第十一章 アンゲル、帰省する

1/1

3人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ

第十一章 アンゲル、帰省する

『たまにはこっちに帰って来なさいよ』 『次の休暇はいつなの』 『お父さんがまた変なものを拾って来たんだよ。あんたも何か言ってちょうだい』  最近、いや、ほぼ毎日、アンゲルのところには、母親から『帰ってこいコール』がかかってくる。  教会から目を付けられたせいで心配なんだろうな。  アンゲルは、受話器から聞こえてくる声を受け流しながら、頭を抱えていた。  帰るって言っても、今帰って大丈夫なのか?  イシュハで狂信的な信者に襲われたんだぞ?  考え込んでいると、エブニーザが部屋から出てきた。 「どうかしましたか」 「なんでもない。丁寧に話すのやめろ」 「シュタイナーのところに帰る」 「それでいい……はあ!?」  本を開こうとしていたアンゲルは、驚いてソファーから飛び起きた。 「何言ってんの?」 「だって、ここにいても何の役にも立たないし」 「ここは勉強するところだろ?何の役に立つ必要があるんだよ?」 「でも……」 「何を騒いでいるのかな?」  もう一つのドアからヘイゼルが出てきた。 「シュタイナーのところに帰ります」 「何だと!?」  ヘイゼルがカッと目を見開いて、大声を上げた。 「それに、シュタイナーなら、あの子を探し出せるかもしれない」 「またそれかよ」  アンゲルがあからさまに呆れた顔をした。 「だったら手紙でも書いて『探してください』って頼めばいいだろ?お前が帰らなくても」 「手紙ならもう何度も書いてます!」  今度はアンゲルとヘイゼルがびっくりする番だった。 「手紙書いてるの?あのシュタイナーに?」 「本物の馬鹿野郎だな」  ヘイゼルが鼻で笑った。 「シュタイナーがそんな手紙をいちいちちゃんと読むと思うか?あの爺さんのところには、毎日、何百通、いや、何千通かな?いろんな利権の絡んだ連中から手紙が来てるぞ。お前が手紙なんか送ったところで、より分ける係の人間が軽く目を通してゴミ箱に捨てるのがいいとこだ」  エブニーザの顔が一気に青ざめた。 「それ?本当?」  アンゲルが半笑いで尋ねた。 「より分ける係?」 「当然だろ?シュッティファントにも数十人いるぞ、脅迫状だのダイレクトメールだのの紙屑の山から(資源の無駄遣いだ!)、数少ない普通の手紙を探し出す係がね」 「それって、給料いくら?」  皿洗いよりそっちのほうが楽しそうだなあと、アンゲルは思った。 「……そんな話をしている場合かな?エンジェル氏」  ヘイゼルが白けた視線を向けた。 「やだねえ、どいつもこいつも金持ちなら自分の窮状を何とかしてくれると思ってるんだからな。そんな依存した考え方だからいつまでも下っ端なんだよ」 「なんでそういう話になるんだよ!」 「とにかく」  アンゲルを無視して、ヘイゼルがエブニーザを睨んだ。 「お前はここから出てはいかん」 「でも……」 「でもじゃない!」 「それならさあ」  アンゲルは突然思いついた。 「俺の家に来ない?」 「えっ?」 「はぁ?」  ヘイゼルとエブニーザが、揃って、懸念の目でアンゲルを睨んだ。 「いや、あのさ」  アンゲルはその視線に戸惑った。 「ほら、母さんがここんとこ毎日のように『帰ってこい』ってうるさいから、2,3日だけ里帰りしようと思うんだけど、きっと友達を連れて帰っても歓迎してくれると思うんだよね」 「エンジェル氏」  ヘイゼルの声が冷ややかだ。 「今管轄区に帰って大丈夫なのかな?」 「そうだった……」  アンゲルが頭を抱えて下を向いた。 「いや、だからこそ、いまのうちに一回帰っておいた方がいいと思うんだ。教会の反応もうかがえるし、もし俺を狙ってる奴が向こうにもいるとして、シュタイナーに関わってる人間が一緒の方が、手出しがしにくいだろ?」 「そんなに都合よくいくもんかね」 「アンゲルの家ってどこですか」 「クレハータウンからさらに歩いたところ」  アンゲルが顔を上げて苦笑いした。 「本当に田舎だよ。車なんて年に1度通るか通らないかだ。電気も通ってない」 「電気が通ってない!?」  ヘイゼルがソファーから身を乗り出した。驚いたようだ。 「未だにろうそくを大量に作って冬を越してるよ」 「ろうそく!?」 「だからって工事業者をうちに派遣するなよ。どうせ電気代払えないからな」 「信じられん」  ヘイゼルは脱力してソファーの背に倒れ込んだ。そんなに驚くことかなあ、とアンゲルは思った。 「だったらお前も来いよ。こき使ってやるから」 「冗談じゃない。誰が管轄区になんぞわざわざ行くか」  ヘイゼルが首だけ変な形にまげて、エブニーザの顔を覗きこんだ。 「お前が行って来い」 「えっ……」 「田舎の空気はお前の超虚弱体質にはいい薬になるからな」 「でも」 「よし!決まった!」  ヘイゼルがエブニーザの肩を乱暴に叩いた。 「俺はサッカーに行って来る」  強くたたかれすぎて怯えているエブニーザを置いて、ヘイゼルは口笛を吹きながら楽しそうに出て行った。  ほんと、何でも勝手に決めるよな……ま、いいや。  アンゲルは出来るだけ優しい声で、エブニーザに話しかけた。 「荷物は軽めに用意しとけよ。