第十二章 シュッティファントのパーティー

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第十二章 シュッティファントのパーティー

「うちでパーティーやるらしいから、来い」  ヘイゼルが新聞を読みながらそんなことを言い出した。 「また!?」  アルバイトで疲れていたアンゲルは、めんどくさいと思いながらも一応聞いてみた。 「今度は何のパーティーだよ?」 「さあなあ、首都が今の場所になって450年だったか、わからん。要は豪華な飯が食いたいんだろ」  明らかにどうでもよさそうな返答だ。 「俺は行かないぞ」 「何でかな?」 「何でって……お前が関わるパーティに行くとろくなことがないだろ?フランシスの誕生日だってそうだったし……それに、俺は狙われてるんだぞ?そんなところに行けるか」 「じゃあなんでアルバイトに行くのかな?帰りに襲われたんじゃなかったかな?」 「生活費だよ」  俺だって好きで働いてるわけじゃないんだぞ。  アンゲルは不愉快な顔でソファーに倒れ込んだ。 「別に問題ないだろ。それに、シュッティファントは警備だけは万全だぞ。客だってみんなイシュハ人で、教会っ子はいないはずだからな」 「そうなの?」 「シグノーのご令嬢とエレノアも来る。エブニーザも連れて行くぞ」 「また?ほっといてやれば?」 「あいつも今回は行く気満々さ」 「ほんと?」 「首都の邸宅には、シュッティファントの書庫があるんでね」 「本で釣ったのか……」 「ただし、カギは当主が持っているから、我々は入れないのだが」  ヘイゼルがにやりと笑った。 「……おまえ最低だな」  首都、シュッティファントの本邸。  車を降りて、建物を見たとたん、アンゲルは息をのんだ。  城か?要塞か?!  目の前の建物は、前に行った別荘以上に豪華だった。昔見た、童話の挿絵にあるような、遠くからでも見える、山の上にそびえる巨大な城を連想させるものだった。そんなものが現実にあったのは、何百年も前の話だと思っていた。本当にこの世にあるとは、アンゲルは夢にも思っていなかった。 「あほみたいに大口あけて驚くなよ」  ヘイゼルが文句を言った。彼は朝から機嫌が悪い。 「ヘイゼルのご両親がいるんですよね?」  エブニーザが建物を見上げながら言った。 「ということは、書庫に入るには、シュッティファント氏の許可が要りますね」  アンゲルとヘイゼルがびっくりしてエブニーザを見ると、めずらしく偉そうな笑いを浮かべていた。『それくらいわからないとでも思ったか?』という顔だ。  また制服を着た使用人が何人も玄関に現れて、荷物をどこかへ運んで行った。案内された広間には、フランシスとエレノアの姿があった。 「クーは?」  エブニーザが聞くと、フランシスが機嫌の悪そうな顔で、 「ノレーシュの国王が倒れたって、慌てて帰ったわ。ニュース見なかったの?」 「えっ?」 「ほんと?」  エブニーザとアンゲルがそろって声を上げた。二人とも知らなかったのだ。 「新聞を隠しておいて正解だったな」  ヘイゼルがにっこりと、意地悪に笑った。 「じゃあ僕も帰……」 「さあ~会場に行こうじゃないか!!」  ヘイゼルがエブニーザの肩をつかんで、無理矢理中庭にひきずっていった。エブニーザは顔が真っ青だ。きっと、冬の休暇のこと(彼にとっては惨劇)を思い出したのだろう。 「どうしてエブニーザなんか連れて来たのよ?」  フランシスがアンゲルに文句を言い始めた。 「また前みたいに倒れたらどうする気?」 「ヘイゼルにだまされたんだよ。書庫に入れるって。ノレーシュの事も知らなかったし」 「ニュースくらい見なさいよ」 「フランシス……」  さらに何か言おうとしたフランシスを、エレノアが止めた。 「私たちも中庭に出ましょう」  何かがいつもと違うな、と思いながらエレノアを見ていたアンゲルは、突然気がついた。  帽子がない。  それに、服も、いつもの、時代がかった舞台衣装みたいな服ではない。セレブが着ているような、薄いドレスだ。  ……有名になったら、きっと、いつもこんなのを着て歌うんだろうな。  アンゲルの目には、ドレス姿のエレノアが、別な人間に見えた。  ……いつもの方がいいなあ。  中庭に移動しながら、アンゲルはそう思っていたのだが、口には出せなかった。  会場にはすでに人が集まっていて、思い思いのグループに分かれておしゃべりをしている。シギとエボンの姿もあったが、遠くの席からちらちらとこちらを見ているだけで、近づいては来ないようだ。 「お前の親は?もう来てるのか?」  アンゲルがヘイゼルに尋ねると、ヘイゼルは、一番奥のテーブルに座っている夫婦を指さした……かなり嫌そうな顔で。 「あそこにいるよ。やる気のない主催者だからな……そんなこと聞いてどうする気かな?」 「いや、一応あいさつくらいしないと」  アンゲルはそう言うと、夫婦に向かって歩いて行った。  興味がわいたのだ。このヘイゼルの両親とは、いったいどんな人間なのか?同じような困った性格なのか、それとも全然違うタイプの人間なのか……? 「いろいろな国の料理があるのね?」  エレノアが頬を赤らめながら会場を見回した。テーブルがたくさんあり、どれにも、華やかな色彩の料理がびっしりと並べられていた。 「シュッティファントは無駄にグルメだからな」  ヘイゼルがエレノアに偉そうに笑いかけた。 「豪華な食事は権力の象徴なんだよ。特にあの辺のカニ料理とか、あと、分厚いステーキとか、ワインとシャンパンは女神アニタの食卓にも並んでいるものだ。あ、あのへんのはアケパリの料理で、イカを生きたままソースにぶち込んで、中にライスをつめたものなんだが、戦争が終わった後で流行ってね。まあ、戦利品みたいなもんだよ。賠償金も領土も取れなかった腹いせにね、相手の文化を横取りしたのさ。それとあそこのが有名なスシってやつで……」  ヘイゼルがエレノアに、料理と、それが意味する国や、概念や、彼独特の解釈を説明している間に、フランシスは別な婦人たちの席に移った。  アンゲルは、そーっとヘイゼルの両親の席に近づき、 「ここ、座ってもいいですか?」  と尋ねた。  夫婦がぎょっとした顔をした。映画の時もそうだったが、アンゲルには『相手の地位と自分の立場を推し量る』という能力が欠けていて、だれにでもこういうふうに話しかけてしまうのだ。  運よく、相手はアンゲルが誰か知っていた。 「君は、ヘイゼルのルームメイトだね?管轄区の」  シュッティファント氏が口を開いた。 「そうです」 「どうぞ」  婦人が向かいの、空いている席を手で示しながら笑った。優しそうな人だ。 「アンゲル・レノウスです」  アンゲルはできるだけ穏やかに微笑んだ。相手はティッシュファントム……いや、シュッティファントの当主だ。この国一番の富豪だ。  ヘイゼルの母親であるシュッティファント婦人は、薄い銀色のメガネをかけていて、質は良いが地味な、モノトーンのスーツを着ていた。指にはまっている大きなダイヤモンドの指輪を除けば、どこにでもいるふつうのおばさんに見える。 「ヘイゼルとはどうやってお友達になったの?」 「え、いや、だからルームメイト……寮で一緒の部屋なんですよ」 「いや、そういう意味じゃなくてな」 隣の父親が口を開いた。シュッティファントの当主は、ヘイゼルとは似ても似つかない、細面の、弱そうな……いや、頭のよさそうな顔立ちの男だった。 ヘイゼルより、エブニーザに似てるな……。 「何でしょうか?」 「どうして、あんなわがままで、乱暴で、自分勝手なおしゃべりと仲良くできるのかが聞きたいんだよ」  アンゲルは一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。  しかし、目の前の夫婦の表情……同情と疑問が入り混じったような複雑な顔……を見ているうちに、はっと気がついた。 「あのう」  アンゲルが遠慮がちに口を開いた。 「一つ質問してもいいですか?」 「何だ?」  ヘイゼルの父親は硬い表情を崩さない。 「ヘイゼルは、どうしてあんな変な性格なんですか?」 「そんなの、こっちが聞きたいね!」  父親が忌々しそうに声を荒げた。 「身内にもあんなおしゃべりはいないのよ」  傍にいたヘイゼルの母が困った顔をした。 「私の家族にも、シュッティファントの一族にも、ヘイゼルみたいな人はいないの」 「そうですか」  どうやら、この両親もあのヘイゼルには手を焼いているらしい。 「遠慮せずにお食べになってね。私たち実は少食だから、このテーブルの三分の一もいただけないわ」  ヘイゼルの母がそう言って、大きな肉料理のプレートを差し出してきた。  アンゲルは質問するのをやめて、食事に専念することにした。目の前の二人が息子にうんざりしていることがよくわかったし、なにせ、見た事もないような豪華な食材が目の前に並んでいるのだ。今のうちに味わっておかなくては。 「ご一緒してもいい?」  エレノアが近づいてきた。頬がピンク色で機嫌がよさそうだ。 「あれ?ヘイゼルはどこに?」  アンゲルは喜びを抑えながら尋ねた。 「つかまったんじゃなかったのか?」 「エブニーザが人を怖がって中に入っちゃったから、引きずり出しに行くって」 「また?」  アンゲルが甲高い声で叫んだ。 「どうせ誰とも話さないくせに、何がそんなに怖いんだろうな」 「可哀相だわ、休ませてあげればいいのに」  ヘイゼルの母親がほんとうに同情している顔をした。 「あいつの頭に『休む』という概念はあるのかな?」  ヘイゼルの父親がため息をついた。 「ところでそちらのお嬢さんは、フェスティバルで歌っていたよね?」 「ええ!そうですわ!」  エレノアが頬を紅潮させた。 「私、歌手ですの」 「すばらしい歌声だった。私は会場で聞いていたのだよ。きっと君は偉大な歌手になれる」 「ありがとうございます!」  エレノアはほんとうに嬉しそうだ。アンゲルもつられて笑う。 「ところで、シグノーのフランシスと同じ部屋なんでしょう?」  ヘイゼルの母親は、顔に同情の色を浮かべた。 「ええ」 「こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど……大変じゃなくて?あの子は昔から知っているけど、気が強くて、我が張っていて、すぐ怒鳴るわよね?」 「ヘイゼルのようにな」  父親が付け足した。やはり表情は険しい。 「たしかにあの二人、よく似ていますわ」  エレノアが笑った。 「でも、二人ともとても面白い人なんです。予想もできないことを次々と起こすの。だから友達でいると楽しいんです」 「面倒も多いんですけどね……」  アンゲルが控えめに付け足した。 「ヘイゼル!」  フランシスの怒鳴り声が会場に響いた。 「どうしてくれんのよ!新調したばかりなんだからね!このドレス!弁償しなさいよ!」 「それくらいで文句を言うな、なんなら全部ワイン色に染めちまえばいいさ!」  見ると、ヘイゼルがフランシスに向かって、ワインボトルを振り回し始めていた。ワインが飛び散って彼女の白いドレスを赤く染めていく。フランシスは反撃に、傍にあったソースのビンの蓋をとって、ヘイゼルの顔に向かって投げつけた。ソースは見事にヘイゼルの顔面に命中した。 「やったなこの野郎!」  ヘイゼルはシャンパンのボトルを手に取り、フランシスに向けて栓を抜いたかと思うと、周りに向かって機関銃のように振り回し始めた。客がいっせいに悲鳴を上げて逃げて行く。しかし、それくらいでひるむフランシスではない。フォークや皿や、そばにあるものをヘイゼルに向かって手当たり次第に投げ始めた。 「ああーまた始まったぞ」  アンゲルが立ちあがって、ヘイゼルの両親に向かって真面目にこう言った「巻き込まれないうちに、中に逃げたほうが安全です」 「わかっているわよ。もう何年もあれに悩まされてきたんですからね」  夫婦が揃って立ち上がり、館の中に消えて行った。  どうやら、自分たちで息子を止めようとは、微塵も思っていないらしい。 「やめなさい!フランシス!」  エレノアがフランシスに向かって走っていく。アンゲルもあとを追った。  フランシスは嫌いだけど、今日は助かった。  館の中、窓辺で外の騒ぎをぼんやりと見下ろしながら、エブニーザは思っていた。  さきほど、ヘイゼルが彼を外に連れ出しにやってきたのだが、そこにフランシスが割って入り、ヘイゼルを無理矢理外に引っぱっていったのだった。そしてこの騒ぎだ。  ほんと、そっくりだな、あの二人。  いくつになっても、ああいうケンカを毎日繰り返す……。  エブニーザは、ヘイゼルとフランシスが『お互いを罵りつつも、絶対離れようとしない』ということを知っていた。予知で未来の二人を見ていた。  そんなの、見えても、今のあの騒ぎの解決にはならないな。  外では、ヘイゼルを止めようとしたアンゲルの頭に、シャンパンボトルが命中した。倒れたアンゲルにかけよったエレノアの髪に、フランシスの投げたフォークが突き刺さった。軽い悲鳴が聞こえる。  あの二人を今、止める方法ってあるんだろうか?  エブニーザはいろいろ考えてみたが、実行できそうにないのでやめた。  アンゲルとエレノアは、未来が見えないから、何でもやってみる気になるんだろうな。