第三章 ノレーシュの姫君

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第三章 ノレーシュの姫君

 エブニーザに『追いかける人を間違ってます!』と叫ばれたあの次の日。  エレノアは、母が送ってきた荷物の中から小さなミシンを取り出した。ステージ衣装や帽子を作るために、何年も前に買ってもらったものだ。  余っていた布をてきとうにつなぎ合わせ、パターンも見ずにトートバッグを作った。昨日エブニーザに言われたことが頭に引っ掛かっていて、何か作らないと落ちつかない気分だったのだ。  間違ってるってどういうこと?そんなに私が嫌なの?それとも特に意味はないの?  そんなことは、いくら考えたところで時間の無駄だと、エレノアにも分かっていたのだが、どうしても、エブニーザのあの声と、その直前の寂しそうな表情が、エレノアの頭から離れなかった。  アンゲルとヘイゼルが、サッカーをしていた。  エブニーザはそれを遠くから見ていた。  仲間はずれになったのかしら……?  考え事をし、時々縫い目が曲がったりしたが、それでもバッグは出来上がった。  フランシスはそんなエレノアを、政治学の本を片手に、じっと眺めていた。朝からガガガガガと異様な機械音がするかと思ったら、妙に顔色の険しい女が、あまり見かけない古臭い機械に向かって変なものを作っている……フランシスにとっては物珍しい光景だった。 「どう?恰好は良くないけど、楽譜は入るのよ?」  エレノアが機嫌よさそうにバッグを見せると、フランシスは見下したような顔をして、機嫌が悪そうに部屋に戻った……が、すぐに出て来て、 「あんたは何でもできるのね。私は何もできないわ」  とつぶやいた。 「デザインをやっているんじゃなかったの?」 「趣味よ。そんなに上手くないし、最後の仕上げは人にやらせてる」  フランシスは鏡に向かい、髪をかき上げた。 「ま、そんなことはいいわ。クーが図書館に来てるはずだから紹介するわ」 「クー?」 「クウェンティーナ・フィスカ・エルノ」  フランシスは、得意げに、一つ一つの名前を切って、ノレーシュ風に発音した。 「フィスカ・エルノ……ノレーシュの姫君ね!」  エレノアが興奮気味に叫んだ。 「そうよ」  フランシスが偉そうな顔でにやけた。 「待たせちゃいけないから。早く行きましょ」  本物の姫君に会える!!  二人はうきうきと、軽い足取りで部屋を出た。  ノレーシュの姫君、クウェンティーナ・フィスカ・エルノは、図書館内を物珍しげに見回していた。  姫君はもうこの学校に来て一年にはなるのだが、図書館には来たことがなかったのだ。欲しい本はいくらでも自分で買えるし、読むのはいつも最新のベストセラーばかりだから、本屋から直接取り寄せたほうが早い。  ノレーシュ人はみな大柄で、姫君も他の女性に比べると体格が一回り大きい。王族らしい気品のある顔立ちで、褐色の肌に金色の髪、明るい茶色の目をしている。  服装は目立たないように地味に収めている。こんなところで目立ったところでいいことは何もないからだ。ファッションの目的を『目立つこと』だと思っている人間を見るたびに、クウェンティーナは『頭が悪いんだな』と思った。そんなことをしても敵を作るだけ、あるいは、変な目的を持った人間の標的になるだけだと、どうしてわからないのか。  奥の方を見てみようと通路に出たところで、姫君はあっと声をあげそうになった。  なんて美しい少年だろう!  姫の目の前を、今まで見たこともないような美少年が、すました顔で通り過ぎた。  エリ・クレマーシュの天使?神話の再来?  高名な画家の絵を思い出しながら、少年の後をついていった。  少年は、かなり奥の古びた部屋に入り、棚から古臭い革表紙の本を取り出し、古ぼけた椅子に座って読み始めた。窓から入り込む光が、少年の顔をミステリアスに照らし出す。  姫君はずっと、ドアの影からその様子をじっと見つめていた。  本当に天使のようだ。そういえば、神話の再来から500年経っている……もしかして、ほんとうに神の子なのか?  ノレーシュ人らしい神話的な発想で、姫君がうっとりと『天使』を眺めていると、後ろから誰かが姫の横を通って部屋に入って行った、そして、少年の背中をつかみ上げると、 「またここか!帰るぞ!」  と少年を椅子から引きずりおろし、無理矢理引っぱっていこうとした。 「どうしてそんな乱暴なことをするのよ!」  姫君は思わず止めに入った。そして、その男が良く知っている人物だということに気がついた。  ヘイゼル・シュッティファント!  すると、相手も姫君にすぐに気がついたらしい、奇妙な、芝居がかった声でこう言った。 「あれ~?ノレーシュの姫君が、こんなところで何をしているのかな?」  少年が『ノレーシュ』という言葉に反応した。そしてなんと、ノレーシュ語で、 『いつものことだから気にしないで』  と言うではないか! 『いつものこと?』  姫君が叫び、そしてヘイゼルにイシュハ語で注意した。 「あなた、いつもこんなに乱暴なわけ!?」 「おいおいおい、いつも世話になっているって意味だよ。自分の国の言葉を間違うな」  ヘイゼルは全く気にしていない様子だ。クーはヘイゼルのあまりにも横柄な(というか、変な)態度に驚きつつ、口論をしながら外に出ると、ちょうどフランシスとエレノアがやってきた。 「ちょっと!なんであんたがここにいるのよ!」  フランシスがヘイゼルを見るなり叫んだ。 「図書館で大声出しちゃだめよ、フランシス」  横からエレノアが注意したが、全く聞いてないようだ。  そのころ、自習する席を探しに来たアンゲルが、図書館の中に入ろうとしていた。  読めるものはできるだけ読んでおかないとな……。  精神医学、心理学……とつぶやきながら本棚の間を歩き回る。  管轄区にいたころは、心理学の本は全く手に入らなかった。検閲で落とされてしまうからだ。  なぜアンゲルが『心理学』というものの存在を知ったか。  それは、旅行に来たイシュハ人が家に泊まりに来た(なぜ来たのかは未だにわからない)とき、本を置いて行ったからだ。  タフサ・クロッチマーという、風変わりな名前の精神科医が書いた本を。  そうだ、タフサの他の本も探そう……本屋になんか行かなくても、図書館で借りればいいんだよな。金かからないし、学校で推薦している書物はたいてい揃ってるし……なにせここは、世界中から学生が集まってくる名門校だからな。  専門書が並ぶ本棚を物色しながら、アンゲルは、入学前に読んだ学校案内の一文を思い出していた。 『最高の頭脳が、世界中から集まってくる……』 「いいかげん付きまとうのやめろってんだよ!バカ!クズ!死ね!」  そんな怒鳴り声と同時に、アンゲルの視界に入ってきたのは、こんな人々だ。  逆上して本をぶん投げているヒステリックな女性(フランシス)と、それをかわしながら下品な笑い声を上げて飛びまわっているバカそうな男(ヘイゼル)と、泣きそうな顔で二人を見つめている気弱そうな少年(エブニーザ)と、困った顔がやっぱり可愛いエレノアと、見たことがない、人種の違いそうな褐色の肌の女性。 『……幼稚園だ!』  今、目の前を走りまわっている連中は、『最高の頭脳』とは程遠い有様だ。  呆れたアンゲルは、みなに気づかれないうちに帰ろうと向きを変えたが、後ろから飛んできた何かが後頭部に激突。  倒れた自分の上を、誰かが跳ねながら通り過ぎるのを感じ、顔を上げると、見覚えのある赤いジャケットが前方を楽しそうに飛び跳ねているのが見えた。 「……ティッシュファントム!!」  アンゲルはがばっと飛びあがって、全力疾走で『赤いティッシュお化け』を追いかけた。 「二度とあたしの前に姿を現すんじゃないわよ!!」  後ろから『シグノーの令嬢』の怒鳴り声が聞こえた。  足の速さに自信のあるアンゲルは、図書館を出て数メートルのところで、あっさり『ティッシュお化け』をつかまえた。 「お前は一体何をしてるんだよ!」 「俺は何もしてないぞ!文句はご令嬢に言え!」 「どうせお前が怒らせるようなことを言ったんだろ!?」 「レポートの資料を集めに行って、ついでにエブニーザを引きずり出そうとしただけだ!」  ヘイゼルがいまいましそうに叫んだ。 「ボルディ・ツルッパゲーノめ、提出日を前倒ししやがって」 「ボル……誰それ?」  名前だけでは、頭が禿げていることしかわからない(いや、この名前が本名だとももちろん思えないが)。 「ハゲの教官さ」 「何の教科だよ?」 「知らん、いちいちそんなことを記憶していられるか」 「……何の教科かわからないのに、どうやってレポートを書くんだよ?」 「細かいことをいちいち突っ込むんじゃない……シグノーの悪魔め!あいつはそのうち女神を締め殺すぞ!」 「うるさい!」  道の真ん中でがなりたてているヘイゼルを、アンゲルが隅に引っぱっていく。  怒りが収まると、なにもかも馬鹿げているように思えた。  ヘイゼルも、フランシスも、そして自分も。 「そんなに嫌いならちょっかい出さなきゃいいじゃないか。フランシスだって嫌がってるだろ?」 「そういうわけにはいかん」 「何で?そんなに惚れてんの?そうも見えないけどな」 「あいつは絶対俺の言うことを聞かない。人のいいなりにもならない」  ヘイゼルが何かの演説のように朗々とした声を出した。 「だが、シグノーの家の方針には逆らえない。あの家は超古風だからな、女が何か仕事をするなんて認めないのさ。でもあいつは何かしたくてたまらない。だからいつもヒステリーに物を投げたり金切り声を上げたりしてるんだ。黙って従えない、でも文句も言えない。だからそうやって反抗するのさ」 「だから何?」  あきれながらもアンゲルは、ヘイゼルの言うことは、下手な精神分析より当たっているんじゃないだろうか?と思い始めた。フランシスのことはよく知らないが。 「黙って言うことを聞く奴なんか、俺は嫌いだね。そんなの召使いと同じだろ?俺はまともにぶつかってくる奴が好きなんでね。そいつが悪魔だろうと、世界一性格の悪いヒステリー女だったとしてもね」 「わからない趣味だな……だからイシュハ人は戦争ばかりしてるのか?」  アンゲルは心底からの本音を呟いた。 「そうかもしれん」  ヘイゼルがめずらしく同意して黙り込んだので、アンゲルはぎょっとした。  そんな理由で戦争されちゃ回りは大迷惑だ!  外国人アンゲルは、本当に不安になってきた。  こんな奴が政治なんかやったら、イシュハだけじゃなく、近隣諸国も、もちろん管轄区も、大変なことになるんじゃないか?  