第二章 学校が始まる

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第二章 学校が始まる

 寮に来た次の日の朝。  アンゲルは授業選択の書類を読んでいるうちに、 『心理学と医学を希望する生徒のみ、大学に入る2年前に各教科の専門教育を受けること』 と書いてあることに気がついた。  大学の二年前、つまり、上級の2年から心理学ができるってことだな!  アンゲルの胸が高鳴った。基本教育なんて早く飛ばしてしまいたかった。 「ほんとに心理学やるのか?」  ヘイゼルがソファーの後ろから書類を覗きこんできた。表情が険しい。 アンゲルは驚いて飛びのいた。 「おい!ここは俺の部屋だろ!人が読んでいるものを覗くな!」 「ここを通らないと外に出れないんだからしょうがないだろう」  ヘイゼルが呆れた顔をした。 「教会っ子のくせに朝祈らないのか?」 「うるさい」  管轄区の人間(敬虔なるイライザ教徒たち)は朝起きたら祈る。朝食の前にも祈る。昼食も夕食も。そして寝る前にも祈る。女神イライザに感謝するために。  しかし、アンゲルは女神を信じていないので、ずっと祈るふりをして、家族が目を閉じてぶつぶつ言っている最中も、別なことを考えていた。  ここイシュハに来てしまったら、もちろん祈りなんてしない。  そんな習慣はすっかり忘れたつもりでいたのに、ヘイゼルのせいで思い出してしまった。 「学年は?」  むっとした顔のアンゲルを無視して、ヘイゼルが眠そうな顔で質問してきた。 「今日の試験で決まるんだよ。お前は?」 「去年の続きだから……上級の2だ」 「いいなあ」  その学年なら心理学に入れるな、とアンゲルは思った。 「エブニーザも今日試験だろ?」 「そうなのだが……」  ヘイゼルがテーブルの周りをうろつき始めた。 「頭は最高にいいのだが……」 「だが、何だよ?」 「部屋から出てこない」 「えっ?」 「人前に出るのが怖いらしい。朝食も食ってない。あと5分待って出てこなかったら引きずり出してくれ」 「なんで俺が?」 「同じ会場に行くんだろ?」 「おいおいおい、俺はエブニーザにどう対応すればいいか全く知らないんだぞ」  アンゲルが立ちあがって抗議した。 「特殊な事情があるんだろ?カウンセラーを呼べよ」 「心理学やるんだろ?俺はあいつらが嫌いなんだ!」 「お前の好き嫌いの問題じゃないだろうが!」  二人が言い争っている時、電話が鳴った。アンゲルは、このときまで部屋に電話があることに気がつかなかった。 「誰だ?……ああ、大丈夫ですよ。アンゲルが連れて行きますから、はいはい」 「おい!勝手に人を使うなよ!なんの話……」 「じゃーあとで~」  文句を言うアンゲルを無視して、ヘイゼルは愛想よく電話を切った。 「カウンセラー連中が試験会場でお待ちだ。引きずり出そう」 「はあ?」  呆れているアンゲルを無視して、ヘイゼルがエブニーザの部屋のドアを乱暴に蹴り始めた。  すごい人数ね!  エレノアは、目の前に並んでいる席の多さに驚いた。試験は大ホールで行われるのだが、彼女が試験を受ける席は会場のほとんど最後列だった。はるか向こうに演台のようなものと、スクリーンが見える。まるで大きなコンサートホールのようだ。  こんなところで授業をされても、聞き取りにくそうね……。 「エレノア!」  後ろから大声がした。振り返ると、列車で一緒だった男(たしか、アンゲル、そうだ、天使がどうとか言ってたっけ)が、半ば小躍りして手を振りながら近づいてきた。  しかし、エレノアの視線は彼ではなく、その隣の少年に釘付けになった。  なんて美しい子なの!  肌が雪のように白く、顔立ちが整っているのにどこか、目のあたりに普通の人間ではないような揺らぎが見える。顔を伏せているのでよく見えないが、目の色が無色に近いくらい薄いことがエレノアにもわかった。瞳孔の黒い点がはっきりと見える。 この子の方が天使みたい……。 「君も試験を受けるんだね」  アンゲルがにこやかにそう言った。 「そうよ」  エレノアは、半分夢を見ているような顔でアンゲルに答えた。 「そちらは?」 「あ、えーと、こいつは、エブニーザ。同じ部屋なんだ」  アンゲルがエブニーザを見たが、エブニーザは真っ青な顔で下を向いている。 「おい、あいさつくらいしろよ!」 「いいのよ別に!試験前だから緊張してるんでしょ?」  エレノアは妙に優しい声でエブニーザにそう言ったが、全く反応がない。 「違うんだ。人前に出るのが怖いって、部屋から出てこなかったんだよ。だから俺とヘイゼルで無理矢理……」 「ヘイゼル?」  エレノアが怪訝な顔をした。 「ヘイゼル・シュッティファント?」 「そうそう、あの悪名高きシュッティファントだよ。まあ、俺は昨日初めて知ったんだけどさ、名前とあの性格を」 「知り合いなの?」 「残念ながら、俺とエブニーザは奴と同室だ」 「ええっ?」  エレノアが驚いていると、後ろから年配の女性が二人近づいてきた。二人とも、イシュハ・ヴァイオレッドのスーツを着ている。 「そろそろ席に着きなさい。試験が始まるから」  女性がにこやかにそう言いながら、エブニーザを前方の席に押して行った。エブニーザは不安そうに、たまにアンゲルの方を振り返りながら、最前列に近い席まで歩かされていた。 「あの人たち、何?」  エレノアは歩いていく三人を見ながら、あの子と話したかったのになあと残念に思った。 「カウンセラーさ」  アンゲルが疲れた顔をした。 「ちょっと事情のある奴で、精神不安定なんだ。だからカウンセリングに通ってる」 「そう……」  どんな事情があるんだろう?エレノアは気になった。ああ、試験前なのに! 「俺もそろそろ行くよ」  アンゲルは満面の笑みを浮かべると、前の席へ歩いて言った。  あの二人がヘイゼル・シュッティファントと同室……。  ああ、どうしよう、フランシスは関わるなって言ってたのに。  でも、気になるわ。どうしてあんな綺麗な子がこんなところにいるんだろう……?特殊な事情って何だろう……?どうしてあんなに目が真っ白なんだろう?もしかして、盲目?でもふつうに歩いていたし、試験だって……。  エレノアは、試験と全く関係ないことで悩み始めた。  試験終了後、アンゲルはエレノアの姿を探したが、見当たらなかった。学生の数が多すぎて、人ごみに紛れてしまったようだ。エブニーザは試験終了と同時にカウンセラーにさらわれていった。たぶん今から面談でもするんだろう。  見学させてくれって頼んでおくべきだったかな。  アンゲルは思った。試験の最中に気がついたのだが、心理学、特にカウンセリングを学ぶと言うことは、問題のある人間、つまり、エブニーザみたいな人間に対応しなくてはいけないということだ。  人づきあいは嫌いではないが、問題を抱えている人間に対応する自信がない。  今のうちにいろいろやっておかないと、困るだろうな……。  他のたくさんの学生にまぎれて外に出ると、強い日差しに目を細める。  まぶしすぎる!しかも何だこの暑さは!?  アルターはこの日、39度。連日暑い日が続いていて、熱中症で倒れる学生が多いと誰かが話しているのが聞こえた。アンゲルも、少し歩いただけで頭がくらくらしてきた。  管轄区よりはるかに北にあるはずなのに、なぜアルターはこんなに暑いんだろう……?  疑問に思いながら寮にたどり着く。クーラーが効きすぎて今度は寒気がする。 「おー帰って来たかエンジェル氏」  ヘイゼルがソファーに座って新聞を読んでいた。また赤いジャケットを着ている。  そういえば、ずっと同じのを着てるな。お気に入りなのか? 「どうだった?」 「ここは俺の部屋だろ?」 「いいじゃないか、通路みたいなもんなんだから」 「新聞は自分の部屋で読めよ」 「まあまあ、そう怒るな」  ヘイゼルが新聞を振った。 「キュプラ・ド・エラ対イシュハの試合があした、中継されるぞ。食堂のスクリーンが人で埋まる」 「ほんと?」  アンゲルが苦笑いした。管轄区のサッカーチームはすでに敗退していた。 「あそこのチームはほとんどゲイだ。怖いぞ。見ろ。俺はちょっと電話かけるから」  ヘイゼルが新聞をアンゲルに向かって投げると、電話に向かった。 「はーいお元気かなシグノーのご令嬢よ!もうお聞きだろうが俺は生還したぞ!さんざん悪口を言いやがって!このまま追い出すつもりだったんだろうが、お前の思い通りにさせるかってんだ!……あれ?きみ誰?」  勢いよくしゃべりだしたヘイゼルが、急に小声になった。アンゲルは『俺の部屋で延々と長電話されるのか……』と思ってうんざりしながらも、会話が気になったので新聞の影からじっと様子をうかがっていた。 「おお、ルームメイトその35か。え?いや、俺の計算が正しければ君が35人目なんだよ。あの麗しきお嬢様はすぐに人をたたき出すからね。君も今のうちに別な部屋を探したほうがいいんじゃないのかな?神経をやられる前にな」  34人も追い出した?どんなお嬢様だよ?イシュハの金持ちはみんな性格が悪いのか? 「ところで、ご令嬢はどこへおいでなのかな?いやいや、別に探し出そうってんじゃない。俺はしばらく管轄区に留学してたんでね、帰還の報告をしようと思ってね……え?停学?そんなわけないじゃないか。仮にもシュッティファントの人間が!そうそう、俺がヘイゼル・シュッティファントだ。その様子だと俺のことをフランシスから聞いてるな?」  シュッティファントってどれだけ偉いんだろう……とアンゲルは思った。 「ところで君は何て言うのかな?え?アレン?フリノッタ?ややこしい名前だな。いったいどこから来たんだ?え?違う?何だ?ゆっくり発音してくれ……ああ、何だ、エレノアか」  アンゲルは新聞を投げてソファーから跳ね上がった。 「いい名前だけど、同じ名前の女を5人くらい知ってるぞ。ドゥロソの国境近くにはたくさんのエレノアさんがいるんじゃないかな?まあそんなことはどうでもいい」 「おい!代われ!代わってくれ!」  アンゲルはヘイゼルに向かって走り、小声で叫んだ。 「知り合いなんだ!」 「えーと、いや、とりあえず本人に伝言しておいてくれ。それと、君、アンゲル・レノウスって知ってるかな?今後ろで『代われ!』ってわめいてるんだけど」 「ヘイゼル!」  アンゲルの顔が真っ赤になった。  何て事を言うんだこいつは! 「ん?ああそう、列車で会ったのね、なるほどねー」  ヘイゼルがアンゲルを見ながらにやにやし始めた。 「アンゲルは俺と同室だし、君はシグノーのフランシスと同室。つまり俺たちはいやでもお友達ってやつなのよ。フランシスにもそう言っといてくれ。今後よろしくね~!じゃあまた」  ヘイゼルが受話器を乱暴に置いた。 「何で切るんだよ!?」 「先に説明してもらおうじゃないか。フランシスと同室のお嬢さんとはどんな関係かな?」  ヘイゼルがソファーにどかっと音を立てて座り、肘掛にもたれて、楽しそうな目つきでアンゲルを見上げた。 「ここに来るときに列車が一緒だったんだよ。さっき試験会場でも会った。それだけ」 「お顔が真っ赤ですぞ、エンジェル氏」  ヘイゼルが薄眼でニヤニヤしている。面白くてしょうがないという顔だ。 「うるさい!自分の部屋に戻れ!」 「まあまあまあ、どうして俺がそんなことを聞くかと言うとだな、エレノアと一緒の部屋にいるフランシス・シグノーが、とんでもない悪魔だからさ。俺は心配だね」 「悪魔?」  