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第一話
木立が風に揺れる快い音色が耳を擽り、薄っすらと目蓋を開いた。
頬を撫ぜる新緑の葉は柔らかく、視界一面、セルリアン・ブルーの空に塗り潰されている。
草原に寝そべり大きく深呼吸を繰り返すと、細胞の隅々まで澄んだ酸素が行き渡る。漠然と「ああ、生きている」と感じるだけの時間が過ぎていった。
このまま自然の一部へ溶け込めたなら、俺はどれだけ救われるだろう。
息を吐き切った時、
「アキラ」
ぴたりと風が止んで木々の騒めきが静まり、凛と通る声が俺の名を呼んだ。目線だけ茂みの先へ動かし、声の主を探す。
……そうだ。俺はこの場所で“彼女”の訪れを待っていたんだ。
繊細なレースの刺繍と純白のワンピースの裾が青空に良く映える。彼女は足取り軽やかにこちらへ駆け寄って来た。
「ここに居たんだ。探しちゃった」
寝転ぶ俺の顔を覗き込みながら、ふわりと微笑みかける“彼女”。
「ほら、起きて」
誘われるまま上半身を起こした俺は、彼女と隣り合って草原に腰を下ろした。
「ねえ、アキラ。……今度こそ、わたしとの約束、守ってくれるよね?」
静寂に、同意を求める彼女の声が零れた。
俺は咄嗟に口を開こうとするが、唇がピクリとも動かない。彼女の肩を抱き寄せたいと願っても、指一本動かせなかった。意識は鮮明なのにも関わらず、目前の事象には一切干渉できない。俺はただ、映画のクライマックスを指を咥えて眺める一観客状態になっていた。
「アキラ……わたしの声、聴こえる?」
「……」
もどかしさを感じる段階が訪れて、俺はこの世界が虚構だと思い出す。
ああ、“また”だ。……また、潜在意識の罠に囚われてしまっているのか。
「お願い。わたしを忘れないでね、ずっと……」
――それにしても、これは一体いつから見続けている夢だろう。
夢とは不思議なもので、はっきり確信を得た途端ちりぢりに霧散していく。隣で微笑む彼女の姿は次第に遠のき、周囲の光景はぐにゃりと歪んで――俺は瞬く間に、現実へと引き戻されていった。
自室の寝台でハッと目を覚ますと、カーテンの隙間から差す朝日が目に痛かった。
閉め切られた部屋の空気は重苦しく、夢の世界に吹き渡る清涼な風と比べれば雲泥の差だ。柔らかい幻の名残が、皮膚に微かに残っている。しかし、残念ながら、俺の現実世界は紛れもなく“ここ”だけだ。
「ぐッ」
寝台から身を起こそうとすると、背筋を這うような悪寒が襲った。
「う……ハア……ハア……ッ」
ひとたび心臓が跳ね上がったかと思えば、声を漏らす間もなく呼吸がおぼつかなくなる。焦燥感と息苦しさに耐えながら、震える手で枕元に常備してある小瓶を握りしめ、蓋を開けた。
錠剤は指の隙間をすり抜けていくつか床へ散らばったが、それには構わず手の平の三粒を一気に口の中に放り込む。
胸を押さえたまま蹲って、永遠とも感じられる数秒が過ぎ去るのを待った。やがて、大粒の脂汗は引き、息苦しさも徐々に解消されていった。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。まじないの様に言い聞かせながら、呼吸だけに集中する。
「……こっちこそ、夢だったらいいのに、な……」
最近“例の夢”をみた翌朝は、発作と動悸の回数が明らかに増えた。俺の心臓のタイムリミットが近づいているのか、それとも、何か別の原因があるのか。
一昨日は、隣の部屋にいた駿が異変に気付いて駆けつけてくれたが、発作が頻繁に起きれば、弟に余計な心配をかけてしまう。
