第十三章 シュタイナー邸にて

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第十三章 シュタイナー邸にて

「待ってましたぞエンジェル氏!!」  アンゲルが授業から戻ると、ヘイゼルが、いつも以上に芝居がかった声で、人を馬鹿にした上目遣いの半笑いを浮かべていた。軍服のような、肩に飾りのついた赤いスーツを着ていて、下手な芝居の悪役のボスに見えた。 「なんだよ、その格好と声は」 「シュタイナー邸に招待されたのだ」 「えっ!?」  無視して本を読もうと思っていたアンゲルだが、驚いて本を床に落とした。 「ほほ~う、やっぱり『シュタイナー』と聞くと反応が違うな、教会っ子め……言っとくが、招待されたのは俺だけではないのだぞ、お前もエブニーザも一緒だ」 「なんで?」 「知らん。『エブニーザと仲がいいから』とかなんとか、親父が言ってたが……うちの両親まで呼ばれたのだぞ、いまいましい!あんなつまらん連中を呼んだって、まずい飯がますますまずくなるだけだぞ!(管轄区の食糧事情は最悪ですからな!)そうそう、レノウス一家もみんな招待されてるから、ちゃんと親に電話しとけ。行くのは来週だからな。招待状は急すぎて間に合わないそうだ。ったく、郵便くらいちゃんと整備しろって言うんだよ。イシュハなら、今日出した速達は、イシュハのどこだろうと次の日には到着しなくてはいけないのだぞ」  アンゲルが呆然としていると、ヘイゼルが面白そうに顔を覗き込んできた。 「うれしいだろ~。それともショックかな?神様シュタイナー様に招待されて」 「そんなことはない」  本当はかなり衝撃を受けていたのだが、ヘイゼルにからかわれるのが嫌なので、アンゲルは平静を装って、本を手に外へ出た。  そして、廊下に出るなり、全力疾走で入り口の公衆電話に走った。 『あんたから電話してくるなんて珍しいじゃないの』  母親の声が聞こえてきた。アンゲルは一瞬、なんと言えばいいか迷った。 「シュタイナー邸に招待されたんだよ」 『なんですって?』 「母さんと父さんと俺と、あと、ヘイゼル・シュッティファントとその家族が、シュタイナー邸に招待されたんだよ」 『あなた、何を言ってるの?オホホ』  妙にうわずった高笑いが聞こえた。 『あのシュタイナー様が、どうして私たちを招待するのよ?』 「エブニーザと仲がいいから。あいつはシュタイナー邸に住んでいたんだよ」 『シュタイナー邸に住んでいた!?』 「そのシュタイナー邸に、来週、俺たちが行くんだよ。母さんも父さんも!」  アンゲルは興奮を抑えきれずに叫んだ。やはり、管轄区の人間にとっては、シュタイナーは特別な存在で、その家に招待されたというのは、大変な名誉なのだ。  受話器の向こうからは、何の反応もない。 「母さん?聞いてる?」  反応なし。 「母さん!?」 『おい、お前、母さんに何を話したんだ!?』  父親の声が聞こえてきた。 『泡を吹いて倒れたぞ!?』 「はあ?」 『なんだ、まさか女がらみのトラブルじゃないだろうな。だから言っただろう、女とはつきあうな、麻薬に手を出すな……』 「違うって!シュタイナー邸に招待されたんだよ!」 『わけのわからんことを。やっぱり麻薬だな?いや、アルコールだろう。正直に言え』 「どっちも関係ない!ほんとにシュタイナー邸に招待されたんだよ!エブニーザがシュタイナー邸に住んでいて、仲のいい俺とヘイゼルを招待したんだ!家族と一緒に!」  アンゲルはだんだん心配になってきた。もしかしたら、二人とも来てくれないんじゃないだろうか……と。  受話器からは、また何も聞こえなくなった。 「ハロー!!おい、もしかして父さんまで倒れたんじゃないだろうな……」 『……着て行くものがない』  父親の弱々しいつぶやきが受話器から漏れた。アンゲルはそれが嫌だったので『なんとか調達してよ!拾ってきてもいいから!』とだけ言って電話を切り、深呼吸してから、また平静を装って部屋に戻った。 「シュタイナーの爺さん、どうやら、本気で、エブニーザを手元から放したくないようだな」  ドアを開けるなり、ヘイゼルがそう言って、となりのエブニーザを見た。 「わざわざ呼び戻そうってんだからな」 「エレノアとフランシスも呼ばれてますよ」  エブニーザは、いつも通りの青白い顔でそう言った。シュタイナー邸に行けることをあまり喜んでいないようだ。  エレノア。最近全然会ってないな……。  オペラハウスの一件以来、アンゲルは、図書館のカフェにも行っていなかった。エレノアに会うのがなんとなく気まずかったからだ。  少し迷ったが、アンゲルは思い切って電話をかけてみた。 『アンゲル?アンゲルなのね!?久しぶりね!』  出てきたエレノアの声は、とてもうれしそうだった。 『シュタイナー邸の話は聞いてる?』 『もちろんよ。でも、うちの親は来れないわ。父が管轄区に入りたがらないの』 「ああ、ドゥロソのアニタ教だから?」  エレノアの強烈な父親にさんざんいじめられたアンゲルは、来ないと聞いて安心した。 『フランシスのご両親が来るわ。有名な家に行けるのは楽しみだけど、緊張するわね。シュタイナーの屋敷って、シュッティファントのあの家より何倍も大きいんですって。フランシスが言ってたけど』 「フランシス?シュタイナー邸に行ったことがあるの?」 『シュタイナーのお嬢様と文通をしてるんですって』 「えっ……」  ここでアンゲルは受話器をヘイゼルに奪われた。相手もフランシスに代わったらしい。背中でけたたましいやりとりを聞きながら、アンゲルはぼうっと、これからどうしようか考えていた。  シュタイナー邸に行く……。  ということは、本人にも会えるということだ。  いったい、シュタイナー本人は、管轄区の『遅れ』についてどう考えているのだろうか?  病院が存在せず、ほとんどの国民の生活は苦しく、台風が来るたびにたくさんの人が死ぬ……。  台風。  アンゲルの耳の奥で、けたたましい叫び声が聞こえ始めた。 「シュタイナーはどんな人?」  アンゲルはエブニーザに質問した。自分の思考から気をそらすためだった。 「前にも言いましたけど、いい人ですよ」 「あんまり楽しみじゃなさそうだな」 「僕の家じゃありませんから」  エブニーザは暗い顔でそう答えた。アンゲルは、エブニーザに家族がいないことを思い出した。