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最終章
アンゲルが寮で神話の本を読んでいると『神の子供』の話が出てきた。
誰でも知っている有名な話だ。カーリー神に子供が生まれるが、娼婦である恋人を助けるために悪いことをしたため、女神イライザが怒って『殺してこい』と命じてカーリー神を雷とともに地上に落とす。
子供が殺されると、恋人が悲しんで、それを憐れんだ女神アニタ(管轄区では悪役として登場する)が、『軽率にも』彼女を憐れんで、殺された恋人の魂を彼女に返してあげるのだ。
それがもとで、イライザとアニタの世界は二つに割れたと言われている。
確か、クーが言ってたな。エブニーザが神話の再来とかなんとか……。
考え込んでいると、寮の電話が鳴った。図書館の職員からだった。
『あなたの友達が、奥の資料室で倒れて呻いているから来てほしい』
「エブニーザですか?」
『ええ。女性の方が近づこうとしたら暴れて、突き飛ばされました』
アンゲルは慌てて飛び出した。しばらく起きていなかったエブニーザの発作が、また出てきたのかもしれない。それに、突き飛ばされた女性はエレノアかもしれない。
図書館まで走り、資料室に駆け込むと、やはりそこにはエレノアと、窓の近くの床にうずくまっているエブニーザの姿があった。
低い声でぶつぶつ言いながら、両手で髪の毛をぐしゃぐしゃと引っ掻き回している。どう見ても正常ではない。
「エレノア」
「私が来たときには、もうこんな状態だったの」
ひきつった顔のエレノアが、かすれた声を出した。かなり動揺しているようだ。
「エブニーザ……」
「近寄るな!」
あまりにも大きな叫び声だったので、アンゲルは驚いて後ろに飛びのいた。エブニーザがこんな大声を出すなんて、信じられなかった。
まずいぞ、かなりまずいぞ。
「何があったんだ、説明してくれ」
「僕が殺したんだ」
「は?」
「さらわれた子供たちを、僕が殺したんだ」
……何だって?
「何の話だ?さらわれた時の話か?」
呼びかけてみたが、エブニーザはそれには反応しなかった。何か別のものが見えているかのように、あたりを見回して、手を変な方向に動かした。
「『こいつはどこにいるんだ』『今日はどこを通るんだ』って、毎日聞かれるから、その通りに答えて……」
エブニーザが下を向いて震え始めた。
「どうした?」
アンゲルがエブニーザに近寄ろうとしたが、つき飛ばされた。
「何するの!?」
エレノアが倒れたアンゲルに駆け寄った。アンゲルはうめきながら起き上がった。エブニーザはふらついて、壁に背中をもたれかけさせた。顔色はやはり真っ青で、目が異様に開いている。
「僕が殺したんだ」
「は?」
アンゲルが壁に手をついて立ち上がりながら言った。
「何だって?」
「僕が居場所を教えたから、だから、みんな殺されたんだ」
エブニーザが、弱々しいが、妙にはっきりとした声で言った。
「黙っていれば、殺されずに済んだのに」
「アンゲル……」
エレノアがアンゲルの耳元に近寄ってきた。
「つまり、人さらいは、エブニーザの予知能力を、殺したい相手を探すために利用したってことじゃない?」
「それくらい俺だってわかるよ!」
アンゲルはエレノアを自分の後ろに押しのけた。
「お前が殺したんじゃないだろ!」
「でも、僕が教えたから」
「教えなかったらお前が殺されてただろ!?」
アンゲルがヒステリックな声で叫んだ。
「違うよ」
エブニーザの声が急に低くなった。
「僕が殺したんだ」
「でもそれは」
エレノアがアンゲルを押しのけようとしたが、力が足りなかった。
「あなたのせいじゃない」
「僕があいつらを殺したんだ」
「あいつら?」
「牢獄から逃げ出したから」
エブニーザの声がまた震え始めた。
「でも、つかまった。連れ戻されたら、また誰かが殺される。だから、僕があいつらを殺したんだ。僕を閉じ込めていた奴らをみんな」
アンゲルとエレノアは、その言葉を聞いて動けなくなってしまった。
「それから、どうしたんだ?」
アンゲルがかすれた声で尋ねた。
「確か、ドゥーシンがお前を見つけたんだろ?前にそう言ってただろ?」
「わからない」
エブニーザが両手で髪をぐしゃぐしゃと引っかいた。
「森の中を走って、それからどうしたか覚えてない……気が付いたら、目の前にドゥーシンが」
「それから?」
「アンゲル」
エレノアがアンゲルの前に回った。
「もうこれ以上質問しないほうが……」
「エレノア、下がってて」
アンゲルがエレノアの前に回った。
「それから、どうなった?」
「閉じ込められていた場所に案内しろって」
「それで?」
「一緒にあの牢獄に戻ったんだ。みんな死んでた。別な牢獄に入れられていた子供が、みんな」
「みんな?」
アンゲルが叫んだ。
「だって、お前が殺したのは」
誘拐の犯人だろ?とアンゲルは疑った。
「3人だけだと思ってた。でも違ってた。僕がみんな殺したんだ!」
エブニーザが頭を両手で押さえたかと思うと、ヘイゼルでもかなわないような大声で叫び始めた。
やばい、錯乱してるぞ……。
アンゲルは少しずつエブニーザに近づいていったが、この状況で、自分にできることがあるとはとても思えなかった。
説得するか?でも何て言う?
『落ちつけ』なんて言葉で治まる状態じゃないぞ、もう。
無理矢理押さえつけて寮に連れて帰るか?きっと暴れて大騒ぎだな。俺一人じゃ無理だ。
「エブニーザ……」
エレノアがエブニーザに近づいていく。
「来るな!」
エブニーザがエレノアに向かってナイフを突き付けた。
そんなものを持っているとは、アンゲルは夢にも思わなかった。
「やめろ!エブニーザ!」
アンゲルが叫んで走りだす。エレノアはエブニーザを見つめたまま、動けなくなってしまった。
「近づかないで……お願いします、近づかないで」
エブニーザがエレノアにナイフを向けたまま懇願した。両目から涙が落ちていた。
「もう、誰も、傷つけたくない」
永遠のように長い時間が始まった。
ナイフをつきつけたエブニーザも、つきつけられたエレノアも、エレノアをかばうように前に出てきたアンゲルも、しばらくのあいだ、お互いを見つめたまま、静止画像のように、全く動かなかった。だが、頭の中は三人とも、竜巻に巻き込まれたようにすさまじい勢いで回転していた。しかし、暴風が奏でる音は『どうする?どうすればいい?』を繰り返すだけで、答えをもたらしてくれることはなかった。
無限にも思えるそんな空間を打ち破ったのは、意外な(いや、考えようによっては意外でも何でもないが)人物だった。
「どこまでバカなの、あんたたちって」
高慢な物言いと共に入ってきたのはフランシスだ。もともと釣りあがり気味の目がますますキッと鋭く上がり、口元は忌々しげに歪んでいる。
はっとして彼女の方を見たアンゲルとフランシスを無視して、『シグノーのご令嬢』は、ナイフなんか目に入らないかのように、臆せずまっすぐにエブニーザに近づいていき、
ゴッ!
エブニーザの顔を右ストレートで勢いよく殴り倒した。
「フランシス!」
「エブニーザ!」
エレノアが叫ぶのと、アンゲルが倒れたエブニーザに駆け寄ったのがほぼ同時だった。
「エブニーザ!?」
アンゲルがエブニーザを抱き起して呼びかけたが、完全に意識を失っていて、反応がない。
「おやおや、物騒なものが転がってるな」
ヘイゼルも入ってきて、床に転がったナイフを拾い上げた。
「弱虫ほど凶器を持ち歩くって言うわよね」
「フランシス!」
「何考えてんだお前!」
エレノアとアンゲルが同時に怒鳴った。
「いいじゃないの、あのままずっとグダグダと泣き言を聞かされるよりは。それにしても」
フランシスは、腕を組み、半ば振り返るようにして軽蔑したまなざしをエブニーザに向けた。
「何を期待してこんなことするのかしらね?」
吐き捨てるようにつぶやく。
「ばかばかしい」
「ばかばかしいだって!?お前こそ何にもわかってないんだよ!」
アンゲルがすさまじい声で怒鳴り始めた。
「こいつが体験したことはな、俺らの想像をはるかに超えてたんだ。簡単に忘れたり、乗り越えたりできるようなことじゃなかったんだよ!」
「だからって、学校の中で暴れてもいい理由にはならないわよ」
フランシスはこんなときにも情け容赦がない。
「一人で深刻ぶってたって、他人にとってはお笑い草だわ」
「フランシス!」
「おいおい、何が起きたのか俺にも説明してくれよ、意味がわからん」
ヘイゼルがいつもの調子でアンゲルに話しかけた。アンゲルがきつい目でヘイゼルを睨みつけた。
「例のドゥーシンだか何だか知らないが、友達の話をしていたんだよ。そしたら急に苦しそうにうめきだした。何か悪いことを思い出したのかと思ったら『僕がみんな殺したんだ』って言いだした」
「殺した?誰を」
「人さらいだよ!あいつを監禁していた奴らさ、皆殺しにして逃げてきたんだ」
「まさか」
「私も信じられないけど、エブニーザがそう言ってたのよ」
「……それこそ妄想じゃないのかね」
ヘイゼルでさえ信じがたい話らしい。
「こんな、ささいな物音で怯えてる奴が、そんなことできるものかな……いや、わからんな、人間追いつめられるとどんな変なことをしでかすかわからんからな……」
「そんなこと言ってる場合か!?」
「俺に怒るなよ。悪いのは人さらいだろう?管轄区が悪いんだろ?」
「うるさい!」
叫びながらも、アンゲルはわかっていた。それが管轄区だ。女神イライザを中心に、教会が支配しているあの国では、未だに、理不尽なことばかりがまかり通っている。
そんなやり取りの中、エレノアはじっと黙ったまま、アンゲルとエブニーザを見つめていた。
エブニーザ、こんな状態で、これから生きて行くことができるのだろうか?
エレノアはふと、エブニーザが『自分は30代で死ぬ』と言っていたことも思い出した。
きっとその予言は当たるだろう。今のような状態から脱しきれない限り、下手したらあと数年も生きていけないかもしれない。
そして、はっと気づいた。
じゃあ、アンゲルが患者に刺し殺されるっていうのも、本当に?
アンゲルとヘイゼルは、二人でエブニーザを部屋のベッドまで運んだ。
「目が覚めないほうが、幸せかもしれないな」
ヘイゼルがソファーにふんぞり返って、横目でエブニーザの部屋のドアに視線を向けながら、そんなことを言った。
「だよね」
アンゲルも反論しなかった。前にも同じことを考えたことがあるからだ。
エブニーザが発した言葉をひとつひとつ思い出しているうち、あることに気づいた。
変だな。人さらいは子供をさらってくんだろ?どうして人殺しなんかやってるんだ?
それに、エブニーザとドゥーシンが牢獄に戻った時、一緒に監禁されていた子供まで殺されていたって?
エブニーザか?違うよな?
エブニーザが誰かを殺したとしても(事実だとは思いたくないが)自分を人殺しに利用していた数人だけじゃないのか?