アンゲルは呆れた。 「それはお前だろ?」 「まあまあまあ。とにかくな、シグノーのご令嬢は同室の人間をいじめまくって、神経症にして叩きだすのさ。犠牲者が34人いる」 「だから?」 「言っておくが、俺の数倍すさまじい性格をしているぞ。世界一ヒステリーだ」  アンゲルはエレノアの笑顔を思い出した。今頃いじめられてるんじゃないだろうか?  それに、ヘイゼルよりすさまじい性格って何だ? 「別な部屋に変更できないのか?」 「ここの事務は融通が利かないんだよ。お前もよく知ってるだろ?」 「何の話ですか?」エブニーザが帰ってきた「試験は簡単でした。でも人が多すぎて……」 「多すぎて何だ?」 「授業もあんなに人が多いんですか?」  エブニーザは今にも泣きそうだ。人混みを心の底から怖がっているらしい。 「そんなことはないだろ」  アンゲルは、エブニーザの顔があまりにも真っ青なので心配になってきた。 「今まで何してたんだよ?カウンセリングか?」 「わかりません……」 「わからない?」  ヘイゼルとアンゲルが同時に叫んだ。 「あの人たちが何を聞きたいのか、全然わからないんです……」  エブニーザは疲れ切った表情で、自分の部屋のドアに向かった。 「おいおいちょっと待て」  アンゲルがエブニーザの肩をつかんで止めた。 「カウンセラーに何を言われたんだ?」 「何を……」  エブニーザが目線だけ横に向けた。 「覚えてません」 「はあ?」 「疲れてるんです。眠らせてください」  エブニーザは伏し目がちにアンゲルを押しのけて、部屋に入り、ドアをそーっと、音が立たないように静かに、閉めた。 「なんだよあれは!?」 「俺に聞かれても分からんね」  ヘイゼルが新聞を拾ってまた読み始めた。 「お前、心理学やるんだろ。自分で分析しろ」  アンゲルはエブニーザの部屋のドアを見つめながら、自分がこれから入っていこうとしている世界が、思ったよりもずっと難しく、理解しがたいものだということに気がついた。  ……やっていけるのか、ここで。  ソファーに座り込んで頭を抱えたが、突然気がついたようにとなりのヘイゼル(ソファーに寝そべって新聞を読み始めた)に向かって、 「ここは俺の部屋だぞ!」  と叫んだ。 「そんなに怒るなよ。教会っ子は短気だな」 「お前に短気なんて言われたくないな!」  アンゲルはヘイゼルを睨みつけた。でも、すぐに別なこと―かなり重要なこと―を思いついて、立ちあがった。 「ヘイゼル」 「何だ?」  ヘイゼルは新聞から目を離さない。 「エブニーザは、人さらいの顔を知ってるんだな?」 「覚えてないって言ってたが」  ヘイゼルはあいかわらずスポーツ欄に夢中だ。 「まあ、思い出せれば、わかるだろうな」 「思い出させるんだよ!」  アンゲルがヘイゼルの持っている新聞をひったくって叫んだ。 「それで、犯人を捕まえるんだ!そしたら、他の、行方不明の子供たちも見つかる!」 「新聞を返せ」  今度はヘイゼルがアンゲルの手から新聞をひったくった。 「悪いが、その話はエブニーザにはしないでくれ」 「なんで!?これは大事件なんだぞ、俺たち管轄区の人間にとっては」  アンゲルは興奮気味に、荒い息をしながら尋ねた。 「昔のことを尋ねると」  ヘイゼルがめずらしく穏やかな声でしゃべった。 「パニックを起こして泣き叫んで気を失うぞ」 「えっ?」 「思い出させるようなことはするな」  ヘイゼルは言い捨てるようにそう言うと、また新聞を眺め始めた。  アンゲルはしばらく、反対側に座って考えていた。  思い出すとパニックになる?気を失うだって?でも、前にそんな話を聞いたことがある……たしか、飛行機事故の被害者だ。墜落の日を思い出すと全身が震えて何もできなくなって、それで心理療法士のところに来たと書いてあったな……。  アンゲルは心理学概論の本を手に取り、読み始めた。  今はだめでも、そのうちエブニーザから真相を聞きだして、あの大事件を解決してやるそ!この俺が!  そんな、大それたことを考えながら。 「ヘイゼルが?」  帰ってきたフランシスにエレノアが『奇妙な電話』の話をすると、思った通りの嫌そうな反応が帰ってきた。手には『政治学概論』の教科書を持っている。 「今度かかってきたら、何も答えないで切りなさいよ!」 「でも」  エレノアが瞬きをしながら言った。 「私の知り合いが同室なの」 「ヘイゼルと?」 「ええ」 「男?」 「男子寮なんだから男に決まってるわ」 「そうじゃないわよ!彼氏?」 「違うわ。列車が一緒だったの」  エレノアはそう答えたが、気になっているのは『列車に乗っていた男』ではない。 「同じ部屋に三人いるらしいわ。不便そうね」 「ほっときなさいよ。自分で変なのを連れてくるからでしょ?」 「変なの?」 「シュタイナーのところでできた友達らしいけど、頭がおかしいって噂よ」  エレノアはさきほど見た、天使のような顔の少年を思い出した。 「すごくきれいな子だったわ」  エレノアは、フランシスが何か知らないかと探りを入れ始めた。 「頭がおかしいようには見えなかったわよ?」 「管轄区の支配者どのは変わり者なのよ。シグノーの者の話だと、どこかで倒れていた流れ者を引き取ったって話よ。ただの気まぐれじゃない?」 「倒れてた……」 「なによ、気になるの?そんなにきれいな少年だったわけ?」 「そりゃあもう、見せてあげたかったわ。驚くわよ」  顔を赤らめてうれしそうに話すエレノアを、フランシスは胡散臭い顔で睨んだ。 「悪いけど、どんな美少年だろうと見たくないわね。ヘイゼルがくっついてくるんでしょ?」 「ヘイゼル」  エレノアが思い出したように言った。 「最初、私をあなたと間違えてたみたい。『俺は生還した』とか叫んでたわよ。仲がよさそうな口調だったけど」 「あいつが勝手に付きまとって来るのよ!」  フランシスが教科書でテーブルをバン!と叩いた。 「あいつの話はやめて!それが嫌ならいますぐ出て行ってちょうだい!」 「分かったわ、話はやめる」  やっぱりフランシスはヒステリックだ。エレノアは、ヘイゼルが話していた『追い出された34人』のことを思い出した。ああ、やっぱり私もそのうち追い出されるのかしら?でも、ここ以外に女子寮ってないし、アパートを借りると高すぎてお金が足りないし……。  それにしても、シグノーの家がそんなにお金持ちなら、どうして寮に入るんだろう?アパートを借りればいいのに……そういえば、どうしてシュッティファントみたいな大きな家の息子が、3人部屋の寮になんか入ってるんだろう?  試験の結果はすぐに出た。アンゲルは上級の2年。エブニーザはなんと3年(最高学年だ!)に入っていた。  アンゲルは『心理学ができる!』と喜んだが、発表を横で見ていたエブニーザは逆に、怯えたようなひきつった顔をしていた。  次の日。アンゲルは、心理学を専攻する生徒のオリエンテーションに参加したのだが、説明をしていた講師が生徒の名前と出身地を確認し始めた。席を回って一人一人に「名前は?国籍は?」と尋ねて歩いている。  他の教科ではこんなことなかったけどな……何だろう?  疑問に思っていると、アンゲルの前にも講師が現れた。 「名前は」 「アンゲル・レノウス」 「国籍は?」 「管轄区です」  講師が疑惑の目でアンゲルを睨んだ。 「管轄区?」 「はい」  講師だけでなく、周りの生徒までアンゲルのほうを見た。 「本当に、心理学を専攻するのかね?」  講師は眉をひそめ、念を押すように、アンゲルの顔を覗き込んだ。 「本当にいいのかね?」 「え?ええ、はい」 「でも君、管轄区から来たんだろう?」  講師が手元のメモを見ながら言った。 「はい」 「本気かね?大丈夫なのかね?」  講師だけでなく、まわりの生徒も妙な目つきで自分を見ていることに気がついたアンゲルは、 「大丈夫……だと思いますけど」  と控えめに答えた。  おそらく、管轄区の教会が医学や心理学を嫌っていることを、こちらの人間も知っているのだろう。  講師は不安げな顔のまま壇上に戻っていき、残りの説明を再開した。しかし、アンゲルの耳にはその説明がほとんど入って来なかった。  気になることがたくさんあった。講師の不安に満ちた態度と言葉、『管轄区』という単語に反応して、周りの学生が自分に向けた、妙なものを見るような視線。  オリエンテーションが終わって部屋を出る時にも、アンゲルは自分のあとを追ってくる不自然な視線を背中に感じた。会場を出る直前に中をふり返ってみると、何人かの学生があわててそっぽを向いたり、別な方向に歩きだしたりした。  ……変だな。  気になったのだが、一人一人に『どうしてそんな目で俺を見るんだよ?』などと聞くわけにもいかない。アンゲルは早足で廊下を歩いた。今日行かなければいけないところは他にもたくさんある。  この学校には、いわゆる部活動以外にも「コミュニティ」というものがある。外国からの留学生が多いので、出身地ごとにグループがあり、情報交換が行えるようになっている。  もちろんアンゲルは管轄区出身の学生が集まるコミュニティに参加する……はずだったのだが、入学案内に従って入り込んだ部屋(よりによって、古臭い旧校舎の中でも一番奥の、妙に日当たりの悪い暗い部屋)には、異様な空気が漂っていた。  みんな、机に向かって、手を組んで祈っていた。  テーブルの上に白い、小さな女神像(管轄区の家には必ずある安物の)が置かれていて、それを囲むように学生たち(わざと選んだんじゃないかと思うくらい地味で暗そうな顔ぶれの)が、無言で、目を閉じてうつむいていた。  アンゲルがドアを開いたことに誰も気づいていないのか、単に祈りの最中だから動かないのか、とにかく、全員が同じポーズで、人形じゃないかと思うくらい見事に固まっていた。不気味なほどの静けさが部屋を満たし、息づかいさえ聞こえてこない。  ……このままドアを閉じて、何も見なかったふりをして帰ろう。  とアンゲルは思ったのだが、壁に「アルバイト情報」と書いてある紙がいくつも貼ってあるのが目に入った。  そうだ、アルバイトを探さなきゃいけないんだった。  アンゲルがため息をついたのと、ドアに一番近い学生が目を開けたのがほぼ同時だった。 「誰?」  緑色の目に茶色の髪の、地味な、管轄区にはいくらでもいる平凡な少年が、アンゲルを見て警戒の顔をした。  他の学生も、目を開けて顔を上げ、一斉にアンゲルを見た。 「あ、えーと」  走って逃げたいと思いながら、アンゲルはなんとか声を出そうとした。 「アルバイトを探しに、えーと、俺はアンゲル・レノウスといって、新入生で、一応管轄区から来たんですけど……」 「アンゲル・レノウス?」  一番奥に座っていた、年長そうな大柄な男が立ち上がってアンゲルに近づいてきた。 「もしかして」  別な席の、痩せた生徒が叫んだ。 「ヘイゼル・シュッティファントと同室になった奴か?」 「は?」  なぜここでヘイゼルの名前が出てくるのか、アンゲルは不思議に思ったが、聞き返す間がなかった。  目の前の管轄区人たちが一斉に喋り始めたからだ。 「怒鳴り合ってたって本当?」 「へ?」 「大丈夫なのか?相手はシュッティファントだぞ?わかってるのか?」 「はい?」 「管轄区でいうシュタイナーだぞ?」 「えっ?」 「お前の家はそんなに偉いのか?」 「はぁ?」 「首都に愛人がたくさんいるらしいけど本当……いてっ」  好奇心で飛び出してきた小柄な生徒が、年長の男に小突かれた。 