第十四章 管轄区 封鎖

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第十四章 管轄区 封鎖

 学校に戻ると、アンゲルは管轄区出身の生徒たちに『シュタイナーに会ったって本当!?』と熱心に聞かれた。  話したくなかったので、逃げ回っていた。しかし、追っ手は容赦なく、寮の電話までかけてきた。 『なあ!シュタイナーに会ったって本当!?』  一瞬誰だろうと思ったが、後ろからがやがやと人の声がして、どうやら、管轄区の学校の同級生が集まってかけてきているらしいことがわかった。 「誰に聞いたんだよ!?」 『町中のうわさになってるよ!神父様がお前の家に話を聞きに行ったらしい』 『うちのママも行ったわ!』 『こんど、教会に来てもらって話を聞こうって話になってるんだ』 『女神にそっくりな女性をたくさん集めてるって本当……いてっ!』 『シュタイナー様はどんな生活をしていらっしゃるの?きっと敬虔な方なんでしょうね』  こんなセリフを次々に聞かされて、アンゲルは心の底からうんざりした。でも、みんなが騒ぎたくなる気持ちも痛いほどわかった。シュタイナーはそれほど大きな存在だったのだ。少なくとも、この間までは。  久しぶりに会ったタフサにその話をすると、 「ほんとにあのシュタイナー邸に行ったの!?」  と驚かれた。  やっぱりこの人も、管轄区の人だなあ。  そう思いながら、シュタイナー邸で感じた通りに、一人であんなに贅沢してるのは変じゃないか、と言うと、 「いろいろ悪いうわさがあるからね。管轄区にいるとわからないが、イシュハに来てから聞いた話だと、そうとうの人数を理由もなく処刑しているっていう話だ。政策に反対する人間を、宗教裁判の名を借りてね。僕だってあのまま管轄区にいたら危なかったかもしれないな」  じゃあ、そのうち俺も危なくなるのかな?  どうしてそんなことになるんだろう?  アンゲルがそう考え込みながら歩いていると、図書館の近くで、またヘイゼルとフランシスがけんかしているのが目に入ったが、割って入る気力がないので、見つからないようにそーっと裏道に入る……と、そこにはなぜかエブニーザがいた。 「なにやってるんだよ!」 「あの……フランシスに見つかったら嫌だから」  エブニーザはあいからわず、怯えた態度で、顔色が悪い。 「ああ、俺と同じだな。帰るぞ」  二人で狭い裏道を通る。 「クーはどうなるんでしょう?」  エブニーザが心配そうにつぶやいた。 「クー?どうなるって?女王なんだから安泰だろ?」 「そういうことじゃなくて……」  エブニーザは口ごもってしまった。  アンゲルは、シュタイナーのところにいた時の『女神なんて認めない!』という発言を思い出した。 「お前、管轄区の人間だよな?女神を認めないってどういう意味?」 エブニーザの顔がひきつったので、アンゲルは慌てて付け足した。 「いや、責めてるわけじゃなくて、どうしてそういう発言になったのかが気になるんだよ。それだけ」 「ほんとうに女神とか、神とかいうものが存在してるなら、どうして僕や彼女がこんな目に会うんですか?どうして毎年何万人もみじめに餓死したりするんですか?」  ヘイゼルが言っていたのと同じようなことをしゃべり始めたので、アンゲルはため息をついた。 「あー、そうだな」  特に反論する気も起きない。  アンゲルは黙り込んだが、エブニーザは不愉快そうな顔になった。 「アンゲル、僕の言うことなんかまともに聞いてないでしょう?」 「聞いてるよ」 「やっぱり僕は頭がおかしいんですか?」 「そんなことはない」 「どうしてそう断言できるんですか?」 「どうしてって言われても……」  そのあと、部屋にたどり着くまで無言のまま。エブニーザは自分の部屋にこもってしまい、アンゲルは一人ソファーでため息をつく。  そして気がついた。 『僕と彼女が』って言ってたな。  やっぱり妄想の女が出てくるか。夢の中で女の子が酷い目にあっているわけだ。その夢が少しでも平和なものになったら、エブニーザは変わるかもしれないな。  いや、待て、変わるって何だ?  妄想の内容を変えるなんてできるのか?  それとも、本当に存在しているのか?かわいそうな女の子が。  いや、違うよな、でも……。  ああ!やっぱりわけがわからない!  アンゲルが一人悩んでいると、また電話が鳴った。 『シュタイナーに招待されたって本当か!?』  こんどは、あの、イシュハの管轄区コミュニティーのリーダーだった。アンゲルはうめきながらその場に座り込んだ。頭ががんがん痛み出した。  エレノアは音楽科の試験の準備に追われていた。今回はクーがいないので伴奏を探さなくてはいけなかったのだが、運よく、音楽大学の生徒が名乗り出てくれた。  未だに一部の生徒には嫌われているが、あからさまに嫌がらせをしてくる生徒は減ってきた。オペラハウスも次の公演が決まったため、練習が忙しくなり始めた。  ある日、団長から呼び出されたエレノアは、 「公演で、世界中を回ることになるから。学校との両立はむずかしいのではないかな」  と指摘された。 「と言いますと……?」 「学校はやめて、正式に、オペラハウスの主力として歌ってほしいんだ」  ……学校をやめる?  返事を来週まで保留にしてもらったが、エレノアは悩んでいた。  確かに、自分が学校に来たのは、修士号を取るためだ。そして、修士号を取るのは、オペラハウスに入れる確率が上がるからだった。それが、まだ大学にも入っていないのに、オペラハウスで歌い、主力の歌手として期待されている……。  断る理由なんてない。  だけど……。  エレノアはためらっていた。ためらう理由なんてないはずなのに。夢のオペラハウスが、エレノアを主力に採用すると言っているのだから。  でも、フランシスは何て言うだろう?  