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第十章 エレノアが壊れた!
最近、エレノアは桜模様のワンピースをアケパリから輸入して、毎日着て歩いている。
いつもそうだ。エレノアは、気に入った服があると何日でも着続け、周りの人(たとえば、アンゲルとか)に、
「似合うけどさ、そろそろ、着替えてもいいんじゃないかな?」
と、遠まわしに注意されたりするのだ。
今回は、フランシスが、珍しく文句を言わなかった。子供っぽい花柄は好きではなかったが、『100年前の乗馬服』よりはましだと判断したのだろう。
それに『声が変になった』問題で、最近エレノアは落ち込んでいて、不安がフランシスにも伝染していた。
……おバカなダサいアケパリプリントの服でも、エレノアが気に入ったなら、しょうがない。暗い顔をされるよりはよっぽどいいわ。
フランシスはこう考えていた。
実際、エレノアは毎日レッスンを受け、練習し、自分の声を録音して聞いていたのだが、いつまでたっても自分の声から『気味の悪さ』が抜けてくれない。
どうしてだろう?
エレノアが悩んでいるうちに、季節が少しずつ変わっていた。
サッカーの季節だ。
シギとエボン、そして、無理矢理チームに割り込んだヘイゼルが、サッカー場をかけまわっている姿が、頻繁に見られるようになった。
ある日のことだ。音楽科に向かっていたエレノアが、サッカー場を通りがかった時、遠くから、試合をぼんやり眺めているアンゲルを発見した。
「アンゲル?」
「え?ああ、エレノア」
ふり返ったアンゲルは元気がなさそうだ。
「練習?」
「そうよ」
フェンスの向こうでは、ヘイゼルが反則プレーをして、全員に怒鳴られていた。
「あなたは入らないの?」
「そんな暇ないよ」
アンゲルが時計に目をやった。
「そろそろアルバイトに行くから」
アンゲルはその場を立ち去った。ひどく寂しそうだった。
なんだか、いつかのエブニーザみたい……。
エレノアも音楽科に向かって歩き始めたが、アンゲルの様子がずっと、頭から離れなかった。
敷地内の教会前を通った時、エレノアはあることを思い出した。
そういえば、アンゲルは、管轄区の人に襲われたことがあるのよね。
今でも、狙われているんだろうか?
それなら、サッカーなんてやっている余裕はないかもしれない……。
でも、どうしてそうなるんだろう?
管轄区って、そんなに怖い国なんだろうか?
疑問に思いながら、エレノアは、教会の前を通り過ぎた。
エブニーザが近くにいて、すさまじい目つきで教会を見上げていたのだが、それには気がつかなかった。
夜。男子寮の部屋。
「エンジェル氏。恐怖の日が近づいてますぞ」
ヘイゼルが、いつのまに飾ったのか、壁の大きなカレンダーを見ながらつぶやいた。
「おい」
アンゲルがカレンダーに手を伸ばした。
「ここは俺の部屋だろ?」
「だから何かな?」
「カレンダーは自分の部屋に貼れよ!!」
「いいじゃないか。エンジェル氏、カレンダーなしでどうやって日付を把握しているのかな?」
「なくたってわかるよ」
「フランシスの誕生日が来るんです……」
暗い暗い、地の底から響くような低い声で呟いたのは、エブニーザだ。
さっきから、ソファーに座って、青ざめた顔でうつむいている。
幽霊でも来るような言い方だな。
アンゲルが怪訝な顔でヘイゼルを見ると、ヘイゼルは真面目な顔でカレンダーを睨んでいた。
「まさか、またパーティじゃないだろうな?」
「シグノーのご令嬢がやらないと思うかな?」
「おいおいおい、またプレゼント買えとか言わないよな?」
アンゲルが心配したのは、もちろん、金がないということだ。
「ご令嬢がいらないなんて言うと思うかな?」
ヘイゼルがふり返った。表情が全くなかったので、アンゲルはぞっとした。
「俺は行かないぞ。命を狙われてるんだからな!」
アンゲルは実際ウンザリしていた。自分はやっかいな国に狙われて、考えなければいけないこともやることもたくさんあるのに、ソレアは追いかけてくるし、目の前のティッシュファントムは何でもかんでもおもしろがって好き勝手なことばかりしているし、エブニーザはあいかわらず病的に暗い。
「どうせまたとんでもないことが起こるに決まってるんですよ……」
エブニーザがぼそぼそとつぶやいた。
「それで、みんなが怒鳴ったり叫んだり、何かが割れたり飛んだりするんです……僕は行きたくない」
「だめだ。引きずってでも連れて行くぞ、二人ともな」
「ヒイッ」
エブニーザが、喉の奥からひきつったような声を上げた。
ヘイゼルはカレンダーを見たままだ。
アンゲルは、エブニーザの暗い態度より、ヘイゼルの様子が気になった。
おかしいな、いつもなら、ニヤニヤ笑って何かおもしろそうなことを企んでるはずなんだけど……。
そのころエレノアも、フランシスからパーティの話を聞いてウンザリしていた。しかも、当のフランシスが嫌がっているのだ。
「どうせうちの親は来ないわ。代わりにあの白ひげを送りこんでくるのよ!私はやりたくないのよ!」
「じゃあ、やめたら?」
エレノアが静かな声で忠告した。
「私の時みたいにカフェで、仲のいい友達だけでやるとか、ここで、クーと私だけでやるとか」
「だめよ」
「どうして?」
「プレゼントがもらえないじゃない!」
エレノアが呆れた顔をしたので、フランシスが詳しい説明を始めた。
「学校の生徒だけじゃないのよ。各界の有名人がたくさん来るの。それぞれ、みんな、プレゼントと、コネを持ってくるわ。有名ブランドはほとんど来るのよ!ねえ、これは仕事なのよ、私の。シグノーの人間として、社交の場を提供するの。私の存在を見せ付ける絶好の機会なのよ」
「どうして存在を見せ付ける必要があるのよ?」
「あんただって歌手でしょ?有名にならないと誰も歌なんか聞いてくれないわよ」
「そうだけど……」
何かが違うような気がしたが、エレノアは何と言えばいいかわからなかった。
「どうせ私はシグノーの人間よ?黙っててもまわりに勝手に有名にされるのよ。それに、あんたも音楽に関係のある人に会えるわよ」
「別に会いたくないわよ!」
またそれか。
エレノアは目元をひきつらせた。
フランシスは前にも、勝手にパーティへの出席を決め、分野の違うオーディションに勝手に申し込んだりした。そんな勝手さにエレノアはうんざりしていた。もちろん、フランシスが自分のためを思ってそういうことをしたのだと、わかってはいたのだが。
ただでさえ今は『声がおかしい』ということでエレノアの頭はいっぱいなのに、こんな話まで聞かされては、とてもパーティを楽しむ気分にはなれそうになかった。
「そんなこと言わないで」
フランシスが哀願するような声をだした。
「それに、ヘイゼル達も来るのよ。これでパーティを中止しますなんて言ったら、あのヘイゼルに何を言われるか」
「勝手に言わせておけばいいじゃないの。そうだわ。ヘイゼルに頼んで、パーティを中止してもらえないかしら?」
「えっ?」
「人の邪魔をするのは、得意でしょう?ヘイゼルは」
エレノアが立ちあがって、電話に向かった。
「ちょっと、エレノア、だめよ。何をする気なの?」
フランシスが後ろからエレノアに組みついた。電話の呼び出し音が聞こえる……。
『誰だ?』
不機嫌な声が返って来た。
「あら、ヘイゼル、ちょうどいいわ」
エレノアはわざと気取った声を出した。
「お願いがあるの」
『何かな?』
「フランシスの誕生パーティ、中止にできない?」
『何だって?』
「本人が出たくないって言ってるの」
さすがのヘイゼルも驚いたようだ。
『エレノア、正気かな?』
半笑いの引きつった声が返ってきた。
『そんなことをしたらどうなるかわかってるのかね?各界の著名人が集まる集会なのだぞ?そこらへんのガキんちょのお誕生パーティとはわけが違う』
「あなたらしくない、常識的な発言ね」
エレノアの声は冷ややかで、いつもの、相手に気を使うやわらかさがまるでない。
『何かあったのかな?エレノア。ご令嬢なみに怖い声に聞こえるのだが』
「フランシスは怖くないわよ」
『ほほう』
受話器の向こうから、アンゲルの『代われ!何の話だ!?』という叫び声が聞こえる。
「そうね、アンゲルに代わってくれるかしら?」
ヘイゼルが、不満そうな顔で、黙って受話器を差し出したので、アンゲルは、
あれ?変だな?いつもなら絶対渡さないで切るのに。
と、その行動を不審に思った。
「何の話をしてたの?」
『フランシスの誕生パーティを中止にしたいのよ』
「何だって?」
受話器の向こうから『エレノア、やめなさいよ、もういいわよ』というフランシスの声がした。彼女らしくない弱り切った声だ。
『私のパーティの時にも言ってたじゃない、大げさにやる必要なんかないって』
「確かにそうだけど……」
パーティが中止になれば、プレゼントを買わなくて済むしなあ。
アンゲルは、頭の中で、浮くであろう金額を数えていた。
1.プレゼントの代金と、ヘイゼルが暴れた時の対応にかかる手間(というより、精神的苦痛)
2.ヘイゼルが変なことをしたときのための脱走タクシー代(実費)
3.ワインを振り回して服を汚されたときのための買い替え費用(高い服は着て行かないことにしよう……持ってないけどな!)
……などなど。
『面白い話だと思わない?なのに、ヘイゼルは珍しくためらってるのよ?』
エレノアの声が妙に攻撃的だ。
なぜこんなにいらいらしているんだろう?
アンゲルはそれが気になったのだが、理由を聞いてもいいものかどうか判断がつかなかった。
「そういえば、ヘイゼルの様子が変なんだよ」
代わりに別な話題を出した。
『変?』
「おちゃらかさないし、おもしろそうでもないし、なんか、真面目な顔でカレンダーを見つめてるんだ」
『……ヘイゼルもパーティが嫌なんじゃない?』
「そうかもね。エブニーザは100%行きたくないっていう顔してるし」
受話器を持ったままアンゲルがソファーの方を見ると、エブニーザは、暗い顔でぶつぶつと何かをつぶやき続けていた。何かの黒魔術のようだ。
『ねえ、ヘイゼルを説得してみてよ。どうすればいいか。私はフランシスと話すから』
「わかったよ」
電話を切った。
「言っとくが、ご令嬢のパーティを潰すのは不可能だぞ」
ヘイゼルがアンゲルに向かって、先手を打った。
「何でだよ。本人が嫌がってるし、またカフェかどっかでやればいいだろ」
「僕は逃げます」
「エブニーザ!」
ヘイゼルが怒鳴った。エブニーザがびくっと全身を震わせた。
パーティはやむなく実行された。
エレノアは出たくなかったのだが、フランシスに押し切られて、ついていくことになってしまった。
どうしていつも強硬に物事を決めるフランシスが、肝心な時に人のいいなりになってしまうのか、エレノアにはどうしても理解できなかった。
人の予定は勝手に決めるくせに……。
不満に思いながら車に乗った。車内ではフランシスも無言で窓の外を見ていた。とても自分の誕生パーティに行く人間には見えなかった。全く楽しくなさそうだし、かといっていらいらしている様子でもない。無表情なのだ。
フランシスの無表情は、怖くて冷たい印象を人に与える。
一時間ほどで、首都のホテルにある巨大ホールにたどりついた。大げさなデザインの花飾りやブーケ、ワイン、ごちそう、あらかじめ送られてきたプレゼントの箱が山積みになっているステージ(どの箱にも企業名が大きく入っているから、目的は宣伝なのだろう)まである。
フランシスとエレノアは、会場に着くなり、ステージの前に立つよう、白ひげに言いつけられた。
「ここから動かないで下さいよ」
白ひげは気難しいしかめっ面を崩さない。
「今日一日くらいは、シグノーの人間としてふさわしい態度でいていただかなくては」
「言われなくてもわかってるわよ」
いつも以上にきつい声でフランシスが答えた。
エレノアはいたたまれない気分でフランシスの隣に立っていた。
どうしてこんな楽しくないことをわざわざやるんだろう……?
