第一話 投獄

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第一話 投獄

 一体いつになったら、この鉄籠の中から解放されるんだろう。 もう一度、あの蒼い空を自由に羽ばたける日は訪れるのだろうか。    通算何度目か分からない自問自答を繰り返しながら、牢獄の隅で力なく蹲る少女、ユファ・ハメルティは、自身の膝に顔を埋め口元から漏れる嗚咽をじっと堪えていた。 ユファが投獄されている牢は南京錠がかけられており、外には監視役の兵士がピッタリと張り付いて、昼夜問わず監視している状態だった。 不衛生な牢内に窓はなく、壁と壁の合間にはねずみ一匹通れる僅かな隙間さえない。狭苦しい空間に有る物といえば、ボロ布が巻かれた簡素な寝台と樹皮が剥がれた机、脚の折れた椅子が一脚だけだ。 「はあ……」  ユファがため息を漏らすと、気だるそうに立つ見張りが鋭い眼で凝視してきた。ユファは顔を上げて毅然と兵士を睨み返す。 空色の前髪から覗く瞳は充血して潤んでいるが、強い意思の輝きだけは色褪せていなかった。 ユファの脳裏によぎっているのは、今から一ヶ月前の〝あの日〟の光景。 深手を負ったユファを四方から取り囲んだアイスベルグの王宮警護兵達。悪意と好奇の視線を向けては、『ファルケの魔物』とユファを罵った人間たち。 憎悪に塗れた陰鬱な記憶を辿る度、ユファの身体を夥しい鳥肌が走り、今にも気が遠くなりそうだった。 *  古来よりアイスベルグ王国には、二つの種族が共存していた。 一つは、背中にコバルトブルーの双翼を持ち、険しい山の頂や高い崖の上など高所に住処を構え、地上より空に近い場所に生きる双翼の民(そうよくのたみ)と呼ばれる一族。 二つは、畑作や牧畜をして生計を立てる大地の民(だいちのたみ)。 大地の民は人間の祖先に当たる種族で、現在も地上を支配している。かつては両種族とも領域を侵すことなく、時には物々交換で利益を得て助け合って暮らしていた。 大地の民は知恵と腕力に長け、力仕事や狩りが得意だ。一方の双翼の民は、背中の両翼で一定の距離を飛行することができた。移動速度は大地の民より早く、上空から狩りのサポートをして助力した。  伝承の中では、双翼の民は『天の渡り人』とも言われており、当時のアイスベルグ王国にない独自の文明と高度な知能があった。双翼の民だけが使える空術(くうじゅつ)術は、その代表的な能力だ。 空術は、生物の治癒力を高める術で、双翼の民は一族の傷を癒したり、大地の民の病の治療をしていた。 共存が始まってからというもの、双翼の民の空術に頼っていた大地の民だったが、やがて「自分たちも空術を使いたい」と言い出す者が現れた。 しかし、双翼の民は「空術は天から与えられた力。他の種族に渡すことは出来ない」と一蹴した。 それ以来、大地の民は双翼の民に不信感を募らせていき、双翼の民もまた「大地の民が空術を利用しようとしている」、と警戒心を持っていった。些細な発言をきっかけに生まれた疑心は、長い年月を経て種族間の間に積もり、ついに両種族の関係を崩壊させる、決定的な事件が起きてしまう。    それが、百五十年前に勃発したヒンメルの宝珠強奪事件だ。 大地の民の一人が双翼の民の隠れ里に忍びこみ、宝珠を盗んだ上、逃亡を図った。 空術の源とされる石の名は『ヒンメルの宝珠』。空色の淡い光を放つ癒しのエネルギーを秘めた石で、双翼の民は宝珠の欠片を指輪や首飾りなどの装飾品に加工して身につけることで、空術の媒介にしていた。 一族の宝を強奪された双翼の民は、大地の民から宝珠を奪還するため、戦いを仕掛けることになる。  陸空対戦(りっくうたいせん)――大地の民と双翼の民の、戦争の始まりだった。 対戦は、武力と兵力で双翼の民を圧倒した大地の民の勝利に終わったが、以来、両種族の間には深い溝が生まれ諍いが絶えなくなった。 現代では、軍事力に頼るようになった大地の民の制圧で双翼の民は絶滅寸前に追いやられている。大地の民は双翼の民を「翼を生やした化け物」・「ファルケの魔物」と罵り、差別は悪化の一途をたどっている。  