ほかのメンバーはみんな家族で来るから、もしかしたらそれが気に入らないのかもしれないな、と勝手に考えた。本当は少し違ったのだが。  その日、南の管轄区は天候に恵まれていた。  シュタイナー邸の敷地内には、花が咲き乱れている。屋敷に向かうまでの道で、川を横切り、色とりどりの花や、シカなどの動物が車の窓から見えた。 「夢の世界に紛れ込んだみたいね」  エレノアが外を見ながらうれしそうにしているが、アンゲルは緊張しすぎて、景色も、エレノアも、眺める余裕がなかった。フランシスは不機嫌に黙り込んでいるし、ヘイゼルはエブニーザに向かって、また長大な『シュッティファントとシュタイナーの関係について』の演説を続けていた。内容はほとんど悪口だったが……。  屋敷には、両親たちが先に到着していて、子供が到着したのを見てアンゲルの父母は心から安堵した顔をした。二人とも、見たことのない新しいスーツを着ていた。無理をして用意したのだろうと、アンゲルはたまらない気持ちになった。  大物シュッティファントとシグノーの両親は、双方とも硬い表情をしている。広大すぎる屋敷の玄関(玄関だけで、学校の大ホール並みの広さがあり、天井は教会のような細かい装飾や絵画で埋め尽くされている)で、エブニーザとヘイゼルを除く全員が、驚愕のあまり上を見上げて立ち尽くしていた。大富豪シュッティファントとシグノーの夫妻も、この館に来たのは初めてで『広大すぎる屋敷』に驚いたようだ。アンゲルの両親は既にショック状態だ。  エブニーザは終始険しい表情であたりを見回したり、天上の絵画を鋭い目つきで睨んだりしている。 「どうかした?すごい顔してるけど」  フランシスがエブニーザを睨みつけた。 「何でもありません」 「あんた、自分の家に帰って来たようなものでしょう?なにをそんなに怒っているのよ」 「怒ってませんよ」 「ご令嬢もたいへん不機嫌なようですがな」  ヘイゼルが割って入ってきて、やはりいつものケンカが始まってしまった。 アンゲルの父がその様子を見て、 「おい、あのおしゃべりは、本当にシュッティファントの息子なのか?男があんなにおしゃべりなんてありえないぞ?」  という質問をしてアンゲルを困惑させた。母はエレノアに向かって、 「まるでイライザ様のように美しい」  と爆弾発言をしたため、あわてたアンゲルは母親をエレノアから引き離し、 「余計なことを言うな!」  と怒った。  エレノアはどなり散らしているフランシスをつかまえて、奥にひっぱっていった。 「まず荷物を置きに行きましょうってば!きっと寝室も素晴らしいわよ!」 「全員揃ったようですな」  館の奥から、不自然にしわがれた声が聞こえた。  シュタイナー本人だ。  黒いスーツに、トレードマークになっているモノクル(片メガネ)をつけて、シルクハットをかぶっていた。顔は細かいしわのせいでやせて見え、目は小さいが、不気味なほどぎらぎらと光っていた。  アンゲルの母がショックでふらついたので、アンゲルがあわてて支えた。  アンゲル自身も『黒い怪盗』をじかに見たのは初めてだ。全身に震えが走った。  エブニーザは怯えたような表情でシュタイナーを見上げている。 「ひさしぶりだな」  シュタイナーは優しく笑ったが、エブニーザの表情は変わらない。 「ご招待ありがとうございます!光栄ですわ」  エレノアはにこやかにあいさつをする。全く緊張していないように見えるのでみんな驚いた。旅先で偉い人にはさんざん会っていたから、こういう場面には慣れっこなのだ。 「寝室は200ほどある。昔は社交時期になるとそれでも足りないくらいだったが、最近は一番多いときでも半分埋まればいい方だな」  シュタイナーが廊下を歩きながらそう言うと、みんなが感嘆の声を上げた。 しかし、アンゲルはずっと、廊下を見回しながら、難しい顔で黙り込んでいた。  シュッティファントの本邸よりずっと大きいぞ?  おかしい。どうして管轄区にこんなものが建ってるんだ?  広間に着くと、たくさんの娘たちが、豪勢な衣装をまとって現れた。 「おやおや、シュタイナー殿の娘たちが表れたようだ」  ヘイゼルがニヤニヤし始めた。隣で、フランシスが鬼のような形相で彼を睨みつけている。 「娘?どれが?」  アンゲルは、たくさんいる娘を一人一人見た。自分と同じくらいの年の娘もいたし、かなり年上のも、小さな子もいた。シュタイナーの年齢から言って、年上そうな人だろう……と思ったのだが、 「どれがって、全員に決まっているだろうが」  ヘイゼルがにやけ笑いを浮かべたまま言った。 「えっ!?」 「私には娘が13人いてね」  シュタイナーは横目でそう言いながら笑うと、奥に消えて行った。  娘が13人!? 「しかも全員母親が違うのだぞ!」  アンゲルがショックを受けていると、ヘイゼルが楽しそうに追い打ちをかけた。 「フランシス・シグノー!お久しぶりね!」  ひときわ明るい声で、娘のうちの一人がフランシスに近づいてきた。 「お隣の美女を紹介して頂戴」 「エレノア・フィリ・ノルタです」  エレノアがおじぎをしながら自己紹介すると、 「オペラハウスのマドンナなのよ。ご覧になった?」  フランシスが、自分のことのように自慢げに付け加えた。娘全員が感嘆の息を漏らした。  それから、娘たちはけたたましい声でおしゃべりを始めた。主にフランシスやエレノアと仲良くして、男性陣は無視されたが、ヘイゼルは、 「まあまあご令嬢がた、そんな顔をせずに仲良くしましょうよ」  と強引に仲間に入っていった。 『ご令嬢がた』が冷ややかな視線をこちらに送っていることに気づいたアンゲルは『どうせ俺は貧乏ですよ!』といじけながら、敷地内を案内してほしいとエブニーザに頼んだが、 「疲れたから、寝ます」  と言って、どこかに行ってしまった。  アンゲルはしかたなくヘイゼル達についていった。しかし、豪華な温室にたどり着いたとたん、顔をひきつらせた。  突然、気温が夏のように上がり、周りには、見慣れない植物が立ち並んでいた。まるで南の島の森のようだ。娘たちが一斉に、上着を脱ぎはじめた。その、訓練でもしたかのように揃った動き方に、アンゲルとエレノアは驚いたが、ヘイゼルとフランシスは平然と『暑いですな』『飲み物を持ってきて頂戴』とか言いながら上着を脱いでいた。 「なんですか、ここ」  アンゲルの声は震えていた。