白ひげとフランシスを交互に見ながら、エレノアはそう思っていた。
そのうち、招待客が会場に現れ始めた。ほとんどはイシュハの上流階級の人間で、いかにも『私はセレブ、私こそがセレブ』と全身で訴えているような、自信に満ちた、不自然なほどキラキラした人々だ。
「久しぶりだね、フランシス」
羽振りのよさそうな、太った、にこやかな紳士が近づいてきた。
「元気そうだね」
「おかげさまで元気でありますのことよおほほほほ」
フランシス、顔はにこやかだが言葉がおかしい。無理矢理、自分とはほど遠い『大人しいご令嬢』を装っているせいだろうか。
だからやめればって言ったのに……。
きっと今日帰ってから、また文句を言いまくるだろうなあ……。
エレノアはフランシスを横目で見ながらそう考えていた。つまり、今日、エレノアがこの会場で疲れ果てて帰っても、フランシスは気が済むまですさまじい愚痴と悪口を言い続けるに違いない。それに付き合わなくては眠れないということだ。
エレノアは憂鬱になってきた。
一通りの来賓が挨拶を終えた……と思ったら、会場の入口あたりからどよめきが起こった。
ノレーシュの姫君、クウェンティーナが、豪華なドレスと、数人のセキュリティガード(全員黒服にサングラス)を連れて入って来た。
クーは、美しいが動きにくそうな長いドレスのすそをひきずってフランシスに近づくと、いかにも来賓らしい社交的笑顔で笑いかけた。
「お誕生日おめでとう、フランシス」
いかにも王族らしいおごそかな、しかしよそよそしい声で言った。フランシスは、
「ありがとうございます」
と言ったが、目元が引きつっていたのが隣のエレノアにはわかった。
何だか今日、二人とも変だわ……。
クーは、エレノアが考えていることがわかったのか、去り際にエレノアに近づき、小声で、
「今日はご来賓の役なの。仲良くできなくて残念だわ」
とつぶやいた。一瞬だが、寂しそうな顔をして。
そのあと、前のパーティと同じように、フランシスの『もとルームメイトたち』がつぎつぎと現れ、おそらく本心からではないであろう笑顔と甲高い声であたりを取り巻き始めた。
そのうち何人かはエレノアを覚えていて、親しげに声をかけてきたが、エレノアは、まわりに響き始めたきゃあきゃあ言う声でめまいがし始め、できるだけにこやかにやりすごしながら、少しずつ人の輪から外れ、飲み物がある場所にふらふらと辿り着いた。
疲れる……。
来るべきじゃなかったかも。
そもそも、あんなに嫌そうなのに、どうしてパーティなんかするのよ、フランシス!
並んだグラスの前でため息をついていると、
「どうかしましたか」
隣に誰かいた。エレノアが横を向くと、上等なスーツを着た、やさしそうな青年が、ワインの入ったグラスを差し出して笑っていた。
「ありがとう。なんでもないの」
グラスを受け取りながら、エレノアも笑った。
「あなたはシグノーの親せきですか?見かけない顔だけど」
「フランシスは友達よ。ルームメイトなの」
「それは大変だ」
青年は同情するつもりでそう言ったのだが、エレノアの勘に障ってしまった。
「何が大変なの?」
エレノアが冷たい目つきと声で言った。
「フランシスの何を御存じなの?」
「いや、あの」
青年が慌てた様子でまくしたてた。
「よく物を投げたり叫んだりするっていう話を聞いたことがあるし、実際、去年の『セレブリティ』に、ワインボトルを来客に投げつける瞬間を写真に撮られてるんだよ。知らない?」
「それは知らなかったわ」
……フランシスがものを投げる所なら、何度もこの目で見てるけど!?それが何?
エレノアはそう言いたかったのだが、代わりに、
「知り合いを探しに行きますから、失礼するわ」
冷ややかな声を残して、その場を立ち去った。
アンゲルか、エブニーザを探そうっと。
エレノアが通路に出ようとした時、会場の隅に、ワイングラスを持ったまま鋭い目でフランシスをにらみつけている『白ひげ』の姿を発見した。
会場を見回す。フランシスの親や親せきらしき人間は見当たらない(エレノアは彼らの顔を知らないから、探しようもないのだが)ほとんどが若々しい、あるいは、中年の、どこかの業界で活躍しているような風貌をしていた。会場の隅に置かれているピアノから、やせぎすのピアニストが奏でる、妙に小難しい曲が聞こえてきた。
パーティにふさわしい曲じゃないわ。きっと、自分の腕を自慢したいだけなのね。
エレノアはため息をついた。ここは『フランシス・シグノー』の誕生パーティの会場のはずだ。誕生日は、家族か、エレノアみたいに、親しい友人が集まって祝うべきだ。でも、この会場には、本当にフランシスと親しい人間はいないのではないか?みんな、単なる暇つぶしか、自分のビジネスのためにだけ来ているのではないか?
再び会場を見回すと、フランシスのそばに、ヘイゼルが立っているのが見えた。赤い服装が異様に目立つ。なぜいつも赤い服を着ているのだろう?一緒に笑顔で客と話しているが、二人とも、目元と口元が不自然に引きつっているように見えた。
暴れるのも、時間の問題かもしれない……。
エレノアは、何かを視界から振り切るように、勢いよく通路へのドアを開けた。
今日のあの二人、不気味だな。
遅れて到着したアンゲルは、少し離れた席で、着慣れないスーツのほこりを払いながら(別に汚れてはいないのだが、真新しい服を着ると、アンゲルはどうしてもそういう動作をしてしまう)『本日の主役』フランシスと、その隣でひきつった笑顔を浮かべているヘイゼルを眺めていた。
エブニーザは、到着したとたん、どこかに走って行ってしまった。
もしかしたら、そのままアルターまで逃げ帰ったのかもしれないとアンゲルは思った。
ヘイゼルは明らかに楽しくなさそうだ。しかし、ずっとフランシスの隣から離れようとしない。
一体何を考えているんだろう?
そういえば、この前、キスがどうとか言ってたな……やっぱりフランシスを狙ってるよな、そうとしか思えないよな。でも、もっといい女はいくらでもいると思うけどなあ……。
そういえば、エレノアはどこへ行ったんだ?
フランシスの取り巻きの中にもいない……。
アンゲルが、エレノアを探しに行こうかと考え始めたころ、ヘイゼルが『ちょっと失礼』と言って、会場から出て行った。
そしていつまでも戻って来ない。
「フランシス」
アンゲルは、取り巻きをかきわけて、フランシスに近づいた。
「あら、来てたの?」
作り笑いを浮かべていたフランシスが、アンゲルを見たとたん真顔(すごく怖い顔)に戻った。
アンゲルは『プレゼントを持ってこなかったのがばれませんように』と心で祈りながら、
「エレノアを探してるんだけど?」
と早口で言った。
「エレノア?」
フランシスがあたりを見回し始めた。どうやら、エレノアがいなくなったことに気づいていなかったらしい。
「どこに行ったのかしら……あんた、探してきてよ」
横柄な態度でこんなことを言われたので、アンゲルはむっとした。
「言われなくても探すよ。でもここには連れてこないからな!」
「どういう意味よ!?」
「自分の態度に聞け!」
二人とも大声を上げていたので、周りの客が驚いてどよめき始めた。
アンゲルは全員を無視して会場の出口に向かった。
「ついでにヘイゼルも探してよ!」
後ろからフランシスの叫び声がした。
絶対探してやるものか!とアンゲルは息巻いた。
アンゲルが廊下に出ると、建物の従業員らしき紫色の制服を着た集団が、奥の通路にたむろしていた。あるドアの前に集まって、不満げに何かをささやきあっている。
「なんだあれは」
「警備を呼んだ方がいいんじゃないか」
「あれって、シュッティファントだよね?」
通り過ぎようとしたアンゲルが目をむいた。
「あのー」
一番おだやかそうな女性の従業員に話しかけてみた。
「何かあったんですか?」
「休憩室に突然変な人が入ってきて『出て行け!』って怒鳴り始めたの」
「えっ?」
アンゲルがあわてて中を覗くと、見覚えのある赤い人物が椅子にふんぞり返っていた。
「何をしてるんだお前は!?」
アンゲルは甲高い声で叫ぶと、荒々しい足取りで中に入り、ヘイゼルの腕をつかんで引っ張った。
しかし、ヘイゼルは動きたくないらしい。
「いいじゃないか、ここは休むところだろ?」
「従業員が使う部屋なんだよ!お前が入る所じゃないっつの!」
「エンジェル氏はあいかわらず頭が固いな!」
「お前が非常識なだけだろ!?」
「また常識か。本当にその言葉がお好きだね~。お宅の国の教会にも言ってやったらどうかな?」
「うるさいな!早く出ろ!」
従業員が、言い合いをしている二人を、ドアの向こうからそーっと見守っていた。その中に、エレノアがやってきた。
何してるんだろう、あの二人……。
「何があったんですか?」
エレノアは、隣で中を覗いているメガネをかけた従業員に尋ねてみた。
「いやあ、休憩中にあの変な赤いスーツの男が入ってきて『出て行け!出て行け!』って騒ぎだしたんだ」
「えっ?」
エレノアの顔が引きつった。
ヘイゼル、とうとう気が狂ったの?
それとももとから変だっけ?
エレノアは、今までのヘイゼルの奇行……いや、行動を思い出した。
……ああそうだ、変だったわね!もとから!
エレノアは深いため息をついた。
「怖いからみんなで外に出たんだけど、そこにあの茶色い髪の男が来て」
「ああ、あれは友達なんです。私の」
エレノアは弁解のように言った。
「あの、赤い人にいつも振り回されて大変なの」
「麻薬でも飲んでるの?」
他の従業員が尋ねた。エレノアはしかめっ面をした。
「飲んでないと思うけど……もともとハイな性格だから」
中では、ヘイゼルがしゃべり続けている。
「ご令嬢はな、自分が優位に立っている間は上機嫌なんだ。そういう風に育ったからな。ところが、ちょっとでも相手の方が優位になると、わけがわからなくなってパニックを起こすんだ」
「……それは、フランシスの話じゃなくて、お前の話だろ?」
「いちいち突っ込むんじゃない……まあ、そうだな。今日はご令嬢の誕生日だから、もちろんフランシス・シグノー様が圧倒的な優位に立っているわけだ」
「ああ、わかったぞ」
アンゲルがニヤけ笑いを浮かべた。
「だからお前、ここんとこずっと機嫌が悪いんだろ?自分よりフランシスの立場が強いから」
「あ~うるさい、エンジェル氏がうるさい」
ヘイゼルが、ハエでも追い払うように、手を顔の周りで振った。
「俺が何を言いたいかというとだな、シグノーの当主の娘として客を接待している間は、客の方が優位なんだよ。お嬢様らしく、大人しく控えめに礼儀正しく……ううっ」
ヘイゼルが、心から嫌そうに顔をしかめて、変なうめき声を上げた。
「こんな気持ち悪い言葉は世の中にないな。しかもあのご令嬢にだぞ?フランシスの本性にそんな性質はかけらもない。断言してもいい。求めるだけ無駄ってもんだよ。今はまだ我慢して自分を抑えてるがな、そのうちキレて暴れ始めるぞ、間違いなくな。今日遊びに来てるジジイババアどもは、そんなこともわからないのかね。何年無駄に生きてるんだよ?冗談じゃない」
「……お前もちょっとは控えろよ、態度を、ティッシュファントム」
「ティッシュファントムじゃない!!シュッティファントだ!!」
ヘイゼルの声があまりにも大きかったので、アンゲルは後ろに軽く飛びのき、外の従業員たちもびくりと身を震わせた。
「どうでもいいから早くここから出ろ!」
アンゲルが呆れてそう言った時、後ろからコツコツという足音が聞こえた。
「一体何をしてるの?外で困ってる人がたくさんいるんですけど?」
そこにいたのはエレノアだが、彼女らしくない、低く、不機嫌そうな声だった。表情も沈んでいて、疲れているように見える。
何かがおかしいと気がついたのか、ヘイゼルがめずらしく文句も何も言わず、黙って廊下に出て行った。外にいた従業員が一斉に身を引いた。
「何かあったの?」
アンゲルがエレノアに尋ねた。
「今日、調子悪そうだね」
「何が?」
エレノアがアンゲルの方を向いたが、表情がうつろだった。
「何でもないよ」
アンゲルはそう言うと、逃げるように廊下に出た。ドアの外の従業員が、迷惑そうな顔でアンゲルを見た。
「すみません、俺もあのティッシュファントムには困ってるんです」
アンゲルが控えめに謝ると、後ろにいた若い従業員が噴き出した。おそらく、この職場はしばらくの間『赤いティッシュファントム』の話題で持ちきりになるだろう。
アンゲルが会場に戻ると、エブニーザとシギが、テーブルで何かを熱心に話しているのが見えた。
「ロンハルトからオーケストラが来てるんですよ!」
エブニーザが、近づいてきたアンゲルに気がつくなり、紅潮した顔でそう叫んだ。めずらしく嬉しそうだ。
「パーティの後半で演奏予定なんだが、たぶん実現することはないだろうな」
向かいのシギはあいかわらず平坦な、何の感情もこもらない声を発した。
アンゲルは、一体何を楽しみにシギがこんなところに来ているのか、さっぱり理解できなかった。
「なんで?」
「もうすぐフランシスか、ヘイゼルが暴れるからさ」
シギはこう言うと、ワインを一気に飲んで、こう付け加えた。
「パーティにはつきものだからな、あいつらのケンカは」
「そう?」
アンゲルは横目でちらっとステージの方を見た。フランシスが、年配の、上品そうな身なりの婦人と話しているのが見えた。顔だけ見ると笑っていて楽しそうなのだが。
「だから!ヘイゼルをフランシスに近づけちゃだめですよ!」
エブニーザが早口で勢いよくしゃべっている。そんなにオーケストラが楽しみなのだろうか?