ユファ・ハメルティは双翼の民の一族で、隠れ里で静かな生活を送る十七歳の娘だ。 本来なら一族の故郷で、家族と共に平穏な生涯を送るはずだった。 だが、〝あの日〟を境に、ユファの日々は砂で築いた城のように、一瞬にして崩れ去ってしまった。 ――大地の民――人間によって捕縛され、アイスベルグ城内の牢獄にだだ一人、投獄されたことによって。   *  陸空対戦の後、双翼の民一族は分散し、アイスベルグの各地方で生活を始めていた。一つ所に一族全員で移住しなかったのは、民の長であるユファの祖母が取り決めた掟だった。 万が一、再び陸空対戦のような争いが起きたとしても、一族の血を存続させていくために。 ユファの祖母はそれぞれの隠れ里に、自分の意思を伝える代理の長を置くことで、里を統治させていた。ユファが住む隠れ里『ハメル』の長は、ユファの父・オリオンだった。  ハメルの里で生まれて十六年。里と、その周辺の森しか世界を知らないユファは、毎日代わり映えのしない生活に辟易していた。 ――森を抜けた東の渓谷へ自由に飛んで行きたい。丘を越えた先に広がる、もっと広い青空を眺めてみたい。〝外〟への興味もさることながら、ユファは『人間』の生活にも、純粋な好奇心があった 「外へ出たい」と愚痴を零すユファに対して、オリオンは口を酸っぱくして注意を繰り返した。 「いいかい、ユファ。里の外には出てはいけない。人間は、わたしたち一族を魔物と呼び、忌み嫌っている。見つかったら殺されてしまう。いや、それより恐ろしいのは、捕らえられることだ。僕達の空術を人間に渡すわけにいかない」 「……もう、またその話?私はただ、自由に空を飛んでみたいってお願いしてるだけなのに」  ユファは、実際の人間の姿を見たことがなかった。伝承に出てくる人間の姿を描いた絵やモチーフならイメージできたが、どれも抽象的でユファの溢れる好奇心を満たすには至らなかった。 「ユファ、あなたも空術を扱えるようになったら、里の中を飛び回る許可が下りるわ。それまでは我慢しなさい」 「里の中はもう十分すぎるくらい知ってるもの。知りたいのは、里の外の世界だけよ」 ユファの母、エミーリアは、娘を優しく諭したが、ユファは不満気に頬を膨らませ文句を言った。 「ユファ。お前が考えている以上に、外の世界は危険なところだ。いいね?絶対に、ひとりで里の外へ出ては駄目だ」  ユファのような一族の子供たちは大人達に庇護されて、不自由な軟禁生活を送っていた。十八の歳を迎えて空術を扱えるようになったら一人前、というのが一族の伝統だ。  その日も、ユファは父と母が留守にしている間、自室で読書をしていた。特別読書が趣味という訳ではなく、それしか暇を潰す材料がないからだ。本棚に並んでいるのは、大半がオリオンが用意した陸空対戦関連の歴史書ばかり。 書物の中には、人間がいかに傲慢な生き物で、野蛮な種族であるかが延々と書き連ねられていた。 そして、どの歴史書も最後の頁は、〝例の一文〟で締め括られている。 『人間が双翼の民一族から奪ったヒンメルの宝珠を返還して謝罪をしない限り、人間と私達一族が和解することは決してないであろう』。 「はあ……」  したためられた文字から、双翼の民の増悪と憤りがひしひしと伝わってくる。生々しい描写にウンザリしたユファは、ため息を零して寝台に寝そべった。  双翼の民は寝台で眠る際、羽を背中に仕舞うことができる。背中――ちょうど肩甲骨の辺り――には、鳥が翼を広げた形の青い痣があって、そこが羽を出し入れする部分になっているのだ。自分の意思で出し入れ可能とはいえ、里に居る時や睡眠時、着替えの間くらいしか、羽を仕舞う機会はない。もしも隠す機会があるとすれば、人間に見つかりそうになった時だろう。  ユファが背中から寝台にダイブした途端、彼女の体は布団の中に埋もれ、柔らかい感触に包み込まれた。双翼の民は抜け落ちた羽根で布団や装飾品をこしらえている。一族お手製の羽毛布団や枕は暖かく、保温性と柔軟性に優れた一級品だ。 「退屈だなあ」  ユファの口から、ぽつりと独り言が零れる。 