姫君クー(本人が『クーと呼んで』と言ったのだ)はあいかわらずエブニーザに見とれている。  エブニーザがぼそぼそと、でも嬉しそうにノレーシュ語で何か話して、それを聞くたびにクーも嬉しそうに応答している。  エレノアには、二人の会話が全く分からない。 「ずいぶんご熱心ですこと」  フランシスが嫌味を言いながらエレノアに耳打ちした。 「神話の話をしてるの。エブニーザを見た瞬間に『美しすぎて、神話の再来かと思った』ですって!ノレーシュでは、500年おきに神話と同じことが起こるって信じている人がいるのよ。ノレーシュは多神教だから神が4人いるのよ」 「わかるの?」 「第二外国語はノレーシュよ」  エレノアは、姫君とエブニーザの様子を見ているうちに不安になってきた。  やっぱりエブニーザって、だれから見ても美しいんだわ……。  姫君はさっきから、エブニーザと楽しそうに会話している。好意を持っているのが顔つきからわかる。  エレノアは何か、得体の知れない不快を胸の内に感じたが、相手が姫君ではそれを表現することはできない。もっとも、エレノアは控えめな性格なので、相手が誰だろうとそんな気持ちを表現することはないのだが。 「どうする?紹介するのやめましょうか?なんだか敵に回りそうじゃない?」  フランシスが小声でエレノアに耳打ちした。 「いずれノレーシュに帰るのよ」 「だめよ。ちゃんと紹介して」  そう言いながら、エレノアはエブニーザから目を離さない。  フランシスはそんなエレノアとクー、そして『虚弱症の勉強オタク』を順番に見ながら、  こんな今にもミイラになりそうな奴のどこがいいってのよ、二人とも趣味悪いわね。  と思っていた。 「私、歌の練習に行くわ」  エレノアが立ち上がった。なんとなく、この場にいたくなかったのだ。 「これから?もう夕食の時間になるわよ?」  フランシスが非難するような声で言った。 「ブースは夜中にも開いてるし……歌いたいの」エレノアが力なく笑った「じゃあ、また」  エレノアは、姫君とエブニーザに向かって軽く一礼すると、外に出た。  日差しは弱まっていたが、まだまだ暑い。音楽科の校舎までは少し距離がある。  歩いている間に、自分の中にある不快感が何なのか考える……エブニーザと姫君が仲良くしていたから?自分にはわからない言語で仲良く喋っていたから? それって、嫉妬?  嫉妬ほど手に負えないものはない。そんな歌があったっけ……あれはどこの歌だっけ?  考えているうちに校舎についた。中に入り、ブースが開いているか受付に聞いてみた。 「開いてるんだけどね」  受付の丸メガネのおばさんが困った顔をしている。 「隣にうるさいアケパリ人がいるけど、それでもいい?ギターの音が普通じゃないんだよね。防音がきかないくらいひどいの」 「別にいいわ」  エレノアは、先日会ったアケパリ人のギタリストのことを思い出した、きっと彼だと思った。たしか、ケンダイ……いや、ケンタだったか。  手渡されたカードの番号の部屋に近づく。  すさまじい早弾きギターの音が聞こえてきた。一気に最高音まで駆け上がり、そして、最低音まで落ちて行く。それも、一つずつ確実に音を弾きながらだ。  エレノアはそのスピードに驚いた。エレノア自身もギターで弾き語りはするが、こんな高速で指を動かせる人間がいるとは、とても想像できない。  ブースのドアについている小窓をのぞいてみると、やはりそこにはケンタがいた。  クーラーが効いているはずなのに、全身汗だくになっていて、着ているTシャツが汗で濡れていた。表情も険しく、真剣そのもので、先日会った穏やかな人間と同一人物とは思えない。音は激しく上下しているが、本人はほとんど体を動かしていない。  真剣なんだわ。じゃましないほうがよさそうね。  エレノアは、自分のブースに入って、隣に対抗するように大声で発声練習を始めた。  すると、エレノアの声に合わせて、となりから聞こえてくるギターの音が上下した。  エレノアは一瞬戸惑ったが、隣の壁に視線を流してニヤリと笑うと、音が乱高下する難しい『自己流ソルフェージュ』を歌い始めた。ついてこれるものならやってみろというつもりで。  となりのギターは、ちゃんとついてきた。  面白いわ!  歌とギターの合唱は、そのあと、数時間続いた。  周りのブースの利用者が『あの二人、うるさいです。演奏はすごいけど』と受付にやってきてつぶやいた。  エブニーザはやはり、授業中もまわりの声に怯えていた。時々昔の光景がフラッシュバックしたり、あの『彼女』がいたぶられているのが見える。  どうして『彼女』の周りには、おそろしい人間しかいないんだ?  叫び出したくなるが、授業中に叫んではいけないことくらいはわかっているので、必死で耐えている。おかげで授業の内容は頭に入って来ない。  勉強なんて、一人でやったほうが絶対に早いのに。どうして授業に出なきゃいけないんだろう……。  まわりをほとんど見ないエブニーザでも、何人かの女の子が、自分を奇妙な目で見つめているのは察していた。そのほかにも、『シュッティファントのルームメイトだ』というだけで、じろじろ見たり、こそこそとうわさ話をする生徒がたくさんいた。  そういう視線が、彼には苦痛でたまらなかった。  授業が終わると同時に図書室の奥深く、古代の資料室にこもることにした。ただし、もうヘイゼルやエレノア、姫君にばれているので、夕方には誰かに見つかってしまう。  エブニーザは、いずれやってくる『余計な人たち』の事を考えると憂鬱になった。  どうしてみんなほっといてくれないんだろう……いっそ、夜中もずっとここで、一人でいられたら幸せなのに……。  この日はエレノアが様子を見に来た。 「何を読んでいるの?」  微笑みながらそんなことを言うエレノアに、エブニーザはうんざりしていた。  どうせ興味ないくせに……。 「古代の黒魔術なんですけど……あっ」  エブニーザは話の途中で言葉を切って、何かに驚いたような顔でエレノアをじっと見つめ始めた。  彼にしか見えない映像が、エレノアの後ろをかすめ飛んでいた。  二人、  そうだ。  あの二人……。  エレノアはその視線にドキドキしながら 「どうしたの?」  と聞くと、 「アンゲルとはどんな仲なんですか?」  と逆に質問された。  なぜ突然アンゲルなんだろう……? 「ここに来るときに同じ列車に乗ったの。ただの友達よ」 「ただの友達……?」  エブニーザは何かを疑っているような顔をした。 「いつも一緒にいるのに?」 「いつ私がアンゲルと一緒にいるのを見たの?」  エブニーザは混乱しているように視線をいろいろな方向に動かした。まるで、別な映像を追いかけているみたいに。 「何か誤解しているみたいね。それより、ヘイゼルが怒鳴りこんでこないうちに帰らない?」 「僕はもう少しこれを読んでから帰ります」  エブニーザが手元の本をかざして見せた。  エレノアは向かいの椅子に座り、自分が歌手で、フェスティバルで歌うことと、フランシスから聞いたヘイゼルの話(フェスティバル歌手のマイクを奪って自分が歌い始めた話)をした。 「いかにもヘイゼルがやりそうなことですね」  エブニーザはそう言いながら手元の本をめくった。 「当日、邪魔しないように、黒魔術でもかけておきます?ここにいいのが書いてある」  エブニーザがエレノアにページを見せるが、どこの言葉だかわからない奇妙な文字が並んでいる。  エブニーザによると、1000年以上前に使われていた文字だそうだ。 「一日だけ、乱暴な人を静かにできるんですよ」 「あなた、そんなの本当に信じているの?」  エレノアが笑うとエブニーザは不満げな顔で、 「やってみればわかりますよ」  と小声でつぶやいた。  男子寮の部屋。  アンゲルが心理学概論の教科書を読みながら、頭を抱えていた。なぜか数式がたくさん書かれていて、ほとんど理解できないのだ。  なんで今更微分積分なんかやらなきゃいけないんだ!?  アンゲルは数学が苦手なのだ。  しかも、困り果てているところにエブニーザが帰ってきて、いきなり、 「エレノアとはどんな関係なんですか?」  と聞いてきた。数式が頭の中ではじけ飛んだ。 「な、何でそんなことを聞くんだ?」 「ちょっと気になっただけです」  エブニーザは不愉快そうな顔でそう言うと、自分の部屋に入り、そーっと静かにドアを閉めた。  なんで気になるんだ!?エレノアに気があるんじゃないだろうな?  と思ったときヘイゼルが入ってきて、嬉しそうな顔で叫んだ。 「試合が始まるぞ!」 「試合?」 「イシュハ対ノレーシュだ!中継だ!もう始まるぞ!」  ヘイゼルが部屋を飛び出して行ったので、アンゲルもついていった。食堂のテレビの前に、寮のほとんどの学生が集まっていた。  試合が始まると、学生はみな熱狂した。国籍は関係なく、みんな、選手がシュートをするたびに大声を上げて盛り上がっている。ヘイゼルとアンゲルも、夢中になって歓声を上げていた。  エブニーザが遠くからその様子を眺めていた。いつもは食事時になっても下に降りてこないのに、なぜかこの日は降りてきていた。  しかし、歓声が上がったり、ブーイングが起こるたびに痛そうに顔をしかめた。みんなが何に熱狂しているのか、何が楽しいのか、エブニーザには全く理解できなかった。ただ、テレビのまわりに集まっている学生たちを、暗い廊下から見つめていた。  自分だけ別な、暗い闇の世界に住んでいるみたいだ。  エブニーザは、自分が立っている位置と、他の学生たちが集まっている場所の間に、見えない壁を感じていた。彼にしか見えない壁だ。何でできているのかはわからないが、それは確実に彼を、他の人間の世界から隔離していた。  しばらくその場に立ちつくしていたが、エブニーザは、結局中に入っていくことができず、落ち込んだ様子で一人、光に背を向けた。  階段を一人で上がりながら、何かの呪いのような言葉を一人つぶやく。  そうだ、僕は普通の人間じゃないから、みんなの中に入っていけないんだ……。  エレノアは、姫君クーと並んで授業を受けている。共通科目だから、学科は関係なく席につく。てきとうに選んだ席に座っていたら、隣に姫君がやってきて、 「ここ、空いてる?」  と、愛しげな笑顔で尋ねてきたのだ。もちろん断る理由はない。  授業中、クーがメモに何か書いてエレノアに回す。 『フランシスと一緒の部屋ってきつくない?』 と書いてある。  エレノアは、 『ちょっと怖いけど、今のところ大丈夫』  と書いて戻す。 