「他の子供を殺したのは、誰なんだ……?」
アンゲルがひとり言をつぶやきながら悩んでいると、ヘイゼルが、
「ドゥーシンさ」
と言った。驚いたアンゲルがヘイゼルを睨むと、
「だから犯罪組織だって言っただろ?」
ヘイゼルはどこか悲しげな顔をしている。
「ドゥーシンは、殺し屋なんだ。エブニーザは本当に運が悪い。悪い奴のところから逃げられたと思ったら、そんな奴に拾われちまうんだからな」
「……今、何て言った?」
「何度でも言ってやるよ、清く正しい教会っ子め」
ヘイゼルが身を乗り出して、アンゲルの目をダイレクトに睨んだ。
「管轄区の支配者シュタイナーは、殺し屋を大量に雇ってる、その中の一人がドゥーシンだ。エブニーザが気を失っている間に、先に牢獄を見つけて、中にいた人間を血祭りにあげたのさ」
アンゲルは驚愕のあまり声が出なくなった。全身の血が蒸発して乾ききったような、引きつった感触がした。
確かに、シュタイナーが殺し屋を雇っているという噂は聞いたことがあった。
「でも、でも」
アンゲルがやっとのことで、弱い声を出した。
「その、突拍子もない話が本当だとしても、何で、何で、子供まで殺す?」
「突拍子もない?まだそんなこと言ってんのか?それがシュタイナーのやり方なんだよ。生き残った子供を助け出したとして、どうなる?両親はもう殺されている。犯罪に利用されていたのはエブニーザだけじゃない。国内でそんな問題が起きているなんて、公にしたくないのさ。邪魔なものは容赦なく一掃するのが管轄区のやり方だろ?俺はむしろ、エブニーザが生き残れたことのほうが不思議だね。利用できるうちはいいが、邪魔になったらあいつだって簡単に抹殺されるだろうよ!」
「嘘だろ?」
「俺が嘘なんかついたことがあるかな?」
「いつも何でも大げさに誇張して話してるだろ!」
「おーそうかそうか。人がせっかく『金持ちの機密情報』を漏らしてあげているというのに、そんな口を聞くんだな?言っとくが、エブニーザだって何人か殺してるんだぞ?管轄区の法律じゃ、殺人は即死刑だろ?シュタイナーがその気になれば、いつだってあいつをつかまえて処刑することができるのだぞ?そうしないのは何か理由があるからだ。きっと俺と同じだ。天才だから利用価値があると判断したのさ」
「お前、絶対話作ってるだろ?」
アンゲルが弱々しい声で反論した。
「そんな、そんなこと、ありえない。絶対あり得ない」
そう言いながらも、アンゲルの頭の中で、何かが確実に崩れ落ちていた。
自分が生まれ育った国に対する、そして、女神を信じていないとはいえ、かつて、心のどこかでは、絶対の信頼を置いていた、あの国の存在そのものが。
「誰がこんな話作るか!!!」
ヘイゼルが、窓が揺れるような大声で怒鳴った。
「俺だって信じたくないさ!しかもエブニーザはまだドゥーシンを友達だと思ってるし、シュタイナーのじじいのところに帰るとか言ってるんだぞ!」
「だって、そんなの、悲惨すぎるだろ!」
アンゲルが半ば泣きながら叫んだ。
「どうすりゃいいんだよ!」
「俺に聞くな!お前教会っ子だろ!お前が考えろ!」
「そんなの俺にわかるか!」
アンゲルがヘイゼル以上の大声で怒鳴った。
「相手がシュタイナーなんだぞ?お前どうにかできないのか?シュッティファントはイシュハでは一番権力があるんだろ?」
「無理だね。資産だけ見ても10分の1以下だ。桁が違うのさ。シュッティファントはただの金持ちで、人望ははっきり言ってゼロだ(俺を見ればどんな連中かわかるだろ?)。シュタイナーは教会を操って、管轄区の全国民に慕われている。影響力が全然違うだろ?」
相手が悪すぎる。
アンゲルは心の底から恐ろしくなってきた。
背筋に冷たいものが走り、その冷えた感触がなかなか去ってくれない。
「『女神なんか認めない』」
アンゲルはいつかのエブニーザの発言を思い出した。
「そりゃ、認めないだろうな」
俺だって信じてないけどな!それにしてもここまでひどいとは!
「イシュハに連れて来て正解だったろ?」
ヘイゼルが急に偉そうにそんなことを言い出したので、アンゲルは、
「そんなこと自慢してる場合か!!」
と、男子寮全体に響き渡るような声で怒鳴った。二人の言い合いは一晩中続いたが、どちらも何の解決策も見いだせなかった。騒ぎを聞きつけてまた職員が注意しに来た。
明け方には二人とも、ぐったりとソファーに沈み込んでいた。
「なあ」
アンゲルが弱々しい声でヘイゼルに向かった。
「お前が最初にエブニーザに会ったとき、本棚の前から動こうとしなかったって言ってたよな?」
「図書資料室の一番奥の本棚の前の席からな」
ヘイゼルがぼんやりした目で宙を見つめながら答えた。
「まる一年、いや、俺が見つける前からだから、もっとだ」
「あいつが外に出ようとしなかったのは、まわりが怖かったからじゃなくて、自分が怖かったからじゃないかな?」
ヘイゼルは何も答えずにぼんやりしている。
「自分がまた誰かを殺してしまうかもしれない、誰かに利用されるかもしれない。それが怖くて、人を避けるように部屋にこもってたんじゃないかな?」
「なんだ、心理学か?」
ヘイゼルが顔をしかめてアンゲルを睨んだ。
「もうそんなのはうんざりだ。シュッティファントも心理学も、あいつを救えないよ。いいかげん認めろ」
「嫌だね。死んでも認めない」
アンゲルがヘイゼルを睨みつけた。
「俺だって、自分にできないことがあるなんて認めたくないんだ」
ヘイゼルは心底うんざりした顔で目を閉じ、それ以上何も話そうとしなかった。
朝。
目覚まし時計が鳴っている。それも大量に。
起きなきゃ、とエレノアは心だけでうめいていた。しかし、体が全く動かない。何かで縛られているみたいだ。重い。
「ちょっと!いいかげん起きなさいよ!」
フランシスがドアを蹴りながら叫んでいる。
「もう十分以上鳴り続けてるわよ!うるさいっつの!」
「ちょっと待って……」
やっとのことで絞り出した声。エレノアは少しずつ目ざめ、そして少しずつ、昨日のことを思い出した。エブニーザにナイフを突き付けられて、フランシスがそのエブニーザを殴って……。
エレノアが起き上がり、たくさんの目覚まし時計をすべて止め終えたのは、さらに三十分ほど経ってからだった。
寝ぼけた顔でドアを開けると、フランシスはいなくなっていた。テーブルの上に、
『先に食べてるわよ!!』
と乱暴な字で書かれたメモがあり、おそらく投げ捨てられたのであろうと思われるペンが、床に転がっていた。
朝食……食べる気しないわ……。
椅子に座り、ぼんやりと窓の外を見つめる。快晴、雲ひとつない。いつもなら嬉しいはずの良い天気。でも、今はこの空の果てしなさが、朝の静寂が、どこか空しい。
エブニーザのことを思い出す。
過去だけでもあんなに過酷なのに、未来にも苦しめられている。
しかもその未来は、自分にしか見えない。
誰にも信じてもらえない。わかってもらえない……それは、そうとうな苦しみだったろうなと、今頃になってエレノアは理解した。もう遅いかもしれないが。
そしてアンゲルのことを思い出した。エブニーザにナイフを突き付けられた時、ためらわずに自分の前に立ちはだかって、守ろうとしてくれた……。
エレノアはしばし、昨日のことを思い出しながらぼんやりしたあと、おもむろに部屋に戻り、お気に入りのワンピースに着替え、ばっちり化粧をして、外に出た。
快晴で日が照っているが、気温は低い。エレノアはくしゃみをした。スカーフを巻いて来るんだった。喉をいためては歌が歌えない。
でも戻る気がしなかった、一直線に図書館に向かい、奥の通路をまっすぐに歩く。
向かっているのは、あの資料室だ。
そこには、エブニーザがいた。
いつものように、何もなかったみたいに、怪しげな古代の本を読みふけっている。
エレノアは入口から、しばらくその様子を見ていた。話しかけるべきか迷った。もしまたパニックを起こして、昨日のようなことが起きたら、自分一人で対処できるのだろうか?
……いや、誰が来てもエブニーザに対処なんてできないだろう!
エレノアはそんなことを思って天を仰いだ。
どこかにいるという夢の『女の子』は、いつかこの、救いようもなく不安定な少年を支えてくれるのだろうか?
そんなことができる人間がこの世にいるとは、エレノアには思えなかった。
そうだ、たった一人の人間に、自分の弱さすべてを支えてもらうことなんて、できないのだ。一人の人間が正気を保ちながら生きて行くためには、何人も仲間が必要で……そのうちの、基本になる家族や、いざというときに頼れる人間が、エブニーザには常に欠けている。
エレノアは彼の不幸を思い、そして、常に家族に守られていた自分の幸運を思った。
立ち去るか、中に入っていくか。
迷った末に、エレノアは中に入っていくことにした。
何か起きたら走って逃げようと思いながら。
「エブニーザ?」
エレノアが声をかけると、エブニーザがびくっと全身を震わせて、おそるおそる、ゆっくりとエレノアの方を向いた。
「あの……」
エブニーザが不思議そうな顔でエレノアを見上げた。
「あんなに、ひどいことをしたのに、どうして話しかけてくるんですか?」
「ひどいこと?」
エレノアはわざと、白けた顔で気取った声を出した。
「ああ、そうね、人にナイフなんか突き付けちゃいけないわね……」
エブニーザがまた、びくっと身体を震わせた。
「でも、あなた『誰も傷つけたくない』って言ってたじゃない?その『誰も』には私も入っているでしょう?だからもういいの。過ぎた事は……いいことを教えてあげるわ」
エレノアは、エブニーザの目をまっすぐに見た。
そして思った。
みんな心配してるってことが、このほとんど色のない目に、ちゃんと伝わればいいのに。
「過去も未来も、関係ないの。辛い目に会っても、犯罪者でも、何か思い出したくないことにさいなまれていても、逆に、病気で未来がなくても、寿命のほとんど残っていないお年寄りでも、同じなの。そんなことどうでもいいの。私は旅先で色々な人に会ったから、はっきり言えるわ。過去も未来も関係ない……大事なのは、今よ。今、こうやって、あなたとちゃんと向かい合って話ができているってことなの」
エレノアはエブニーザの目を見つめ続けた。エブニーザも目をそらさなかった。ただ、エレノアが伝えようとしたことがちゃんと心に届いたのかは、わからない。表情がまるで変わらないからだ。ずっとぼんやりした顔をしている。何かを見ているようで、何も見えていないような……。
「みんな心配なの、あなたが。エブニーザ。あなたが誰かを傷つけてしまうって心配しているのと同じ。みんな心配なの、自分があなたを傷つけているんじゃないかって。周りを傷つけているんじゃないかって」
「ヘイゼルは?」
「ヘイゼル……」
エレノアが笑顔のまま顔をしかめた
「確かに自分の事しか考えていないように見える……でも、誰にも興味がなかったらあんな変なことばかりしないわよ」
「そうですね」
あいかわらず無表情だ。
「ねえ」
エレノアが少し後ろに身を引いて、言った。
「アンゲルが刺されるって、私に話したでしょ?」
エブニーザの表情が少し動いた。ほんの少しだ。エレノア以外の人間なら気がつかなかっただろう。
「どうして私に話したか、考えてたの……あなた、私の未来が見えたのね?」
エブニーザが瞬きして、驚きと不安が混じったような顔でエレノアを見た。
「アンゲルの近くに、私がいたのね?」
エレノアが笑った。エブニーザは困ったように目をきょろきょろと動かして顔をそらせた。秘密を暴かれてあわてているような様子だ。
「言っちゃいけないと、思って、黙ってたんです」
顔をそらせたまま、エブニーザが言った。聞こえるか聞こえないか、すれすれの小さな声で。
「やっぱりそうなのね?」
「僕が見ている未来では」
エブニーザがエレノアの目をまっすぐ見た。珍しいことだ。
「アンゲルとエレノアは、いつも一緒にいるんです」
「……そう」
思った通りの答えだった。
エレノアは深呼吸して、気を鎮めようとした。
「だから、僕が二人の近くにいると邪魔になる」
「なぜ?」
「なぜって……」
「だから、私を避けたの?ヘイゼルの別荘でも……」
エブニーザは気まずそうに、視線を窓の外に向けた。
「……それ、変よ。友達でしょう?二人とも」
「でも……」
エブニーザは何か言いたそうにしているが、ためらっているようだ。
「もうそんなことする必要ないわよ、わかった?」
エレノアは笑って、ドアを開けた。
「私、歌のレッスンがあるから、また明日ね」
「明日……」
エブニーザは少し考え込んでいたが、
「そう……そう、だね」
ぎこちなく笑った。ひさしぶりの笑顔だ。
「また、明日」
エレノアも微笑みを返して、部屋を出た。
レッスンがあるなんて、嘘よ。
エレノアは、ドアにもたれて、深く息を吐いた。
ああ、これからどうしよう?