エレノアも、ヘイゼルも、アンゲルの様子がおかしいことに気がついた。 「お父様が趣味で作った温室よ。世界中の植物や花が集められていて、冬でも花園には花が咲き乱れているの」  小さなお嬢様が、自慢するような声でそう言った。  アンゲルは真っ青な顔で、その場の全員に背を向けたかと思うと、急に走りだして、温室から出て行ってしまった。 「アンゲル?」  エレノアが追いかけようとしたが、誰かに腕を掴まれた、ヘイゼルだ。 「ほっといてやれ」  めずらしく深刻な顔をしていたのでエレノアは驚いた。 「神だと思ってみんなで憧れていた奴が、実はただの欲深いジジイだって気付いたんだよ……ショックを受けて当然だろ?」  ヘイゼルはそう言うと、奥の花畑で遊び始めた令嬢がたに機嫌よくちょっかいを出し始めた。エレノアはしばらく、入口でアンゲルが去った廊下を見つめていたが、フランシスが自分を呼んでいる声で、我に返り、自分もショールを脱いで、花畑に向かった。  一人、屋敷の中や敷地内の庭園を回ったアンゲルは、シュタイナー邸の豪華さに圧倒されるとともに、強烈な不満が湧き上がるのを感じた。  この国では毎年、飢えと寒さで何万人も死者が出ているのに、一人でこんなぜいたくなことをしてる場合なのか……?  しかも、敷地内に教会と大聖堂があった。アンゲルが中に入ると、首都の大聖堂に勝るとも劣らない大きさ(ただし、アンゲルは首都の大聖堂には行ったことがない。あくまでイメージの問題だ)で、天井の高さ、レリーフも、ステンドグラスも、天井に描かれた天使の絵も、何もかもが豪華だった。  なんだ、これは。  めまいがして、ふらふらと座席(これもかなり豪華そうだ!)に手をつくと、前方に、エブニーザが一人で座って、下を向いているのが見えた。近寄って、 「なんだ、女神に何か祈ってたのか?」  とアンゲルが言うと、エブニーザは、今まで見た事もないような、憎悪のこもった鋭い目でアンゲルを睨みつけ、 「女神なんて!僕は認めない!」  そうヒステリックに叫ぶと、足早で出て行ってしまった。  アンゲルは、エブニーザの怒った顔を初めて見て、ショックを受けた。  そして、今度は自分が席に座った。疲れていて、動く気がしなかったのだ。  女神を認めない?  どういうことだ?  自分も女神なんか信じていないのに、だからわざわざ外国イシュハの学校に行ったのに、  エブニーザの発言に強烈な違和感を覚え、そんな自分に戸惑っていた。  顔を上げると、大聖堂の前方に、大理石の女神像が立っているのが見えた。  シュタイナーは女神を信じていない、という噂を思い出す。  だとしたら、なぜこんなものを建てたんだろう?  まわりに、自分も敬虔な信徒だと思わせるためか?  アンゲルは、豪華な装飾の入った柱や、宝石がちりばめられた壁、絵画に覆われた天井を眺めながら、そのどれもが、虚ろなガラクタにしか見えないことに気がついた。  不愉快になって外へ出る。広大な屋敷が見える。  このまま逃げ帰りたい衝動に駆られたが、両親もエレノアも今あそこにいる、と自分に言い聞かせて、重い足取りで屋敷に戻っていった。  同じころ、エレノアとフランシスは、シュタイナー家の長女カルセドニーとカードで遊んでいた。  話題がエブニーザの話になると、カルセドニーがきつい声で、 「あんな気持ち悪いの、どうして引き取ったんだろう?あの目見た?人間の目の色じゃないわよ!そう思わない?」  と言い始めた。どうやら、性格がフランシスと同じらしい。 「でも、エブニーザってきれいじゃない?絵画の天使みたいで」  エレノアはそう弁護したのだが、フランシスはもちろんカルセドニーの味方をした。 「半病人でしょ。どうして施設送りにしなかったのよ?」 「ドゥーシンが悪いのよ」  カルセドニーが忌々しそうに言った。 「あいつが病人なんか拾ってくるからややこしいことになるのよ。受け入れたお父様もお父様ね、何を考えているかさっぱりわからないわ」  エブニーザ、居場所がなくてかわいそうだなあ、とエレノアは思った。カードは3回続けてカルセドニーの勝ち、フランシスは本気でくやしがっていたが、エレノアはもう、ゲームには興味がなくなっていた。  アンゲルはどこに行ったのだろう?  やはり、ショックなのだろうか、でも、何が?  エレノアには、アンゲルの受けた衝撃が、いまいちよく理解できなかった。だから本人に話を聞きたかったのだが……どこにいるのかわからなかった。  そのころヘイゼルは、建物裏でドゥーシンとこっそり会話をしていた。 「最近仕事はどうかな?デューク・シュタイナー?」 「その名前はもう使ってない」黒髪の男が底抜けに低い声を発した「二度と呼ぶな」 「それより、エブニーザはまだおたくの仕事を手伝っているのかな?」 「俺は来るなって言ってるんだが、どうしても来るんだ。実際助かってるよ。あいつの予知を使って、敵対する奴らを何人も消したからな。でもあいつは、いつも何かに取りつかれているみたいに見える。きっと過去だな。本当に消したいのは自分自身だろうよ。まだ若造なのに」 「若造って……お前いくつだよ?」 「少なくともジジイではないな……エブニーザと一緒にいると、自分だけ先に年寄りになった気分になるよ」  ドゥーシンによると、シュタイナーは、エブニーザを手放す気はないだろうとのことだ。 「あんな有能で、しかも精神の弱い、操りやすい奴は、管轄区にとっては格好のエサだからな」 「シュッティファントで引き取るって言ったらどうなる?」  ヘイゼルの提案を、ドゥーシンは鼻で笑った。 「引き取るだって?」  心底おかしそうな笑い方だ。 「どうにもなるもんか。いくらでも理由をつけてこっちに引き戻すさ、それこそまた誘拐でもしてね」  ドゥーシンが、悪人めいた笑いを浮かべた。 「余計なことは考えるなよ?」  アンゲルの両親は、ヘイゼルの両親、そしてシュタイナーと同席してお茶を飲んでいた。  しかし、相手はあのシュタイナーと、大富豪シュッティファント夫妻、シグノー夫妻だ。ふたりとも緊張のあまりティーカップを持つ手が震え、まともに話すことができない。シュッティファント夫妻とシグノー夫妻は、どちらも『うちのとんでもなく身勝手な子供』に悩まされていると嘆き、お互いに同情しあっていた。 「ヘイゼルには本当に困る。