そうじゃなきゃ、あの二人のケンカを止めようなんて思うはずがない……無理なんだから。  エブニーザは悲しげに眼を閉じた。もう何も見たくない、と言っているみたいに。  未来がわかっていたって、そのためにできることなんて何もないんだ。  僕にはいろいろなことが分かるのに、どうして、実際に役に立つことが何もできないんだろう?  やっぱり人間じゃないからだ。きっとそうだ。  エブニーザが憂鬱な思考にはまりだしたとき、後ろから足音がした。  振り返ると、ヘイゼルの父親が立っていて、気難しいしかめっ面でエブニーザを見つめていた。  シュッティファントの当主だ!  何だろう?  怒っているのか?なぜ?  僕は何か、おかしいことをしてるんだろうか? 「君は、ヘイゼルと仲がいいんだね?」 「は、はい、たぶん」  エブニーザの声は震えていた。 「たぶん?」 「僕は友達だと思ってる、思ってます。でも、ヘイゼルがどう思ってるかは、わかりません。他人の考えてることは、わからない、ものだから」  エブニーザは下を向きながらとぎれとぎれに答えた。 「いや、私はむしろ、ヘイゼルの方が君を離さないと思うがね。あいつは知り合った人間を絶対に自分の手から逃がそうとしないんだ」 「そう……ですね」  窓の外からフランシスが怒鳴る声が聞こえる。 「たとえば、あのシグノーの令嬢とかね」  ヘイゼルの父が親指で窓を指した。 「ここは騒がしいだろうから、書庫にでも行ったらどうだ?ヘイゼルが君は本が好きだと言っていたが……」  エブニーザの表情が突然明るくなった。  シュッティファントの書庫!国立図書館並みの蔵書があるという書庫! 「ついてきなさい」  ヘイゼルの父が廊下を歩きだした。エブニーザはその後を、期待しながら追いかけた。何かおもしろいものが見つかるかもしれない……。  アンゲルが目を覚ますと、エレノアが心配そうな顔で自分を覗きこんでいるのがわかり『わあ、幸せ』と思うが、すぐに、 「あれ?どうしたの?今何時」  わざと寝ぼけた声を出しながら起き上がった。 「白ひげが現れたのよ」  エレノアがおかしそうに笑った。 「白ひげ……ああ、あれか。ってことはまたお説教?」 「そう」  エレノアが窓を指さした。  二人で外を見ると、白ひげと、その前に並んで立たされている、ヘイゼルとフランシスらしき2人の後ろ姿が見えた。フランシスのドレスはほとんど全部ワインで染まっていて、もともと白かったとは思えない色になっていた。  アンゲルとエレノアは、白ひげが両手を振り上げたり首を大きく振ったりと、変なジェスチャーをしながら話しているのをしばらく観察していた。 「一体何を話しているのかしらね」  窓から下の3人を見おろすエレノアを、アンゲルは横から見つめていた。  綺麗だなあ、やっぱり。 「何?」  エレノアがアンゲルの視線に気がついた。 「何でもない……エブニーザを探そう」 「えっ?」  エレノアが不満そうな顔をした。アンゲルの予想とは違う反応だ。 「あ、いや、シュッティファントの書庫がどうとか言ってたから」  アンゲルはあわてて、自分でもよくわからない説明を付け足した。 「ちゃんと見つけて入れたのかな~と」 「そう」  エレノアはまた窓の外を観察し始めた。白ひげの声はまだ聞こえていた。  エレノアが、手をふっと、額の上に上げて指を動かした。でも、顔をしかめて、すぐに下ろし、ため息をついた。 「帽子?」  アンゲルがそう言うと、エレノアが驚いた顔で振り返った。 「あ、いや、いつも帽子をかぶってるのに、今日はないな~って思って」 「そう……そうなの」  エレノアが、いかにも作ったような笑いを浮かべた。 「ドレスに合う帽子がないから、かぶってこなかったんだけど、落ちつかないのよ」  エレノアはそれだけ言うと、また窓の外を眺め始めた。  外からはまだ、白ひげの説教が聞こえてくる。  アンゲルは、ベッドの端に座って、エレノアの後ろ姿を、ずっと眺めていた。窓の外に向かって、すっと伸びているエレノアの背中。時々、風になびく黒い髪。  この景色、一生忘れられないだろうな。  そうアンゲルは思った。それくらい、窓辺にたたずんでいるエレノアは、美しく、幻想的で、夢物語の中にいるように思えた。  エブニーザは書庫内の電話を借り、以前聞いたノレーシュ王家の番号に電話をかけてみた。しかし、姫君の知り合いだと言っても相手が信じてくれず、 「外国のお姫様に憧れるのはわかるけど、わざわざ電話なんてかけてこないでね」  年配の受付に笑われて電話を切られてしまった。  あきらめて、書庫の奥まで入っていき、学校の図書館よりもさらに古い時代の本を見つけて、熱心に解読を始めた。  と、例の彼女が、うす汚い建物の窓辺で、ぼうっと外を眺めているのが見えた……疲れ切った顔で。  一瞬で消えたが。  ……ああ、助けを待っているんだな。  エブニーザはしばらく、悲しげに眼を閉じていた。  と、後ろの棚から足音がしたので慌てて立ち上がる。シギだった。またエレノアの相談でもされるのかと思ったが、違った。最近の経済指標の話を始めた。 「その会社は不正をしていて、もうすぐ倒産します。パニックで株価が暴落して、3年くらい上がりませんよ」  エブニーザが数字を示しながら説明すると、シギが疑問の顔をした。 「どうしてそんな正確な年数が出る?本当に3年も続くのか?」 「ええ。でもある意味、いい会社の株価も下がるので、買い時だと思いますけど。3年もちこたえる勇気があれば。電化製品とテクノロジーは確実に上がりますよ。イシュハだけじゃなく、全世界の情報通信が飛躍的に伸びるから」 「それくらいは俺でもわかる」  しばらく二人でそんな話に没頭した。  エブニーザを探しに書庫にやってきたアンゲルとエレノアは、シギとエブニーザが『難しい経済の話』をしているのを発見した。 「よくわかんないから、ほっとこうか」 「そうね」  二人で反対側の書架を歩く。古びた劇の台本がたくさん並んでいる棚を見つけた。  エレノアが、てきとうに取り出した台本を読みあげた。 「『死者の魂をこの身に代えて……』」 「『……私は私の愛した人を忘れよう』」  アンゲルがセリフの続きを何も見ずに言ったので、エレノアが驚いた。 「知ってるの?」 「『ある肖像』だろ?中学校の演劇部がやってたよ、それ」 「ほんと?」 「俺も『召使その3』の役で出た」 「その3?」  エレノアが笑いながら台本をめくった。そしてまた読み上げた。 「『私は忘れたことがない。絶望に満ちた彼女のあの表情を』」  アンゲルもその先を覚えていたので、一緒に声を出した。 「『その瞳の奥に隠された、不幸に歪んでしまった純粋な愛を』」 「『あんなにも人を愛することは、もう二度とないだろう……』」  二人の目が合い、妙な空気が流れた。  二人が真っ赤になって黙り込んでいると、ばたばたと足音がして、女中が二人を呼びに走り寄ってきた。 「ヘイゼル様がお呼びです」 「何の用ですか?」  アンゲルが嫌そうに言った。  せっかくいい雰囲気だったのに……。 「ノレーシュ王が崩御されました」  エレノアの喉から、引きつった声が漏れた。慌ててシギとエブニーザにも知らせ、みんなでヘイゼルのところに行くと、フランシスと一緒にテレビを見ていた。  ノレーシュ王の死と、一人しかいない姫君の王位継承の決定が、報道されていた。  クーは留学を中断し、祖国に戻って王位を継ぐことになった。 『覚悟はしていたわ』  ヘイゼルが独断でかけた電話が、なんと本人につながった。エレノアとエブニーザが、必死で慰めの言葉を発するのを、フランシスは奇妙な目で眺めていた。アンゲルはそんなフランシスを冷たいと思った。  友達じゃないのか?なぜさっきから機嫌の悪そうな顔をしてるんだ?  電話でクーはエブニーザに、 『イシュハ語で手紙を書くから、返事はノレーシュ語で書いて』  と言い、そしてアンゲルとヘイゼルに、 『お願い、エブニーザをこれ以上シュタイナーと関わらせないで!本当にあそこは危険なの』  と忠告した。  数日後、イシュハのテレビで、ノレーシュ国王の葬式と、クゥエンティーナ新女王の戴冠式が中継された。  みんな学校をさぼって、その様子をじっと見守っていた。エレノアも、フランシスの部屋のテレビでその様子を見ていた。  得体のわからない、重苦しい何かを感じながら。 「あの王冠」  フランシスが、ちょうど、クーの頭に乗せられようとしている王冠を指さした。 「重いでしょうね。あれに、一つの国の運命がかかっている。私と同じ年なのに、もう国を背負っているのよ……。クーは大人びているけど、ほんとはもっと子供でいたかったんじゃないかしら」  フランシスが、めずらしく同情心にあふれた発言をした。ノレーシュ王の崩御を聞いてから、ずっと一人で考えていたのだ。クーの立場の重さを。  そうだ。心の中で思うことがあっても、自分の立場がある人間は、そう簡単に顔に出すことができないのだ。地位が高ければなおさらそうだし、地位がなくても、それなりに自分の人生に責任を持とうとしたら、笑いたい時に笑って、泣きたい時に泣く……そんなことも、簡単にはできなくなる。  エレノアは画面に見入っているフランシスと、テレビに映っているクーを見ながら思った。  なんてさみしいんだろう、大人になるということは。  それから数日経って、みんな、もとの学校生活に戻った。  エレノアは悩んでいた。  アンゲルの気持ちにはずっと前から気づいているし、自分もアンゲルの事が気になり始めていたのだが、もともと自由に生きているエレノアは、だれかに縛られるのが嫌いだった。それに、ただでさえ音楽科で孤立していて、しかも今はオペラハウスでの仕事も始めてしまった。これ以上もめごとを増やしたくなかった。  もしアンゲルに自分の気持ちを知られたら……。  最近のエレノアは、カフェでアンゲルを見かけても、わざとそっけない態度をとったり、エブニーザの話をしていた。  なんか変だな……?  アンゲルはわりと勘がいい人間なので、エレノアの態度の変化には気がついていたのだが、話にはいつものように応じた。  しかし、聞きたいだろうと思ってエブニーザの話をしていると、突然エレノアが、 「帰る!」  と、不機嫌そうに立ち上がって帰ろうとしたのには驚いた。 「待って、エレノア、なんで怒ってるの?」 「怒ってない!」  エレノアらしくない、キンキンした声が飛んできた。  ……どう考えても怒ってるだろ!何だよ!?  混乱気味のエレノアは、そのまま図書館に直行し、エブニーザがいるであろう資料室に向かった。  エブニーザはやはりそこにいて、ノートに熱心に何かを書いていた。 「何を書いているの?」 「え?」  楽しそうな顔。めずらしく機嫌がよさそうだ。 「ああ、知らない人の姿が見えたんですが、面白いので書き残しておこうと思って」 「面白い?」 「ええ。女神アニタが恋人を結び付ける方法、知ってます?」  神話の話だな、とエレノアは気づいた。 「女神アニタが、右手に男性、左手に女性の手を取ると、その二人が結びつくんでしょ?」 「それですよ!」  エブニーザが喜んで叫んだので、エレノアは驚いた。何がそんなに楽しいのだろう? 「女神アニタが、人間の船上パーティーに忍び込んで、ある男の子の手を取ったんです。もう片方の手に女の子の手を握ろうとしたんですが、よろけて、船の壁に左手をついてしまったんですよ」 「……船に恋しちゃったの?」 「そう。その男の子は船が大好きで、船の模型を作ったり、船の本を読んだり、とにかく船に夢中で、他の事は考えられないんです……女神は、このままではあの子はただの船オタクになってしまう、どうしようかと考えて、気立てのいい女の子を探して、その男の子のそばに送ってあげたんです。その子がちゃんと人として成長できるように。やがて二人にはかわいい女の子が生まれて……」 「それのどこがそんなに楽しいの?」  エレノアは自分の意地悪な声に驚いて、あわてて言いなおした。 「ごめんなさい、ちょっとさっき嫌なことがあって……」 「アンゲルですか?」  エブニーザが当然のことのようにそう言ったので、エレノアがはっとした。 「どうしてわかるの?」 「どうしてって言われても……」 「あなたって、そういえば、いつも私とアンゲルをくっつけようとするわね」 「それは……」 「いいわ、別にいいの。もう帰るわ……ねえ」 「何ですか?」 「女神が私を左手で握ったとする」  エレノアが右手を上げた。 「女神の右手には、誰の手が握られているの?」  エブニーザは困惑した顔で、何も言おうとしない。 「今のは忘れて」  エレノアは、頭を抱えながら資料室を出て行った。  男子寮。機嫌良く帰って来たエブニーザがアンゲルに『船の話』をすると、 「それはお前の願望じゃないのか?自分が気立てのいい女の子に会いたいんだろ?」  アンゲルがそう言うと、エブニーザはムッとした顔をした。 「だって、女神アニタって……神話だろ?現代にそんなこと起こるか?」 「現代じゃなくて、未来ですよ。僕らの子供の世代です」 「そんな先まで見えるのか?お前の知り合いか?」 「違います」 「そんなの見えて何か役に立つか?」 「機嫌が悪いですな、エンジェル氏」  ソファーで新聞を読んでいたヘイゼルが割って入って来た。 