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第八十夜 空信
いやはや、あの時の姉の怒りがどうであったか。なにせ背中に負われておる身、私には何も見えませんでしたが、まあ恐いものだったと思いますよ。
割って入った空信殿は、なかなかどうして。これが信心のなすものでしょうか。
今宵の語り手をお招きしましょう。その頃、鬼無里を訪れていた聖の空信殿で御座います。
……なんという顔をするのか。
目を見開き、噛み締めた歯が歪んだ口元からかすかにみえている。牙のように尖った八重歯が突き出て、憤怒を司る悪鬼か、あるいは明王か。体中から炎が噴き出しているかのようだ。
子どもらが危ないと村の衆に聞いて駆けつけたところが、思わず鬼と出会った。
話に聞く戸隠の鬼の片割れ、かさねとはこの娘か。背負子に乗せたもう一人の娘がくずであろう。
国衙の官人が、背中の女ごと串刺しにしてやると叫んだ時のことだ。ごうごうと風が吹くようにして怒りも露わに、かさねが官人の喉を鷲掴みにして持ち上げた。そやつは槍を手にしたまま身動きもできず、為すがまま宙に浮かんでおったよ。
ごきりごきりと嫌な音が聞こえてくる。
はっと我にかえって、わたしは女の手を押さえた。女性に触れてはならぬと思いながら、またなんと柔らかく温かいものかと場違いなことを思わされた。このような柔肌と細腕のどこに大の男を片手で持ち上げる力が秘められているのか。
やめよ、殺してはならぬ。
かすれた声でそう告げるのが精一杯であった。怒りの目がこちらを向くかと怯えるわたしを見たのは、不思議と優しく哀しげな目だ。あたたかいと言っても間違いではない。
無益な殺生をしては地獄に落ちる。我ながら空虚な言葉を口にしながら、かさねの手にすがって官人を離させようとしたが、その手は宙に固定されているかのように微動だにしない。
『地獄に落ちるか。ははは、もう遅い。これまで生き延びるためにどれだけの者を殺めてきたことか。地獄、極楽などに用はない』
『そのようなことを言うでない。阿弥陀仏は、何者をもお救いくださる』
『ほう、この男もか。無抵抗な子らをいたぶり、意味なく殺そうとした男もか』
力なくうなずくわたしに向かって吠えるように言葉を続ける。不思議なことに、そこには怒りよりも哀しみが、冷たさよりも温かさが滲んでいた。
『国衙といえば、その土地を治め、人々の穏やかな暮らしを守るべきものではないのか。そのために、なけなしの作物から何から奪い取るのだろう? 見ろ、これがこの世の正義か』
少し力が入ったのだろう。男が槍を取り落としてもがいた。喉元の女の手をかきむしる。爪で裂かれ、皮が破れて血が滲むけれども、その手の力が緩むこともない。
『空信といったか。近頃、鬼無里を訪れた聖とはおまえのことだな。ひとつ良いことを教えてやろう。あたしは、この世の鬼、そして、この世は地獄よ』
誰も気付いておらぬだけ、この世が地獄よと嗤う鬼を前にして、わたしは念ずることしかできなかった。鬼のためでもなく、官人の男のためでもなく、世のためでもなく、ただ、己のためだけに。ちからなく、南無阿弥陀仏と。
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