何をどうしたらあんな性格になるのかさっぱりわからない」 「フランシスもそうですよ。あんなヒステリーはシグノーの家には今までいなかったんですが……暴れて物を投げて泣き叫ぶんだから……薬もちゃんと飲まないし」  シュッティファント氏がアンゲルの父の方を向いた。 「お宅の息子さんは毎日熱心に勉強していらっしゃるとか、うらやましい」 「はい?」  いきなり話を振られたアンゲルの両親が驚いていると、 「うちの子みたいに暴れたりしないし」  シグノーの母親がやはり、感嘆の声を上げた。 「はあ……」  何の話だかわからないアンゲルの両親は、ひたすらポカーンとしていた。  その様子を見ていたシュタイナーが、 「まあまあ、若いころに問題児だった人間ほど、年を取ると大物になるものですよ。私もその一人でね」  モノクルを指でいじりながら笑った。  アンゲルの父親が、震えながらも口を開いた。 「息子が何か悪いことをしていると、教会の人間が文句を言いに来たのですが、あいつは真面目に勉強しているし、我々にはなんのことだかわかりません。どういうことなんでしょう」  沈黙が生まれた。アンゲルの母は隣で震えていた。シュッティファントとシグノーの夫婦は、警戒と好奇心の顔を、アンゲルの父と、シュタイナーに、交互に向けていた。 「ふむ」  シュタイナーは、顎に手を当てて考えるようなポーズをした。 「それは良くないな。エブニーザから息子さんの事は聞いている。きっと、教会が誤解しているのでしょう。今度私が話しておこう」  シュタイナーが、真っ青になっているアンゲルの母親に向かって、優しく笑いかけた。 「最近、教会の周りでも不穏な動きが多くて、みな警戒しているのです。きっと何か情報を取り違えたんでしょう。心配はいりません」  アンゲルの母親はその言葉に感激してしまった。  あのシュタイナー様が!!私に話しかけている!! 「ありがとうございます」  アンゲルの父は礼儀正しくそう言ったが、顔には緊張が走ったままだった。  しばらく無意味に庭をうろうろしていたアンゲルは、建物から父親が出てくるのを見つけた。二人で(母は屋敷の使用人と仲良く喋り出したので)さきほどの大聖堂に行くことにした。  父親からシュタイナーの発言を聞いて、アンゲルは驚いたが、  そんな簡単に収まるんだろうか……?  と、疑った。  アンゲルは、豪華な大聖堂を見たら、さすがの父も『こんな贅沢をしているのはおかしい』と言ってくれるのではないかと期待した。  しかし、 「これこそ、女神の偉大さの表現だよ!!」  中に入るなり、父親は歓喜の顔で叫び出してしまった。  ……話にならないな! 「なんだその顔は」 「何でもないよ」  アンゲルは父親から顔をそむけ、出口に向かって歩き出した。 「お前はあまり女神を信じていないようだな」  アンゲルはぎょっとして立ち止まった。そーっと後ろを振り返ると、父親が、あの、懸念を前面に出したしかめっ面をしていた。  父親は、自分が若いころ、反抗して、祭壇の聖杯を割ったことがあると言いだした。 「懲罰室に4日も閉じ込められた。未だに納得がいかん。コップを割っただけだぞ?」  アンゲルの父はそう言うと、妙な笑いを浮かべた。 「誰にでもそういう時期はあるものだ、でもいずれおさまるさ」  そう言って、アンゲルの肩を叩いた。アンゲルはむっとした顔で、 「俺は帰るから、好きなだけここにいればいいじゃないか!」  吐き捨てるようにそう言って、外に飛び出した。父親があわてて追いかけてきた。 「シュッティファントと同室なんて大丈夫なのか?一緒に遊んでやしないだろうな?酒は飲んでないだろうな?麻薬が流行っているって言う噂があるが」 「そんなことはないよ、ヘイゼルは寮では酒なんて飲まないし……あっ」  そこでアンゲルは初めて気づいた。  ヘイゼルが以外と『品行方正』であることに。 「ヘイゼルは酒を飲まないし(瓶を振り回して暴れてたことはあるけど)煙草も吸わないし(人の荷物を勝手に開けて中身を食うけど)、女と遊んでる様子もない(学校の中ではね!)麻薬なんて言葉聞いたこともないよ(そんなもの飲まなくても常にハイだからな!)いつも新聞か(スポーツ欄だけど)本を(金儲けのためだけど)読んでいる」 「さすが、おしゃべりでもシュッティファントなんだな」  父親は感心していたが、アンゲルはそんなことはどうでもよかった。  とにかく、何もかもに失望していた。シュタイナーにも、父親にも……そして、強烈に怒りがわいてきて、自分でもどうしていいかわからなかった。  屋敷に戻ると、母親がヘイゼルと仲良く談笑していた。  アンゲルの姿を見るなり、駆け寄ってきて、 「運が良かったわね。偉い家のちゃんとした子と同室で」  とまで言われてしまった。アンゲルは何か釈然としないものを感じた。笑顔でその場を後にしたが、両親に背を向けたとたん、口元を歪ませた。  『何もかも間違ってる!!』と、心の中で叫びながら。  両親たちは先に帰って行った。……というより、ヘイゼルが追い返したのだが。  ヘイゼルの両親も、フランシスの両親も、あまり子供には関わりたくないようだった。そして、アンゲルの両親も、居心地が悪くなったのか、帰って行った。シュタイナーが帰りの車を出してくれた。  アンゲルの両親は、帰りの車の中で、こんな会話をしていた。 「あのお金持ちのご両親たちは、アンゲルが毎日勉強していて素晴らしいとか言ってたけど、それって特別なことじゃないわよね?」  ようやく緊張が解けたのか、アンゲルの母が不満を言い始めた。 「学生なんだから、毎日勉強するのは当たり前だ」  アンゲルの父も怪訝な顔で答えた。 「そうよねえ。そんなことで褒められてもねえ……しかもご両家とも、子供の悪口ばかり言っていたけど、育てたのはあなたたちでしょうって思わない?」 「全くだ」 「しかも、お嬢さんの方でしたっけ?薬を飲ませるなんて。人間、泣き叫ぶ時には何か事情があるものでしょう、子供ならなおさらそうですよ。そういうときこそ親がそばについていてやるものでしょう?それを薬を飲ませて済まそうだなんて」 「全くだ」    両国の溝は、なかなか深い。  そのころ、アンゲルがエレノアとヘイゼルに『女神なんか認めない』というエブニーザの発言について話していた。自分が感じている違和感については話さなかったのだが、身振りや顔つきから、何かに悩んでいるなということが、二人に伝わっていた。 