「うるさい、ティッシュファントム」 「ティッシュファントムって言うな!」 「俺の部屋で新聞を読むな!」 「新聞はソファーで読むものだぞ!」 「意味わかんねえよ!!」  また二人でケンカを始めてしまった。  しばらく二人のケンカをじっと見ていたエブニーザが、突然、 「いいかげんにしろ!」  と叫んだ。  アンゲルとヘイゼルは驚いて動きを止めた。  ……エブニーザが怒鳴った?  エブニーザは、自分の叫び声に驚いたように震えだし、その場に座り込んでしまった。 「大丈夫か?」  アンゲルが聞いても答えない。30分ほどで震えは治まったが、エブニーザは何も言わずに部屋に戻って寝てしまった。 「なんだろうなあ……」  アンゲルが首をかしげていると、ヘイゼルは興味なさそうに、 「またなんか思い出したんじゃないか?」  とつぶやいて、自分も部屋に戻って行った。  アンゲルは一人ソファーに座って、今日のエレノアのことを思い出していた。エブニーザの話をしてたら突然怒り出したな……何かあったのか?  まあいいや。それより試験が近いからな、勉強しよう……。  電話が鳴った。アンゲルがめんどくさいと思いながら出ると、母親だった。 『大丈夫かい?あれから変わったことはない?』 「ないよ」  アンゲルはそっけなく答えた。 「そっちは?」  そのあとは、あたりさわりのない話をしただけだったが、受話器を置いたとたん。今まで忘れていたこと……イライザ教とか、狙われていることとか、台風とか、悲鳴とか、クラウスとか……を一気に思い出して、アンゲルはソファーに倒れ込んだ。  エレノアとフランシスは、クーからの手紙と、『ノレーシュの新女王はレズ!?』という雑誌の特集(いかにもイシュハ人が好きそうな話題だ)を交互に見ていた。 「レズだったら何だってのよ。男だったらちゃんと政治ができるとでも?」  フランシスがあからさまに不満げな声をあげた。 「そうだったらこんな馬鹿げた世の中になってないでしょうに。冗談は顔だけにしやがれってのよ」 「プライベートな時間って、ないんでしょうね」  エレノアはそう言いながら、以前、襲われそうになった時の事を思い出した。もちろんあの行為は今でも許し難い。でも今思えば、あれがクーがふるまえる自由の限界だったのかもしれない。 「ないわよ、全然」  フランシスは雑誌を閉じた。 「ノレーシュの王家は世界一伝統ある古臭い一族なのよ。神話の時代から続く、神話の擁護者。政治だけじゃなく、多神教の神々の信者全ての面倒を見なくちゃいけない……若い娘には重すぎる仕事じゃない?」 「そうね」  エレノアもフランシスも黙りこんだ。  そして、遠くの友人が今頃何を思っているのか想像してみた。  重い責任を負った友人のために、二人がしてあげられるのはそれだけで、何の助けにもならないことがひどく空しい。  夜。一度目を覚ましたアンゲルが本をめくりながらうとうとしていると、電話が鳴り始めた。 「誰?」 『ビョルイェ・ディンケラ』 「は?」  それは、アンゲルにはわからない発音だった。 『ロハンのルームメイトだ。奴は酒を飲んで暴れている』  外国語なまりの、妙に低い声が受話器から響いた。 『居酒屋から電話があった』 「暴れてる?」 『一緒に来てくれ。一人で抑え込めるかわからない。あいつは酔うと暴れる』  ……何で俺!?  アンゲルは頭を抱えた。はてしなく面倒だが、無視するわけにもいかない。 「場所は?どこ?」 『そんなに遠くじゃない、郊外の、バーが集まっている通りがあるだろう』 「ああ~」  アンゲルは突然思い出した。 「前にもそこでロハンにからまれたことがあるよ。もしかしたら、6800クレリンの店かなあ」 『よその店でも同じくらいつけがたまってる。全部で2万は超えている』 「何だってぇぇぇ!?」  アンゲルは驚きのあまり変な声で叫んだ。  そんなの、請求されても絶対払えないぞ!?(払わないけどな!)  アンゲルはまず、アルター郊外の繁華街に向かい、例の『6800クレリン』の店に行ったが、そこにロハンの姿はなかった。観光客や学生、酔っ払いがごった返している通りをひととおり回ったが、見つからなかった。  それにしても、学生が多いな。みんな未成年じゃないか?酒飲んでいいのか?しかもここは学校から500メートルも離れてないんだぞ……。  疑問に思いながらふと店を覗くと、見覚えのある教授と、どう見ても14,5歳にしか見えない女の子たち(しかも全員下着のような服装だ!)が、ビールで乾杯しているところだった。  おいおいおいおい、どうなってるんだアルターは!?  いや、それより、ロハンは?  どこだ……?  店の裏側の、人気のない通りに入ってみると、中通り奥の駐車場で、男が、奇声を上げながら何かをがんがん叩いているのを発見した。 ロハンだ。 「おーい、ロハーン!!」  アンゲルは少し離れた所から叫んでみた。近寄ると危ないのではないかと思うくらい、今のロハンの動きは異様だった。全身を弾きつけを起こしたように上下に揺らし、甲高い声を上げながら、誰のものだかわからない車を妙なリズムで叩き続けている……。 「ロハン!」 「呼びかけても無駄だ、聞こえてない」  後ろから平坦な声がした。アンゲルが振り返ると、シルエットだけでノレーシュ人とわかる大柄な、それでいて妙に細身の男が立っていた。 「えーと……」 「ビョルイェだ」 「あー」  アンゲルは彼の名前がどうしても聞き取れなかった。 「とにかくさ、どうやって止めるのあれ?」 「もちろん力ずくで寮まで連行する」 「えぇ~」  やっぱり来るんじゃなかった、とアンゲルは思った。 「誰かに危害を加えるか、通報されて警察に捕まる前にな」  アンゲルはあわててあたりを見回した。幸い、誰もいない。たぶん、通行人も、この異様な男を見てこの道を避けたのだろう。 「車の持ち主が飲み終わる前に逃げたほうがいいだろう」  ノレーシュ人は平坦な声でそう言うと、ロハンの方に近づいて行った。アンゲルも、おそるおそるその後についていった。  妙に冷静だな……きっと何度も同じことがあったんだろうな。 「おい、帰るぞ……」  ノレーシュ人が声をかけるのと、ロハンが彼に向かって殴りかかったのが、ほぼ同時だった。ノレーシュ人は後ろに飛ばされ、アンゲルは飛ばされた彼に当たって地面に倒れた。 「あははははははははは~」  ロハンは二人を見おろしながら、間抜けな声で笑っていた。 「何やってんだよ!?」  アンゲルは起き上がりながら叫んだ。 「お前飲み過ぎだろ!?この前おっさんに金取られたぞ!おまえがつけで飲みまくるからだろ!?金返せ!」 「そんなことを言っている場合か」  ノレーシュ人は呆れた顔でアンゲルを見た。 「おう、アンゲル。よく来たな」  ロハンがアンゲルを、虚ろな目で見た。 「飲みに行こうぜ」 「ハァ!?」 「ビョルイェは来なくていいぞぉ」 「頼まれても行かないね」  ロハンがまたノレーシュ人に殴りかかったが、今度はよけられて、自分が地面に倒れた。 「帰るぞ!酔っぱらい!」  アンゲルは、倒れているロハンに近づいてそう言った。ロハンは起き上がらなかった。 「ロハン?おい!帰るぞって!」  アンゲルはロハンの肩をゆすった。 「起きろ!」 「呪われてる」 「何?」 「俺は呪われてる」  ロハンが地面に顔を伏せたままつぶやいた。 「うちの家族はみんなそうだ。親父も母さんも酒飲んで死んだ。俺も酒飲んで死ぬんだよ」 「アルコール中毒は病気だよ。呪いじゃない。治療して治すんだ!」  アンゲルはいらつきながら叫んだ。 「まず医者に行って、支援グループか療養場所を探すんだ」 「俺の人生は終わったぁ」 「勝手に幕を下ろすな!」 「あいにくお前が退場しても俺たちの劇が続くんでね」  ノレーシュ人の声はどこまでも冷淡だった。  アンゲルは『その言い方はないだろう!?』と思った。 「俺はどうせ主役じゃねえよぉ~」  ロハンはそれ以降、全く何もしゃべらなかった。  アンゲルとノレーシュ人は、二人がかりでロハンを抱き起したが、ほとんどまともに歩けないので、彼を引きずって寮まで歩くしかなかった。  ロハンを『安い寮』まで運んだアンゲルは、ノレーシュ人の机の横に、医学書や薬の本がたくさん並んでいるのを発見した。 「もしかして、医学部?」 「外科だ。来年入る予定だ」 「へえ~。俺は心理学だから、またどこかで会うかもね」 「ヒマ人の言葉遊びだな」 「は?」  ノレーシュ人は、どこか皮肉めいた笑いをアンゲルに向けていた。 「あいにく俺が目指してるのはちゃんとした医師でね」 「どういう意味だよ」 「おしゃべりだけで治る病気なんてない。精神医学まで行くのならともかくだ」 「あ~わかった。お前もヘイゼルと同じで、カウンセラーが嫌いなんだろ!?」 「カウンセラーも学者も、治療はできないし、薬も処方できない」 「それは……そうだけど」 「せめて、薬が処方できるちゃんとした精神科医を目指したらどうだ」  何の抑揚も感情もない声で、ノレーシュ人が言った。 「そこまでやる覚悟があるのか?」  アンゲルは答えずに、ノレーシュ人に背を向けて、ベッドで眠っているロハンを見た。 「こいつって何を専攻したいんだろうね?聞いたことある?」 「ないね」  興味のなさそうな返答だ。アンゲルは帰ることにした。  薬が処方できないと治療ができない……のか?でも、カウンセリングだって立派な治療のはずだろ?医学部の授業料は高いんだよな。たしか、他の学部の4、5倍はしたはずだ。バイトもこれ以上増やせないしな……。  夜道を歩きながら、アンゲルは、いつのまにか『精神科医の免許を取るにはどれくらい金がかかるんだろう』と考えている自分に気がついた。  確か、タフサが免許を持っていたはずだ……今度聞いてみるか。  寮に戻ると、また電話が鳴っていた。 『スタット病院です』 「は?」 『アンゲル・レノウス様でしょうか?』 「そうだけど何?」 『エブニーザという人がうちに搬送されてきたのですが』 「何だって!?」 『ご心配なく、命に別条はありません。ただ、ショックを受けているようなので、迎えに来ていただけないでしょうか?』  アンゲルは病院の住所を聞いて、乱暴に受話器を置くと、部屋を飛び出した。  ロハンの次はエブニーザかよ!?今日は一体何の日だ!?それになんで俺なんだ?ヘイゼルはどこに行ったんだ?エブニーザの面倒は俺が見るとか言ってたくせに!!  エレノアはオペラハウスのミーティングに出席していた……が、向かいに座っている美形テノール歌手にうっとりと見とれて、チーフの話をほとんど聞いていなかった。  なんて美しい男性なのかしら……。 彼はグレンという名前で、イシュハでは既に実力を認められており、端正な顔立ちから女性にとても人気がある。 美形に弱いエレノアがぐらつかないはずがない。つい先ほどまで悩んでいた自分の声の事や、アンゲルの事、エブニーザの意味深な発言の意味……など、このミーティングルームに入った瞬間に忘れてしまったようだ。 テノールもそんなエレノアに気がついたのか、時々親しげな視線を送って来た。その度にエレノアは、顔が赤くなるのを感じた。話を聞かなくてはと思っているのに、ぼーっとなってしまう。 しかも、次の公演ツアーで、エレノアは彼の恋人役を演じるのだ。  ぼんやりしているうちにミーティングは終わった。グレンが部屋を出る時、 「エレノア・フィリ・ノルタ」エレノアに向かって手を差し出しながら微笑んだ「本当に綺麗な人だね。噂には聞いていたけど、まるで女神のようだ」  エレノアは天にも昇る心地で、彼と握手をした。 しかし、周りのスタッフはどこか心配そうな様子だ。彼が去った後、みんな一様に『やれやれ、困ったもんだ』とでも言いたげなため息を漏らした。 「どうかしました?」 エレノアは、妙な目つきのスタッフたちに尋ねてみたが、はっきりした答えが返ってこない。みな、意味ありげな顔で両手を広げるか、不安げな顔で目をそらすだけだ。 なんだろう……?  疑問に思いつつ、アルターに戻ることにした。  練習しなくては……。  エレノアにとって初めての本格的なオペラツアー(しかもものすごく長い、セリフも歌詞も膨大な)なのだ。しかも美形のテノールが一緒で。  練習にもいつも以上に力が入った。 「ねえ!」 数時間後、エレノアが帰ろうとすると、どこからか声が聞こえた。 あたりを見回すと、見慣れない黒いロングヘアの女性が、にこにことこちらに手を振っているのが見えた。 誰だろう……? 「あなたエレノアよね?」女性が近寄って来た「あたし、フィス。ピアノ科の」 「どこかでお会いしましたか?」 「いやだあ。会わなくてもわかるわ。あなた有名だもの」 フィスがエレノアに手を差し出した。エレノアもそれに応じたが、そのとき、フィスの爪の派手なネイルアートに気がついた。ラメが光り、カラーストーンや花飾りがついていて、楽器を弾く人間の手とはとても思えなかった。 「オペラハウスに入ったんですってね。おめでとう」 「ありがとう」 一応お礼を言ったが、エレノアは困惑していた。初めて会って話す相手なのに、妙になれなれしい。 「前からあなたと話したいと思ってたの」フィスは社交的な顔でそう言った「でも、この学校ってどこか……変なとこあるじゃない?