「無理だよ。いつのまにか隣に現れるんだ。性格が悪いと超能力が身に着くんだろうな」
シギはどうでもよさそうな口調だ。
「そんな冗談言ってないで方法を考えて下さいよ!」
「ヘイゼルはどこに行った?さっき廊下にいたけど?」
アンゲルは改めて会場を見回したが、赤いジャケットは見当たらない。
「見当たらないな」
シギが妙な目でアンゲルを見上げた。
「エレノアはどこにいる?」
アンゲルはぎょっとした。
何でそこでエレノアが出てくるんだよ!?
「そんなことよりいい方法を考えて下さいよ!」
エブニーザが非難するような口調でシギに向かって叫んだ。
「めったに聞けないんですよ!ピアノ協奏曲第13番ですよ!?」
「他に12曲もあるかと思うとめまいがするな。あんなつまらない曲が」
「つまらなくないですよ!!」
「とりあえずさあ」
アンゲルが二人の間に割って入った。
「二人はフランシスのまわりにくっついてれば?俺がヘイゼルを探す(と見せかけてエレノアを探す)から」
アンゲルはそれだけ言うと、二人の席から離れて、会場をうろうろ歩き始めた。エレノアを探したのだが、見つからない。
まだ会場の外にいるのかな?機嫌悪そうだったしなあ。
アンゲルはまた外に出てみることにした。
しかし、ドアに手をかけようとした時、
「ドゥロソ人は帰れ!」
というきつい怒鳴り声と、グラスが割れる音がした。
何だ?
人だかりができている方向に向かうと、そこには、
「ふざけんじゃないわよこのクソ野郎が!!」
すさまじい怒りの形相で、客に向かって手当たり次第にグラスやワインボトルを投げつけているフランシスの姿があった。
そして、床に座り込んでいるエレノアの姿も。
「エレノア!」
アンゲルがあわててエレノアに駆け寄った。
エレノアは泣いていた。髪と服が濡れていて、アルコールのにおいがした。
「何があった?」
「わからないの」
エレノアが嗚咽しながら、小声でつぶやいた。
「あの男が、私に『ドゥロソ人か?』って聞いてきたから、父はドゥロソ人だって答えたら、ワインをかけられたわ」
「何だって?」
「紛争中ですからなぁ」
後ろから、弾んだ声がした。ふり返ると、例の赤い人物が、薄笑いを浮かべながら二人を見おろしていた。
「何がおかしいんだよ!?」
「いやあ、ここは麗しきイシュハですからな。ドゥロソって単語を聞いただけでいきり立つ短気な国民が多くてね」
ヘイゼルはそう言うと、走りだした。ものを投げているフランシスに向かって。
「おい!何をする気だ……」
ヘイゼルはフランシスの前を通り過ぎたかと思うと、暴言を吐いている男に体当たりを食らわせた。
「おい!」
「最悪」
胸元でエレノアがささやく声がした、アンゲルが顔を覗くと、驚くほど真っ青で、小刻みに震えていた。
「最悪だわ」
「ここを出よう」
アンゲルは、エレノアを支えながら一緒に立ち上がった。
「こっちにまで物を投げてくるかも」
「なにやってんのよ!邪魔だっつの!!」
フランシスの声と、何かものが破壊される音。
悲鳴を上げて逃げて行く客と、逆に面白がってはやしたてる声。
フランシスとヘイゼル(すっかり元気を取り戻したらしい)そして例の男(彼もフランシス並みに気が短そうだ!)が物を投げ合い、とっくみあいのケンカを始めてしまい、白ひげが彼らを止めようと、怒鳴りながら走りまわっている。客はほとんど逃げて行ったが、中には一緒になって物を投げ始めたり、面白がってその場にとどまり、大声ではやし立てたりするのもいた。
そんな中、ピアニストは淡々と、テンポの速いコミカルな曲を、軽快に演奏し続けていた。
入口に、楽器を抱えたスーツ姿の人々がたむろしているのが見える。オーケストラが到着していた。しかし、おそらく全員、何が起きているのか理解できないのだろう、立ちつくしたまま動く様子が見えない。
ああ、オーケストラは無理だ。
でもすごいな、まるで、曲に合わせてみんなが踊っているみたいだ。
エブニーザは、一番すみっこの安全な席で、クーと一緒に大混乱を見つめながら、そう思っていた。
流れているのは彼の好きな曲だ。
音楽に乗って人が走り回っているように、彼の眼には見えた。まるでコメディの一場面のようだ。
「ビデオカメラを持ってくるんだったわね」
クーがニヤニヤと笑いながら、ワインに口をつけはじめた。
「駄目ですよ」
「だって、私がやらなくても、ここにはタブロイドの記者が山ほど来ているのよ?きっと来週あたり、雑誌の棚が『イカれたシグノーのご令嬢』の写真であふれるでしょうね」
「『セレブリティ』の記者が来てるからな」
隣の席のシギが、どうでもいいような声で付け足した。
そのころ、会場の外に出たアンゲルとエレノアは、タクシーを探しに外に出ようとしていた。
しかし、タクシーはなかなかつかまらない。
「やっぱりこうなるんだなあ。あとでヘイゼルに交通費を請求してやる!」
「私のせいだわ」
「は?」
エレノアが、真っ青な顔でうつむいていた。
「あれでも、我慢していたのよ、フランシス。今日だけは暴れないで済まそうと思って。でも、私のせいで爆発しちゃったわ……」
消え入りそうな声だった。アンゲルはだんだん心配になってきた。目の前のエレノアが、ひどくショックを受けているように見えたからだ。
「エレノアのせいじゃない」
そう言いながら、アンゲルは通りがかるタクシーに向かって勢いよく手を振ったのだが、タクシーは無視して通り過ぎてしまった。
「あの変な男のせいだろ?何だよ、いくら紛争中だからってこんなところで」
「私が不注意だったのかも。イシュハでむやみに『父はドゥロソ人です』なんて言っちゃいけなかったのよ」
「エレノア、自分を責めるのはやめようよ」
いらいらし始めたアンゲルは、半ばやけくそ気味に、両手をぶんぶんと振り回した。
タクシーがようやく止まった。
「アルターまで、いくらかかります?」
「アルター!?」
運転手が嫌そうな声を上げた。
「こっからじゃ、渋滞がなくても200クレリンはかかるよ」
「200って……」
「私。持ってるわ。300までなら大丈夫」
エレノアが低い声でつぶやきながら、タクシーのドアを開けた。アンゲルもあわてて後に続いた。
あの『恐怖のお誕生パーティ』から数日経った。
しかし、エレノアはずっと落ち込んだままだった。
ただでさえ朝に弱いのに、レッスンがある日にも、昼まで起き上がることができず、午後もぼんやりした顔をしていた。
「ダメ!駄目よ!どうしたのよエレノアちゃん!?」
ケッチャノッポの叫び声がする。
エレノアの耳には、目の前の先生の声すら、かなり遠くに聞こえていた。
……帰りたい。
「エレノアちゃん!!」
ひときわ大きく鋭い声がしたので、エレノアはようやく我に返った。
「しばらく、レッスンは休みなさい!」
「えっ?」
「そんな気の抜けた様子じゃ、何を教えても見に入らないでしょ?しばらくニッコリ先生の授業にでも出てなさい。こっちには来なくていいから!」
エレノアの顔が引きつった。
もうレッスンが受けられない?
「でも、コンサートも近いのに……」
「そんな状態でコンサートなんて無理よ!」
ケッチャノッポはそう叫ぶと、部屋から出て行ってしまった。
一人残されたエレノアは、しばらく動くことができず、その場に立ち尽くしていた。
私、そんなにひどいの?
コンサートなんて無理なの?
同じころ。カフェ。
アンゲルは『セレブリティ』をめくりながら、顔をしかめていた。
『シグノーのご令嬢がまた乱闘』
『ヒステリーに振り回される人々』
『同室のドゥロソ人女性が襲われる』
『薬物使用の噂も』
こんなタイトルが並んでいて、悪魔の形相をしたフランシス(いつどこで見ても怖い!)の写真が大きく載っていた。
フランシス……やっぱりうつ病なのか?未だに薬飲んでないのか?
アンゲルは、いつか、ヘイゼルの別荘で見た大量の薬を思い出していた。
でも変だな、ヘイゼルもかなり暴れてたのに、写真に撮られてないし、文章にも一言も『シュッティファント』が出てこないな?なぜだ?
それに、フランシスが暴れたのは事実だとしても、きっかけは、あの男がエレノアに怒鳴りつけてワインをかけたからなんだよな……それが何も書いてないな。
肝心のあの、エレノアに怒鳴りつけた男のことは、記事はおろか、写真すら出ていなかった。
そして、エレノアのことが『シグノーを利用しようとしている無名歌手』と書かれていることにも腹が立った。
エレノアがそんな理由でフランシスとつきあうわけがない!
エレノアと自分の姿も写真に撮られていて、記事の隅っこに乗せられていたが、アンゲルにはこの『写真の二人』がすごく不釣り合いに見えた。
泣いててもきれいなんだよなあ。
隣の俺は……やっぱカエルだなぁ。
アンゲルは雑誌を閉じてため息をついた。
やっぱり俺とエレノアは釣り合わない……いや、そんなことを考えている場合じゃない。
勉強しようと、アンゲルが教科書を開いた時、エレノアが歩いて来るのが見えた。
「エレノア!」
呼びかけて見たが、エレノアは、ちらっとアンゲルに視線を流しただけで、立ち止まらずに、そのまま図書館の方向に消えてしまった。蒼白な顔で。
あれ?変だな?
しかも何だろう、あの深刻な顔は?やっぱりあのパーティの事がショックだったのか?
図書館内にはエブニーザがいて、黒魔術の本を熱心にめくっていた。
遠くにいる人を見つけ出す方法が書いてあればいいんだけど……そういうのはないみたいだな。
彼女はいったい、どうしてしまったんだろう?
どうして見えなくなったんだ?