いや、やらなければいけないことはもうわかっている。
でも。
エレノアはしばし、その場にとどまって考えていたが、そのうち、意を決したように歩き出した。
図書館のカフェ。
アンゲルは本を眺めながら悩んでいた。一晩中起きていたのに全く眠気が起きないのだ。
やっぱり管轄区はおかしい。大学を出て医者の資格を取ったら、管轄区に戻らずにイシュハにとどまるか……でも、あの国はどうなるんだ?誰かがなんとかしないといけないんじゃないか?でも、肝心のシュタイナーがそんな恐ろしいことをしているなんて……。
アンゲルは、シュタイナーとイライザ教会を慕う自分の両親や、地元の友達、近所の人……などのことを思い出していた。
みんな、何も知らないんだな。
俺はもう前みたいに彼らを尊敬できない。でもどうすればいいんだろう……?
立ち向かうには相手が悪すぎる……。
「アンゲル」
アンゲルが顔を上げると、エレノアが立っていた。
「きのう、眠れなかった?」
「まあね」
アンゲルが困ったように笑った。
「帰ってから、ヘイゼルにとんでもないことを聞かされて……」
「とんでもないことって?」
「いや、ヘイゼルの作り話かもしれないんだけど……本当だったら、俺は故郷を失うかもしれないな」
「……どういう意味?」
アンゲルは、昨日ヘイゼルに聞いたとおりの内容をエレノアに説明した。
エレノアもショックを受けたようだ。しばらく、運ばれてきたコーヒーに手をつけず、じっとカップを見つめながら無言で何か考えていた。
「それが、本当なら」
ようやくエレノアが、とぎれとぎれに話し始めた。
「犯罪よ。国家的犯罪じゃない?もしかして、人さらいも教会のしわざなんじゃ」
「それは考え過ぎだ……でも、それでも大して悲惨さに変わりはないな」
アンゲルが遠くを見つめる、カフェでくつろいだり、友達とおしゃべりしている学生を眺めているようだ。
「俺はもう、ああいう平和な学生には戻れそうにない」
アンゲルが寂しげな笑いを浮かべた。
「たかが『心理学』のために変な連中には襲われるし、家にも教会のお偉方がやってきたっていうし。そのうえ昨日のエブニーザの話だろ?管轄区って国の実態が、わからなくなってきた。もう信用できないんだ。親も友達もいて、俺のほとんどの人生があそこにあるのに……。でも」
アンゲルがエレノアの方に向き直った。
「もう帰れない。少なくとも、ホームに帰るっていう感じじゃない。永遠にアウェイになったような気分だ。昨日一晩中悩んだ。大学を卒業したら俺はどこへ行くべきか。イシュハに残ろうかとも思ったけど……資格を取ったら、管轄区に戻ろうと思うんだ」
「戻る?」
「あの国を変えたいんだ」
「変える?」
「相手が最高権力者じゃ、できることなんてないけど。底辺にいる困った人間を助けることなら、できると思う。未だに何万人も餓死してる国なんだ。ちゃんと資格を持った医者になって、治療を始めてしまえば……そうすれば、今は理解されていなくても……」
「アンゲル……」
「ああ、ごめん。また俺がしゃべりすぎた。そうだ、エブニーザのことが聞きたいんだろ?今朝見た時はまだ目覚めてなかったけど……」
「さっき会ったのよ」
エブニーザじゃなくて、あなたの話がしたかったんだけど……とエレノアは思ったのだが、聞かれたことには答えることにした。
「そうなの?」
アンゲルは驚いたようだ。
「てっきりまだ寝てるのかと思ってた。どこで?」
「図書館のいつもの場所」
エレノアが冷めたコーヒーを口にして顔をしかめた。
「またパニックを起こすんじゃないかって怖かったけど、話しかけてみたら、静かだったわ。まるで昨日何もなかったみたいに」
「そうか」
「エブニーザは、これからどうするの?」
「恐ろしい話だけど、本人はシュタイナーを慕ってるんだ。殺し屋を雇うような男だって知ってるはずなのに」
「でもそれじゃ……」
「俺が考えたのは、①ヘイゼルに頼んで、シュッティファント家の全力を使ってエブニーザをシュタイナーから引き離す」
「ヘイゼルにそんなことできる?」
「シュタイナーに対抗できる人間がいるかって考えたら、シュッティファントかシグノーしか思いつかないんだよ。それでも資産は10分の1以下だって言ってたけど」
「できるの?」
「ヘイゼルは『無理だ』って言ってたね。おかげで一時間も無駄に怒鳴り合いだ」
「他の手段は?」
「②エブニーザ本人に、シュタイナーと関わらないように気をつけてもらう」
「できるの?」
「俺はできると思う。経済的に自立するだけなら今でも出来てるんだ。予知能力で儲けてるから。問題は、本人がシュタイナーを慕ってることと、シュタイナーのほうからもエブニーザに近寄ってくるってことなんだよ」
「あとは?」
「③行方をくらまして、誰にも知られていない国に亡命してもらう。クーに頼んでノレーシュにかくまってもらうとかね。タフサ・クロッチマーはイシュハ国籍を取って、実質亡命してるんだ。他にも、教会から迫害されて逃げた奴はたくさんいる……これは最近調べて初めて知ったんだ。俺は本当に、自分の国のことを何も知らなかった……」
「あとは?」
アンゲルがさらに沈んだ顔をしたので、エレノアはあわてて次を促した。
「④妄想の女の子に出て来てもらって『あなたは一人でも生きていけるわ。シュタイナーとは縁を切って』と言ってもらう」
「冗談でしょう?」
エレノアが苦いものでも噛んだような顔をした。
「半分冗談で、半分本気」
アンゲルがにやけながら顔をしかめた。
「妄想だとしても、エブニーザが一番影響を受けてるのがその女の子なんだよ。彼女が本当に存在してたら、思うがままエブニーザを操れるだろ?シュタイナーなんて吹っ飛ばせる」
「本気?」
「本気。本当に好きな女の子のためなら、男は無謀なことを平気でするもんなんだよ」
「アンゲルもそうなの?」
エレノアが真面目な顔で、アンゲルの目を覗き込んだ。
アンゲルはエレノアの青い、澄んだ眼から視線をそらせなかった。
しばらく無言で見つめ合う二人。
「あー」
先に目をそらしたのはアンゲルだった。真っ赤になって横を向く。
「まあ、そう、そうかもね。……とにかく、エブニーザにはこれ以上余計な苦労をしてほしくないと思わない?」
「そうね」
エレノアはがっかりしながら答えた。私に何か言ってくれると思っていたのに!
「昨日の殺しの話だって、あいつのせいじゃない。俺だって同じ立場だったら……」
アンゲルが暗い顔でうつむいた。エレノアも、これ以上何かを質問する気分にはなれなかった。気持ちを伝えたいと思っていたのに、言い出せなくなってしまった。
国の問題、権力の問題、犯罪、過去……。手に負えないことばかりだ。
ヘイゼルがクーに電話をかけた。権力者同士の直通電話があるのだ。
昨日起きたことを説明すると、クーは、
『エブニーザに代われ』
と、誰も逆らえない強い口調で命令した。
エブニーザに代わると、クーは、あいさつもせずにこう言いだした。
『お願い、もうシュタイナーとは関わらないと約束して』
「……どういうことですか?」
『危険だからよ。居場所がないならノレーシュにいらっしゃい。国賓待遇で歓迎するわ』
「クー」
エブニーザが困った顔をした。
「気持ちは嬉しいですけど、それは無理ですよ。今僕がノレーシュに行ったら、彼女に会えなくなる」
『死んだらどっちみち会えなくなるわよ!仲良くするならシュッティファントにしなさい。シュタイナーはダメ!管轄区にももう帰らないで!イシュハ国籍を取るのよ!』
「わかりました」
エブニーザは、そこで電話を切ってしまった。そして、ヘイゼルが白けた顔で自分を見つめているのに気がついた。
「何ですか?」
「いや……」
ヘイゼルが言いにくそうに口をもごもごさせた。
「お前、首都に来る気ないか?シュッティファントの本家には空き部屋がたくさんあるぞ」
「首都?ああ、あの家ですか?どうして」
「いや、大学を出たらの話だけどな」
「イシュハにはいられないよ」
とエブニーザはうすく笑いながらつぶやいた。悲しげに。
「見えるもの……」
「見えるって何だ?言っとくが、管轄区には帰さんぞ」
「無駄ですよ」
「うるさい。とにかく帰さん」
ヘイゼルが部屋に戻ろうとすると、
「どうして僕が、彼女を探していると思います?」
エブニーザは、ヘイゼルに向かって叫んだ。ヘイゼルが立ち止まる。
「もともと彼女は、公務員の両親と妹さんと、管轄区の首都で、幸せに暮らしていたんです。でも、ある日、人さらいが、両親を殺して、妹さんだけ連れ去ってしまった。一人残された彼女は、娼館にひきとられてしまったんです……ぜんぶ僕のせいですよ」
「なんでお前が関係あるんだよ」
「彼女の両親の居場所を、人さらいに教えたのが、僕だからです」
ヘイゼルが驚いてふり返ると、エブニーザは何の感情も表わさない顔をしていた。
まるで人形のような。
ヘイゼルはぞっとした。
「それは……どういう意味かな?」
「知らなかったんです。あとからわかったんですよ。僕が居場所を予想した『目障りな管理職』の中に、彼女の父親が含まれていたって。もし知ってたら……」
エブニーザが下を向いた。
「たとえ殺されても、教えなかったのに」
ヘイゼルが悲痛の顔でエブニーザを見た。あの高慢なヘイゼル・シュッティファントが、こんな表情をすることは、今までもなかったし、今後もおそらく、ないだろう。
「だから、僕はいずれ罰を受けなきゃいけないんだ……」
「アホ」
ヘイゼルがかすれた声で言った。
「お前が教えなくたって、管理職の家なんかいずれ誰かが見つけたさ。簡単にな。そんな気弱なことをつぶやいている暇があったら、その女を探せ。いくらでも協力してやるよ。でもお前はイシュハを出るな。管轄区を探したきゃ、アンゲルを送り込めばいいだろ?」
エブニーザが顔を上げて苦笑いした。
「また本人に聞かないで、何もかも決めてますね」
「俺はシュッティファントだぞ?人の許可なんていらん」
ヘイゼルが攻撃的な目でエブニーザを睨み、高慢に指を指した。
「お前も逆らうな」
ヘイゼルは部屋に入り、乱暴にドアを閉めた。
「何とかならないのかな、あの性格……」
しばらく下を向いて目を閉じ、考えたが、
「ならないか……最期まで」
エブニーザはつぶやきながら顔を上げ、寂しそうに笑った。
エレノアは学校を辞める決意をした。正式にオペラハウスに所属し、首都の本拠地へ移住することになった。つまり、このアルターという街ともお別れだ。
アンゲルにそのことを話すと、
「そうか、やっぱりそうか……よかったね。でも、寂しくなるな」
「一生会えないわけじゃないでしょう?」
エレノアは笑った。
「知ってる?オペラハウスの第二の拠点が、管轄区の教会本部の近くにできるのよ?」
「それは、まあ、そうだね」
俺の町に住んでたやつは誰も、首都に行く余裕なんかないんだよ。遠いあこがれの地でしかないんだ。
アンゲルは心の中でつぶやいた。
「芸術は万国共通なの」
二人はしばらく黙りこんでいたが、エレノアが急に、
「大丈夫よ。未来では、私たちはいつも一緒にいる」
と言った。
アンゲルははっとしてエレノアを見る。エレノアの顔は真っ赤だ。
「それは……どういう意味」
「私に聞かないで」
微妙な空気が二人の間を流れた……。
「ねえ、アンゲルはエブニーザの話を信じていないでしょう?でも私は信じるわ。どうしてだと思う?」
アンゲルは黙ってエレノアから目をそらした。答えを聞くのが怖かったからだ。
「『未来では、アンゲルとエレノアは、いつも一緒にいる』」
エレノアが、歌うように、いつか言われた予言を口にした。アンゲルがはっとしたように、視線をエレノアに向けた。二人の目が合った。
「そう言ったから。私も、そうだったらいいなって思っているから」
エレノアの目が潤んだ「あなたと一緒にいたいけど、夢も追いたい。歌わないと生きていけない」
エレノアは突然立ち上がると、事態を理解できずに呆然としているアンゲルを置いて、走って逃げてしまった。
「待て!待って!何だよ!なんで逃げるんだよ!」
我に返ったアンゲルは、あわててあとを追いかけた。今しがた言われたことがまだ信じられなかった。
今のは本当か!?本当に俺と一緒にいたいのか!?