陰湿って言うか」 「ああ、わかります」 エレノアは少し歪んだ笑い方をした。ここの陰湿さを、身をもってよく知っていたから。 「あたしもけっこうやられたの。……あ、これから私レッスンだから、また今度どっかで話しましょうよ、じゃ」  フィスは早口でそう言いながら、レッスン質の中に消えた。  ……私だけじゃないのね。ここで戸惑っていたのは。 エレノアは、ケンタ以外に音楽科に友達がいなかったので、帰り道でフィスの言葉を思い出しながら喜んだが、あとでケンタにこの先輩の事を聞くと、 「フィス?ああ、あの人さ、いつも遊び歩いてて、試験のパフォーマンスもやべえって。俺演奏聞いたことあるけど、素人以下の習いごとレベルにも達してない。小学生のピアノ発表会みたいな感じだよ。どうやってここの入試を突破したんだろうなあ」 どうも、音楽科の中では『劣等生』として有名らしい。 「それより、オペラいつやんの。俺も見に行きてぇ」 「え?ああ……」ケンタにテノール歌手の事を話していいのか、エレノアは迷った「日程はまだ決まってないの。でも、イシュハ公演のチケットが出たら必ず確保するわ」 「頼んますよ。俺はそういう手配めっちゃ苦手だから」 「そう」 「アンゲルとエブニーザも見に来んだろ?」 「それは……」エレノアは突然アンゲルの事を思い出した「わからないわ」 「チケットやれよ。喜んで飛んでくるって」 「そう思う?」 「マジ思う。だってエレノア」 ケンタがおどけた顔で、ニッと笑った。 「あんたがヒロインなんだぜ」    エブニーザは、病院の廊下の椅子に座って、うつむいていた。顔色が真っ青と言うより、真っ白で、アンゲルは一瞬、死体が座っているのかと思ってびくりと身を震わせた。人の気配に気がついたエブニーザが自分の方を向いたので、とりあえず生きていることはわかったが、出来れば近づきたくない、険悪な雰囲気があたりに漂っていた。  ……なんでどいつもこいつも俺が迎えに来なきゃいけないんだよ! 「どうしてみんな見た目ばかりで騒ぐんでしょうね……」  心底うんざりした顔でエブニーザがつぶやいた。 「何があったんだ?」  うんざりしながらも、アンゲルはとなりに座って尋ねてみた。 「また何か悪いことでも思い出したのか?」 「『俳優にならないか』って声をかけられたんですよ」 「は?」 「走って逃げても追いかけてくるんです……」  まるで悪魔にでもとりつかれたかのような顔だった。 「逃げ回っているうちに気分が悪くなって……」 「で、病院に運ばれたと?」 「そうです」  エブニーザは弱々しくため息をついた。 「どうしてみんな人の顔だけ見て勝手に騒ぐんでしょうね……迷惑なのに」 「贅沢な悩みだな」  アンゲルは、相手にする気がしなかった。『僕ってスカウトされるくらいかっこいいんだぜ』と自慢しているように聞こえたからだ。もちろんエブニーザにはそんな気は微塵もなく、単に人に追いかけられるのが怖くてたまらないだけなのだが。  手続きをしている間、アンゲルは待合室で座っていたのだが、  どうしてここの壁はこんな暗い色なんだろう。ここに座っているだけで死にたくなる。もっと明るい色にできないのか?それともわざと暗い色にしているのか?『事の深刻さを自覚しろ』って?それとも単に予算がないのか?  と、病院の中を眺めまわして、自分勝手にいろいろと考えていた。  管轄区には病院がないので、アンゲルは『病院』という空間に慣れていなかった。自分が襲われた時にも運ばれてきたはずなのだが、あのときは別の事で頭がいっぱいで、病院の内装まで見ている余裕がなかった。  久しぶりに、そして初めてじっくり見た『病院』は、あまりにも暗く、陰鬱な空間だった。  すでに真夜中で帰りの列車がなく、タクシーで帰ることになった(代金はもちろんエブニーザが払った。アンゲルは財布を持っていなかった)  俺だったら、病院の室内はもっと明るくするな。それと、入口をもっと広くして……。  アンゲルがぼんやりと架空の病院を想像していると、エブニーザが夢に出てくる女の子の話を始めた。  夜に売春をさせられている少女は、昼間、他の娼婦が寝ている時も、起きて、窓辺で外を見ながら考え事をする。だれかが声をかけてくれるかもしれないと思って。 「僕がそこに行けたらいいのに」  エブニーザは深刻な顔でそう言ったが、アンゲルは真面目に聞く気になれなかった。どうせ妄想だろうと思っていたし、ロハンの一件でもう疲れていて眠かった。実際、アルターについたころにはぐったりと眠りこんでいた。  明け方、エブニーザが外に出ようとすると、アンゲルが起きていて、熱心に本をめくっていた。エレノアにもらったというカモミールティーが紙コップに入っている。 「お前も飲む?」  アンゲルはティーバックをつまんで見せた。エブニーザがうなずいた。  やっぱり薬草が好きなのかな?わかんない趣味だなあ……。  アンゲルは、授業で習った『人生台本』の話をした。 「7歳頃までに、自分で自分の人生の台本を書いてしまうらしいんだ。無意識に。その台本が『みじめな人生』だと、いいことが起こっても受け入れられずに、自分からみじめになるような道を選んでしまう……らしい。俺は自分が7歳の頃を思い出そうとしたんだけど……別なことを思い出して眠れなくなった」 「何を思い出したんですか」  アンゲルは嫌な顔をして、 「お前には一生理解できない問題だよ」  と答えた。『カエルみたいな顔』と言われたことをまた思い出したのだ。 「お前、さらわれてただろ?その間に台本が酷い内容になったんじゃないか?今から書き変えろよ。できるらしいよ。俺は今自分で試そうとしているところだ」 「書きかえる……?」  エブニーザは絶望的な顔をした。 「もう決まっているのに?」  そう言うと、立ち上がって、部屋に戻ってしまった。  決まってる……?  ああ、予知能力か。  何でも自分の予想通りになると思ってるんだな……困った性格だな。  アンゲルはしばらく首をかしげていたが、そのうち本に目を戻した。しかし、  やっぱり、医者の免許も取ろうかな……。  今日のロハンやエブニーザのことを考えると、カウンセリングより、精神科医か神経科医が必要なんだよな……。そっちの免許も持っていたほうが絶対に患者の役に立つ……そいえばタフサは精神科医だったな……でも学費がないな……。  いつのまにかそんな事を考え出してしまって、肝心の本には全く集中できなかった。    翌朝。  エブニーザはいつも通り、古代の資料室に向かって歩いていた。この、誰も利用しない、何百年も前の『がらくた』(もちろんこれはヘイゼルの言葉である)だらけの部屋が、エブニーザにとっては唯一安全な場所、つまり、一人になれる場所だった。  どうしてみんな、ほっといてくれないんだろう……。  前の日のできごとや、もっと前に起きたことを思い出しながら、エブニーザは暗い顔でつぶやいていた。彼にとっては、人に話しかけられたり、好かれて追いかけられたりするのは、全て災難であり、苦痛なのである。  憂鬱な気分で、ドアを開けた。  そこには、人がいた。  いつもエブニーザが座っている席に、セミロングの金髪に、ふちの厚いメガネをかけた女の子が座っていた。そして、彼女が読んでいたのが……。  僕の本!!  そう、彼女が読んでいたのは、500年以上前の魔術辞典だった。エブニーザは、自分以外にこの辞典が読める人間がいるとは夢にも思っていなかった(そもそも読みたがる人間がいるとも思えなかった)ので、驚きのあまり動きが止まってしまった。  どうしよう。  声をかけるべきか、このまま立ち去った方がいいのか……。 「何?」  判断がつく前に、相手がエブニーザに気づいてしまった。 「あ、あ、あの」 エブニーザの顔が真っ赤になった「それ、よ、読めるんですか?」 「部分的には」  女の子が無愛想な顔で返事をした。 「古代文字を学んでいるから」 「そ、そうですか」 「あんた、吃音か何か?」  女の子があからさまに不審の顔をした。エブニーザは走って逃げたくなった。 「い、いえ、あの……それ、僕が読んで、る、途中なんです」 「読めるの?」 「はい」 「ほんと?」  女の子は疑いの顔で、本のあるページをエブニーザに向けた。 「ここ、何て書いてあるの?」 「そこは……少々怖いことが書いてありますよ。恋人達の仲を引き裂く方法が描いてあるんです。バラのとげを大量に用意して、燃やすんですよ。二人が別れてくれるように願いながら……ね。たぶん、昔は権力のある人間と恋愛関係になれるかどうかで生死を左右される女性がたくさんいたので、そういう呪術も必要だったんでしょう」  先ほどまでどもっていたエブニーザが急に流暢にしゃべりだした。 「その隣が四角いガーネットを使った魔術です。今はスクエアカットと呼ばれている形なのですが、その形に切ったガーネットが金運をもたらすと書かれています。配置する場所はちょうど胸と腹部の間くらいです」  女の子は本を自分の手元に戻し、目を凝らして注意深くページを点検し始めた。 「ほんとだ」  笑いが浮かんだ。 「そう書いてある。あなたって古代史か何かやってるの?」 「あ、あの、まだ専攻は、ないんです」  またエブニーザがどもり始めた。 「何をしたらいいか、わからないので……」 「もしかして、まだ大学に入ってないの?」 「はい」  女の子はキーシャと名乗った。大学の『宗教学』の2年目だという。 「宗教学?」 「そうよ。だから、古代の聖書とか、文献を読まなくてはいけないの」 「だから読めるんですね」 「そうよ」  キーシャはエブニーザに顔を近づけると、何か、秘密を打ち明けるような口調で、 「私、将来は、管轄区に行こうと思っているの」  と行った。エブニーザが身をひきつらせた。 「駄目ですよ!」 「どうして?」 「危ないんですよ!僕は管轄区から来たんです!」 「ほんと?」  キーシャの目が喜びに輝き、それがエブニーザをますます混乱させた。 「治安が悪くて、午後6時以降は外を歩いちゃいけないんです、それに、それに……子供が、さ、さらわれてるんですよ」  自分が被害者だとは、エブニーザはもちろん言わなかった。 「そんなことは問題じゃないの。今、純粋に神を信じている人間がどれくらいいると思う?イシュハはたぶん20%もいないわ。私、本当に敬虔な信仰っていうのが何か知りたいの。それには管轄区に行くしかないと思わない?」 「駄目ですってば!」  敬虔な信仰じゃなくて、狂信的なカルト集団なんです!!  エブニーザはそう言いたかったのだが、声が詰まってまともに息ができなくなってしまい、喘ぎながら机に突っ伏した。 「ちょっと、大丈夫?」  キーシャが驚いて立ちあがった。 「あなた、体弱いの?喘息?」 「とに、かく……ダメですよ、管轄区は……」  エブニーザが真っ青な顔で立ち上がった 「帰ります……」  ふらふらとドアの外に出ると、うしろから『また来てね!話したいことがたくさんあるの!』という声が聞こえた。エブニーザは管轄区の話など一切したくなかったが、『あの国に行きたい』という、自分には到底理解できない願いに恐怖を覚えた。  ……止めなきゃ。  ふらふらと寮までの道を歩きながら、エブニーザはそう考えていた。 夜。  アンゲルとヘイゼルがけんかをしながら部屋に入ってきた。サッカーの試合の判定で、意見が合わなかったらしい。 「ったく、ルールルールってうるさいんだよ。そんなの気にしてたら楽しくもなんともないだろうが」 「ルールがなきゃスポーツにならないだろ!お前のはただのケンカだぞ!」  エブニーザが何か話したそうにしていたのだが、二人とも自分たちの議論に夢中で気がつかなかった。 「こうなりゃ、実力で勝負するしかないですな!エンジェル氏!」  ヘイゼルが部屋からボールを持ってきた。 「やるか?ティシュファントム!!」  二人が出て行こうとした時、エブニーザが 「話したいことがあるんですけど……」  と言い出した。二人は非難の顔で振り返った。 「何だよ、いいところだってのに、見てわからんのか?」  とヘイゼルが文句を言い、アンゲルを連れて出て行こうとした。 「あの、女の人のことなんですけど……」 「ああ、またいつもの女だろ?まだ誰かに襲われたのか?」  アンゲルがそう言いながらドアを開けた。話を聞く気なんて全くないのだ 「いや」  エブニーザはどこかためらうような様子だ。 「別な、女の子のことなんです。この学校の、図書館の……」  エブニーザのその一言で、二人がくるりと振り返った。 「試合は延期だ」 「ああ」  ヘイゼルはサッカーボールを自分の部屋に投げこんだ。アンゲルは、興味津津の目をしてソファーにどかっと音を立てて座った。まるでこれから心理カウンセリングでも始めるみたいに、目の前のエブニーザに向かって身を乗り出した。  エブニーザは、二人にキーシャの話をした。 「ああ、よくいるんだよ、そういう奴は」  ヘイゼルがうんざりした顔で言った。 「イシュハで上手く生活できないもんだから『私はイシュハには合わない!真面目なあっちの国へ行けば何か変わるかも!』なんてほざいてる連中がね!どこに行ったところでそんな馬鹿が変わるわけがないのだが……。よけい惨めな生活になるだけじゃないか?」 「惨め以前に生活できないよ、そんな奴」  アンゲルも顔をしかめていた。 