10キロは歩くからな」  そのあと、アンゲルは母親に電話し、 「友達を連れて帰るけど、頼むから、た・の・む・か・ら!女神の話とか聖書の話はしないでくれよ!『宗教の話はしない』が国際ルールなんだ!わかった?」  と、何度も、きつく頼んだ。  エブニーザのためというより、自分が聞きたくなかったからなのだが。  女子寮。  フランシスが誰かと電話で話している……が、様子がおかしい。 「えっ?」  と言って顔をひきつらせたきり、全く動かない。  受話器から、通話が切れているツーツーと言う音がしているのに、フランシスは受話器を持ったまま呆然としていた。 「どうしたの?」  エレノアが近づくと、フランシスはいきなり飛びついてきて、 「お願い、これから何が起きても、私と絶交しないって約束して!!」  と、怯えた声で叫んだ。顔が真っ青なのでエレノアは驚いた。 「何があったの?」 「お母様があなたに会いたいって、二人きりで」 「えっ?」 「私に耐えられるルームメイトがどんな娘か見たいって言うの……」 「はあ?」  フランシスが頭を抱えながら部屋をうろつき始めた。 「あああ、どうしよう?今まで全く連絡してこなかったのに、どうして今頃わけのわからないことを」  フランシスの様子があまりにもおかしいので、エレノアは、 「別に、お母様と会うくらいどうってことないわよ」  なだめるような声で言ったが、フランシスはまた飛びついてきた。 「お願いだから、何が起きても出て行かないって約束して!お願い!」  まるで、恋人に捨てられかけている女のような怯え方だ。必死の形相でエレノアの服の裾をつかみ、今にも引きちぎりそうなほど強く引っ張って来た。 「出て行かないってば!」  エレノアは困惑したが、フランシスはその日何度も『出て行かないで!』を繰り返し、エレノアは、『絶対出て行かないから大丈夫』と、何度も何度も言い聞かせることになった。  アンゲルはエブニーザを連れて、まずポートタウンからクレハータウンへ向かった。  入国の手続きのとき、アンゲルは何か言われるのではとびくびくしていたが、とくに文句も言われず、無愛想な係員から普通にパスを渡されたときには、心底ほっとした。  駅から10キロほど歩かなくてはならなかったが、エブニーザは意外と歩くのが好きなようで、ほとんど文句を言わなかった。  家は変わっていた。  屋根だけでなく、外壁まできれいな木材に替えられていた。  ……別な家みたいだな。  アンゲルは、遠くから家を見た時にそう思った。  しかし、玄関に近づいて、あの、女神のレリーフを見た時、やはりこれが自分の家だと確認すると同時に、気分が悪くなった。  もともとこのレリーフは、家の持ち主を守るために壁につけられるものだ。  だが、アンゲルには、それが不幸を呼ぶしるしに見えた。  これが貼られている家には、かならず不幸が降りかかる……。 「どうしたんですか?」  レリーフを見つめながら難しい顔をしていたアンゲルは、エブニーザの声で我に返った。 「なんでもない」  アンゲルはそう言いながら、ドアを乱暴にノックした。  奥からパタパタという足音が聞こえたかと思うと、ドアが開いた……と言いたいところだが、十センチほど開いたところで何かに引っ掛かって止まってしまった。母親がすき間から微笑みを見せながら、ものすごい音を立ててドン!ドンとドアを蹴り、ようやく人が入れるくらいの隙間ができた。 「ようこそ。さあ早く入って入って」  母親がエブニーザを手招きした。エブニーザは、心配そうにちらっとアンゲルを見たあと、緊張した面持ちで入って行った。アンゲルもその後に続く。  ……ドアも直したほうがよさそうだな。 「まあ~なんて美しい少年でしょう。ほんとにアンゲルの友達なの?まるで女神様のしもべの天使のよう……」 「母さん!」  アンゲルが高い声で叫んだ。 「宗教の話は駄目だって言っただろ!?」 「はいはい、ごめんなさいねオホホホホ」  母親がエブニーザに向かってわざとらしく笑った。 「この国では宗教はほぼ生活そのものだから、つい口から出てしまうのよ。気を悪くしたらごめんなさいね」 「別に気にしてませんよ」  エブニーザがぎこちない笑い方をした。  居間の古い、磨かれたテーブルの席に着くように指示されて、二人とも言うとおりに座った。しかし、エブニーザはそのあとも落ちつかない様子で、立ち上がって家の中を見回しながらうろうろしていた。 「座ってお茶でも飲んだら?」  母親がポットを運んできて、うろうろしているエブニーザに声をかけた。 「ほっといてやってよ」  ポットはアンゲルが受け取った。 「あいつ自分の家がなくて、大きな建物で育ってるから、うちみたいな普通のちっちゃい家がものめずらしいんだろ」 「ちっちゃいは余計だ」  横から急に低い声が聞こえたので、アンゲルは驚いて飛びのいた。いつのまにか父が立っていて、厳しい目つきでアンゲルを睨んでいた。 「平日なのになんで家にいるんだよ?」 「お前が来るからわざわざ休暇を取ってやったのに、なんだ、その態度は」 「そんな休暇取らなくていいって!」  アンゲルが文句を言うと、父親はますますむっとした顔をした。  母親はエブニーザに近づいて、二階を見せてあげると言いながら階段を上っていった。