まさかもう生きていないんじゃ……。
「エブニーザ」
早く見つけ出さないと……。
「ねえ!」
いつのまに来たのか、エレノアが目の前に立っていた。顔が真っ青で、全く感情が見えない表情をしていた。
「どうしたんですか?顔色が悪いですよ」
「なんでもないわ」
エレノアが向かいの席に座った。しかし、エブニーザの視線を避けるように、下を向いたり、窓の外を見たり、落ち着かない様子だ。
「エレノア?」
明らかに、泣きそうになるのをこらえているようだった。目元に涙が浮かんでいて、口元はきつく結ばれて、震えていた。一体これから何が起こるのか、エブニーザはだんだん怖くなってきた。
「なんでも……ないの」
エレノアは立ちあがった。涙が頬を伝った。
「ごめんなさい」
それだけ言うと、エレノアは逃げるように資料室を飛びだし、走り去ってしまった。
カフェで、アンゲルが本を眺めながらうとうとしていると、珍しくエブニーザがやってきた。
「眠いなら、部屋に帰った方がいいんじゃないですか?」
「いや、もうちょっとこれを読んでからにするよ」
アンゲルが手元の本を振った。
「それよりお前何してんの?人に慣れに来たのか?」
「エレノアが変なんですよ」
「エレノア?」
「さっき資料室に来たんですが、顔が真っ青で、泣きながらどこかに走って行きました」
「ほんと?」
アンゲルは顔をしかめた。
「そういえば、さっきここを通ったんだけど、無視されたんだよな……やっぱりパーティのあれがショックだったんじゃないか?」
「それだけだといいんですけど……」
「どういう意味?」
「何でもありません」
エブニーザはカフェから出て行った。
……わざわざ俺にエレノアの事を知らせに来たのか?
何を考えてるんだ?
アンゲルも立ちあがった。部屋に戻ることにした。眠いからではなく、エレノアの部屋に電話をかけるためだ。
「帰ってくるなり部屋にこもって、出てこないのよ」
電話に出たのはフランシスだった。めずらしく気弱そうな、怯えた声だった。
「パーティからずっとそうなの。やっぱり私のせいだと思う?あんたもそう思ってるんでしょう?だからわざわざ電話したってわけね?」
「思ってないよ」
アンゲルはうんざりした声で言った。
「パーティの帰りに、エレノアが、お前が暴れたのは自分のせいじゃないかって言ってたんだよ」
「何ですって?」
いつもの勘に障る声が戻って来た。
「そんなわけないじゃないの。あのバカ男が悪いのよ!確かにイシュハとドゥロソは紛争中で、どっかの道端では抗議行動とかしてるんでしょうけどね、私のパーティでそんなことする資格は誰にもないんですからね!だいいちヘイゼルが余計な事をするからあんな大騒ぎになって……」
「わかった、わかったよ」。
話が長くなりそうなので、アンゲルはあわてて遮った。
「とにかくさ、しばらくほっといてあげなよ。きっとまだショックが抜けないんだ。面と向かって否定的なことを言われたんだから」
「あんたに言われなくたって、わかってるわよ、そんなこと」
電話するんじゃなかった、と思いながら、アンゲルは受話器を切った。
落ち込んでるんだなあ。
でも、あと2、3日すれば、きっと元に戻るだろうな。
アンゲルはそう思っていたのだが、甘かった。
一週間経っても、エレノアは元に戻らなかった。
昼頃まで、たくさんの目ざましが鳴っても、フランシスがわめきちらしても起きようとせず、午後には一応学校に行くのだが、夕方には帰ってきてまた寝てしまう。
カフェの前を通っても、アンゲルには目もくれず、素通りしてしまう。
ブースにも練習に行っていないのか、受付から『最近見かけないけど生きてるの?』という電話がかかってきた。
フランシスはそれを聞いて、事の重大さにようやく気がついた。
エレノアが、
あのエレノアが、歌の練習に行ってない?
まさか、音楽科のバカ共にまたいじめられたとか?
フランシスはそのまま、勢いに任せて部屋を飛び出し、音楽科まで行って、校舎から出てきたケンタを見るなり、つかみかかるようにして『何があったのよ!』と問い詰めた。
「知らねえよ!そういえば最近見かけねえ……」
ケンタがあたりを見回した。
「ケッチャノッポに聞いたほうがいいんじゃね……あれ?おい!マジで行くのかよ!?」
叫ぶケンタには構わず、フランシスは音楽科の校舎の中に消えて行った。
『歌のレッスンを断られたらしいのよ』
夜中の1時。
突然鳴った電話に起こされ、ぼうっとした頭で受話器を取ったアンゲルの耳に、いきなりこんな言葉が聞こえてきた。
『誰?』
『ケッチャノッポが、エレノアに、レッスンしたくないって言ったのよ!』
フランシスの声だ。いつもに増して甲高い、夜中には絶対聞きたくない声だ。相手の都合はどうでもいいらしい。
『……だから?』
『だからじゃないでしょ!それで落ち込んじゃって、一日中寝込んで一言もしゃべらないのよ!来月、大事なコンサートがあるのに』
『そう』
アンゲルはぼんやりと、昼間の、真っ青な顔のエレノアを思い出した。
『エレノアの人生がかかってるのに。このままじゃ参加できないわ……』
いつのまに起きたのか、ヘイゼルがアンゲルから受話器を奪った。
「こんな時間に電話とは、ご令嬢も欲求不満かな?……相変わらず乱暴な受話器の置き方だな」
電話は切られたらしい。
「何の話をしていたのかな?」
「エレノアだよ。レッスンを受けられなくなって落ち込んでるとか何とか」
「そういえば最近見かけないな」
ヘイゼルはそう言いながら部屋に戻った。アンゲルもソファーに横になって寝ようとしたが、一度目が覚めてしまうとなかなか寝付けない。
パーティの事で落ち込んでいるのかと思ったら、違うんだな。それにしても、昼まで起きないって……同じような話をどこかで聞いたことがあるな、どこだったか……。
考えているうちにまた眠くなってきたが、突然あることを思い出し、跳ね起きた。
……うつ病だ!
うつ病の患者の話を読んでいた時に出てきたんだ。昼間起きられずに、ずっと眠っているって。何かに失敗した後に……何だったかな?
いや、でも、エレノアは違うよな?
一時的に落ち込んでいるだけだよな?
そうに決まってる。レッスンを受けられなくなったって、エレノアには才能があるじゃないか。
アンゲルはまた眠ろうとしたが、考えれば考えるほど、不吉な予感が胸をよぎり、なかなか寝付くことができなかった。
午後三時。
エレノアはカフェにいた。頭がぼんやりしている。
しっかりしなきゃ、と自分に言い聞かせているが、すぐに、もうだめだ、という気がして気分が沈んでいき、目からは涙がとめどなく出てきて、なかなか止まらない。
「エレノア?」
声が聞こえる。
でも反応できない。涙を抑えるのに必死で、誰かの顔を見たら我慢できなくなりそうだ……。
「エレノア?ねえ?どうしたの?聞こえてる?」
エレノアは何も答えずに立ちあがり、出て行こうとした。
アンゲルはあわててあとを追って、女子寮まで一緒に歩いて行ったが、その間、エレノアはずっと泣きじゃくっていて、一言もまともに話せないようだった。
やっぱり、うつ病かもしれないぞ……。
アンゲルは寮に戻り、『患者への対処の仕方』という本を手にとって、どうしようか考えていた。
そこにヘイゼルが帰ってきた。
「サッカーの試合があるのだが」
「悪いけどそれどころじゃないんだ」
アンゲルは本から顔を上げずに言った。
「エレノアか?」
ヘイゼルがアンゲルの本を取り上げた。
「何をそんなにいつまでも落ち込んでるんだ?おかげでシグノーのご令嬢の機嫌も悪くてね」
「フランシスが不機嫌なのはいつものことじゃないのか?」
「今回は特別におかしくてね。どうも、エレノアのことを聞きに、音楽科に怒鳴りこんだらしい」
「ハァ?」
「それが、あの夜中の電話の原因さ」
「音楽科まで行ったのか」
アンゲルはヘイゼルから本を取り返した。
「すごいな。そこまでエレノアが心配なんだな」
「まさか」
ヘイゼルが、胡散臭そうな顔で目元をしかめて、手をぶらぶらと振った。
「そうじゃないさ。あのご令嬢は、一度気に入ったものに異常に執着するんだ。それだけさ。他人の心配なんてしない。自分が何かを失うのが心配なだけだね。断言してもいい。友達なんてエレノア以外誰もいないからな、執着もするさ」
「お前は友達じゃないのか?」
「お友達なんて冗談じゃないね」
「じゃあ何なんだよ」
「何だっていいさ」
ヘイゼルがドアに向かった。
「サッカーに行くよ。ったく、どいつもこいつも辛気臭くて嫌だね」
ドアは乱暴に閉じられた。
夕方。
エレノアは部屋にこもって、ぼんやりと窓辺を見つめていた。
外は晴れていて、空はすがすがしく、窓からの光も明るい。
影の中にたたずんでいる自分とは、世界はあまりにも対照的だ。
エレノアが、いつも以上に人目を避けて部屋に閉じこもってしまったので、フランシスはひたすら困っていた。どうしていいかわからないからだ。
「ねえ、食事しに行かない?あんた昼も食べてないでしょ!?」
ドアの前で叫んでみるのだが、返事はここ数日、いつも『いらない』だ。
「ちょっと!!いいかげんにしなさいよ!」
フランシスがキンキン声で怒鳴り始めた。
「あんた声楽やってるんでしょ!?飢えたら声なんか出ないじゃないのよ!とっとと出てこいっつの!!」
「……もう歌はだめかも」
消え入るような声が中から聞こえてくる。
「は?」
「もう歌わないかも」
エレノアの言葉に、フランシスは心底ぞっとした。
飛びあがるように電話のところまで走って行き、
「クー!今すぐ来てちょうだい!エレノアが変なのよ!変過ぎるの!」
凄まじい声で受話器に向かって叫んだ。
姫君クーは、ものの15分で女子寮に現れた。しかし、
「エレノア!エレノア!出てらっしゃいよ!ドアを開けてよ!」
姫君でさえ、エレノアの部屋のドアを開けることはできなかった。
「まさか中で死んでるんじゃ……」
フランシスがつぶやいた。クーは飛びあがって、
「やめてよ!!」
と、彼女らしくない甲高い声で叫んだ。
次の日。
バイトの帰りに駅前を歩いていたアンゲルは、エレノアが向こうから歩いて来るのを見つけた。
「エレノア~!」
呼びかけて手を振ると、エレノアがアンゲルの方を向いた。しかし、やはり表情がない。
「どうしたの、元気ないね」
「なんでもないわ」
「そう?パーティの前からちょっと変じゃなかった?何かあったら相談してよ、これでも一応心理学の学生なんだから……」
「これは私の問題なの!」
アンゲルの言葉を遮るように、エレノアは突き放すようなきつい声を発して、走り去ってしまった。
おい、今の本当にエレノアか?
フランシスが乗り移ったのか?
やっぱり病気か?
アンゲルはそう思いながら帰り道を歩いていたが、そのうち『単に自分が嫌われているだけなのではないか』という後ろ向きな考えが浮かんで頭から消えなくなり、気分がどんどん沈んでいった。
いや、俺は関係ない。レッスンが受けられないから落ち込んでるだけだ。
アンゲルは、自分に一体何ができるのかと考えたが、どうしていいかさっぱりわからず、寮にたどり着いたころには無力感に襲われていた。
一体、何のために俺はここにいるんだ?
