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第七十七夜 ほそみ
あの頃は春だったか夏だったか、いや秋の入りのときだったでしょうか。記憶は遠く、古く、新たな記憶と混じり合って不確かです。
ひきめとほそみと、その後、どうなったのだったか。多くの死と離別と、また出会いと。ひとつとして大事でないものなどないというのに、記憶は薄れ、混ざり、変わっていく。
人々の受けた痛みも、噛みしめた喜びも、望月の如き世界も、欠けて、崩れて、消えて。それでも、無かったわけではないのです。千年の時を経て、もはや思い出す者が私だけであったとしても、優しいひきめ、勇気あるほそみが生きて死んでいったことは確かなのだから。
今宵は、月を見上げ、鬼無里の地に思いを馳せながら、ほそみの語る話を聞くことと致しましょう。
……ちくしょう、ひきめまで殴りやがって。
役人だかなんだか知らないが、なにさまのつもりだ。くずさまは、本当におやさしい方なんだ。それを鬼だなんて。ちくしょう、ちくしょう。殺してやりテェ。
でも、わかってんだ。仕方ねぇ、仕方ねぇんだ。ひきめが殴られても、殴り返してやることもできねぇ。せいぜい代わりに殴られてやることしかできねぇ。
病でガサガサになったひきめの顔を笑いやがった。ほんとの蛙みたいだなんてよ。満足に飯も食えねぇ、薬も買えねぇ、そんな生活だってのに。
だから、それを救ってくれたくずさまへの恩は忘れたくねぇんだ。それなのに、おれは犬みてぇに丸くなって足蹴にされることしかできねぇ。あげくのはてに、連中は槍まで持ちだしやがった。面白がって突いてくるんだ。本気じゃねぇから、ちょっと血が出るくらい。でも、そのうち本当にやられちまうかもしれない。連中にとっちゃ、おれなんて犬や蛙と変わらねぇ。もしかすっと、それ以下かもしんねぇな。槍に込められる力がだんだんと強くなってきて、このままじゃ殺されちまうと思って。それでも、逃げ出すこともできなかった。
そうするうちに、ばかやろう、ひきめがおれの前に立って相手を睨みつけたんだ。ああ、だめだ。ひきめまで殺されちまう。と思ったけれど、急に槍の動きが止まり、おれたちは助かった。黒々とした影が連中との間に割って入って、その影の背中から、もう大丈夫よと声が聞こえたんだ。
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