第六話

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「晃先輩、降りましょう」  次の駅で電車が停車すると、藍原さんは俺の手を取って誘導した。 「ここは……」  駅のホームから景観を眺めると、一発でここがどこか分かる。前方に巨大観覧車が聳え、海面には水上をゆったり進む遊覧船が見えた。木枯らしに運ばれる華やいだ音楽が非日常のムードを高らかに歌い上げている。 「見ての通り、遊園地です!」 「それは見ればわかるけどさ。一体どういうつもりだよ」  藍原さんはにっこり微笑んだまま、俺の手を引っ張って歩き出した。 ――この状況、どこから突っ込めば良いものか。のこのこ付いて来たのは俺の方だが、藍原さんの意図が全く見えてこない。 「待てよ、藍原さん!」 「だいじょうぶです。今日はわたしが先輩におごっちゃいますから」 「そうじゃなくて!話をするだけなら、遊園地じゃなくてもいいだろ?」  俺は藍原さんを問い詰める。しかし、彼女は悪びれる様子もなく楽しげに笑って言った。 「先輩も久しぶりじゃないですか?……遊園地ですよ!なんだか、ワクワクしませんか?」 「別に、俺は…」    まだ、東京で実母と二人で暮らしていた頃。一度だけ、遊園地に遊びに行った記憶がある。あれは確か、俺の大阪行きが決まった日の翌日だった。母は別れの時、初めて乗った観覧車の中で寂しそうに微笑みながらこう言った。 『晃の病気を治してあげることも、傍に居てあげることも出来なかった。……なにも母親らしいことが出来なくて、ごめんね。さようなら』と。  過去の遊園地のイメージと今日の光景が重なり、封印された感情を抉ってくる。かといって、藍原さんは退くつもりはなさそうだ。ここまで来たら、是が非でも彼女の秘密を聞き出さなければ俺の気がすまなかった。 「言っておくけど、自分の代金は自分で払うからな。駿と同い年の女の子に奢らせるわけにいかない」 「あ、言ってませんでしたね。わたし、高校一年留年しちゃったんです。だから、学年は駿君と同じだけど歳は晃先輩と一緒なんですよ」 「……留年……?」  呆気に取られながら、藍原さんと並んで入り口のアーチを潜った。 まさか女子と二人きりで遊園地に来るとは予想外だった。クラスの取り巻きとは何度か遊んだことはあったが大抵グループ行動だったし、行き先は近場のゲーセンと安いチェーンレストランくらいのものだ。 「行きましょ!」  俺は藍原さんに導かれるまま、人生で二回目の遊園地にめでたく入園を果たした。聞きたいことは山ほどあったが、口から出るのは他愛無い話ばかりで、ひたすら園内の乗り物を制覇するのに夢中になっていた。 平日の、日も落ちきろうとしている園内は思ったほど人はいなかった。おかげでストレスなく移動できるのが有難い。俺は彼女に持病のことは話していなかったが、藍原さんは駿に聞いて既に知っていたのか、絶叫マシン系の乗り物に俺を誘うことはなかった。 「はい」  ベンチで休んでいる藍原さんに、出店で購入したチョコレートアイスを差し出した。思いの外楽しませてもらったお礼の気持ちだ。 「わぁ、ありがとうございます!わたし、チョコ好きなんです!というか、甘いものが大好物!」 アイスクリームを受け取って子供のように喜ぶ彼女を見つめながら、俺もベンチの隣に腰を下ろす。 「ねえ、晃先輩。どうしてわたしがチョコアイス好きってわかったんですか?」 「え?」 「だって、あのお店、アイスは五種類あったでしょ?」  彼女の何気ない質問に対し、俺は返答に窮した。 「ん……どうしてって言われても。なんとなく」 ――確かに、言われてみればその通りだ。ミントでもストロベリーでも定番のバニラでもなく、迷うことなくチョコアイスを選んで買った。俺自身、特にチョコレートが好きなわけでもないのに。 「無意識に買ったから、理由なんてないよ」 「…そっか…。思い出してくれたわけじゃ、ないんですよね…」 「え?」 「ううん。なんでもないです」  休憩をしている間に、辺りは宵闇に包まれていた。正面にある時計塔を見上げると、ここへ来てからもう二時間も経っている。誰かとこれだけ長時間過ごして苦痛を感じないなんて、俺にしては珍しい体験だった。 「……不思議だな」 「ん……っ?」  俺がぽつりと呟くと、アイスに夢中になっていた藍原さんが大きく噎せた。食べかけの溶けたチョコアイスが、彼女の頬に垂れている。 「ああ、まったく何してるんだよ…。大丈夫か?」  苦笑いしながら、俺は学ランのポケットからハンカチを取り出して彼女に差し出した。