「エレノア!」
アンゲルは全力で走ったが、残念ながら、広場前の交差点でエレノアの姿を見失ってしまった。何も知らない通行人が、荒い息でうずくまっているアンゲルを、怪訝な目で眺めていた。もちろん本人はそんなことを気にしている余裕はない。
奇跡だ。これは奇跡だ!
でもなんで逃げるんだよ!?
「いったい何をしている」
不機嫌な暗い声が聞こえた。振り返ると、管轄区コミュニティーのリーダーが、冷たい目つきでアンゲルを見下ろしていた。手には黒い表紙の聖書を持っている。
「いや、ちょっと……運動で」
アンゲルはまだうまく息ができなかった。よろよろと立ち上がり、寮の方向に向かって歩き出したとき、
「本当に医者とかいうものになる気か?」
振り返り、相手の顔を見て、アンゲルは恐ろしくなった。リーダーの表情は敵意に満ちていて、まるで『異教徒』を見ているような顔だ。
アンゲルは迷った。てきとうにごまかすか、正直に言うか。
「どうなんだ?」
「あなたには関係のないことです」
アンゲルは静かな口調で言うと、また彼に背を向けて歩き出した。
「生きて国に帰れると思うなよ」
後ろからさらに声がしたが、アンゲルは立ち止まらなかった。
そんなことは言われなくてもわかってる!
そしてすぐ、エレノアのことを思い出したが、先ほど感じた奇跡のような感覚は消えていた。自分の立場を思い知らされたからだ。
こんな危険な立場の人間とつきあったら、エレノアも危なくなるかもしれない……。
でも、どうしてこんなことになるんだ?
「要するに、何もする気はないと言いたいのかな?」
ヘイゼルはめずらしく弱気な声を受話器に向けていた。なぜかというと、電話の相手が父親のシュッティファント氏だからだ。エブニーザをこちらで保護できないかと頼んでいたのだが、
『何もできない、というのが正しい』
父親の返答は厳しいものだった。
『シュタイナーに反抗するのはシュッティファントでも難しい。それに、人さらい云々は外国の問題だ。口出ししないほうがいい。いいか、あの国は闇の部分が相当に深いぞ。下手に恨まれると何をされるかわからん。管轄区は法が整備されていない。殺し屋を放たれる可能性だってあるんだ。イシュハとはわけが違う』
ヘイゼルは受話器を乱暴に壁に叩きつけた。ソファーにどかっと座り込み、しばらく考え込んでいたかと思うと、突然起き上がって部屋を出た。そして、寮の事務室の窓口に近づいた。窓口の職員は新聞を読んでいて、入ってきた客には気づいていないようだ。
「ちょっと相談があるんですけど」
「え?はい、なんですか……!」
窓口の職員が顔を上げ、ヘイゼルを見た途端、固まった。
「エブニーザのことなんですが」
「は、は、はい、どうかした?」
職員の声が震えていた。後ろにいたほかの職員も全員が驚いていた。
あのヘイゼル・シュッティファントが、丁寧な言葉で控えめにしゃべっている!
「なんか企んでるんじゃない?」
奥にいた職員が小声でつぶやいた。
「あいつは成績がいいから、次のタームからカレッジに行くことになってるんですが、まだ精神不安定で、一人で暮らすのはまだ無理だと思うので、この寮にとどめておけないでしょうか」
職員はしばらく、ポカーンと口を開けたまま黙っていたが、後ろの職員にペンで肩をつっつかれて、あわてて説明を開始した。
「残念だけど、それは無理なんですよ。ここはあくまで上級までの生徒が暮らすところでね。カレッジの寮は別にあるんだ。そこに入ってもらうか、自分で部屋を探してもらうしかない。ルームメイトを探してはどうかな?」
絶対に何か言い返してくるに違いない、と全職員が見守っていたのだが、
「わかりました」
ヘイゼルは、おとなしくそう返答すると、事務室から出て行ってしまった。
「おいおいおい」
事務局長が席から立ち上がって窓口に近づいてきた。
「何だ今のは」
「今日、シュッティファント家で何かあったか?ニュースは?」
「別に、いつも通りどっかを買収したとかいうのだけですよ」
「ハリケーンでも上陸するんじゃないか?」
「いや、地震が来るぞ」
「缶詰を買い込んでおかないと」
「ミネラルウォータを大量に注文しろ」
「お前の家にシェルターあるだろ、うちの家族も入れてくれ」
「そんなスペースねえよ」
暇を持て余していた職員たちが、一斉に騒ぎだした。
「ポートタウンにいい家を見つけたんです。管轄区側だけど、ポートタウン内は自由に移動できるから、イシュハに住んでるのとそんなに変わりませんよ。二階建ての屋敷で、一人で住むには大きすぎるけど、魔術的に立地のいいところで……」
希望が通らずにがっかりしていたヘイゼルに向かって、帰ってきたエブニーザは、平然とこんなことをしゃべりだした。
なんだ、成長してるじゃないか。
「魔術?管轄区側?アホか!」
ヘイゼルはエブニーザの手から物件情報を取り上げた。
「もっとまともな家にしろ!」
「ダメです!そこじゃないとダメなんです!返してください!」
逃げ回るヘイゼルを追いかけるエブニーザ。そこにアンゲルが、ぼんやりした顔で帰って来た。昼間のエレノアの言葉を思い出して、どういう意味なのかずっと考えていたのだ。
「どうかしたんですか?」
エブニーザが尋ねると、アンゲルはソファーに座りこんで両手で顔を覆いながら、
「わからん!意味がわからん!わからない!」
と大声で叫び、また立ち上がって外に出て行ってしまった。
「何か変なものでも食ったのかな?」
ヘイゼルが物件情報を抱えたままつぶやいた。
次の日。眠れなかったアンゲルがぼーっとソファーに座っていると、エブニーザが部屋から出てきた。彼らしくなくニヤニヤと笑っていて、機嫌がよさそうだ。
「どうした?」
「なんでもありません。電話を使います」
「誰に?」
「クーですよ」
「クー!?」
アンゲルは疑問の声を上げた。
「女王にここから電話すんの?」
「ヘイゼルが無理やりつながるようにしてくれたんですよ」
「……あいつ本当にやりたい放題だね」
アンゲルは、エブニーザが電話で話す内容を聞いて、どうして機嫌がいいのかわかった。
「あそこには昔、蛍がたくさんいたんですよ。でも水質汚染でいなくなってしまった。なんとかしてまた蛍を呼び戻そうと、住民が水の浄化費用を集め始めたんです。僕も寄付したんですよ」
『どうして突然そんなことする気になったの?』
「彼女に蛍を見せるんですよ」
『彼女に?』
「二人で並んで、暗闇の中を光が飛び交うのを見るんです。いや、僕はもう見たんですよ!」
『予知?』
「そうです……僕らは会えるんですよ!もうだいぶ大人になっていたけど……」
なんだかよくわからないが、夢の彼女が変化しているらしいな、とアンゲルは思った。
みんな変わっていくな……ヘイゼルも最近は(前よりは)静かだし、エブニーザとフランシスはカレッジに行くし(この二人が一緒っていうのが心配だが)エレノアも遠くに行ってしまう……。
エレノア。
そうだ、行ってしまったら……もう会えなくなる。
オペラハウスの公演を見に行けば、姿は見えるし、歌も聞けるだろうけど、今までみたいにカフェで話すことはできなくなる……。
遠くから見るだけの存在になってしまう……。
アンゲルはしばらく考えていたが、突然立ち上がり、外に出て行った。
アンゲルは、エレノアを探しに図書館のカフェに行った。しばらく席で本を読みながら待っていると、エレノアが現れたが、アンゲルがいるのを見て気まずそうな顔をした。
「やあ!エレノア!」アンゲルはわざとくさく明るい声を上げた「エブニーザの彼女がまた夢に出てきたらしいよ。あいつらは無事に出会えるらしい」
「ほんと?」
アンゲルは、エブニーザが電話でしゃべっていた内容をそのまま伝えた。
「ほんと?よかったわね。いつか彼女に会えるのね?」
「今度ばかりは、妄想じゃないことを祈るよ」
「まだそんなこと言ってるの?」
「あいつには悪いけど、未だにその『予知』っていうのが信じ難くてね、なんせ俺は『患者に刺される』だろ?」
「ああ……そうね」
エレノアは、気まずそうに目線を横に向けた。
「残念ながら管轄区はそんな国だし、実際、俺だっていつ殺されてもおかしくない……だから、言いたいことは早めに言っておきたいんだよ」
エレノアを見つめる。
「あの列車の中で、最初に会った日から、エレノアを愛してる」
こんなに簡単にこの言葉を発せられる自分が、アンゲルには意外だった。
エレノアの表情は動かない。黙ってアンゲルを見つめている。
「もう知ってるとおり、今管轄区とイシュハの情勢は不安定で、俺は管轄区人なのに、禁止されている方向に進もうとしてる。危険だし、これからどうなるか、何にもわからないけど、わからないまま突っ走るしかないって、気がついたんだよ」
アンゲルは言葉を切って、エレノアの反応を待った。
ところが、エレノアは眉一つ動かさない。
「エレノア?」
「来週、オペラハウスのイシュハ公演があるの、首都で」
エレノアが発したのは、そんな言葉だった。
「絶対に来てね」
エレノアはそう言いながら立ち上がると、カフェから出て行ってしまった。
一人残されてしまったアンゲルは、しばらくその場で呆然としていた。
……わからない!本当に意味がわからない!