とりあえず毎日、カフェの同じ場所にいる(つまりいつも通りにふるまう)ことにしたが、エレノアはアンゲルを見つけても、無視して通り過ぎて行ってしまう……そんな日が何日も続いた
落胆しながら寮に戻ると、ヘイゼルがソファーの上で新聞を広げながらふんぞり返っていた。
「ここは俺の部屋だろ?」
「まだそんなこと言ってんのか?」
ヘイゼルは人をなめた目つきでアンゲルを見て、楽しそうにニヤけた。
「エレノアはどうしたんだ?ご令嬢の機嫌が悪くて俺まで迷惑しているのだが」
「お前の迷惑なんかどうでもいい」
アンゲルは、向かいのソファーに座って、本を手に取った。
「たぶん、レッスンを受けられないのがショックだったんだよ。パーティのこともまだ抜けきらないんだろうし……あまり人と話したくないみたいだ」
「それくらいでショックを受けて、プロとしてやっていけるのかな?」
「四六時中怒鳴り合って平然としてるお前らとは違うんだよ」
「機嫌が悪いですな、エンジェル氏」
ヘイゼルが向かいのソファーに座って、アンゲルの顔を覗きこんだ。
かなりうっとおしい。
「俺も困ってるんだからほっといてくれよ。どうすればいいか考えてるんだ」
「どうやって考えるのかな?」
からかわれているのかと思って、アンゲルは半ば睨むような目でヘイゼルを見たのだが、相手はいつものからかうような顔ではなかった。
「それ、真面目な質問か?」
「大いに真面目だね」
ヘイゼルがソファーにもたれて偉そうにふんぞり返った。
「女なんてただでさえ不可解なのに、そこにあの魂の抜けたような状態だ。ご一緒の令嬢も今までになくうろたえておいででね。どうしようもない」
「どうしようもないじゃなくて、そこでどうするか考えろよ」
「だからどうやって考えるのかな?」
「どうやってって……」
アンゲルも言葉に詰まった。今のエレノアをどうすればいいのか?アンゲル自身何もわからない。
「エブニーザの言うとおり『ほっておく』しかないんじゃないのかな?」
「あいつは何だってほっとくだろ……何でも予言通りになるとしか思ってないんだから。とにかく、相手のために自分ができることが何か、思いつくだけやってみるしかないだろ」
アンゲルはふたたび本に向き直り、ヘイゼルもそれ以上何も云わず、部屋に戻って行った。『ショック状態の患者のケア』という文章があったので一気に読んだが、今のところは、やはり、時間が経つのを待つしかないようだ。
どうしたらいいんだろう?
そもそも、俺がこんなこと考えてること自体、無駄なのか?おせっかいなのか?
今エレノアは何を考えているんだろう?
「俺さ~、最初のライブでぼろくそにけなされて、ムカついてギターをたたき壊したぜ」
こんな話をしているのは、ケンタ・タナカだ。
音楽科の裏の芝生で、チューナーをいじくっているところに、暗い顔のエレノアが近づいてきて、
「レッスンを断られたの」
と言いだしたので、なぐさめようと思って話し始めたのである。
「おかげで、バイト代をはたいて買ったギターが丸つぶれでさ、次に買い直すまで近所の兄ちゃんに借りる羽目になった、しかも使用料取られたんだぜ?……まあ、だれでも乗り越えないといけないところじゃね?しばらく悩んでればそのうち気分も収まっから」
ケンタはそう言って笑ったが、今のエレノアには、この沈んだ状態から浮き上がれる日が来るとは、どうしても思えなかった。
帰りにカフェの前を通り、アンゲルの姿を見かけた。やはり本を呼んでいる。
何のためにあんなに熱心に勉強しているんだろう?
『エレノアの歌と同じで必要だからやっている』
と、前に言われたことを思い出した。
今の自分に、歌は必要だろうか?
そもそも、歌以外にできることなんてないのに、どうしたらいいのだろう?
この日も、エレノアは、アンゲルを無視して、カフェの前を通りすぎた。
首都の病院。
アンゲルがタフサに、エレノアの事を話した、すると。
「学校で習ったことやカウンセリング事例は全て忘れて、友達として接するんだね」
タフサは、いつも通り深みのある声でそう言った。
「どういうことですか?」
「対等に、友人として、ということさ」
タフサが独特の柔らかい笑みを浮かべた。
「言葉で言うのは簡単だけど、これは最も難しい態度なんだよ。高みから見おろすのも、下からへりくだるのも簡単だ。残念ながら、現代人の生活はたいていこの二つの態度から成り立っている。君の周りにもいるだろう、常に他人を高みから見おろして人を不快にさせて、それでいて本人はいいことをした、あるいは友人だという顔をしている人が」
アンゲルの頭に、即座に、ある赤い人物の顔が浮かんだ。
「要するに、カウンセリングをしてやろうなんて思わないで、普通に友達として話を聞いてあげることだね」
それじゃあ、今まで勉強したことは何だったんだとアンゲルは思うが、タフサはアンゲルの不満を見抜いたのか、こんなことを言った。
「カウンセラーは本人の問題を解決できない。それができるのは本人と、実際に本人に関わっているまわりの人間なんだ。僕らができるのは、まず話を聞くこと、引き出すこと。そして、混乱したり怒ったりしているクライアントを落ちつかせて、考える余裕を与えることくらいだ。カウンセリングに救済を期待するのは間違っているし、カウンセラーが『お前の問題を解決してやろう』『救済してやろう』なんていうのはそもそも不可能なんだよ」
「そうですね……その通りです」
アンゲルが今まで感じていた違和感と、その返答は一致していた。
「でも、エレノアがこんなことで悩むとは思ってなかったな」
「どうして?」
「どうしてって……美人で才能もあって、性格も穏やかで、管轄区の人間みたいに誰かに監視されているわけでも、狙われているわけでもないし」
「まあ、狙われてないのはいいことだけどね」
タフサが苦笑いした。自分も追われた経験があるからだろう。
「ほとんどのクライアントは、自分が人より恵まれているとわかっているんだ。食うに困らない金があり、家があり、妻や夫、子供、孫がいる人もいる。人がうらやむような仕事や地位を持っている……それでも、悩むんだ。そして、自分の悩みや不安をどう扱っていいのか、わからないんだよ。それで、精神科医だのカウンセラーだの、占い師だの、なにかにすがろうとする。でもね」
タフサが真面目な、それでいた半ば白けた顔でこう言った。
「結局、自分の不安に対応できるのは、自分自身でしかないんだ」
図書館の資料室。
エブニーザとクーが話をしている。
クーはエレノアが心配でたまらないが、全く会ってもらえず、寂しいらしい。
「あなたも本当は気になっているのではないの?」
「そうですね……」
エブニーザが目線を上に向けた。
「エレノアは、だれにとっても特別ですから」
「あなたにとっても?」
クーがエブニーザの顔をじっと見つめた。エブニーザは少しだけ顔を赤らめた。
「そう……ですね、でも、変な意味じゃないですよ」
「わかってるわ」
クーが窓のほうを向いた。
「例の女の子は」
「最近見えないんです……」
エブニーザはうつむいた。
「生きているのかも、わからない」
「大丈夫よ」
窓辺に視線を向けたまま、クーがつぶやいた。
何が大丈夫なのかは彼女にもわからなかった。他に言いようがなかったのだ。
アンゲルはまた作業所の『見張り』のバイトをすることになったが、以前と違い、脱走する患者が続出した。
「どっちに行った?」
一緒に監視していた学生も走って来た。
「たぶん裏口の方だと思います!」
アンゲルはそう言いながら、裏口に向かって走って行く。外に出ると、はるか向こうに白衣を着た後ろ姿が見えた。あわてて追いかける。
「待って!」
「お前もやつらの手下だな!?」
追いつかれた患者が、いきなりアンゲルのむなぐらをつかんだ。目が血走っている。
「奴らって何ですか!?」
「お前宇宙人だろ!いかにもそんな顔だ!」
「何ぃ!?」
アンゲルも逆上して相手につかみかかり、そのまま二人で地面に倒れた。
「おい!何をしてるんだ!」
あとから来た監視員に引き離された。患者は両脇を押さえられながらも、わけのわからないことをすさまじい声で叫び続けていた。
「患者とケンカしちゃ駄目だろう?」
「すみません」
作業所に戻ると、他の患者は、何も見ていなかったかのように、黙々と自分の作業を続けていた。もしかしたら、自分以外の人間の存在を認識できない人たちなのかもしれない。
「おお、また来たか」
例の『王様』がアンゲルを見つけて近づいてきた。狂人だが、少なくとも他人は認識できるようだ。
「お元気でしたか」
「わしは待遇がいいからな」
声は大きく偉そうだったが、顔にはあまり表情がなかった。
「脱走者を追いかけるのは大変そうだな」
「ええ、まあ」
アンゲルは一つ不思議に思ったので、聞いてみた。
「王様は逃げないんですか?自分の国に帰りたくないんですか?」
「わしは人質のようなものなのだ」
『王様』が遠い目で、アンゲルの後方のさらに遠くを見るような顔つきでつぶやいた。
「人質ですか?」
「わしがここで妙な動きをしたら、わが国民にも類が及ぶではないか」
「……そうですか?」
「さよう」
『王様』が少しさびしげに目を伏せた。
「まあ、イシュハとて、よその国王をぞんざいに扱ったとなれば、国益を損ねるからな。人質としてはよい待遇だ。飯は3度出る。趣味も出来る……それに、反体制派から身を守るには、ここに隠れているのが一番なのだ」
「はあ」
こんどは反体制派か……。
『王様』がまた彫刻に熱中し始めたので、話はこれで終わったが、アンゲルは言い知れぬ暗い疲れを感じていた。
しかも、この日のアンゲルの苦労はこれだけではなかった。
首都から帰る途中で、突然誰かに肩をつかまれた。
ふり返ると、そこには『黒服のイライザ教の集団』がいた。5~6人、葬式のような真っ黒な衣装に身を包み、手にはあの『聖書』をお持ちだ。
「お前、管轄区人だな?」
一番背の高い男がそう尋ねてきた。
「違います」
アンゲルはとっさにそう答えてしまった。
「違う?」
「イシュハ人です、急いでるんです!」
そう言いながら、アンゲルは全力で駆けだした。
「おい!待て!」
……誰が待つか!!
駅まで全力疾走し、出発寸前だったアルター行きの列車に飛び込んだ。
荒い息をしながら、周りをうかがってみたが、黒服の人間はいないようだった。
……あいつらのことをすっかり忘れてたな!
息を切らし、ドアにもたれながら、アンゲルは、自分の立場を思い出して暗い気分になっていた。
あいつらあそこで一体何をしてたんだ?俺に何をする気だったんだ?
お説教か?それともまた暴行する気だったのか?
考えているうちにアルターにたどり着いた。
悪いことは重なるものだ。
駅前を歩いていると、突然、誰かがアンゲルの目の前に飛びだしてきた。足取りがふらふらしていて、酒に酔っているようだ。
「お?」
男がアンゲルの顔をうつろな目で見るなり、動きを止めた。
「久しぶりだなぁ~」
それは、ロハンだった。
「久しぶりだなあ~じゃないだろ!」
アンゲルは自分でも驚くような大声で叫んでいた。
「何やってんだよ!?」
「話せば長~くなるんだぁぁ」
ロハンがふらふらと近寄って来たかと思うと、アンゲルに組みついてきた。酒の匂いがぷんぷんする。
「おい!」
店の方から声がした。振り向くと、エプロンをした太った男が立っていた。
「あんた、そいつの友達か?」
「は?え、ええ、まあ」
「40クレリン払ってくれ」
「ハァ?」
「あいにく財布をわすれてさぁ~」
酒臭い男は、そうつぶやくなり、脱力して地面に落ちた。
「おい!ロハン!起きろよ!」
「ったく」
エプロン男がしゃがんで、ロハンの顔を覗きこんだ。
「こいつ、毎日のように来ては、ツケにして帰るんだよ」
アンゲルがぎょっとして店主の顔を見ると、怒ってはいないようだった。ただ、心の底から呆れているようだ。
「本当ですか?」
「本当さ」
エプロン男がアンゲルの目をまっすぐ見た。
「40クレリン払ってくれよ」
「なんで俺が!?」
「本当は6800クレリンつけがたまってるんだが、とりあえず今日の分でいいさ」
「6800!?」
アンゲルが変な声で叫んだ。寮費が何ヶ月分も飛んでいく金額だ。
エプロン男はかまわずに手を差し出し、
「40」
と、有無を言わさない目つきでアンゲルを睨んだ。
「そんなに持ってないよ」
「じゃあ、あるだけよこしてくれよ。このままじゃ仕入れもできやしねえ」
アンゲルは顔をしかめながら財布の中を探り、18クレリンを渡した。
エプロン男は不満げな顔をしたが、黙って金を受け取って立ち上がり、店の中に戻って行った。
……今月は本が買えないな……。
アンゲルはそう思いながら、目の前で気を失っているロハンをゆすぶった。
「おい!起きろって!道の真ん中で寝てんじゃねえよ!こら!」
しかし、ロハンは起きる気配がない。
アンゲルは、以前ロハンの部屋に行った時に見た、大量の酒瓶を思い出した。
やっぱりアルコール中毒だな!
しかも6800クレリンだって!?どれだけ飲んだらそんな金額になるんだよ!?
