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「そこで何してんの」
「んあ?」
ある年の夏。
木の上に登っていたところを、下から声をかけられた。見れば、赤茶っぽい髪の男の子が、呆れたようにこちらを見上げている。ボロボロの麻の着物だった。いくら時代遅れの村とはいえ、和服を着ている子供は流石に珍しい。誰だっけこいつ、と思いつつも疾風は答える。
「野球のボールが引っかかっちゃったんだよ。たっちゃんがすごいホームランしちゃったからさあ」
この林のすぐ横に、みんなが野球をする広場あがるのだった。奇跡的に小さなボールを見つけることができたものの、木の上に引っかかってしまってどんなに揺らしても落ちて来ないという状態。みんなはもう諦めて帰ってしまっていたが、疾風だけはどうしても諦めきれずにねばっているのだった。
このボールは、たっちゃんが誕生日にお母さんに買ってもらったものだ。そう簡単になくしていいものではない。ボールが見つかる前に諦めて家に帰ったたっちゃんは、大きな体をちぢこませてしょんぼりしていた。早くこれを持って帰って、安心させてやりたかったのである。
「それ、お前の家のボールじゃないんだろ。なんで人のためにそこまですんだ」
どうやら、赤茶の髪の少年は自分達の野球を見ていたらしい。あるいは、この村に住んでいたけど自分がたまたま認識していないだけの子であったのか。
「そのボールの持ち主も、熱心に探さないで帰ったくらいなんだぜ。お前がそこまで気にする必要あるかよ」
「あるんだよ。たっちゃんは俺の友達で、母ちゃんが大好きだって知ってるからな。ボールが見つかったらぜってー喜んでくれるはずだ」
「喜ばないかもしれないだろ。お前がそこまでやったって、感謝しないかもしれない。そうしたら、お前の苦労は水の泡。そうなるくらいなら努力も何もしない方が楽だろ」
「つまんないこと言うんだなあ、お前。俺の嫌いなガッコの先生みたいだ!」
疾風がそう言い放つと、少年は露骨にむっとした気配を見せた。疾風は彼を一瞥し、そのままそろそろと枝の方へ登っていく。
「確かに、喜んでくれる保証はねえよ。でも、俺がそうしたいと思ったからするんだ。ここで助けられるものを見捨てて帰ったら、俺が俺を許せない!多分何日も何日も、ああすりゃ良かった!って言ってうだうだ悩むし嫌な気持ちになる。俺はそっちの方が嫌だ!」
ボールが引っかかっているのは、細い枝の先の方だった。元より疾風はそう重い方ではないものの、このまま枝に沿ってボールを取りに行けば折れてしまう可能性もあった。少年も気づいたのだろう。おいおい、と肩をすくめて言う。
「そのまま行ったら枝折れて落ちるぞー」
「わ、わかってるよ。でもあとちょっとだって!」
「それでお前が怪我したら本末転倒だって思わねーの?」
彼の言葉は実に的を射たものだった。それでも疾風はこう返したのである。
「だったら、ボール取って、俺も怪我しなければ万々歳だろ……っ」
あと少し。黄色いボールに指が触れる。ぎしぎしと軋む枝にしがみつきながら、どうにか踏ん張ってあと少し、前へ。
「よしっ!」
どうにか掴めた。そう思った瞬間、みしみしみし!と体の下から嫌な音が。まずい、と思った瞬間、体重をかけていた枝が悲鳴を上げて折れていった。
「うわあああああ!」
どうにかボールだけは離すまいと握りしめ、体を丸めた次の瞬間。
ふわり、と疾風の体は宙へ浮き上がっていたのである。まるで、不可視の力に掴みあげられたかのように。
「しょうがねーやつ」
あの赤茶の髪の少年が、右手を宙へと掲げていた。
「良かったなぁ、ここにいたのが俺様で。仕方ないから助けてやる、感謝しやがれ」
「あ、ありが、と」
そこでようやく、疾風は思い至ったのである。目の前にいる子供が、どうやら人間ではないらしいという事実に。
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