新しい屋根でも自慢する気だろうか。 「こないだ来て説教していった奴らだが」  父親が話し始めた。アンゲルは身をひきつらせた。 「わしは『うちの息子は教会に逆らうようなことはしてません』と言い張ったが、お前、本当に変なことをしてないだろうな?」 「してないって!」 「じゃあなんて教会から人が来るんだ?」  アンゲルは答えられなかった。 「こっちが聞きたいよ!」  父親はまだ何か言いたそうだったが、アンゲルはこれ以上聞かれたくなかったので、その場を離れて、母とエブニーザを探しに二階へ向かった。  レストランというより、お城のようだわ……。  エレノアは、初めて見る『ポートタウンで一番高いレストラン』を見回して、うっとりしていた。  ここは会員制で、一定の地位がある人間でなければ、店内に入ることすらできない。  エレノアは、今回『シグノーの招待』で入ることを許可されたわけだ。  白い壁、高い天井……天使の絵が空いっぱいに広がってるわ!前に見た管轄区の大聖堂のようね!王室のパーティのようなドレスを着た女性客に、上品なタキシードに身を包んだ男性……ウェイターもウェイトレスもものすごく綺麗。  ひとしきりうきうきとした後で、エレノアは自分の服を点検した。  今着ているスーツに決まるまで、フランシスが大騒ぎして大変だったのだ。 『とにかくガレットの靴と、名のついたブランドのスーツじゃないとダメ!』  と、わざわざ特注で作らせたのだ。もちろん、エレノアをセカンドヴィラまで拉致して。  どうしてそこまでする必要があるのかしら……。  とエレノアは思っていたのだが、フランシスの形相があまりにも怖いので(呪いのかかった魔女のようだった!)黙って言う事を聞くことにしたのだった。  案内された席に座っていると、すぐに、美しい、でも、かなりきつそうな目つきの(フランシスにそっくりだ!)女性が現れた。フランシスが言っていた通り、ガレットの靴に、ハイブランドのスーツを着ていた。美しい金色の髪は、きついウェーブを描いて、胸元でくるくると回っていて、おそらくダイヤモンドであろうピアスがその上で光っていた。でも顔色はあまり良くない。機嫌も悪そうだ。 「あなたがエレノア?」  近づいてきた女性は、金属をこすりつけるようなきつい声を発した。 「はじめまして。お会いできて光栄ですわ」  エレノアはできるだけにこやかにあいさつをした。女性……シグノー婦人は、やはり、ちょっと見下すようにエレノアを睨むと、無言で席に着いた。そして、ウェイターにワインをボトルで持ってくるようにと『言いつけた』(としか言いようがないほどきつい口調だった!) 「あの気違い娘に耐えられるルームメイトが何者か知りたかったのよ」  婦人が早口でしゃべり始めた。 「きっと金目当てに近づいて来たに違いないと思ったけど、どうもあなたはそうじゃなさそうだし、いつも人の悪口ばかりのあの子が、あなたの悪口だけは一言も言わない。これはどういうことなのかしら?」 「さあ……私もフランシスの悪口は言わないですから」 「うそをおっしゃい!」  婦人がきつい声で叫んだので、エレノアは驚いて軽く肩をのけぞらせた。 「あんな気違いと暮らして、悪口を言わないなんてありえないわ」 「お言葉ですが、フランシスは気違いじゃありません」 「またそんなおべっかを使うのね」  婦人の顔に浮かんでいたのは嘲笑だった。 「私はあの子の母親ですよ?『あれ』がどんなにおそろしい子かよく知ってるわ」  エレノアは婦人の言葉のひどさに絶句した。怒りすら湧いてきた。  自分の子供に向かってそんなことを?なぜ言える? 「確かに、ときどき、フランシスは怖いですけど……気違いでもないしおそろしい子でもありません。気が強いだけです」 「ところであなた、何を専攻しているの?」 「音楽科です」  エレノアは急に誇らしげな気持ちになった。 「オペラハウスの試験を受けるんです。この間、オペラハウスから正式に受けろと言われました」  エレノアは、少々自慢するつもりで言ったのだが、 「オペラなんかやめるのね」  目の前の『貴婦人』は、そう冷たく言い放つと、ワインを一気に飲み干した。 「早く目を覚まして、いい相手を見つけなさい。あなたは見た目が美しいから、若いうちに良家の長男を紹介してあげます」  言われたことが理解できず、フォークを持ったまま止まっているエレノアには構わず、目の前の貴婦人……フランシスの母、シグノー婦人は、ウェイターに新たなワインボトルを持ってくるように言いつけていた。  これでもう3本目だ。親子そろってアルコールが大好きらしい。 「あのう」  エレノアが、控えめに疑問を発した。 「私は、小さいころからずっと、オペラハウスに入るのが夢で、それが今かなうかもしれないという所まで来ているんです」 「なにを言ってるの」  冗談でしょ?とでも言いたげな口調だ。 「今は若くてお綺麗だからいいけどね、年を取ってごらんなさいよ。だれもあなたのことなんかかまわなくなるわよ。オペラ歌手だって、若いのがあとからいくらでも出てくるでしょう?」 「でも、年を取った方が歌に心がこもるからって、往年の歌手なんかも言ってて……」 「オホホホホホホ!」  心から軽蔑しているような甲高い笑いが響いた。怖くなったエレノアはこころもち後ろに身を引いた。