『エブニーザに興味ある?』  という紙が回ってくる。  ぎょっとするが、冷静を装って、 『きれいな子よね』  と書いて戻す。すると次に回ってきたのは 『ノレーシュに連れて帰っていい?』 「だめ!」  思わず声を上げてしまった。教師が咳払いし、周りの生徒も一斉にエレノアを見た。 「すみません」  謝ってから、二人で顔を見合せて笑う。  クーの笑い方はとても愛しげで、しぐさもやわらかく、同性なのにドキドキさせる何かがある。  やはり普通の人間ではないのだなあとエレノアは思う。  授業が終わってから、二人で図書室に行くことにした。エブニーザを探しに行ったのだが、資料室にいたのはヘイゼルだった。 「ここにいれば捕まえられると思ったのだが……美女二人が来るとはね」  仕方なく三人で話を始めた……というより、ヘイゼルが一方的に話すのを二人で聞いていたのだが。 「エブニーザは天才だよ。未来は見える、経済指標を見て株価を予想できる、ろくに話もできないくせに、読むのだけは何ヶ国語でも自在にできるんだからな。シュタイナーの書庫でも、ありとあらゆる国の本を一人で読んでたよ。ただ、好みが変なんだよな……最初会った頃は本当に暗い奴でね、読んでるものといえば、中世の薬草辞典だの、何百年も前の類義語辞典だの、何千年前のロンハルトの呪いの書だの……そんなもん読めて何の役に立つんだ!?そのうち少しは人間的になってきたのか、最近の小説も読むようになったがね……というのも、俺が500年より前の本を禁止したからなのだが……だって、石器時代の本を読んだって現代的生活の役に立つかね?本当は50年にしたかったくらいだが、古典文学という名の、教養科目必修かつ実生活では無用のジャンルがあるからな。まあ、とにかくエブニーザは変わった奴だよ。人の目を怖がって食堂に行けないし、よくテーブルの下やクローゼットの中に隠れるし(隠れたところですぐに引きずり出してやるのだが)たまに昔を思い出して、泣き叫んだり倒れたりするし……まあ、あまりにもひどい目にあったんだから、しょうがないが」  延々と話を続けるヘイゼルに、クーが冷ややかな視線を送った。 「どうして、そんな手のかかる人を連れてきたの?何か企んでるんじゃないの?」 「姫君、俺を人でなしだと思ってるな?」 「思ってるわよ」  クーが冷ややかに断言した。 「まあまあまあ、そう怖い顔をせずに……その通りだよ、あいつは使える奴なんだ。それに、シュタイナーのところにいたら危ない。それは姫君もわかってるだろ?」 「そうだけど……」 「どうしてシュタイナーのところにいると危ないの?」  黙って話を聞いていたエレノアが、急に割って入った。 「どうしてって……」  クーは何か言い淀んでいるようだ。 「いろいろ、金持ちにしかわからない国際事情ってものがあるのさ。なあ姫君」  ヘイゼルはニヤニヤと楽しそうだが、クーは逆に何かを懸念するような顔をしていた。 「ところで二人とも、将来はどうするの」  話題を変えたいエレノアが何気なく訪ねると、ヘイゼルとクーは揃って不機嫌そうな顔をした。 「もう決まってるさ、シュッティファントだからな」 「エレノアは自由でいいわね」  羨ましがっているのかバカにしているのかわからないことを言った。二人とも不機嫌そうだ。どうやら質問を間違えたらしいと気づいたエレノアが、 「私は歌手なの。歌が一番大事なの」  場を取り繕うようにそう言うと、クーがにやりと笑いながらこう言った。 「好きな人いないの?」 「エンジェル氏はエレノアに夢中なんだけど、そこんとこどう?」  エレノアとクーがびっくりしてヘイゼルを見ると、いかにもおもしろがっているようなニタニタした笑いを浮かべていた。 「エンジェルって誰?」  クーがエレノアに尋ねる。エレノアは真っ赤になって、 「友達よ!友達!」  と言い張ったのだが……。  そのころ、アンゲルは心理学実習の授業で、『自ら精神分析とカウンセリングを受ける』ことになった。  まず自分がカウンセリングや精神分析を『受けて』自分を理解してから勉強に入ろうということらしいのだが、これで引っかかってしまった。  自分のことを話すのがこんなに苦痛だとは!  悩んでいることも考えていることもたくさんあるのだが、いざ『カウンセラー』なる人物を目の前にすると、何を話せばいいのか分からなくなるのだ。しかも、 『親子関係とか、人間関係とか、価値観の違いについて話してみては』  と言われてまた悩みだしてしまった。女神信仰の深い地域で育ったため『価値観の違い』と言われても上手く答えられないのだ。  管轄区ではみんな、同じような価値観で生きていた……。  俺には自分がないのか?  そもそも、宗教に違和感を持っていることをここで話してしまっていいのだろうか?  疲れた顔で帰ると、エブニーザが待っていて、何か話したそうにこちらを見ていた。 「何?」 「聞きたいことがあるんですけど……」  アンゲルは機嫌が悪かったので、エブニーザを無視してソファーに倒れ込んだ。 「自分の部屋に行ってくれ」  そうつぶやくと、エブニーザは黙って自分の部屋に戻り、ドアをそーっと閉めた。  電話が視界に入り、エレノアにかけようかと思ったが、そんなことを考えている自分にまたウンザリして、教科書をかかえて悩み始めた。  心理学なんて専攻するのが間違いだったのか?  しばらく横になってぼんやりし、ウトウトし始めたころ、突然ドアが開き、身なりの上品な、しかしどこか冷たい印象の学生が入ってきた。  見覚えがあるな……そうだ、前ヘイゼルとサッカーをした時に参加してきた奴だ。 「俺はシギ・クォンタンで、このまえサッカーをしたもう一人のデブがエボン」  シギは、平坦な口調で自己紹介した。 「おまえはどうしてあんなにサッカーが上手い?」  話し方が堅いなあと思いながらも、管轄区のチームに入っていたと答えると、 「管轄区?見えないな」  と驚かれた。相手が何を想像したか何となく見当がついたアンゲルは、 「『管轄区=気持ち悪い』だと思ってるだろ」  と聞くと、 「その通りだ」  と即答された。  アンゲルが苦々しい顔をすると、 「ヘイゼルと同室は大変そうだな」  とシギが、同情しているような、呆れているような顔をした。  シギとエボンの部屋にも、先日急に3人目が入ってきたそうだ。 「寝室足りないだろ?どうしてるんだよ」 「俺とエボンは同じ部屋を使ってる」 「それは……嫌だなあ」 「ヘイゼルだったら俺もお断りだ。エボンはパシリだから存在感がない。いてもいなくても大して変わらない」  平然と言うシギに、アンゲルは『こいつ、ヘイゼルと同じ性格だな』と苦笑いした。 「ヘイゼルの友達?」 「友達と言えばそうだし、競合相手と見なせば敵とも言える」  あいかわらず平坦な、抑揚の全くない口調だ。 「敵?」 「商売相手という意味だ。家同士が」 「あ、そう」  なんだか嫌な友情だなあ、それ。  アンゲルはぼんやり考えた。 「ヘイゼルは、利用できる人間としか仲良くしない。だから、おまえが何者なのか気になってここにきた」 「嫌な奴だなあ、本当に」  アンゲルがそうつぶやいたが、シギはそんなことは一向に気にしない様子で 「サッカーチームに入らないか?」  と言った。  チーム。  アンゲルの胸が高鳴った。  入りたい。またボールを蹴りたい。  アルターの学校で活躍できたら、本当にプロチーム入りも夢じゃない! 「入りたいけど」  声が震えた。 「勉強しなきゃいけないし、バイトしないと生活できないんだよ」  シギは特に説得しようともせず、 「サッカー場が開いている時にまた勝負しよう」  と言って出て行った。  アンゲルは勉強しようと思って教科書を取り出したが、全く集中できなかった。  イシュハのサッカーチーム。  きっと、管轄区とはレベルが違うだろう。  でも実力を試してみたい。  勝てる自信はある。  でも、俺はここに勉強しに来たんだよな?  エレノアは、歌のレッスンを受けるために先生を探し始めた。  しかし、どの先生にも、歌を聞かせたとたん、 『出て行って』 『あなたに教えたくないわ』 『悪いけど……別な先生に当たってくれない?』  きっぱり、あるいは、遠まわしに、やんわりと、断られてしまった。  どういうこと?先生にまで嫌われてるの?  でも、学校の先生が生徒を拒否するなんてあり?  困り果てたエレノアが、すがるように、ちょっと分野の違う先生(どこか小さな国の、民族音楽を教えている先生)のところに相談に行ってみると、 「ああ、わかったわ」  派手なプリントのドレスを着て、南国風の花飾りを首に巻いた、通称『ニッコリ先生』が、エレノアの歌を聞いて、その名の通り、にっこりと笑ってうなずいた。 「あなた、上手すぎるのよ」 「えっ?」 「ここの講師って、自分がデビューに失敗したひねくれ者が多いから、あなたに教えられることがないのよ。黙って教える方のプロを目指せばいいのに、心の中ではいつまでも『俺の方が音楽の才能があるんだ!』なんて思ってる困ったちゃんばかりなのよね。ま、安心しなさい。本物のプロの先生に紹介してあげるわ」  不安げな顔で黙りこんでいるエレノアを尻目に、ニッコリ先生は古風なダイヤル電話を回し始めた。 「あ~ケッチャノッポさん、お久しぶりね。相変わらずピザばっかりお食べになっているの?え?サラダ?珍しいわね、何が起きたのかしら?え?ああ、そうそう、実は歌を教えてほしい生徒がいるのよ。ここのクソ講師どもには歯が立たないような天才でね、え?そうそう、いじめられて困っちゃうのよ。そうそう、あなたと同じよ。いつの時代もここは変わらないのよ。イシュハ人ってどうしてあんなに妬みバカばっかりなのかしらね、オッホッホ。ええ、はい」 ニッコリ先生が顔を上げた。 「今日の夕方4時、音楽科の西校舎のピアノ室3、時間OK?」 「え?あ、はい!!」 「じゃ~頼みますよケッチャノッポ先生、はいはい、夕飯くらいならお付き合いしてもよくってよ、ピザじゃなければね!バ~イ」  ニッコリ先生は、楽しそうに電話を切ると、舌をぺろりと出してエレノアに笑いかけた。 「変人でやかましいダメ人間だけど、歌だけは一流だから、間違いないわよ」  エレノアは何と答えていいかわからず、黙って愛想笑いに徹した。  そして約束の4時。  エレノアが『ピアノ室3』に入ると、 「いやぁ~待ってたよエレノアちゃん」  という、ラジオのDJのような声(けっこう低温で、響く)に迎えられた。 「僕があの有名なケッチャノッポ・ウィリアムズ、よろしくね」  有名なんだ……初めて聞いたけど……。  