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第七話 帰還
牢獄に突如現れた時と同じように、駿里は忽然と姿を消した。
彼が立ち去った後に残されたのは、身に纏っていた群青色の古いマントだけ。
泉の岩場に干してある衣服は無くなっていたが、何故かマントだけ置き去りになっていた。
心に空いた穴に戸惑いながら、ユファは駿里のマントを腰の位置に結んで服の上から身につけてみた。
「わたしも、行かなきゃ…」
駿里の気配が消えた闇宿りの森は、より一層の静寂に呑み込まれたようだった。ユファは覚悟を決め、一人で森を抜ける決意を固めた。
* * *
駿里と別れ、ユファは単身闇宿りの森を抜けて北の上空を羽ばたいていた。
目的地は、双翼の民の隠れ里・ヴォルベレー山の頂上だ。
ヴォルベレーの里には、ユファやルイスのようにハメルの里から移動した者以外に、ユファの祖母と多くの同胞が住んでいる。
ユファの祖母は双翼の民一族の大長。各地に分散した隠れ里を取り仕切る唯一の存在だ。
ユファが二つの歳になるまでは家族とヴォルベレーで生活していたが、ユファ本人は当時のことを記憶していなかった。
上空に近づけば近づくほど酸素は薄くなり、視界は薄雲に覆われて白んでいく。人間の登山がいかに困難か、ユファは眼下を眺めながら改めて理解した。
ヴォルベレーは岩石で覆われた急な斜面が延々と続き、体力を容赦なく奪い去る難攻不落の山だ。岸壁そのものが、里を守る屈強な門番といえる。
双翼の民は山の頂や切り立った崖の上など、高所で生活するために進化した一族だ。
一方、翼を持たず肺活量も少ない人間は、高山での活動には向いていない。
…つまり、人間の領域に踏み込みさえしなければ、一族は安心して暮らしていけるはずだ。
ユファはほっと胸を撫で下ろした。ハメルの里のような惨劇は、二度と繰り返したくない。
雲の層のカーテンを潜って山頂に舞い降りると、目前に白い砂岩で創られた巨大な扉が聳え立っていた。
扉の表面には一族の背にあるものと同じ、双翼の文様が刻印されている。
モチーフは不死鳥が翼を広げた彫刻だった。この扉こそが里への入り口――検問に間違いない。
(この扉、どうすれば開くの?)
鍵穴は見当たらない。…ユファの身長の三倍はある巨大な扉が、小細工で開くとは思えなかった。なすすべなく立ち尽くしたユファが扉に片手をついた、その時だった。
「な、何?」
刹那、ユファの翼が青く光り放ち始めたのだ。
蒼い光の洪水は、ユファの全身を包み込んでみるみる膨れ上がる。
扉はユファの翼の光を吸い込みながら、音も立てずゆっくりと開いていった。その先の光景もまた蒼一色で眩い。まともに目を開けていられないほどだ。
眩暈に襲われたユファは、思わずその場に座り込んだ。
「ユファ……?」
「――きゃっ?」
次にユファが目蓋を開いたとき。
「ホントにユファなんだよね…!?おかえりっ!」
ゴムまりみたいに弾む声と同時、柔らかい感触がふわりとユファに覆いかぶさる。
光の中で圧し掛かる重さを受け止めたユファだったが、支えきれずその場に倒れこんでしまった。
「その声…もしかしてエアハルト…?ただいま…!」
ユファは地面に横たわったまま、腹部に載っている少年――エアハルトの頭をそっと撫でる。
「ああっ、ごめんっ!……重かったよね?」
「ううん、平気。びっくりしただけよ」
「ホント、ごめんね!」
ユファを下敷きにしたエアハルトは慌てて後ろへ飛びのき、照れくさそうに頬をかいてからユファに手を差し伸べた。
ユファはくすりと笑みを零し、エアハルトの手に掴まって立ち上がる。
小柄で華奢なエアハルトは、数え年で十四歳になったばかりだ。
首の付け根で切りそろえた細い銀髪がさらさらと風に靡き、少女と見まごう程のあどけなさが顔立ちに残っている。
もっとも「可愛い」なんて口に出したら、勝気でプライドの高いエアハルトがヘソを曲げるので禁句だ。
「それにしても、すごいタイミングで出迎えてくれたのね」
「あっ、そっか。ユファは知らないんだね。この里の扉が検問の役割をしているのさ。さっき、ユファの羽が光ったでしょ?」
「う、うん…」
「ボクらの羽に反応して、扉が開く仕組みなんだってさ!創ったのはずっと昔のご先祖様だから、ボクも詳しいことは知らないけど。最近里の外へ出た仲間はいないから、もし扉が開くとしたらユファが帰って来るときだって思ってたワケ!」
エアハルトは一息に説明すると、猫目を細めて嬉しそうに笑った。
「でも、ホント良かったよ!ユファとハメルの里ではぐれちゃった時は、もう二度と会えないかと思ってたんだからさ!」
「…それは……あの時は、ごめんね」
エアハルトは、ユファと同じくハメルの里出身だ。
炎に呑み込まれた故郷と、森に落下したユファを目撃した里の仲間の一人である。
「ユファとはぐれちゃった時にさ…。ルイス兄さんはユファを連れ戻そうとしたんだよ。でも、みんなに止められた。森に入ったら無事じゃ済まないからって…。ボクも、ごめんね。ユファを助けてあげられなかった…」
