第三話

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第三話

 夕方五時半の病院の待合室では、まだ多くの患者が順番待ちをしている。 冬の気配が色濃くなった十一月の初めといえば、風邪に加えインフルエンザ患者も現れ始める時期だ。 俺はというと、診察の順番がなかなか回って来ず、ひとり壁に面した端のソファに座って科学Ⅱの教科書を読んでいた。 健康な学生と比べ、長時間の勉強が体力的に難しい俺は隙間時間があれば教科書を丸暗記することにしている。…というのも、期末試験で毎回学年十位までに入らないと大阪に強制送還させるという親父のお達しがあるためだ。ちなみに、これは俺だけに下された命令だ。 駿は技術家庭科と体育こそ得意だが、五教科の成績は底辺を彷徨っているため、親父は駿に対して学業面の期待を捨てているらしい。反対に、俺は運動ができないが、幼少期から記憶力だけは優れていた。通知表をまじまじ眺めた親父は「晃は俺の息子や。学年トップもいけるやろ!」などと、都合のいい時だけ俺を自慢の息子扱いし、優等生という肩書を押し付けてきたのだった。なんとも有難くない迷惑な話だ。 「巽さん。巽 晃さん」 「……はい」  折り返し地点まで暗記が済んだ頃、やっと受付から名前が呼ばれた。通学カバンに教科書を押し込み診察室へ向かう最中、学ランの内ポケットでスマホが振動したので、廊下を歩きながらLINEを開いた。駿からだった。 『病院どないや?今日は、お手伝いさんが居らんから、夕飯はチャーハンでええよな』  その内容を見た瞬間、俺はそっと苦笑を漏らした。 駿の作るチャーハンほど、ユニークな料理はない。 飯の中に漬物が入っていたり、ポテトチップスの欠片が混じっているのは日常茶飯事。見た目がゲテモノ料理並みに悪い日もあるのだが、味は案外いけるのだ。毎回どんな具を混ぜるのか予想するのが密かな楽しみでもある。俺は何事も、びっくり箱のようなものが好きだ。 長く平坦な道のりを平々凡々ドライブするより、障害物すれすれを猛スピードで駆け抜けるスリル満天のレースを傍観したい。……なぜなら、全力疾走する馬力そのものを俺が持っていないせいだ。子供ながらに結論に辿り着いてしまった俺は不幸かもしれないが、世界中でもっとも幸福な気もしている。 初めからゴールテープに届かない運命を知っていれば、定めを受け入れてダラダラ歩き続ける覚悟が決まるからだ。たとえそれが、疾走感皆無の人生であったとしても。 「どうぞ」 「はい」  診察室に通されると、世間話もそこそこに学ランとシャツを脱ぎ、椅子に腰を下ろした。 主治医の花森 真琴(はなもり まこと)先生は、聴診器を俺の胸に当てながら丁寧に心音と呼吸音を聴く。 「晃君、新しい薬の調子はどうかな?体調に、何か気になる点はあったかい?」 「だいぶ、調子いいです。ただ、飲みやすいのは助かるんですけど、時々効き過ぎて授業中もよく寝てしまいます」 「はは…。それは困ったね」 俺が悪戯っぽく笑うのを見て、先生は眉を下げ曖昧な笑みを浮かべた。  花森病院の通院が決まったのは、単に自宅マンションが近いからという理由だけではない。ここに、花森先生がいるからだ。 穏やかで常に物腰柔らかい先生と、図体も態度もでかいあの狸親父が旧友だったなんて、にわかには信じられない話だけれど。 「副作用が強いようなら、前の薬に戻すこともできるよ。今はそんなに、状態も悪いようには見えないからね」 先生は俺を宥めるように告げたが、俺は押し黙った。頻繁に起きるようになった発作を思うと、精神的に参っているのは事実だ。 しかし、病状を正直に先生に打ち明けるのは躊躇われる。検査入院になったら、いつ病院から出られるか分からない。また病室に閉じ込められるのは、俺にとっては投獄に等しかった。診察結果に異常ないのなら、素直に受け入れておこう。 「先生。俺、あと三年、ちゃんと生きられるんでしょうか?」 シャツの前のボタンを止めながら、俺は先生に投げかける。