ピアノの前に立っていたのは、想像していたのとは全く違う、かなり細身の、40代くらいの男性で、端正な顔をしていた。服装も上下黒の、ごく普通の現代人の格好で、音楽よりは、絵画や別な芸術が似合っているように見えた。  見た目だけなら、ごく普通の、いや、かっこいい男性と言えなくもない。 「ささ、おいでおいで、おバカな他の講師の事は気にしないで、レッスンを始めましょう」  ケッチャノッポ先生がエレノアを手招きした。  そして歌のレッスンは始まった……のだが、 「ちがう、ちっが~う!」  エレノアがオペラアリアの盛り上がるところを歌っていると、ケッチャノッポが突然甲高い声で、身をよじりながら叫んだ。 「ここは情熱の花が散る一歩手前、爆発寸前の愛の叫びなのよ!もっと声に色気がないとダメ!そして盛り上がったところで……」  ケッチャノッポは、細い足をピアノにかけたかとおもうと、そのまま天高く飛び上がり、空中を回転しながら、スマートに、曲芸師のように床に着地した。 「華麗に決めるのよ!」  何が起きたかわからないエレノアが呆然としていると、 「ぼーっとしないの!ほら!もう一回歌うわよ!」  と、ケッチャノッポが伴奏を弾き始めたので、慌てて歌い始めた。 するとまた、 「ちがう!ちっがーう!」  が始まるのである。  2時間ほど、この体育会系曲芸講師に振り回されることになった。  レッスン後、エレノアが疲れ果てたうつろな目で、ふらふらと帰り道を歩いていると、オープンカフェにアンゲルの姿が見えた。本を読んでいるようだ。 『エンジェル氏はエレノアに夢中なんだけどそこんとこどう?』  ヘイゼルに言われたことを思い出して一瞬顔が赤くなったが、 「エレノア!」  アンゲルがこちらに気づいてしまったので、すぐ平静を装った。 「また勉強しているの?」 「いや、実習が上手くいかないから、気晴らしに来ただけだよ」  自分が来るのを待っていたのでは、とエレノアは疑ったが、口には出さなかった。 「実習って何をするの?」 「カウンセリングを受けるだけ」  アンゲルが力なく笑った。 「おかしいんだ、自分もカウンセラーを目指してたはずなのに、自分が受ける側になると何も話したくなくなるんだよ」 「そう……」 「エレノアは?元気なさそうだけど」 「疲れてるだけ……歌の先生がすごく変な人なの。ケッチャノッポって言うんだけど……」 「ケッチャノッポって……」  アンゲルの目が大きく開いた。 「ケッチャノッポ・ウィリアムズ?」 「知ってるの?」 「知ってるのって、名テノールだよ!有名な!」  アンゲルが突然元気になってしゃべりだした。 「20歳のときには『世界一のテノール』って言われて、世界中で公演してたんだ。俺の父親がよくレコード(台風で飛んで行ったけどな!)を聞いていたし、学校でも音楽の時間に聞かされたよ」  真似して歌っていたバカな友達もいたが、それは言わないことにするアンゲルだった。エレノアに子供じみた話を聞かせたくないからだ。 「本当?」 「エレノア、プロなんだろ?どうして知らないんだよ?」  エレノアは、今まで旅してまわった場所や人、聞いた話などを、一通り思い出してみた……名ソプラノの話なら聞いたことがあるし、有名なジャズシンガーや、同じ旅芸人の歌手には会ったことがある……。 「世界中を回っていたけど」  エレノアがショックを受けたようにつぶやいた。 「そういえば、本当に有名な人には会ったことがないのかも……」 「あの、別に、気にすることじゃないと思うけど」  アンゲルはあわててフォローした。 「とにかく、そんな人に教われるなんてすごいじゃないか」 「そう……そうね」  エレノアはしばらく、コーヒーカップをくるくると回しながらぼんやりしていた。アンゲルはそれを見て『ああ、落ち込んでるな』と思った。 「そういえば!」  エレノアが急に目を輝かせた。 「エブニーザは元気?」 「えっ?」 「クーと……ノレーシュのお姫様と仲がいいみたいなの。ノレーシュ語で話していたんだけど、何を言っているのかはわからなくて……」  エレノアはうきうきとそんな話を始めたのだが、アンゲルは機嫌が悪そうに立ちあがった。 「俺、そろそろ寮に戻らないと」  アンゲルはいきなりそう言うと、カフェを後にした。 「じゃあね!」  エレノアは一応声をかけてみたが、返答はなかった。  しばらくその場に残って、コーヒーを少しずつ飲みながらあたりを見回したが、特に面白いこともなさそうなので、帰ることにした。とにかく疲れていた。  帰ったらベッドに飛び込んでそのまま寝てしまおう!  エレノアはエブニーザに気があるな!  アンゲルは、エレノアのうきうきした話し方から(勝手に)確信していた。  寮に帰ってからエブニーザの部屋のドアを叩いた。反応がない。  帰って来てないのか?  何度もたたいたが、反応がないので、あきらめた。  ソファーで勉強しよう……と思ってドアに背を向けたとたん、中からうめくような声が聞こえた。 「エブニーザ?」  もう一度ドアを叩く。ドアノブを回す。カギは開いていた。 「入るぞ?」  ドアを開けると、エブニーザが真っ青な顔で床に倒れていた。全身ががたがたと震えている。 「おい!どうした!?」  慌てて顔を覗き込むと、異常なほど目を見開いていた。何か話そうとしているのだが、言葉がうまく出ないのか、うなるような声を発するだけで、何を言っているのかさっぱりわからなかった。  アンゲルはあわてて事務に走った。どう対処していいか全くわからない。とにかく慌てていた。事務にかけこんだはいいが、あわてすぎて息が上手くできず、自分でも何を言っているかわからない説明になってしまった。  事務が医者を呼び、医者が部屋に到着した時、ヘイゼルが帰ってきた。 「ああ、また何か思い出したのか?」  医者が部屋にいることに、全く驚いていない様子だ。  二人で、エブニーザをベッドに乗せ、医者が薬を飲ませた。 「心配しなくてもいい。でも、今日は安静にするように。興奮するようなことを言わないようにね」  とだけ医者は言い残して、去って行った。 「よくあることなんだ」  眠っているエブニーザを覗きこみながらヘイゼルが話し始めた。 「突然昔のことを思い出して、パニックだ。いや、別な光景を見たのかもな」 「別な光景…?」  一体何の事だ? 「寝てりゃ治まる。それとな」  ヘイゼルが深刻な面持ちでアンゲルを睨んだ。 「こいつが『かわいそうな女の子』の話を始めたら、だまって聞いてやってくれ。絶対『そんなの妄想だ』なんて言うなよ?」 「は?」 「こいつと仲良くしてたらいずれそういう話もされる。頼むから黙って聞いてくれ」 「おいおい、お前らしくないな、頼むだって?」 「大事なことなんだよ。頼む」  ヘイゼルのいつになく真剣な様子から、これはかなり深刻な話だ、とアンゲルも気がついた。しかし、どういう意味なのかはさっぱりわからない。 「その『かわいそうな女の子』って何だよ?」 「そのうちわかるさ」  しばらく二人とも黙っていた。こういう場に適切な会話なんて二人とも知らないのだ。かといって、この場を離れていつも通りの生活に戻っていいものか?  ふと、アンゲルはシギに聞いた話を思い出した。 「お前、利用できない奴としか仲良くしないって本当?」 「そんなことをストレートに聞く奴があるか」  とヘイゼルが呆れた顔をした。 「その通りだ」 「おいおい、俺はごめんだぞ、お前に利用されるのなんざ……」  ヘイゼルがにやりと笑った。 「悪いが、もう利用済みだ」 「えっ?」 「まあ、気にするな」  ヘイゼルが部屋を出て行く。  アンゲルはあわてて追いかけた。 「おいおいおい、どういうことだよ?俺に何したんだよ?」  しかし、ヘイゼルは何も答えずに自分の部屋に入り、アンゲルの目の前でドアを勢いよく閉めた。ノックをしても反応がない。  アンゲルはソファーに戻って読書を始めたが、いろいろなことが気になって集中できなかった。そうだ、エレノアがエブニーザの話をしていたんだっけ?それにしても『かわいそうな女の子』って何だよ?それに、ヘイゼルは一体俺を何に利用したんだ?  その頃、シュッティファントの当主(ヘイゼルの父親)は、バカンス先で日光浴をしながら、秘書とこんな話をしていた。 「管轄区から来たとても優秀な学生が、どうしても、どうしても、どーうーしーてーもーヘイゼルと同室じゃないと嫌だと言い張っているらしいのだ」 「え~?それ本当ですかぁ?」  若くてかわいい水着の秘書が、心から疑問の声を発した。 「あんなわがままと同じ部屋がいいなんて、言っちゃ悪いけど金目的ですかぁ?」 「それが、そうでもないらしい。純粋なるシュッティファントのファンらしい。たまにそういう奇特な人間もいるものだ。しかし、私はヘイゼルを、北の更生施設にでも放り込もうと思っていたのだが……」 「北っていうと……あれですか、この前テレビでやっていた、鬼教官が3年がかりでびっちり不良をいびりまくって、気力のないつまらない人間に作りかえるという……?」 「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。極めて真面目で社会的に有益な施設だよ。乱暴な人間を大人しくするのだ。世の中のために役立っているのだよ。私も出資しているから入れるのは簡単なのだ」 「じゃあ、その学生もいっしょに放り込んじゃえばいいじゃないですかぁ」 「しかし、管轄区からの真面目な学生にそんなことをしたら国際問題になりかねん。最近管轄区とイシュハは微妙な関係なのだ。しかも、シュタイナーからあずかった子も一緒にいるからな。うかつなことはできんのだ」 「シュタイナーが絡んでるんならしょうがないですねぇ」 「まあ、あのヘイゼルと一緒で何日持ちこたえられるか疑問だね。管轄区の二人組がどちらもダウンしたら、息子を北に送りこむことにしよう……」  次の日。  フランシスが図書館で新刊をあさっていると、エブニーザが他の生徒(シュッティファントが嫌いな一群)にからまれているのが見えた。  あーあ、あんな弱虫じゃやられっぱなしでしょうね。いつ見てもミイラのようだわ。  しばらく無視していたが、まわりの生徒も騒ぎ始めたので、フランシスは近づいていってエブニーザの腕を掴むと、出口まで引っぱっていった。 「おい、待てよ、どこに行くんだよ」  いじめっ子がついてきたが、フランシスに睨まれて全員がびくっとひるんだ。 「図書館は騒ぐ所じゃないの」  フランシスが低い声を発し、まわりの人間を鋭い目で睨みつけた。