふなつな)ぎの樹と呼ばれる大木の古跡が言い伝えられているんだ。それが、山崩れによって水が抜け、水無瀬(みなせ)と呼ばれるようになった。  さらに、天武天皇の時代に遷都が計画されたおり、水無瀬の鬼たちがそれに歯向かって退治されたため、それ以後は鬼無里(きなさ)と呼ばれるようになったんだと。  なにが言いたいかっていうと、史実なんて糞食らえってことさ。なにが嘘で、なにが事実かわかったもんじゃないよね。  一般に流布する話を語ろうか。  時代は流れて平安時代、後に戸隠の鬼とされる美貌の娘は源経基(みなもとのつねもと)に見染められ、その子を授かるも、山深い鬼無里の地へと流されてしまう。  娘は魔性の者であり、呪詛をかけていたことが露見したとも、逆に、正室の(ねた)みをかって追われたともいう。  さて、どちらが事実か、あるいはどちらも事実ではないかもしれない。山中の寒村に流された娘は村人を慈しみ、あるいは騙してその地に親しんだとか。鬼女の意向によるのか、貴女に向けられた村人の優しさか、都を(しの)んで東京、西京、二条などと地名をつけたともいう。  やがて、鬼女による山賊働き、謀反の気配ありなど、もっともらしく悪事をあげつらって、朝廷は平維茂(たいらのこれもち)を派遣して戸隠の鬼を退治するわけ。でもさ、そんなの一方的な話でしょ。実際がどうだったかなんてわからないよ。  娘が嫁ぎ、離縁されたのが源経基(みなもとのつねもと)というのも胡散(うさん)くさい。経基ってのは、将門の乱とも絡みがある人物で、清和源氏の祖だかなんだか知らないけど、信用ならない話なんだ。  いったい、本当の出来事ってなんだろう?
/100ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加