「空術が使いこなせたら外へ出て良いってお母さんは言うけど、もう十分出来てるのに」  里の子供たちの中でも空術の素質が高いユファは、些細な怪我くらいなら自身で癒すことが出来た。ユファの空術の媒介は、左手の人差し指にはめている銀の指輪。リング中央に埋められた丸い空色の石が、ヒンメルの宝珠の欠片だ。 双翼の民は、古来からヒンメルの宝珠の欠片を媒介に空術を使用してきた。しかし、原石を失った今、残されたヒンメルの宝珠の僅かな欠片で、どれだけ空術を維持できるかが問題になってきていた。  ユファは白い布団を両腕に抱き締めたまま、くるりと寝返りを打った。持て余すだけの無為な時間に、吐きたくもない嘆息は止まることをしらない。  成人としてユファが認められるまで、まだあと二年ある。十八歳の年を迎えるまで、この息苦しい軟禁生活が続くのか。ユファにいよいよ我慢の限界が訪れようとしていた。 「ユファ、居るんだろう?出ておいで!」 寝転がるユファの退屈を知ってか知らずか、窓の外から彼女を呼ぶ声がした。 「え?」 ユファはベッドから飛び起きるとレースのカーテンを開き、錠を開けてひょっこり窓から顔を出した。 「ルイス兄さん!」 「オリオンさん達、出かけてるんだろ?たまには、一緒に里を散歩でもしようか」 窓の向こうに立っていたのは、隣に住んでいる幼馴染のルイスだった。 ルイスはユファより五つ年上の二十二歳で、ユファが幼い頃から世話を焼き、遊び相手を務めた青年だ。ユファの両親も、誠実で面倒見のいいルイスを信用しており、時折四人で食事を取ったり、里の直ぐ傍にある小川まで、魚釣りに行ったこともあった。ユファにとっては、実の兄のように気心のしれた存在だ。 「あの……ルイス兄さん、わたし里の外に行きたいんだけど……ダメ?」 ユファは窓から顔を突き出したまま、「お願い!」とルイスに懇願する。 「僕は構わないけど、オリオンさんには外に出るなと言われてるんだろ?」 「うん……。でも、最近ちっとも魚釣りに連れて行ってくれないし……。家にいるばっかりで、息が詰まるの」 ユファのおねだりをきいたルイスは、顎先に指を当てしばし考え込んでいたが、再度「お願い、兄さん!」と食い下がってくるユファの熱意に、とうとう根負けしたようだ。 「……確かに、毎日室内じゃ退屈だよな。分かった。今日は一緒に森まで行ってみようか」 「やった!ありがとう」  ユファは、あまりの嬉しさにそのままルイスの首に抱きついた。 「こら、ユファ。窓から身を乗り出したら危ないだろ?」 ルイスは苦笑しつつ、ユファの頭を撫でるように抱きかかえた。細く柔らかいくるくるの銀髪は、風に揺れる雲のようだ。ルイスの髪や微笑みを眺めていると、ユファは暖かい気持ちになることが出来た。  久しぶりの外出に浮足立った気持ちを抑えながら、ユファはルイスと二人で家を出た。 「うわー、綺麗!」  森の小川は、以前ユファたちが魚釣りに訪れたた時と変わらず、透明で清らかだった。水中を泳ぐ色鮮やかな魚たちの姿がはっきり肉眼で確認できるほど澄み切っている。 ハメルの里を出てすぐにある自然の恵み豊かなこの森は、双翼の民一族にとっては、食材の宝庫だった。一族の大人たちは、三人組のグループを作り、当番制でこの森に赴いて、木の実や薬草、三菜などを採取しに来ている。  何より双翼の民たちにとって都合が良いのは、この森の場所だった。森へ侵入するには険しい渓谷をいくつか越える必要があるので、殆ど人間の目につくことがない。隠れ里にするにはまさに打ってつけの立地だった。 「今度は、オリオンさんたちと一緒に来よう。久しぶりに、魚釣りもしたいだろう?」 「うん。」 ユファは、久しぶりの森に心踊らされながら、ルイスと共に、ゆっくり小川に足首をつけた。 水中は、ひんやりと肌を刺す心地よい温度だった。水流の清純さと森のそよ風が、里の中に閉じ込められて固くなったユファの心を、そっと解してゆくようだった。 ユファが久しぶりの水遊びに、すっかり夢中になっていた時だった。 「――ユファ!」 「えっ……?」  