学校をやめれば、もちろん、今住んでいる学校の寮からは出て行かなくてはいけない。  不安げな顔で『出て行かないで』と言っていたフランシス。  それに……アンゲルは?  そこでエレノアは、自分の考えに戸惑った。  管轄区から来ていた学生が、殺人事件を起こした。  しかも被害者は、イシュハの国会議員だった。  犯人の少年は『議員の行いが不道徳で女神の教えに反する』とか、わめいていたそうだ。  管轄区の政府(教会)は『私たちとは一切関係がない』と発表。  イシュハ政府は、一時的な国境封鎖と、両国間の送金の停止を発表した。 「阿呆どもが騒いでますな。たかが殺人で」  食堂のテレビを見ながら、ヘイゼルがスプーンで皿を突っついている。自分には関係がないからだろう。 「大変だぞ。国会議員だぞ?また管轄区が変な国だと思われるだろ!」 「もともと変な国じゃないのかね?ま、いいさ。イシュハの国会議員なんてどいつもこいつも、税金でステーキを食ってる馬鹿どもですからな。だいいち、ナイフを持った素人すら捕まえられないようなセキュリティなんて、天下のイシュハでありえるかね?しかも国会議員で!どうせ飲みに行ったか、娼婦のところにでも行って刺されたんだな。もしかしたら、犯人が管轄区人っていうのも嘘じゃないのかね?」 「それはないよ」  隣の学生が口を出してきた。 「もう捕まってるし、そいつが刺したところが防犯カメラに写ってるんだ」 「防犯カメラが防犯にならない証拠だな」  アンゲルはニュースを聞きながら、暗澹とした気持ちで朝食を口に運んでいた。 『わたしたちは関係ない』だって?  アンゲルは、自殺した友人のことを思い出した。信仰の問題で悩むのはクラウスだけではない。アンゲルだけでもない。  管轄区の政府は、自分たちが教え広めているものの影響を、考えたことがあるんだろうか……いや、あちらでは女神は絶対だ。でも、教会のやっていることはそもそも『女神の教え』にかなっていることなのか……? 「アンゲルは大丈夫なのか?」  向かいの席の学生が聞いてきたので、アンゲルは我に返った。 「なんで俺?犯人じゃないぞ」 「エンジェル氏……ニュースをちゃんと聞いてなかったのかね。封鎖されたのは国境だけではないのだぞ。両国間の送金停止だ。レノウス夫人が管轄区からこっちに金を送ろうとしても、止められるってことさ」 「えっ!?」 「食べ終わったらすぐ銀行に行くんだね。ま、無駄だと思いますがな」  ヘイゼルは特に同情する様子もなく、事態を面白がっているようにすら見えた。  もちろんアンゲルは銀行へ行ったのだが、道を歩いているだけで、通行人が送ってくる視線の冷たさを感じた。見た目ですぐに『管轄区人』とわかる人間は、みな、気まずそうに下を向いて歩いていた。  銀行の前には、自分と似たような茶色い髪の学生が行列を作っていて、その誰もが『送金が止まった』『授業料が払えない』『家賃はどうしよう』と窓口に訴えていた。アンゲルは2時間ほど行列に並んで、やっと自分の口座から金を引き出せた。しかし、両親からの送金がなく、残高はほとんどなくなっていた。窓口の職員に聞いても『国の政策だからどうにもならない』という答えしか返ってこない。  外に出ると、入り口付近に管轄区人が集まっていて、みな困り果てた顔をしていた。  しかし、アンゲルが心配したのは彼らではなく、彼らを遠巻きに、胡散臭い顔で見ている、警戒したイシュハ人たちの顔だった。  管轄区人はどこでも群れるからな……怖い集団だと思われるぞ。  アンゲルは足早にその場を去った。『群れる管轄区人』の仲間だと思われたくなかった。  アルバイト先のレストランに行くと、『閉店』の看板がドアにかかっていた。  慌てて裏口から中に入ると、店長が疲れ切った顔でソファーに横になっていた。 「しばらく店を閉めるよ」 「えっ!?」 「客にイシュハの過激派がいてなあ、ここの従業員はほとんど管轄区人だろう。『イシュハ人を雇わないなんて許さん』とか、間違った愛国主義を持ち出して店で暴れてね」 「いつまで休みなんですか!?」  アンゲルは上ずった声で叫んだ。送金が止められているのに、その上アルバイト代までなくなっては、寮費も払えなくなってしまう! 「さあ、知らんなあ。おさまるまでだいぶかかるだろうな」 「困るんですよ」  奥から同じアルバイトの、管轄区人のおばさんが出てきた。 「国境が封鎖されているから帰ることもできないし、収入もなしにどうしたらいいのか」 「俺にはどうにもできんよ。悪いが二人とも帰ってくれんかな」  店主は顔に新聞紙をかぶって、そのまま寝てしまった(いや、寝たふりをしたのかもしれない)。  アンゲルとおばさんは、二人で店を出た。 「困るよねえ。一人がばかなことしたせいで、私らまで迷惑だよ」 「イシュハと管轄区は、今までも微妙な関係だったらしいですから。この事件のせいだけじゃないでしょう」  アンゲルは、自分でもよくわからない、新聞で読んだ文章の受け売りを口にした。  おばさんと別れて寮に帰り、ドアを開けようとしたとき、 「だから、管轄区人と同じ部屋に住むのはまずいんじゃないか、シュッティファントが」  中から聞きなれない学生の声がした。  アンゲルはドアに耳を押し当てた。  部屋の中からは、何人かの学生が『だから管轄区は遅れているんだ』『頭がおかしいんだ』『そのうちあなたも何かされるかもしれないですよ』という声が聞こえてきた。  こいつら!何も知らないで変なことばかり言いやがって!  アンゲルは強い怒りを感じた。しかし、 「へー」 「ほー」 「あっそ」  ヘイゼルはずっとこんな調子で、生返事だ。明らかに真面目に聞いていない。 「君たちは、統計学の単位をちゃんと取ったのかな?」 「えっ?」 「基本科目に入っているはずなのだが」  学生たちが黙り込むと、ヘイゼルはいつもの偉そうな口調で、長々と説明し始めた。 