「ああ、酷い目に合い過ぎたから、神どころか何もかも信じられないんじゃないか?」  ヘイゼルが白けた声で言った。 「よくいるだろ?『本当に神が存在してたら世の中がこんなに酷いはずがない、俺の人生がこんなにみじめなはずはない~っ!』って喚いてる愚か者どもが。いや、俺はエブニーザが愚かだと言いたいわけじゃないぞ。ただ、そういうことはあるだろ?よく」  アンゲルは考え込んでしまった。  俺は女神を信じていない。  でも……実は、存在自体を疑ったことは一度もないんじゃないか?  どこかにいるという前提で、避けていただけじゃないのか?  見ないようにしていただけじゃないのか……? 「でも、管轄区でそんな発言していいの?」  エレノアは心配しているようだ。 「もちろん駄目さ。宗教裁判ものだ。だからあいつはイシュハにいたほうがいいのだよ。管轄区は何を言っても問題にする国なんだからな?そうだろ?アンゲル?おい?」 「へ?」  アンゲルは考え事から引きもどされた。 「あー、まあ、そうだね。確かに、他の人間に聞かれるとまずい、二人とも、黙っててくれよ。しかもここはシュタイナー邸だ……ああ、俺、頭がくらくらしてきた。どうしてこんなにややこしいことばかりなんだ?」  ヘイゼルがにやりと笑って、ふざけた声で、 「今、女神なんていな~いって叫びたくならなかった?」  と言うと、 「なるか!」  とアンゲルが突っ込み、その場を離れた。  廊下に出ると、エブニーザと、黒髪の男が仲良く話していた。エブニーザの顔が、見たこともないほど明るく楽しそうだ。  しばらく様子を見て、男が去ってから『今の誰』と聞くと、 「ドゥーシンですよ」  珍しく機嫌がよさそうに、エブニーザが答えた。 「ああ、あれが」  アンゲルは男が去った方を見ながら言った。 「ヘイゼルが『犯罪組織』とか言ってた奴ね」 「違いますよ」 「ずいぶん仲がいいんだな」 「ドゥーシンは……本当の僕を知っていますから」  エブニーザは、少し困ったような顔で笑って、 「シュタイナーに呼ばれたので」  とその場を去った。  呼ばれてるのか……すごいな。  でも『本当の僕』って何だよ?  アンゲルはそう考えながら、自分も部屋に向かって歩き出した。  とにかく疲れていた。せっかくシュタイナーの屋敷に呼ばれたのに、もう帰りたくなっている自分に気がついた。  そして、改めて屋敷の中を、廊下を、部屋を、見回す。  豪華すぎる館。  今、この瞬間にも、飢えて死ぬ人間がこの国にはたくさんいる……。  違和感は変わらずに、アンゲルの中にあった。  そして、自分が襲われたことと、タフサが亡命したことを思い出す。  父さんも母さんも、管轄区の人はみんな……本当のことを何も知らないんだな。  寝室は静かで、外からも何も聞こえてこない。  世界が消滅してしまったかのような、完璧な静寂だ。嫌でも自分の中を見つめて、考え込んでしまうことになる……。  アンゲルは、敷地内の大聖堂の事を考えた。そして、故郷にあった教会や、女神に関わっている神殿のことを思い出す。どちらも、中に入ると、どこでも嗅いだ事のない匂いがしたものだ。それを、教会の神聖さや、女神の力が及んでいる特別な空間の証だと思っていたが……。  今のアンゲルは知っている。  それは、古い建物に特有の、カビの匂いでしかないと言うことを! シュタイナーの大聖堂……あれも、父や、管轄区のほぼ全員にとって、はてしなく神聖で、荘厳で、美しい場所のはずだ。  でも、アンゲルにとってはやはり無駄なガラクタでしかない……あの、壁に絵画や宝石がちりばめられた建物の建設費用だけで、何人の人間が、一生食うものに困らずに暮らせるだろう?   アンゲルは、祖国がどんどん遠ざかっていくのを感じていた。今、まさに自分の国にいるというのに。もう、なつかしい『故郷』の感覚を、思いだすことができなくなっていた。  やっぱり俺は女神なんか信じてない。  教会なんか信用できない。  なにもかもわからない!  アンゲルは一人部屋でうめいた。下を向いて頭を両手で抱えた。すさまじい頭痛がした。頭の左側だけが強烈に痛んだ。何かで押し潰されているように。  女神なんか信じない。信じられない。  それでも、アンゲルは人生の大半をここで、管轄区で育った。女神の庇護の下で生きてきた。信じてはいなかったが、少なからず影響を受けて生きてきた。  人は知らずに、何かを積み重ねて生きるものだ。  しかし、その積み重なったものが崩れ去り、誰にも守られず、  神も女神も、自分から去った時、  自分一人、たった一人だけが、この広大な世界でぽつんと、取り残されることになる。  アンゲルはうめくのをやめた。  頭痛はおさまらなかったが、ゆっくりと顔を上げ、空中を、うつろな、しかし、何かを確信した目で睨んだ。  神の存在を失い、確固たる存在から見放され、一人、地上に残された人間にできることは、たった一つ。  自分が正しいと思う方向へ、進んでいくだけだ。  たとえ一人きりでも。  エレノアとフランシスは、娘たちとアクセサリーコレクションを見て盛り上がっていた。どれも豪華で、大ぶりの宝石がはまっていて、しかも、本物なのだ!メッキや真鍮のおもちゃはここには一つもない。すべて、地金はプラチナ、金、銀で、宝石も本物だった。 「お父様は、宝石を扱う会社を持っていらっしゃるから」 「シュタイナー・メルケリね。そういえば、メルケリ氏はどこへ行ったのかしら?めったに人前に出てこないそうだけど」 「旅に出ているそうよ。旅行が趣味で、仕事はほとんどお父様に任せていらっしゃるの」  娘の一人がそう答えたが、フランシスはエレノアを自分の近くに引き寄せ、 「本当は、消されたのよ。間違いないわよ」  と、耳元でささやいた。エレノアは苦笑いした。 「ところでフランシス。ヘイゼルとは上手くいってるの?」 「結婚式はいつなの?」  小さい娘たちがそう言い出した。全員が好奇心いっぱいの目でフランシスを見た。 「悪いけど、お嬢様がたのご期待には応えられそうにないわ。あいつがどんなに性格が悪いかよ~くご存知でしょう?」 「呼んだかな?」  ヘイゼルがジュエリールームに現れた。娘たちが笑い出した。 「ちょっと!ここは女の子しか入れないはずよ!」 「何を言っているのかな?