できればそのまま椅子から飛び上がって店から出たかった。 「そんなのは、老いぼれた自分をなぐさめるために言ってるだけですよ!」  心から楽しそうにそう言うと、シグノー婦人はエレノアを追いつめるように身を乗り出してきて、何かを企んでいる顔でこうささやいた。 「あなたくらいの美貌があれば、貴族の一人や二人はすぐに見つかるわ。それで一生楽ができるじゃないの。古臭い歌を歌って甲高い声を上げる必要なんてなくなるわ」  エレノアはショックのあまりなにも言えなくなってしまった  同時に、いらついて物を投げたくなるフランシスの気持ちを、初めて、心から理解した。  自分の親がこんなのじゃなくてよかった!  エレノアがそんなことを考えている間に、婦人は、一方的に、今度はシュッティファントの悪口を言い始めた。格式がないくせに金にものを言わせているとか、シグノーのほうが格式があって歴史的には重要な家柄だとか、要するに妬んでいるとしか思えない内容だった。不機嫌そうな様子なのにしゃべるのは好きらしい。ものすごい早口でたたきつけるように話し続けるのだ。悪口ばかりを。 「あなた、ヘイゼル・シュッティファントだけはやめておきなさい」  婦人がそんなことを言い出したので、エレノアは『もう帰っていいですか』と口に出しそうになった。  でももちろん言い出せず、そのあと、何時間も、いろいろな貴族の悪口と『嫁ぐならこの家がいいわ』という、どう考えても使えない情報を聞かされる羽目になった。  夜、眠れないアンゲルが居間のテーブルについて、窓の外を見ながらぼんやりしていると、エブニーザがやってきた。やはり眠れないらしい。 「お前、両親のことは覚えてないのか?」 「覚えてません……もう、会えないでしょうね」  人さらいは、必ず子供の両親を殺していく。  アンゲルは何を言っていいかわからず、黙って適切な言葉を探したが、なかなか見つからなかった。 「本当はエレノアをここに連れて来たかったよ。管轄区に来たことがないらしい。親父が頑固なアニタ教徒で……」  すると、エブニーザは笑って、 「エレノアはここに来ますよ。いずれ」  めずらしく自信がありそうに、断言した。 「なんで?」 「僕には見えるんです」  アンゲルは飛び上がって喜びそうになったが、懸命に気持ちを押し殺し、エブニーザのその言葉を、親切心から出たものだと受け止めた。 「べつにそんな慰めてくれなくてもいいよ。どうせエレノアは俺に興味ないんだから」 「そんなことないですって!ほんとに見えるんです!」  エブニーザが不満そうに声を荒げ始めた。 「あーわかった、わかった」 「どうしてアンゲルはいつも僕を信用しないんですか!?」 「信用してないわけじゃない。大声を出すな!うちの親が起きる!」  アンゲルが小声でわめいた。エブニーザは不満げな顔で黙り込んだ。 「なあ」 「何ですか?」 「本物のシュタイナーはどんな人物だ?」 「よくわからない……いつも本を読むか、書類を睨んで眉間にしわが寄ってる」  エブニーザが自分の眉間を指さした。 「でも、いい人ですよ。僕を助けてくれたんですから。何の関係もない他人なのに」 「そうだね」  アンゲルはそう答えたが、何か、心に引っかかるものを感じた。しかし、それが何かはわからなかった。  二人で窓の外をじっと見た。無言で。周りに建物はあまりなく、イシュハでは全く見えない星が、ここでは空いっぱいにきらめいて見えた。  これが、普通だと思ってたんだけどな。  アンゲルは、星と、今自分がいる、古ぼけて、擦り切れた家具ばかりの、だからこそ居心地のいいこの家のことを思った。  次、帰って来れるのは、いつになるんだろう?  そもそも、帰って来られるのか? 「大丈夫ですよ」  エブニーザがいきなり声を発したので、アンゲルは驚いた。 「何が?」 「何でもありません」  エブニーザが立ちあがった。 「もう寝ます」 「あ、そう……」  エブニーザはゆっくりとした足取りで、部屋に戻って行った。  アンゲルはしばらくその場にとどまっていたが、一向に眠くならなかった。 考えることが多すぎたのだ。  数時間きつい口調で悪口を聞かされ続けた後、エレノアが疲れきって寮に帰ると、フランシスがテーブルにずらっとワインボトルを並べていた。 「どう?最悪でしょ?」  フランシスが赤ら顔でワイングラスを掲げた。 「世界一関わりたくないタイプよ。気晴らしに飲まない?」  もうかなり飲んだらしく、空の瓶が床にいくつも転がっていた。 「飲み過ぎよ!」  エレノアはワイングラスを奪い取ろうとしたが、フランシスは立ち上がってよけた。 「あいつは悪魔よ!悪魔!」  何かのセリフのように格式ばった声でそう言うと、フランシスはグラスにまたワインをなみなみと注いだ。 「お母さんを『悪魔』なんて言っちゃだめよ」  エレノアはそう言いながらも、フランシスの気持ちがよくわかった。 「あれが悪魔じゃなかったら何が悪魔なのよ?ヘイゼル?」 「ヘイゼルは関係ないでしょう……お母様はヘイゼルがお嫌いみたいだったけど」 「当たり前でしょ!?あいつはだれも気に入らないのよ!」  逃げ出したくなるほど甲高く大きな声で、フランシスがわめき始めた。皮肉な事に、大嫌いな母親と同じ口調で、何時間も他人の悪口を言い続けた。  