結局、アンゲルはロハンをひきずって『安い寮』まで行く羽目になった。ロハンのルームメイトの、褐色の肌のノレーシュ人が、嫌そうな顔で入口まで出迎えに来た。
「放置して死なせてやった方が幸せだろうに」
ノレーシュ人がそんなことを無表情でつぶやいたので、アンゲルはぎょっとした。
「なんてこと言うんだよ!?……ロハンって、やっぱりアルコール中毒?」
「誰が見ても明らかなる中毒者だ」
全く同情も心配もしていない声が返ってきた。
「知り合いか?」
「バイト先でね」
そういえば、バイトに最近来てなかったな。寮費はどうやって払ってるんだ?
バイト代も出ないうえに酒飲んで6800クレリンも……。
「アル中の母親が、先月亡くなったんだ」
ノレーシュ人がつぶやいた。アンゲルははっとして、ベッドに横たわっているロハンを見た。顔が異常に赤いが、それ以外は、普通に眠っているように見える。
「母親の死因もアルコール?」
「他に何がある?」
……いちいち冷たい返答しかできないのかなあ、ノレーシュ人って。
アンゲルは、暗い気分で『安い寮』を出て、帰り道を歩いた。
何だってみんなおかしくなってるんだ?ロハンに、エレノアに……いや、理由はあるんだよな。母親がなくなれば落ち込むだろうし、エレノアにとって歌は女神みたいなもんだし……そうだ、『何を信じているんだ』って聞いたら『歌』って答えていたっけ……。
でも、信じるって何だよ?
俺だって、狂信的な女神の信徒に追っかけられて大変だってのに……。
女神なんて信じてないのに……。
アンゲルは立ち止まった。
急に、自分が、エレノアやロハンと同じところにいるような気がしてきたからだ。
いや、違う。
ロハンもエレノアもおかしくなってるが、俺はおかしくなってるわけじゃない!
おかしいのは管轄区だ!
そう思い直してふたたび歩き出したが、一度湧きあがった疑問はなかなか消えてくれなかった。
俺はおかしいのか?
いつも周りに気を使って優しいエレノアが、最近は自分と歌の事しか考えられずに落ち込んでいる。
音楽科のニッコリ先生のところには通っている様子だが、帰ってきても、フランシスには話しかけず、まっすぐ部屋に直行し、そのまま出てこない。
「やっぱり重い精神病なんだわ。エレノアがこのままだったらどうしたらいいの?」
怯えたフランシスが電話をしている相手は、シグノーの医者だ。
『予約なしに電話しないで下さいって言いませんでしたっけ!?』
医者もうんざりしていた。フランシスが毎日のように電話をかけてくるからだ。
「何よ!あんたシグノーの医者でしょ!患者である私の話を聞く義務があるのよ!」
『お友達は私の患者じゃない』
「いちいちうるさいわね!……それよりどうしたらいいのよ?呼びかけても反応しないし……コンサートが近いのよ?このままじゃ大きなチャンスを逃してしまうわ」
『たぶん一時的にショックを受けているだけでしょう』
あなたと同じ部屋に住んでちゃ、ストレスも大きそうですからね!
と医者は言いたかったのだが、もちろん口には出さない。
「あんたは毎日『一時的』っておっしゃるけどね、もう何週間経ったと思ってるのよ!ちょっと!聞いてるの!まあ!勝手に切りやがったわ!あんな医者クビにしてやる!」
フランシスが受話器に悪態をついている頃、エレノアは音楽科にいた。
ニッコリ先生の、南国の打楽器を使った音楽療法の授業に出ていたのだ。
精神病の患者もいっしょにいて、にっこり先生の合図に合わせて、マリンバやティンパニ、ドラムを叩く。
……とうとう自分も病気だと思われるようになったのか。
エレノアは暗い気分で木琴を叩いていた。気が乗らないので、どうしてもリズムが合わない。
そこでリハビリしているおばあさんに、アンゲルらしき実習生の話を聞く。脱走した患者を追いかけ回しているが、暴れられて大変そうだと。
「管轄区から来た学生らしいのよ。大丈夫なのかしらね」
「何がですか?」
「管轄区は、医学と心理学は禁止でしょう?捕まらないのかしら?前にも、イシュハで医学を専攻した生徒が殺されたことがあるのよ」
「そうなんですか?」
知らないふりをしたが、エレノアもそのニュースは旅先で聞いたことがあった。
ニッコリ先生がまたリズムの合図を始めたので、婦人もエレノアも話すのはやめて楽器を叩き始めた。
アンゲル……なぜ、そんなに危険なのに、心理学を専攻したんだろう?
目の前にはニッコリ先生がいる。
音楽療法って、どうなんだろう?
歌ができなくてもそれならできないかしら?
そんなことを思いついたエレノアが、帰りに、ニッコリ先生にそのことを尋ねると、
「まず自分が元気にならないといけないし、あなたは華やかだからスターの方が向いてるわ」
と、あいかわらずの笑顔で言われた。
エレノアはそれを聞いて、
ああ、私には無理なんだ。
と、相変わらず暗い方向に思考を向けていた。
首都。
バイト先のレストランに、ソレアの代わりに年配のおばちゃんが入って来た。
「ソレアは?」
「やめたよ」
店主が不満げな顔をしていた。
「学校もやめたらしいな、故郷に帰ったそうだ」
「えっ?」
まさか、俺が原因じゃないだろうな……?
新しく来たおばちゃんも、管轄区の人だそうだ。
「もう帰るつもりはないよ」
手際よく皿を拭きながら笑った。
「こっちのほうが豊かだからねえ。驚くよ」
「でも、あの、いいんですか?」
アンゲルは気になることを控えめに聞いてみた。
「こちらのイシュハ人はみんな無宗教ですよ?あの、女神も信じてませんよ?」
「そんなの今時誰が信じるよ?」
当たり前のようにきっぱり言われて、アンゲルはぎょっとした。
おい、そんなこと言うと襲われるぞ!?
「あの、こっちでそういうことは言わないほうが」
「あんた若いのにずいぶん保守的なんだねえ?」
おばちゃんが呆れた顔で近づいてきて、アンゲルの顔を覗きこんだ。
「どこの人?ちっちゃい町?」
「クレハータウンの近くですが」
「ああ~だからだろ?首都や都会の人間はだれも信じてないんだよ」
……何だって?
アンゲルの動きが止まったのを見て、おばちゃんはおかしそうに笑いだした。
「アッハッハ!確かにあの教会はうるさいけどね。でも、大きな町にはもう、イシュハ人もノレーシュ人もたくさん移り住んで商売してるからね。大事なのは金を稼いで暮らすことだけなんだよ!女神なんて建前だよ。まあ、祈るのも教会に行くのもただの習慣だね」
アンゲルは絶句し、また考え込んでしまった。
こっちに来た管轄区人が、教会に監視されてるのを知らないんですか?
と言いそうになったが、不安になるだけだろうと思い、黙っていた。
こんなにあっぴろげに『誰も信じていない』なんて言えるということは、もう知っているのかもしれない。
でも、そうなら、俺が悩んでるのは何のためだ?
何で俺は襲われるんだ?
「なあ」
裏口の方向から声がした。宅配のアルバイトが入って来た。
「君はアルターの学生だろう?ロハン見なかった?」
「いや……」
『会ったけど酔っぱらってました』と言っていいのだろうかとアンゲルが悩んでいると、
「もう何か月も見かけないんだよ。クビにしてやるって店長が怒ってたから、会ったら伝えといてくれない?」
「……会えたらね」
アンゲルは重い気分でため息をついた。
バイトを休んで、しかも飲んで6800クレリン(アンゲルはこの金額がどうしても忘れられなかった)も使って……。
学費ちゃんと払ってんのか?何してんだ本当に!
そうだ、この前取られた18クレリンもいつか返してもらうぞ!
そういきり立ったアンゲルは、バイトの帰りに、前にロハンにからまれた所に行ってみたが、いなかった。店の様子をうかがっていると、前に会ったエプロンが出てくるのが見えたので、あわてて走って逃げだした。また金を取られては困るからだ。
そして、帰り道ではまた、誰だかわからない視線を感じた。
周りの人間がみんな、こちらの様子をうかがっているような気がする……。
電車の中をきょろきょろと見回す。管轄区の人間らしい人影はない。
嫌だな、ずっとこんな心配をしながら暮らすのは……。
アンゲルは重い気分で、窓の外の夜景を眺めていた。故郷にいたころには想像もできなかったような、街頭や、窓の明かりの、はてしない連なり……。
なぜだろう?まるで街そのものが、なんの命も持たない、無機物であるかのような静けさ、冷たさを、人に感じさせるのは……この無数の明かりの下には、たくさんの人が、生きた人間が、それぞれに人生を送っているはずなのに。
エレノアは一人で、ポートタウンに向かっていた。オペラの公演を見るためだ。
イシュハ歌劇の古典とも言える、今のエレノアの心情にふさわしい悲劇で、代表曲も「私には絶望しかない」という、どん底の歌である。
エレノアは、オペラの間中、ずっと泣いていた。
公演が終わっても、エレノアは立ち上がれなかった。
涙が止まらなかった。
やっぱり歌いたい!
でもどうしたらいいんだろう?
いつまでもいつまでも嗚咽が止まらないので、不審に思った会場の係が近づいてきて、エレノアを外のタクシー乗り場まで連れて行ってくれた。
「彼氏にでも置き去りにされたのかい?」
不審に思った運転手が聞いて来たが、エレノアはずっと泣きじゃくっていて、何も答えられなかった。
首都。
驚くほど日差しが強く、さわやかな日で、大学周辺の林や公園には、散歩や日光浴を楽しむ人であふれていた。
アンゲルはタフサの病院で実習(患者の話し相手になるだけだが)をしていた。この日話した患者はほとんど、がんや内臓疾患など、精神以外のいわゆる『本当の重病』(イシュハでは、精神病を軽視している人がよくこういう言い回しをするのだが、アンゲルはこの言い方が好きではなかった。精神病だって立派な『本当の病気』じゃないか!)の患者が多かった。中にはもう手の施しようのないほど病気が悪化した人もいた。それでも、アンゲルや他の看護士には、驚くほど明るく、礼儀正しく接する人ばかりだ。
死を前にすると、人間変わるんだろうか。それとももともと礼儀正しい人たちばかりなのかな?
そんなことを考えながら廊下を歩いていた時、
キャアァァァァ!!!
という、すさまじく甲高い悲鳴が、窓の外から聞こえてきた。
廊下を歩いていた別な職員が、窓を開けて外を覗いた。
「おい!どうした?」
「カラスが私の頭を蹴ったのよ!!!」
女性の声と、おもしろがってけらけら笑う子供のような声が同時に聞こえた。
「なんだ、そんなことか……おい、君、どうした?」
職員が見つけたのは、真っ青な顔で廊下にうずくまっているアンゲルの姿だった。
悲鳴。
悲鳴だ。
下を向いてうずくまっているアンゲルが見ていたのは、廊下の床ではなかった。
台風で飛ばされた屋根、妹、近所の人々。
そして、その後、何日も続いた、悲鳴。
悲鳴。
それは、止まらずに、アンゲルの頭の中で聞こえ続けていた。
台風のあとの、あの悲惨な叫び声。
誰にも、どうすることもできなかった、あの。
看護士が、アンゲルをベッドのある部屋に運んだ。しばらく横になっているように、と言い残して出て行った。
30分ほど経って、ようやく震えがおさまった。
「大丈夫?」
「大丈夫です。すみません」
「先生を呼ぶ?」
午後から、タフサと話をする予定になっていた。
……何も聞かれたくないな、今日は。
アンゲルは、タフサには知らせないようにと看護士に頼み、今日は帰るとだけ言って、ふらふらと外へ出た。
何年も前だ、もう過ぎたことだ。
なんで今頃思いだすんだ?
きっと疲れてるだけだ、最近忙しすぎたからだ、きっとそうだ。
アンゲルは自分にそう言い聞かせようとした。しかし、頭の隅が、締め付けられているように痛みだし、寮に帰って横になっても治らない。
もしかしたら、自分もまだ、あのときのショックから抜け出せていないのか?
