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第七話
俺と藍原さんは、周囲の喧騒と裏腹に無言で電車を降り、行きと同じように改札を潜り、駅前広場へ到着した。時刻はすでに、二十二時を回っている。
「今日は、ありがとうございました」
藍原さんは、丁寧にお辞儀をして礼を述べたが、俺はまともな挨拶を返せなかった。思考がぐるぐる乱れてかける言葉が見当たらない。
「また、学校で」
ぎこちなく彼女に背を向けると、俺は黙々歩き出した。人並みを通り抜け、大通りへ直進する。瞼の裏に、別れ際の彼女の眼差しと観覧車の光景がこびりついていた。それらを振り払おうとするかのように、俺は駿の事を考えた。
結局、ちゃんとしたプレゼントも用意できずに家路に着く羽目になった。
あの人気洋菓子店さえ営業していれば、高級チーズケーキを買って駿の帰宅を待ち、二人で誕生パーティをする予定だった。ノンアルコールの甘ったるいシャンパンを開けて乾杯したら駿の好きなアニメ鑑賞に付き合い、一日は平穏に終わる筈だった。
マンション手前の大通りにあるコンビニで、二個入りのチーズケーキを購入した。俺は甘いものが苦手だから、二つとも駿にやるつもりだった。
「遅いっ!」
「ごめん……」
マンションのドアを合鍵で開けると、制服姿のままの駿が玄関に仁王立ちしていた。顔を真っ赤にして、眉間にしわを寄せている。一体いつから立っていたのだろう。駿のことだから、人の気配や物音が聞こえるたびにリビングと玄関とを往復したのかもしれない。…モニター越しに、俺の姿を確認できるまで。
「今、何時やと思うとる!?」
「十時三十分……、夜の」
俺は、力なく呟いた。「ドアホ!」と罵声が飛んでくると思い、思わず目をつむる。しかし、いくら身構えても何も起きなかった。
「しゅん?」
面食らったのもつかの間、
「こんの、アホおっ!ドアホっ!……何してんねん、お前っ!心配したやろ、またどっかでぶっ倒れとるんやないかって!」
「ごめん……」
駿は俺に飛びかかってくると、背中を力任せに両手で何度も叩いてきた。
「何でや?俺の誕生日やぞ!……なのに、なんで早う帰ってこんのや!」
駿が怒るのも無理はなかった。
俺たちは、毎年の誕生日には必ずふたりでパーティを開いていた。
恒例行事のような、兄弟の暗黙の了解のようなものだ。駿はクラスの友達に誕生会を開いてもらった後、俺を待つ為に早く帰宅していたのだろう。
「……ごめん……」
上手い言い訳が浮かばず、俺はひたすら謝罪を呟く。
その間も駿は、いっそ憎んでるんじゃないかというくらい、何べんも俺の背中を叩き続けた。
「痛いって、駿。ケーキがつぶれるよ」
「こんな安っぽいコンビニケーキなんかなぁ…!」
駿は、俺からチーズケーキの入った袋を乱暴にひったくった。
「ごめんな、駿。プレゼント、買えなかったんだ」
「もうええ。お前が無事ならな」
「当たり前だろ。黙って死んだりしないって!」
駿は安堵と呆れが入り混じった溜息をつき、先にリビングへ戻っていく。その背中に、俺は声をかける。
「ハッピーバースデー、駿」
駿は一瞬立ち止まったが、無言のままリビングのドアを開けて中に入った。俺も急いで靴を脱ぎ、後を追いかける。
「お前にそれ言われんと、歳取った気ぃしないねん」
振り返った駿は、眉を八の字に曲げて笑っていた。
その日の晩は、あの夢を見なかった。
見渡す限り蒼い空と、生い茂る草原が広がる楽園の夢を。
その代わり、俺は遠い過去の記憶を夢の中で垣間見ていた。俺が九つの誕生日を迎えたときの記憶だ。
当時、俺は実母と離れ、親父に引き取られて大阪へ連れてこられたばかりだった。慣れない巽家での孤独な生活。気心が知れた優しい母はもう居ない。
狭い部屋に敷かれた一つの布団で、母に抱き締められて眠っていた頃と違い、俺には自室が与えられシングルベッドで眠ることになった。
一人寝は入院を思い出すので、俺にとっては苦痛だった。まして、幼い俺は臆病で、発作がいつ襲ってくるか想像しただけで眠れなかった。
あの夜もそうだった。俺は巽家の厄介者だったから誕生日祝いなど当然なく、食事を終えると「自室に戻れ」と継母に言いつけられた。
駿はまだテーブルについており、食事の途中だった(俺は食が細いので、駿より早く食べ終わってしまう)。
実母が家計をやりくりした金で二号サイズのケーキとフライドチキンを買ってくれて「誕生日おめでとう」と言ってくれた去年の誕生日を思い出す。それだけで、涙が出るほど幸せだった。俺にとっての家族の幸福は巽家にはなかった。
ベッドに潜り込むと、涙が知らずに零れ落ちる。発作が起きたらどうしよう。俺は息苦しさを必死に堪えていた。
「あきら、あきら」
寝巻きの胸元を押さえていると、ドアの外から俺を呼ぶ声がする。
「駿?」
駿は俺の返事を待たずドアを開けると、電気が消された部屋に忍び足で侵入してきた。
「あきら、これやるよ」
「え?」
ベッドサイドに立った駿は、俺の前に何かを差し出す。ちいさなビニール袋の中に、沢山の菓子が詰められていた。星型のクッキーに、銀の包装紙にくるまれたキャンディとマシュマロだった。
「これ、やる。オレ、もうぎょうさん食ったから」
「でも、それは駿のおやつだろ?」
「ええ。もういらんから、やる」
いくら拒否しても、駿はかたくなに「いらん」と言い切った。甘い菓子は駿の大好物だ。外出時に大量の菓子とアニメのトレーディングカードを強請っているのを、俺は知っている。
「オヤジに聞いた。今日、あきらの誕生日やって」
「あいつが?」
駿はむすくれた表情で言ったが、あの狸親父が俺の誕生日を知っていたとは初耳だった。現に「おめでとう」の一言すらない。
「おめでとさん」
ぶっきらぼうな言葉と菓子袋を残して、駿は部屋を飛び出していった。
クッキーも特大マシュマロも、駿の大好物だ。それを見つめながら、俺はベッドの上で声を上げて泣いた。
あれ以来、あの巽家の中で駿だけは俺の誕生日を祝ってくれるようになった。
俺は駿の〝本当の兄貴〟にはなれないけれど、残された時間はなるべく駿を支え、一番の理解者でいよう。
そう誓った始まりは、あの日だったのかもしれない。
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