一瞬、先生の垂れ目がちな優しい目がきゅっと細められたのが分かった。  問いかけてはみたが、俺は答えを知っている。 まだ二歳を迎えたばかりの頃、俺は生まれて初めての手術を受けた。当然、細部まで詳細に覚えていないが、担架に乗せられて手術室へ運ばれていく光景や、俺の手を握りしめ「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と繰り返していた母の言葉だけは、鮮明に記憶に残っている。  『先天性心奇形』。俺の心臓の血管は生まれつき健常な人より細く、右心室の血液流出路が狭まっているらしい。呼吸困難や発作は低酸素血症による症状で、俺はこの病と十七年の間闘い続けてきた。 生後二年までの死亡率が極めて高い病気で、俺の幼少期の記憶といえば、輸血・検査・手術、この三つで占められている。まだ物心つかない頃だったのは、不幸中の幸いというべきかもしれない。自我がハッキリした今の俺なら、そんな過酷な生活は耐えられない自信があった。  医学的統計では、二十歳を越えれば死亡率が低下すると説明された。病状には個人差があるから絶対の保証はないが、成人を迎えるられるかどうかが、俺にとって重大なターニングポイントになるだろう。 成人までは、あと三年ある。短いようで長い。俺にとっては、先が見えない闇の中を綱渡りしながら、一筋の明かりを頼りに一歩ずつ進んでいく毎日だ。足元は不安定で、いつ集中が途切れて足を踏み外すかわからない。当然、今後症状が悪化すれば、定期検査や服薬だけで済まず、長期入院や手術をする可能性もある。 「まあ、俺は駿が一人前の男になって、嫁さんもらうまでは死なないって決めてるんですけどね。……って、そんなのあと何年先になるんだろうなあ」 「晃君」 冗談めかして笑う俺を、先生は真剣な目で見つめて言った。 「あと三年だけが、大事なんじゃないよ。君が成人しても、ずっとその先の時間もあるんだからね」 「……そうですね」  先生の言葉に相槌を返したものの、三年後の自分の姿を俺は想像できない。“あと三年”をどう生きるのか。否、生き抜けるのか。息苦しさと闘い続けている最近は特に、希望的観測を抱ける余裕なんてなかった。 「駿君は、元気かい?」 「ええ。相変わらず、馬鹿みたいに元気です」 「最近、風邪が流行っているからね。晃君はもちろんだけど、駿君も充分気をつけるように伝えてね」  花森先生の温かい笑顔を愛想笑いで受け止めながら、俺は診察室を出た。    診察を終えて、会計までの順番待ちに三十分かかり、病院を出たのは日も落ちきった午後七時前だった。今頃、駿が例のびっくりチャーハンを作って、俺を待っていることだろう。  病院の門を出ようとした時だった。 ふと、背後に冷たい気配を感じた。風が吹きつけたわけでも無いし、人間の気配とはどことなく違う。 「誰かいるのか?」 反射的に後ろを振り返り、正体を確かめようとする。視界の先には、やわらかそうな、白いレースがちらついていた。長いワンピースの裾が、ひらひら風に揺れて靡いているのだ。 「え?」  脳裏にふと、デジャブがよぎった。確かに以前も“この光景”をどこかで見たような気がする。しかし、それはどこだったか……思い出すことができないまま、胸の鼓動だけが加速していく。 白いワンピース姿の「誰か」は、淀みなくまっすぐな視線を俺にぶつけていた。見えない力に引き寄せられるように、俺は彼女のもとへ自然と歩き出していた。 「君は……」  夢を見ているかのようで、現実感がない。後一歩で、彼女の顔が明らかになる距離まで近づいたとき、突然、突風が巻き起こった。 並木のイチョウがざわざわと揺れ、葉が舞い降ちては散っていく。風のざわめきが収まったとき、そこにいたはずの彼女の姿は、跡形もなく消えてしまっていた。 「な、なんなんだ?一体……」 俺は目を擦り、何度か瞬きを繰り返した。しかし、視界には閑散とした並木道と、病院の門が聳えているだけだ。 やがて、親子連れが数組病院から出て来ると、止まった時間が息を吹き返したように、並木道に日常が流れ始める。