すっかり酔って寝込んだフランシスを部屋のベッドに運ぶ時、エレノアは、寝室のテーブルの上に、ヘイゼルと二人で写っている写真があるのを発見した。  二人とも嬉しそうな顔で、どう見ても仲のいいカップルにしか見えない。  エレノアは、写真の笑顔と、ベッドで眠っている疲れ切ったフランシスを見比べて、苦笑いした。 「もっと素直になればいいのに。でも、相手があれじゃ、無理かもね……」  アンゲルはエブニーザを連れて、自分がかつて通っていた学校へ行った。 休み中なので、誰もいなかった。こっそり校舎に侵入して中を歩くことにした。 「だめですよ、こういうの」  塀を乗り越えようとしているアンゲルに、エブニーザが真面目に注意した。 「大丈夫だって。お前入ったことないだろ?管轄区の小学校」 「ないですけど……」  不満げだったが、エブニーザも柵を超えて、アンゲルについてきた。  時間をかけて、興味深そうに、時々立ち止まりながら校内を見回しているエブニーザを遠くから見ていたアンゲルは、  失った時間を埋めようとしているみたいだなあ。  と思った。  もしエブニーザが人さらいにあわず、普通に親元で暮らしていたら……どうなっていただろう?もっと明るい人間になっていただろうか?普通の人間に?  でも、管轄区で普通って、ただのつまらない奴だよなあ……。  みんなで同じ格好して、同じ時間に置き、同じ時間に寝て、同じことを考えて、同じ女神に祈る……。  エレノアは、ポートタウンからアケパリへ向かうフェリーに乗った。  休み中に、ノルタの祖母と会う約束をしていたからだ。祖母は、アケパリの首都ポロサツの郊外に住んでいる。山のふもと、板を打ち付けただけの古い小屋で、茶、ハーブ、あやしげな薬を売っている。 「なんだか機嫌の悪い顔をしているね」  戸を開けて、エレノアの顔を見るなり、祖母がつぶやいた。年々深くなるしわに埋まるように、細い目が光っている。 「友達の母親に会ったら、すさまじい人だったの」 「あんたが悪口かい、めずらしい」  祖母がエレノアを家の中に招き入れる。 「悪口じゃないけど……」  祖母がかまどで湯をわかしている間、エレノアは、木綿のざぶとんに正座して、フランシスの母親の話をした。 「娘の事を『気違い』って言うのよ?自分の子供をそんな風に言うなんて間違ってるわ」  エレノアは、フランシスの母に言われたことを思い出して、怒りがぶり返してきた。 「そいつが正しいとも思えないけど、お前が正しいとも限らないね」  祖母がぼんやりとそう言った。エレノアは祖母の背中を睨んだ。 「この世で確実に間違っていることが一つある。『私だけが正しい』という態度さ。これはきっとどの国でも、どの文化でもそうだろうよ」  大鍋の湯が沸騰し、不自然なほど大きな泡と音を立て始めた。 「たとえほんとにあんたが正しいとしても、そうなのさ」  祖母は鍋の湯をひしゃくですくい、なべ底に何度もかけて火を消した。『その消し方は間違っている』と他の年寄りが何度注意しても、やめようとしない。 「我々にとって正しいことは、他の人間にとっては必ずしも正しくはない」  祖母は茶葉が入った急須に湯を入れ、ふたをして、エレノアに手で棚を指した。湯のみを取ってこいという意味だ。 「残念ながら、イシュハ人はそうは思ってないようだがね」  祖母はイシュハが嫌いである。アケパリとイシュハが戦争をしていた頃の世代だからかもしれない。 「女神アニタが正しい、だから俺様が正しい。管轄区だって同じさ。イライザ様が正しい、だから私どもが正しい。だから邪魔な奴は処刑してもいい……しゃらくさいってんだよ」 「それを管轄区の人に言ったら大変よ。私の友達にもいるの。『女神を信じてない』っていうだけで、襲撃されてけがをしたのよ」 「愚かしい」  祖母が吐き捨てるように言って、グリーンティーをすすった。 「本当に目に見えない偉大な存在があるとしても、けっして人の形なんかではないよ。人間の形をした神なんて、自分が万能でありたいと願う人間の傲慢さが作り出した、都合のいい幻でしかないんだよ。つまり、『神』なんてのは、おごり高ぶった人間の姿そのものなんだ。そんなもののために、土地を奪い合ったり、いがみ合ったりするのは割に合わないのさ。他人に踊らされているのと同じ。しかもそうとう傲慢な人間にね」  グリーンティーの香りが立ち上る。 「アケパリにはなじまない考えだ。でも最近の若いのはイシュハに染まってしまっているねえ」 「そんなことないわ」 「もちろんあんたは別さ」  祖母がしわだらけの顔でにっこりと笑う 「好きなハーブティーを持って行きなさい。その、ヒステリーの友達には、あれがいいよ、黄色いラベルのがあるだろう?あれは精神安定剤より、効くよ」  アンゲルとエブニーザが郵便局の前を通った時、サッカーチームでゴールキーパーをやっていた友達ゲイルと、昔アンゲルをカエル呼ばわりした初恋の娘ミレア、その友達のロアに再会した。 「イシュハにいるんだって?いいなあ」  と3人にうらやましがられ、アンゲルは照れながらも困惑した。 彼らは、何の変わり映えもない小さな町での暮らしに退屈しきっていた。 「お前の家に教会の人が警告に来たって、うちの親が言ってたけど、何かやったの?」  ゲイルにそう聞かれ、アンゲルはぞっとした。 