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第八十九夜 御船漁火
いやはや、万治には悪いことをしました。
脅そうでもなく、揶揄うでもなく、ただ、もう終わりと伝えてやりたかっただけだったのですが。まあよろしい。
さて、御船漁火の話です。ちと気恥ずかしくもありますが、懐かしく、また大事な出会いのことを。
……だめか、体がいうことを聞かぬ。
傀儡糸も種切れだ。妙に背中が重いが、あたたかく柔らかいものを感じる。妹のりんに引き止められた時のような。やめておけば良かったのだろうか。
出立の際、気が進まぬおれに、いやならやめたらと陽気に言ったものだった。しかし、本家には逆らえぬ。ああ、この失敗で里の立場が悪くなるな。かなでさま、申し訳ありません。
慈悲か無慈悲か、止めを待つおれに届いたのは刃ではなく、揶揄うような声音で、
『あら、お気付きになりましたか』
と、くずの言葉だった。それが背中から聞こえてきて、背中の重さと温かみがくずのものだと知った。
『よくも抜けぬけと。さっさと止めを刺せ。背中から降りぬか!』
『いやです。もう限界です。これ以上、一歩も動けません。さすがは土蜘蛛の技ですね』
『おれの傀儡糸など、まるで効いてなかったろうに。ふざけるなよ』
『効いてなかったなど、そんなことはありませんよ。私の手足を操ろうという傀儡の奥義は見事なものでした。ただ単純に、それ以上の力で押さえ込んでいただけですから』
『どうしておれを殺さない?』
『貴方こそ、本気で殺すつもりがありましたか。一撃一撃に迷いが透いていましたよ。そんな甘い了見で戸隠の鬼を狩ろうなどと、ちゃんちゃらおかしい。うふふ、まだ子供だから見逃してあげる』
『馬鹿にするなよ。おまえだって、まだ子供じゃないか』
『ええ、そうね』
どこか遠くから聞こえるような声に、首をねじってくずの方を見ると、芒の穂を透かして、月を眺める小柄な女の姿があった。月と穂と女と。すっと風が吹き抜けるまで見惚れてしまっていて、細く長い黒髪を押さえて首を戻したくずと目が合った。その目は澄んでいて静かで、深い哀しみを湛えていた。
どれほどの時を見つめおうていたか。一瞬のことのようでもあり、丸一日あるいは丸一月もそうしていたようにも感じた。月を背に、子供じみた体躯に見合わぬ大人びた目でおれをみおろす。その美しく冷たい目には、哀れみがあった。自分を殺しにきたおれを哀れむだと。
ぐっと拳を握りしめ、里のため、かなでさまのため、りんのために、もう一度心を鉛と化して鬼狩りをなそうと身を硬くしたとき、近付いてきたのは綱丸だった。はっはっ、と舌を出してふらつきながらも、おれの頬を舐めて起こそうとする。続けて、どうやらくずの頰も舐めてみせたらしい。きゃっ、と里の娘のように華やいだ声が聞こえた。
体から力が抜け、張り詰めようとしていた空気が緩く穏やかなものに変わった。おれは、もはや今宵は殺せても殺せぬことを悟ったが、しかし、これだけは伝えておかねばならぬ。
『戸隠の鬼よ、もし鬼に慈悲があるなら、今宵のうちにおれを殺せ。おまえは名高い薬師でもあると聞く。苦しまずに逝ける毒薬のひとつやふたつ、手持ちもあろう』
『さて、どう致しましょうか』
『このまま帰せば、おれはまた来るぞ』
『私を殺しに?』
『そうだ。おまえを殺しにだ』
『ふふ、いつでもいらっしゃい』
そう言って下ろしてきたくずの手がおれの目を塞ぐ。すると、術でもかけられたのか、ふっと気持ちが遠くなっていった。ぼんやりとした意識の底で、くずのつぶやきが聞こえる。やれやれ、山立め、逃げてしまいました。この男を人里まで運ばせようと思うたのに、と。
翌朝、目覚めると、なにか薬でも処されたか、体は常より軽く感じるようで、枕元には干し飯まで置いてあった。
あたりを見廻してもくずの姿はどこにもなく、その気配もなかった。秋晴れの空の下、芒の穂を掻き分けて風が走りぬけ、おれの乾いた笑い声をどこかへ運んでいった。
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