あの、敵をすくませる強烈な目つきだ。 「あんたたち、冗談は顔だけにしておくのね」  凍りついた空気に毒が流れ込む。 「部屋に鏡はないの?そんな醜い顔でよく外に出られるわね」  館内はシーンと静まり返った。  女性からこんな言葉を浴びせられては、ショックでしばらく立ち直れない人間もいるだろう。まあ、何人神経をやられようと、フランシスの知ったことではないだろうが。  フランシスはエブニーザを引っぱって外へ出た。しかし、出たとたん、今度はエブニーザをすさまじい声で怒鳴りつけ始めた。 「やり返すなり逃げるなりしたらどうなのよ!三歳児じゃあるまいし!黙ってやられてんじゃないわよ!」 「でも……」  エブニーザはさっきよりさらに泣きそうだ。 「でもじゃないわよ!」  そこにエレノアと姫君クー(最近一緒に行動している)がやってきた。 「フランシス!」  エレノアが叫んだ。 「何をしてるのよ!」  クーも叫んだ。エブニーザは二人の姿を見るなり真っ赤になって、走ってどこかに逃げてしまった。  姫君クーとフランシスは、揃ってレストランに食事に行ったが、エレノアは用事があるからと言い訳をして部屋に戻り、電話のそばに置いてあるメモをめくった。 『バカ野郎、223』  と書いてあるのを見つけ、祈りながら223をダイヤルすると、 『……誰ですか?』  うまくエブニーザが出た。 「エレノア・フィリ・ノルタよ。さっきはごめんなさいね」 『どうしてエレノアが謝るんですか?』  エブニーザは本当に何の事だかわからないという声で言った。 『フランシスが怒鳴るのはいつものことでしょう』 『いつものことって……前にも怒鳴られたことあるの?』 『えっ?』  エブニーザが妙に甲高い声を上げた。 『いや、あの……いつもヘイゼルと怒鳴り合ってますから、電話で』  しどろもどろの答え。 『あ、ああ、そうだ!アンゲルに会いましたか?』  どうやら、話題を変えようとしているようだ。エレノアは悲しくなってきた。 「どうして私にアンゲルの話をするの?」 『いや、まだ帰って来ていないので……』 「あなたって、誰にでもそんなに丁寧に話すの?」 『はい』 「もう少し友達らしく話せない?」 『友達らしく……』  エブニーザはよくわからないという様子だ。  エレノアがもっと話そうとした時、ヘイゼルが部屋に戻ってきてしまい、エブニーザから受話器を奪った。 『何の話をしていたのかな?』 「ちょっと!エブニーザと話してる途中なのよ!」 『まあまあまあ、俺もちょっと聞きたいことがあるんでね』  怒っているエレノアにかまわず、ヘイゼルは楽しそうに話し始めた。 『フランシスと同室でもう何日も経つが、実際どうなのかね?変なことをされていないかな?どうせ毎日物を投げたり怒鳴ったりしているんじゃないのかね?』 「それって、あなたに関係ある?」  エブニーザとの会話を邪魔されて不機嫌なエレノアは、わざととげのある言い方をした。 『まあまあ、怒るなって。深い意味はないのだ。ただ、あのご令嬢は30人以上も追い出しているからね、一体普段どのように暮らしていらっしゃるのか俺としても興味がわくんだな。本当に何も破壊していないのかな……』  話の途中でフランシスが帰ってきて、エレノアが電話をしているのを見るなり、受話器を奪って電話を切ってしまった。 「一体あのバカ男と何の話をしてたのよ?」 「エブニーザと話してたのよ!」  弁解するようにエレノアが叫んだ。 「ヘイゼルが受話器を横取りしたの!」 「ここの電話を使うな!」  フランシスは凄まじい大声で怒鳴り、メモをエレノアに向かって投げつけると、自分の部屋に閉じこもってしまった。  アンゲルはここ数日のイシュハでの生活で、管轄区とこちらでは、人々の意識が根本的に違うことに気がついた。  管轄区では、宗教と女神は生活そのものだ。  しかし、このイシュハでは『たまに思い出すもの』でしかないらしい。朝食の前の祈りもないし、女神の教えやら神話やら、聖書の内容なんてものが話題になることもない。行動や習慣にも全く宗教性が感じられず、ただただ本能で好きなように動いているという様子だ。  そもそもイシュハは『アニタ信仰』のはずなのに、『アニタ』という単語がイシュハ人の口から出てくるのを、アンゲルは今まで全く聞いたことがなかった。  イシュハ人はたまに『思い出したように』祈ることはあるらしいが、うっかり悪いことをしても女神に懺悔なんてしない。反省する様子もない。ただ『くそっ!』と悪態をついて終わりだ。それか、ものを蹴ったり殴ったりするか……。  めんどくさい祈りや、懺悔や、懲罰室から逃れたいと長年思っていたはずのアンゲルは、なぜかこちらの『気軽さ』にも違和感を感じていた。あまりにも精神性がないのではないか、と。何でも好き勝手にやればいいってもんじゃないだろう、と。  そもそも俺は何を求めてこっちに来たんだっけ?心理学以外に。  そんなふうに悩んでいるアンゲルの横で、ヘイゼルとエブニーザが経済指標を広げ始めた。 「そんなの見てどうするんだ」 「どうするもなにも、ぼろ儲けさ」  ヘイゼルがニヤニヤと笑っている。 「エブニーザには、未来が見えるんだ」 「は?」  話を聞くと、なんと、エブニーザが株価の上昇を予想してみごとに当て、ヘイゼルが大金をもうけたことがわかった。  金額の莫大さ(学費のほぼ10倍)にアンゲルはショックを受けた。しかも、エブニーザはほんの一部しか金を受け取っていなかった。 「お前、もっと受け取れよ!お前の予想だろ!?」 「でも、お金を出したのはヘイゼルですから」 「ヘイゼル!」 「金切り声を出すなよ。フランシスじゃあるまいし」  ヘイゼルはずっとニヤニヤしている。 「言ったろ?エブニーザは天才だってな」  満足げに笑いながら自分の部屋に戻るヘイゼルを見て、アンゲルは『こいつ、自分が利用するためだけにエブニーザを引き取ったな?世話をしてるなんて嘘だ!』と怒りだし、エブニーザに向かって 「お前!利用されてるぞ!」  と叫んだが、エブニーザはあまり気にしていない様子だ。 「何がいけないんですか?」 「何って……」 「人が死ぬわけじゃないのに……」  その瞬間、エブニーザが顔を引きつらせた。目がどこか、はるか遠くを見ているようになり、肩がかすかに震えた。 「どうした?」 「なんでも、ないです」  声まで、怯えるように震えていた。  エブニーザは、視線を遠くにやったまま立ち上がり、よろけながら自分の部屋に戻って、ドアをそーっと閉めた。  大丈夫かな?何だか病気のようにも見えるけど……。  アンゲルは、テーブルに残された経済指標と株価のリスト、商品市場リストをひととおり見た。しかし、  何が何だか、さっぱりわからないな……そういえばあいつ、学校に行ったことがないくせに、どうしてこんなに勉強ができるんだ?  どうやって勉強したか聞き出そうと、アンゲルはエブニーザの部屋のドアをノックしたが、返答がない。  あきらめて、自分の本に戻ることにした。  そうだ、俺は勉強するためにイシュハに来たんだっけ。遊ぶためでも金を稼ぐためでもないさ。確かに生活費には困ってるけど……。 「エンジェル氏」 「わあっ」  部屋に戻ったと思っていたヘイゼルが、いきなり背後に現れたので、アンゲルは驚いて本を落としそうになった。 「何だよ!?」 「バイトなんてするくらいなら、寮費はシュッティファントで出そうか?」 「は?」  ヘイゼルはにやにやと笑っている。何か企んでいる顔だ。 「わざわざポートタウンまで皿洗いにいくくらいなら、その時間は勉強か、もっと有意義に使った方がいいんじゃないかって言ってるんだよ」 「はぁ?」 「どう?」  ヘイゼルが、困惑しているアンゲルの顔を覗きこんで、ますますあくどい笑い方をした。  アンゲルにはそれが、悪魔の誘惑に思えた。  確かに、週5日もアルバイトをせずに済めば、もっと勉強時間を確保できるし、サッカーのチームにだって入れるかもしれない……。  魅力的な申し出のように思えた。しかし、シュッティファント、つまりヘイゼルに金をもらうということは……あとで見返りに何を要求されるかわからないということだ。  第一、いきなり『寮費を出してやる』なんて、絶対何か企んでいるに決まってる!  でも……。  いや、だめだ。  時間がどうとか、見返りがどうとか、そういう問題じゃない。 「断る!」  アンゲルが神経質な甲高い声を上げた。 「悪いけど、気持ちだけ受け取っておくよ。そういうことをするのはよくないんだ」 「何がよくないのかな?」 「教育上よろしくない。人間、楽をするとだめになるもんなんだよ(一回胸に手を当てて考えてみろ!ティッシュファントム!)それに、金が絡むと人間関係が壊れるだろ。同じ部屋に住んでるってのに」 「はいはい、わかりましたよ。勝手に苦労して疲れ果ててろよ。教会っ子はくそまじめだからもう……」  ヘイゼルは、ぶつぶつ文句を言いながら、自分の部屋に戻って行った。  アンゲルは本に視線を戻したが、文字を目で追っても、何が書いてあるのかまったく読めなかった。集中できなかったのだ。  これでよかったんだろうか?受けたほうがよかったんじゃないか……?でも、ティッシュファントムの金なんか受け取ったら、ろくなことにならないだろうし……でも……。    朝になっても不機嫌なフランシスとともに、エレノアは憂鬱な気持ちで授業に向かった。この日、クーは基本科目の授業にも現れなかった。どこにいるんだろうと聞くと、 「あの子実は気紛れだから、さぼってどこかをほっつき歩いてやがんのよ!」  フランシスが令嬢らしからぬ乱暴な言葉で言った。  いつまでも不機嫌なフランシスとは途中で別れ、エレノアは音楽科へ向かった。そして、あいかわらずの変人教師に振り回され、帰りには他の学生に『金持ちと知り合うなんて頭いいよね』と嫌味を言われ……。  エレノアは疲れ果てていた。  どうして毎日こんなに疲れるんだろう?親と一緒に旅をしていたころは、いくら歌っても、歩いても、平気だったのに……。  ブースに入ろうとした時、ケンタに遭遇。いつものようにギターケースをしょっているが、ばんそうこうが目元から消えていた。 「元気ねえな?」 「疲れてるの」 「ブースに入る前に休憩しねえ?」 「休憩?」 「ここじゃ、『反アケパリ派』に見つかりそうだ」  ケンタは冗談を言いながら、エレノアの手を取り、そのまま校舎の裏の芝生まで連れていった。  