ふと、そんなことが浮かんだ。
本に手を伸ばそうとして、ソファーから落ちた。
頭がよけいに痛む。
もがきながら起き上がると、エブニーザが部屋に戻って来た。
「どうかしましたか?」
「何でもないよ」
「台風ですか」
アンゲルがぎょっとしてエブニーザを見ると、いつも通りの顔色の悪い無表情だった。
「まだ去ってないんですね」
「どういう意味だよ」
アンゲルが声を荒げた。
「お前に何がわかるんだよ?」
「僕には何も分かりません。見えただけです」
「見えただけってどういう……」
アンゲルが抗議しようとしたが、エブニーザは無視して自分の部屋に戻り、すばやく、しかし、音はたてずにドアを閉めた。
まだ去ってない?
どういうことだ?何を見たんだ?
……いや、ばかばかしい。てきとうに言ったのかもしれない。台風のことは、ヘイゼルにでも聞いたんだろうな。だからってお前に何ができるんだよ?
でも。
なぜ、あのときの光景が、悲鳴が、今になっても自分に取りついているのか?
妹が飛ばされるのを、自分は黙って見ているしかなかった。
あの悲鳴も、どうすることもできなかった。
あまりにも無力だった。
自分にできることなんて何もなくて……。
そういえば。
アンゲルはそこで気がついた。
「……無力感か?」
エレノアも、今まで努力してきたことが、全部無駄になったと思ってるんじゃないか?
これから何をしても、変われないと思っているんじゃないか?
もちろん、台風の犠牲者と、音楽では、全然種類の違う話だ。
アンゲルはソファーに座りなおし、目を閉じて下を向いた。
駄目だ。
一度『何をしても無駄だ』と思い込んだら、そんな状態になったら、外から何を言っても通じない。たとえ女神の言うことだって、通じない。
でも、本当にここで終わりか?
違うよな。
まだ出来ることはいくらでもあるはずだよな?
でも、それって、どうしたら実感できるんだ?
理論的には、人生はまだ続いてる、可能性はいくらでもある。
でもなぜか「もう駄目だ」という声が聞こえ続けて、根拠もないのに、やたらに頭に強く響いて来る……。
実際、死んだ人は戻って来ないし、失敗を取り消すことはできない。
でも。
何だ、何かが引っかかってるみたいだ。
何かがわかりそうなのに、はっきり形が見えない。
アンゲルは頭を抱えたまま、ずっと、考え込んでいた。答えは全く出てこなかったが、『考えろ!』と自分に言い聞かせていた。
今、この問いに応えておかないと、前に進むことができないと思ったからだ。自分も、エレノアも。
エレノアは、久しぶりに音楽科の練習ブースに向かっていた。
もうずいぶん練習してないわ……。
昼過ぎまで寝ていたので、まだ頭がぼんやりしていた
図書館の近くを通った時、やはりカフェにアンゲルがいるのが見えた。大きな本で顔が隠れていたが、よれよれの服装と本の題名(心理学がどうとか)からアンゲルだとわかった。
……どうして毎日カフェにいるんだろう?
エレノアはしばし立ち止まり、カフェのほうを眺めながら考えた。
やっぱり私を待っているんだろうか?
本気で心配しているんだろうか?それとも、心理学を取っているから、患者として興味があるのかしら?好奇心?
アンゲルに話しかけようか迷ったが、カフェに近づく勇気が出なかった。
また泣き出してしまったら困る……。
エレノアは歩き出した。アンゲルが本の影でこっそりため息をついているのも知らずに。
考え事をしながら音楽科の校舎に入ったエレノアは、受付の、
「あら、久しぶりね」
という笑顔にも反応せず、無言でカギを受け取ると、ブースに向かった。
途中で、あの、けたたましいギターの早弾きが聞こえた。エレキギターで、遠慮なくボリュームを出しているらしく、防音ブースの外にまではっきり音が聞こえてくる。
ケンタは、私がいじけて寝てる間にも、ずっと練習してたんだわ……。
大きく引き離されたような気がした。エレノアは指定のブースまで早足で歩き、入るなり、思いつきで適当なメロディーを歌った。最初は全然声が出なかった。
やっぱり、毎日練習しないとだめなんだわ……。呼吸ってどうするんだったっけ?
昔教わった腹式呼吸や、立つ姿勢などの指導を思い出しながら、エレノアは少しずつ、声を出す感触を思い出そうとしていた。
古い歌を、出来る限りの呼吸で、四角い空間に放つ。
もう何も起こりませんように。
打ちのめされた人間が願うのはそれだけ
浮かれ騒ぐ時 心安らぐ時は
もう過ぎた
そうして私たちは 現実を知り
空想の楽園から
少しずつ離れて行った
悲しむことはない
苦難を分かち合う人が傍にいる
それだけで、世界はどんな楽園より
優しい光に満ちて行く
もろ手を挙げて 奇跡を願う
そんな時代はもう過ぎた
これからは 愛しい人と
自らの手で 荒野を歩き始める時
エレノアは歌うこと、歌詞の世界に夢中になって、自分自身の存在をすっかり忘れてしまった。今までの事をすっかり忘れてしまい、歌うことそれ自体に幸せを感じていた。
我に返った時にはもう夜中の2時を過ぎていて、受付がブースのドアを叩きながら『もう閉めますよ』と叫んでいるのが聞こえた。
アンゲルはいつも通りカフェでエレノアを待っていた。が、久しぶりにエレノアが近寄って来たのがわかると、とたんに意識しすぎて、
「やあ~元気?」
と変な声を上げてしまい、
なんだそのわざとらしい言い方はぁぁぁ!!!!
と頭の中で自分に文句を言っていた。
しかし、エレノアはあまり気にしていないようだ。
あいかわらず表情がないが、前よりは顔色がいいように見える。
「一つ聞いてもいい?」
「何?」
「いつも勉強してるけど、こんなこと続けても無駄だと思ったことはない?」
アンゲルは返答に詰まった。
「歌を続けていていいのか、私、初めて迷ったの。今でも迷っているの」
「なんで?」
「今は、ロックとか、ヒップホップの時代でしょう?」
「……そうなの?」
管轄区育ちのアンゲルには、ロックもヒップホップも何の事だか分らなかった。
「そうなの!」
ちょっとうんざりした声でエレノアが言った。
「オーディションも、イベントも、だいたいそんな感じよ。でも私の声はオペラなの。クラシックなの。オペラの声と他のジャンルの声は……違うのよ、発声と言うか、なんて言うか……わかる?」
「まあ……街中で流れてるうるさい音楽と、オペラの違いならわかるよ」
「私には、その『街中で流れてるうるさい音楽』に合う声は出せないの。自分で作る歌もクラシックに近い……でも、そんな曲、今時、聞きたがる人がいるのかしらって……」
管轄区ならいくらでもいるよ!!オペラが大好きな人ばかりだから!
とアンゲルは言いそうになったが、黙って考えているふりをしていた。
「だから、このまま曲を作って歌い続けていいんだろうかって」
エレノアが下を向いて黙り込んだ。
アンゲルは、個人的なことを話していいのだろうかと思いながら、
「余計なことかもしれないけど」
と前置きをして、こんな話をした。
「台風で家の屋根が飛ばされた時、妹も飛ばされて亡くなったんだ」
エレノアの表情がかすかに動いた。
「でも俺は助かったんだ。親父が右腕で俺をつかまえて、左腕で柱にしがみついていたから、飛ばされずに済んだんだ。でも、妹は何日も後で、川に浮かんでいるのが見つかった。誰だかわからないくらい、遺体が損傷してた。何日か経って、ようやくみんなが立ち直ろうとした時に、親父が『右腕が2本ほしかった。そしたら、娘は死なずに済んだのに』って、変な目つきでつぶやいたんだよ。頭がおかしくなったのかと思ったけど、そうじゃなくて、自分のせいで娘が死んだと思い込んでいたんだ。助けられなかったから」
本当はそれだけではなく、絶え間なく聞こえてくる『叫び声』で、家族全員が神経をやられていたのだが、それは話さないことにした。
「お父さんのせいじゃないわ」
エレノアの視線が、今日はじめて、アンゲルのほうに向いた。
「だよね。右腕が2本ある人間なんているわけないし……でもさ、エレノアも同じことを言ってるよ」
「えっ?」
「自分にないものばかり見てる」
アンゲルは笑った、少しわざとくさかった。
「確かにロックの声は出ないかもしれないけど(俺もちょっと想像できないんだよね、エレノアがロックを歌ってる姿って)だからって、エレノアがもともと持っている才能までつぶすことはないだろ?クラシックでいいじゃないか。ない声なんて求めないで、自分の声で歌えばいいんだよ、自分で曲作ってさ。俺はそう思うけど」
アンゲルは話しながらエレノアの様子を見ていたのだが、表情がほとんど変わらない。
聞こえてないのかな?余計なお世話だったか?
突然、エレノアは無言で立ち上がったかと思うと、ふらふらした足取りで席を離れて行った。
「エレノア?」
後ろ姿に向かってアンゲルが呼びかけたが、エレノアは振り向かずに行ってしまった。
ああ、やっぱり俺、余計なことを言ったのか?
アンゲルは落ち込んで、テーブルに突っ伏した。
それから考えた。
どうしてエレノアに、そんな暗い話をする必要があったのかと。
自分の事を知ってほしかっただけか?俺は。
何考えてんだ?
寮に帰ったエレノアは、テーブルで読書をしているフランシスに向かって、
「セカンドヴィラに行きましょう」
と言った。フランシスが驚いて本を置いて立ち上がった。エレノアはさらに続けた。
「コンサートのドレスを買わなきゃ。もう日にちがないし」
「コンサートに出るのね!」
フランシスが歓喜の声を上げると、エレノアは無表情のままでこう尋ねた。
「明日、行ける?」
「行けるわよ!もちろん!今デザイナーに電話するから!」
フランシスが電話に飛びついて、凄まじい速さで番号を押した。
「フランシス・シグノーよ!明日そっちに行くから、デザインを出しておいて!え?エレノアのドレスに決まってるでしょ!前から言ってるじゃないの!人の話の何を聞いてるの!?それと……」
すさまじい早口で、興奮気味にまくしたてているフランシスを置いて、エレノアは自分の部屋に戻り、ベッドに座って、長い間さぼっていた譜面読みを始めた。
自分にないものを見てる。
エレノアは、アンゲルに言われたことを思い出していた。
自分の声で歌えばいいんだよ。
言われなくてもそんなことはわかっているし、前から自分の声で歌って来たのに。
どうしてだろう?
心が騒ぐ……。
一週間後。
首都で、才能ある若手音楽家を集めたコンサートが開かれ、エレノアもそこに参加するため、大ホール裏の楽屋に入っていた。そこにはフランシスと、アンゲル、エブニーザがいた。
「夕方からパーティーですからね」フランシスがうきうきとしゃべりだした「なんたって、イシュハ最大の新人発掘イベントなんですからね。ここで成功して、有名にならなかった演奏家はいないのよ!もうエレノアは成功したも同然よ」
「そんなことないわよ」
エレノアの表情は硬かった。ここ数日、前のように泣きだすことはなかったが、やはり元気いっぱいというわけにはいかないようだ。
「ヘイゼルはどこに行ったのかしら?あいさつにも来ないなんて失礼ね」
「来られてケンカされても困るだろ」
アンゲルがそう言うと、フランシスが釣り上がった目で睨みつけてきた。
「あの~」エブニーザが小さな声でつぶやいた「そろそろ僕らは席に戻った方が」
「あんただけ戻れば?」
「おいおいおい」
3人がもめ始めた時、係り員が楽屋に飛び込んできた。
「エレノア・フィリ・ノルタさんは?」
「私ですけど」
エレノアが軽く手を上げた。
「何か?」
「お母様が」
係り員は肩で息をしていた。
「大けがをしたそうです」
「えっ?」
「高いところから転落されて、重体だと連絡がありました。タヴィールの競技場です」
エレノアが立ちあがって、外に飛び出そうとしたが、フランシスが飛びついて止めた。
「どこに行くのよ!!」
「だって、お母さんが!」
「歌い終わってからにしなさいよ!」
「でも!」
「だめよ!あんたの将来がかかってるんですからね!親ならそれくらい承知してるはずでしょ!」
「でも!」
アンゲルは呆然としながら、3人が揉めているのを見ていた。
母親が重体?コンサートの前に?