「別に何もしてないよ。誤解だって、誤解!」 「ちょっと来い」  彼はアンゲルを建物の隅に引っぱって行くと、 「うちの親が俺に無理矢理ミレアを押しつけるんだよ!」  と、小さく囁いた。 「は?」 「このままじゃほんとに結婚させられる!」 「はぁ?」  アンゲルは露骨に嫌な顔をした。  ゲイルは、アンゲルがミレアに恋をしていたことを知っているはずだ。 「おまえ、それ、嫌がらせか?自慢か?」 「違うよ!お前知ってるだろ?俺が本当に好きなのはロアだ!」 「……そうだっけ?」  アンゲルはそんなことを初めて聞いた気がした。  確か、俺の友達はみんな、ミレアに夢中だったはずでは……? 「だったら親にそう言えば?」 「言えるわけないだろ!ロアは母子家庭で、しかも母親はメイドなんだぞ?」  アンゲルは、ゲイルの親が公務員だということを思い出した。  管轄区は身分差別が激しい。親が商売をしているアンゲルでさえ『あんな家の子と付き合うなんて云々』と、ゲイルは親からさんざん注意されていたのだ。結婚相手が下の身分となれば、親が激しく反対するのは目に見えている。しかし、アンゲルはそれが、好きな女の子をあきらめる理由になるとは思いたくなかった。 「だから?」  アンゲルはわざと、馬鹿にしているような声で聞き返した。  お前はアホか?人をなんだと思ってるんだ?自分が公務員の子供だからって偉ぶるんじゃねえよ。俺の好きな子の両親は旅芸人だぞ!  ……と言ってやりたかったが、やめた。  管轄区の人間に、そんなことを言っても無駄だからだ。 「だからって……お前イシュハに染まったな?」 「お前が古臭いんだろ?」  言い合っているうちにゲイルが不機嫌になってきた。  うんざりしたアンゲルがエブニーザの方を見ると、女性二人はエブニーザに夢中で、特に、ロアが、熱のこもった目でエブニーザを見つめていることに気がついた。 「もう行かないと」  アンゲルは、エブニーザを無理矢理引っぱって歩き出した。  どいつもこいつも!と不機嫌になったが、 「いいですね、友達がいて」  エブニーザが、寂しそうな顔でつぶやいたので、アンゲルの不機嫌はすぐ治まった。  そして、昔あんなに好きだったミレアが、全く魅力的に見えないことに気がついた。  ミレアだけではない、ロアも、ゲイルも、どこか、廃れたような、疲れたような……何かを間違えているように見えた。取り返しがつかないほどに。 止まった時の中にうずもれたまま、動こうとすらしていないように見えた。  アルターの並木道を歩く。日差しがやわらかくあたりを照らし、そよ風がエレノアの美しい黒髪を揺らす。髪や肌から透き通って体を突き抜けるような心地よさ。  道を歩く人たち――ほぼ学生――もみな、機嫌がよさそうに見える。それぞれに人生があり、専攻科目があり、夢見る未来がある。そのあたりまえのような存在の不思議さ。  エレノアはそんな日常的な美しさを曲にしたいと思った。インスピレーションは過激で珍しいものからも得られるが、たいていの名曲は、日常の何気ない風景や言葉、しぐさの中から出てくるのだ。  誰もが知っていて、誰もが感じ、誰もが見ているものを、  誰も聞いたことがないようなメロディや言葉で表現する。  それがエレノアの曲作りのスタイルであり、理想でもあった。  歩く速度を落とす。ゆったりと、人生をよく知った年寄りのような歩調で歩いてみる。早足の学生が何人もエレノアを追い越して行く。ああ、みんななんて慌てているんだろう。でも、いつもの私もあんな感じね。早足が普通になっている。  木陰でふと、立ち止まる。道の向こうには校舎と、図書館と、カフェが小さく見えた。  アンゲル。  まだ、帰ってきてないわよね。  エレノアは、アンゲルと話ができなくて退屈している自分に気がついた。誰かに話したいことがたくさんある。でも、フランシスやクーではどこか、違う。心の中の独り言、自然と歩く回想……こういう内相的な感覚が、どうも彼女たちには理解できないようなのだ。ヘイゼルなんて論外だし……。 「おうおうおう!エレノア!」  思い出したとたん、現実にまで本人が現れた。赤いジャケットの男が道の反対側から威勢よく(ほんと、いつ見ても高慢な態度ね!)こちらに渡って来ていた。  エレノアはふっと短いため息をついて、すぐ社交的な笑いを浮かべた。 「シグノーのマダムに呼びだされただろ、可哀相なエレノアよ!」  話し方もいつも通り劇画調だ。 「どうして知ってるの?」 「あれくらいのセレブになると、行動がいろいろなところに知れ渡るのだよ」  ヘイゼルは楽しそうに肩を揺らしながら喋り出した。 「目もくらむような美人と一緒に食事をしていたっていう話を聞いたんでね。おそらくエレノアだろうと思ってたよ。だって、あのマダムの高貴で退屈なご友人たちは、揃いもそろって岩にハンマーをたたきつけたようなお顔の持ち主でね、豪華な宝石も、あんなのにつけられちゃ泣くね」 「ひどい言い方ね!」  エレノアはそう言いながら、宝石なんかつけてたかしら……?と考えてみたが、思い出せなかった。いつものエレノアなら、話し相手の服やアクセサリーもちゃんと見て話題にするのだが、今回憶えているのは言われた悪口だけだ。 「残念ながら、目に見える事実は誰にも隠しきれないのでね!」  