「あんなのと同じ部屋で大丈夫なのか?」  おそらくまとめ役なのだろう、一番落ちついた雰囲気の学生が、坐ったままアンゲルを見上げて質問してきた。 「相当乱暴だって噂じゃないか。校内の物をいくつも破壊してるし、ルームメイトをサンドバッグ代わりに殴りまくって、危うく殺しかけたって話じゃないか」 「ええっ!?」  アンゲルは本気で驚いた。そんな話は聞いたことがない。そもそも、シュッティファントなる単語が何を意味しているのかも、イシュハに来るまで知らなかったのだから(今だってなんのことだか、実はさっぱりわからないのだが)  その場の全員が、今やアンゲルに注目していた。どんな返事を期待しているのかはなんとなく想像がついた。『そうなんですよ。あいつら異教徒は非常識なんです。なんたってアニタ教ですからね。常識も秩序もない』だ。  でも、アンゲルはそうは答えなかった。 「そこまで酷い奴じゃないですよ。確かに性格はおかしいし、喋り出すと延々と止まらないし、髪染めるの失敗してるのに気付いてないし、人の話は全然聞いてないみたいでしたけど……」  部屋はシーンと静まりかえっている。全員がアンゲルを『お前何?』という疑惑と非難の目つきで睨んでいた。 「あ、あのー」  気まずくなったアンゲルは撤退することに決めた。 「アルバイトの広告だけもらって帰りますから」  からみつく視線をふりはらうように、アンゲルは壁際に積んであるアルバイト情報を数枚ひったくり、ドアに向かって走った。  しかし、誰かに服の背中をつかまれ、部屋に引き戻されてしまった。 「まあ待て、ちょっと話をしようじゃないか」 「いや、あの、俺、急いでますんで」  そこでアンゲルは妙なことに気がついた。 「あのー」 「何だ?」 「俺以外に、新入生は来てないんでしょうか?」 「最近の学生は信仰が足りないからな。すぐイシュハに染まって、我々の集会には出てこないのだ」  ……俺も最初から来るべきじゃなかった。  アンゲルは心の底から後悔したが、遅かった。  このあと、管轄区のコミュニティメンバーたち、つまり『敬虔なる女神イライザの信徒たち』は、一斉にアンゲルに向かって『アニタ教の奴らをイライザ教に改宗させよう』だの『布教活動に協力してくれ』『女神のために奉仕するんだ』『イシュハに染まった奴を正しい道に引き戻そう』だのお説教を始めてしまった。  アンゲルは、異常に熱のこもった彼らの演説を聞きながら、うすら寒いものを感じていた。目の前の学生は、この自由主義のイシュハにいるこの若者たちは……管轄区本国にいる学生よりも、数段、狂信的で、信仰に熱心に見えた。何がそうさせるのかはアンゲルには見当がつかなかったが、少なくとも、管轄区で一緒だった学生たちのほうが、まだ信仰に対しては、冷めていた。毎日のルーティンになると、どんな伝統でも信仰でも、つまらなくなるものだ。うまくサボる方法も知っている。それが、この目の前の学生たちときたら……まるで、布教活動が自分の使命だとでも言いたいような熱烈な目つきと態度で、延々と『女神様』だの『道徳』だの『イシュハ人の放蕩』だのを語るのである。  いや、本気なんだ。こいつらはあくまで本気なんだ。本当にそれが『正しい』ことだと思ってるんだ。  俺だって管轄区の人間だ。それはわかる。  しかし何だろう、この得体の知れない不気味さは。  説教からようやく解放されたあとで時計を見ると、3時間以上過ぎていた。  廊下を歩く足がふらついた。軽い吐き気すらしてきた。  気晴らしに敷地内の大型の本屋に入ることにした。管轄区では禁止されている本がたくさんあるはずだ。  こちらにいられる間にできるだけ読んでおこう……。  と思ったのだが、入口から入ったとたん、卑猥な(イシュハ人にとってはごく普通の、水着の宣伝なのだが)女性のポスターに驚いて、アンゲルは外に飛び出してしまった。  何だ?何だ?今のは何だ?どうして入口にあんなものが?いくら自由主義でもあんな露出はないだろう!?いくらアルターが暑いからって!  と思ったら、目の前をほとんど下着のような格好で歩く女性の集団が通り過ぎた。災いなるかな、ビキニやビスチェを普段着として投入するのが、このアルターの最近の流行なのだ。  再び飛びのいたアンゲルは、入口から出てきた男性に衝突した。  男性に謝って、頭を抱えながら帰り道を歩き出すと、今度は女神アニタに扮した女優が、腰に紫色の布を巻いている以外ほぼ全裸(もちろんトップレス)で映っている巨大な広告(ビールを手に持っているので、飲料関係の宣伝だと思われる)が目に入った。大きなビルの壁を覆うほど大きく印刷されて、『アニタが愛したビール』なんていうキャッチコピーが、妙にくねくねした字体で、女優の体の線に沿うように添えられていた。  おいおいおい、なんだあれは?しかもアニタって、女神だろ?  アンゲルのために説明すると、管轄区には写真を使った宣伝がほとんどない。女性のスカートの長さはくるぶしより下と決まっている。女神イライザを広告に使うことは禁じられていないが、それは『そんなことを思いつく不敬な人間がいるはずがない』からだ。  アンゲルはしばらく、この『不謹慎な』広告を見上げて呆然と立ち尽くしていた。  イシュハの『異教の女神』は確かに強敵だ。  自ら脱いでまで、自由をうたっているのだから。  アンゲルは頭を抱えた。  いくら自由な国でも、女神を宣伝に使うなんてどうなってるんだ?  こんな国で本当にやっていけるのか?  エレノアは音楽科のある校舎に向かい、音楽を専攻するための手続きをしようとした。  彼女にとっては夢の第一歩だ。にこにこしながら窓口にやってきた。  しかし、受付の女性の言葉でその笑顔は消えた。 「その顔なら女優か娼婦でもやったほうがいいんじゃない」  エレノアは耳を疑った。聞き違えたのかと思った。しかしそうではなかった。  手続き済みの受領書を差し出しながら、受付の女性はさらに、 「どうせ男が見つかったらやめるんでしょ、歌なんて」  と、吐き捨てるようにつぶやいたからだ。  何なの!失礼すぎるわ!  エレノアは怒りのあまり、書類をひったくって廊下に飛び出してしまった。数人の学生にぶつかりそうになり、 「ごめんなさい」  と謝って通り過ぎようとすると、後ろから声が聞こえた。 「外国人?」 「フェスティバルに出るんですって?審査員に体でも売ったんじゃない?」  ……何だって?  エレノアがふり返ると、学生たちはくすくすと意地悪に笑いながら去って行った。  フェスティバルに出ることをどうして知ってるの?フランシスの知り合い?  校舎を出てやみくもに早足で歩いたが、体が震えているのがわかった。見ず知らずの人間にいきなり侮辱めいた言葉を浴びせられるなんて、納得がいかないからだ。  なぜこんなひどいことを言われなきゃいけないの?  そう思いながら、今度はコミュニティの集まりに向かう。新入生を獲得しようと、部活動や、各国のコミュニティが張り紙を出したり、勧誘担当の生徒が話しかけてきたりする。  エレノアはまず。父の国であるドゥロソのコミュニティに行った。しかし、 「国籍がイシュハ?だめだね」  とあっさり断られてしまった。 「どうして国籍が必要なの?」 「あのね、ここは、ドゥロソからイシュハに来たばかりの、何も知らない人のためのコミュニティなんだ。今紛争が起きていて政情が不安定なのは知ってるよね?」 「もちろん」  イシュハとドゥロソは常に紛争をしている。誰だって知っている。 「ドゥロソ人への差別も激しい。経済的にも困難な学生が多い。そういう人たちが助け合うためのコミュニティなんだよ。君は最初からイシュハに住んでいるんだから、入る必要はないだろう?」 「でも、さっきイシュハの人には外国人って言われたわ」 「イシュハ人は細かいところを見る目がないらね」  軽蔑のこもった目で、ドゥロソの学生が言った。 「とにかくここはだめ。アケパリのほうに行ってみたら?」 「……そうね、その方がよさそうだわ」  ちょっととげのある言い方で別れを告げた後、今度はアケパリのコミュニティに向かった。他の国とは全く違う、独特の雰囲気があたりを包んでいる。 アケパリからの留学生は最近激増しているので、コミュニティもかなり人数が多い。エレノアの視界に入っているだけで、その場に50人以上はいただろう。そのうち半分は、着物や浴衣、異様に長い髪の女性、じゃらじゃらと数珠のようなものを首に幾重にも垂らして『伝統的なアケパリ人』をアピールしている学生、残りは普通に、イシュハ人と変わらない現代の恰好をしている。スキニージーンズにワンピースの女子学生が妙に多い。 「あーだめだめ。アケパリから来た人じゃないじゃん」  黒髪をポニーテールにした受付の女の子が、軽い発音でそう言った。 「そうだけど、母はアケパリ人で、年に2,3カ月はアケパリで仕事をしていたわ」  エレノアは流暢なアケパリ語を発した。 「うわ、めずらしー。超上手いじゃんアケパリ語。イシュハ人って外国語ヘタなのに」  受付の別な子(こちらは髪を金髪に染めていたが、明らかに似合っていない)が叫んだ。 「でもさー、あんた、どう見てもアケパリ人に見えないんだよね」  ポニーテールが言った。 「そうだね~。髪黒いけど肌が白すぎるしさ、目が青いし。美人過ぎるよね」  金髪がポニーテールに向かってつぶやいた。 「わるいけどさ~、あんたはアケパリのコミュに入るような人じゃないと思う」  ポニーテールはエレノアに手で『どいて』という合図をして、後ろに並んでいた別な学生の受付を始めてしまった。  エレノアはがっかりしながらその場を後にした。  大丈夫よ。別にコミュニティに入らなきゃいけないって決まりがあるわけじゃないし、私はここに、音楽のためにやってきたんだから。  音楽。そうだ。  歌おう。  気晴らしに歌いはじめた。思いつくメロディーを適当な発声で。 しかし、歌を口ずさみながら帰り道を歩いていると、通りすがりの学生に、 「うるさい!」  と怒鳴られてしまった。  あわてて走り、女子寮の自分の部屋で歌った。  すると今度はフランシスがエレノアのドアを開け、凄まじい目つきで睨みながら『うるさい!』と怒鳴ると、乱暴にドアを閉めた。その振動で部屋中の空気が揺れた。  窮屈すぎる。そして他に行くところもない……。  エレノアは枕の上に突っ伏してうめいた。  それまで、歌は普通に、エレノアの生活の中に溶け込んでいたからだ。  歌う場所がないなんて苦痛すぎる! 「世の中って言うのはそういうもんだよ」  母に電話をすると、そんな答えが返ってきた。 「一つ成長したじゃないか」  母ヤエコ・ノルタは優しい女性なのだが、エレノアが甘えたいときに限って妙にそっけない態度を取るのだ。そんなことたいしたことないじゃない、何を悩むの?と。  ため息をつきながら受話器を置くと、フランシスが後ろに立っていた。 「今の誰?」 「母」 「いいわね」 「何が?」 「なんでもないわ」 「フランシスのお母さんは何をしているの?」  エレノアは何気なく訪ねたのだが、フランシスの顔色が急に変わった。 「何って……ただのご婦人よ!そんなこと聞かないでよ!」  と叫んだかと思うと、自分の部屋に閉じこもってしまった。  ……散歩でもしよう。ここにいても気分が晴れないわ。  エレノアは帽子を手にとって、外に出た。  