宝石が好きなのはお嬢様だけではないのだぞ。それに」  ヘイゼルは、一番高価そうな、大きなダイヤモンドが入ったネックレスを手に取って頭上にかざした。品定めでもしているみたいに。 「ここにある宝石は、みんな、シュタイナー爺さんの所有ではないかな?」 「余計なことを言わないで頂戴」  フランシスは、ヘイゼルからネックレスをひったっくって、自分でつけようとしたが、金具がうまくはまらず手こずっているようだった。エレノアが近づいて助けようとしたが、ヘイゼルがそれを押しのけて、金具をつけてあげた。 「やっぱり、ほんとは仲がいいのよね」  娘の一人がエレノアに近づいてきてささやいた。酒のにおいがした。  みんなが話している(いや、『フランシスとヘイゼルが言い合うのを楽しんで聞いていた』というべきか)間、エブニーザは、シュタイナーの娘のうちの数人が、熱心に自分を見つめていることに気がついた。怖いのであえて目を合わさないようにした。  しかし、一番小さい子の未来……エブニーザに熱心に求愛している……が見えて、ぞっとして目をそらした。  シュタイナーがフランシスに気をとられているすきに、こっそりジュエリールームから逃げ出した。しかし、問題の小さい子、フローライト嬢が追いかけてきた。 「知らない人を追いかけちゃだめです!」  と言うと、小っちゃいお嬢様は、 「私あなたを知っているもの」  と答えた、エブニーザはますます恐ろしくなり、全力疾走で部屋まで逃げた。  やっと一人になれた……。  ため息をつきながら床にへたり込んだ。しかし、すぐに、  彼女はどこにいるんだろう……?  寂しそうな顔をして考え込んだ。最近『彼女』の姿が見えないのだ。  まさか亡くなったんじゃ……。  エブニーザは目を閉じて、今まで見えたものを順番に思いだす。最後に見えた時には、襲われても抵抗できなくなっていて……窓の外をぼんやりと眺めていて……それから?  机に突っ伏して、震え始めた。一人で恐怖に耐えた。  でも、どうしたんだ?大丈夫なのか?生きているのか?これからどうなるんだ?未来は?死ぬまでに彼女に会えるのか?それとも……。  次の日。ノレーシュの姫君クー、いや、もう女王になっている……が突然尋ねてきた。皆が朝食をとっているときに、突然、豪勢な衣装とともに、バゲットが入った籠を持って現れたのだ。  シュタイナーがこっそり招待したらしい。  エブニーザが喜んで女王とノレーシュ語で話をするのを、他のメンバーが冷ややかな目で見守っていた。クーはときどき、熱っぽい視線をエレノアに送ってきたが、エレノアはあえて気がつかないふりをしていた。 「どうして外国語だとあんなに元気そうに喋るんだろうな」  ヘイゼルがつぶやくと、フランシスが、 「外国語を話すって、別な人間になるようなものなのよ。まともに勉強してない人にはわからないでしょうけどね!」  変な睨みあいを始めた。  アンゲルは、エレノアがエブニーザとクーの方ばかり見ているのに気がつくと、彼女に近づいて行って、 「天気がいいから外に出よう」  と声をかけた。エレノアは不服そうだったが、黙ってついてきた。  すると、なぜかシュタイナーも一緒についてきて、二人に質問を始めた。 「エブニーザは学校でうまくやっているのかね?」 「えっ?あ、ええ、はい。時々辛そうですけど、なんとかやってますよ。頭はいいし」  アンゲルが緊張しながら答えると、 「そうか……」  シュタイナーは、何か考え込むような顔をした。 「どうしてエブニーザはここに?倒れていたって本当ですか?」  エレノアがそう質問したが、 「いろいろ込み入った事情があってね。まあ、仲良くしてやってくれると私としてもありがたいね」  シュタイナーは、あいまいに笑いながら、館の中に戻って行った。 「誘拐事件とか、人さらいの話はしたくないみたいね」  エレノアが言うと、アンゲルがぎょっとした顔をして、 「ストレートすぎるんだよ、質問が!相手はシュタイナーだぞ!管轄区じゃ王様みたいなもんなんだぞ?」  責めるような声で言った。エレノアは不快そうな顔をして言い返した。 「ならどうして人さらいを捕まえようとしないの?」  沈黙。  二人とも『シュタイナーは、何か隠しているのではないか』と思い始めた。  部屋に戻ると、エブニーザとクーが二人で外国の本をめくっていて、楽しそうだ。 「じゃましないほうがよさそうだな」 「そうね」  二人並んで廊下を歩く。  エレノアは、時々ちらっとアンゲルを見ていたのだが、アンゲルは何か考えているのか、エレノアの動きに気がつかないようだ。  まだショックを受けてるのかしら?それとも別なことを考えているのか……?  すると、フランシスが廊下に出てきて、エレノアを見るなり狂喜の顔で、 「エレノア!どこに行ってたのよ!ここの衣装室すごいのよ!来て来て!」  エレノアの腕をつかんで、無理矢理引っぱっていった。  ……衣装室まであるのかよ。どんだけ無駄に金を使ってるんだ?  一人残されたアンゲルは、いらいらしながら客室に戻ったが、中になぜかヘイゼルがいて、チェストの引き出しを全部引っぱりだして、中身を放り出していた。 「何をしてるんだお前は!?」 「珍しいものがないかと思ってね」 「人の物を勝手にいじくるなよ!」 「いいじゃないか、どうせお屋敷なんてどこに行ったってヒマなんだから」 「自分の部屋に戻れ!」 「まあまあまあ……」  結局寮にいるのとほとんど変わらないやり取りになってしまった。ノレーシュの姫君とエブニーザの話をすると、 「ああ、色気はないだろ?ちっちゃい子を可愛がってるのと同じ感覚なんじゃないか?」  とヘイゼルが言った。 「なんでそう思う?」 「エブニーザはいかにもお姉さま受けする顔してるからな、俺たちと違って」  ヘイゼルが、いじけたようなことを言い始めた。 「ここのお嬢様がたはそうとう退屈してるよ。酒臭いのも麻薬くさいのも混じってる。レズも一人いるって話だ。重症ですな!一日中やることもなく着替えたりふらふらしたり買い物したりしてるのさ。時間と金の浪費だよ。そう思わんかな?……どうしたのかな?妙に深刻な顔をしているようですがな?」 「どうしてこんなに金が集まるんだ、ここだけに」 「権力を持っている機関が一つしかなくて、しかも機能していないからだろ?」  