「この50年で、事件を起こした管轄区の留学生は、たった一人なのだぞ?たったの一人だ!50年で!すばらしいことじゃないか。アケパリやノレーシュの留学生は、毎年何十人も麻薬の密売だの傷害だの、著作権侵害だので捕まっているじゃないか!華麗なるイシュハの学生なんて、年に十人以上の殺人者を輩出しているのだぞ!(痴漢と性犯罪者に至っては、全世界NO.1の輩出率ですしな!)君たちは学校で何を勉強しているのかな?それくらいの計算もできんのか?それとも、君たちはこの学校から、生徒を全員叩きだしたいのかな?(レベルの高い学校ですからな!馬鹿なイシュハ人より外国人のほうが人数は多いのだぞ!)だいいち、君たちは、シグノーのご令嬢の所に行って『イシュハとドゥロソは紛争中だから、ドゥロソ系のルームメイトは追い出せ』なんて言えるかね?そんなに顔面ストレートを食らって再起不能になりたい?ほほう、変わった趣味をお持ちだね!それなら別に止めはしないがね……それに、管轄区人ほど一緒にいて安全な人種はないのだぞ。なんせ朝から晩まで女神様イライザ様しか頭にない、酒もたばこも麻薬も興味がないクソ真面目な連中ですからな。(話は全く面白くないがね!)むしろ今のこの状況のほうが俺には怖いね!イシュハの愛国過激派ほど身勝手で怖い連中はいないからな!」  そして『帰れ帰れ、シッシッ』という、野良犬でも追い払うような声が聞こえたかと思うと、ドアが開き、イシュハ人学生がぞろぞろと部屋から出てきた。  アンゲルがヘイゼルにお礼を言おうと中に入ると、ヘイゼルは、どう見ても管轄区から来たとしか思えない、質の悪そうなダンボールをあさっていた。 「おおエンジェル氏」  ヘイゼルが何の気もなさそうな声を上げた。 「シュッティファントの管財人がクレハータウンに行ったのだが、レノウス婦人が銀行の窓口で怒鳴り散らしているのを発見してね」 「怒鳴ってた?ほんと?母さんが?」  アンゲルは耳を疑った。母親が怒鳴っているところなんて見たことがないからだ。 「どうも、封鎖の事を知らなかったらしい。あっちの情報操作は完璧だな。何も知らないで生活していたのさ。それで、荷物をあずかってきたのだが……」  ヘイゼルが、箱から封筒を取り出して、勝手に封を切った。  アンゲルは手紙をひったくろうとしたが、ヘイゼルは飛びのいて、また中身を読み始めた。 「『アンゲルへ。国境が封鎖されているなんて知りませんでした。元気ですか?そちらでは問題ないのですか?銀行から送金ができないので、とりあえずシュッティファントの人に箱を預けましたが、ちゃんと届いてますか?うちはまたお父さんが川から変なものを拾ってきて……』」 「人の手紙を勝手に読むなああああ!」  アンゲルは追いかけるが、ヘイゼルはかまわずに、部屋中を飛び回りながら手紙を読み続けた。 「『そういえば、この前またミレアちゃんに会いました』おおお、またミレアちゃんですなエンジェル氏!」 「うるさい!」  アンゲルは、ヘイゼルを追いかけて飛びまわっているうちに気がついた。  ……わざとやってるな!  気がついたものの、どうしていいかわからなくなり、結局ヘイゼルに付き合って、1時間ほど部屋中を駆け回った。何を悩んでいたか、そのうち忘れてしまった。エブニーザが図書館から帰って来た時には、疲れ果ててソファーでぐっすり眠ってしまい、ヘイゼルに礼を言おうとしていたことも、すっかり忘れてしまった。  エブニーザは、ソファーの横に置かれている箱を覗きこみ、質の悪いノートや、おいしくないビスケットの中から、黒い表紙の聖書を取り出した。  あの両親、いい人だけど、こんなものをまた送ってくるなんて……どうかしてる!  エブニーザは、聖書を持ったまま、目を閉じ、何かをぶつぶつと囁いた。  そのとたん、黒い表紙に火がついた。  聖書は勢いよく燃え上がり、最後には、少しの灰を残して、空中に消えてしまった。  エブニーザは、汚いものを払うように、灰を手から振り払うと、自分の部屋のドアを開けて中に入り、そーっと、音がしないようにドアを閉めた。  エブニーザは成績優秀なので、カレッジの入学許可を与えられた。しかし、ヘイゼルもアンゲルもまだ一年残っているので、自分一人だけで大学に行かなければいけないと知って真っ青になった。  しかも寮を出て、大学の近くに部屋を借りなければならないのだ。一人で。 「いいじゃないか、お前、一人で本読むの好きだろ?」  アンゲルが言うと、 「そういう問題じゃありません!」  エブニーザが泣きそうな声で叫んだ。ヘイゼルは、 「いい機会だ、自活しろ」  と、気にも留めていない様子だ。 「そういえば、カレッジで何を専攻するんだ?」 「わかりません……」  エブニーザが下を向いて、小声でつぶやいた。 「文学か考古学でもやれば?歴史とか。そしたら一生本読んで暮らせるぞ」 「考古学はいかん。発掘してる間にこいつまで化石になっちまうのだぞ」 「ならないって」 「いっそ数学はどうだ?永遠に部屋の中で数式を説いて過ごせばいいさ」 「発掘よりそっちのほうが健康に悪そうだな……」  アンゲルとヘイゼルが勝手に選考を考えている間、エブニーザはずっと下を向いて、どうして自分がこんな目に合わなければいけないのかと考えていた。彼にとっては、カレッジ以前に、普通に生活すること自体が、とてつもなく苦痛だからだ。 「そういえば、シグノーのご令嬢もカレッジに進むことになったようですな」  ヘイゼルがつまらなさそうに言うと、ただでさえ顔色の悪いエブニーザが、さらにひきつった顔をした。 「ほんと?」  これはアンゲルにとっても面白くない話だった。 「成績はいいんだな。あんなに性格悪いのに」 「いっそご令嬢と一緒に暮らしたらどうかな?エブニーザ」 「殺されるぞ」  アンゲルは苦笑いで尋ねた。 「フランシスが大学で何を専攻するんだ?」 