当然ルイスに名前を呼ばれたかと思った刹那、ユファはルイスにの腕に抱き締められていた。広い胸板に顔面が押しつぶされたユファは、息苦さと緊張で鼓動が急速に早まる。 「な、なに?」 「……何か、いる。里のものでも、獣でもない……」 いつになく真剣な声音で囁くルイスに、ユファは思わず身を強張らせた。ユファを抱き締めるルイスの腕には不自然な程力がこもっており、痛いくらいだった。 「こんな場所にまで踏み込んでくるとはな。まだ、ここに移り住んだばかりだって言うのに」 「にん、げん、なの?」  ユファは震える唇で、小さく問いかけるのが精一杯だった。いつか聞いた「人間に捕まったら恐ろしい実験をされる」というオリオンの忠告が、脳裏によぎっては消えていった。寄り添い合って息を潜める二人だったが、その時、木々の奥の茂みが、かさかさと小さく揺れた。二人の元へ近づいてくる複数の足音が聞こえる。 「しっかり捕まってるんだよ、ユファ!」 「え……きゃあ……!」  ルイスは一言告げると、ユファの手を引いて、風を切るスピードで勢い良く走り出した。 「何か、いるぞ!」 「魔物か?」 「いえ。そこまでは……」  ルイスは、小川の砂利道を全速力で駆け抜けていた。ユファも必死にルイスに手を引かれながら走っているが、息も上がり始め、額からは玉のような汗が滲んだ。外に出る機会が余りなかったユファは、華奢な上に基礎的な体力が少ない。 慣れない全力疾走で足がもつれ、肺もつぶれそうだったが、後もう少しで森を抜けるところまで差し掛かった。ここまでくれば、里まではあと少し。ルイスが地を蹴って、その背の双翼を現した時だった。 ………  野鳥達が、一斉に上空を飛び去っていった。 午後の穏やかな陽気に包まれた森の中に、一発の銃声音が響き渡る。 「ぐッ、……!」 「ルイス兄さん!?」  ユファが乾いた発砲音で反応した瞬間には、すでに森の木立から放たれた銃弾がルイスの背に命中した後だった。「あの気配は、やはり人間達だった」ルイスは、掠れた声で囁くと、苦痛に表情を歪ませていた。 「どうして……ここは絶対に人間に見つからないって、安全だって、言ってたのに……」  里の中で庇護されて来たユファは、唐突な緊急事態を受け入れる覚悟が十分にできていなかった。全身からサッと血の気が引いていくのを感じながら、ルイスの横顔を見つめる。 「最近、人間たちは僕たち一族を根絶させようと動き出しているらしい。君には黙っていたけど、ついこの前も里のミハエルが、人間の姿を目撃しているんだ」 「兄さん、血が……」  ルイスの背から流れる鮮血は、今だ止まる様子はない。負傷した体であるにもかかわらず、ルイスは持っていた自分の媒介である杖を握りしめながら、ゆっくりと立ち上がった。 「ユファ、逃げるんだ……。今のうちに、はやく……」 「な……っ」 「早く、いけ!僕は、大丈夫だ。君が逃げる時間を稼ぐくらいはできるから……」 「何、言ってるの、兄さん……。兄さんを置いていくなんて」  立ち上がるルイスとは反対に、へなへなと地面にへたれこんでいるのはユファの方だった。血塗れたルイスの姿と傷付いた翼を見ているだけで、恐怖と悲壮感で胸が締め付けられる思いだった。  ――しかし、時間は悠長に待ってはくれない。 「きゃあ……っ?」 「ユファ!」 二人が問答を繰り返している内にまた、銃弾の音が森中に響き渡った。ルイスは、まだ茫然としているユファの肩を力強くつかむと、叫ぶように言った。 「早く行くんだ!里の皆に伝えろ!ハメルの里は危険だと!いますぐ、ヴォルベレー山に非難するように、と……」  ルイスの権幕に押され、ユファはようやくふらふらと地面を起き上がった。両目には涙が溜まり、体は恐怖心とショックで小刻みに震えている。 「そうだ、早く行くんだ」 「……」  再度、ルイスに声をかけられて、ユファは心を決めた。背の双翼を現すと、軽く地面を蹴って宙へ浮かび上がる。 「林の中を行け!姿を、見られないように……」    ルイスのアドバイスを受け、ユファはつたない飛行ながらも、懸命に空を飛んだ。