フランシスが、買い物袋を大量に抱えて女子寮の部屋に戻ると、エレノアがテーブルに付して泣いていた。
「どうしたの!?何があったの!?」
フランシスは驚きのあまり、紙袋をどさっと床に落とすと、ドアから走ってテーブルに飛びついた。
「わからない、わからないの……」
「わかったわ。また音楽科のバカ共にいじめられたのね!」
フランシスがくやしそうにこぶしを握りしめ、歯ぎしりをした。
「全員なぶり殺しの刑にしてくれるわ!」
「違うのよ。アンゲルが……」
「アンゲル!?」
フランシスが人間とは思えない声で叫んだ。
「あの爬虫類め!」
このままだとアンゲルがなぶり殺しにされそうだ。
「違うの!違うのよ!」
エレノアは慌てて否定した。
「いじめられたんじゃないのよ」
「じゃあなんなのよ!もしかしてまたうつ病が再発したとか……」
「そうじゃないのよ……」
エレノアは鼻をかみながら説明した。
「アンゲルが、『エレノアを愛してる』って言ってくれたのに」
「えっ?」
「なのに、その場にいるのが耐えられなくなって、逃げ出してしまったのよ……自分でもどうしてかわからない。嬉しかったのに……わからない、わからないの」
エレノアはまた激しく泣き始めたが。フランシスは理由を聞いた途端につまらなさそうな顔をして、
「心配ないわよ、男なんて、ちょっとじらしてあげたほうが盛り上がるんだから」
偉そうに言い放った。
「フランシス……」
「それにしても、あの変な顔にしては大胆な手に出たわね……やっぱり、情勢が不安定だから、焦ってるのかしら……フン」
「変な顔なんて言わないでって言ってるじゃない……」
「来週のパーティにどうせ来るんだから、その時にちゃんと気持ちを伝えたらいいのよ」
「パーティなんてやらないわよ」
「私がやるのよ!」
フランシスがすさまじい大声で叫んだので、エレノアはびっくりして肩を震わせた。
「首都の劇場はシグノーの所有なのよ!必ず公演の後にはパーティをやることになっているのよ!オペラハウスの職員から聞いてない?ったく、人から金だけは取るくせに周知が徹底してないわね……そうだ、ヘイゼルに言って、アンゲルを引きずり出してもらわなきゃ……男って弱気になると姿を消したりするものね、逃がすものですか!」
フランシスは、楽しそうに受話器を取ると、
『来週のパーティにはアンゲルもつれてきなさいよ!は?何?うるさいわね。いいから連れて来いって言ってるのよ、来なかったらあんたもぶち殺すわよ!』
それだけ言って、楽しそうに受話器を戻して、エレノアに笑いかけた。
「準備完了」
「なんて言えばいいの?」
エレノアが弱り果てた声でつぶやくと、
「そんなことは歌の練習でもしながら考えなさいよ!」
フランシスは自分の部屋に行って、ファンデーションとコットンを持ってくると、エレノアの顔の涙を吹き始めた。
「ったく、オペラハウスのマドンナがこんな顔してちゃ仕事にならないじゃないの。もっとプロになりなさいよ。堂々と!あんたよりきれいな女なんてめったにいないんだから」
「フランシス……」
「お礼ならあとにしてちょうだい」
「ヘイゼルには気持ちを伝えたの?」
「伝える気持ちなんてないわよ!あんなのに!」
フランシスはきつい目でエレノアを睨みつけ、エレノアはため息をつきながら黙り込んだ。人には偉そうなことを言うくせに、自分は何もできないんだから……。
でも、みんな、そんなものかもしれないと、エレノアは思った。
誰だって、愛する人に関しては、おびえずにいられないのだから。
オペラハウスのイシュハ公演の日。
ここは首都の大劇場。もちろん、アンゲルもヘイゼルもエブニーザも来ている。ホールの入り口前ロビーで、客がパンフレットを見たり、併設されたカフェでコーヒーを飲んだり、開演前に思い思いの時を過ごしている。
アンゲルは『エレノアの姿を見るの、これが最後になるかもしれないな』と思いながら、ヘイゼルに押し付けられたパンフレットをぼんやりと眺めていた。そこには、時代がかった衣装のエレノアと、誰が見てもむかつくほど美しいテノールが、並んで写っていた。
あたりを眺める。客はみな裕福そうな人たちばかりだ。仕立てのいいスーツやドレス姿、一杯10クレリンもするコーヒーを金の心配などせずに普通に注文し、高いオペラを何度も見に来て、去年の公演はよかった、あのソプラノはまずかった、と熱っぽく語る人々。
借り物のスーツを着て、もらったチケットで、シュッティファントの車に乗せてもらって(正確に言うと『無理やり押し込められて』)ここにいる自分が、一人だけ浮いているようにアンゲルには感じられた。
「エレノアに会いに行かないんですか?」
エブニーザが近寄ってきた。両手に高いコーヒーを持っている。
「いらない」
「僕だって2杯も飲めませんから」
エブニーザは不機嫌そうに言うと、アンゲルの顔面にコーヒーカップを押し付けた。アンゲルはあわてて受け取る。
珍しい、エブニーザが強引だ。
「きっと、会いたがってると思いますよ」
「公演が終わってから会えるよ。パーティだろ。フランシスの」
アンゲルはなげやりな調子で言った。
「どうせまたヘイゼルが暴れるんだぞ」
「今日は暴れませんよ」
エブニーザが自信ありげに言った。
「なんでわかる?予知か?」
「もっとすごいことが起こるんです。ヘイゼルがケンカをする気もなくなるようなことが」
「何だよそれ」
「教えられません」
エブニーザは意地悪そうに笑うと、立ち上がって、オペラ談義をしているカフェの客に近づいて行った。かなり年配の老人が、エブニーザの顔を見て、笑いながら手を挙げた。どうやら知り合いらしい。二人でなにやら話をし始めた。やはりオペラの話をしているのだろうか。
アンゲルはコーヒーを一気に飲み、軽くむせながら立ち上がると、一人でホールの中に入って行った。席に座ってゆっくりと考えたかった。何を考えるかまでは決めていなかったが、とにかく、裕福な人たちがくつろいでいる場所から離れたかったのだ。
たぶん、オペラを見るのは、人生でこれが最後だろうな。
エレノアを見るのも。
数日前のエレノアの姿を思い出す。言われた言葉もだ。『あなたと一緒にいたい』と確かに言っていた。聞き逃すはずがない。でも、アンゲルが愛を告白した途端、エレノアの表情が固まってしまった。なぜだ?アンゲルはずっと考え続けているが、悪い答えしか出てこない。
エレノアは自分に好意を持っていたけど、いろいろな事情があることに気がついて、嫌になってしまったのではないだろうか、と。
アンゲルは管轄区人である。そして、心理学を専攻したというだけで、祖国から狙われる身になってしまった。大学を出て医者になれたとしても、将来はそう明るくない。殺される可能性だってある。現にエブニーザが『患者に刺される』と予言しているではないか。アンゲルはその予言を信じたくなかったが、エレノアが『こいつとかかわるといいことがなさそうだ』と判断するのには、今の自分の境遇で十分だとも思う。
しかも、エレノアはオペラハウスのマドンナで、もうスターなのだ。将来も約束されている。
「オペラは初めて?」
隣から声がした、見ると、上品そうな、白髪の老婦人がこちらを見て微笑んでいた。柔らかい印象で、頭にはウールの小さな帽子が乗っている。
「はい」
「だと思ったわ。なんだか緊張しているように見えたから」
「そうですか?」
「ええ。私がオペラに初めて来たときもそうだった。昔はね、今と違って、本当に裕福な一部の人しか、ここには入れなかったのよ」
今だって、一部の裕福な人しか入れませんよ!
アンゲルは頭の中だけで叫んだ。
「身分の高い人しか入れないところだったの。でもだんだん、一般人でも入れるようになって……今日のこの演目、私が初めて見たオペラなのよ。一生忘れられないわ。なんて美しい世界がこの世にあるんだろうと思ってね」
「そうですか」
「このオペラの内容をご存じ?」
「いえ」
「どこから来たの?」
「あの……管轄区の、クレハータウンから歩いて10キロくらいの……たぶんご存じないと思いますが」
「管轄区の方なの?」
老婦人が意外そうな顔をした。きっと、この会場に入れる管轄区人は、ほとんどいないのだろう。
「はい」
「そう」
老婦人が笑いながら説明した。
「このオペラはね、遊び人の男が次々と女を落として破滅させ、人生を狂わされたある女の娘が復讐に立ちあがる、そういう話よ」
そんな話だったのか。アンゲルは内容を初めて聞いた。さきほど渡されたパンフレットにも書いてあったはずなのだが、別なことで頭がいっぱいで、気が付かなかったのだ。
「今でいう、人妻や女王とも関係を持つの、それも何人も……ほほほ。男の夢ってやつかしらね」
「復讐を誓った女はどうなるんです?」
「それはあなた、今日これからごらんなさいよ。結末を知っちゃつまらないでしょう」
老婦人はそう言ったが、アンゲルはなんとなく想像できた。エレノアの恋人役が美形テノールなのだ。きっと、復讐を誓った女もその男の手に落ちたに違いない。
管轄区の学校の女の子たちを思い出した。公務員の息子か、『かっこいい』男ばかりを追いかけていた女たち。
思わず深いため息が出る。席に人が増え始めた。ヘイゼルとフランシスは上方のVIP席にいる。本当はアンゲルもそこに席があったのだが『お前と一緒の部屋なんか嫌だ!』と言い張って一般の席に落としてもらったのだ。本当は、金持ちでもないのに特別な席でほかの観客を見下ろすのが嫌だったからなのだが。
この会場だけでなく、身の回りのありとあらゆることに、アンゲルは引け目を感じ始めていた。どう考えても自分に釣り合わない場所で、釣り合わないことをしようとしているという感覚が消えない。
父さんと母さんがここにいたら、きっと喜ぶだろうな。ほとんどの管轄区人は、オペラが大好きで自分で真似して歌うくらいなのに、実際にホールで聞くことはまずないんだ。だから、イシュハでオペラをじかに聞ける自分は、そうとう恵まれているはずだ。
アンゲルは自分にそう言い聞かせたが、それでも、違和感は消えてくれなかった。
「芸術には身分も国も、立場も、心ですら、関係がない」
つぶやくような声が隣から聞こえた。アンゲルははっとしてとなりを見たが、老夫人はまだ開いていない舞台の真ん中あたりをぼんやりと見ていた。昔見たオペラでも思い出しているのか、隣のアンゲルの存在など忘れているように見えた。
楽屋のカーテンは、印象的なベルベットブルーだ。上品だがどこか艶めいて、背後にある官能的な物語を連想させる。今日の演目にふさわしい色でもある。エレノアは、舞台向けの派手な化粧をして、中世の衣装を着ていた。鏡に映った自分を見てぼんやりしている。発声練習はひととおり終えている。あとはスタッフが自分を呼びに来るのを待つだけだが、エレノアはこういう空白の時間が苦手だった。ちょうど、朝起きて着替え、朝食を食べ、出かける準備ができたのに、まだ出発には早かった、というような、どう使っていいかわからない空白。本格的に何かするには時間が短すぎる。そして、何もせずにこうしてぼんやりと鏡の中の自分を眺めるには……長すぎる。
アンゲルは来ているのだろうか?
エレノアはそれが気になって仕方がなかった。でも、客席まで確かめに行くことはできない。騒ぎになってしまうからだ。つくづく不自由な身になったものだと思う。
でも、これが自分の夢だったはずじゃない?
