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第一夜 くず
もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂かとぞみる〈和泉式部〉
さて、言葉も想いも美しき歌でありますが、まさか昼日中に詠まれたわけでもないでしょう。夜風に吹かれながら水辺に立つ貴人の姿が目に浮かぶようです。
平安の頃には夜の参拝も受け入れられていたものと思えます。あるいは宿所から眺めたのかも知れません。近頃は、夜には神社に行ってはならないとも云いますね。なぜなら……
と、邪魔が入ったようです。
一人の男が、じゃりじゃりと石音を立てながら暗い境内を歩いております。よれたスーツ姿の男で、くたびれたサラリーマンにしかみえません。灯りといってなく、鎮守の森が深い闇を形作る不吉な夜のことです。
蛍の舞う御手洗川を渡って、その男はやって参りました。草木も眠るとまでは申しませんが、なかなかに遅い時刻に独りです。藁人形と五寸釘でもお持ちかと思えばそうでもない。ただ、深夜の境内に湧く宴の声が聞こえでもしたのか、拝殿の手前で立ち止まりました。
いひひ、わはは、と朋輩の笑い声が響いています。夜な夜な行われる鬼の宴。私どもの声は誰にも聞こえぬはず、深い穴の底へ消えていくはずなのです。しかし、男には聞こえているかのようでした。
静かに佇み、耳を澄ませている。
男に忠告するよりも早く、気配に気付いた朋輩らが騒ぎ出しました。匂う、匂うぞ、人の匂いだ。そう云って騒がしく、みなが外に向かおうとした時、疲れたような男の声が響きまして、
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月
と、同じ歌人による一首を詠じたのです。あわせて天より月の光が落ち、騒つく声がぴたりと止まりました。
その男、続けて私の名を呼ぶではありませんか。いやはや驚きました。死したる鬼の名をどこで知ったのか。さらに懐から取り出したのは馴染み深い小さな箱で御座います。金属のような布のような不思議な風合いを持ち、見る角度によって様々な色彩が浮かびます。
男の手が躊躇いなく箱を開きました。
もはや何事もなく、何事が起ころうと変わりなき身ながら、思わず声を出してしまうところでした。拝殿に向かって突き出された男の手のひらに開いた箱が乗っています。
そこには、ぺちゃんこの皮袋らしき物が入っておりました。むっと匂うのは死臭でしょうか。蛭子を目にした方のお気持ちもかくや。愛らしい姿であったのに、ずいぶんとぼろぼろにされてしまっている。
男の願いは、この物を黄泉がえらせ、人となしてやりたいとのこと。さて、そのようなことは出来るわけもない。と云いたいところ、この物に限っては出来てしまうのです。私と縁深く、元々、人の想いから生まれた物であれば。為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。まあ私は人ではありませんがね。
今宵この時より百日百度の願掛けを。さあ、語ると致しましょう。いつの世でも語るべきは男女の話。それは時に起こるべき出来事であり、起こってしまった出来事であり、起きたかもしれぬ出来事です。
耳を塞ぐことなくお聞きあれ。これより始まるは、妖しの百夜物語に御座います。
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