図書館の近くまで歩く。あいかわらず暑い。汗が頬や背中を流れてくる。 手の甲で汗をぬぐいながら、ふと前方を見ると、大きな楽器ケースを持ち歩いている生徒が目に入った。エレノアは走り寄って声をかけてみた。 「音大の学生ですか?」 「へ?」  いきなり声を掛けられてびっくりしたのか、学生が背負っていたケースがぴくりと揺れた。 「ああ、そうですけど、何か?」 「私、音楽科に入学したばかりなんですけど、練習する場所がないんです。部屋で歌うと『うるさい』って言われてしまうし……」 「ああ、そういうこと」  学生の表情が急に優しげになった。 「俺が入学した時も困ったんだよ。音楽科の中に防音ブースがあって、授業が始まる前でも使えるよ」 「本当?」  エレノアの目がきらきらと輝いた。今日初めて何かが上手くいきかけていると感じたからだ。 「誰も教えてくれないから、俺は気付くのに1カ月かかったけどね」  学生が苦笑いした。 「どうも、ライバル心と言うのか意地悪というのか、あの音楽科には異様な雰囲気があるよ。入ってみればわかると思うけど」  もう十分意地悪なことを言われたわ!  とエレノアは思ったが、口には出さなかった。 「ありがとう!」  エレノアは音楽科に向かって走り出した。校舎にたどり着き、壁の案内図を注意深く見る。確かに『防音ブース』と書かれている場所があった。 「ああ、空いてますよ、ピアノは必要?」  受付のおばさん(こちらは普通に愛想がいい)の声は妙にのんびりしていた。 「あったほうがいいけど、なくても平気よ」  エレノアは逆に早口でそわそわしていた。一刻も早く大声で歌いたい! 「7番が空いてるわ。これカギ。狭くて、ピアノは電子だけど」 「かまいません!」  エレノアはカギをひったくると、目指す部屋に向けてすさまじい勢いで走って行った。  7番と書いてあるドアを開け、中に飛び込んで勢いよくドアを閉めた。そして歌いだすどうでもいい歌。自分でも何が言いたいのかよくわからないでたらめな歌詞で、思いつくままにメロディーを歌った。エレノアにとってはこれが息だった。呼吸ができなくなったら人間が死んでしまう。エレノアは、自分が窒息しかけていたことに気がついた。あまりにも長い間(といっても数日だが)『息ができなかった』から!  一時間ほど歌っただろうか。そろそろ喉に負担がかかってきたと思い、エレノアがブースを出ようとドアを開けた……そして、はっとした。  ドアの前に、たくさんの学生が集まって、一斉に自分を見ていたからだ。驚きと、軽蔑と、嫉妬のこもった目つきで。  何?何が起きてるの?  エレノアは一瞬ひるんだ。心臓がバクバクと打ち始めた……が、すぐに廊下を歩きだした。 「あいさつもしないの、態度悪い」 「才能があるからってお高ぶってんじゃないよ」  後ろからそんな声が聞こえた。それでも歩き続けた。  人混みからはすぐに離れたが、なかなか落ちついて息ができなかった。  音楽科は異様だ、とさきほど言われたことを思い出した。確かに、何かがおかしい。でも、何がおかしいのだろう?はっきりと原因がわからないことが、エレノアをますます混乱させていた。一体なぜ、音楽科の生徒たちはあんな目で自分を見るのか?どうして知りもしない人間にあんな悪口を言えるのか?  夢中で歩いているうちに、図書館の近くのカフェにたどりついた。そうだ、コーヒーでも飲もう。少しは落ち着くだろう……。 「アンゲル?」  夕方、アンゲルが図書館の近くを通りがかった時、どこからか自分を呼ぶ声がした。回りを見渡すと、大きなつばのある紺色の帽子をかぶった女性が、カフェの前のベンチに座って、こっちに向かって手を振っていた。 「エレノア!」  アンゲルは久しぶりにさわやかに笑った。頭に付きまとっていたコミュニティの暗い雰囲気が、一瞬で消えた。  しかし、エレノアが沈んだ顔をしていることに気がついた。 「何かあったのか?」 「ダメだったわ」  エレノアが寂しそうに笑って下を向いた。手に持っているコーヒーカップを無意味にくるくると回している。 「何が?」 「音楽科の人が意地悪で仲良くできそうにないし、それに……」 「それに?」  エレノアは視線を下に向けて、何かを迷っているように見えた。 「コミュニティよ!」  突然思いついたようにエレノアが叫んだ。 「アンゲルは管轄区出身だから、管轄区のコミュニティに入れるでしょう?」 「ああ、あれか」  アンゲルはさっきの『狂信的な女神の信徒の集会』のことを思い出して顔をしかめた。 「そんなにいいもんじゃない。出身は同じでも、気が合わない奴ばっかりだ。俺は関わりたくないね」 「そんなこと言わないでよ。どこにも入れない人もいるのに」 「どういう意味……あ」  アンゲルは突然あることを思い出した。 「エレノア、たしかご両親が違う国の出身だよね?」 「それよ」  エレノアがアンゲルの目をまっすぐに見つめた。やはりどこか心細いような表情をしているが、そんなエレノアもやはり美しくて、アンゲルは見とれた。 「アケパリのコミュニティに行ったら『目が青いからダメだ』って言うの。ドゥロソに行ったら『国籍がないからダメ』って」 「心の狭い奴らだな」  アンゲルはこころもち横を向いて笑った。まっすぐ見つめられると本心を見抜かれてしまいそうだ。それにしても、目の色?国籍だって?たかがコミュニティに? 「エレノア」  アンゲルはできるだけ優しげな表情を作った。 「君って、どこの国籍も持っていないの?」 「私はイシュハで生まれたから、国籍はイシュハなの」 「イシュハ」  管轄区だったらよかったのに、とアンゲルは思ったが、黙っていた。 「でも両親は自分の国の国籍を持ったままよ。だから、バラバラなの」  エレノアが、いつかの列車の中のように、ベンチの隣を指さして『座ったら?』という仕草をした。  アンゲルは勧められるままに隣に座った。やはり花のような香りがする。 「ずっと旅をしてたの?」 「そうよ。世界中を回ったわ。管轄区以外ね」 「えっ?」 「父はドゥロソ人なのよ?ドゥロソはイシュハと同じ女神アニタを信じていて、管轄区の女神イライザが気に入らないみたい。私も母もそんなのくだらないって言ってるんだけど、頑なに嫌がるの」 「ええっ」  そんな頑固な父親がいるのか。説得するのが大変だ……待て。  俺は何を考えているんだ?  アンゲルが、空想を追い払うように頭を勢いよく振った。 「どうしたの?」 「いや、いや、俺は管轄区の出身だから、ちょっとした衝撃を受けた」 「そう……でも、私は管轄区に行きたいと思ってるのよ」 「ぜひ来てほしいね」  アンゲルが乱れた髪を整えながら、エレノアに笑いかけた。 「イシュハの連中は、メルヘンだとか遅れてるとか田舎だとかさんざん言うけど、いいところだよ」  熱烈なイライザ信者がいること以外は!とアンゲルは心の中でだけ付け足した。 「アンゲルはどうしてイシュハに?」 「え?」 「管轄区にも心理学を学べるところはあるでしょう?」 「ないよ」  アンゲルはうんざりしながら答えた。あまり考えたくなかったが、事実だ。 「ない?」  エレノアは心から疑っている顔をした。 「人間の悩みは女神イライザと関わりがあるってことになってるんだ。何か意味がある。女神が何かを伝えようとして人間に苦悩を与えているとか、困難には女神の意思が働いているとか、何かの罪で病気になるとか何とか。何でもそんな調子だ。だから心理学どころか、医学だってたいして進んでない。医者なんてめったに見かけない。小さな国でもやってるような、当たり前の医療保険もない。カウンセリングなんて誰も知らないよ」 「そうなの?」  エレノアは本当に驚いているようだ。 「管轄区って、精神的にとても真面目なイメージがあるけど」 「真面目」  アンゲルがうんざりしたようないいかげんな発音で、その単語を発した。 「まるで他にいいところがないみたいだな」 「そんなこと言ってないわよ」 「今までで、一番良かった国はどこ?」 「え?」  いきなり話題が変わった。アンゲルはこれ以上管轄区の話をしたくなかった。遅れていて、古臭くて、真面目。それは、アンゲル自身うんざりするほど味わっているあの国の欠点だった。 「今まで……アケパリ。人がみんな親切だわ。あまり感情を表に現さない国だから、曲芸にも歌にも歓声をあげたりしないの。曲芸の最中もシーンとしているし。歌っている間も、奇妙な目つきでじっと私を見つめているだけ。歌が気に入らないのかしらって不安になったわ。でも、みんな真面目に見てくれていて、ぜんぶ終わってから、地面が揺れるようなすごい拍手をしてくれるの。しかも気前よく贈り物をくれたり、舞台に向かってお金を投げたりするのよ!(曲芸師に向かって小銭を投げる習慣があるらしいわ)雇い主にもらった報酬より、観客が投げた金額の方が多かったの。本当よ」 「アケパリ」  アンゲルはこの国のことをほとんど知らなかった。 「イシュハと戦争してたよね?」 「そう。おかげで私、イシュハ人にいじめられるの」  エレノアがそう言いながら苦笑いをした。 「フランシスも……同じ部屋の子も、最初の日に『アケパリとドゥロソ?どっちもイシュハと戦争をした国じゃないの!』みたいなことを言ってたわ」 「そんな奴気にする必要ないよ。管轄区なんか百年も戦争してたぞ」  アンゲルは100年戦争を思い出す。  イシュハと管轄区、女神アニタと女神イライザの戦いだ。お互いの信仰をかけた熾烈な殺し合い。しかし現代では『女二人のケンカ』などと揶揄されている。  いるかどうかもわからない『女神』のために、100年も、殺し合いをしてたんだな。  アンゲルは考えずにいられない。  その、無駄に費やされた年月と、失われた人命を。  戦争ではうまく引き分けに持ち込んだのに、今じゃこんなに差がついている。  どういうことだ?  アンゲルは、何もかもが進んでいるイシュハと、自分の国の古臭さを比較して、気分が暗くなった。 「100年戦争ね。イシュハって、どの国とも戦争してるわね」  エレノアが立ちあがった。 「話を聞いてくれてありがとう。コミュニティなんてなくても私は一人で歌うわ。それとも、『マイノリティー限定』のグループでも結成しようかしら?」 「俺も入れてよ」  俺は女神を信じてないんだよ、だから管轄区の連中と同じところにはいられないんだ。アンゲルは心の中でつぶやいた。 「あなたは必要ないでしょ」  エレノアがまぶしいほど美しい笑いを浮かべて、駈け出した。 「フェスティバルで歌うことになったの!聞きに来て!」  アンゲルは走っていくその後ろ姿を見ながら、一人考えていた。  女神アニタ……強敵だな。国籍と親父をつかんでいるとは。  でもいい感じじゃないか?明らかにエレノアは俺に好意を持ってるぞ……。そうじゃなきゃ、あんなすばらしい笑顔ができるもんか!管轄区に行きたいって言ってたし……。  やはり何かを勘違いしながらニタニタと笑い、一人うきうきしながら道を歩くアンゲルを、何人かの学生が、不審な顔で遠巻きに眺めていた。   エブニーザは、授業中も、廊下を歩いている時も、常に女の子がきゃあきゃあ言う声や、回りのざわつく音に怯えて、手が震え、足はすくみ、顔は真っ青になり……。  授業が終わるや否や、全力で走って部屋に戻った。  そのまま部屋にこもって本を読む予定だったのだが、ヘイゼルがやってきて彼をいろいろな所に連れ回した(正確に言うと『引きずり回した』)ため、今は疲れ果てて、ぐったりと横になっていた。  