「甘いよな。管轄区で生活したことのある奴なら、ぜったいそんなこと言わないよ」 「ほっといていいんでしょうか?」 「ほっとけ。そんな奴はイシュハにいたところで無能なんだよ。いなくなってくれたほうが国のためになって助かるね」 「……お前本当に政治家になるつもりか?」  アンゲルが呆れたが、ヘイゼルはいつも通り余裕たっぷりに答えた。 「国外に出た奴まで面倒をみる義務はないね!行きたきゃ行けばいいのさ」 「それにしても何で管轄区なんだよ?他にもっとましな国があるだろ?」 「宗教学の学生で、イライザ教に興味があるそうです」 「宗教学?」  アンゲルにはなじみのない言葉だった。 「神学じゃなくて?」 「わかりやすく言うと『アタシは宗教なんて信じないけど、信じてバカなことをやってる人には興味があるから調べてみよっかな~学』だな」  ヘイゼルが、心の底から馬鹿にしているような声と態度で言った。    アンゲルは『宗教学』という言葉に興味を抱き、エブニーザと一緒にキーシャに会うことにした。 「あらあ、お友達?」  二人を見るなり、キーシャは学校の先生のような大人ぶった声をあげた。 「アンゲル・レノウス」  アンゲルは無愛想に自己紹介した。 「俺は管轄区人だけど、女神を信じてない」 「えっ」  キーシャが目を見開いて手を手元に寄せた。  驚き方がわざとくさいなとアンゲルは思った。 「はっきり言わない方がいいですよ」  エブニーザが心配そうな顔でつぶやいた。 「管轄区人はみんな敬虔なイライザ教徒だと思ってたんだろ?」  アンゲルはエブニーザを無視して、うんざりしながらこう続けた。 「アルバイト先のおばさんも管轄区人だけど、信仰は薄いよ。管轄区にもそういう人が増えてるんだ。教会がらみで変な事がたくさん起きているし、みんな貧しくて生活できない、だからイシュハにやってくる」 「信じられない」  キーシャが驚いた顔で言った。 「でも、それって一部の人でしょう?管轄区の大部分の人は」 「狂信的なカルト集団ですよ」  エブニーザが心底嫌そうな声で言った。こんどはアンゲルが驚く番だった。 その言い方はないだろ!……そういえば、エブニーザが管轄区やイライザ教徒について話すのをあまり聞いたことがなかったな。 「カルトだなんて失礼よ。イシュハの変な新興宗教とイライザ教を一緒にしちゃダメよ。もう何千年も続いているじゃない」 「長く続くからいいものとは限らないでしょう?」  エブニーザがキーシャを睨んだ。 「実際、人間は何千年も戦争を続けているけど、戦争がいいものだと思っている人はいませんね?」 「宗教と戦争を一緒にしないでよ!」 「とにかく、管轄区は狂ってるんですよ!」  珍しい、エブニーザが強気だ。  アンゲルはそのことに驚いて、しばらく言い合いをする二人をじっと見守っていた。エブニーザがこんなにも管轄区を嫌っているとは、アンゲルは思っていなかった。  シュタイナーはいい人だとか、帰りたいとか言ってさんざん泣いてたくせに。どういうことなんだ?単にイライザ教が気に入らないだけか? 「だから、管轄区に行っちゃダメです!」 「ああ、そういうことね。わざわざ私を止めに来たってわけ?」  キーシャがエブニーザとアンゲルを交互に睨んだ。 「悪いけど、何と言われようと私は行きますからね!」 「あ~いや、そうじゃなくてさ」  アンゲルは突然、自分がここに来た目的を思い出した。 「『宗教学』って何か聞きたかっただけなんだけど。『神学』とは違うの?」 「は?」  キーシャが『何言ってんのコイツ?』と言いたげな軽蔑の視線を送って来た。 「いや、あ~、あのさ」  アンゲルはその目線のきつさにたじろいた。 「聖書の内容を学ぶ『神学』っていうのはこっちの学校にもあったんだけど、『宗教学』っていう言葉を初めて聞いたから、何だろうと思って。俺がここに来たのはそれが目的なんだよ」 「管轄区には宗教が一つしかないから、宗教学なんて成立しないんですよ」  エブニーザが一言付け加えた。 「説明するのは難しいわ」  キーシャが窓の方向に目をそらした。 「もともとは神学の一種だったの。でも、イシュハは多人種国家で、昔からいろいろな国の、いろいろな宗教の人が集まる場所だから、アニタ教と他の宗教を比較する学問が生まれた。それが宗教学」 「アニタ教……の信者に俺は会ったことがないんだけど」  ヘイゼルやフランシスはアニタ教徒に数えていいのだろうか……とアンゲルは思った。二人とも、敬虔とか信仰とか、そんな言葉とは世界一遠い人間のように思えた。 「表向きは、イシュハ人の70%はアニタ教の集会場に属してるわよ。私もそう」  キーシャがアンゲルの方を向いた。 「でも、ほとんどの人はアニタの集会には行かない。日曜日は家でテレビでも見て寝るか、セミナーに参加するか」 「セミナー?」 「今週もあるけど、よかったら行かない?モチベーションアップセミナー」 「なにそれ」 「やる気をUPさせるためのセミナー」  どうやら、宗教とは関係のない話のようだ。アンゲルとエブニーザは顔を見合わせた。 「来てよ。予約なしでタダで参加できるセミナーなんて滅多にないんだから」  キーシャが急にうきうきし始めた。 「きっとあなたたちが私に会ったのは運命よ。何かの前兆、オーメンなんだわ」  意味がよくわからなかったが、二人とも、試しに参加してみることにして、資料室を後にした。  アンゲルが図書館近くのカフェに入ると、窓際のカウンターにエレノアが座っていた。 『倒れても立ち上がる方法』という本を読んでいる。 「フランシスに勧められたの」  視線に気が付いたエレノアが、本を振って笑った。 「また落ち込んだら困るからって。ベストセラーで、本屋でもけっこうたくさん積んであったわよ」 「そう」  いわゆる成功本の一つらしい。 「それって読んでいいことあるの?俺にはいまいち理解できないんだけど」 「参考になることはあるわよ」 「エブニーザが図書館で女の子に会ったらしいんだよ」 「女の子?エブニーザが!?」  エレノアは大げさに驚いて見せたが、あまり興味を持っていなかった。でも、アンゲルの目には、エブニーザに女の子が近づくのを嫌がっているように見えた。  「宗教学の学生で、今度、一緒にセミナーとかいうのに行くことになったんだ」 「セミナー?自己啓発のようなもの?」 「そうらしい。イシュハではそういうのが流行ってるらしいよ」 「イシュハだけじゃないわ、アケパリもそうだし、確か、ノレーシュでも、イシュハ人のセミナーにはたくさんの人が集まるって、前にクーが言ってたわ。それも有名な人ばかりが」 「ふーん……」 「私も行ってみたいけど、今はオペラがあるから」 「練習はどう?きつい?」 「楽しいわ。パートナーのテノールがとても……」  エレノアの声が途切れた。大きく開いた目に妙な光が一瞬見えたが、すぐ消えた。 「とても?」 「……優秀な、そう、すごくいい人なの」  とてもかっこいい人だった、とは、エレノアは言えなかった。そう言ったら、アンゲルが気分を悪くするような気がしたから。 「ふーん」 「それに、オーケストラだって一流なのよ!」 「だろうね。何せあのオペラハウスだからね~」 「イシュハの公演は見に来てね。チケットは確保するから」  エレノアはうきうきしてほおを赤く染めていた。 「管轄区の公演のほうが先になるけど……行ったことがないからちょっと心配なの」 「管轄区?」 「首都で公演をするのよ。そこがツアーの開始地点なの」 「首都」  アンゲルは天を仰いだ。 「行ったことないな」  首都。  アンゲルだけでなく、クレハータウンや、管轄区の人間にとって、そこはあこがれの地だった。教会の上位者や金持ちが住んでいて、音楽や芸術(あくまで教会が認めているクラシック音楽と絵画、宗教文学だけだが)の中心地でもある。  どんどん遠くへ行くんだな、エレノア。  アンゲルは心に何か重く暗いものを感じた。でも、エレノアにはそれを見せたくなかった。 「心配することないよ」  まるで自分に言い聞かせているような言葉だった。 「あの国には音楽はクラシックしかないんだから」 「クラシックしかない?」 「ほかの音楽はことごとく検閲で落ちるんだ」  アンゲルが困ったような笑いを浮かべて、子供っぽくほおづえをついた。「そのかわり、全国民、オペラのファンだよ」  アンゲルは、レコードのまねをして歌っていた友人や、古い歌をプロ顔負けの声で歌っていた祖父の話をした。あの国には、オペラ歌手のまねをして歌う人間が、どこの学校にも、いや、どこの家にも一人はいる。  そしてその誰もが、歌が上手い。 「だからケッチャノッポ・ウィリアムズを知ってたのね」 「あの国なら誰だって知ってるよ。ああ~、そうか」  アンゲルはおおげさに上を向いて感心して見せた。 「ってことは、この公演のあとから、管轄区じゅうの女の人が、エレノアのまねをしてアリアを歌うようになるってことだよ」 「そんなに急に有名にはならないわ」 「いや、管轄区ならなるよ。エレノアが歌った歌が、そのまま、近所のおばあさんや学校の女の子が歌う歌になるんだ。」  楽しそうに話すアンゲルを見ながら、エレノアは、オペラの練習の間中、テノール歌手のことばかり考えて、アンゲルのことをすっかり忘れていた自分に気がついた。そして、なんとなく後ろめたくなってきた。  でもなぜだろう?つきあっているわけでもないのに。  それに、自分のことをどう思っているか、一度も聞いたことがない。 「じゃあ、絶対失敗なんてできないわね。練習しなくては」  エレノアは立ち上がり、少し首をかしげてアンゲルに笑いかけた。 「いつも私をほめてくれるのね」 「自然にほめたくなるんだよ。ヘイゼルと一緒にいるとけなしたくなるのと同じ」  エレノアはクスクスと笑いながら去って行った。アンゲルは、妙にはしゃいでいるその様子を見て、何か変だな、と思った。本当に練習はうまくいっているんだろうか?また行き詰ってるんじゃないだろうか、とも。  いや、エレノアなら大丈夫だ。問題なのは俺だな。最近何をやってるのか自分でもわからない……心理学、精神医学、そして今度は宗教学にセミナーだ。  しばらくぼんやりとしていたが、ふと時計を見ると、移動しなければいけない時間を大幅に過ぎていたので、あわてて駅に向かって走り出した。今日はタフサ・クロッチマーに会いに行く日なのだ。 「女神なんてクソくらえってのよ。集会場のジジイどもみんな死ぬがいいわ」  昼間からワインボトルをいくつもあけて、こんなことをわめいているのは、もちろん、フランシスである。エレノアがカフェから帰ってきたら、部屋の床にワインボトルがいくつもころがっていた。  最近、飲む量が減ってきたと思ってたのに……。  がっかりしながらも、顔に出さないようにして、エレノアはフランシスの向かいに座り、自分が飲む分をグラスに注いだ。エレノアのためのワイングラスが、もうそこに出してあり、それは『私の話を聞いて!』という、フランシス流のものの頼み方なのだ。 「いったい何があったの?」 「あの女に集会場に連れて行かれたのよ」 『あの女』とはもちろん、フランシスの母親、シグノー夫人のことである。 「神話の朗読会ってご存知?(もちろん知らないでしょうね!)敬虔なアニタ教の信者を装ったジジイの集まりよ。何千年も前の、本当にあったかどうかも分からない物語を延々と聞かされた挙句、『最近の子供たちは女神を信じていないようだから困る。罰当たりなことばかり起こして』なんてグチを言い合ってるわけ!」 「お年寄りはだいたいそんなものよ」 「でもねえ、自分ばかり言いたいことをしゃべって、相手の言うことなんか聞かないのよ!」  フランシスは、自分のことを棚に上げて怒り出した。 「しかも!ジジイがしゃべってる間、間抜けな顔の奥様達ったら、黙って聞いてるだけなのよ。しかもいかにも面白そうな表情すら浮かべてね!(もちろんあんなのは演技に決まってるわ!)どうしてはっきり『お前の話は面白くない、迷惑だ』って言ってやらないのかしら?」 「フランシス」 「何?」 「そう言ったの?『お前の話は面白くない』って……」 「言わないわよ!」  フランシスは甲高い、耳に刺さる声で叫んだ。エレノアは思わず顔をしかめて耳を手で覆った。 「本当は言ってやりたかったけど、隣にあの女がいて、私がちょっと動こうとすると、ドレスの裾を引っ張るのよ!『余計なことはするな!』って意味なのよ!むかつくったらないわ!私はあんたよりずっとまともよって言ってやりたいわ!」 「言ってやったほうがいいわ……」  エレノアがため息交じりにつぶやくと、フランシスが目を丸く見開いた。 「今なんて言ったの?エレノアらしくない言葉が聞こえたわ」 「お母様と一緒に行動するのをやめるの。干渉しないでって言うのよ」 「もう何度も言ってるわよ!」 「『もう自分は大人だから干渉しないでくれ』ってちゃんと頼むの。それでもダメなら、呼ばれても会わないようにするの。徹底的に避けるのよ。自活するの」  フランシスの動きが止まった。 「お母様のお誘いにはもう乗らないのよ。集会にも出ないの。出たくもないパーティーには出ないのよ。できるはずよ。あなただって地位のある人間なんだから」 「私だって行きたくないわよ!!