万が一、大阪の実家に連絡を取られれば強制送還は確定だ。軟禁生活に逆戻りする事だけは絶対に避けたい。
咳払いと共に身じろぎすると、スプリングが鈍い音を立てて軋んだ。ベッドから下りた俺は、のそのそ歩きながら窓際に立つ。
開け放った窓の外に、濁った薄灰の空と鉄筋コンクリートに埋められた、東京の街が広がっていた。
あの夢の世界で彼女と交わした約束は、俺の日常のどこにも存在していない。
どんな表情で、どんな口調で、彼女は俺の名を呼んでいたのだろう。
思い出そうとすると、こめかみを突き刺す様な痛みが走った。
無味乾燥で無色な日常を淡々と繰り返しながら。
今日という日に、呼吸する自分だけが取り残されていく。
午後の教室に差し込む木漏れ日の温もりは、鬼をも眠らせる魔力があると思う。
放課後のホームルームが終わり、クラスメイトたちが次々帰宅していく間にも、駿は机に伏して、身じろぎ一つしていなかった。
完全に、熟睡モード一歩手前だ。俺は駿の机に大股で近づくとわざと大声で呼びかけてみた。
「おい、駿! 起きろって。もうホームルーム終わったぞ!」
「うーん……やかましいなぁ。あと五分寝かせろや……」
駿は欠伸を繰り返しながら抵抗していたが、再度声をかけると瞼を開き、気だるそうに俺の顔を睨んだ。
「何の用や、アホ兄貴」
「ちょっと聞きたいんだけどさ。お前、彼女とは最近どうなんだよ?上手くいってるのか?」
俺は、寝ぼけきった駿を叩き起こすのに、効果テキメンな話題を吹っかけてみる。
たまにはプライベートな話題で盛り上がり、兄弟仲を深めるのも悪くないだろう。……これは単に、好奇心からの質問でもあるのだが。
「なっ!お前が期待しとるようなネタはない!そもそも、俺には彼女なんぞおらん言うたやろ!」
カマをかけたつもりだったが、案の定だった模様だ。駿はみるみる頬を上気させ、勢いよく椅子から立ち上がった。我が弟ながら、分り易すぎる反応に苦笑が零れる。
「ふーん。兄貴としては、一度きちんと紹介してもらいたいんだけどなあ?」
「そんなん、お前に関係あらへんやろが。俺は、もう帰る!」
弟の分際で兄貴に隠し事をするとは、いい度胸だ。
中学の頃、駿の女友達と俺が付き合っていると(勝手に)勘違いして以来、女子の話題になると逃亡を図るのが癖になっているようだ。そもそも、あれはあの娘が俺に言い寄って来ただけで交際した覚えはない。
「駿、待てよ。途中まで、一緒に帰ろう」
駿は、教室の入り口の扉に手をかけたまま振り返らずに返事をした。
「今日は、用事、ある」
「へえ?俺も付き合おうか?」
「来るなっ。絶対に付いてくんな!来たらしばき倒す!」
決して悪気ない問いかけのつもりだったが、駿は敵意むき出しで怒鳴った。今にも飛び掛ってきそうな、野犬みたいな顔をしている。俺は堪えきれずにぷっと吹き出してしまった。
「何笑うてんねん!お前、病院行かなアカンのやろが。人のことにかまけてる暇ないやろ」
「はいはい、わかった。あとで何があったか教えろよ」
「教えんし、知らん!」
鼻息荒く、廊下をのしのし踏み鳴らしながら歩く姿は珍獣か怪獣か。
一人残された俺は、誰も居なくなった一年B組の教室で腹が痛くなるほど大笑いした。
駿と教室で別れた後は、駅前の大通りを歩いて家路を急いだ。
際限なくすれ違う群衆を、波間に漂うクラゲのようにふわふわ通り抜けていく。
俺があまりにスローペースだから、わざとらしく肩をぶつけられたり、暴言を浴びせられた経験も有るけれど、他人の悪意を受け流すのも習慣になれば容易いものだ。
健常者にとっては当然の早足も、俺の心臓には負担がかかる。周囲の外敵はのらりくらりかわしつつ、常に一定のペースを守りながら、最小限のダメージで帰宅すること。日常生活を送る上での俺の重大ミッションの一つだ。