ヘイゼルがえらそうに言った。 「何人も偉い(と思い込んでいるおバカな)人間がいて、四六時中いがみあってるイシュハから見れば、こんなにわかりやすい国はないな。国民から集めた税金は首都の教会に直行で、そのほとんどは上位者(もちろん教会のジジイどもとシュタイナーなのだが)のところに集結だ。国民に再配分されるのはごくわずかな残りものってとこだ。そういう仕組みになっているのだよ。これが他の国なら、反乱とか革命とか、既得権がどうとか、国際問題にするとか、誰かが騒ぐのだが……残念ながら、こちらの国民はみんな、麗しく狂おしい教会信者だからな、反抗もしないのさ」 「そんなの変だろ」 「変だと思うなら自分でなんとかしてみろ、エンジェル氏」  ヘイゼルがめずらしく無表情だ。 「無理だと思うけどな。ちょっと反抗する動きを見せただけで、襲うだの警告だの、うるさく言ってくる国だからな」 「自分の部屋に戻ってくれ」  アンゲルが暗い顔でつぶやいた。 「わかった、わかったよ」  ヘイゼルは、どうでもよさそうな身振りで立ち上がり、つまらなさそうな顔で部屋を出て行った。  ドアが閉まる音と同時に、アンゲルはベッドに倒れ込んだ。  ……もう何も考えたくない!!    せっかく友人が集まったのだからと、シュタイナーが夕食の席をパーティーにしてしまった。そして、エレノアに何か歌ってくれと頼んだ。  エレノアが歌うと、気に入ったのか、 「もっと歌って!」  を何度も繰り返した。10曲ほど歌ったところでアンゲルが、 「そろそろ休ませてあげたほうが……」  と恐る恐る忠告したため、 「ああ、そうだな、素晴らしい歌だった」  シュタイナーは満足げに笑い、ようやくエレノアを開放した。 「助かったわ。ありがとう」  エレノアは疲れた顔で笑った。  この10曲の間に、次のようなことが起きていた。  エブニーザは、歌うエレノアを熱心に、愛しげな表情で見つめるクーを、寂しげな、同情するような顔で見つめていた。  すると、シュタイナーの小さな末娘フローライトが近づいてきたので、あわてて逃げようとしたら、ヘイゼルに足をひっかけられて転んだ。  転んだときに掴んでしまったのが、なんと、フランシスのドレスのすそだったため、逆上したフランシスが怒鳴りながらエブニーザを蹴ろうとした。  それを止めようとしたアンゲルにフランシスの肘が命中。  ヘイゼルが『やりやがったな!』と叫んで、またシャンパンボトルの中身をフランシスにあびせ始めた。フランシスもまた物を投げ始めた。  エブニーザは全速力で会場から逃げ出し、シュタイナーの娘たちが後を追って出て行った。  アンゲルはひじ打ちを食らった額を抑えて、うめきながらその場を離れようとしたが、エレノアがまだ歌わされているのと、彼女を見つめるシュタイナーの目つきが怪しいことに気がついた。  シュタイナー本人に声をかけるのはためらわれたが、そろそろエレノアを助けたほうがよさそうだと判断し、近づいて行ったというわけだ。  クーはずっとエレノアを見つめることに夢中だったので、この騒ぎは気にも留めなかったようだ。 「何かあったの?」 「なんで?」 「温室で、急に飛び出して行ったじゃない?」 「ああ、あれか、何でもないんだ。ただ……」 何を話すべきか、アンゲルは迷った「親父と大聖堂に行ったときに、ちょっと口論して……それだけさ、何でもない」 「そう」 「エレノア、ここにきて、楽しい?」 「え?ええ、楽しいわよ。でも、気になることがあるの」 「何?」 「酒臭い人がいるのよ。お嬢様がたの中に、それに、ずーっとぶつぶつ言いながらうろうろ歩いてる子が一人いるんだけど、誰も気にしていないみたいなの」 「ヘイゼルが言ってたよ、麻薬やってるやつがいるって」 「えっ?」  エレノアが驚いて立ち止まった。 「でも、こっちで、手に入るの?イシュハならともかく……」 「なんだかよく知らないけど、手に入るらしいんだ」  アンゲルは、ここが自分の国だということを思い出して、嫌になってきた。 そのあと、二人とも黙って廊下を歩き、何も言わずに別れて、それぞれの部屋に戻った。  夜。  エレノアは夜風に当たろうと、屋敷を抜け出して芝生の上を歩いていた。  すると、草原の向こうに、何か、ぼんやりと光る人影のようなものが見えた。  誰だろう?こんな時間に。  エレノアは、人影にゆっくりと近づいて行った。  それは、長い金髪の、白い、古代の衣装のようなドレスを着た女性の後ろ姿だった。  エレノアがさらに近づいて行くと、女性は突然振り返った。  端正で美しい顔だったが、一瞬で、空気に溶けるように消えてしまった。  ……今の、何?  お化け?  幽霊?  エレノアはしばらく、真っ暗になった芝生の真ん中で呆然としていたが、怖くなって、気を紛らわそうと、歌を歌いながら歩き出した。  同じころ、眠れないエブニーザが外の芝生を散歩していると、エレノアが歩いているのが見えた。  歌いながら踊っているらしく、月に照らされて長い服をひるがえす美しいエレノアは、まるで女神を地上に呼んだ神話の歌姫のようだ。  神話。  エブニーザはそう思ってすぐ、そんな発想をした自分にムッとした。 「そんなことしたって女神は降りてきませんよ!」  エブニーザが大声で叫ぶと、エレノアが驚いて転んでしまった。  二人の様子を、ヘイゼルとアンゲルが窓から双眼鏡(シュタイナーの私物をヘイゼルが勝手に持ち出した)で見ていた。 「二人で何をしているのかな」 「俺にも見せろよ!」  アンゲルがヘイゼルから双眼鏡を奪おうとしたが、ヘイゼルはうまくよけながら二人を観察し続けていた。  エブニーザは、エレノアに手を貸しながら、 「ここは管轄区ですよ。イライザは音楽なんて聴かないんです。アニタを呼びたいんならイシュハで歌ってください」  本気なのか冗談なのかわからない口調で言った。エレノアは驚いた。 「そんなつもりじゃないの。ただ、夜風が気持ちいいから外に出ただけよ」 「危ないですよ。管轄区は。誰かにさらわれるかもしれない……」  エブニーザがエレノアの腕をつかんで、館まで引っぱっていく。  エレノアはその言葉を聞いて、たまらない気持ちになった。  まだ、エブニーザは、苦しんでいるんだわ……昔の記憶に。  入口にたどり着くと、アンゲルが二人を迎えに下に降りて来ていた。 