はやく。はやく。頭の中で急き立てる声だけに従って、ハメルの里を目指して林の中へと入り込んだ。  これまで家に閉じ込められていたユファは、空を飛ぶ練習はそれ程積んではいなかった。ユファにとって、視界が悪く狭い木々の合間を器用に飛行するのは、かなり難易度が高い。翼が細い枝に引っかかったり足を幹にぶつけたりして、何度もバランスを崩し、地面に落ちてしまいそうになった。それでも、ただひたすら飛び続けるしか道はない。 ――小川の方からは、時折銃声の音が響いてユファの耳に届いていた。そのたびに、引き返してルイスの無事を確認したい衝動をぐっと堪える。口元から漏れる嗚咽は抑えきれず、瞳からは涙が溢れて止まらなかった。 (私が外に出かけたいなんて言わなければ、こんなことにはならなかったのかもしれないのに)  ユファは心の中で、自分を責め続けた。  ルイスが身を挺してまで自分を守ってくれた現実と、人間たちの容赦ない発砲を思い出すと「なぜ両親の言いつけをきちんと守らなかったのだろう」と、後から後から後悔が湧き上がって、心臓が痛かった。 * 「そ、んなっ……!?」  なんとか林を潜り抜けてハメルの里に戻れたユファだったが、そこで真っ先に目の当たりにしたものは、里が火の海に包まれて燃えている光景だった。 紅く盛る炎は津波となり、一族の家や仲間……平穏な日々の面影の全てを焼き尽くし、いともたやすく奪い去っていく。 「なん、で……まさか……」  ユファは炎の波を眺め、愕然とする。 (わたしの後をつけてきた人間に気づかれた……?) ――あの危機的な状況で、ユファはただ、里へ逃げることに精一杯だった。 周囲の様子や、人の気配に集中する余裕がなかった。ルイスが人間を足止めしてくれたとしても、恐らく相手は複数。一人で抑え込めなかったとしても無理はないことだった。ユファの後をつけてきた人間に里の位置を気取られ、先回りされた可能性はある。 「ユファ……か?」 「お、お父さんっ?」  絶望に支配されたユファが正気を取り戻したのは、遠くから微かに自分を呼ぶ声が聞こえてきたときだった。 ユファは力振り絞り、その方角へ走った。 途中、倒れた木々や崩壊した家屋の残骸に足止めをされたが、それらを飛び越えて、一心不乱に父の姿を探した。 「ユファ……よかった……無事、だったのか……」  ユファが辿り着いたのは、つい数時間前までここに有ったはずの、家族の家の跡だった。 ユファたち一家の思い出の詰まった大切な家は、今は原型さえ留めてはいなかった。焼け落ちた本棚の残骸、写真たてのきらきらした装飾の金剛石のかけら、大好きだった羽毛布団の蒼い羽根……それらは赤一色に染め上げられ、灰の粒へと変わってしまった。 「お父さん!!」  崩れ去った瓦礫の下に、オリオンの姿があった。ユファは、立ち上る煙と粉塵の中を突っ切って、父の元に駆け寄った。 「どうしよう……誰か、誰か……!」  瓦礫の隙間から伸びた父の右腕をつかみ、ユファは両足を踏ん張って何度も何度も、全力で引いた。が、ユファひとりの腕力では、オリオンを引きずり出すことは叶わない。 「よかった……お前が……無事で。この里は、もう終わりだ……。お前は、生き残った者たちと、ヴォルベレーに行くんだ……。おばあちゃんに、守ってもらいなさい」 「お父さん、いやだ!お父さんも、一緒に行こうよっ!ねえ!」  ユファは大粒の涙で頬を濡らし泣き叫びながら、砂と灰にまみれたオリオンの手を握りしめた。その間も、燃える炎の渦は留まることを知らず、刻々と拡大を続けている。ユファのすぐ背後でまた、がらがらと燐家の一角が崩れ去っていった。 「お母さんも、……この下に、いるんだ……。わたしは、ここに、残るよ。さあ、行きなさい。お前は、天の祝福を受けた子供。……一族の、希望だ」  オリオンは、穏やかに微笑んでいた。ユファを安心させてくれる、あたたかくて優しいいつもの笑顔。――離れたくないと思った。 どれほど軟禁状態に嫌気が差していても、口うるさく注意や小言を言われても、ユファにとって両親とハメルの里は大切な――唯一の居場所だった。 