臨戦態勢でいつもの帰宅コースを辿っていると、ちょうど今話題になっている、流行の洋菓子店の前に差し掛かった。芸能人の街ブラロケでちらっと紹介されたのをきっかけに、一気に人気に火がついたらしい。人間の興味なんて、マスメディアにころころ左右される。現金なものだとつくづく思った。
店内の様子を見る限り、今日も相変わらず盛況の様子だ。店の外にまで順番待ちで並んでいるカップルが数組居た。
ケーキに目を輝かせる人々の笑顔を眺めていると、ふと、駿の顔が頭に浮かんでくる。女性客ばかりの店内に抵抗があるのか、アイツが洋菓子店前の通りをうろうろさ迷っている姿は、いつ思い出しても笑いのツボに入る。
駿はああ見えて、筋金入りの甘党だ。獲物を狙う猛獣のごとく目を光らせ、学ランのズボンを引きずって歩く男子高校生が、ファンシーな洋菓子店でショートケーキを買うなんて、傍から見れば珍妙に映るだろう。
一見不良に間違われる外見の駿だが、決して乱暴な奴ではない。
赤褐色で色素が薄い髪の毛や、高校生と思えない鋭い三白眼は父親譲りで生まれつき。つんつん毛先を逆立てたヘアスタイルは、寝癖をワックスで固め、徹底的にカモフラージュしているせいだ。駿は昔から、人相や言葉遣いで誤解されやすく不器用なタイプだった。本来は真面目で思いやりがある奴なのに、その優しさが周囲に正しく伝わった試しはない。
俺が気にかけているのは、駿の将来のことだけだ。
持病持ちの俺は、後どれくらい駿の傍にいてやれるか分からない。アイツの性質を理解して、支えてくれる誰かが現れることを願っていた。……口に出して伝えるつもりは無いけれど、これは兄貴として偽り無い俺の本心だ。
今日は、金曜日。親父から指定された病院で、週一回の定期検診の日だ。
大通りを抜けて洋菓子店の角を曲がると、アパートやマンションが立ち並ぶ住宅街へ繋がる道路に出る。俺と駿はこの住宅街の、とある高層マンションの六階に部屋を借りて生活していた。住宅街を抜けると森林公園があり、公園の隣が俺の通院する花森病院だ。駅やマンションから徒歩圏内の総合病院は患者にとって非常に有難いが、俺たちが住む部屋や病院、学校に至るまですべて親父の手配によるものだ。
東京で自由な学生生活を送っている身で文句は言えないが、結局、俺も駿も親父の監視下から逃れられない非力な子供。条件付きの自由を食い潰すだけの日々は、青空を知らぬまま鳥籠で飼い殺される小鳥さながらだ。
それでも、駿は高校生活を満喫している様子だから、喜びに水を差すつもりは無い。
俺自身は、檻だろうと病室だろうと場所に拘らないし、駿にとっては東京暮らしの全てがいい経験になるだろう。
俺と駿の引っ越しが決まったのは、去年の秋だった。
暦の上では秋といっても、まだ夏独特の湿気と焦げつくアスファルトの匂いが空気中にふんだんに内包されていた、残暑の厳しい九月の初め。
「俺は東京に行って、たこ焼きの専門店開くんや!」
夕食後はすぐ席を立ち去る親父が、珍しく椅子に腰かけたままリビングで新聞を読んでいた、午後八時半。駿が突拍子もなく言い放った現実味の無い戯言が転校事件の引き金となった。
「アホか」
当然ながら、親父は駿の一言を鼻で笑い一蹴した。
確かに駿は、料理を作るのも食べるのも好きだ。特にたこやきには過剰とも言えるコダワリがあり、見た目も味もなかなかいける。しかし、所詮は趣味の領域に過ぎない腕前だ。実家を出て東京で「店を開く」なんて世迷言に、親父が本気で取り合うはずもなかった。