どうして、こんなことになってしまったんだろう?  エブニーザにはどうしても理解できなかった。わざわざ外国の学校に連れて来られ、うるさい人ばかりの授業(周りの学生の様子から、講師の話を真面目に聞いていたのは自分だけだと確信していた)に出なければいけないのか?  ヘイゼルは『彼女』のためだって言ってたけど……。  エブニーザの思考はそこで切り替わる。  彼女。  目つきがぼんやりしはじめた。彼はもはや自分の部屋にはいなかった。 どこか遠くの、薄汚れた部屋を見ていた。そこに、ぼんやりと座っている女の子……髪と目が茶色で、痩せていて、あごがとがっていて、窓の外を何も感じていないような無表情で眺めている……。  ああ、また窓の外を見ているんだな。  エブニーザがそう思って薄笑いを浮かべた。  その瞬間、映像は急に切り替わる。薄暗いが照明があり、両側に本棚があって、そこを奥まで進んでいくと、誰も使われていない、古代の書物や、化石が並んでいる部屋がある……。  20分後。エブニーザは学校の図書館の奥深く、誰も使っていない古代の資料室の中にいた。夢で見たとおり、その部屋はあった。何もかもにほこりがかぶっていて、置いてある本もことごとく、数百年は前のものばかり。  どうやら、何年も使われていない部屋のようだ。  勝手に戸棚を開け、何百年も前に書かれたと思われる、手書きの黒魔術の本を見つけて読みふけった。  どうしてそんなものを自分が手に取っているのかはわからない。  しかし、ここが一番安全なのだ。少なくともこの学校の中では。  エブニーザは心から思った。本や、自然や、夜の闇の神秘に、溶け込んでしまって、二度と出てこなくても済んだら、どんなに幸せだろうと。  しかし、平和な時間に終わりがあることも、エブニーザは知っていた。  夕方には、探し回っていたヘイゼルに見つかり、寮の食堂まで引きずられていった。そこでも食器を落としたり、びくびくして全然食事が進まない。まわりの物音、話声、そんなものに耐えられず、結局、ほとんど食事に手をつけずに走って部屋に逃げてしまった。  ヘイゼルは食べ終わってからゆっくりと帰ってきて、エブニーザの部屋をノックしたが、返答がない。  ドアには鍵がかかっておらず、中に入ると、エブニーザはベッドに、倒れ込んだようにうつぶせになって、ぐったりと眠っていた。 「こりゃ、思ったより厄介だな」  とヘイゼルはつぶやいた。  ヘイゼルが部屋を出ると、そこに帰ってきたアンゲルが突然、 「この国の広告はどうなってるんだ!?」  と叫んだ。 「広告?」 「ビールの、なんか、素っ裸のだよ!!」 「ああ、あれか」  ヘイゼルがうんざりした顔をした。 「あれが何かな?まさか、不道徳だとか女神がどうとか言うんじゃないだろうな、真面目な教会っ子め」 「うっ……」 「だから管轄区は嫌なんだよ」  ヘイゼルが軽蔑の声を発した。 「くそ真面目にイシュハを批判するくせに娼婦の数は世界一だろ。トップレスの広告くらいで驚くなよ」 「そういう問題じゃないだろう!……今何て言った?」 「娼婦の数が世界一」  ショックを受けた顔のアンゲルに、ヘイゼルがいかにも愉快そうな顔で繰り返した。 「娼婦の数が世界一多いんだろ、管轄区は」 「管轄区にそんな職業はない」 「ハア?」  ヘイゼルがあからさまに呆れたような大声を上げた。 「何をバカなことを。娼婦のいない国なんてあるわけないだろ?知らないのか?イシュハの倍だぞ?しかも、イシュハの場合はみんな自分から志願して保険もついて、男から大金を巻き上げられる華々しい職業だが、管轄区じゃ、貧しい家の娘がタダ同然で売られてるんだろ?」 「そんな話は聞いたことがない」  アンゲルは本当に衝撃を受けているようだが、そんなことで攻撃の手を緩めるようなヘイゼルではない。 「聞いたことがない?まあ、確かに管轄区のメディアは教会様女神様シュタイナー様だからな。報道はされないし新聞にも載らないだろうな。でも、そういう話は生きた人間の間では隠しようがないものだろ?知らないはずないだろ?親父とか学校の奴から聞いたことないか?そこらへんのおっさんとか」 「ないよ」  アンゲルがかすれた声でつぶやいた。 「本当にない」 「本当はそういうのが好きなんじゃないですかぁ、エンジェル氏」  ヘイゼルがにやにやし始めた。 「うるさい!俺は勉強しに来たんだ!」 「イシュハに留学してきた奴はみんなそう言うよ。でも本当は自由に遊びたいだけなんだろ?知ってるか?このアルターでは、非行で捕まる奴はたいてい、外国から『勉強しに』来た奴らなのだぞ?麻薬の密輸入も暴行事件も、この変じゃほとんど外国から来た留学生の仕業なのだぞ?迷惑極まりない連中だ!勉強したきゃ自分の国でやれってんだよ。今時どこの国にも大学くらいあるだろうが。なんでわざわざイシュハに来るんだよ」 「心理学の学校があっちにはないんだよ!」  おもしろおかしく喋っていたヘイゼルが、突然真面目な顔になった。 「……本当に心理学やるのか?」  その表情の変化にアンゲルは一瞬ひるんだが、すぐに言い返した。 「うるさい!お前こそ勉強しろよ、ティッシュファントム!」 「ティッシュファントムって言うなぁぁ!!!!」  建物中に響くヘイゼルの怒鳴り声。アンゲルも次々と怒鳴り返し、結局大げんかに発展した。  二人の怒鳴り声でエブニーザは目を覚ました、そして、 「似てるな……あの二人」  枕に向かってうめきながら、ぼそりとつぶやいた。  音楽科のオリエンテーションが終わった。  エレノアは困り果てていた。学科の内容がわからないからではない。新入生テストの結果は上級1。音楽科に所属するには問題のない成績だ。問題は……他の学生が、エレノアを避けるのだ。話しかけようとして近づくと逃げて行き、無視され、どこからか消しゴムや、丸めた紙が飛んでくる……。  ぐったりした顔で建物から出た時、 「おーい、そこの青目に黒髪の美人さん」  という、時代がかったアケパリ語が聞こえてきた。  声がした芝生の方向を向くと、見るからにアケパリ人らしい、細いつり目、黒いツンツンした短髪に浅黒い肌の青年が近寄ってきた。目の端にばんそうこうが貼ってあり、ギターのハードケースをしょっている。  青年はケンタ・タナカと名乗った。前日、ギターの練習中に、エレノアの歌声が隣のブースから聞こえてきたのだが、 「あまりに素晴らしい歌声だったから、本人に伝えたくて」  照れ笑いしながらそんなことを言うケンタに、エレノアは嬉しくなった。音楽科でまともに話してくれる人間に初めて出会ったからだ! 「私の母もアケパリ人なのよ」 「じゃ、これ、読める?」  ケンタはギターケースの中からぼろぼろのプリントとペンを取り出し、裏に自分の名前を漢字で書いてエレノアに見せた。  田中健大。 「これ『ケンダイ』じゃないの?」 「いや」  ケンタがにんまりと笑った。 「人名の場合はこれで『ケンタ』なんだ。漢字が読めるってことは本物だな」 「それ、どうしたの?」  エレノアはケンタの目の端についているばんそうこうを指さした。 「アケパリ嫌いのイシュハ人に襲われた」 「えっ?」 「財布取られた。でも、ギターと腕を守ったから俺の勝ち」  ファイティングポーズを取って笑うケンタ。エレノアもつられて笑う。  なんだかおもしろそうな人だわ。  ケンタはこれからギターの練習があると言って、校舎に入って行った。  寮に帰ると、フランシスがキッチンのテーブルに分厚い本を何冊も広げて何か書いていた。政治学の宿題らしい。 「フランシス」 「何?」 「一つ聞いていい?」 「何?」 「お金持ちなのにどうして寮に入ってるの?」 「そういう規則だからよ」  本から顔を上げずにフランシスが答えた。 「学生は全員寮に入るって決まってるの。親の財産は関係なくね。自立を促すんだったか何だったか知らないけど、そんな理由よ。それくらいで自立できたら誰も苦労しないわね。そう思わない?」 「そうね」  フランシスの言葉には妙なとげがある。機嫌が悪いのだろうか?  あまり刺激しないほうがよさそうだと思い、エレノアは自分の部屋に向かった。 「ただ、ノレーシュの姫君だけは例外で、別荘から車で通ってくるの」 「ノレーシュの姫君?」  部屋に戻ろうとしていたエレノアがふり返った。 「学校にいるの?」 「紹介してあげるわ。家同士でつきあいがあるから……でも、変人だから覚悟しといてね」  フランシスは最後まで顔を上げなかったが、エレノアは気にしていなかった。  本物の王族に会える!  エレノアは興奮してその日は眠れなかった。窓辺でぼんやりと街の明かり(なんて綺麗なんだろう!そして、この明かりの数だけ、まだ起きている人がいるということなのだ!)を眺めていると、部屋のドアが急に開いて、古風なネグリジェ姿のフランシスが入ってきた。 「眠れないのよ」  フランシスは小さな声でそうつぶやきながら、エレノアのベッドの端に座った。  エレノアも起き上がって、フランシスの隣に座った。  それからしばらく、フランシスは下を向いたまま、何も話そうとしなかった。手だけが何か、落ちつかないような、迷っているような仕草でたえず動いていた。  どうしたんだろう?  エレノアはしばらく、フランシスの隣で何かが起きるのを待っていたが、いくら待ってもフランシスが動かないので、 「私、寝るわ」  と、ベッドの中に戻ろうとすると、突然フランシスがエレノアの手をつかんだ。 「お願いだから出て行かないで」  フランシスらしくないセリフだ。  エレノアは驚いた。出て行こうなんて一度も言ったことがないし、考えたこともなかったからだ(追い出されそうだなと思ったことは何度もあるが)  しかも、今目の前にいるフランシスは、別人のように弱々しい。 「自分がヒステリーなのはわかってるのよ。何にでもイライラする、でも自分でもどうしてかわからないの」  エレノアが何を言っていいかわからず黙っていると、フランシスがさらに続けた。 「命令されるのが嫌いなの。自分で決めたいの。家に帰ったら何でも親に決められてしまう。人の言うとおりにすると不安になる。たいしたことじゃなくても、相手の方が正しいってわかってても、『いやだ』と言わないと、そのまま相手の意思に取り込まれて、自分がなくなってしまいそうで……」 「それで、ルームメイトを何人も追い出したの?」 「追い出したんじゃないわ!勝手に出て行ったのよ!」  金切り声で叫び出したので、エレノアは慌てた。 「落ちついて」  エレノアはできるだけ優しい声でそう言って、フランシスの背中をさすった。 「私は出て行かないわ」 「本当?」 「本当。だからもう叫ばないで。寝ましょうよ」  エレノアはブランケットを広げ、フランシスを寝かせると、自分もそーっと隣にもぐりこんだ。  そのうち、フランシスは寝息を立て始めた。嘘のようにあっさりと。  ……何だろう、この人。  すごく、さみしがりやなのかしら、それとも単に成長してないのかしら?  なんだか知らないけど、これから面倒なことになりそう……。  エレノアは、静かに眠っているフランシスの顔を眺めながら、これから来るであろう災難(具体的に何が起こるかはわからないが)を思って身をよじらせた。  次の日、アンゲルは列車でポートタウンに行き、バイトを募集していたレストランに行ってみた。  