なんだよその、下手な芝居みたいなベタな展開は!?
そして、すぐ我に返った。エレノアがフランシスを振り切って、廊下に飛び出そうとしたからだ。
「エレノア!」
アンゲルはエレノアの前に立ちはだかり、まっすぐに顔を見て、こう言った。
「歌えよ。ヤエコ・ノルタだって芸人だろ?今、エレノアが客を置いて逃げたら、お母さんは怒るぞ」
エレノアは歌った。大成功だ。直前に慌てていたとは思えない出来だった。会場は総立ち、拍手は何分も鳴り響いた。その間エレノアは退場できず、ずっと舞台の上で、笑顔を保ったまま礼をしたり、客に向かって手を振ったりしていた。
プロなんだなあ……。
アンゲルはその様子をステージ袖から見ていた。今目の前に見ている余裕たっぷりの歌手と、彼が知っている、最近の怯えたエレノアのイメージが、どうもうまく結び付かない。
やっとステージから解放されたエレノアは、着替えもせずに廊下を走り始めた。アンゲルは慌てて追いかけ、外でタクシーを拾っているエレノアに追いついた。
「大丈夫だよ」
何の根拠もないなあと自分でも思いながら、アンゲルは励ましの言葉を探していた。
「見たことないけど、ヤエコ・ノルタだってプロなんだろ?今日のエレノアみたいな」
エレノアは黙りこんでいる。心配なのだろう。
「こんなことがあっても、何事もなかったかのように歌えるなんてすごいことだよ。エレノアは本当にプロなんだな」
エレノアはやはり黙りこんでいる。アンゲルも話すのをやめた。これ以上話し続けると、どんどんわざとらしくなっていく気がしたからだ。
一時間半ほど経って、タヴィールの競技場に着いた二人を待っていたのは、入口に立って、ばつが悪そうに笑っているヤエコ・ノルタ本人だった!
「お母さん!?」
「来ちゃったんだねえ」
ヤエコがすまなさそうに話し始めた。
「何でもないんだよ。サーカスのテントの屋根がちょっとめくれてはがれてたから、直してやろうと思ってね、骨組みを伝って登って行ったらさあ、ことのほか太ってたんだねえ、それか、骨組みが弱ってたのかねえ。突然テントごと崩れちゃってさあ……」
「……お怪我は?」
ポカーンとしているエレノアの代わりに、アンゲルが尋ねた。
「腰打っただけ。昨日はかがめないくらい痛かったけど、今困るのは靴ひもが結べないくらいかねえ……イテテ」
ヤエコが前かがみになって顔をしかめながら笑った。
「なんともないのにさあ、サーカス一味が慌てちゃってさあ、あげく支配人まで『お嬢さんに連絡しましたよ!』なんて言うからびっくりしちゃって……エレノア」
エレノアの肩がびくっと震えた。
「あんた、首都のコンサートに出たんだよね?まさかおっぽり出してこなかっただろうね?」
エレノアが不安そうにアンゲルの方を見た。アンゲルはなぜかそれが嬉しかった。
「ちゃんと歌ったわ」
「俺も聴いてました」
「そりゃあ良かった」
ヤエコがにんまりと笑った。そして、せっかく来たんだから泊まっていきなさいと二人に勧めたが、父ミゲルがアンゲルを『今にも殴りかかりそうな目』で睨んでいたので、エレノアは『授業があるから』と言って帰ることにした。
二人は、疲れた顔で帰りの列車(タクシー代はもう残っていなかった)に乗った。
「伝言ゲームだな、人から人に伝わっていくうちに、どんどん話が大きくなっていくんだ、きっとそれだ」
勝手に解釈して、一人納得しているアンゲルの隣で、エレノアは列車の窓の外(夜遅いので真っ暗だ)を見ながら、
「二人で列車に乗るのは2回目ね」
と、つぶやいた。
「えっ?あ、ああ、そういえば、そうだね」
アンゲルは、アルター行きの列車の中で、エレノアに初めて会ったときのことを思い出した。
信じられないくらい、美人に見えたっけ。
隣のエレノアは、窓の方を向いているが、ガラスに映っている顔はあいかわらず、少し疲れた様子だったが、美しかった。
じーっと見つめていると、
「あのときは、こんなことになるとは思わなかったわ」
エレノアが低い声を発したので、アンゲルはあわてて視線をそらした。
「そ、そうだなあ、まさか同じ部屋にあんな変人どもがいるとは!」
気まずくなったアンゲルは、ヘイゼルとエブニーザの最近の話を、わざとふざけた調子で話し始めた。
でも、エレノアはぼんやりしていて、話が聞こえていないのか、ずっと生返事だった。
数日後。
バイトが久しぶりに休みになり、ソファーで本を読みながらうとうとしていたアンゲルは、電話の音で跳ね起きた。
「アンゲル?」
エレノアからだった。
「そうだけど、何?」
「この前は、ありがとう」
「……何が?」
「何がって……コンサートよ。あなたがいなかったら歌わずに飛び出していたかも」
「俺じゃなくて、組みついて止めようとしたフランシスにいいなよ」
「フランシスは、パーティがつぶれたって未だに文句言ってるわ」
「らしいなあ……」
ここ数日、アンゲルはヘイゼルから、フランシスが用意していたパーティ会場の話をさんざん聞かされていた。わざわざ大きなパーティ会場を予約していたのに、当のエレノアがいなくなってしまったため、急遽フランシスとクーで飲み会を始めてしまったのだが、そこで起きたのはやはり、押しかけてきたヘイゼルとフランシスの大げんかだったという……。
「あさって、クラシックのコンサートがあるんだけど」
「また出るの?」
「私が出るんじゃないの。聴きに行くのよ」
「ふうん」
「一緒に行かない?」
アンゲルの思考が止まった。
「……ハロー?アンゲル?聞こえてる?」
「聞いてるよ」
「嫌ならいいけど……」
「いや!行く!行きます!絶対行く!」
「じゃあ、あさっての夕方6時に、アルター駅の前で」
「6時にアルター駅、わかった」
電話は切れた。
エレノアが。
エレノアが俺を誘ってる!!
有頂天になったアンゲルだが、またこっそりヘイゼルがついてきたら困るので、誰にも話さないことにした。そして、
『どうか、どうか、この日だけは、イライザ教の変な信者に出会いませんように』
と本気で祈った。
しかし。
おい、俺は女神を信じてないんだぞ?
いったい誰に向かって祈ってんだ?アホか?
すぐに自分を責め始めた。
と同時に、こんなに切実な気分になったのは久しぶりだとアンゲルは思った。最近、管轄区の人間からも何も言ってこないし、襲われてもいなかった。もちろん、狙われていることに変わりはないのかもしれないが……。
それにしても、俺は誰に向かって祈ったんだ?
いや、それより、俺は何を着て行くんだ?
スーツはどこだ!?
そこでアンゲルは始めて気がついた。クラシックのコンサートなんてものに行くことが、自分にとっては初めての経験だということに。
何か、マナーとかあったっけ?
とりあえず服はスーツだろ?あと何かあったか?
エレノアの前で失敗なんてしたくないからな!
「今日は一人芝居の日かな?」
いつのまにか、ヘイゼルがドアの前に立っていた。
「さっきから一人で小躍りしているようだが……」
「スーツ貸して!!!」
アンゲルがヘイゼルに飛びついた。
「コンサートで着てたスーツはどこへ行ったのかな?」
「あんな安物じゃ駄目なんだよぉぉぉ!!クラシックっぽいやつない?」
「クラシックこそあんな安物で十分ではないかな?」
ヘイゼルが露骨に呆れた顔をした。
「何かな?教会っ子はクラシックを宗教儀式か何かと勘違いしているのかな?特別なスーツが必要だとでも?アホか」
「……ほんとにあのスーツでいいと思う?」
「あーうるさい」
ヘイゼルは自分の部屋に戻ろうとしたが、
「あ!お前また俺を騙そうとしてるだろ!」アンゲルがまた飛びかかった「この前のパーティーでも、俺だけ普段着でみんなスーツ着てたんだぞ!!」
「それとこれとは別な問題だ!」
「お前は信用できないんだよ!ティッシュファントム!!」
「ティッシュファントムじゃない!シュッティファントだ!!」
二人は言い合いをしながら部屋を駆け回り、隣の部屋から『うるさい』と苦情が入ったため、また職員が部屋に現れてお説教をし『今度やったら罰金取るぞ』と宣言をして出て行った。
そして当日。
アンゲルは仕方なく、自分の安いスーツを着て、アルター駅に向かった。エレノアは、ドレスではなく、いつかの乗馬服に似た、女性用のスーツを着ていた。
似合うなあ……。
「何を着て行けばいいのか、すごく迷ったよ」
アンゲルがそう言うと、エレノアはきょとんとした顔をした。
「何って、スーツしかないじゃないの。クラシックのコンサートなんだもの」
「そうだけど……」
この日、アンゲルを悩ませたのは、意外にも、コンサートそのものだった。
楽器演奏はすばらしいが、歌い手の声がことごとく甲高く、オペラに慣れているはずのアンゲルでさえ、その声が苦痛だった。
なんだよこれは、プロの演奏なんだろ?
一人くらいエレノアより上手い歌手が出てきてもいいだろ?
そう思って耐えていたのだが、出てくるのはことごとく、
『ミス金切り声』
そして、
『ミスター絶叫』
……だった。
幸い、エレノアは演奏に夢中で、となりのアンゲルが、耳をふさいで苦痛にうめいていることには、全く気がつかなかった。
演奏が終わってから、二人は、会場のラウンジでコーヒーを飲みながらこんな話をした。
「今日のコンサートはクラシックでしょう?みんな熱心に聞いているわよね。それが、歌になったとたん、現代的なロックやポップスじゃないと『ダサイ』っていうことになるのはどうしてなの?」
どうやら、エレノアはまだ『ロックとポップス』が気になっているらしい。
「うーん、俺にはよくわからないけど」
アンゲルはやたらに耳を触りながら話していた。まだ耳がジンジンと痛んでいた。
「正直言って、今日歌ってた歌手の声なんて、みんな、ただの金切り声にしか聞こえなかった」
「アンゲル!」
エレノアがあわてて回りを見回す。演奏者に聞かれたら大変だ!
「でもさ、エレノアの声はちゃんと歌に聞こえるし、素晴らしいと思うよ。俺は音楽なんてわからないけど。フェスティバルで聞いた時も、レコードで聞いたプロの声だと思ったんだ。別世界の人間みたいだと思った。本当に。お世辞でも何でもなく。何か特別なものを持ってる。そういう声だよ」
アンゲルがとぎれとぎれにこんなことを言ったとき、エレノアが、きょとんとした、何か、わかるような、わかってないような、微妙な顔をした。
「俺、なんか変なこと言ってる?」
「何でもないわ」
エレノアは、ガラス張りのロビーの外に顔をそむけた。
二人が会場を出ようとすると、オーケストラの団員らしき格好の男が、エレノアとアンゲルの間に割って入って来た。
「君、エレノア・フィリ・ノルタだね?」
「え?ええ……」
エレノアは戸惑ったような声で答えた。
何だ、ナンパか?俺は無視か?
アンゲルが、突然現れた男の背中を睨みつけていると、
「私はヘニング・エッカー。オペラハウスの運営の一人だ」
「オペラハウス?」
エレノアの声が高くなった。あこがれのオペラハウスの人間だ!
「君の歌をコンサートで聞いた。ぜひ入団テストを受けてほしい」
エッカーが、名刺と応募用紙をエレノアに渡した。
「待ってるよ」
キザったらしい態度でそう言うと、エッカーは出口の方に消えて行った。
「今の聞いた?」
アンゲルが半ば飛びあがりながらエレノアの前に回ると、エレノアは、書類を持ったまま、呆然と立ち尽くしていた。
「受けろよ!絶対受けろ!こんなチャンスめったにないぞ!」
アンゲルは一人、興奮して叫んだ。
エレノアはやはり動かない。
周りの客が、そんな二人を、妙な目つきで遠くから眺めていた。
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