俺は腑に落ちない謎を抱えたまま、正門を後にするしかなかった。 「ただいま」 「遅いわ!何しとってん、お前っ。もう飯作ってしもたわ」  開口一番、俺は駿に怒鳴りつけられていた。玄関に待ち構えていた駿は、右手におたまを握り、赤い水玉柄エプロン(お手伝いさんの忘れ物)を着用した姿だ。乱暴な発言と対照的なユニークな恰好は、絶妙に笑いを誘う。 「あ、ちゃんと飯作ってくれたんだ。いい子ですねー、駿ちゃんは」 「うっさいわ、お前なんぞ、霞食うとれ!」 「うっわ。仮にも兄貴に向かって、その口の利き方はないだろ」 「晃みたいなアホ、兄や無い!」 「左様でございますか。ま、いいや。飯にしよう」 「ホンマ調子のいいやっちゃな。ほれ、はよ座れ」 ぶちぶち文句を言いながらも、駿は手作りチャーハンを載せた皿をテーブルに運んできた。焼け焦げた白米の間にところどころ黄色い物体が混じっており、それが卵ではなく沢庵であることは一目瞭然だ。 「駿、チャーハンには何を入れてもいいけど、沢庵入れるのだけは、やめろって言っただろ。俺、沢庵あんまり好きじゃないんだ」 「文句言うなら食うなや。この遊び人!どうせまた病院の帰りに、女の家に寄ったんやろ」 「あー、駿ちゃーん。聞いてますかー?」 こいつの頭の中の俺は、歌舞伎町のホスト顔負けの女たらしに変換されているようだ。 駿の彼女と浮気したワケでもあるまいし、勝手にナンパ師の烙印を押すのだけは勘弁してほしい。 「遅くまでぷらぷらしよって。またぶっ倒れたらどないする?そないに人に心配かけたいんやったらなあ、もう帰ってこんでええぞ。なんなら、女んとこ泊まってこい!」 「いや、それはアカンでしょ……」 俺は嘆息しながら、スプーンを握った。ヒートアップするとトコトン突っ走っていく駿の性格は熟知している。短気は間違いなくあの親父ゆずりだ。 「何がアカンのや。中学の頃から、腐るほど女が居ったくせに」 駿は腹立たしそうにしながら、自分も席に着いた。 「女なんかいないっての。俺が病弱だから、みんな同情して寄って来てたんだよ。そもそも、彼女なんていたら……」  もし、俺に恋人がいたのなら。誰かの為に生きたいと思えるくらい、自分の生と真っすぐ向き合える人間になれただろうか。瞬間、脳裏にあの夢の中の少女の顔が過ぎり慌てて首を振った。 「お前、変やぞ?何かあったんか、今日」 俺のしおらしい態度が気になったのか、駿が神妙な顔になって覗き込んできた。しかし目が合った途端二カッと笑って軽口を叩く。 「おっ、ついに女にフラれたか!?」 「なんで嬉しそうに言うんだよ?」 俺は、正面に突き出された駿の額に怒りのでこピンを喰らわせた。 「何しよる?人が心配したったのに!」 「喜んでただろ、お前!」  いつも通りの低次元な小競り合いに、心がほっと軽くなる。 実家にいたころも駿と話す機会はあったが、二人暮らしを始めてからは、より兄弟の時間が増えた気がする。 駿は若干過保護なきらいはあるが、俺にとっては唯一の家族であり友人のような存在だ。…屈託ない明るさが、心の灯でもある。 「帰りが遅いのは、診察に時間がかかってたんだよ。分かってるだろ」 「そんなん、知っとるわ。せやけど、遅くなるなら、遅くなるって一言なあ……」 駿は頭をぼりぼりと掻くと、椅子の背もたれにもたれかかった。 「大丈夫だって。心配しすぎだろ」 「ドアホ。この間だって、発作で俺を叩き起こしたやんか」 「それは……」 駿を窘めようとしたものの、痛い所をつかれてしまった。発作の回数が増えているのは事実だから、ぐうの音もでない。 「まあ、大丈夫ならええけど。東京まで来てぶっ倒れるとか、病気を悪化させるとかやめろや。俺かて、そんなつもりでお前連れて来たんやないで」 駿は、自分の食べ終わった皿を片付け始めながら、呟くように言った。 「ああ」 俺もそれ以上何も言わず、取り分けていた沢庵のかたまりを崩すと、ひとつひとつ、無心で口に運び続けた。
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