最初にやってきたときと同じように、人と車の量に圧倒された。やたらに目に着く広告と、派手な格好(というより『下着姿同然』)の女性たち、異常に早足で、ぶつかったら何メートルかふっとばされそうなほど勢いよく歩いている人の群れ……。  アルバイト広告を見ながら歩いていたアンゲルは、だんだん気分が悪くなってきた。  ……だめだ、早く見つけないと。  それからさらに数十分ほど迷った末、目的の店(レストラン)はなんと、ポートタウン駅のすぐ裏にあることが分かった。  無駄に歩き回った疲労でぐったりしながら店のドアを開けると、中は客でいっぱいだった。かなり繁盛しているようだ。 「あのー」 「何名様ですか?」 「いえ、アルバイトの募集を見て来たんですが」 「ああ、アルターの学生?」 「はい」 「奥に店長がいるから、ヒゲの」  ウェイトレスがカウンターの隣のドアを指さした。 「その人に話して、たぶんあっという間に決まるから」 「はあ……」  あっという間に決まる?どういうことだろう?  疑問に思いながらドアの中に入っていくと、そこには驚くほど大量の食器(しかも使われた後らしく、汚れている)が積まれていて、シンクには、必死で食器を洗っているヒゲの生えた太った男と、隣で食器をふいているかわいらしい女の子がいた。 「あのー」  ヒゲの生えた男がアンゲルの方を見た……かなり殺気立った目つきで。 「アルバイトの広告を見て来たんですが……うわっ」  アンゲルが話し終えるのを待たずに、ヒゲがアンゲルをつかんで、シンクの前まで引っぱって行った。 「洗ってくれ!客が多くて追いつかない!」 「えっ?」 「俺はディナーの準備をする!」  ヒゲはそう叫ぶや否や、ドアの外に飛び出して行った。 「ちょっと待ってください!面接は……」 「面接、ないわよ」  隣で皿を拭いている女の子がそう言って笑った。 「ない?」 「そんな時間ないの。人が足りないのね。だから早く皿洗った方がいいわよ。こうしている間にも……」  ドアが開き、ウェイターがまた『洗いもの』を大量に持ってきた。 「ね?」  呆然としているアンゲルに向かって、女の子がウインクした。  それから夜中まで、アンゲルは延々と皿を洗い続ける羽目になった。給料はどうなってるんだとか、契約はどうなってるんだとか、そんなことを考える余裕が全くなかった。そうとう繁盛している店らしい、洗っても洗っても、食器の山は減ることがなかった。 それでも、皿を拭いている女の子とはいろいろ話ができた。ソレア・アークという綺麗な名前で、実は彼女も管轄区出身だった。 「ここに来る前に、すごいことがあったのよ」 「すごいこと?」 「入学金を振り込みに銀行に行った時、3人組の男につかみかかられて『金をよこせ』って」 「えっ?」  アンゲルは驚いて手元の皿を落としそうになった。 「まさか一人で大金持って歩いてたんじゃないよね?」 「それが……父が仕事で手が離せないって言うから、一人で歩いていたの」 「そりゃ、襲われるだろ」  管轄区は治安が悪い。夕方6時を過ぎると自主的に外出を控える。『襲われる可能性が高い』からだ。昼間でも、女の子に大金を持たせて一人で歩かせるなんてありえない。 「でもね、通りがかりの、黒髪で怖い目の男の人が、三人を追い払ってくれたの!」 「へー」  アンゲルは白けた返答をしたが、ソレアはあまり気にしていないようで、興奮気味に話は続いた。 「しかもね、『あなたは誰?』って聞いたら『家に帰って、最近大きな強盗のニュースが入ってなかったか聞いてみろ。財閥の金庫を破った奴の話が聞けるだろ。それが俺だよ』なんて言うのよ?それでうちに帰ってから母に聞いてみたら」 「金庫破りの犯人だったの?」 「そう!」 「警察に通報したよね?」 「しないわ」 「えっ?」  洗剤の容器を強く握りすぎて、緑色の液体が天高く跳ねあがった。 「だって助けてもらったのよ?それに、金庫の持ち主は前から評判の悪いいやな人だったし。いいじゃない」  ソレアはそこで言葉を切って、飛び散った洗剤を吹くと、両手を組んでうっとりしたような顔をして、こう言った。 「きっと、私が毎日女神様にきちんと祈っていたから、助けを呼んでいただけたのよ」  ……ほんとに女神様がいたら、そもそも道で襲われないし、金庫破りなんてものがこの世に存在してないと思うけど。  アンゲルはそう言いたかったのだが、黙っていた。  相手はごく普通の(あくまで『管轄区での』普通だが)女神の信徒なのだ。本人が『女神が助けてくれた』と信じているのだから、何を言っても無駄だろう。  アンゲルは急に疲れを感じ始めた。それまで全く気にしていなかったのに、洗っても洗っても一向に減らない皿やカップが異常に憎らしく思えてきた。 どうしてイシュハに来てまで、管轄区の奴に出会わなきゃいけないんだろう……。  時々後ろの調理場から、シェフたちの会話が聞こえたが、その内容はこうだ。 「シュッティファントがまた企業買収を始めたらしい」 「またシュッティファントか!」 「何でも一人占めしやがって」 「いや、あれがイシュハだよ。シュッティファントはまるでイシュハそのものさ。欲望のままに奪い取る……」  どうやら『シュッティファント』という単語には良い印象がないらしいな。それにしても『欲望のままに奪い取る』ってすごいな……そんなに悪い奴らなのか?  皿を洗いながらアンゲルはそんなことを考えた。  ようやく閉店の時間になり、客が帰った後、ヒゲの店主と掃除をしながら時給と契約内容を確認した。学校が終わった後、夕方から、週4日の勤務で寮の費用は賄える。しかし店主が『忙しいから週5で着てくれないと困る』と言ったので、結局、土曜日を含めて5日ということになった。  やっと帰れる……。  疲れ果てたアンゲルが店を出ようとすると、ソレア・アークが、 「女神のご加護を!」  と言いながら手を振って去って行った。死ぬほどかわいらしい笑顔で。  もちろん彼女は悪意があってそんなことを言っているのではない、ただのあいさつだ。しかし、アンゲルはますます疲れ果てて、足元がふらついた。 「いないだろ、女神なんか……」  弱々しくつぶやく。 「しかもここは、イシュハだぞ」  イシュハ。そうだ。ここはイシュハなんだ。自由の国のはずだ。なのにこっちに来て以来、ろくな目にあっていない気がする。ルームメイトはティッシュファントムだし、管轄区のコミュニティは異様だし、異教の女神様は脱いでるし、バイトの女の子まで『女神のご加護』とか言ってるし。  そして時計を見ると、終電の10分前だった。  あわてて駅まで走る。なんとか間に合った。列車に乗り込んですぐ疲れで眠り込んでしまい、あやうくアルターを寝過ごすところだった。 「おおーようやくご帰還か、エンジェル氏」  アンゲルが部屋に戻ると、ヘイゼルがソファーを占拠して新聞を広げていた。  時刻はすでに夜中の1時。 「ここは俺の部屋だろ!?」 「またそれか。いいかげん慣れろよ。ソファーがあるんだから憩いの場でもあるのさ」 「おい……」  アンゲルがヘイゼルに詰め寄った。 「前も言ったけどな、俺はイシュハに勉強しに来たんだ。遊びに来たわけでも、のんびり憩いにきたわけでもない!」 「まあ怒るな、怒るな」  ヘイゼルがふざけた声を出した。 「今日は俺だって大変だったんだぞ?エブニーザをいろんなところに案内してだな」 「案内じゃないだろ?連れ回したんだろ?お前の事だからな!」 「人聞きが悪いな」 「そういえば、コミュニティで変なうわさを聞いたぞ」  アンゲルは言うべきか迷ったが、聞いてみることにした。 「前のルームメイトをサンドバッグ代わりにしたそうじゃないか」 「ああ、あれか」  ヘイゼルはつまらなさそうにそっぽを向いた。 「あれはあいつがとんでもないバカだったからさ」 「そんな理由で人を殴るなよ!」 「まあまあ、そんなのはあくまで昔の話だろ?確かに去年の俺はひどい奴だった。被害総額は計り知れない。でも今年は違うさ」 「何が違うんだよ」 「色々あったんだよ、シュタイナー爺さんのところでな」  ヘイゼルが右手の人差し指を立てて、振った。 「エブニーザに出会うまで、俺の辞書には『同情』とか『配慮』っていう言葉がなかったんだよ」 「……今もないだろ?」 「まあまあまあ……」  ヘイゼルが、出て行こうとしたアンゲルをにこやかに止めた。 「あいつに出会って初めて『世の中には、誰かがなんとかしてやらないとどうにもならないかわいそうな人間がいる』ということに気がついたわけだ。それまでは、周りの連中はみんなクズだと思ってたよ」 「……今でも思ってるだろ?」  アンゲルは、今までのヘイゼルの言動をひととおり思い出してみたが、そのどれからも、人を小馬鹿にしたような印象しか得られなかった。 「思ってるけど、質が変わったんだ。説明しにくいが……まあ、安心したまえ。エブニーザとエンジェル氏は殴らない。約束しよう」 「エンジェル氏って呼ぶのやめろ、ティッシュファントム」 「ティッシュファントムじゃない!シュッティファントだ!」  ヘイゼルがまた例のすさまじい怒鳴り声を発して、アンゲルの胸ぐらをつかんだ。興奮で目の血管が浮き上がっている。 「だったら俺のこともエンジェルって言うな!」  アンゲルはもがきながらも、同じくらいの大声で言い返した。 「怒鳴るのもやめろ!耳がおかしくなる!」 「何の騒ぎ……あ!」  部屋からエブニーザが出てきた。 「何やってるんですか!」 「あー心配ない、心配ない」  ヘイゼルが急に力を抜いてアンゲルを床に放り出した。 「ちょっとした権力闘争だ。もう終わった」 「何が権力闘争だ!?」  アンゲルが床に転がりながらわめいた。 「ここは俺の部屋だぞ!」 「まーだそんなこと言ってんのか?」  ヘイゼルが呆れた顔で、床に転がっているアンゲルを見おろした。 「あのー」  エブニーザがおずおずと言いだした。 「やっぱり僕の部屋を使ったら……」 「ダメ!」 「許さん!」  アンゲルとヘイゼルが同時に叫んだ。エブニーザは困惑の顔で瞬きした。  同じ日、エレノアの機嫌を取りたいフランシスが、めずらしく自分からヘイゼルに電話をかけようとしていた。  確か、ヘイゼルと一緒にいた男が気になるって言ってたわね。  エレノア本人が『出て行かない』と言っているにもかかわらず、フランシスは怯えていた。何かエレノアの気を引くようなことをしないと、またルームメイトを失うかもしれない。そしてあの悪しきヘイゼルが『ルームメイトその36!』とか叫ぶのを聞かなければいけなくなるのだ。それだけはどうしても避けたい。 『おやおや、ご令嬢自らお電話とは、台風でも近付いてるのかね?』  ヘイゼルのふざけた声が聞こえてきた。いつもならここで怒鳴り散らして受話器を置くところだが、そういうわけにはいかない。 「あんたが管轄区から連れてきた男について知りたいんだけど」 『は?ああ、エブニーザ?そんなこと聞いてどうするのかね』 「あんたのことだから、どうせ何かに利用するために連れ回してるんでしょ?どういう使い方をしてるわけ?シュタイナーと関係があるって本当なの?」 『なぜそんなことが気になるのかな?』 「うちだってシュタイナーとは取引があるのよ!」  フランシスはイラついた声で叫んだ。 「聞いちゃ悪い?」 『あいつはかわいそうな奴なのだぞ』  独特の語り口調でヘイゼルが話し始めた。 