ヘイゼルが謎解きの探偵のように、帽子に手をやるような手振り(実際には何もかぶっていなかったが)をした。 「ヒステリーなシグノーの令嬢も、あの集団の中ではかなり可愛げのある方なのだよ。顔はいたって美しいしね。少々目元がきつすぎるのだが……ま、エレノアには関係のない話だったな。じゃこれで失礼するよ。俺はこれから面白い用事があるんでね」  ヘイゼルは一人ぶつぶつとしゃべりながら、エレノアが来た方向(駅だ。でもヘイゼルが列車になんか乗るかしら……)へ歩いて行った。  エレノアは祖母にもらったハーブティーを思い出し、ヘイゼルに半分飲ませてやるべきかもしれないと思った。  フランシスのヒステリーに効くなら、ヘイゼルの過激さにも効くでしょうよ! 「おう!おうおう!」 「げっ」  帰り道で、商店の年取った店員がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。  アンゲルは無視して早足で去ろうとしたのだが、エブニーザは店員に気づいて、興味深げに店の中を覗いた。 「ここはなんの店ですか?」 「なんの店だって!?」  年寄りが大げさに声を上げた。 「なんでもさ。手に入るものは何でも売る。鉛筆でも燃料でも包丁も帽子でも、食いものでもね」 「ろくなもの置いてないけどね……」  店先に並んでいるのは、雑な作りのがさがさした青色や赤の包み(中身の質も包装と大して変わらない)と、いかにもどこかから拾って来たようなへこんだ鍋や欠けた食器類だった。残念ながら、アンゲルは小さい頃、父親が川で拾ったものをここに売っているのをよく目撃していた。たぶん今でも拾っているのだろう。  管轄区の製品には不良品が多い。ビスケットだけではない。たばこや酒の質は悪く、少しでも余裕のある市民なら、国内産ではなくイシュハや南の小国からの輸入品を買う。 「なんだと?」 「なんでもない」  アンゲルは店と店員から目をそらした。あいにく、他に客は見当たらない。そもそも、買い物を『楽しむ』人間はこの国には(少なくとも、アンゲルが住んでいたこの町には)ほとんどいない。生活必需品を買うだけで手いっぱいだからではなく、もともと『買い物』という言葉と『楽しむ』という言葉が結びつかない生活文化だからだ。  イシュハとはやっぱ、違うんだよな。 「なんだよ、ひさしぶりに会ったと思えばそんな顔か」店員がふてぶてしい顔つきでアンゲルにそう言うと、今度はエブニーザの方を向いた「えらい綺麗な友達だな」  エブニーザは怯えた顔で、足をおどおどと揺らしながら数歩後退した。 「そいつ怖がりだからあんま脅かすなよ」 「脅かしてねえよ。人聞きの悪い。なあ~聞いてくれよ」  店員がエブニーザに向かってしゃべり始めた。 「今じゃイシュハに留学して偉そうな顔してるけどな、こいつは困ったガキだったんだ。俺の店から勝手にキャンディを盗んでくし……それも何度もだ」 「そんな昔の話止めろって」 「ほんとに盗んだんですか?」 「5歳か6歳の頃の話だよ。全然覚えてない」  アンゲルはそう言ったが、本当は良く覚えていた。ただし、盗んだキャンディの事ではなく、罰として閉じ込められた教会の地下の薄暗い懲罰室のことを。 「休日に学校の図書室に侵入して本を盗んでな」 「盗んだんじゃなくて借りたの!どうしてもその日に読みたかったんだよ!」 「アンゲル、やっぱりヘイゼルに似てますね、行動が」 「なにぃぃぃぃ」  アンゲルが叫ぶと、エブニーザは笑いながら数歩歩き、店先の古めかしいポストカードの中から、メッセージ入りのカードを手に取った。 「エレノアとクーに送りませんか」 「エレノア?お、なんだ、女か?」  店員が興味深げに眼を見開いた。 「お前、イシュハでもろくなことしてないな。いつこっちに連れてくるんだ?ん?」  アンゲルはそれには答えず、ポストカードの代金を投げつけるように渡すと、逃げるようにその場を走り去った。 「待って下さいよ!」  代わりにポストカードを2枚受け取った受け取ったエブニーザが、あわてて追いかけてきた。  家に帰ってからアンゲルは、エレノアに何を書けばいいか迷った。エブニーザは何を書くか決めていたらしく、さらさらと手早く書き終えた。覗きこんでみたが、ノレーシュ語で描かれていたので、アンゲルには内容がわからなかった。  対抗してアケパリ語で書くことにした。たぶんエレノアは読めるだろうと考えながら。 「ヘイゼルは今頃、フランシスの婚約者の家を荒らしているところでしょうね」  エブニーザがそうつぶやいたので、アンゲルは驚いた。 「それ、ほんと?」 「本当です。婚約は解消です」 「うわあ……」  フランシスよりも、荒らされた家が気の毒だな、とアンゲルは思った。 「あいつやっぱりフランシスに気があるよな?」 「本人は頑として認めませんけどね……」  二人でため息をついた。 「でも、みんな、平和に暮らせるのは、今のうちだけですよ」  エブニーザが不安げな顔でつぶやいた。 「……今って、平和か?」  アンゲルは今の自分の状態(何だか知らないけど、狙われているらしい)を思いながら、つぶやいた。 「今以上に大変になりますよ。僕もアンゲルも、誰もかれも。特にヘイゼルは」 「ヘイゼル?