オペラハウスに入ることができて、しかも、主役なのだ。新人なのに。こんなことはめったにあるものではない。
才能や立場では、そういう成功では、足りない何かがあるのだ。
「エレノア」
フランシスが楽屋に入ってきた。本来は立ち入り禁止なのだが、無理やり入ってきたのだろう。
「どうやってここに」
「そんなことはどうだっていいのよ!」
フランシスはエレノアの隣の丸椅子に、乱暴に腰を下ろした。
「アンゲルが来てるわよ。なぜか知らないけど、一般の狭い席のほうにいるわ。てっきりヘイゼルと一緒にVIP席にいると思っていたのに、見当たらないのよ。それで、あの気味の悪い白目をつかまえて聞いてみたわ」
エブニーザ、お気の毒。エレノアはため息をついた。
「そしたら、ヘイゼルと同じ部屋はいやだって、自分から一般の席を希望したらしいわよ。あんなところじゃ舞台が見えずらいのに。何考えてやがるのかしら」
「きっと、自分がお金持ちじゃないからよ」
「人がせっかく招待してやってるのに?」
「たぶん、自分ではチケットの代金を払えなかったんでしょうね。だからよ。人に助けてもらうのが嫌でしょう、アンゲルは。なぜかわかる?」
「爬虫類だから?」
「自分が無力に思えるからよ」
エレノアがそう言うと、不機嫌にしゃべっていたフランシスが、真面目な顔になった。
「だから、私にできることも、ほとんどないわね……歌うしかないの。今日は、歌さえ届けばいいと思ってる。だって、夢がかなったんだもの。父さんも母さんも見に来ているわ。芸人の仲間たちもね。いろいろな人に助けられてここまで来たのよ。だから今日は、すばらしい歌を歌わなくちゃね」
「エレノア、そろそろ来て」
スタッフが呼びにやってきた。
エレノアは無言でフランシスに笑いかけた。フランシスはエレノアの手を取ると、本人以上に緊張した面持ちで、頷いた。
二人は手をつないだまま、ブルーベルベットの楽屋を出て、舞台へ向かった。
オペラは、意外な方向に話が進んでいった。
遊び人の男と関係を持ったせいで城を追放された女が自らを恥じて命を絶ち、娘が復讐のために男を殺しに行く。ここまでは老婦人から聞いたとおりだ。
娘が恋に落ちるのは遊び人本人ではなく、その息子だった。父親の放蕩を恥じている真面目な青年である。
舞台の上では、不自然なくらい綺麗な顔のテノール・グレンが歌っている。彼はイシュハではもう(いろいろな意味で)名の知れた存在である。
「あいつが遊び人のほうがよかったんじゃないか」
後ろの席から、誰かのささやきと、『シッ!』と注意する声が聞こえてきた。
「だから言ってるじゃないの、芸術には立場も心も関係ない」
隣の老婦人が舞台から目を離さずにつぶやいた。
「人間のクズみたいな男でも、歌だけはすばらしい。そういうことはよくある」
「そんなにひどい奴ですか」
「あんなクズはめったにいないね。女は襲う、親にも暴力をふるっていたという話。親に暴力をふるう男はね、いつか、自分の妻や子供にもふるうの。だからああいうのとはぜったいにかかわりを持っちゃいけない。麻薬をやっているという噂もあるわ。ゴシップ雑誌の悪い話の常連よ」
もちろんアンゲルもグレンが嫌な奴だとは知っていたのだが(エレノアを襲おうとした男だ!)そこまで有名だとは思っていなかった。
舞台の上では、エレノアとグレンがレチタティーヴォで会話中。お互いの親について話しているのだ。自分の父親のせいで娘の母が死んだことを知ると、青年は衝撃を受けて、自分が死んで償おうとする、娘はもちろんそれを止める。
アンゲルは、自殺したクラウスのことを思い出していた。何が彼を死に追いやったのだったか。信仰か、周囲の理解のなさか。親のせいでないことは確かだ。管轄区の親たちに『女神が信じられない』などという言葉を理解しろと言っても、不可能だ。
女神の仕業か。
アンゲルはそこまで考えて、頭を振って下を向いた。そして、舞台に集中しようと顔を上げた。
すると、エレノアとグレンが抱き合っているのが見えた。思わず目をそらすと、老婦人がなぜかこちらを見ていて、目があった。
「あなた、さっきから全然舞台を見ていないわね」
「いえ、あの」
アンゲルは正直に言うことにした。
「あの、ソプラノが、僕の友達なんです」
友達、という言葉を使っていいのだろうかと、口に出してから思った。
「あら、ほんと?」
大して驚いてもいないようだ。老婦人は舞台に目を戻した。アンゲルもおそるおそる舞台を見た。ちょうど、グレンが『父親と話をする』と歌いながら舞台を去っていくところだった。
場面は次の章に移った。もう遊ぶのはやめてくれ、と頼む息子を、遊び人は笑い飛ばす。
『この人生は何のためにあるのかね。楽しむためにあるのだ!』
大きすぎる付け髭が印象的な大男が、せせら笑うように歌う。この曲は、なんと、イシュハの国歌でもあるのだ。『品がない』『独裁的だ』と世界各国から非難されているその歌詞はこうである。
『豊かな土地は?俺のもの!
快楽は?俺のもの!
この世の良きものすべては
俺のもの!俺のもの!俺のものだ!
女神がすべてを欲している!
女神はすべてを認めている!
だから俺も欲するのだ!』
なんか、ヘイゼルみたいなやつだなあとアンゲルは思った。そういえば誰かが『シュッティファントはイシュハそのものだ』と言っていたっけなあ。VIP席にいるヘイゼルは、いったいこのオペラをどう見ているのだろう……いや、見てないな。きっと寝てるか、フランシスと言い合いをしているかどっちかだな。
アンゲルがどうでもいいことを考えていると、舞台の上では取っ組み合いのけんかが始まった。息子がめずらしく(たぶん人生で初めて)父親に殴りかかったのである。
その物音を聞いて、衣装箱の中に隠れていた娘が悲鳴を上げる。
『今、小鳥のような声が聞こえた』
『小鳥だって?』
息子が慌てている。
『そんなことを言ってまた僕を馬鹿にしているのか?』
『いや、確かに聞こえた。女神を地上に呼び出した歌うたいのような声だ』
『歌だって?ハハハ(わざとらしい笑い方だ)耳がおかしくなったんじゃないのか?』
『いいや、俺の耳が女の声を聞きのがすはずがない』
男が衣装箱を開けると、そこにはもちろんエレノアがいる。
そして、3人でのアリア(怒鳴り合い)が始まった。
「下世話な喧嘩をお上品にできるのが、オペラのいいところだわね」
老婦人がまたつぶやいた。
話の展開など、アンゲルにはもうどうでもよかった。エレノアしか見えていなかった。激怒の顔で金切声のような高声のアリアを延々と歌い続けていても、エレノアは美しかった。そして、あまりにも遠かった。
もう、会えなくなる。
どうしたらいいんだ?
舞台が暗転した。アンゲルは音をたてないように立ち上がった。
「どこへ行くの?まだ休憩じゃないわよ」
後ろから老婦人の声が聞こえた。アンゲルはほかの観客の邪魔にならないように身をかがめてホールの隅まで移動し、出口に向かった。
「どこへ行く気?」
廊下に出た途端、アンゲルの目の前に立ちふさがったのは、フランシス・シグノーだった。真っ赤なドレスを着て、目に悪いほど鋭い光で輝く白いダイヤを、首にも腕にも幾重にも巻いていた。そして、顔はいつものフランシスらしく、意地悪くアンゲルを睨みつけていた。
目を合わせたくないアンゲルは下を向いたが、フランシスの赤いドレスの裾が大きく破けて、白い足が太ももの真ん中まで丸見えになっていることに気がついて、慌てて顔を上げた。
「またヘイゼルとケンカしたの?」
「どこへ行く気?」
フランシスに、アンゲルの話など聞く気があるはずがない。
「ちょっと気分が悪くなってきたから、休憩しようと思っただけだよ」
「どうかしら」
フランシスはせせら笑うような笑みを浮かべ、横目でアンゲルを睨んだ。
「エレノアが美しいテノールといちゃついてたから嫉妬したんじゃなくて?」
「違うよ」
アンゲルは開いている椅子を探しながら顔をしかめた。
「ここは俺みたいなのが来るところじゃない。どうにも気後れする……お前らには理解できないだろうな」
「お前らって何!?私とヘイゼルを一緒にしないで頂戴!」
「ちょっと黙っててくれる?頭痛い」
アンゲルは頭を手で押さえながら、ロビーの椅子に座った。座り心地のいい椅子だ。前に行ったヘイゼルの別宅を思い出した。確かあの椅子は俺の授業料一年分?いや、生活費だったかな?どっちにしても不愉快だ!余計なことを思い出してしまった……。
「いいことを教えてあげましょうか」
フランシスが隣の椅子にどさっと身を投げ込んで、ふうーっと長い息を空中に向かって吹いた。
「あたし、オペラが大嫌いなの」
「は?」
「大昔のジジイの妄想じゃないの。古臭い音楽と甲高くて耳障りな声!」
「管轄区でそれを言ったら大変なことになるんだよ」
「ここはイシュハなのよ!!」
フランシスがすさまじい声で怒鳴ったので、アンゲルは椅子から飛び上がった。耳がひりひりする。まるでヘイゼルだ!やはりこの二人は良く似ている!
「いいこと、ここはイシュハなのよ?おわかり?」
フランシスはアンゲルの服の襟をつかみ、無理やり椅子に引っ張り戻した。そしてアンゲルの耳元で、
「あなたは今イシュハにいるのよ、イ・シュ・ハ。おわかり?」
「何だよ!?わかってるよ!手を離せ!」
アンゲルはもがいたが、フランシスはがっちりとアンゲルの首元をつかんでいた。
「ほんとにわかってんの?ここは自由の国なのよ。新しいものの国なの。ポップスとヒップホップの国なのよ。どんな薄汚い意見でも発言は自由なの。何をしようと自分の勝手なの。どんな服を着ようが、どんな学問を学ぼうが、誰を愛そうがね」
フランシスの声は低くて怖かったが、アンゲルはもがくのをやめた。何を言おうとしているのか、なんとなく察しがついたからだ。
「なにが『管轄区だったら』よ?ばかばかしい」
フランシスはアンゲルの首から手を放すと、指をぱちんと鳴らした。
通路の向こうから、タキシード姿の男が現れた。ワインボトルとグラスを持って。
「オペラの最中に飲むのかよ」
「うるさいわね。私の勝手よ。どうせ見てないからいいのよ」
男がワイングラスにワインを注ぐ。フランシスは注ぎ終わるのを待たずにグラスをつかんで、一気に飲み干した。口の横から赤い液体が垂れている。
まるで大きな子供だ。アンゲルは顔をしかめながら笑った。こんなのと一緒に暮らしていたエレノアは、きっと大変だったろうなと思った。そして、こんな女にちょっかいを出し続けるヘイゼルの気持ちも、少しだけわかった。
「言いたいことはわかるんだけどさ」
アンゲルは独り言のように言った。
「俺は管轄区の人間なんだよ。実際狙われてるのは知ってるだろ?自由の国に来たからって、イシュハ人と同じように何でもできるってわけじゃない」
「フン。そんなのは言いわけよ。エレノアに振られるのが怖いのね」
「かもね~」
反論する気も起きなかったので、アンゲルは曖昧な返事をした。
「ヘイゼルが前に言ってたよ。人は育った国や家や環境と分かちがたく結びついているものだと」
「ヘイゼルのくせにそんな偉そうなことを?」
口の周りに赤い液体が付いたフランシスは、まるで吸血鬼のようだ。
「俺が『家の名前を自分から外して考えてみろ』なんて余計なことを言ったからだよ」
「確かに余計ね」
フランシスは容赦がない。
「あんたも、余計なこと考えてるわよ」
「何だよ」
「エレノアをなめてるのよ」
吸血鬼がアンゲルの目前に迫ってきた。
「『俺は問題だらけだからエレノアは別な人を選ぶだろう』と思ってるわね?」
アンゲルは黙っていた。フランシスは本当に吸血鬼のような、獲物を狙っている目でアンゲルを睨みつけながら、
「エレノアは、あんたをずっと待ってたわ。今も待っているのよ。そんなこともわからないような頭なら、どんな学問をやったって無駄ね」
冷たい声でそう言った。
幕間の休憩に入ったのか、ホールから観客がぞろぞろと出てきた。アンゲルとフランシスは、しばらく黙ったまま、目の前を行きかう人々を見つめていた。その中に、二人並んで、仲良く微笑みながら歩いていく男女の姿があった。誰が見ても、相思相愛だとわかる暖かさをあたりに発しながら、二人はカフェカウンターの方向へ歩いていく。
「あんたたちだって、ああなれるわよ」
フランシスがつぶやいた。アンゲルがフランシスのほうを見ると、無表情で空中を見つめていた。
「ばかばかしい抵抗をしなければね。ほんと、くだらない……」
「おお~ここにいたかご令嬢よ!!」
ヘイゼルが歩いてきた。フランシスは勢いよく立ち上がると、同時にワインボトルをつかんでヘイゼルのほうに投げようとした。
「やめろって!」
アンゲルがうしろからつかみかかって止めた。フランシスは意外とおとなしくワインボトルを下ろした。ヘイゼルはあいかわらずだ。ニヤニヤしながら近づいてくる……が、よく見ると、スーツの袖が取れかかって、縫い目の糸が怪物の歯のように見えていた。どうやら、劇中のケンカは相当派手だったようだ。
「エンジェル氏、いいかげんこっちの席に来ないかね。席は常に空いてるのだぞ」
「やだよ。ケンカに巻き込まれたくない」
「途中で出て行ったようだが、何かあったのかな?」
ヘイゼルがニヤニヤしながらそんなことを言ったので、アンゲルはぎょっとした。
「俺の行動を監視しないで舞台を見ろよ!」
「あんな狭い席で呼吸困難にならないかね?」
「狭くなんかない。あれが普通だ!」
アンゲルはこれ以上ヘイゼルと話したくなかったので、ホールの中に戻ることにした。後ろから、聞き覚えのある『お二人とも何をしているのですか!?』という声が聞こえてきた。白ひげだ。これから長い長い説教が始まるのだろう。
アンゲルは自分の席を探しながら、考えていた。
エレノアはあんたを待ってたわ。今も待っているのよ。
フランシスは確かにそう言っていた……。
「どこに行ってたの?いい場面を見逃したわよ。娘が遊び人を殺そうとしてね……」
アンゲルが席に着くと、老婦人が過ぎた場面の説明をしてくれた。でも、アンゲルはもうオペラのことは考えられなかった。せっかくの説明もほとんど頭に入らない。
本当に、エレノアが自分を望んでいるなら、自分はそれに答えたい。
でも、本当に?