「『他人をこき使ってデザインさせて自分の手柄にする学部』に決まってるさ」 「なんだよそれ」 「今だって、イベントのポスターだか何だか知らんが、デザイナーに金を出して作らせているのだぞ」 「それじゃ何にもならないじゃないか。自分で作れなきゃ」 「それが、シグノーくらいの家になると通じるのさ。社長が社員をこき使って自分の報酬だけ億単位でもらうのと同じ感覚でね。人を使うのが仕事になるのさ」 「なんか……それ、違わない?」  二人がフランシスの悪口を言っている間に、エブニーザは青白い顔でよろよろと自分の部屋に入り、そーっと、音が立たないようにドアを閉め、そのままベッドに倒れこんだ。  エレノアは、学校をやめようかどうかで悩んでいた。そして、悩んでいる自分が不可解だった。  もう自分は、オペラハウスの一員だ。  そのオペラハウスが、エレノアを認めて、こちらに来いと言ってくれている。  音楽科自体には、ほとんど未練はなかった。もともとエレノアは生徒たちに嫌われていて、居心地は良くなかった。  引っかかっているのは、やはり、アンゲルのことだった。  気持ちを伝えようか。  でも、アンゲルにそれを言って、どうなるの?  エレノアが思い悩みながら図書館のカフェに行くと、当のアンゲルがそこにいて、本を枕にしてぐったりと眠っていた。  エレノアが声をかけると。アンゲルはがばっと起き上がり、反動でコーヒーカップが落ちそうになって、あわてて手を伸ばして支えた。 「ニュースが大きくなって大変ね」 「あ?ああ」  アンゲルは少々慌てた様子で答えた。 「犯人はちょっと神経症っぽいやつだったらしいね。女神の教えがどうとか……いくら管轄区でも、誰も『殺人しろ』とは教えてないんだけどね。おかげでもう、周りの目が冷たくてしょうがないよ」 「心理学、続けるの?」  アンゲルが怪訝な顔をした。エレノアは隣の席に座った。 「どういう意味?」 「専攻を変えたほうが安全じゃない?」  アンゲルが、本気で驚いた顔をした。エレノアにそんなことを言われるとは夢にも思っていなかったのだ。 「心理学じゃなくて、医学に変えて、医者になろうと思ってるんだけど」  素早く、意外な答えが返ってきて、エレノアは驚いた。 「かえって危険じゃないの?」  エレノアは、管轄区の運転手に聞いた話を思い出した。あちらでは医者に行く人間はいないのだ。女神の教えに反するから。  アンゲルは黙っている。 「どうして、心理学と医者にこだわるの?」  エレノアが重ねて尋ねると、アンゲルはどこかうつろな目でエレノアを見た。 「ずっと前に、とんでもなく大きな台風がやってきて、屋根が飛んで、妹も飛ばされて死んだ。それは話したよね?でも、もっと悲惨なことがあった」  アンゲルは、下を向いて目を閉じた。当時のことを思い出しているのだろう。 「近所の子供が崩れた木材に足を挟まれて、結局足を切断しないといけなくなった。でも、管轄区には医者がいないだろ……?」  カフェのざわめきが、遠くに聞こえた。その中に、かすかに、誰かの叫び声を聞いた。それは、アンゲルだけではなく、エレノアにも聞こえた。  足を奪われた子供の、悲鳴。 「何日も何日も、苦痛でのたうちまわって叫んでた。傷が痛むのか、気がふれたのか……たぶん両方だな。できる手当はぜんぶやったんだ。でも、どうしようもなかった。うちまで叫び声が聞こえた。昼も夜も関係なく。みんな眠れなかった。うちも妹が亡くなっていたけど、あれに比べたらまだ幸せだとすら思った。うちの両親もそう思っていたらしいよ。自分の家族が同じ目にあったら、だれも正気でなんかいられない。……1週間以上は続いた。でも、朝、突然、叫び声が止んだんだ」 「亡くなったの?」  エレノアは、子供が日夜絶叫する様を想像して、怖くなってきた。そして、そんなものを直に聞いてしまったアンゲルや家族たちのことを思うと、たまらなくなった。 「その子の父親が、耐えきれなくなって、猟銃で子供の頭を撃ち抜いたんだ」  アンゲルは下を向いて目を閉じていて、何かに刺されているみたいに、顔が苦痛にゆがんでいた。 「それから、警察がやってきて、両親ともどこかに連れられて行った……そのあとどうなったのかは知らない。誰に聞いても教えてくれなかった。でも、おかしいと思わない?医者がいて、麻酔でも何でも使えていれば、助からないまでも、あんなに苦しむ必要はなかったはずなんだ。でも、管轄区の教会は未だに、医学とか、医者ってものの存在を否定してる……表向きは。病気やけがは女神様からのメッセージだとかほざいてるんだ。でも何がメッセージなんだよ?何のために妹は死んだんだ?何のために、何の罪もない子供が、地獄の苦痛を味わって、親に殺されなきゃいけなかったんだ?俺はどうしても理解できない。しかも、ヘイゼルに聞いた話じゃ、協会の幹部や貴族たちは、普通に医者の診察を受けてるって言うんだからな。ふざけてるだろ? だから、女神なんてもう信じないことにしたんだよ」  女神なんて信じない。  その言葉が、管轄区の人間にとってどれだけの重みを持っているか、エレノアは考えようとしたが、とても想像がつかなかった。  今まで暮らしてきた世界を丸ごと否定するようなものだ、と、誰かが言っていた気がする。誰だったろう?アケパリに亡命した管轄区人哲学者だったか。そういえば、哲学も認められていないと聞いたことがある……。 「……でも、俺はこっちで心理学とかカウンセリングを見てるうちに、怖くなってきたんだ。イシュハ人がカウンセリングとか心理学とかに求めているのは、管轄区の狂信的なファナティ信者が求めてるのと同じものだって気がついた……」  アンゲルが黙りこんだ。エレノアは次の言葉を待った。 「救いだよ。救われたいんだ。だからカウンセリングを受けたり、教会で祈ったり、どう考えても不合理なセミナーに参加したりするんだ。