エレノアは、ついていって大丈夫なのだろうかと思いながらも、自分を気にかけてくれることを嬉しく思った。  二人で芝生に座り、同室のフランシスの話や、エブニーザの話をする。  なんと、ケンタは二人を知っていた。 「有名だよ。シュッティファントと関わると有名人にされるんだ。エレノアの名前もそのうち知れ渡るだろうね」 「そんな知られ方嫌だわ。私は歌で人に認められたいの」 「でも、フェスティバルに出られるなんていいじゃん。俺も応募したけど、書類選考も通らなかった」  エレノアははっとしてケンタを見た。顔から血の気が引いていく。 「選考があったの!?」 「ああ。音楽科の人間はみんな出たがるよ。この学校のフェスティバルには、音楽関係のスカウトもよく来るから、だれにとっても大きなチャンスなんだ」 「私、そんなのに出れないわ」  エレノアがかすれた声でつぶやいた。 「選考受けてないのに」 「エレノアが気にすることじゃねえよ。お嬢様が勝手に決めたんだろ?シグノーの人間が決めたんじゃ誰も撤回できない」  ケンタは優しいが、エレノアは、  選考も受けずにいきなり参加したんじゃ、妬まれても当然だ……。  と深刻に考え始めてしまった。  少なくとも、他の生徒たちがエレノアを嫌う理由ははっきりした。 『選考も受けずに金持ちの推薦でフェスティバルに出やがって』だ。 「それよりエレノア、さっきから俺たちの様子を覗き見てる、怖い目のイシュハ人がいるんだが、知り合い?」 「えっ」  エレノアが振り向くと、後ろにいた学生があわてて後ろを向いて立ち去って行った。金髪で、青いシャツを着ているが、顔は見えなかった。 「わからないわ……知らない人だと思うけど」 「もてるねえ、エレノア」  ケンタがからかうように笑った。  そのころ、姫君クーは、図書館内の資料室でエブニーザに会っていた。 「私が来ることはわかっていたでしょう?『予言者』さん?」  そんな意味深な発言をすると、エブニーザも優しく笑った。  前にノレーシュ語で会話した時に、『自分には未来が見える』という話をしていたからだ。  そして、クーはノレーシュの王位継承者である。  ノレーシュは、神話の発祥の地と言われていて、その王または王女は『神話の擁護者』でもあるのだ。ノレーシュ人は全て、神話の中で生きていると言っても過言ではない。ある意味、管轄区の『狂信的なイライザ信者』よりも、もっと神に近い所で生きている、少なくとも、ノレーシュ人はそう思っている。  神話に出てくる神の子供たちの中に、未来を予言する者がいる。  もし、神話の再来が本当であれば……私が関わらないわけにはいかない。  クーはそんなことを考えて、エブニーザのところにやってきた。他の、たとえば、エレノアやフランシス、その他イシュハ人には全く理解できない思考法だろう。  二人とも、ノレーシュ語で内緒話を始めた。 『本当は王位なんてどうでもいい』とか『女の子の姿が夢で見える』とか……。  クーは、王家の人間だからこそ知っている各国の情勢をエブニーザに説明し、その中で、 「シュタイナーは危険人物よ、気をつけなさい」  と忠告した。 「そんなこと言われても……僕を助けてくれたんですよ?何の関係もないのに」  エブニーザは困った様子だ。 「あなたには何の関係がないように見えても、向こうから見たら別な思惑があるのよ」  厳しい表情でクーがそう言ったが、すぐ優しい顔に戻った。 「どんな未来が見えるの」  エブニーザは遠くを見るような目をしたが、すぐに笑ってこう答えた。 「クーは女王になります」 「そんなこと誰でも知ってるわよ。お父様の子供は私一人だけよ。隠し子がいなければね」 「ヘイゼルも大統領になるんです」 「えっ……」  驚くクーにエブニーザが、心から同情しているような目で笑いかけた。 「大変ですね。国際会議で顔を会わせないといけなくなりますよ。国家元首として」 「そんなの大臣に押し付けるわ。冗談じゃない」 「無理ですよ。会議で向かい合ってる姿が見えるんですから」 「やめてよもう!絶対嫌!そんなの!」  本気で嫌そうに叫ぶクーを見て、エブニーザはおかしそうに笑った。  クーが恋愛とか結婚の話を聞くと、エブニーザは急に口を閉ざして下を向いてしまった。 「話したくないならいいわよ。私は結婚しないって決めているし」  エブニーザが驚いて顔を上げた。 「後を継ぐ人がいなくなりますよ」 「私の代で王家は終わりよ。決めたの」 「えっ……」 「イシュハを見なさいよ、いや、他の国でもいいわ。王家があるのはロンハルトとノレーシュだけ。未だに古代の生活を守ってるロンハルトならともかく、うちは近代国家よ。自由主義ではイシュハに負けないわ。同性愛だって認めているし、医療体制だって上。教育にかけている予算も高額なの(人口はイシュハの方が多いのにね!)それに、ノレーシュ人はみな、自分たちが一番進んでるって自負があるわ。科学技術と神話の伝統をうまく両立して、世界一の文化を築いているの。今、実際に政治を動かしているのは大臣たちよ。そんな国に、王家なんて必要ないの」  驚きのあまりクーをじっと凝視しているエブニーザに満足げに笑いかけ、クーが立ちあがった。 「もう行かなきゃ。さすがに、イシュハ語の授業はさぼれないわ」  取り残されたエブニーザはぼんやりと考える。  僕には未来が見えるけど、予想できないこともたくさんあるな、と。  エレノアは、学校の先輩たちが出演するライブを見に行くことになった。同じ音楽科の人たちがどんな曲を作って、どんな歌を歌うのか興味があったし、もしかしたら、仲良くなれる人も少しはいるかもしれない……。そんな期待をしながら。  しかし、辿り着いた会場は狭く、汚い小屋のようなところだった。  煙草の煙で空気が悪い。壁にはゴシックやハードロックグループのポスター、イベントの日程が貼ってある。十人ほど入ったらいっぱいになるようなスペースに、安物の丸椅子がたくさん並んでいて、ステージにはチューニングにてこずっている先輩が数人見えた。実は、予定開始時刻をもう30分以上過ぎているのだ。 「なんか、機材が合わなかったらしいよ」  と誰かが話しているのが聞こえた。  それくらい、前の日に調整できなかったの?  エレノアは心から疑問に思った。煙草の煙でのどがおかしくなりそうだったので、飲み物を探した。古い時代の衣装と帽子を身に着けていたエレノアは、ドリンクの販売員に、 「あれ、それコスプレ?似合うね。令嬢っぽい」  と言われてしまった。  苦笑いしていると、ハウス内が暗くなり、ようやく演奏が始まった。  しかし、どの出演者も……下手だった。  音楽学校の生徒のはずなのに、歌の音程ははずれ、ギターやピアノは弾き間違い、もともとどんな曲だったのか想像するのが難しいほど悲惨だ。バンドの音響もめちゃくちゃで、耳が割れそうなほどの大音響。  エレノアが耐えきれず耳をふさぐと、近くの席にいた学生が真顔で睨んできた。  曲の合間にMCが入るのだが、みんな気取っていて、偉そうで、『人類の未来を守ろう』とか『世界の平和のために歌います』とか、『俺の歌でみんなを幸せにするぜ』とか、演奏とまるでかみ合っていない壮大さだった。それに合わせて「イエーイ」とか「オー」とか叫んでいるのは、おそらく同じ学科の生徒か、顔見知りだろう。少なくとも、初めてこの会場に来た人が、あんな演奏でそこまで盛り上がれるとは、エレノアはどうしても思えなかった。  全ての演奏が終わるまで耐えて、帰ろうとすると、どこかで見たような顔の先輩たちに、 「どうだった?」  と、声をかけられた。 「あのー、よかった、です」  エレノアは笑いを作って答えたが、その場の空気は凍りついてしまった。明らかに嘘をついているとばれてしまったようだ。かといって他に何と言えばいいだろう『低レベルな演奏でがっかりです』なんて言ったら、何が飛んでくるかわかったものではない。  冷ややかな視線の中、逃げるように外に出たエレノアは、入口にいるケンタを発見。 「よう、エレノア。とっとと逃げるぞ」 「えっ?」  ケンタは、ギターケースでエレノアをかばうようにして近くに寄せ、ささやいた。 「先輩がたの耳に入らない場所に逃げて、悪口を言おう」  いたずらを仕掛ける子供のような口調だった。エレノアは笑ってしまった。  二人で道を走り、もう誰も追いかけてこないだろうというところで、 「最悪のライブだな。客がかわいそうだ」  とケンタが吐き捨てるように言った。 「えっ?」 「エレノアがさっき先輩に絡まれてるの見て、俺『顔見知り少なくてよかった』って思ったよ。このライブを『どうだった?』って聞かれたって『最悪だ、客をバカにしてんのか、ほんとにプロになる気があんのか?』としか言えない。アケパリ語で言うと『愚の骨頂』だな。練習不足が音からも明らかだ。そのくせ、トークだけは一人前に偉そうなんだから最悪だ」 「そこまで言わなくても」  とエレノアは言ったが、本心はケンタの言ったとおりだった。 「イシュハのライブハウスってみんなこんな感じなの?なんだか怪しげな」 「うーん、俺もよく知らないけど、ロックが主流だからね。だいたい似たようなもんだと思うよ。俺がアケパリでライブやった会場も似たようなもんだった」 「そう……」  エレノアは野外や、大きなテントの中で歌うことが多かったので、ライブハウスの暗い、閉鎖的な空間に圧迫されるような気がした。  もっと開放的な場所で活動はできないんだろうか……それにしても、どうしてあんな、未完成の未熟な状態で、人前で歌おうなんて思うんだろう……いや、自分だって、未熟な子供のころから人前で歌っていた……でも、何か違う気がする……何だろう? 「エレノア、やっぱり変な男が後ろをつけてくるんだけど」 「えっ?」  後ろを見ると、また、先日と同じ背格好の学生が、慌てて走り去っていくのが見えた 「何かしら……怖いわね」 「エレノアのファンなんじゃない?俺、そのうち襲われるかもなあ」 「やめてよ」  アンゲルが『人生脚本』の本を読みながら『小さいころに無意識に書いた脚本……俺、7歳の時なにしてたっけなぁ……』と考えていると、電話が鳴った。  アンゲルが電話を取ると、ドゥーシンと名乗る低い声の男が、エブニーザに代われと言ってきた。エブニーザに代わると、見たことのないような楽しそうな顔でしゃべり始めた。  ふと見ると、ヘイゼルが、ソファーから白けた視線をエブニーザに送っている。  エブニーザが受話器を置くのと同時に、ヘイゼルが質問を発した。 「お前、まだドゥーシンと何かやってるのか?」 「え?」  エブニーザが言いにくそうに目線をそらした。 