このまま、わたしもここに留まろう。 家族みんな一緒に。いままでずっとそうだったんだもの。 煙と涙で霞む視界の中、ユファはぼんやり佇んで、オリオンの笑顔を見つめるだけで精一杯だった。 が、次の瞬間。父と娘の繋がりさえ引き裂こうとするように、高所から焼け崩れた瓦礫が落下する。 「きゃあぁああ……!」  ユファが絶叫するのと、その体が宙へと浮かび上がったのは、ほぼ同時だった。 「間に合った……!」 「ルイス、兄さん?」 ルイスがユファを抱きかかえて、遥か里の上空へと飛び上がっていく。 「無事だったのね……」  ユファは無我夢中でルイスにしがみついて、その感触を確かめた。胸元に耳を寄せると、どくんどくんと脈打つ心臓の鼓動が聴こえる。ルイスが生きていたことを、ユファは素直に嬉しいと思った。 ユファが辺りを見回すと、ルイスの他に数人の里の仲間達の姿が確認できた。 里の惨状に心を痛めて涙を堪える者もいれば、憤りを露にしてきつく唇を噛み締めている者もいる。切り傷やかすり傷を負った者も、軽い火傷の痕が腕に残っている者もいた。 「みなさん、僕に付いてきてください。北のヴォルベレーへ向かいましょう」  ルイスの指示を受け、生き残った里のメンバーで双翼の民の総本山・ヴォルベレーへ移動することになった。しかし、ユファはルイスの宣言を耳にした瞬間、ルイスの胸を手で押し返し、腕の拘束から逃れた。 「……まって、兄さん。まだあそこには、お父さんと、お母さんがいるの……」  ユファの眼下には、ハメルの里と森を貪る獰猛な炎が暴走していた。 窮屈で閉鎖された生活の中に、家族と過ごした大切な思い出。かけがえのない故郷がみるみる焼け落ちていく光景に、ユファの心は徐々に凍り付いていった。 「ユファ、行くんだ」 「行けない……」 「ユファ!」  ユファの翼は、この場に留まろうとする心に従い、不安定に傾いで身体を支えきれていない。今にも地上に落下しそうなほど、全体がふらふらと揺れていた。ルイスはユファに飛び寄ると、彼女の腕をつかんだ。 「離して……!まだお父さんと、お母さんが――……!」 「いい加減にしないか!」  ルイスは、腕から逃れようと暴れるユファに、毅然と厳しい口調で怒鳴った。 「オリオンさん亡き今、君は次の里の長になるべき存在なんだ。君は生き抜いて、これからの僕達一族を導く義務があるんだぞ!」  その言葉に弾ける様に顔を上げたユファは、涙を浮かべたままルイスの顔を凝視した。互いに暫し沈黙した後、ユファは初めてルイスの翼の異変に気が付いた。 「ルイス兄さん、羽が……!」  ルイスの右翼の動きは、明らかにぎこちなかった。一見、ルイスはいつもと変わらず空を飛んでいるように見えるのだが、実際は、彼の右半身は不自然に傾いてしまっている。 「あの時の銃弾で、背中をやられたからな。翼を傷めてしまったんだろう。だが、大丈夫。空術で傷は塞いだからね。ヴォルベレーまでは飛びきって見せるよ」 ユファの血の気の失せた顔に気がつくと、ルイスはふわりと微笑みを浮かべて答えた。 ――里の惨状が辛くない訳がない。体に痛みを感じていない筈はない。ルイスが身も心も傷つきぼろぼろに疲弊した中でも、ユファや里の面々を激励している事をみな理解していた。 「兄さん、ごめんなさ、い。わた、しのせいで……」 「もう気にするんじゃない。ユファ、意識をしっかり保つんだ。僕らの飛行能力は心の強さ――意思の力に直結している。心を乱せば、翼を支えることができなくなるぞ」   自分を命がけで守ってくれたルイスに、どんな言葉を返せばいいのか。ユファは喉がつかえて、上手に言葉が出てこなかった。ユファの耳にはただ、自分の心の奥に深い亀裂が走る音だけを聴いていた。 「おい、ユファ!?」 地上では、赤い悪魔がユファの世界を支配しているだけ。 ――そちらへ意識を向けたら、きっと二度と空へは飛びあがれない。 頭では理解しているはずなのに、暗闇が手招いているその爪の先までを、ユファは確りと目撃してしまった。 「ユファ!」 「……ルイス、兄さん……」 ――ユファの身体は、その心のまま、深い暗闇に落ちていった。 