でも、そんなことで救われることなんて、ないんだよ。何も変わらないんだ、自分が変わろうとしない限りはね……べつにそれはいいんだ。でも、もっと実際的なことがしたくなったんだよ。もっと実用的なことを。ちゃんと人が……なんていうのかな、立ち直れるようにできることを」  エレノアは、アンゲル自身が、何かから救われたがっているのではないかと思ったが、言わなかった。言ってはいけないような気がしたから……アンゲルが今話していることは、あくまでアンゲルが立ち向かわなければいけない問題で、エレノアにできることは何もないからだ。 「だから、専攻を医学に変えるよ。医者の資格を取る」  声は小さかったが、断定的な口調だった。 「まあ、学費の問題が解決したらの話だけどね……」 「学費?」 「何でもない」  アンゲルは首を強く左右に振った。エレノアに金の話なんかするべきじゃない。 「そろそろ帰るよ。勉強に使ってるソファーをティッシュファントムに占領されるから」  アンゲルは立ち上がると、わざとらしく元気そうな身振りで、カフェから出て行った。  エレノアはしばらく、席に座って、ぼんやりとカフェの客を眺めていた。本を読んだり、友達と話したり……彼らにも、何か、解決できそうにない重い問題があったりするのだろうか?  なんとかしてあげたいけど、どうにもならないわ……。  一つだけわかったのは、アンゲルはとても真剣だということだ。勉強にも、自分の人生にも。そうならざるを得ない環境で育ったからかもしれないが。  今、悩んでいる自分はなんなんだろう?  エレノアはわかっていた。自分が、ものすごく恵まれているということは。  金持ちではないが、理解ある優しい(ちょっと変な)両親と、歌の才能と、美しさに恵まれて、そして今、子供のころからの夢をほぼつかみかけている……。  それでもエレノアは、迷っている。いや、ほぼ答えは決まっているのだが、どうしても心に引っかかっているのだ。今立ち去って行った男が。  自分から、難しい方向へ進もうとしている人間が。    アンゲルは、寮に戻るなり、ソファーで新聞を広げてふんぞり返っているヘイゼルの前に立ち、 「金貸して」  と言った。  ヘイゼルの顔からのんきさが消え、恐怖に似た驚きが走った。 「今、『金貸して』って言ったか?」  アンゲルは真剣な顔でうなずいた。 「そのフレーズは」  ヘイゼルらしくない慎重な尋ね方だ。 「管轄区とイシュハでは、意味が違うのかな?」 「他にどんな意味があるんだよ!?」  あの、他人の力を借りないことで(仲間内では)有名なアンゲルが、そんな言葉を発したことが、ヘイゼルには信じられなかったらしい。 「また屋根でも飛んだのかな?」 「そんなに頻繁に飛んでたまるか!」 「じゃあ何かな?エンジェル氏が人に金を借りようなんて、どんな天変地異が起きたのかな?」  アンゲルは、心理学から医学に専攻を変えるため、2年ほどよけいに学校に通わなくてはいけないことを打ち明けた。つまり、学費と寮費が足りないのだ。しかも、一連の事件のおかげで、管轄区の親からは送金がもらえない。 「どうあがいても、学費には手が回らないんだよ」  ヘイゼルはしばらく、考え込んでいる様子で目線を横に流しながら黙りこんでいたが、ふと、 「どうして医学なんだ?」  と、冷ややかな声でつぶやいた。 「それが問題か?」 「大いに問題だね」  ヘイゼルがアンゲルを鋭い目で睨みつけた。 「心理学も医学も、管轄区ではご法度だろう?精神医学だって同じだな?わざわざ狙われるようなものばかり選んでるのはなぜかな?そんなにイライザ教から逃げたいのか?」 「違うよ」 「じゃあ何かな?まだエブニーザを治療してやろうとでも思ってるのかな?」 「エブニーザは関係ない」  アンゲルの口調は断固としていた。 「自分のためだ。それに、これから治療する人のためだよ。助けなきゃいけない人がたくさんいるんだ。心理学だけじゃ足りないんだ。どうしても医者の免許が必要なんだ」 「あっそ」  ヘイゼルがつまらなさそうな顔で立ち上がり、部屋の受話器を取った。 「いくら必要なんだ?」 「えっ?」  アンゲルは言葉に詰まった。正確にいくらかかるかは計算していなかった。わかっていたのは、膨大すぎて自分で払えないことだけだ。 「それくらいちゃんと調べてから頼みに来いよ!!」 「ごめん」  アンゲルが本当にすまなさそうにつぶやいた。ヘイゼルは大げさに上を向いて、手で目元を覆った。 「あーやだやだ、何がごめんだよ。まさか俺がエンジェル氏に説教する日が来るとは思わなかった。全く面白くない!」  ……どうして何でも面白くしないと気が済まないんだ?  アンゲルはそう思ったが、金を借りる立場でそんなことは言えないので、黙っていた。  しかし、 「おい、たかが金くらいで黙り込むのやめてくれよ、どうせ文句を言いたくてたまらないんだろ?顔に書いてあるぞ」  ヘイゼルがアンゲルに向かって抗議した。アンゲルも言い返す。 「たかが金?お前にとっては『たかが』でも、ほとんどの人間にとっては大問題なんだぞ?それで運命が決まるんだぞ?人によっては命を落とすんだぞ?だいいちお前が稼いだ金じゃないだろうが!親の金だろ?しかもどうやって稼いだかも怪しいような金だろ!?」 「そうそう、それが正しい」  ヘイゼルがいつものニヤニヤ顔に戻った。 「は?」 「そうやって、一生『正しい人類代表』みたいな偉そうなこと言ってろよ」 「はあ?」 「正論がお得意すぎるようですがな、エンジェル氏、最終的にはそんなものには何の力もないのだよ」  アンゲルは怒りで震えたが、反論はできなかった。  実際、ヘイゼルの言うとおりだからだ。いままで必死で勉強してきた。いろいろなことを考えてきた……はずだったのに、自分には何の力もない。今だって、学費すら自分で確保できずに、こうやって、ティッシュファントムの手の内にあっさり落ちているではないか。 