『管轄区でひとさらいが流行っていたのは知ってるだろ?あいつはその被害者の一人でな……』 「人さらいの被害者?」 『強制労働させられていたところから逃げ出して、シュタイナーに拾われたのさ』 「何それ。どこの何者かわからないじゃないの、そんな奴どうして引き取ったのよ」 『そんなことを聞いてどうするのかね。あ~わかったぞ。エブニーザがいつも俺のそばにいるから邪魔なんだろ?嫉妬してるな?』 「そんなわけないでしょ!バカじゃないの!」 『いやーそのむきになって怒鳴るところがあやし……』  フランシスは電話を乱暴に切った。 「受話器はもっと優しく置かないとダメよ。壊れるわ」  後ろから声がしたのでフランシスが飛び上がった。帰ってきたエレノアが呆れた顔でフランシスを見ていた。  フランシスが、ヘイゼルから聞いた内容をエレノアに伝えると、 「人さらい?聞いたことがあるわ」  と言った。 「管轄区は何もかも遅れていて警察も機能してない、どうしようもない国なのよ」  フランシスは気を取り直して、お得意の悪口を言い始めた。 「知ってる?あそこの身分制度ってめちゃくちゃなのよ。警察より貴族の方が格が上なの。貴族は何をやっても逮捕されないのよ……殺人だろうと強姦だろうと。そんな国がまともなわけないじゃないの」 「そうなの?私が聞いた話では、のどかな、いいところだって……一度行ってみたいわ」 「やめなさい。あそこはかなり男尊女卑よ。アケパリより酷いわよ。あなたが旅してきた国とは違うの」  子供をしつけるような態度でフランシスはそう言い、窓の外を見て、ふと、つぶやくようにこんなことを付け足した。 「まあ、イシュハも大していい国じゃないわね。平等なんて嘘よ。私が大人になるまでに何か変わるかしら?そう思いながら学校に通ってたけど、どうやら何も変わりそうにない。何でも男が勝手に決めるのよ」  そして、疲れた顔で自分の部屋に戻ってしまった。  エレノアも、言われたことを考えながら自分の部屋に戻った。生まれつき自由に生きていたエレノアには、フランシスが嘆いていることがあまり実感できない。ただ、フランシスがなぜ悩んでいるのか、何に悩んでいるのかはうっすらと感じ取れる。  イシュハは男女平等ということになっている。  でも、本当はそうじゃない。それは、フランシスもエレノアも実感として知っている。家の中で家事をしているのはたいてい母親一人。会社の重役はほとんど男性で『世界で影響力のある男性』はCEOとか大統領とか、社長だが、『世界で影響力のある女性』という特集では、どこかの幹部とか、マネージャーとか、自由業とか、女優とか、なんとなく『一ランク下』の集まりになる。旅先で出会った人をふり返って見ても、安い接客業や製造業は女性が多く、偉い人の多いイベント(あまり旅芸人が呼ばれることはないが)は男性が多い。  窓から、見事すぎる夜景を眺めながら、エレノアは考える。  世の中は変わるだろうか?私たちが大人になるころ……。  男子寮の食堂のテレビ。  画面中では、台風が南から接近中と報じられ、天気図には、ちょうど、アンゲルが住んでいた町のすぐ下に白い渦巻が見えていた。  嫌な予感がする……。  アンゲルがそう思いながら部屋に戻ると、案の定、電話が鳴った。 「アンゲルかい?」  不安げな女性の声。  予想通り、母だった。 「また台風が来るんだよ」  一時間ほど、不安がる母親をなだめて、ため息をつきながら電話を切ると、後ろから、 「何をそんなに『大丈夫だよ』を連呼する必要があるのかな?」  という声がした。ふり返ると、ソファーで新聞を広げていたヘイゼルが、不思議そうな顔でこちらを見ていた。 「台風で一度屋根が飛んだことがあるんだよ」 「屋根が飛んだ?」 「だから心配してるんだよ。また何か吹っ飛ぶんじゃないかって」  アンゲルはわざとらしくおどけたそぶりをした。 「まぁ~、修理する金がなくて親父と俺で適当に打ち直したから、あっという間に飛んでいってもおかしくはないけどね」  前に台風が来た時、屋根と一緒にアンゲルの妹が飛ばされた。  数日後、妹は川で遺体で発見された。  顔が判別できないほど変わり果てていたが、腕につけていたブレスレット(アンゲルが誕生日にプレゼントしたものだ)で妹だとわかったのだ。  ブレスレットがこんな用途に使われるなんて、誰が予想できただろう。  娘を失ったショックで、両親は魂が抜けたようになってしまい、屋根はアンゲルと、近所のおじさん(やはり子供を失っていたが、両親と違い腑抜けにはならなかった)で直した。 「こんなひでぇ台風は、俺も初めてだよ。家ごと吹っ飛ばされるなんてよ」  おじさんはそうつぶやいていた。錆びた釘(新品が手に入らなかった)を打ちながら。  管轄区では、台風や暴風雨のたびに、誰かがかならず死ぬ。  アンゲルはそんなことを思ってまた気分が暗くなったが、ふと、いつも管轄区を小馬鹿にするヘイゼルが、珍しく黙りこんでいることに気がついた。  変だな。  まあいいか、静かで。  アンゲルは特に気にせずに、借りてきた心理学の本を読み始めた。  次の朝、電話が鳴ったのでアンゲルが出ると、 「今、修理業者とかいう人たちが来てて、屋根を直すって言うんだよ」 母親の怯えた声が聞こえてきた。 「は?」 「シュッティファントがどうとかいってるけど」 「えっ?」 「あんたが頼んだの?」  アンゲルはしばし呆然と受話器を握っていたが、 「確認する」  そう言うと受話器を乱暴に置き、すさまじい勢いで廊下を走り、食堂で朝食をとっているヘイゼルに向かって、 「余計な事をするなあああああああああああああ!!!!!」  と、すさまじい金切り声で怒鳴った。 「お前は俺をバカにしてんのか!?」  さすがのヘイゼルも驚いたのか、スプーンをくわえたまま、目の前のアンゲルをポカーンと見上げてなにも言えないようだ。 「おい、謝れよ」  近くにいた学生があわてて駆け寄ってきた。 「シュッティファントだぞ」  そこでアンゲルははっとして、周りを見回した。  食堂にいる生徒のほぼ全員が、緊張した面持ちでこちらをじっと見つめていた。 「何で怒っているのかな?」  ヘイゼルがスプーンを置いた。 「うちの屋根だよ!今電話が来たぞ!」  すると、ヘイゼルはいたって真面目な顔で、 「だって、困るだろ、ありえないだろ、今時屋根が飛ぶなんて」  と、つぶやいた。 「はあ?」 「台風くらいで飛んでちゃ、生活できないだろ?」 「はあ……」 「普通に作り直せば、簡単に飛ばないだろ?」 「いや、そうだけど……」 「イシュハにも台風は来るけどな、ガラスが割れたりものが飛んだりしても、屋根が飛ぶなんてありえない。そんな家はとっとと直すべきなんだよ」  当然のことのようにそう言われて、アンゲルは返答に困った。  頭に上った血は完全に引いていた。  目の前のヘイゼルには、いつもの、からかっているような様子が全くない。  どうやら、単なる親切のつもりだったらしい。 「ところで、なんで怒っているのかな?」  本当にわかっていないヘイゼルに、アンゲルは呆れて怒る気力もなくなった。 「先に俺に相談してくれよ。いきなり外国から知らない男の集団がうちに来たんだぞ。うちの親が怖がってるんだよ」 「ああ、なるほど」  ヘイゼルはやっと納得したようだ。 「確かにそうだな」  ヘイゼルが、何事もなかったかのように食事を再開したので、アンゲルも部屋に戻ることにした。呆れすぎて、朝食を食べる気力もわかなかった。  ……それにしても、わざわざ外国に人を送って屋根を直すなんて、どうしてそんなに自由に大金が使えるんだ?シュッティファントはそんなに金持ちか?だからって、子供にそんな大金使わせるか?一体親は何を考えてるんだ?  そして、思い出したように振り向いて、食堂にいる他の学生を観察した。今では元通りに食事に戻っているが、さっき自分がヘイゼルに怒鳴った時の周りの態度は……慌てて、怯えていた。まるで王様に刃向った人でも見たように。  ヘイゼルってそんなに偉いのか?シュッティファントはそんなに怖い存在なのか?それにしても『普通に作り直せば、簡単に飛ばないだろ』って、そんな単純な話なのか?そんなに簡単なことのために、妹は死んだのか?やっぱり管轄区は遅れてるんだな……。  エレノアは朝に弱い。  目ざましが鳴ってもいつまでもいつまでもいつまでも起きないので、怒ったフランシスは、大量の目覚まし時計を用意し、エレノアの部屋を『時計だらけ』にした。  しかし、その大音響でさえ、エレノアをすぐに起こすのは不可能だった。 「起きろ!起きろってんだよ!このアマ!!クソ女!!聞こえてやがんのか!!」  結局、逆上したフランシス(身分が高いくせに口が悪すぎる!)がベッドに飛び込んでエレノアをなじりながらたたきのめし、やっと目覚めたエレノアは怒鳴り散らす『女王様』から逃げるように部屋を出てきたというわけだ。  帰り道、図書館のカフェにアンゲルの姿を発見。近寄っていくと、エレノアに気がついたアンゲルがあわてて手に持っていた雑誌をテーブルの下に隠そうとした。 「何を読んでるの?」  アンゲルがはずかしそうにエレノアに見せたのは、『イシュハのセレブ達』なんていう変なゴシップ雑誌だった。 「シュッティファントの事が知りたかったんだよ」  アンゲルが言い訳のように言った。 「寮の連中がヘイゼルを妙に怖がってるって言うか……偉い人を取り巻いてるというのかな、とにかく変な態度なんだ」 「シュッティファントはこの国で一番の富豪で、イシュハの国債のほとんどを握ってるっていう話よ」 「国債?」 「昔ニュースで見たわ」 「あ、そう」  ニュースに出るほど有名なのか。管轄区ではそんな話聞いたこともなかったな……。 「シグノーは国で二番目の金持ち。シュッティファントは一番金持ち……フランシスがそう言ってたわ。それに、旅先で聞いた話だと、大企業が何か不祥事をして一時的に株価が下がると、そこを狙って買収を仕掛けるとか……あまり好かれていないみたい。どこに行っても悪口しか聞かなかったわ」 「そうなんだ。そういえばバイト先でも文句を言ってる奴がいたな。『欲しいまま奪い取る』とか何とか」 「それは言いすぎね」  エレノアが厳しい顔で、断言するような強い口調で言った。 「そう……そうだね」  ヘイゼルの悪口を言おうと思っていたアンゲルは、そこで口ごもってしまった。  エレノアはアンゲルの向かいの席に座り、フランシスが、朝起きられないエレノアのために目ざましを部屋中を埋め尽くすくらい買ったという話をした。 「そこまでするフランシスもずいぶんヒマ人だな。でも、そんなに起きられないなんて変だよ。夜更かししてない?」 「10時には寝てるわ」 「早いなあ……昔何かあったとか、悩み事があるとか、あ、薬飲んでない?睡眠薬とか抗うつ剤とか……」 「飲んでないわよ!」 「俺は何もなくても、6時に目が覚めるんだ」  エレノアは驚いた顔をした。 「管轄区じゃそれが普通なんだ」  アンゲルがどこか寂しそうな顔で話し始めた。 「みんなそろって6時に起きて、揃って祈って食事して、学生も会社員も公務員も、全く同じ時間に家を出て、同じ時間に帰ってくる……つまんない国だよな」 「そんなことないわ」 「そういえば、ヘイゼルは俺より早く起きるんだよ」  アンゲルが苦笑いした。 「ソファーで目覚めたら、新聞を読んでるオヤジみたいな男が最初に視界に映るんだ。