全身からガクリと力が抜け、意識が遠のいていく。 炎上する地上へ落下し始めたユファの手を、ルイスがつかもうとしていた光景だけが、彼女が最後に瞳に映した映像だった。 (ルイス兄さん、ごめんなさい。……それから、ありがとう) ユファは、薄れる意識の中、何度もルイスに謝罪をしていた。そして、大好きだった父と、母へも。 *  このまま、わたし、死んでしまうのかな。 ほんとうはもっと、外の世界のことを知りたかったのに。 もっと、お父さんやお母さんと、暮らしたかった。 もっと、ルイス兄さんと色んなところへ行ってみたかった。 もっと、空を飛んでいたかった、もっと、もっと。  ユファが、地上へと落下した時。 幸いなことに、彼女は森の木々のクッションに助けられ、全身に打撲と擦り傷を負ったものの、一命を取りとめていた。 ユファの翼から抜け落ちた薄水色の羽根が、焼け落ちた大地に雨のように散らばっている。  どれくらいの間、気を失っていたのだろうか。 静寂に包まれた森の奥、ユファとルイスが水遊びをしていたあの小川の方角から此方へと接近する、複数の足音が聞こえてきた。 「ううっ……ここは……?」 慌てて上半身を起こし、状況を確認しようとすると、ユファの全身に鋭い激痛が走る。 「イタッ……」 身体は岩石の塊のように重く、なかなか自由に動かせなかった。手足は痺れ、なんとか木々の茂みから抜け出したものの、再び飛び立てる状態ではない。 「この辺りに、まだ生き残りがいるかもしれない」 「ファルケの魔物がいたら、捕まえて城へ連れ帰るようにとの命令だ」 「!」  靴音と共に耳に届いた話し声に、ユファはぞわりと身の毛がよだった。 ――あれは人間。里を燃やし、お父さんとお母さんを殺した悪魔のような人間たち。 激しい憎悪と胸に渦巻く恐怖が、ユファの心をたちまち支配していった。心の乱れはユファの翼にも影響を及ぼす。懸命に広げようと念じるものの、何度もがいても羽が引きつったようになり、ちっとも開いてくれなかった。 気力を振り絞り逃げ出そうとするが、落下で左足首を捻ったらしく、一歩踏み出すだけで全身が針で突き刺されているかのように痛んだ。 それなら、空術で傷を癒してみようとするものの――……、 「ない……!?」  左手人差し指にはめていたはずの、空術の媒介である指輪がなくなっていた。 ルイスとの水遊び、炎上する里での奮闘、そして地上への落下――どのタイミング指から外れたか思い出せないが、周辺を探索するような余裕は到底ない。 ……もう駄目だ。万策尽きたユファは、今度こそその場に座り込んでしまった。 「おい、見ろ!」 「羽だ!背中に羽が生えているぞ!」 「ファルケの魔物だ」 「捕まえろ!」  空術も使えず、傷を負って逃亡すら出来ないユファは、たちまち人間たちに取り囲まれてしまった。 ハメルの森と、いくつもかの渓谷を越えた先にあるアイスベルグ王国の首都「アイシア」の王宮警護兵が複数。重厚な銀の甲冑を身に着け、背中にはくるぶしの辺りまである朱色のマントを羽織っている。肩には肩章を付けており、漆黒の馬にまたがった騎士の姿が描かれていた。あれが、アイスベルグの国章だ。 「やはり、隠れ里の噂は本当だったようだな」 「ああ。ここの生き残りはこいつだけのようだ」 「おい、気をつけろ。まだ子供だが、ファルケの魔物は奇妙な術を使うからな」 警護兵たちは無抵抗のユファに向けて、躊躇いもなく銃口を突きつけてくる。 「抵抗するな。妙な動きをすれば、撃つ」 「……」  一人の兵士が、脅迫の言葉と共にユファに一歩、また一歩と近づいてくる。 ユファと警護兵の周囲を、さらに四人の兵士が銃を構えて囲っていた。無情にも接近する悪魔の靴音にぎゅっと身を硬くしながら、ユファはそっと瞼を閉じた。 お父さん、お母さん。 もうすぐ私も、そっちへ行くからね。 ただ、それだけを思いながらユファは警護兵に手錠をかけられた。
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