「えーと……ポートタウンの管轄区側に森があるでしょう?ドゥーシンはあそこに住んでいるんです。近いから時々会いに来いって」 「やめとけ。ろくなことにならんぞ」  ヘイゼルがサッカー雑誌をめくりながらつぶやいた。 「あいつ自身は悪くはないがな」 「ドゥーシンって誰?」 「友達です」 「犯罪組織だ」  アンゲルの質問に、二人が同時に答えた。 「犯罪組織?」 「違います。友達です。ちょっと変わっているだけです」 「シュタイナーの手下だよ」  ヘイゼルが不愉快そうに舌打ちをした。 「かかわらんほうがいいって言ってるのに、こいつは言うことを聞かない」 「シュタイナー」  アンゲルが身を乗り出した。 「エブニーザ、本物のシュタイナーってどんな人間だ?」 「え?」 「実物を見た事があるんだろ?」 「ありますけど……」  エブニーザが言いにくそうに身を引いた。 「書斎で何か読んでいるところしか見た事がないんです。僕はほとんど資料室か自分の部屋にこもっていたので……」 「シュタイナーの屋敷に自分の部屋があるのか?」 「そうですけど……」 「もうなくなってるさ。戻ろうなんて思うなよ」  ヘイゼルが二人の間に割って入ってきた。 「お前は一人立ちしないとだめだ。シュタイナーに頼るな」 「ヘイゼル……」  アンゲルは、エブニーザの顔から血の気が引いてくのをはっきりと見た。 「そこまで言わなくてもいいだろ。大学に入ってから考えてもいいだろ、先のことは」 「大学に行くんですか?」 「えっ?」 「何ぃ?」  アンゲルとヘイゼルがそろってエブニーザを見た。 「行くだろ?この学校は大学に行きたい奴のためにあるんだぞ?」  ヘイゼルが驚きを隠さずにそう言うと、 「どうしても、行かないといけないんですか?」  と、エブニーザが弱々しい声で尋ねた。不安そうに。 「はあ?」  アンゲルはあからさまに呆れた顔をしたが、エブニーザは真面目に質問しているようだ。すがるような目でアンゲルとヘイゼルを交互に見つめている。 「だって、エブニーザ」  アンゲルはなんとかまともな説明をしようと試みた。 「お前、いっつも本ばっかり読んでるだろ?人に会うのも嫌いなんだろ?大学に行かないで、どうやって生きて行くつもりだよ?頭使う以外に生活する道がないだろうが」 「そうなんですか?」 「そうなんですかって……」  エブニーザは『何の事だか全然わからない』という顔をしている。 「アンゲル」  ヘイゼルがサッカー雑誌をアンゲルに押し付けた。 「これでも読んで寝てろ。エブニーザは世の中なんか何も知らないからな」  そして今度はエブニーザの方を向いて。 「大学に行け。じゃないと俺は縁を切るぞ」 「えっ……」  ヘイゼルは立ち上がり、二人を置いて自分の部屋に戻ってしまった。 「俺だったら、喜んで行くのやめるね。あいつと縁が切れるんなら」  アンゲルは雑誌を読みながらそんなことを言い、エブニーザは不安げな顔でヘイゼルの部屋のドアを見た。 「アンゲル」  エブニーザが、かすれた声でアンゲルを呼んだ。 「何?もう遅いから寝ろよ」  雑誌から目をそらさずにアンゲルが聞き返した。 「アンゲルは。生活するために心理学をやっているんですか?」 「違う。心理学をやるのが夢だったんだよ」  管轄区じゃ、心理学で生活なんかできないしな。  アンゲルは心でつぶやいた。 「夢……」  エブニーザが近寄ってきた。 「誰かが、見えたりしますか?」 「は?」  アンゲルが顔を上げた。 「だれか、自分以外の人が、夢で見えたり、します?」 「は?」  アンゲルはエブニーザが何を聞きたいのかわからなかった。 「夢で、別な人の人生が見えたり、しないですか?」 「知らない人が出てくることはあるけど……それが何?」 「その人に現実に会ったことは?」 「あるわけないだろ。夢なんだから。まあ、知ってる人が夢に出てくることはあるけど」 「そうですか」  エブニーザは肩を落として、いかにも落ち込んでいるようなふらふらした歩き方で、自分の部屋に戻っていった。そしてドアをそーっと閉めた。  ……何だ?何が言いたかったんだ?変な夢でも見たのか?  アンゲルはエブニーザの落ち込んだ様子が気になり、ふと、  あいつの人生脚本は悲惨そうだな。書き変える必要がありそうだ。  と思ったが、手元の雑誌に『アルターの競技場でサッカー世界大会の決勝戦が行われる予定……』という記事があるのが目に入って、夢中で読み進んでいるうちに、エブニーザのことは忘れてしまった。  エレノアとクーはまた並んで授業を受けた。  エレノアは、ときどきクーが自分の方を見て、愛しげに笑っていることに気づいたが、意味がわからなかったので、知らないふりをした。  昼にはフランシスと合流。フランシスがクーにこんなことを言い始めた。 「エレノアがあの気持ち悪いエブニーザに夢中なのよ」 「ほんと?」  クーが怪訝な顔をした。 「フランシス……」  エレノアはどう話していいのかわからなくなってしまった。しかし、二人に『どうなの!?どうなの!?』としつこく追及されて、正直に、 「気になる」  と答えた。するとクーは同調してこう言った。 「あんなに美しい少年が現れたら、だれだって心を奪われるわ」  しかし、フランシスは全く逆の意見だ。 「気持ち悪い。暗い。目の色が不気味。人間とは思えない。しかも病気」  心の底から不快そうな顔で、そんな言葉を連発した。 「何言ってるの!?」 「フランシス!」  クーとエレノアが揃って抗議したが、フランシスは意見を変える気は全くないらしい。 「ヘイゼルもシュタイナーも、何考えてやがるんだかわかりゃしないわ。あんな弱虫じゃ、いくら頭が良くても、世の中を渡っていけるとは思えないけど。学費を出すだけ無駄じゃないの。どっかの施設にでも入れて、一生ぼーっとさせときゃいいじゃない。あんな青白い顔でびくびくしながらそこら辺をうろうろされたんじゃ、まわりがいい迷惑じゃないの」 「ひどい……」  フランシスの毒舌には慣れたつもりだったエレノアだが、これには参った。 「フランシスって、弱い男が大嫌いなのよね」  クーがいたずらっぽい顔で笑った。 「で?これからどうするの?」  クーが尋ねたが、エレノアは、 「どうするって言われても……」  と困るだけだった。  そのうち、フランシスとクーは別な友人(エレノアには縁のなさそうなお金持ち)のうわさ話を始めてしまい、エレノアはぼんやりとそれを聞きながら、エブニーザのことを考えた。でも、すぐに母親に言われた、 『大いに勉強しておいで、そして大成功しなさい。でも、男にはまっちゃだめよ』  という言葉を思い出した。  そうだ、私は音楽の勉強のためにアルターに来たんだっけ。 「歌の練習に行かなきゃ」  そう言って、エレノアは逃げるように寮を出た。  音楽科に向かって歩く。久しぶりに雨が降って、ところどころに水たまりができていた。  ときどき覗きこんでみると、薄暗い水面に自分の顔が映った。  元気ないわね。  エレノアは、水面に移った自分に話しかけた。声には出さずに。  傘の先で水面を突く。波紋が広がり、自分の姿が割れて、揺れ動いた。  水面が元通りに静まると、また傘の先で突き、波紋や、水滴の落ちたあとを見る……。  エレノアはそんなことを繰り返していた。自分の働きかけで動くものが、目に見える形で現れると、面白い。  理論的に、あるいは実用的には何の役に立たない行動でも、気を紛らわすくらいの効果はあるらしい。少なくともエレノアには。  そのころ、アンゲルは、バイトに向かうために歩いていた。傘を持っていない(今持っていないと言う意味ではなくて、本当にアンゲルは『自分の傘』を所有していないのだ)ので、雨がまた降らないうちに駅にたどり着こうと、かなり早足で歩いていた。  すると、視界に見慣れた帽子をかぶった女の子の姿が。  エレノアが、水たまりの表面に傘の先で円を描いていた。  ……何をやってるんだろう?  離れた場所から観察していると、エレノアは、水溜りの真ん中で傘の先をふっと上げ、水をまっすぐに跳ね上がらせた。それを、楽しそうな顔で何度も繰り返している。  アンゲルがそーっと近づいて行くと、エレノアはアンゲルに気づいて、傘をひっこめて顔を真っ赤に染めた。  かわいいなあ……。  アンゲルはニヤニヤしながら、 「何してたの?」  と聞くと、エレノアは慌てた様子で、 「なんでもない!」  と叫んで、走って逃げて行ってしまった。  アンゲルはしばらく『よくわからないけど、いいものを見た』と、ニヤニヤしながら水溜りを眺めていた。  しかし、そのうち雨が降り始めたので、あわてて駅まで走って行った。  アルターの学生たちは金銭的に余裕があるのか、やたらに買い物をしたりライブに出かけたりと金遣いが荒い。アンゲルはアルバイトでギリギリの生活をしているので、そんなイシュハ人たちと同じ行動はできず、かといって、管轄区の生徒とは全く気が合わず、学校とバイト以外に行き場がなくなっていた。  ある日、バイト先のレストランに配達にやってくる食料品店の店員が、 「あれ、お前、この前学校にいなかった?」  と話しかけてきた。  この店員、ロハンは、同じ学校の『安いほうの寮』の住人だそうだ。アンゲルはその寮に遊びに行くことになった。  開いている部屋があったら、移してもらえないか頼んでみよう……。  そんなことを期待して行った古臭い建物には、残念ながら、空いている部屋はなかった。  ロハンの部屋に入ると、ドアの前にいきなりベッドが二つ置いてあって、両サイドの壁際に本棚と机があった。同じ部屋を二人で共有する造りになっているらしい。  冷房がなく、蒸し暑い。汗がだらだらと流れる。窓を開けても風が入って来ない。  どちらの本棚も、教科書や難しい専門書で埋め尽くされていて、雑誌やコミックなどは一切見当たらなかった。 「イシュハ人でも真面目な奴いるんだなあ」 「ああ、同室のノレーシュ人が怖いくらい勉強家だから、負けてられないんだよね」 「へえ……」  そういうルームメイトならいいなあ。お互いに成長できて。  こっちはティッシュファントムと……半病人だもんなあ。やっかいなだけだなあ……。  うらやみつつも話を聞いてみると、ロハンはイシュハ人だが『あまりにも貧乏で、父親が刑務所にいて、母はアル中なので』特例でこの『移民の寮』に入ったという。 「いいのは成績だけだ。おかげで助かったけどね」 「俺だってこっちに入りたかったのに、高い寮に三人押し込められて、しかもティッシュお化けと一緒なんだぞ」 「ティッシュお化け?」 