でもシグノーの人間なんだからしょうがないじゃないの!」  フランシスが悲鳴のような声で叫んだ。しかし、エレノアには『シグノーの人間なんだからしょうがない』というのが、どうしても解せなかった。自分が、家というものにほとんど拘束されない人生を送ってきたからだ(なにせ、エレノアの両親は旅芸人で、根っからの自由人だから……)  そのあと、フランシスは集会に来た年寄りの悪口をわめき続け、ワインボトルを3本ほど開けた後、テーブルの上で泥酔してしまった。  エレノアはいつものようにフランシスを彼女のベッドに運び、ヘイゼルと二人で写っている写真を一瞥すると、深いため息とともに自分の部屋に戻った。  そして、オペラのことをフランシスに一言もしゃべれなかったことに気がついた。  アンゲルたちがセミナー会場に着いたとき、入り口には長い列ができていた。入り口というより、敷地を出てさらに反対側の道まで列は続いていて、アンゲルとキーシャ、エブニーザの三人は、数ブロック離れた雑貨店の前で、ようやく『最後列』と書かれた札を持った警備員を見つけ、列に入った。すぐに後ろにも人がやってきて、行列はさらに数ブロック先まで伸びていく……。 「こんなに人が来てたら、会場に入れないんじゃないか?」  アンゲルは、はるか後方にどんどん増えていく人を振り返って、驚きと軽い恐怖を感じていた。大学の講堂を初めて見た時より、さらに多い人がここに集まっているようだ。エブニーザに至っては、最初に行列を見た瞬間から顔色が悪くなり、今も青白い顔で不安そうに下を向いて黙っていた。 「平気よ」  言葉通り、キーシャは平然としている。 「前もこんな感じだったけど、ここの会場は2000人くらいなら入れるはずだし、入れなくても野外にモニターが設置されているから、公演は聞けるの」 「そんなに来るのか」  もし有料だったら、チケット代だけですごい金額になりそうだな……。 とアンゲルは思ったが、その発想がどことなくヘイゼル(というより、シュッティファント)を連想させたので、口に出さないことにした。  それから1時間ほど待ち、係に誘導されるまま中に入った。キーシャが言った通り、会場は広大で、アンゲルたちの席もちゃんと空いていた。チケットと席に番号があり、あらかじめ場所は指定されていた。ちゃんと3人並んだ席で。  講師がステージに現れたとたん、熱のこもった拍手が会場を満たした。 「さあみなさん声を出して!『私は運がいい!』」  挨拶もなく、いきなりこう始まったのでアンゲルは驚いたが、 『私は運がいい!』  観客が一斉に叫ぶ。キーシャもうれしそうに大声で叫び、その声の大きさにアンゲルが驚いて横に飛び上がり、エブニーザがそれに驚いてよろけた。  どうやら、講師を知る人間にとっては、この始まり方はいつものことらしい。 「『いつもツイてる!』」 『いつもツイてる!』  観客が叫ぶ、キーシャが叫ぶ。何がなんだかわからないままアンゲルも叫んでみた。 「そうそう、いい声ですね!いつも『ツイてる!運がいい!』と言っていると、本当に運がよくなるんですよ!」  そんな馬鹿な、とアンゲルは思った。  しかし、会場の客は誰一人、文句も言わなければ、困っている様子もない。アンゲルはゆっくりとあたりを見回し、どうやらここにいるのは、新しいことを聞きに来た人たちではなく、講師の言い分を最初からわかって来ている『支持者』の集まりなのではないかと思い始めた。 「『私はすばらしい存在だ!』」 『私はすばらしい存在だ!』 「『すべてのことは日々よくなっている!』 『すべてのことは日々よくなっている!』  フレーズの繰り返しがしばらく続いた。  最初は『なんか変だなあ』と思いながらしかたなくまわりにつきあって声を出していたアンゲルだが、そのうち、わけもわからず気分が盛り上がってきた。体温が上がり、活力が芽生えるような感覚になり、周りの楽しそうな雰囲気と自分とのズレも、感じなくなっていった。  残りの一時間も、ほぼ同じような感じで、会場全体に高揚感を保ったまま、セミナーという名の『叫び場』が続いた。とにかく全体がハイテンションだった。  アンゲルは会場の高揚感に溶け込みつつ、これがあと1時間続いたらついていけないなあとも思っていた。幸い、そう思い始めてから20分後に、セミナーは終わった。正確に言うと質疑応答に移ったのだが、それも質問というよりは、『講師のセミナーや著作がいかにすばらしいか』を、目を輝かせて語る『ファン』の発言の場になっていた。  どこかで似たような光景を見たな。  アンゲルはそう思いながら皆の発言を聞いていて、急に昔のことを思い出した。管轄区の学校に通っていたとき、老教師が『女神がいかに自分の人生を救ったか、信仰がいかにすばらしいか』を延々と語って、授業時間を丸々つぶしたことがあった。そのときの老教師の恍惚とした目つきと、今この会場で講師を礼賛している観客の雰囲気が、まったく同じだったのだ。  それに思い当った瞬間、セミナーの最中に感じた熱さや高揚感が、すっと消えた。  そんなばかな、ここはイシュハだぞ?  自分が思い出したものが嫌になり、アンゲルは顔をしかめて隣を見た。すると、エブニーザが具合悪そうに下を向いていた。やる気が出るどころか、逆にエネルギーを奪われたかのような顔だ。どうやらこの手の集会には向いていなかったらしい。 「大丈夫?」  声をかけてみたが、エブニーザは下を向いたまま、ぴくりとも動かなかった。  そういえばこいつ、人の声が苦手だったなあ。どうしてついてきたんだろう……? 「来てよかったわ。彼は思った通りの素晴らしい人だし、ためになる内容だった」  帰り道、キーシャがほおを紅潮させながらため息を漏らした。尊敬している講師に直接会えて大満足のようだ。 「イシュハにいたほうがいいんじゃないの、そんなにこういうセミナーが好きなら」  アンゲルが皮肉っぽく忠告すると、 「でも私には合わない。イシュハはうるさいし即物的すぎる」  ああ、ヘイゼルが言ってたのと同じだな、合わないって……。  アンゲルは一人憂鬱になっていた。セミナーの内容より、そこに集まっている人たちの様子が気になって仕方なかったのだ。ただ一つの存在、一つの考え方を信奉して、それによって救われると信じて疑わないその無邪気な狂信さ……。  アンゲルは、そういう人たちに見覚えがあった。  寮に帰ってから、アンゲルがセミナーの話をすると、ヘイゼルが、 「セミナー?」  と、呆れた顔をした。 「エンジェル氏、いいかげん自分の立場に気づけよ。ああ~やだやだ、天使さま、下手に羽なんか生えてらっしゃるから、どこにでも行けると思って片っ端から変な所に飛んでいっちゃってもう……」  ヘイゼルが変にコミカルな、丁寧な言葉でしゃべった。 「なんだよそれ」 「つまり何が言いたいかというとだな……思いつきででたらめに走るのはやめろってことだよ。どこに向かっていきたいか一回考えてみろ。命を狙われてる癖にまだわからんのか?そんなことしてる場合か?目的地がはっきりしなきゃ走ったって意味ないだろ?頭いいくせに変な所がバカすぎる……だから教会っ子は嫌なんだよ」 「何が言いたいんだよ?」  アンゲルには、ヘイゼルが何を言いたいのかさっぱりわからなかった。ヘイゼルはいつも通り、偉そうにソファーにふんぞり返ったまま、イシュハのいわゆる『成功ビジネス』の話を始めた。セミナーや本、それをとりまく金の動き……。 「要は、講師だのグルだの、中心人物になったそいつが金持ちになって、まわりもそこにたかって儲けるのさ。誰も悪意は持っていない。やってる奴らはみんな、それが他人のためになると心の底から信じているんだな。そして、定期的に納金する必要もない(実際は、本だのセミナーだのイベントだの、高い会費を取られているも同然なのだが、気がつかんのだ)だから実害がないように見えるのさ……実際、公演だの本だので得る高揚感ってのは、ばかにできないからな。一種の麻薬さ。癖になるんだ。でも、一時的に感動するのと、実際に何かを学んで実践することの間には、天と地の開きがあるだろ?ほとんどの連中は何の行動も起こさず、同じような本だのセミナーだのコースだのに大金を使うようになって(中毒患者が麻薬を買い続けるのと同じですな!)肝心の本業をおそろかにして財産を失くすんだ。最近聞いた話だと、家族の生活費を有名なメンターのセミナーにつぎ込んだ夫が、帰ってきた途端、妻に銃で撃ち殺される事件があった。そいつは、何年もその手のセミナーを片っ端からはしごして、仕事もせずに妻の金(子供の学費までもだ!)を奪って生活していたのさ。そんな奴は殺されて当然だと思わないかな?そんなもんに使う金があったら、南の保養地にでも行ったほうがいい人生を送れるさ」 「なんでそんなものが流行るんだよ?イシュハは」  アンゲルが自分の国の事を考えながらつぶやいた。管轄区ではそんなものは目にしたことも聞いたこともなかったからだ。 「俺に聞かれても知らないね。管轄区は何でもイライザ様のせいにすれば足りるし、アケパリにもノレーシュにもまともな神様がいらっしゃるが、ことイシュハとなると、金と容姿が全ての文化でね。それでは足りない感傷的な人間が多いのが問題なのだよ」 「金と容姿」  アンゲルが嫌そうな顔をした。 「他に大事なものはないのか!?」 「あ~やだやだ。どうせまた心が大事とか言い出すんだろ!?そういう奴が変な新興宗教やセミナーにはまるんだよ」 「行き場のない人がたくさんいそうですね、イシュハには」  しばらく黙っていたエブニーザが突然口を開いたので、二人とも驚いた。 「落ち着ける場所がどこにもないんですよ」 「どういう意味?」  アンゲルは詳しく聞きたかったのでそう尋ねたのだが、エブニーザは暗い顔で立ち上がると、自分の部屋に入って、音が立たないようにそーっとドアを閉めた。  ヘイゼルも『眠い!』と言いながら自分の部屋に戻ってしまったので、アンゲルも眠ることにした……が、ヘイゼルやエブニーザの発言が気になって、なかなか寝付けなかった。  祖国の人々を思い出す……一様に貧しくて、そして一様に敬虔な女神の信徒。自分のつつましやかな生活こそが女神の意思だと信じて疑わない。ヘイゼルが言っていた『容姿と金』について考えている人間などいなさそうだ……表向きは。  もちろんアンゲルは知っている。同級生の女の子たちはみな『金持ちか公務員のお嫁さん希望』だったし、学校でうわさしている相手は顔がかっこいい、そう、エブニーザのような男の子の事だった。  どこだってそうか。でも、そんなのは嫌だな。  自分が持っていないものだからか?なんでだ、こんなに気に食わないのは……。  アンゲルは自分なりに苛立ちの原因を探っていたが、なかなか上手くいかなかった。  自由の風を重んじていたエレノアは、オペラハウスという『組織』に所属することを内心恐れていたのだが、メンバーはみな、呆れるほど自由人(自分勝手と言っても言い過ぎではないほどに)だった。そして、他人の自由にも干渉しない主義だった。たとえ、エレノアが大きな帽子をかぶっていようが、時代錯誤な(本人はそうは思っていないのだが……)100年前のヴィンテージ衣装を着て現れようが、まったく気にしないようだった。  エレノアはそんな人々の中で、音楽科とはうって変わって生き生きとしていた。  行くところがないと思っていたけど、やっと居場所を見つけた!  次の公演地が管轄区の首都なので、エレノアは今まで聞いていた『変な管轄区』の話を思い出していた。主にアンゲルから聞いた話だが。 『クラシック以外の音楽が検閲で落ちるけど、全国民オペラのファンだ』 『エレノアの歌う歌が、管轄区の女の子が歌う歌になる』  ほんとうにそうなったらいいのに。でも、責任重大ね。  そんなことを思いながら、練習場の廊下を歩く。ここは管轄区に近い国境近くにあり、管轄区で公演がある時だけ使われる建物だそうだ。重圧なコンクリートでできていて、外壁は古風な暗い茶色に塗られている。ところどころに年代を感じさせるひび割れがあるが、設備は新しいものがそろっている。きっと改装したばかりなのだろう。  エレノアはシャワールームに入り、一日の練習と演技の稽古(オペラだから、役を演じなくてはいけない!)でかいた汗を気持ちよく落としていた。  ガタガタッ。  外から不自然な音がした。あまり上品とは言えない男性の笑い声も。  エレノアはシャワーを止め、そーっとドアに近づいて耳を澄ませた。 「ほんとにやるのか?できると思ってんのか?」 「できるさ」  服を脱いで落とすような音がした。 「あの女、間違いなく俺に惚れてるから」  それは、あのかっこいいテノール・グレンと、脇役のバスの声だった。 「一日の疲れをシャワーで癒しているときに、目当ての男が裸でシャワールームに入ってきたら……その気になるさ」  ……何ですって!?  エレノアはドアの近くで硬直していた。そして、シャワールームを見回した。  窓が一つあった。  一瞬躊躇したが、ドアの向こうからこちらに近づいてくる気配がしたので、窓に飛びついて勢いよく開け、外に飛び出した……裸で。 「な、な、な、何をしているのっ!?」  受付の太った、しかし親切な女性は、エレノアを見た瞬間に目を真ん丸に見開いて、真っ赤な顔になって叫んだ。  