オペラが終わり、出演者全員が舞台上に出てくると、会場は拍手と歓声で満ちた。
主人公であるエレノアとグレンは、舞台の真ん中にいた。エレノアが観客に向かってにこやかに手を振っていると、グレンが後ろから彼女の肩をつかんで、自分のほうにぐっと引き寄せた。エレノアは反射的に飛びのいて、グレンを非難の目でにらみつけたが、グレンはそんなエレノアの反応を面白がっているようだ。はた目には仲良くからんでいるように見えたかもしれないが、エレノアにとってはただの迷惑だった。
「見て見て!これ!観客からの差し入れだって!」
舞台裏に戻った途端、興奮で顔を赤く染めたスタッフが、細かい装飾の入った赤黒いボトルを持ってきた。
「高いのよこれ!一本20000クレリンはするんじゃない!?」
高級ワインの差し入れにみなが歓声を上げたが、エレノアは無反応だった。疲れていたのだ。嫌悪感をもよおす相手と全力で歌わなくてはならなかったから。
楽屋に戻って横になって休もうと思い、舞台裏の出口に向かうと、そこからフランシスが入ってきた。白いスーツに着替えて、髪も新しくセットし直していた。
「エレノア!」
フランシスが令嬢らしく『お上品に』笑った。エレノアに笑いかけたというよりは、その場にいるスタッフに考慮したのだろう。
「パーティの準備がもうすぐできるわ!」
フランシスが純金の腕時計を見た。
「ちょうど一時間後ってとこね。小ホールのほうよ。オペラの出演者と、スタッフと、シグノーの関係者でね」
後ろから歓声が上がった。『好きなだけ飲める!』と騒ぐグレンと若手歌手の声が耳障りだ。エレノアは不思議に思った。なぜみんな疲れてないの?
「さっきアンゲルに会ったわよ」
フランシスがエレノアの耳元でささやいた。彼女にしては優しい声で。
「途中で出て行ったのは見えたわ」
エレノアが疲れた顔でつぶやいた。フランシスは驚いた。舞台の上で歌いながら、観客の位置まで見えていたのかと。それともあの爬虫類だけ見えるのかしら?
「単なる頭痛よ!休憩の後に戻ったでしょう?」
「意外なお二人が一緒にいること」
聞きなれない声がした。いつのまにか、隣に白髪の老婦人が立っていて、エレノアとフランシスに向かってにこやかに笑いかけていた。
「レディ・ヘレノイ」
フランシスが外交的な顔を作った。
「お久しぶりだわ」
「あなたもね。さっきの赤いドレスはどうしたの?似合っていたのに」
「着替えましたの。これから下でパーティーですから。よかったらいらっしゃって」
「あらそう?じゃあ、またあとでね」
老婦人が見えないところまで歩き去ると、フランシスは舌打ちをした。
「今のはどなた?」
「ヘレノイの大叔母様よ。母のいとこの奥様。知らない?ポートタウンの富豪よ?」
「ヘレノイ……」
エレノアは旅の記憶をたどった。
「豪華客船を造った人?」
「そのバカの奥様よ。確か、オペラは必ず一般の狭い席で見るの。若いころを思い出したいんだか何だか……要するにもうろく寸前の年寄りなのよ」
フランシスは『パーティの準備をする!』と言い残して、廊下を足早に去って行った。
エレノアはそのまま楽屋に戻ろうとしたが、後ろから誰かに肩をつかまれた。
グレンだ。
「フランシス・シグノーと同じ部屋に住んでるってうわさがあったが、本当なんだな」
「悪いけど疲れてるの」
エレノアが歩き去ろうとすると、グレンがエレノアの腕をつかんだ。
「パーティまではまた時間がある」
「だから?」
グレンがエレノアを胸元に抱き寄せようとしたが、エレノアが押しのけた。
「触らないで」
エレノアは嫌悪感一杯の顔で言った。
「もう公演は終わったわ」
グレンはエレノアの言葉を無視して、腰に手を回すと、無理やり隣の部屋へ引き込もうとした。エレノアは彼を突き飛ばし、今まで見たことがないような速さで楽屋まで走り、ドアに鍵をかけた。
全身が震える。ドアの前で、エレノアはへたりこんだ。この公演の練習中、ずっとこんな調子だったのだ。グレンはエレノアを追いかけまわして、体に触り、時に無理やり部屋や人気のない場所に引きずり込もうとした。エレノアはそのたびに、全身から嫌悪感と恐怖を感じていた。
でも、もう少しよ。今日が終われば、会う必要はなくなるわ。
でも、どこかでまた共演する羽目になるかも……絶対に嫌!
エレノアは震えながら立ち上がると、鏡の前の丸椅子に座った。ベルベッドブルーの背景の中に、派手な衣装の、疲れた顔の女が座っている。
なぜ、隣に誰もいないのだろう?
エレノアの頭にそんな言葉が浮かんだ。そして、すぐ疑問に思った。
どうして隣にだれかがいる必要があるの?
ここは楽屋で、公演が終わったところなのに。
そこで思い出した。フェスティバルで歌った後のことを。たくさんの客が楽屋にやってきてエレノアをほめたたえた。フランシスも、ヘイゼルも、クーも、ケンタも来た。
もちろん、アンゲルもだ。
アンゲルはどこへ行ったのだろうか?パーティに来るのだろうか?それとももう帰ってしまったのだろうか?こういう派手な場所が苦手のはずだから。
「エレノア!」
ドアをノックする音と、声。エレノアはびくりと身を震わせた。
「どうして鍵がかかってるの?大丈夫?」
それはグレンではなく、受付の女性スタッフだった。
エレノアは安堵のため息をついた。
「疲れているだけ……パーティが始まるまで休ませて」
「そう?飲み物を持ってこようか?」
「いらないわ……しばらく一人にして……あと、変な男がドアに近づかないようにしてくれる?意味わかるわよね?」
エレノアにしてはとげのある声だ。
受付の女性は、以前起きたことを思い出したのか、無言でその場を離れると、ほかの男性歌手たちに50クレリン札を数枚渡し、グレンを連れて下の階のバーにでも行ってくれ、と頼んだ。
パーティ会場は、オペラ公演が行われていた大劇場とは別の、小劇場だった。それでも、アンゲルが会場に入った時には、100人以上は集まっているように見えた。
あたりを見回す。舞台には重たい色の幕がかかったままで、ウェイターやウェイトレス、案内係は忙しく動き回っているが、オペラハウスの関係者らしき人間の姿は見えない。エレノアもまだ出てきていないようだ。
「アンゲル」
エブニーザが、青白い顔で近づいてきた。
「僕は帰ります」
「なんだよ。やっぱり人ごみが駄目なのか?」
エブニーザを送るふりをして俺も帰ろうかな、とアンゲルは思ったが、
「でも、アンゲルは最後まで会場にいてください」
エブニーザにそう言われてしまい、アンゲルは顔をしかめた。
「なんで?」
「説明できません」
エブニーザは平坦な、棒読みのような口調だった。
「でも、きっと僕に感謝することになりますよ」
「なんで!?」
エブニーザは質問には答えず、足早に出口に向かって歩いて行った。
後ろから歓声が起こった。振り返ると、舞台の上に、オペラの出演者が現れた。
エレノア!
アンゲルはすぐにエレノアの姿を見つけた。もう何年も会っていないような気がした。
会場のほぼ全員が、彼らに近づこうと次々に移動を始めた。アンゲルもエレノアがいる方向に向かったのだが、すぐに人だかりに阻まれた。前のほうからは興奮した観客たちが歌手をたたえる言葉を叫んでいる。そのほとんどが、エレノアの名前を口にしている。
近づけないな……。
アンゲルは人だかりから離れ、開いているテーブル席に座った。そこから遠巻きに人々と、舞台を眺めた。はるか向こうに、小さく、エレノアがしゃがんで客と何か話しているのが見える。何人かの客はアンゲルのように、近寄るのをあきらめてテーブルに戻って来ていた。アンゲルも、このまま、二度とエレノアに会えないような気がしてきた。
「顔色が悪いわね」
顔を上げると、そこには、さきほど隣の席にいた老婦人が立っていた。
「来ていたんですか」
「勝手に入って来たのよ」
老婦人はいたずらっぽい顔をして、アンゲルの隣の椅子に座った。
「あなた、オペラをほとんど見ていなかったわね?」
「わかりますか」
「誰にでもわかるわ。あなた、気分がすぐ顔に出るでしょう」
ウェイターがやってきた。老婦人は自分とアンゲルの分のワインを頼んだ。アンゲルは『医者になる人間が気分を顔に出してちゃまずいかな』と思いながら礼を述べた。
「管轄区から来たと言っていたわね?」
「ええ」
舞台のほうを見ると、エレノアとグレンが何か話しているのが見える。
「学生なの?」
「心理学の。でも、医学に移ろうと思っているんです」
アンゲルは投げやりに、ぼんやりと答えた。
「管轄区に病院を作りたいんです」
老婦人がぎょっとした顔になり、何か言おうとしたとき、ワインが運ばれてきた。
アンゲルは一口だけ飲むと、また舞台の方向を見た。エレノアがいる。まだグラントと何か話している。
「ただの夢物語ですよ」
アンゲルはため息をついて、背を後ろにそらせた。
「あの国は未だに、病気は女神からのメッセージだと思っている人が大半です。医者にかかること自体がタブーなんです。でも、そのせいで死んでいく人たちが何人もいる。誰かがなんとかしなくちゃいけないんです。ただ、反発を受けるのが目に見えてる。俺も一回襲われてるし」
会場の人々はワインを飲みながら思い思いに何かを話しているが、その声が全部遠くに聞こえ始めた。
なぜだろう?自分だけがこの会場で浮き上がっているように思える。一人だけ別の空間にいるようだ。
「もし、本当に病院ができたら」
老婦人は、古びた革のハンドバッグからペンとメモを取り出すと、何か書いてアンゲルの前に置いた。電話番号らしき数字と『アリッサ・ヘレノイ』という名前が書いてあった。
「私が支援するわ」
誰かが『レディ・ヘレノイ!』と呼ぶのが聞こえ、老婦人は席を立った。
ヘレノイ……聞いたことがないな。
貧乏ではなさそうだけど金持ちにも見えない……ま、いいや。
アンゲルはメモをジャケットの内ポケットにしまいこんだ。そして、またぼんやりと遠くを眺めはじめた。エレノアが白いドレスの女性と話している……かと思うと、その女性が、近くのテーブルにあった花瓶をグレンに向かって投げつけた。
フランシス!