一番楽そうに見えるけどな」 「イシュハ史上最悪の大統領になりますよ」 「……確かに」  アンゲルは口元だけで笑った。そして、自分は『患者に刺される』と予言されていることを思い出した。  信じたくはないけど……。 「エブニーザ」 「アンゲルが刺されるのは、30代の後半ですよ」  質問する前に答えが返ってきたので、アンゲルは驚いた。  エブニーザは無表情だった。しかし、その顔つきは、何も感じていないのではなく、何かを隠そうとしているように見えた。 「僕が死ぬ日も、たいして変わらない」  エブニーザは平坦な声でそう付け足した。  アンゲルは、何も言い返せなかった。  ただ、もしエブニーザの予言が当たったとしたら、自分にどれだけの日数が残されているか、数え始めた。  30代後半……あと二十年もないかもしれないな。  365日が20年……。  7300日。  息をのんだ。  残り時間は、あまりにも短い。  朝。  相変わらず、たくさんの目覚まし時計に起こされ、ぼんやりしていると、突然バン!という音と共にドアが開き、怒りで顔を真っ赤にしたフランシスが、ドスドスと大げさな足音を立てて入って来た。 「またヘイゼルが!」  きつい声がエレノアの耳に刺さった。 「あのバカが!やりやがったのよ!いつもいつも余計な事をしやがって!」 「何の話……」  エレノアは呟きながら枕をかぶって両耳を覆った。もう一度眠ってしまいたい……。 「ヴァーディの家に押し入って暴れやがったのよ!」  どう耳をふさいでも聞こえてしまう乱暴な口調で、フランシスは叫んだ。 「暴れた?」  エレノアは枕をどけて顔を上げた。 「ケンカ?」 「シグノーとヴァーディの婚約を邪魔するためよ」 「婚約?」  エレノアには何の事だかさっぱりわからなかった。 「あの馬鹿女が勝手に決めたのよ!シグノーの娘はヴァーディーの息子と婚約するってね!で、何がお気に召さなかったのか、シュッティファントの馬鹿息子がそれを聞いて、ヴァーディーの館に押し入って暴れたってわけよ。きっと嫉妬したのね」 「……つまり、あなたとバーテーなんとかさんが婚約してたってこと?」 「そうよ!」  フランシスが偉そうな笑みを浮かべた。 「シグノーほどじゃないけど、ヴァーディーは百年戦争前から続く伝統ある良家なの。古代貴族の血も引いているのよ(戦争で成り上がったもと平民のシュッティファントとは違ってね!)家柄も財産もつり合うの。なのにあのシュッティファントの馬鹿野郎が……」 「フランシス」  エレノアはふと疑問に思って尋ねた。 「その人と本当に結婚したかった?」 「冗談じゃないわよ!あの気違い女が勝手に決めたのよ!私は誰とも結婚なんかする気ないわよ、一生ね!」 「ヘイゼルは?」  フランシスが鋭い目でエレノアを睨みつけたが、エレノアは枕の下にもぐっているので気がつかなかった。 「あんた、いいかげん起きなさいよ!」  怒りの矛先がエレノアに移ったようだ。 「もうすぐオペラハウスの講演よ!とっとと起きて練習に行きなさいよ」 「あと24分……」 「何よその半端な数字は!起きろ!起きやがれっつの!」  フランシスがベッドに飛び乗って、無理矢理エレノアの枕を奪った。  今、エレノアはオペラハウスの公演の準備をしている。入団テストにはあっさりと受かり、最初の講演でいきなり主役に抜擢された。  これが成功すれば、オペラ界で一人前と認められる。  練習のためにブースに向かう。やはりケンタがギターを弾いていたが、今日は早弾きではなく、めずらしく、ゆっくりとしたバラードをアケパリ語で弾き語っていた。  ギターの演奏が止まった。小窓から覗いているエレノアに気がついたケンタは、微笑みながらドアを開けた。 「オペラハウス、受かったんだってな」 「え?ああ、知ってたの?」  エレノアはそう言いながら『まずケンタにも知らせるべきだった』と後悔した。エレノアが落ち込んで泣いている時に、あんなに心配してくれていたのに。 「おめでとう。エレノアなら当然受かると思ってた」 「ありがとう」 「じゃ、お互い孤独なブースで騒音作りに励もう」  ケンタはコミカルな声でそう言うと、ブースのドアを閉めて、今度はかなりテンポの速い曲を弾き始めた。  エレノアも空きブースに入って、発声練習を始めた。  声は高らかに、軽く。  もう、迷いは、ない。  練習から帰ると、ポストカードが届いていた。明らかに質の悪いざらざらした紙で出来ていて、イシュハのものではないことがすぐにわかった。そこには、 『公演頑張れよ、エレノアなら大丈夫だろうけど アンゲル・レノウス』  アケパリ語らしき漢字(若干形が間違っていた)で書かれていた。 「間違ってるわ」  笑いながら、エレノアは考える。  コンサートに行って、オペラハウスのテストの事を知った時『絶対受けろ!』とアンゲルは言っていた。自分より喜んで、興奮していた。  フランシスの母親や、どこかの男たちと違って、アンゲルなら、エレノアの気持ちを知っても『歌をやめろ』とは言わないのではないだろうか?  アンゲルなら……。  ここで、エレノアはようやく自覚した。  自分が、エブニーザではなく、アンゲルの事ばかり考えているということに。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加