無理もない。新人のソプラノが、必死の形相で窓ガラスをたたいていたのだから。  裸で。 「とにかく入れて!入ってから説明するから!」  受付の女性は慌てて窓を開け(慌てすぎて若干てこずった)エレノアの腕と両脇をかかえこんで部屋の中に引きずり込むと、勢いよく音を立てて窓を閉めた。 「服を取ってきてあげる。どこに置いてきたの!?」 「シャワールームのロッカーに入ってるわ」 「これかぶってて!」  エレノアに自分が来ていたジャケットを投げつけると、受付の女性が廊下に飛び出していき、信じられない速さでエレノアが着ていた年代物のワンピースを見つけてきた。  エレノアが服を着ながら事情を説明すると、受付の女性は急に白けた顔になった。そして、半ば困った笑い顔で、エレノアにこう忠告した。 「グレンはね、セクハラの常習犯だから、気をつけて……前のオペラで共演したソプラノ、彼の子ができちゃって大変だったのよ」  アンゲルはいつものように、寮のソファーで本を読んでいたが、セミナーとエレノアの間で思考が揺れ動いていて、まったく勉強に集中していなかった。  運がいいと信じれば運がよくなる……女神がいると信じている人たちには女神は存在している……でも信じてない俺みたいなのはどうだ?……エレノアは今頃オペラの公演で管轄区に行ってるな……俺も行ったことないのになあ、首都には……公演が成功したら、本当に遠くの人になってしまうんだろうか……あの国をじかに見たらきっと嫌になるだろうな、なにもかもが遅れていて古臭いからな……。 「エレノアは公演のために管轄区に行っているそうですな!フム」  いつのまにかヘイゼルが目の前にいて、にやにやと笑っていた。 「さっきから本に向かって暗い顔でブツブツつぶやいているようだが……もしかして、さびしくなって頭が変になったかな?」 「うるさい」 「シギとサッカーに行くんだが」 「ほっといてくれ」  サッカー!それもあったか!  アンゲルが顔をしかめている間に、ヘイゼルは部屋の隅からボールを拾い上げて部屋を出て行ってしまった。追いかけていきたい衝動に駆られたアンゲルは半分立ち上がったが、すぐにソファーに倒れこんだ。  そんなことしてる場合じゃない。  しばしソファーに横になって考えた結果、アンゲルは図書館に向かうことにした。この部屋ではどうしても本に集中できなかった。  中に入り、精神医学の棚に向かったが、途中のテーブルにキーシャがいた。管轄区のガイド(イシュハ人向けに書かれたもの)を読んでいる。  どうせメルヘンめいたことしか書いてないだろうな。  アンゲルは黙って通り過ぎるか、声をかけるか迷った。  きっと、本で読んだ情報だけで管轄区を判断してるんだろうな。そこに住んでいる人の生活がどんなものかは、きっとわかってないだろうな。わかってたら管轄区に行きたいなんて思うはずがない。 「まだ管轄区に行きたいと思ってる?」  声をかけると、キーシャは本から顔を上げ、笑った。 「もちろん。『思ってる』じゃなくて、必ず移住するつもり」 「やめたほうがいいよ。生活なんてできないよ、あんなところに行っても」 「自分が育ったところを悪く言うのね」 「自分が育ったところだから言うんだよ。どんなところか嫌というほど知ってるから」 「あなたはなぜイシュハに来たの?」  キーシャはきつい目を向けてきた。 「自分が住んでいる国がいやになったから?だったら、私と大して変わらないわよ」  変わらない?アンゲルにはまったく理解できない言い分だった。こんな豊かな国に住んでいるのに? 「心理学がやりたかったからだよ。あのさあ」  アンゲルはいら立ちを隠さずに話し始めた。 「管轄区は、心理学も医学も認めてない。女神の教えに反するとか言ってね。それで、一般の人は病気になってもろくに治療も受けずに死んでいく。それが女神が定めた寿命だと本気で信じているから。そして、音楽はクラシックだけ。それも教会音楽かオペラだけだ。本もほとんど検閲で落ちる。よほど道徳的でつまらないものじゃないと本棚にも並べられないんだよ。とにかく不自由な国なんだ。そんなところに行って耐えられると思う?自己啓発もセミナーもだめなんだぞ」  キーシャは反論せず黙っていたが、あからさまに不機嫌な顔をしていた。 「アンゲルは、卒業しても管轄区に帰らないの?」  別れ際にそう聞かれて、アンゲルは答えに詰まった。 「まだわからない」  それだけ言って、速足でその場を後にした。戸惑っている顔を見られたくなかったのだ。  しばらく、エレノアはテノール・グレンに追われて、逃げ回るのに苦労した。稽古中にも、やたらに体に腕を回して、変なところを撫でまわしたりする……しかも、恋人役でもあるので、飛びのいて文句を言うわけにもいかなかった。  練習が終わってからも、エレノアが楽屋で一人でぼーっとしているところにいきなり抱きついてきたり(もちろんこの場合は走って逃げるのだが)廊下でほかのスタッフと話しているときに、なれなれしい態度で割り込んで来て、ついでに尻に手を回したり……。  エレノアは、怒りを通り越して恐怖を感じていた。とにかく二人きりにならないようにした。スタッフやほかの歌手も気が付いていて、エレノアが一人にならないように気を配ってくれていた(そう、グレン以外の仲間はみんないい人だった!)  そんなストレスの多い練習期間を超えて、管轄区での初演が行われた。  このオペラにおけるソプラノの代表曲は、  あの男に近づいてはいけない!  捕まった女は地獄に落ちる!  天使の顔をした悪魔!  ワインのような言葉  聖者のような微笑みに  騙されてはいけない!  甘い香りで心を奪い  欲望のままに体を奪う……  という、友人に忠告する女の怒りの歌なのだが、エレノアは、グレンへの恨みを込めて熱唱。  ……ふざけんじゃねええええええ!!!!!!!!    あまりの迫力に、曲が終わった瞬間から、会場はスタンディングオベーションに沸いた。  もちろん、エレノアは本当に怒っていただけだったのだが。 「お客様がエレノアに会いたいって、大量に押しかけてきてるのよ!」  公演が終わって、楽屋で化粧を落とそうとしていたエレノアのところに、スタッフが駆け込んできた。 「みんな熱狂していて、どうしてもあなたに一目会って何か言いたいらしいの。相手をしてやってもらえないかしら」 「わかったわ」  でも何をすればいいんだろう?  エレノアは今まで世界中で歌を歌っていて、いろいろな客を見てきたが『楽屋に『大量に』客が押しかけてくる』というのは初めてだった。  廊下から足音が聞こえてきたかと思うと、勢いよくドアが開き、そこには……。  全員、同じ髪型、同じスーツ、同じ帽子に同じ服の紳士が、何十人も現れた。 「いやあ、すばらしい!あなたの歌声は素晴らしい!」 「まさに歴史に残る歌声です!」  何人もの紳士が、エレノアの手を取って、半泣きの顔で叫んでいた。エレノアは圧倒されて、ただ、次々と差し出される手に握手しかえしていた。  どうして全員同じ格好なの?制服?でも髪型まで同じなんて。  もしかして別な劇団が、私をからかいにきてるんじゃないかしら?  エレノアがそう思うくらい、目の前の『管轄区の紳士たち』は、全員まったく同じ見た目をしていた。背格好まで同じなので、どれが誰なのか、名乗られても判別はできなかっただろう。 「管轄区よねえ~」  一時間ほどして、やっと紳士たちが帰り始めたころ、スタッフがドアを見つめながらため息をついた。 「どうしてみんな同じ格好なの?」 「さあ。こっちだと、あまり目立った真似はできないみたいよ。なんせ、こっちの女神イライザ様は、贅沢がお嫌いでいらっしゃるから」  いつも優しいスタッフらしくない、皮肉めいた口調だった。 「贅沢が嫌いだからってみんなで同じ服着なくても……」 「もしかしたら、店が一つしかないのかもね。一般人は貧乏で、ある程度地位のある人が行く店はみんな同じって聞いたことあるから」 「だからって……」 「それよりエレノア、さっさとここを出たほうがいいわよ。そろそろグレンが、紳士たちの対応を終えてこっちに来ちゃうから」  エレノアは慌てて立ち上がった。化粧を落とすのは帰ってからにしよう!  劇場の裏口から出ると、そこにはもう黒塗りの車が停まっていた。老年の運転手が車の前に立っていて、エレノアを見るなり、女王でも相手にしているかのような敬礼をした。 「急いでるの!」  エレノアはそう叫ぶなり、自分でドアを開けて中に飛び乗った。 「変な男が追いかけてくるのよ!困ってるの!」  運転手はぎょっとしていたが、すぐに自分も運転席に飛び込んで、車を発車させた。  車が走り出し、劇場が見えなくなったところで、エレノアはやっと落ち着くことができた。そして、自分が大きなことを成し遂げたことをやっと実感できた。  ……あこがれていたオペラハウスの公演で、成功した! 「私も歌を聞いていましたよ」  運転手が急にしゃべりだした。エレノアは驚いたけど、すぐに嬉しくなった。 「ほんと?ありがとう」 「まさに女神の声です。祝福されておりますな」 「そう思う?」 「思いますとも!」 「ありがとう!ウフフ」  エレノアはいつになくはしゃいでいた。そして、こちらでは『女神』はアニタではなく、イライザだということを思い出した。イシュハとは違う神の国なのだ。 「こちらの女神様はかなり厳しいと聞いてるけど」 「厳しくなどありませんよ」 「お客さんがみんな同じ服を着ていたのよ。それが気になって」 「正しい身だしなみです」  エレノアは前に身を乗り出して運転手が来ているものを見ようとした、やはり、同じスーツを着ているように見える。 「あなたに言うことではないが、イシュハは今乱れているようですな。こちらの人間はみな、女神の教えに従って正しく生きているのです。それが証拠に、わしは今まで病気をしたことがない。女神様に守られているからですよ。イシュハの奴はちょっとかぜをひいたくらいですぐ病院とかいうものに行くそうじゃないですか」 「病院に行かないの?」 「病院なんてもんはこっちに存在しません」  エレノアは驚いた。信じられなかった。  病院がない? 「本当に、ないの?一件も?」 「ありませんよ」  運転手は、当然のことだと言いたげな、うんざりしたような口調で答えた。 「でも、心臓が悪くなったり、大きな病気になったらどうするのですか?」 「祈るのですよ!それでだめなら寿命だね。女神様が決めた期限なんだから、潔く従うべきなんですよ。それをイシュハの連中ときたら、贅沢に薬だなんだと悪あがきを……」  運転手はそれからずっと、イシュハの悪口を言い続けた。  ホテルに付いて、顔見知りのスタッフを見つけるなり、エレノアは飛びついた。 「管轄区に病院がないって本当!?」 「知らなかったの?有名な話なのに」  スタッフはにやにやと笑っていた。 「だから、こっちで病気になっても治療できないよ。気をつけてね」 「どうして医者がいないの?」 「宗教で禁止してるからよ。未だに原始的な所があるのよ。でも、協会の幹部は普通にイシュハの病院に行ってるって話だけどね」 「えっ……」 「でも、一般の人が薬をもらったりすることには、まだ厳しいみたいよ……それより、公演大成功よね!おめでとう!お疲れ!」 「え?あ、そうね、ありがとう」  エレノアはどもりながら、自分の部屋のドアを開けて、中に入った。  そして、ベッドに座り、またため息をついた。  思ったより、強烈な国なのかも……。  そして、アンゲルのことを思い出した。  管轄区出身の彼が心理学や医学を勉強することが、いかに『特殊』で、  路上で襲われるほど『受け入れがたい』ことだったか。  エレノアは、やっとそれが理解できた気がした。  朝6時。寮の電話が鳴った。アンゲルはまだソファーで寝ていたのだが、いつまでも鳴り止まないので仕方なく起き上がった。また誰かが問題を起こしたのかと思ったが、 『ちゃんと生きてるのかい』  聞こえてきたのは母親の声だった。きっと、朝起きてすぐ電話を取ったのだろう。 「生きてるよ」  こんな時間に電話するな!とアンゲルは言いたかったのだが、黙っていた。最近あまり連絡していなかったから心配したのかもしれない。 『イシュハ人はオペラなんか聞かないんだろうねえ』 「え?まあ。こっちはヒップホップっていうのが流行っているからね」  何の話だろうと思ったが、アンゲルは適当に話を合わせた。 「きのう、素晴らしい歌声を聞いたよ。なんてったっけね……あなた!あの歌手の名前はなんてったっけ!?」  叫び声が大きかったので、アンゲルは受話器を耳から遠ざけた。 「そう、エレノア、エレノアって人よ!」 「エレノアがどうしたって!?」  アンゲルは受話器を耳に押し当てた。聞き違えたのかと思った。 「ラジオで流れたんだよ。ほら、オペラの公演は特別だから、必ず次の日にはラジオで流れるじゃない?母さんが若いころは毎回みんなで教会に集まって聞いていたものよ。そこで、よい男性に出会ったりしてねえ、見知らぬ紳士にブーケをもらったりしたのよ。だから今でもラジオを聞くと頭に花を飾っていたころを思い出すのよね……あら、あなた、睨まないでちょうだい。あなたと出会ったのも教会でラジオを聞いていたときじゃありませんか」 「それはわかったから」  母親の昔話はもう100回以上は聞かされている。 