「本名は、えーと、なんだったっけ、シュッティファント?」  ロハンは『シュッティファント』という単語に露骨に嫌悪感を示した。 「あいつらが好きな奴なんているもんか。国の金をどんどん吸い取りやがって」 「そうなの?」 「そうさ!」  ロハンが、抗議文でも読み上げるように叫んだ。 「あいつらがいなかったら、俺たちの暮らしはもっと楽になっているはずなんだ!」 「ふうん……」  どういう仕組みでそういうことになるのか、アンゲルはよくわからなかったが、今まで会ってきたイシュハ人の態度から、おそらくロハンの今の言葉が、イシュハ人の一般的な『シュッティファント』の解釈なのだろうと考え、あえて反論はしなかった。  同じ学校の生徒がみんな、趣味やパーティや車に金を使っているのを見て、苦々しい思いをしていた二人は、 「あいつらおかしいんだよ」 「金を使うために学校があるわけじゃねえんだよ」 「俺たちは真面目に勉強してんだよ」 「しかも働いて税金取られてるんだぞ!」 「そうなの?」 「勝手に引かれてるよ。明細見てみろよ」 「知らなかったあああああ!!」 「何にでも金がかかりすぎるんだよなこの国は」 「遊んでる奴はろくな人生送れねえぞ!」  と変なことで意気投合し、夜遅くまで語り合ってしまった。  しかし、帰り際、アンゲルは、ロハンの部屋の隅に、飲んではいけないアルコールの空き瓶がたくさんあることに気がついた。  難しそうな本がたくさん並び、不思議なほどきちんと片付いている部屋と、その空き瓶の群れは、妙なコントラストを作り出していた。  気になったが、ロハンに『お前が飲んだのか!?』と尋ねることはできなかった。  寮に帰ると、こんどはエブニーザが『人に会うのが怖い』と言ってやはり部屋にこもっていたので、話しかけてみることにした。  いつもヘイゼルばっかり延々としゃべってて、こいつと話したことがなかったからな。  それにいつか、人さらいの正体をつきとめないといけないし……。 「どうしてヘイゼルはあんなジジイみたいな口調なんだろうなあ」 「『カントナ博士の日常』って知ってますか?」 「知ってるよ。ベストセラーだろ。何冊か読んだことがある……あっ」 「そうですよ。あの博士の口調ですよ」エブニーザがおかしそうに笑った「カントナ博士に、シュッティファントの高慢さを足すと……」 「ヘイゼルになるんだな!……でも、あれって子供向けの、どっちかというと常識的な本だよな?ヘイゼルがおもしろがって読むとは思えないけど……」 「かなり小さいころに読んだらしいんですよ」 「それにしても合わないなあ、あの博士ってかなり道徳的だろ?」  管轄区の厳しい検閲は有名だ。通過する本は珍しい。特にイシュハの本は、ほとんど通過できないと言われている。そこを通ったと言うことは、その本は『かなり道徳的な本』『料理などの実用書』あるいは『当たり障りのないつまらない本』のいずれかに該当する。 「ヘイゼルはけっこう道徳的な所がありますよ」 「……どこが?」  しばらくは、本の話で時間が潰せた。エブニーザは、アンゲルが知っている本はほぼ全部読んだことがあると言った。  いいなあ。シュタイナーのところにはそんなに本があったのか……。  一瞬うらやましくなったが、エブニーザがそういう立場になったのは『人さらいにさらわれる』という不幸のせいだったと思いだした。 エブニーザはいきなり上級の3年に入ったので、うまくいけば来年には大学に進めることになる。 「将来何になるつもりだよ?成績がいいから何にでもなれるだろ?」  アンゲルがやや嫉妬を含んだ口調で言うと、エブニーザは気まずそうに下を向いてしまった。 「……わかりません」 「わからない?」 「自分が何をしたいか、わからないんです」 「まあ……あせって決めなくてもいいんじゃないか?実際ここの学生で将来が決まってる奴なんてそんなにいないだろ」 「でも、どうしてもやらなきゃいけないことはあるんです!」  急にエブニーザが熱のこもった声を出したので、アンゲルは興味をそそられた。  何だろう?『作家になりたい』とでも言うのかな?本好きらしいしな……。 「何?」 「彼女を助けなきゃ」 「は?」  何の話に飛んだのか、アンゲルは一瞬戸惑った。 「何?」 「もともと彼女はご両親と妹さんと、幸せに暮らしていたんですが、ある日、両親が殺されて、変な所に引き取られてしまったんです」  エブニーザが真面目な顔で、訴えるような熱心さで話した。 「汚い部屋に住んでいて、毎日怒鳴られたり殴られたり、とんでもないことをさせられたりして……疲れ果ててぼんやり窓辺で外を眺めてる。早く見つけて助け出さなきゃ」 「ち、ちょっと待って、それ誰の話?知り合い?」 「見えるんです」  アンゲルがその一言で思い出したのは、 『私は霊が見える、死んだものが無念でさまよっているのが見えるのだ~』 と言っていた、昔話のしわがれたお婆さんの声だった。管轄区の国営ラジオ放送でやっていた、昔話に出てくる霊媒師の老女の話だ。  アンゲルはそんなものを思い出してポカーンとしていた。しかし、エブニーザは構わずに、熱のこもった口調で話し続けた。 「夢の中とか、歩いている時に、ふと、彼女の姿が見えるんです。未来が見えるのと同じように、予知と同じです。いつもいじめられたり、殴られたりしているんです。どこにいるかはわからないけど、早く見つけ出さなきゃ……」 「ちょっと待って」  アンゲルは本気で頭を抱えた。 「つまりそれ、誰?」 「だから、たまに見えるんです!確かにいるんです!」  エブニーザが『どうしてわからないんだ!』と非難しているような口調で叫んだ。  それから『それにしたって誰だよ』『だから見えるんですってば!』『だから何でだよ!?』の問答を繰り返した後、アンゲルが出した結論はこうだ。 「お前、精神病んでるだろ?」  真面目に、深刻な顔でアンゲルが宣言した。 「それは抑圧から来る妄想ってやつだぞ」 「違います!」  エブニーザが青い顔になりながらも、珍しく強い口調で反論した。 「いや、落ちついて聞けよ。お前はきっと、監禁の後遺症で、別人を頭の中に作り上げて、自分の体験を投影してるんだ。殴られたりこき使われたりしてたのは、彼女じゃなくて、お前なんだ。その体験があまりにもつらいから、別人を作り出して、自分は遠くから見る立場に退避したんだよ」  勢いで喋ってから、アンゲルはしまったと思った。  エブニーザが、凍りついたように動きを止めてしまったからだ。 「エブニーザ?」  呼びかけても返答がない。 「おい、大丈夫か?」 「違う」  エブニーザは真っ青な顔で、半ば震えながら立ちあがった。 「違う」  そのまま、よろけながら部屋に戻り、そーっとドアを閉めた。  そのあと数日、エブニーザは、アンゲルを無視して話そうとしなかった。  部屋から出てくると、アンゲルにもヘイゼルにもあいさつせずに、そのまま出て行ってしまう。  授業で見かけ近づくと、走って逃げてしまう。  夕方、ヘイゼルが図書館に探しにいっても、いない。  早めに自分の部屋に帰って、そのまま閉じこもっているらしい。 「何があったのかな?」  3日ほど経って、エブニーザの変な態度にようやく気がついたヘイゼルが、ソファーにふんぞり返ったまま質問を発した。  アンゲルがようやく事情を打ち明ると、ヘイゼルは逆上して、ものすごい勢いで怒鳴り始めた。 「だから女の子の話は否定せずに聞けって言っただろ!?」 「だってどう考えても妄想だろうが!」 「そんなことは関係ない!実際にいるかどうかなんてどうでもいいんだ。問題は、あいつの心の支えがその女の子しかないってことなんだよ。いつかその子に会える、それだけを支えにここまで来てるんだ。じゃなきゃ一生シュタイナーの屋敷にこもってただろうさ!シュタイナー爺さんのところにいたときのあいつがどれだけおかしかったか、見せてやりたいよ。まるで廃人だったのだぞ!?話しかけても何の反応もしない!それをようやくここまで持ってきたのだぞ!本当の事がどうかなんてお前の知ったこっちゃないだろ!それに未来が予知できるんだから、本当にそんな女がいてもおかしくないだろ?」 「未来が見えるって、経済指標を見て株価を予想するのはまだわかるけど、いくらなんでも女の子が……」 「実在しようがしまいがそんなことは関係ない!要はあいつがまともになるまでもちこたえればいいんだよ!夢を壊すなよ!奴の人生がかかってるんだぞ?」  めずらしくヘイゼルがまともなことを言ったので、アンゲルは一応反省したが、それでも、話の内容はほとんど理解できなかった。  ……ちょっと待てよ。 「ヘイゼル」 「何だよ」 「そんな重い症状の奴を、お前の勝手な判断で引き取ったのか?」 「シュタイナー爺さんのところにいるより、こっちのほうがよっぽどマシだね」 「病院に連れて行くべきじゃないのか?学校にも精神科医がいるから……」 「そんな必要ないさ。病気じゃないんだから」 「おい……」  アンゲルから見れば、エブニーザは明らかに病気だ、しかもかなり重い。 「心配するなって」  ヘイゼルが軽い口調で、口元だけにやっと笑った。  もちろんアンゲルは納得できなかった。 『そんな妄想を抱いたまま生きていて大丈夫なんだろうか……?』 『カウンセリングでこういう患者と延々とつきあわないといけなくなるのか……』 と、一人で頭を抱えてしまった。 「それより明日試合があるだろ?」  ヘイゼルが、先ほどとは打って変わって、心底楽しそうにニヤニヤと笑いだし、赤いジャケットのポケットから、サッカーの観戦チケットを二枚取り出した。 「行くぞ。代金は気にしなくていい」  落ち込んでいたアンゲルも急に飛びあがって、チケットに顔を近づけた。 「おおおお!マジ?本物?」アンゲルは自分の目が信じられないようだ「ダフ屋じゃなくて?これ本物のチケット?ほんとにプロの試合?」 「シュッティファント様が偽物を持ってくると思うか?」  競技場で本物のプロの試合が見れる!!アンゲルは大喜びだ。  サッカーには、何もかもを吹き飛ばす威力がある、少なくともアンゲルにとっては。  ……次の日、  三人分のノートを抱えたエブニーザが、教官に、 「あの二人はどうした?」  と聞かれて、 「文句はサッカー協会に言ってくださいよ!」  と泣きそうな顔で叫んでいるのを、上級のほとんどの生徒が目撃することになった。
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