第八十八夜 万治

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第八十八夜 万治

 夏も近づく八十八夜、  野にも山にも若葉が茂る。  あれに見えるは茶摘みじゃないか、  茜襷(あかねだすき)(すげ)の笠。  日和(ひより)続きの今日この頃を、  心のどかに摘みつつ歌う。  摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ、  摘まにゃ日本の茶にならぬ。  と歌われる八十八夜で御座います。茶葉に擦れて血が滲む茶摘み女の血を止めよ。紅花(べにばな)摘みに負けず劣らず、茶摘みもまた大変な生業(なりわい)です。  私の後を追う御船漁火(みふね いさり)邂逅(かいこう)したのは深山幽谷(しんざんゆうこく)の地であり、他には誰も、いや、おりましたね、一人。  土蜘蛛(つちぐも)国栖(くず)とが相争(あいあらそ)う様を見ていたのは、山深くまで狩りに来ていた山立(やまだち)万治(まんじ)で御座います。 ……どっちも化け物だ。  山には(あや)しのことが多い。巻物も干物も香木も、すべて忘れずに持って来たっちゅうのに、なんの役にも立たんぜ。  われは国元一番の山立(やまだち)よ。人の踏まぬ深山幽谷まで出向き、いくらでも獣を狩り、独りで生き抜けんだから。  それを、山が恐ろしいと思うたのは初めてだ。最初に見かけたのは若い女だった。獲物を待って木化(きば)けをしとらんだら見つかっちまってたかもしんねぇな。  人間離れした綺麗な(かんばせ)に見惚れてみても、すぐにその異様さに震えたわ。こんな深い山に若い女などおるわけがねぇ。里から戻ってきた山神様かと思うたが、山神様は嫉妬深い醜女(しこめ)やっちゅうから違うやろな。その女は魂を抜き取られそうなほど美しかったわいな。  もう一匹の化け物は若い男みてぇな格好で、白い犬を連れておった。最初は化け物の夫婦(めおと)(たわむ)れておるんかと思ったが、どうやら女の化け物を男の方が殺そうとしとるらしかった。  二匹の化け物は、われの潜む笹小屋の眼下、茫々と広がる(すすき)の原っぱで争い始めた。それがまだ朝早くのことで、明るい空を厚い雲が覆い、風が巻き、遠雷が響き始めてな。恐ろしうなって、逃げ出すこともできずに、じっと見つめておった。  戦いは一昼夜続いてよ。男の化け物は狼みてぇな犬と一緒になって攻め立て、懐から無数の刀を舞わせ、宙を飛び地を這い、狂気じみた剣舞を奏していた。  犬と一心同体の動きで、時には草木を操るようにさえみえた。相手がただ人ならば、即刻、首を刈られていたに違いねぇ。  だが、女の方も化け物さ。心もち楽しげにやりおうているような感じでな。男の動きが犬と一心同体だとすれば、こちらは獣そのもの。時に鹿のように、猿のように、鳥のように。剣舞にあわせて神楽(かぐら)を演じておるかのようで、犬を弾き飛ばし、男を突き倒し、その背中に腰を下ろした時が演目の終わりかのようだった。  気付かぬうちに雨風は止み、雲も去り、天上の月影を受けて動かぬ女は草木の如し。あるいは、そのまま石と化したかと思えた。  長い長い時間、われも動けずにいたが、闇が深まり、動かぬ化け物たちの姿に白昼夢をみたかのような按配で気が抜けて、ふぅと深く息を吐き、姿勢を崩した。すると、その時のことだ。まるで動かずにいた女の首がひょいとこちらを見たんだ。  気付いたのか。いや、わかるはずがない。  そう思いながらも、もはや気配を消す余裕もなく、われは笹小屋をまろび出て、振り返ることなく逃げたのだった。
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