「舐めとんのか。たこ焼き屋台の手伝い数回こなした程度の腕で、店なんぞやってける訳ないやろが。大体、金はどないするつもりや?ワシの力があらへんと、一人でなんもできへん餓鬼のくせして……」
「やかましい、何でもええねん!とにかく、俺は家を出たいんや!晴海高なんか、絶対いかん!死んでもいかん!」
しかし、駿は本気だった。いや、本気なのは店をやるという素っ頓狂な発言ではなく、“東京へ行く”という意思だけだろう。きっかけは何でもいいから、理由をつけて実家を出たいらしい。恐らくこの場にいる誰もが駿の魂胆を見抜いていた。
「まだ言うか!このドアホが!」
「いっ、てぇッ!?」
親父は駿を怒鳴りつけると、ごつい手のひらで思いっきり左頬を打った。凡人とは思えぬ威圧感と腕力は、現役(親父は地元で有名な不良チーマーを仕切っていた過去を持つ元ヤンらしい)を引退して、早数十年の時が流れても衰えていなかった。
親父の強烈な平手打ちをくらった駿は、力なくフローリングの床に崩れ落ちる。だが、頬を押さえながらも、親父を見据える目には強い闘志が宿っていた。
「このままココおったら、親父が決めた進学校に通わされるんやろ?そんなつまらん人生、まっぴらや!俺は電気屋なんぞやりとうない!クソくらえ!」
「駿!」
駿は、親父に向かって大声で不満をぶつけると、赤く腫れあがった頬を押さえて、逃げるようにリビングを出て行った。
「晃、自分はどうするんや」
「……」
「駿は東京の高校行く言うとる。自分はどないや?母親の地元に帰りたいんか?」
親父は飛び出す駿を引きとめもせず、何事もなかったかのように平然とテーブルに着き、タバコをふかし始めた。
「行きたいって言ったら、どうするんだよ。まさか許可するのか?」
「勝手について行ったらええわ」
息子の将来に関わる話なのに、明日旅行に行くか行かないか決めるような気安さだ。その態度は、俺の嫌悪感をかきたてた。
駿より一つ年上で、既に親父の決めた私立高校に通っている俺の場合、転入手続きが必要になる。引越し準備や気持ちの整理はもちろん、病院の手配だってある。良くもまあ悠々と、他人事のように言ってのけるものだ。
「所詮は二年の間や。卒業したらコッチに戻して、ワシの仕事手伝わせるんは変わらん」
「……なんだよ、それ」
親父は、二本目のタバコにライターで火をつけた。
「勝手について行ったら」とはなんだ。そんな簡単に決断できるものか。ふざけるにも程があった。俺は親父に無理やり巽家に連れ込まれた被害者で、この男の身勝手のせいで生まれた犠牲者だというのに。今まで散々人の運命を捻じ曲げておきながら、「自由をくれてやるから感謝しろ」と言わんばかりの態度。そんな横暴あってたまるか。
「ふざけんな!俺は、あんたのオモチャじゃねえ!」
俺は、思いの丈をぶちまけていた。吐き出された酸素は急激に失われ、肺の中は空っぽになった。苦しくて腹立たしくて、脳みそが弾け飛びそうになる。咥内はカラカラに渇き、血の味がした。
「ふざけ、るなっ」
ありったけの声を絞った途端、俺は床に膝をついた。涙が零れそうになるのを必死に堪えた。
「おい、晃を部屋に運べ」
親父は業務連絡よろしく黒服の秘書を呼びつけながら、タバコを灰皿に押し付けている。
「クソ、親父……」
「晃さん、行きましょう」
秘書二人は能面ヅラのまま、両サイドから俺の腕をつかんで強引に立ち上がらせた。
俺は、自分が情けなかった。理不尽で一方的な支配に抗う意思は有るのに、立ち向かう力がこれっぽちもない。そんな自分が心底憎く、大嫌いだった。
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