「とっとと金額調べてこい」  ヘイゼルは吐き捨てるようにそう言うと、自分の部屋に入って乱暴にドアを閉めた。  エレノアが部屋でスコア読みをしていると、電話が鳴った。 「どなた?」 『あー俺だ』  ヘイゼルだった。 「フランシスなら、セカンドヴィラに行ったから、明日まで帰って来ないわよ」 『またショッピングか?あいかわらずご令嬢は散財がお得意だな』 「私も忙しいから、切るわよ」  次の講演まであまり時間がない。 『いや、待ってくれ、エレノアに用事があって電話したのだ』 「私?」 『アンゲルが変なのだが』 「変?」 『何か聞いていないかな?悩んでるとか、脅されてるとか、狂った教会信者につけまわされたとか、まあ、何でもいいんだが』 「専攻を変えるって言ってたけど?」 『それで?』 「それでって……それだけよ。確か、医学を取って医者になるとか」  返答がない。 「ヘイゼル?」  電話は切れていた。  何なの?何も言わないで切るなんて失礼ね!  エレノアは不満の顔で受話器を置いて、スコアに視線を戻した。  でも何だろう?アンゲルが変って?  きのう話した時は特に変わった様子はなかったけど……。 「アンゲルが金貸せなんて言うからよ」  次の日、ヘイゼルがおかしい(おとなしい)ことについて、フランシスはそんなことを言った。 「金貸せ?」  エレノアには心当たりのない話だった。 「知らない?管轄区とイシュハの間で、銀行間の送金が停止したのよ」 「えっ?」 「国境封鎖だけじゃないのよ。金のやりとりも停止。ま、すぐ収まると思うけど……前にも封鎖はあったけど、1年で終わったわ。最近密入国者も増えているし、情勢が不安定なの……まあ、問題を一言で言うと、アンゲルの親が学費を送りたくても送金できないの」 「そうだったの……」 「ヘイゼルも大人になってきたんじゃない?」  フランシスがおもしろそうに言った。 「悩んでるのよ。友人を失うかもしれないから。金が絡むと人ってどうしても気まずくなるもの」  エレノアは黙り込んでいる。国際情勢なんてさっぱりわからない。  もっと新聞を読んでおくべきだった?  いや、そういう問題じゃない。 「しかもアンゲルでしょ」  フランシスが思い出したように目線を上に向けた。 「確か、タフサのときだって、そうとうきつかったのに、エブニーザが出したお金を突き返したのよ?クーに聞いたんだけど、『友達から借りるのはよくない』とか何とか言って。それがあのヘイゼルに借金しようだなんて、よっぽど追いつめられているのよ……まさか銀行まで取引停止するなんて、だれも思わないもの。かといって、アンゲルの立場じゃ国にも帰れないだろうし……運が悪いわね。だから管轄区は遅れてるってのよ」  フランシスがいまいましそうに低い声をもらした。 「あなたって、やっぱりあの変な顔が気になるの?」 「変な顔なんて言わないで」 「ふうん……」  フランシスが意地悪な笑いを浮かべた。 「別にかまいませんけどね。でも、もったいないわねえ……オペラハウスのマドンナに、目が離れた未来のない管轄区人なんて」 「未来がない?」 「管轄区に戻っても殺されるだろうし、イシュハにいてもきっと辛いでしょうよ。あんまりかかわらないほうがいいんじゃない?まあ、苦労したいなら勝手にすれば」  どうやら、フランシスは機嫌が悪いようだ。  エレノアは自分の部屋に戻り、ベッドに倒れこんで枕に顔をうずめた。低い声ででたらめなラララを歌った。そんなことをしても気分は晴れなかったが。 アンゲル、これからどうするの?  私はどうしたらいいの?  もう自分の夢はかなったも同然なのに、エレノアは、満足ができない自分が腹立たしかった。両親だって喜んでくれるはずだ。  そうだ。  エレノアは立ち上がって外に出て、電話の受話器を取った。  久しぶりに母親のところへ帰ろうと思ったのだ。ヤエコ・ノルタなら、何か助言をくれるかもしれない(ただし、助言の3倍はからかわれそうだが)。    アンゲルが、学費と寮費を確かめて(どうあがいても自分では払えそうにない額だった)部屋に戻ってくると、ヘイゼルとエブニーザがソファーに座っていた。 「金は出すから、専攻を変えろ」  ヘイゼルが低い声で言った。アンゲルが抗議しようとすると、エブニーザが、 「やめたほうがいいですよ。殺されますよ」  と、無表情でつぶやいた。 「ああ、それか」  アンゲルは以前エブニーザに言われたことを思い出した。 『患者に刺し殺される』 「なんでもいい、とにかく医学と心理学はやめとけ」 「それじゃ意味がないんだよ」  アンゲルは強い口調で説明した。 「管轄区には医者がいない。金持ちや教会関係者はともかく、普通に生活している人のための医者がいないんだ。教会が禁止しているから……でも、今のままじゃだめだ。だれかが先駆をつけて行かないと、何も変わらないんだよ」  ヘイゼルとエブニーザが揃って驚愕の顔をした。 「管轄区に戻るつもりか?」 「そんなの無茶ですよ。殺されに行くようなものじゃないですか!!」  エブニーザは必死でアンゲルを止めようとしている。なぜなら、未来が見えているからだ。エレノアやクーに説明していたように。 このまま突き進んだら、アンゲルは確実に殺される! 「お前だって大学出たら管轄区に戻るんだろ?」 「それは彼女を探すためで……」 「あのなあ、娼婦を助けたかったらどうしたって教会には刃向うことになるんだよ!知らないのか?『そんな職業はない』って言い張ってる国なんだぞ?だいいち、貧しい病人を診る医者がいなかったら、お前の彼女だってあっさり伝染病で死ぬだろうが!」 「やめてください!!」  エブニーザが悲鳴のような声を上げて、両手で耳をふさいだ。  ヘイゼルは黙りこんでいる。 「封鎖が解かれるまででいい、頼むよ」  アンゲルが懇願したが、ヘイゼルは動かない。 