気持ち悪いからやめろって言ったら、面白がって毎日やるようになっちゃった」 「本当?」 「本当。朝の6時前に電話してみるといいよ、絶対ヘイゼルが出るから」 「ヘイゼルが早起きって、イメージに合わないわ」 「だよなあ、夜遊びして昼寝てますって言われた方があいつには似合うよな……」  そういえば、ヘイゼルって夜遊びとかしないよな?金持ちなのに?  アンゲルがそんなことを考えていると、 「エレノア」  外国人風の、ギターケースを背負った男が現れた。 「忘れてた!音楽科のブースを予約していたの!」  エレノアが立ち上がった。 「じゃあね」 「またね……」  エレノアは、ギター男と一緒に歩き出した。とても仲がよさそうだ。歩きながら何か喋って、お互いに笑いあっている。  ……やっぱりエレノアはもてるんだなあ。当たり前だよな、あんなに美人なんだから。  アンゲルは二人の後ろ姿を見つめながら、一人意気消沈していた。  次の日  部屋に『ティッシュお化け』が居座っているせいで勉強に集中できないので、アンゲルは図書館の中にある自習室に向かった。  しかし、そこには大勢で固まって黙々と勉強している『管轄区のイライザ教徒』の群れが。コミュニティで会ったのとほぼ同じ顔ぶれだ。  おそらく『信仰を守る』ために、一緒に行動しているのだろう。  その様子を見ているうちに、アンゲルは気味が悪くなってきた。彼らは人間に見えなかった。機械仕掛けで動いている、生きていない何かに思えた。通りがかったイシュハ人も『なんでいつもぞろぞろと集まって歩いてるんだ?』『あいつら気味悪い』とつぶやいていくのでますます嫌になった。  管轄区からの留学生には常に宗教がつきまとっているように見える。  自分もあんなふうに見えるんだろうか。  アンゲルは悩み始め、図書館を出て暗い気分で歩いていると、見慣れた大きな帽子をかぶったエレノアが、女の子と一緒に歩いてくるのが見えた。 「エレノア」  アンゲルがエレノアに笑顔を向けた……が、エレノアの隣の女性が、敵意むきだしの鋭い目でこちらを睨んで、不愉快な顔をしていることに気づいて、笑うのはやめた。 「アンゲル」  エレノアが右手を隣の女性に向けた。 「こちら、フランシス・シグノー」 「あんた誰?」  フランシスが低い声を発した。話し方まで不機嫌そうだ。 「アンゲル・レノウス。残念ながら、ヘイゼルのルームメイト」 「それは悲惨ね」  フランシスが意地悪な笑いを浮かべた。  ……面倒なことになりそうだ。 「俺ちょっと急ぐから」  ヘイゼルがフランシスと電話で怒鳴り合っていたのを思い出したアンゲルは、足早にその場を去ろうとしたのだが、 「エブニーザ、人さらいにあったんですってね」  という声が聞こえたので、ぎょっとして振り返ると、フランシスとエレノアがそろってこっちを見ていた。 「誰に聞いた?」 「ヘイゼルに決まってるじゃないの」  フランシスが忌々しそうに(アンゲルには『面白がっている』ように見えた)目元をゆがめた。  なんでそんな話を、よりによってこの二人にするんだ!?ヘイゼル!  アンゲルがどうごまかそうか考えていると、 「本当なの?」  エレノアが、疑問と不安が混じった表情で尋ねてきた。  ……話題が良くないが、エレノアと話す機会ができるのは悪くないな。 「詳しく知らないけど、本当らしい」  アンゲルが不確定な言い方をした。 「学校のカウンセラーにも通ってるらしいし、普段から色々なことに怯えてるよ。昔何かひどいめにあって、未だに苦しんでる。それは間違いない……あ」  アンゲルが突然、何かに気づいたように目を見開いてやや上を向いた。 「どうしたの?」 「不思議だったんだよ。どうしてあの気弱なエブニーザが、あんな、わがままで身勝手な、些細なことで怒鳴りまくる史上最悪の男になついてるのか」 「ひどい言い方ね」  エレノアが苦笑いした。 「事実でしょ」  フランシスは高慢な口調でそう言った。 「その通りよ」 「もしかしたら、さらわれていた時にあいつをいたぶっていた奴らに似ているのかも、ヘイゼルが」  フランシスとエレノアは、何の事だかわからないという顔でアンゲルを見つめている。 「いたぶられるのに慣れてしまってるから、せっかく助け出されたのに、同じように自分をいたぶるやつの近くに行ってしまうんじゃないかな?一度慣れた環境から自分を離せないんだ」 「それって良くないわ。わざわざ自分をいたぶる人に近づいていくなんて」 「そう?わからないでもないわよ。私にもそういうところがあるわ」  フランシスの発言に、アンゲルとエレノアは驚いた。 「どこが?」 「全然違うだろ」 「何よ二人とも!」  フランシスがとげのある声を出した。 「私だってヘイゼルにはうんざりしてるんですからね。せっかく学校を辞めてシュタイナーだか何だか知らないけど、うさんくさい成金のところへ行ったと思ったら、気味の悪い馬鹿をつれて帰ってくるなんて」 「シュタイナーは成金じゃないし、エブニーザは馬鹿じゃない」  アンゲルは強い口調でフランシスの発言を否定した。 「どうかしら?」  フランシスはあからさまに見下した目つきでアンゲルに向かって笑った。 「私、もう行かないと次の授業が始まりますから。エレノアもそうでしょ?」 「ええ……それじゃ、また」  歩き出したフランシスのあとをエレノアも追ったが、時々、何か心残りのある様子で、アンゲルのいる方をふりかえっていた。  もう少し話したかった……できればフランシスのいないところで!  そんなことを思いながら、アンゲルもその場を立ち去った。自習室は使えないし、自分の部屋で勉強するしかなさそうだ。  エレノアがギターの弦を張り替えていると、フランシスが、 「この石鹸、何?いい香りね」  と言いながら近づいてきた。 「うちの母が作ってるの。カモミールよ」  エレノアはギターをテーブルに置いて、フランシスに笑いかけた。 「母の故郷の街では、カモミールが雑草みたいに一面に生えてるんですって」 「そうなの?イシュハではけっこう高いのに……使っていい?」 「いいわよ。気に入ったらもっと送ってもらうから。いつも作りすぎて荷物になって困ってるの。旅芸人だから荷物は最小限にしなきゃいけないのに。父がよく『お前は石鹸売りじゃないだろ!そんなに作ってどうする!』って怒ってるの」 「親が何か作ってるところなんて、私、見たことないわ」 「食事は……あ、そっか、料理人がいるわよね」 「そうよ」  フランシスは手に持った石鹸を眺めながら無表情で答えた。 「掃除も人を雇ってる?」 「当り前よ」 「当り前なのかあ……」  かなり違う世界の人間なんだなあとエレノアは思う。  しかしフランシスは、 「あなたは自由でいいわね」  とつぶやいた。 「自由?」 「家にも国家にも、何にも縛られてない」  フランシスはエレノアに背を向けて歩き出した。 「なんでもできるし、どこにでも行ける、誰にも邪魔されることがない……」  フランシスはひとり言のようにそんなことを言いながら、自分の部屋に戻って行った。  一人残されたエレノアは考え込む。  私が自由?単に居場所がないだけじゃない?どこの国のコミュニティにも入れないし、イシュハ国籍を持っているのにイシュハ人にも見えないし……。寮を出たくてもお金がないし……。  夕方。  ヘイゼルがソファーにふんぞりかえって、延々と話(ほとんど悪口)をしている。  アンゲルは何気なく時計を見て驚いた。  すげえ、もう2時間も一人でしゃべり続けてる! 「とにかくあいつらは最悪なんだ。何でも人のせいにするくせに自分じゃなにもしない。そのくせ、人の努力を台無しにするような事件を起こすんだからな、そいつは……」 「ヘイゼル」  アンゲルは控えめな、低い声で話に割り込んだ。 「何かな?」 「一時間前に話した内容を覚えてるか?」 「そんな昔の事は忘れたな」  平然とそんなことを言われたので、アンゲルが呆れていると、隣のエブニーザが、 「昼の一時にやってきて、夕方の六時まで延々としゃべってたことがありますよ」  と言いながら苦笑いした。 「シュタイナーの屋敷は退屈なんだよ!他にやることがないんだ!」  ヘイゼルが叫んだ。 「そんなことはいいさ、それより、そいつはヴァントールのボールを盗んで、選手の名前を消して自分の名前を入れたんだ」 「ヴァントールのボール!?」  アンゲルが叫んだ。 「ヴァントールのボールって何ですか?」 「えっ?」 「はあ?」  アンゲルとヘイゼルは同時に驚きの声を上げたが、エブニーザは不思議な顔をしている。 「なんでお前知らないんだよ!」  アンゲルが驚いて、説明を始めた。  プロサッカーの一部リークに所属する一流の選手だけが、ヴァントール社から『名前入りボール』をもらえるのだ。このボールは一流の選手の証、つまり、世界中のサッカー少年のあこがれなのである。 「スポーツは好きじゃないんです」  エブニーザが不愉快そうにつぶやいた。 「ただでさえ世界中争いだらけなのに、わざわざ予算をかけて争う理由がわからない」  不愉快そうな顔で立ちあがって、自分の部屋に戻っていくエブニーザを見ながら、 「だからあいつには友達ができないんだな」  とヘイゼルがつぶやいた。  そのあと『運動場の芝生でサッカーをしよう』とヘイゼルが言いだし、二人はボールを持って部屋を飛び出した。  二人を見かけた他の学生も参加して、ちょっとした交流戦が始まる。アンゲルはほぼ一人で数人のイシュハ人学生の攻撃をかわし、楽々とシュートした。  管轄区のフォワードをなめるなよ!  アンゲルは有頂天になり、管轄区の暗い信仰のことも、屋根の事も妹の事も、バイトの事も、エレノアの事もすっかり忘れていた。小さいころから、サッカーはアンゲルにとってただの遊びではなく、自分の存在が証明できる特技であり、唯一の心の慰めだった。サッカーボールはいわば友達だ。自分を裏切ることが絶対にない、おそらく唯一の。  見物していた学生たちが『あいつすげえ』『何者?』と口々に叫びはじめた。ヘイゼルとその一味は、やられればやられるほどむきになってアンゲルを追いかけ回したが、追いついたところでボールを奪うことができなかった。  シュートが決まる。歓声が上がる。調子に乗ったアンゲルがとびあがって喜ぶと、ヘイゼルがタックルを食らわせた。ブーイングが聞こえてきた。  図書館に向かう途中のエブニーザが、遠くからその様子を見てしばらく立ち止まっていたが、辛そうな顔で視線をそらして歩き出した。  僕はあの中に入っていけない……。  そこにエレノアが通りがかった。 「アンゲルがヘイゼル軍と闘ってますよ」  エブニーザが通りすがりに、寂しげに笑いかけて立ち去っていく。  エレノアはその顔が気にかかり、 「何かあったの?」  と後を追いかけたが、 「追いかける人を間違ってます!」  エブニーザがふりかえって険しい顔で叫んだので、立ち止まった。  間違ってる?どういうこと?  エレノアはショックを受けた。こんなに真っ向から拒絶されたのは初めてだ。  そして、遠ざかっていく後ろ姿を見つめながら気がついた。  今まで、男に追いかけられて困ったことは何度もある。  でも、自分が誰かを追いかけたくなったのは初めてだ……と。
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