唇を噛み締めるエアハルトに、ユファの胸がきりっと痛くなった。
自分より年下のエアハルトに心配をかけたことが申し訳なくて喉が詰まる。
「謝らないで。ルイス兄さんの言いつけを破ったわたしが悪かったんだし。…ありがとう、心配してくれて」
せめて、エアハルトが自分を責めたりしないように――ユファは精一杯の微笑みで答えた。
ユファの笑顔に少し安心したのか、エアハルトが安堵の表情を浮かべる。
「ユファ、ここまで来るの大変だったでしょ?すっごい泥だらけだし、服もビリビリだよ。…そのボロボロの腰布何?そんなの持ってたっけ?」
「あ。えっと、これは……」
駿里のマントについて追及され、ユファは咄嗟にしどろもどろになった。
エアハルトはユファの反応お構いなしと言った様子で、勝手に話を進めていく。一度口を開くと止まらないのは、好奇心旺盛で天真爛漫なエアハルトの特徴だ。
「ねえ、ユファ。ボクやルイス兄さんだけじゃなくて、ババサマも心配してたよ?早く会いに行っておいでよ!」
「う、うん。そうね」
ハメルの里の襲撃と人間に投獄された件は一族にとっても一大事だ。
まずは双翼の民の大長である祖母に説明しなくてはならない。
「ババサマのとこへ行くんなら、案内してあげるよ」
ユファの隣で鼻歌を歌って歩くエアハルトを見ていると、ユファはほんの少しだけ心が軽くなった。
幼少期に暮らした里とはいえ、ヴォルベレーを散策するのは初めてだ。
踏みしめる石畳みの冷たい感触、里全体を柔らかく包み込む大空――。
森に囲まれて閉鎖的だったハメルの里にはない解放感がある。
「ユファ、見てみて!アレがレーベンの大樹さ。立派でしょ?」
「すごい。なんて大きな樹…」
エアハルトに案内されて里の広場に足を運ぶと、双翼の民一族が祀っている御神木『レーベンの大樹』へたどり着いた。
レーベンの大樹は生命と希望の象徴され、樹齢百五十年を数えている。
長い年月に渡り生い茂り続ける緑と太い幹が、ヴォルベレーの里の歴史を物語っていた。
大樹の周囲には円形状の水路が掘られている。
ユファが水路を覗き込んで見ると、水底にキラキラ光る欠片が無数に沈んでいた。
「ヒンメルの石屑だってさ」
「へえ……」
エアハルトがすかさず解説してくれる。
「宝珠の力で、こんなに水が澄みきっているのかな」
水路の水は尽きることがなく湧きだし、里の者達の生活に欠かせない水脈になっているらしい。
「でも、何処から引いて来た水なの?」
「とーさんの話だと、元々ボクらの生活に必要なものは汲み置きした雨水なんだって。雨水がこの水路に溜まると、ヒンメルの石の力でどんどん溢れてくるらしいよ」
ユファは、澄み切った水をそっと手ですくってみた。
――ヒンメルの石。改めて考えると神秘的な力だった。双翼の民は当たり前のように宝珠に頼っているけれど、これだけの至宝なら人間が欲しがるのも無理はないだろう。
中央広場は里の者たちの憩いの場所になっていた。
天気が良くて風が穏やかな気候の日は、そこここに点在している石のベンチに腰掛けてみなで談笑し、集会を開いているらしい。
エアハルトの説明によると、建物は大樹の広場の外側をぐるりと円形状に構っているらしい。
里に住む民の数が減少したため、住居の数自体はそれほど多くないのが現状だ。
白く滑らかな砂岩で創られた石造りの簡素な居住区に、それぞれの家族・親戚などが集まって生活しているようだ。
「さっきから小さい子達も自由に飛び回ってるけど、子供が一人で外へ出てもいいの?」
ユファが周囲を見渡すと、幼い子供たちが数人連れ立って仲良く空を飛んでいる姿を見つけた。
ハメルの里で軟禁されていたユファは両親の監視下におかれていたので、ヴォルベレーの自由な光景が信じられなかった。
ユファの問いを聞いたエアハルトは、きゅっと眉間にしわを寄せる。
「えっと、この里では…。ううん、ヴォルベレーの生活が普通なんだよ。……ユファはきっとババサマの孫だったから…仕方なかったんじゃないかな?」
快活なエアハルトにしては珍しく、ぎこちない口調だ。ユファは釈然としなかった。
「それ……どういう意味、エアハルト?」
レーベンの葉の隙間から、午後の木漏れ日が漏れている。
水路の水にキラキラ反射する光の眩さと裏腹に、ユファは表情を曇らせてエアハルトを見つめていた。
エアハルトはユファの不安に気づいたのか、つとめて明るい声で告げる。
「ババサマに会ってきた方がいいよ。そうしたらユファも納得するだろうし。ババサマ、神殿に住んでるから」
ユファの祖母は、里の東に位置する大神殿に住んでいる。
神殿は里の長と側近しか立ち入りを許されない、神聖な場所だという。
長の孫であるユファでさえ「入り口の門番に許可を取らないと入れないよ」と、エアハルトは教えてくれた。
「ユファ、また明日ね!」
別れ際、エアハルトは頬にえくぼを作って微笑むと、ユファにひらひらと手を振った。そして、まだ若々しく蒼味が強い両翼を広げ、元気に飛び立っていった。
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