「ヘイゼル?」 「……バイトはやめろ」 「は?」 「国境が封鎖されてるんだぞ、命まで狙われて。皿なんか洗ってる場合か?そんな時間があったらもっとましなことに使えよ」 「レストランはしばらく閉店になったから、どっちみち仕事はないよ」 「また開いても行くな」  ヘイゼルが立ち上がって、電話に向かって歩いて行った。 「出すんですか!?」  エブニーザが非難するような口調で叫んだ。  ヘイゼルは電話で何か指示を出して、切ると、 「明日には出せる」  と言って、ソファーに座りなおした。 「ありがとう」  アンゲルは、静かな声でそう言うと、立ち上がって、部屋を出て行った。その場にとどまるのが気まずかったのだ。 「ダメですよ、このままじゃアンゲルは殺されますよ?」  エブニーザは必死に訴えた。 「医者になって管轄区に帰ってしまうんですよ?そしたらいつか必ず殺されてしまうんですよ?わかっているのにどうして止めないんですか!?」 「止めて聞くと思うか?あのエンジェル氏が?」 「でもこのままじゃいずれ……」 「ああ、わかったぞ」  ヘイゼルが白けた顔で気の抜けた声を上げた。 「何が?」 「お前、未来が見えてるから、常に半歩先を歩いてるだろ?」 「どういう意味ですか?」 「だから話がかみ合わないんだ」  ヘイゼルが立ち上がって、見下すような目でエブニーザを睨んだ。 「人と話す前に、現代に戻れ」  ヘイゼルはエブニーザの肩を乱暴に叩くと、そのまま自分の部屋に入り、乱暴にドアを閉めた。  現代に戻る……って?  エブニーザはしばらく、その言葉を頭の中で反芻しながら考え込んでいた。  エレノアは女子寮への道を、いつもよりゆっくりと歩いていた。 『私のことをどう思っているの?』って、本当は聞きたかったのに。  カフェでアンゲルに会えたのはいいが、相手はもっと重大な(そう……本当に重大で、深刻な)ことで手いっぱいなのだ。どう考えても危険な方向に進もうとしているのに、止めることはできない。まして『私のことは……』なんて、控えめなエレノアにはとても口にできなかった。 「またアンゲルに会ってたの?」  寮のドアを開けるなり、きつい声が飛んできた。フランシスは機嫌が悪そうだ。 「発声練習よ」  エレノアは沈んだ顔でテーブルに近づいた。 「何かあったの?」 「次のタームでカレッジに行けそうなのよ。成績が良いから」 「ほんと?よかったわね」 「よくないわよ!」  またきつい叫び声が返ってきたので、エレノアはびくっと身を震わせた。 「この寮はあくまで上級三年の学生までが利用するところで、カレッジの寮は別で、そこは評判が悪いから、私みたいな人は住めないのよ……シグノーのご令嬢が住むようなところじゃないの、汚くて、外国人だらけで。ほとんどの学生は、大学に入ったら自分でコンドミニアムを借りるのよ。でも、シグノーの家族は許可してくれないのよ。屋敷に戻ってこいって言うの」 「そう……」  つまり、あの母親のところへ戻るということだ。エレノアは、いつか会った冷酷なミセス・シグノーを思い出した。フランシスでなくても、あれと一緒は憂鬱だろう。 「エレノアだって、学校をやめたら寮を出なくてはいけないでしょう?そしたらもう一緒にいられないじゃないの」  フランシスはどうやら、エレノアと離れたら、友達でいられないのではないかと不安がっているようだ。 「一人で暮らすのも悪くないんじゃない。いっそ、これを機会にシグノーの家を出るのよ」  エレノアがそういうと、フランシスが目を丸く見開いた。 「無理よ」  フランシスが硬直した顔でつぶやいた。 「無理だわ」 「できるはずよ。だって、大学生なんてほとんど大人でしょう……」 「学費はだれが出すのよ!?」 「もう一回頼んでみたら」 「無駄よ。いいわ、もう黙ってて頂戴」  フランシスはエレノアに背を向けた。 「そうね、あなたはもう成功したスターみたいなもんだから、私のことなんてどうでもいいのよ!」 「そんなことないわよ」  フランシスはドアを乱暴に閉め、部屋にこもってしまった。夕食の時間になっても部屋から出てこなかった。  エレノアは、買ってきたパンに軽く焼いたビーフとレタスをはさんで軽い夕食にした。あまり食欲はなかったが、食べずに朝まで耐えられるとも思わなかった。 「フランシス」  エレノアは、サンドイッチを持って、フランシスのドアに向かって話しかけた。 「サンドイッチを作ったから、ドアの前に置いておくわ……それと、私たちは一緒に住んでいなくても、友達でいられるはずよ。世の中のほとんどの『友達』は、たいてい別な家か、別な町に住んでいるものじゃない?手紙だって電話だってあるんだから」  返事はなかった。  エレノアはビーフサンドの乗った皿をドアの前に置き、自分の部屋に戻った。  次の日、ドアの前から皿はなくなっていて、キッチンのシンクに、皿が、排水溝をふさぐように置いてあった。  アンゲルは、気を取り直して図書館で勉強していた。タフサから出された宿題で、『いろいろな国の宗教について理解しておくように』というものだ。精神科医のところには、いろいろな宗教の患者がやってくるので、世界にどんな宗教があるか、詳しく知っておく必要があるから、と。  アニタ教の本、アニタの恋人であるアケパリの武神フレイグに関するもの、キュプラ・ド・エラの両性具有の神カーリーのもの、四人の神を信奉するノレーシュの神話……。  そして、  それらの本の山から、ちょっと離れたところにぽつんと置かれている黒い表紙。  アンゲルは、アニタ教の本を読みながらも、そちらをちらちらと、不愉快そうな目で見ていた。  ……まさか今更、読み直すことになるとは。  気が進まないのだが、これから受け持つかもしれない患者の中に『教会っ子』がいないとも限らないし、いちいち『俺は女神なんて信じてません』なんて、相手の宗教を否定するわけにはいかない。