「エレノアは?」 「ああ、そうそう、すばらしい歌声なのよ!近所の子が口真似して歌おうとしてたけど、全然だめね。あの怒りの歌はすごかったわ。それに、実際にオペラをご覧になった神父様によると、とても美しい人だそうよ。テノールと恋仲らしいけど」 「はあ!?」 「はあって何よ。神父様がそうおっしゃってましたよ。美しい二人だと。私もじかに見たかったわあ。そういえばお父さんがまた変なものを拾って来たのよ……」  母親はずっと話し続けていたが、アンゲルはほとんど聞いていなかった。  エレノアがイシュハに帰ってくると、フランシスがまた、勝手にパーティの準備をして待っていた。仲の良いスタッフだけ会場に呼んだ(もちろんグレンは呼ばない!)。そしていつものように、途中参加してきたヘイゼルとフランシスが物を投げ合う喧嘩を始めた。アンゲルとエブニーザの姿は見えなかった。エレノアはヘイゼルに何度も聞いたのだが、てきとうにはぐらかされてしまった。 「アンゲルなら、暗そうな女と図書館にいたけど」  次の日、二日酔いで機嫌が悪いフランシスがいまいましそうにつぶやいた。 「前にも一緒にいるのを見たことがあるわよ。仲がいいんじゃない?お似合いじゃないの、つぶれた顔とがり勉女。きっと読書しかやることがないタイプよ、あれは」 「そう」  エレノアはぼんやりとつぶやいた。管轄区で聞いたことをアンゲルに話したかったのだが、急に、それがいけないことのような気がしてきた。なぜか胸がざわつく。  気分を落ち着けようと、外に出て、音楽科に向かった。まだ授業は残っている。  あいかわらず、ここの学生の目は冷たい。ケンタにオペラハウスの話を報告しようと思ったのだが、見当たらなかった。ケッチャノッポに会うと異常に喜ばれ、部屋中を飛び回られたので、それをなだめてエレノアは疲れてしまった。  アンゲルはどこにいるんだろう?そうだ、カフェにいるかも。  図書館のカフェに行くと、やはりそこにアンゲルの姿があった。何か、難しそうな本を読んでいる。そう、アンゲルはいつも勉強に夢中で、ほかのことが目に入らないようだ。  あの管轄区で育ったのよね……?  エレノアは、それがまだ信じられなかった。実際に見たあの国は、あまりにも不可解だった。あの異質さと、親しみやすいアンゲルの性格は、エレノアの中でどうにもかみ合わなかった。 「アンゲル」  呼びかけてみた。本に夢中なのか、気が付かない。いつもならすぐ振り返るのだが。 「アンゲル?」  エレノアがもう一度呼びかけると、アンゲルはぴくっと肩を震わせた。そして、 「ごめん、もう帰らないと」  と言うと、エレノアの顔も見ずに、カフェから出て行ってしまった。  エレノアは何が起きたのかわからず、しばらくその場に立ち尽くしていた。アンゲルがいつもとまったく違う態度に出たので、どうしていいかわからなくなってしまった。  しばらくして、不審に思ったウェイトレスに『どうしたんですか?』と聞かれて我に返り、そのままふらふらと外へ出て行った。  アンゲルはいじけて部屋でふて寝していたが、電話がかかってきたので起きると、それはフランシスだった。  ヘイゼルに用事があったらしい。 『エレノアが大変だったのよ。テノール歌手に言い寄られたらしいんだけど、こいつがコマシで有名な下衆野郎で、エレノアをシャワー室で強姦しようとしたんですって!!エレノア、窓から逃げたのよ、裸で』 「えっ?」 『あいつはねえ、相手役に手を出してあとで捨てるの。そういう男なのよ。前共演したソプラノなんか、彼の子を妊娠して追放されたらしいわよ。すごくしつこい奴で、エレノアは逃げ回るのに苦労したって言ってたわ。何時間もそんなクソ野郎とリハーサルなんて、エレノアじゃなきゃ耐えれらないわよ(私だったら即刻死刑にするわよ!)でもこれって犯罪じゃないの?レイプ未遂よね。警察呼んで捕まえろってのよ……ハロー?』  電話は切れ、フランシスの耳には発信音だけが聞こえてきた。 「何よ、人が話してる途中で切るなんて失礼ね。ヘイゼルじゃあるまいし」  アンゲルは寮を飛び出して大慌てでエレノアを探したが、音楽科にたどり着いた時、芝生に座って仲良く喋っているエレノアとケンタを発見。  ……やっぱ俺なんてどうでもいいんだ。  またいじけて寮に帰って、机に突っ伏して寝ていると、ヘイゼルが帰って来て、アンゲルの様子がおかしいことに気づいて声をかけてきた。 「また誰か死んだのかな?」 「俺が死んだ」 「また襲われたのかな?」 「……その問題もあったね~。どうせ俺の人生は不幸だらけだよ」 「心理学をやってる人間がそんなこと言っていいのかな?」 「うるさい、ティッシュファ……」  ヘイゼルがアンゲルの服の襟をつかんで、ソファーから床に引きずりおろした。 「何すんだよ!」 「うっとおしいんだよ!!いじけた教会っ子め!」 「だからって暴力をふるうなよ!」 「……何やってるんですか」  エブニーザが部屋から出てきた。 「エレノアとケンタなら、何でもないですよ。ただの友達ですから」  アンゲルは驚愕の目でエブニーザを見た。エブニーザはすぐに部屋の中に引っ込んでドアを閉めた。ヘイゼルはニヤニヤしはじめた。 「な~んだ、そんなことを気にしていじけていたのかエンジェル氏!」  楽しそうなヘイゼルを、アンゲルは恨みのこもった目で睨みつけた。  エレノアは、ブースで練習しようと音楽科の校舎内を歩いていた。 せっかく公演が成功したのに、どうしてこんなに気分が悪いんだろう……アンゲルのことなんて気にしてもしょうがないのに。  ブースの受付に近づいたとき、誰かが近づいてきてエレノアの肩をたたいた。 「公演おつかれさま」  振り返ると、そこにはピアノ科の先輩、フィスが、満面の笑みで立っていた。 「ありがとう」 「ちょっと来て!」  フィスはエレノアの腕をつかんで、引っぱって行った。  そして、倉庫にエレノアを押しこむと、ドアに鍵をかけて走っていってしまった! 「開けて!開けて!」  ドアを叩きながらエレノアは叫んだが、だれも開けてくれない。  たまに外に人が通りがかるのだが、エレノアが助けを呼んでも、笑い声が聞こえるだけだ。『いい気味!』とか『ひっかかるなんて馬鹿じゃないの!?』とか……。  エレノアはパニックを起こして叫び続けたが……助けは来なかった。  ひとしきり叫んだ後、疲れ果てて、壁にもたれて座りこんだ。  どうして、こうなるの?  虚ろな目で、倉庫の中を見回した。  シンバル、ティンパニ、木琴や鉄琴など、打楽器がひととおり置いてある。あまり使われているのを見たことがない。ニッコリ先生が音楽療法で使っていたくらいだ。  打楽器の生徒って、この学校にいるのかしら?見たことがないわ。声楽と、ピアノ科と、ギターと、ヴァイオリンと……。  そうだ、前に会った大きなケースを持っていた大学生が「音楽科は異様だ」って言ってたっけ……。妬まれたりするのは仕方ないと思ってたけど、でも……。  エレノアはしばらく、こうなった原因は何か、防ぐ方法はなかったのか、と、今までの事を思い出して考えていたが、何もいいことは思いつかなかった。  立ち上がり、ティンパニに近づいた。  昔、こういうのを演奏していた楽隊があったわ……確か、キュプラの楽隊で、男だか女だかわからない人たち(あの国は、性別も自分で選ぶのよね)がブラスバンドを結成してて、一緒に歌ったっけ。  エレノアはティンパニをぱこぱこと叩きだした。キュプラで聞いたリズムを真似て。  ……面白いわね!  エレノアは、いろいろな楽器を、一人で、てきとうに叩き始めた。  アンゲルが部屋で本を読んでいると、電話がかかってきた。フランシスだった。 「エレノアが帰って来ないのよ、そっちにいるんじゃないでしょうね?」  金属音のような叫び声に耐えながら時計を見ると、既に夜の11時だった。 「ここにいるわけないだろ!……探してみるよ」  アンゲルはまず図書館に行ったが、カフェは閉まっていて、エレノアの姿はなかった。  図書館もちょうど閉まるところで、出口からエブニーザが出てきた。相変わらず顔が青白く、擦り切れた古い薬草辞典を持っている。 「どうしたんですか?」 「エレノアが帰って来ないって、フランシスから電話が来たんだよ」 「フランシス……」  エブニーザが嫌そうな顔をした。 「探すの手伝えよ」  慌てていたアンゲルが、血走った目でそう言うと、 「音楽科の倉庫に閉じ込められてますよ」  エブニーザは、表情をまったく変えずに、平然とそう言った。 「閉じ込められてる?」 「音楽科の知り合いに騙されたんです」 「何で知ってるんだよ?」 「予知です。見えました」 「なんで助けに行かないんだ!?」 「それは僕の役割じゃないですから」 「ハァ?」  無表情のエブニーザを置いて、アンゲルはあわてて音楽科の校舎に向かった。  玄関が閉まっていて、人の気配がない。しばらく入口のドアと格闘していると、 「なにしてんのお前」  ふり返ると、ギターケースを背負った男……ケンタだ。  よりによってこいつかよ!  アンゲルは一瞬迷ったが、 「エレノアが閉じ込められてるんだよ!倉庫に!」  ドアを蹴りながら、正直に答えた。 「開けるの手伝え!」 「……裏口開いてんだけど」  アンゲルがケンタを鋭い目で睨むと、ケンタは手で『ついてこい』という仕草をしながら歩き出した。  ブースの利用者が使う裏口から中に入り、暗い廊下を奥に進んでいくと、向こうから、かすかに、鉄琴のメロディが聞こえてきた。 「あ、これ、『宵町恋歌』だ」  ケンタがつぶやいた。 「なにそれ」 「アケパリの歌謡曲。ああ、エレノアだな」  アンゲルは、嫌そうに顔をしかめながら、ケンタの後について廊下を進んでいった。倉庫のドアが開かない。上にある窓からのぞくと、中でエレノアが鉄筋を叩いているのが見えた。 「エレノア!!」  アンゲルが窓をたたきながら叫んだ。エレノアが窓の方を向いた。 「アンゲル?」 エレノアはびっくりしているようだ「どうしてここに?」 「閉じ込められてるって聞いたんだけど」  後ろからケンタがのんきな声を出した。 「カギないから、窓割るよ。危ないから隅に行って」  ケンタが窓ガラスを割り、軽々と上に登って中に入った。アンゲルも追いかけようとしたが、 「すぐドアあけっから、そこにいろ」  と言われてしまった。イラついたが、言われたとおり、すぐにドアは開いた。 「どうしてここがわかったの?」  アンゲルが中に入るなり、エレノアが聞いてきた。 「エブニーザが予言したんだよ。閉じ込められてるって」  アンゲルは『あいつは知ってて助けに来なかったんだぞ!』と文句を言いそうになったが、やめた。 「エブニーザ……」 「よりによって歌謡曲かよ」  ケンタが呆れた笑いを浮かべると、エレノアも楽しそうに笑った。 「誰に閉じ込められたんだよ?」  アンゲルが二人の間に割って入った。目の前で仲良くされてはたまらない。 「音楽科の奴?」 「仲のいい先輩が、おめでとうって言いながら引っぱって行くから、何かと思ったら」 「あ~あの、ピアノ科のヘタッピな奴?」  ケンタが間延びした声で言うと、エレノアがうなずいた。  また二人にしかわからない話を始めそうだ。アンゲルはとっとと帰ろうかと思ったが、夜中にエレノアとケンタを二人きりにするのは嫌だった。 「フランシスから電話が来てたよ。今頃心配してる。帰ろう」  3人で音楽科を出た。女子寮までエレノアを送った後、アンゲルが無言でケンタから離れようとすると。 「よけーな心配すんじゃねえよ。俺は何でもないからな」  という声が後ろから聞こえた。アンゲルはふり返らなかった。  次の朝、いや、昼になってようやく起きたエレノアが、ぼんやりした頭とぼさぼさの髪で部屋を出ると、フランシスが古びた表紙の本を静かに読んでいた。こういう姿は、まさに『シグノーのお嬢様』らしく、上品に見える。 先輩の話をし『いい人だと思ったのに』と言うと、フランシスがこんなことを紙に書いてエレノアに見せた。 『女性の成功モデルがない →先が見えないから不安になる →占いや趣味に走る。 あるいは、誰か一人成功した女性を見つけると、そのあとを追ってみんなで同じ方向に暴走する。 ・先駆者がいないから、自分で新しいことをやるしかない →過激なパフォーマンスに走らざるを得なくなる →なんにもできないバカは、できる人を妬んでいじめに走る』  フランシス流の『女性学』のテキストらしい。 「あんたがオペラハウスに入って、本当にプロになっちゃったから、妬みが爆発したのよ」  フランシスはそう説明するが、エレノアはもちろん納得できなかった。 「油断するべきじゃなかったわね。そんなもんよ、世の中」  不満げなエレノアを尻目に、フランシスは当然のように、 「最初に来た日にも言ったでしょ?甘いこと言ってると騙されるって」  そんな言葉を吐き捨てると、フランシスは元通り読書を再開した。先日とはうって変って、落ち着いて、大人びて見えた。  まるで、 『私はいじめられるのには慣れているのよ、あんたと違って』 と言っているみたいに。
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