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第九十二夜 綱丸
こうして旅立った漁火でしたが、その心は重く、足取りも引きずるようであったとか。いえ、見てはおりませぬから、そうであって欲しいとの勝手な願望です。
私を殺さなければ里が危うい。妹も、他の連中も。しかし、すでに事はなされていた。それと知らずして最後の逢瀬となりました。
訪ねてきた時から様子がおかしいことはわかりました。どうも私に殺されたがっているような。ああ、これはもう漁火の立場が自分か私を死なせずにはおかないのだ。先延ばしにしていた時が来たのだと思い、私は漁火の気の無い一撃に身を任せました。
信じられぬような、呆然とした様子の漁火の顔が思い浮かびます。なぜだ、と。この先は、一部始終を見守っていた綱丸に語ってもらうといたしましょう。
……オンナが死んだ。
我が主の一撃を避けず、わざと受けたのであろう。腹に柄まで刺さった刀を抜くこともできず、横たわったオンナに主が駆けよった。
『ばかな! なぜよけぬ。そうだ、おまえは鬼なのだろう? この程度の傷で、まさか死にはすまい』
『ふふ、我が姉ですら、胸を貫かれてなお生きてはいられなかった。手にかかるなら貴方に、そう決めていたのです。せっかく助けられた命、いましばらくでも生きてみようかと思うておりましたが、もう疲れました。
私が抗えば抗うほど人が死ぬ。貴方も今日は死にに来たのでしょう? その悲しい目が教えてくれました。大事な人々が危ういのでしょう? 違いますか?
もともと無理のある逢瀬だったのです。これで終わり、これで終わりと思いながら先延ばしにしてきたことが今日きた。それだけです』
『くず、死ぬな。勝手に逝くでない』
『ふふ、差し上げられる物とて他に何もない。私の唯一の持ち物はこの命のみ。これが貴方にあげられるせめてもの餞なのです。どうか受け取ってください。
私と姉とは呪われた忌み子として穴ぐらで育てられ、二親を殺して逃げ出すまでお互いと闇と壁しか知らなかった。その姉のいない世界は、のっぺりとして暗く、光のないものでした。たとえ光が灯っても、すぐに吹き消されてしまう。貴方という光だけは消えて欲しくない。私が死んだ後も。
貴方だけが光となってくれた。その名のとおり、暗い海の漁火のように。貴方のいない世界で生きていたくはない』
そう話しているうちにもオンナの命が抜けていくのがわかった。主との別れを邪魔したくなかったが、一声鳴いて警告を発する。見ている連中がいる、と。しかし、意識朦朧としてか、オンナは、
『ふふ、ごめんなさい。貴犬もね』
と的外れなことを呟き、死んだ。
主の悲鳴のような叫びが深山にこだまする。泣き崩れる主に、もう一度、今度はよりはっきりと警告を発した。木の茂み、岩の影から姿を見せたのは、御船碓氷とその部下たちだった。
『よくやったぞ、漁火。里の連中のためとはいえ、惚れた女を殺すとは、なかなか見上げたものよ。あとは生き肝を抉り出すだけだ。おあつらえむきに刀も刺さったままではないか』
よし、ではこの儂が腹を掻っ捌いて、と碓氷が刀の柄に手をかけるも、それは一向に動こうとしない。なぜなら、我が主が刃の根元を握りしめて離さぬからだ。指の間から血が流れ出し、オンナの血と交じり合って土に溶けた。
『なんのつもりだ、漁火。離さぬか』
『おれがやります』
キッと見上げた主の目は暗く冷たく、さしもの碓氷も身をひくようにしていた。そして主は立ち上がり、オンナの腹に突き刺さった刀を抜き取るや、碓氷とその取り巻きとに斬りつけた。取り巻きの連中はその一撃で倒れたが、さすがに碓氷は紙一重でかわしてみせる。
『うぬ、気でも違ったか。漁火!』
『何人であれ、この人を辱しめることはおれが許さん。おまえさえ始末すれば事は済む』
『ちっ、やはり裏切り者の末裔か。下賤な土蜘蛛め。だが、そう易々とやられてなるか』
言って逃げ出そうとした碓氷の足に噛みついてやった。どう、とその場で倒れた碓氷の頭上に主の影がかかる。
『いいぞ、綱丸。そのまま離すな』
『ま、待て。おまえの妹は……』
と言いかけた碓氷の口から血が吹き出した。主の刀が口から喉の奥へと突き刺さっていたのだ。碓氷の死を確かめると、淡々と腹を捌き、その生き肝を手にされた。
『碓氷はなにか言いかけていたかな。おれの、おれの何と……』
返事をする者もなく、主の言葉は秋空に吸い込まれていった。
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