アンゲルは立ち上がって舞台に近づこうとした。
「なんだなんだ、またシグノーのご令嬢か?」
「友達に手を出されたから怒ってるのさ」
酔いのまわった声が隣のテーブルから聞こえてきた。
「さっきの公演の直後、あのソプラノとテノールが二人で姿を消したらしい」
「本当か?」
「どこかでいちゃついてたのさ。きっとまた妊娠して大騒ぎになるな」
ヒャヒャヒャ、という下品な笑い声をあげた。
アンゲルはショックで、ふらふらと後ろに後ずさった。頭がぐらついてきた。そのまま、無意識に会場の出口まで歩いて行った。ヘイゼルが近づいてきて何か言ったが、アンゲルには何も聞こえていなかった。
その頃、エレノアのお尻を撫でたグレンに逆上したフランシスが、花瓶を投げて口汚くののしり言葉を発していた。グレンは全く驚く様子も怖がる様子もなく、むしろ面白がっているようにニヤニヤと笑っていて、それがフランシスのプライドをさらに傷つけたのである。
エレノアは必死でフランシスをなだめ、舞台から離れた席まで引っ張って行った。『またシグノーのご令嬢か』『いつもご乱心だな』とささやく声がどこからか聞こえ、エレノアの神経を逆なでした。なぜ誰もグレンを責めないのだ?明らかに悪いのはあの男ではないか。薄汚い、卑劣な……。
フランシスを会場の隅の、ワインのある席に座らせると、エレノアはため息をつきながら遠くに目をやった。
会場の隅っこにアンゲルがいた。背を向けていてもわかる。ゆっくりとドアの方向に歩いている……会場を去ろうとしているのだ。
「エレノア」
グレンがワイングラスを持って近づいてきた。
「私に近づかないでくれる!?」
エレノアは感情的な声で叫んだ。周りの観客が一斉にこちらを向いた。
「まあまあ、そう怒るなって」
グレンには、相手に気を使う様子は全くない。
「飲みなよ。一本20000クレリンのワインだぜ?これを逃しちゃもったいないよ」
エレノアは差し出されたワインを無視して、足早に出口の方向へ向かった。
そして、深く、これ以上できないくらい息を吸って、
「アンゲェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェル!!!」
叫んだ。
声楽家にしかできない、長大な発声で。
呼ばれたアンゲルは驚いて、びくっと全身を振るわせてその場に立ち止まると、ゆっくりと、恐る恐る、振り向いた。
会場の全員が、アンゲルのほうを見て動きを止めていた。
これからいったい何が起こるのだろうと期待している目で。
アンゲルは、皆の視線の中、ゆっくりと、エレノアに近づいて行った。
期待と恐怖で、手足が震えた。
エレノアもアンゲルに近づいてきた。
「アンゲル……」
繊細で綺麗なささやきが、エレノアの口から洩れた。
目が潤んでいる。何かを強く求めている目だ。
アンゲルはその目を見て、エレノアが自分を愛していることを確信した。
エレノアは、アンゲルの胸元に勢いよく飛び込んだ。アンゲルもよろけながらしっかりと受け止め、二人は抱き合った。その瞬間、オペラ公演の緊張も、嫌悪感も、違和感も、立場の違いも、すべてが消し飛んだ。
そして今、お互いの腕の中にいる。愛する人が。
「ねえ」
エレノアが顔を上げ、うるんだ目でアンゲルを見上げた。
「私たちはいつも一緒にいる……エブニーザの言った通りでしょう?」
アンゲルは苦笑いした。ここでエブニーザの名前を出すのか!まあいい。
「そうだね」
「私はしばらく首都に行くのよ」
「知ってるよ」
アンゲルは再び強くエレノアを抱きしめた。
「俺はこっちで医学の試験を受ける。エレノアが首都にいる間に医者の免許を取るよ。そのあとのことは……その時に決めればいい」
「そうね」
会場はどよめきに包まれていた。ヘイゼルは面白がって口笛を吹きまくり、フランシスは白けた顔で二人を眺めながら、ワインを飲みほした。グレンはあからさまにショックを受けた顔をしていた。こんな変な顔の男がエレノアの相手だって?しかもなんだ、あの夢見るような表情は?あんなエレノアは見たことがない。
「まともな愛がほしいなら、まず行いを改めることね」
グレンの隣には、いつの間にかレディ・ヘレノイが立っていて、エレノアが飲むはずだったワイングラスを受け取り、呆然とするグレンを置いて歩き去った。
エレノアがアルターを去る日がやってきた。
アンゲルは、エレノアを見送るために駅のホームに立っていた。エレノアはすでに車内に乗り込んで、窓から顔を出している。さきほどまでフランシスもいたのだが、突然現れたヘイゼルに連れ去られた。エブニーザは朝から姿が見えない。
「しばらく会えないね」
アンゲルがさびしそうな顔で言った。エレノアを得たとはいっても、自分の状況は何も変わらず、先のことはわからない。
「少しの間だけよ」
エレノアもさびしそうに笑った。
「ほんの少し」
「休みの日には会えるしね」
「そうね」
発車時刻が迫っている。
二人とも、伝えたいことがたくさんあるのに、言葉がうまく出てこない。
「アンゲル」
「何?」
「気をつけてね」
エレノアの目に不安の色が映った。
「こんなことを言っても無駄なのはわかっているけど……私はいつも心配なの。また何か起こるんじゃないかって」
「まあ、起こるだろうね」
アンゲルは静かに答えた。
できれば何も起きてほしくないが、管轄区はそう簡単には変わらないだろうし、イシュハとの関係もしばらく微妙なままだろう。何より、女神を信じている人たちにとっては、アンゲルは理解しがたい存在だ。このままアルターで勉強を(しかも禁止されている学問を)続けていれば、何も起きないとは思えない。
「俺だって心配だよ。エレノアはもてるから。こないだのテノールだって……」
「あんなバカの話はやめて!」
エレノアが悲鳴のような声で叫んだ。通行人がこちらを怪訝な目で見た。
「わかった、わかったよ」
言葉が途切れた。二人は黙ったまま、見つめ合っていた。お互いを信頼している目で。
エレノアが窓から身を乗り出し、アンゲルの肩を抱きしめた。アンゲルはエレノアの髪を撫でた。柔らかい。相変わらず何かの花の香りがする。最初に出会ったアルター行きの列車を思い出した。もうずいぶん昔のことのような気がしたが、つい昨日のようにも思えた。
「愛してるわ」
エレノアがささやいた。アンゲルは返事の代わりに抱きしめる力を強めた。発車を告げるベルが鳴り始めた。でも、お互いに離れようとしなかった。
列車が動きだす。エレノアはアンゲルが見えなくなるまで、窓から身を乗り出して手を振り続けた。そのうち乗務員が注意しに来たので、おとなしく席に座った。
車内をゆっくりと眺める。
初めてアルターに来た時、隣にアンゲルが来たんだっけ……。
今、隣には誰もいない。でも、エレノアは満たされていた。離れていても、アンゲルは自分を想ってくれる。そして、自分も、アンゲルを想っている。
つまり、どこにいても、二人一緒にいるようなものだと分かったから。
ホームに一人残ったアンゲルは、しばらくその場所に立って、考えていた。
エレノアが去っても、髪の感触、暖かさ、それはちゃんと残っている。お互いに愛し合っていることはよくわかっている。エレノアだってわかっているはずだ。それに、いなくなるのは少しの間だけだ。首都はそんなに遠くではない。実際、次の休暇にはまたヘイゼルのあの別宅にみんなで集まることになっていた(いつもは嫌がるエブニーザでさえ、今回は乗り気だ)。
なのに。
今、ホームには誰もいなくなり、灰色の線と空だけが、アンゲルを中心に、描かれたように広がっている。シンプルで、殺風景すぎる景色の中に一人で立っているせいか、どこか現実味のない感覚に陥った。
まるで、全部夢だったような気がするな。なぜだ?
アンゲルは、自分の感覚の中に出来た奇妙な空白を、持て余し気味に思考の中で転がしていた。子供が道で拾ったものを眺めて「これは何だろう」と考えているような感覚だ。でも、外からいくら眺めたところで、その中に何があるのかは見えてこない。
そうだ。心理学的に今感じていることがどうなのか、調べてみるか。最近図書館に行ってなかったし……。
アンゲルが頭を勉強に切り替えて、ホームを出ようとした、まさにその時だった。
突然、黒い群れがアンゲルを取り囲んだ。
それが管轄区のコミュニティ集団だと分かった瞬間、アンゲルは頭に強い衝撃を受け、倒れた。黒服の集団は一斉に、倒れたアンゲルを蹴り始めた。近くにいた女性が悲鳴を上げながらホームの係員のところまで走っていく。『暴徒だ!』という叫びが聞こえる。『またあの気味の悪い連中か』とのんきに呟く声も。
警備服の集団が改札口からホームに突入してきた。黒服の集団はそれが合図のようにぱっと線路の上に飛び出し、そこから走って外へ逃げて行った。誰かが近づいてくる足音と振動が背中にもろに伝わってくる。アンゲルの意識はだんだん薄れていく。
その瞬間、なぜか見えたのは、エレノアだった。
白いホルダーネックのドレスを着て、手に未来を覗き見る水晶を持ち、背後にはなぜか色鮮やかなステンドグラスが、背後から光を受けて、真ん中に立つ人物を浮かび上がらせている。何もかもを消し去るような深く黒い闇の中で、その極彩色だけが、異様なほど輝いている。ほかの存在をすべて消し去るほどの、すさまじい存在感。
それは、管轄区の自宅玄関にかけられていた、女神のレリーフと同じだった。
アンゲルははっと気を取り戻し、痛みをこらえて立ち上がろうとした。
こんなところまで、あのいまいましい女神が追いかけてくるのか!
冗談じゃない!俺はもう決めたんだ!誰が何と言おうと、管轄区に病院を作ってやる!こんなくだらない暴力なんか俺は恐れていない!
アンゲルはよろめきながら立ち上がると、ゆっくりと、駅の出口に向かって歩き始めた。見た目はボロボロだったのに、目だけは妙な輝きを放っていた。まるで、本当に大事なものを見つけた瞬間のような。駅員と、たまたまそこにいた乗客たちは、異様なものを見るような眼でアンゲルを見つめていた。
しかし、彼を止めるものは、誰もいない。
もう誰にも、止めることはできないのだ。
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