家では駿がよく物をこぼすので、俺が拭う係をさせられる。そのせいか布を持ち歩くのが習慣になってしまった。 「ありがとう……。それで、不思議って何のことですか?」  照れくさそうにはにかんでハンカチを受け取る藍原さんに、俺はぼそっと答える。 「全部だよ。俺の人生で、遊園地で遊ぶ機会は二度とないと思ってたから」 「晃先輩…」 「あ、その…」  口走っておきながら、自分でしどろもどろになってしまった。――遊園地でガラにもなくはしゃいだ男子高校生が言う台詞ではない。 「ねえ、晃先輩。最後はあれに乗りませんか?」  アイスを食べ終えてベンチから立った藍原さんは、ふわりと微笑みを浮かべ、時計塔の向こうにある大観覧車を指差した。 橙から群青へと衣替えする空をバックに、遠い過去を歯車に変える観覧車。 ――俺の時間は永遠にあそこで回り続けているような気がする。    まさか、観覧車に再び乗る日が来るとは思ってもいなかった。 「綺麗だな」  もっと抵抗を感じるかと思ったが、一度乗ってしまえば意外に楽しんでいる自分がいた。観覧車がてっぺんに昇り詰める瞬間は、言葉にならない感傷が湧き上がってくる。 「うん。すごく綺麗ですね…」  藍原さんの言葉数は少なくなったが、気まずい空気にはならなかった。 「晃先輩、わたしが知っていて先輩が知らないこと。…なんだと思いますか?」 「え?」  俺は、彼女を睨むと唇を尖らせて言う。 「それは、こっちが聞きたくてついて来たんだけど?」 「……ふふっ、そうでしたね」  ぽつぽつ眼下のイルミネーションが輝きだすと、色とりどりの光が宝石のように眩く見えた。童心に返ったように、自然と目を奪われる。 「先輩は……わたしの噂、駿君から聞いてますよね?」 「噂ってなんの?」  藍原さんについての情報はないに等しい。駿のクラスメイト。あまり学校に来ない変り者の女子。クラスでいじめにあっているらしい。精々その程度のつまらないものだ。 「俺が知っているのは、一学期に同じ保険委員会に所属していた頃の藍原さんだけだ」 「はい…」 「でも、その頃と今の藍原さんが別人みたいに感じるのはどうしてだろうな」  頂上に辿り着いた。手を伸ばせば空に届きそうだ。藍原さんは景色を眺めたまま沈黙していた。 『観覧車は、無邪気な子供たちに夢を与える天使のゴンドラであり、人間を闇へ連れ去る悪魔のゆりかごでもある――』なんて、そんな下らない空想を巡らせていると、 「……おかしいですよね、やっぱり」  藍原さんが、俺へと視線を移した。その瞳には大切な宝物を諦めた人間が見せるような……そんな弱々しい光が宿っていた。 「おかしいとか、おかしくないとかは別にして。俺には、今の藍原さんのほうが自然に見えるけどな。チョコアイス幸せそうに食べて、遊園地ではしゃいで、駿とも軽口を叩き合ってさ。学校にいる時より、よっぽど生き生きしてると思うよ」  気がつけば、本音で彼女に語りかけていた。他人の事情にとやかく口を出すなんて、俺らしくないおせっかいだ。余計なことを言ったかもしれない。今更気恥かしくなって俺が頭をかいていると、 「うれしい…。よかったです。じゃあやっぱり、藍原玲菜にはんですよね」 「は?」  彼女は俺の言葉をすんなり受け入れ、満足そうに微笑んでいた。 なんだそれ。「藍原玲菜にはこういう生き方が似合っている」って、どういう意味だ。混乱する俺を置き去りにして、観覧車はゆるやかに下降を始める。 「晃先輩になら、教えてもいいかなと思って。ずっと、わたしのことを知ってほしいって思ってたから……」 「さっきから、何が言いたいんだよ?」 「今の私と昔の私が別人みたいだって、先輩は気づいてくれてましたよね」 「まさか、藍原さんが二人いるって言うのか?そんなこと……」  ない、とは断言できなけれど、同じ人間がこの世に二人存在するものか。確かに以前『世界には自分と同じ人間が七人存在する』なんて一文を何かの本で読んだ記憶があるが、それはドッペルゲンガー的な都市伝説か物語の描写に過ぎない。 「……別人のふりなんて、却って生きづらくなるだけだから辞めた方が良いよ」  ――思ったことをそのまま口に出してしまった。すると、彼女は頬にえくぼを浮かべて淋しそうに笑った。 「違います、お芝居とかじゃないんです…。でも、きっと周りの人にはそう見えるんですね…。本当のわたしなんて、誰も知らないんだから……」  観覧車を降りる時。最後に藍原さんが零した言葉は、ライトアップされた園内に取り残された迷子の声のようだった。
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