「何やってたんだよ、二人で」  と呆れた顔で言った。エレノアが口を開く前にエブニーザが、 「ちょっと散歩してただけです」  と言って、驚いているエレノアを置いてその場を去ってしまった。  エレノアは、アンゲルに何を話していいかわからず口ごもっていたが、アンゲルは、 「明日、早いから、もう寝た方がいいよ」  と、さびしそうにその場を立ち去った。  本当は二人とも、話したいことがたくさんあったのに……。  次の日の朝。  アンゲルは、何かを見上げて呆然としているエレノアを見つけた。視線の方向を見ると、女神イライザの像があった。 「おはよう」  声をかけても反応がない。 「どうしたの」 「私」  像から目を離さずにエレノアがつぶやいた。 「昨日、この人に会ったわ」 「はあ?」  ぼうっと女神像を見つめ続けているエレノアに、アンゲルが困惑していると、 「出かけるぞ!」  というヘイゼルの大声が聞こえてきた。声をした方を見ると、猟銃を背負って嬉々としているヘイゼルがいた。  まさかまた鳥を撃つ気か……?  アンゲルはぞっとした。  シュタイナーに車を借りて、早朝に敷地内を散策に出かけた一行(クーも含む)は、 「狩猟がしたい!どうしても撃ちたい!」  というヘイゼルと、 「そんなことして何が楽しいのよ!ゆっくり散策させてよ!」  というフランシスに翻弄されることになった。 「だったら別行動にした方がよかったんじゃないか?」  アンゲルはまっとうなことを言ったつもりだったのだが、なぜかヘイゼルとフランシスの両方から睨まれたので、黙ることにした。  女王クーは、そんな二人を面白がってエブニーザと笑い話にしていたが、アンゲルとエレノアはもううんざりしていた。 「頼むから、人のテーブルに鳥を山積みにするのだけはやめてくれよ……」  他の4人が車中で口論している中、クーとエブニーザは車を降り、森の中を探索しながらノレーシュ語で会話していた。 「外を歩くのは好き?それともずっと本を読んでいたほうがよかった?」  前を歩きながらクーが、歌うような声で言った。 「どちらでも……一人でいる時だけ、本当に、そのときだけ、自分が人間に戻ったような気がするんです。でも、本当に一時だけ。どんなに望んでも、僕はこの世の中に入っていけない。受け入れてはもらえない。……僕は、自分がまともな人間だと思えた事が、一度もないんです」 「私もよ」  エブニーザは、嘘だろう?と言う顔で振り返った。 「女王様なのに?」 「地位は関係ないわ」  クーが真面目な顔で木々を見上げた。 「たぶん、私たちだけじゃない……人間、一人になって、己に立ち返るときにしか、自分自身を発見できないのかもしれないわね」  しばらく無言で歩いていたが、 「エレノアって美しいわね。そう思わない?」  クーが、遠くを見るようなぼんやりした目で呟いた。 「クー」  エブニーザはためらいながらも、はっきりと言った。 「エレノアが好きなんですね?」  クーは驚き、動揺しながらも、 「そうよ」  と、エブニーザに笑いかけた。 「エレノアを愛してるわ」  クーが、涙を手の甲で拭きながら、早足で歩いていく。エブニーザはあわてて追いかけた。 「ごめんなさい。余計なことを聞いてしまって」  どうして自分は人を傷つけてしまうんだろう?  エブニーザはそう考えながら、追いかけて行く。静かに泣いているクーのそばによりそいながら、 「一つ聞いてもいいですか」  不安げな顔で言った。 「何?」 「『愛してる』って、どんな感じですか?」 「えっ?」  一瞬とまどったクーだが、すぐに笑った。 「子供みたいな質問ね!」  エブニーザが気まずそうに横を向くと、クーはこう説明した。 「その人の事以外、何も考えられなくなるの。その人が私を見てくれるなら、何を捨てても惜しくない。その人のことを考えただけで心が苦しくなる、時には、暖かくなる。そんな感じよ」 「それなら」  エブニーザはクーから目をそらしたままつぶやいた「僕も知ってる」  そして、歩き出した。 「例の夢の女の子ね」  クーが呼びかけると、エブニーザが立ち止まった。でも、振り返らずに背を向けたままだ。 「そのうち会えるわよ。私がエレノアと出会ったみたいにね。私は振り向いてもらえない。でもあなたは大丈夫よ」  後ろからエブニーザに抱きついた。 「美しい子、心配しないのよ」  クーは、エブニーザが肩を震わせて泣いていることに気がついて、正面に回って、指でエブニーザの涙をぬぐうと、改めて強く抱きしめた。 「あなたまで泣かないでよ……」  しばらく二人で抱き合って泣いていた。  森の中を、この季節にしては冷たい風が吹き抜けた。    二人が森を出ると、やはりヘイゼルとフランシスが怒鳴り合いをしていて、エレノアが必死になだめようとしていて、アンゲルはもう諦めたようにぐったりと車のドアにもたれ、眠ったような顔をしていた。  フランシスがヘイゼルの猟銃をつかみ、ヘイゼルを殴りつけようと振り上げた。それを止めようとして立ちあがったエレノアは、フランシスをつかんだまま後ろに倒れ、その勢いでアンゲルがもたれていたドアが開いてしまい、三人とも地面に落ちた。 「きゃああ!アンゲル!?大丈夫!?」  女性二人の下敷きになったアンゲルは、白目をむいて気を失っていた。 「あんたたちって、ほんとに笑えるわね」  クーが楽しそうにニヤニヤしながらつぶやいて、フランシスに睨まれた。ヘイゼルは『やれやれ』と言っているかのように、両手の掌を上に向け、おどけた顔で目線を上に向けた。  そのうち、白ひげが車に乗って現れ、女性3人は彼と共に先に館に帰ってしまった。  エブニーザがヘイゼルに、 「それ、使ってもいいですか?」  猟銃を指さして聞いたので、アンゲルとヘイゼルは驚いた。アンゲルは頑なに『鳥は撃つなよ!』を繰り返してヘイゼルにバカにされた。  ヘイゼルは狐を一匹仕留めた。エブニーザは試しに一発だけ、空を飛んでいる鳥に向かって撃つが、当たらない。 「いきなり空に撃ったって当たらんさ」  ヘイゼルがえらそうに笑った。  自分の頭を撃ち抜けたら、どんなに楽だろう。  エブニーザはそう思っていた。  でも、ヘイゼルに怒られるのは嫌だから、口には出さなかった。
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