それはアンゲルもわかってはいるのだが……。  ……さんざん読まされたんだけどなあ、学校で。  視界の隅に、エブニーザらしき人影が見えたが、ちらりとこちらを見たかと思うと、嫌そうな顔で去って行ってしまった。 「何をしてる」  目の前から声がしたので顔を上げると、そこには、管轄区コミュニティーの黒服の少年が立っていた。 「異教の本なんか読んでどうするつもりだ」 「あのさあ、ここはイシュハなんだぞ。いろんな国から学生が集まってるんだから、相互理解ってのが必要だろ!?」 「相互理解なら、我々の女神を彼らに紹介しろ」  絶対嫌われるってそれ。理解どころか戦争の原因だぞ?  とアンゲルは思ったのだが、けんかをするには相手が悪いと思ったので、立ち上がってその場を去ることにした。  本くらい勝手に読ませろよ。  アンゲルは貸出カウンターまで大量の本を持っていき『こんなに一気に読めるのか?』というカウンター係の言葉を無視して、寮に向かった。  部屋に戻り、本の山をどさっとテーブルに置き、床に落ちた黒い表紙の本を拾い上げ、しばし逡巡したのち、ソファーに座り、ゆっくりとページを開いた。  エレノアは、ドゥロソの国境付近にある小さな町を訪れていた。前方には、サーカスのテントがある。両親があそこで公演をすることになっているのだ。乾燥地帯であるドゥロソが近いせいか、岩や赤土があらわになった台地には砂が飛び、空気は乾燥していた。  のどに悪そうね……この空気は!  エレノアは、スカーフで口元を抑えながら、テントの入り口に近づいた。幸い、入り口にいたピエロたちはみんな知り合いで、エレノアとの再会を喜んでくれた。 「俺は最初から、大学なんてお前には必要ないと思ってたさ」  父ミゲル・フィリにオペラハウスの話をすると、そんな言葉が返ってきた。 「だって俺の娘だからな」 「またそんなこと言っちゃってさあ」  母ヤエコ・ノルタが、冗談のように大きなやかんを持って来て、泥のような色のお茶をカップに注いだ。味は甘くて、それほど悪くはなかった。  二人とも、『学校はやめてオペラハウスに入れ』とエレノアに言った。二人ともたたき上げの旅芸人だ。学歴にはまったくこだわらないし、観客は学んだ場所や時間など考慮に入れない。ただ、面白いものを出して、とっとと現場で認められたほうが勝つ……それを知っているのだ。  エレノアは、母親にだけ、こっそり、アンゲルのことを相談した。 「さすがあたしの子だねえ」  ヤエコはニヤニヤと笑いながら、エレノアの頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でた。 「外人にもてるんだよ。そんでもって熱烈な恋に落ちるのさ。人生を変えるようなね」  自分も外人のくせにそんなことを言い出した。 「学校やめる前に告白しなさいよ。当たって砕けとけばそのうち吹っ切れていい歌歌えるから。それにあたしの勘だと、あの子はあんたに気があるよ。こないだ一緒にテントまで来たじゃないか。ただ、事情が複雑だから、自分からはこっちに来れないのさ」 「お母さんは心配じゃないの?」 「何がさ?」 「そんな複雑な人と付き合ったら、娘も危ないんじゃないかとか、やめたほうがいいんじゃないかとか」 「まだ付き合うどころか告白もしてないのに?アハハハ!」  ヤエコは身をそらせて、天に向かって豪快に笑った。 「アタシを誰だと思ってんのさ。これでも若いころはね、外人の芸人を一人残らず虜にした魔性の女だよ?」 「それ、自分で言わないほうがいいと思うけど……」 「言うだけタダなんだからいいだろ?どうせ昔のことなんてみんな大して覚えてないんだから!とにかくね、あんたから近づいてあげなさい。でも、あまりしつこくしても逃げられるからね。少しずつ近づくんだよ、わかる?」 「はあ……」  母親が積極的過ぎて、エレノアはかえってやる気がなくなってきた。 「エリェノア!エリェノア!」  小さな、言葉が不明瞭なピエロたちが、5人ほどエレノアの方向に走ってきた。そして、エレノアを担ぎ上げて、曲芸師がリハーサルをしているステージへ運んで行った。 「ついでに一曲歌ってから帰ってよ!オペラハウスのスターが歌ったらみんな喜ぶから」  エレノアは小人たちに運ばれながら、母親の豪快な声を聴いた。  ステージでは、大きな鎌を持った、骸骨のように痩せた男が立っていた。 「おう、ちょうどいい。俺の棺に入ってくれ」  暗い声がテントの中に響く。 「これでまるごと八つ裂きにするが、安心しろ。中の人間にはかすり傷一つつかない」 「知ってるわよ!前にも入ったことがあるじゃない!」 「そうだったかな?」 「ホウ!イェイ!エレノア!」  今年75歳になるベテラン曲芸師が、綱の上で一本足で立ちながら叫んだ。 「よう来たな!」 「久しぶりね!」  エレノアは小人たちに担がれながら叫んだ。  エレノアは彼らを知っている。骸骨は空爆で家族を全員亡くしているし、曲芸師は故郷の町がまるごと焼けてなくなった。それでも、みんな、この独特の空間で、自分らしく生きているのだ。 「今日は私も歌うわよ!」  エレノアは叫んだ。誰にでもなく、自分自身に向かって。  そう、自分は、歌わなくてはいけないのだ。何が起ころうと。  アンゲルもきっと、自分らしい道を選ぼうとしてるんだわ。あんな恐ろしい状況なら、普通はあきらめてしまうのに。  帰ったら、気持ちを伝えよう。  エレノアは、小人に担がれ、曲芸師や骸骨に笑いを振りまきながら、心の中で結審していた。その結果どんな答えが返ってきたとしても、関係がないのだ……エレノアも、アンゲルも、もう、進む道を決めたのだから。  自分らしく、危険で、先が見えない道を。
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