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第四章 フェスティバル~映画館騒動
フェスティバルが近づいてきた。
エレノアは、自分の持っているステージ衣装をすべて取り出して、窓辺に並べた。
古いものばかりで、中には、100年戦争時代のドレスまで混じっている。旅芸人をしながら集めたものだ。
そんな古いドレスの中からステージ衣装を選ぼうとしているエレノアを、フランシスはしばらく、珍しいものを見るような目で観察していたのだが、エレノアがその中でも一番古そうな衣装に手を出したとたん、
「そんな古臭いの着ないでよ!」
と、お得意の甲高い声で叫んだ。
「でもこれ、すごく由緒正しい衣装なのよ。有名な舞台女優がエルッコ・シデクラの舞台のためにわざわざ作ったもので、今では使われていないレースが……」
「だめ!」
フランシスは、エレノアの手から『由緒正しい衣装』をひったくった。
「そんな古臭い舞台とフェスティバルを一緒にしないでちょうだい!私があんたを推薦したんですからね!変なものを着てもらっちゃ困るのよ!」
フランシスは、壁にかけてあった帽子を、エレノアに向かって投げつけた。
「出かけるわよ!支度しなさい!」
有無を言わさない命令口調だ。
「どこに?」
「セカンドヴィラ!!」
フランシスが軍隊のような口調で『イシュハのファッション・キャピタル』の名前を叫んだ。
「ちゃんとしたデザイナーに作ってもらうわよ!」
「えっ?」
「早く着替えろ!!」
いきりたつフランシス。エレノアがあわてて着替えている間に、フランシスはクーに電話したらしい。女子寮を出ると、黒塗りの車が止まっていて、後部座席からクーが笑顔で手を振っているのが見えた。
「セカンドヴィラなんて久しぶりだわぁ」
クーはうきうきした様子だ。
どうやら、エレノアのためというよりは、自分が行きたいだけらしい。
こうしてエレノアは、半ば誘拐されるように、北の街セカンドヴィラに連行された。
セカンドヴィラは『ファッション・キャピタル』の名前の通り、大きな通りのほとんどが有名デザイナーのショップや工房で埋め尽くされている。歩く人々もモデルのように華やかに着飾っていて、日常がファッションショーのようだ。
エレノアは、前にもこの町に来たことがあったが、旅芸人の両親と一緒で、買い物をするお金は持っていなかったため、店のほうを見たのは今日が初めてだった。
「あの神殿のあたりだけ覚えているけど……」
「ああ、あれはずっと前からあるわね」
フランシスが興味なさそうな声で言った。
「他の店は常に入れ替わってるし、建物もすぐに変わるから」
「町の景色も文化財産なんだけど、イシュハ人ってそういうこと考えないのよね」
「そんなつまんない話はやめてちょうだい、クー」
フランシスのお気に入りだという、どこかで聞いた名前のデザイナーの店の前で、車は止まった。
それから、自身もモデルなのではないかと思うほど美しいデザイナーに迎えられ、エレノアのためのドレスは新調された。
ドレスはあまりにも美しく、エレノアははじめて自分の姿にうっとりした。
「あんたって、クーより姫君に見えるわよ。その格好だと」
フランシスが苦笑いする。ただ、また大きな帽子をかぶろうとしてクーに、
「そんなのかぶったら、せっかくの美しい顔が見えないでしょ」
と、飾りのついた、王族がかぶるような小さいものを勧められた。
そんなふうにして衣装が決まり、今までにましてやる気になったエレノアは、必死で曲作りと練習に励んだ。
しかし、音楽科の生徒たちは、あいかわらずエレノアをよく思っていないようだ。
楽典の授業の最中に、消しゴムを小さくちぎったものがたくさん飛んできた。
廊下では、誰かに足をかけられて転んだ。
建物を出ると、誰かがくすくす笑っている声が妙に気に障り……エレノアは落ち込んでいた。
そして、肝心の歌のレッスンも大変だ。
ケッチャノッポ先生が、相変わらず変人ぶりを発揮して、
「もっと情熱を!歓喜を!」
と叫びながら、曲芸師ばりのジャンプや回転を披露して、エレノアを混乱させるのだ。
疲れる……。
ブースで練習をした帰りに図書館の前を通ると、カフェにアンゲルがいた。
沈んでいる様子なので、どうしたのか聞いてみると、
「エブニーザとけんかしてね」
と、力ない答えが返ってきた。
「どうして?」
エレノアは驚いた。ヘイゼルならともかく、アンゲルは、そんなに簡単に人とけんかをするようには見えないからだ。
「いやー、説明しにくいんだけど、あいつの意見というか、見かたというか、それが変だって言ったら、部屋にこもって口をきいてくれなくなった」
「そう」
エレノアはフェスティバルの話をした。みんなに良く思われていないのに、いきなりメインの歌姫になったのがプレッシャーだと話すと、
「そんなの、実力で認めさせればいいだろ?妬む奴なんか気にするな」
強い口調でそう言うと、アンゲルは笑った。
「いやがらせするほど暇だなんて、どうせ大した奴らじゃない」
アンゲルの不思議な所はここだ。強そうなことを言ってもきつく感じない。押しつけるような感じが一切しない。
なぜだろう?
女子寮に帰ると、クーが遊びに来ていた。
エレノアが『みんなに嫉妬されてる』と話すと、
「大丈夫よ、あなたなら」
クーがエレノアの背中を撫でながら、どこか、うっとりするような微笑みを浮かべて、エレノアの目を覗きこんだ。
エレノアはその瞳の深さと、微笑みに現れたあまりの愛しげな色に、どぎまぎして頬を赤く染めた。
本当にこの子は姫君なんだ!やっぱり普通の人とは何かが違う!
「本当にかわいいのね、エレノア」
クーが耳元でささやいたので、ぞわぞわとした感触と共に、エレノアの顔がますます真っ赤になった。
「からかうのやめなさいよ。姫君の悪い癖ね」
フランシスが面白がっているように、カラカラと独特の笑い声をあげた。
授業のあと。
図書館で本をあさっていたアンゲルに、エブニーザが、
「お母さんから電話がありますから、帰った方がいいですよ」
と言った。無表情だったが。
あの『女の子が見える』でもめた日以来、久しぶりに自分から話しかけてきたので、アンゲルは嬉しかったのだが、顔には極力出さないようにした。
「お前が電話取ったのか?」
「いいえ、見えただけです」
それだけ言うと、エブニーザは無表情のまま去って行った。きっといつもの資料室に行ったのだろう。
見えただけって何だ……?
疑問に思いながらもアンゲルは一応、読みかけの本を借りて部屋に戻った。
30分後、電話が鳴り、取ると本当に母親だった。
「食料を送る、あれも送る、これも送る、心配だ。父さんがまた変なものを森から拾ってきて云々」
同じ話を何度も繰り返して、なかなか話が終わらないので、アンゲルは頭痛がしてきたが、かといって切ることもできず、ひたすら話を合わせててきとうに返事をし続けた。
一通り話が終わって電話を切った頃には、2時間ほど過ぎていた。
アルバイトに行く時間を大幅に過ぎていた。慌てて部屋を飛び出した。
数日後。
アルバイトを終えて、アンゲルが部屋に戻ると、母親から送られてきた荷物を、ヘイゼルが勝手に開けていた。
「人の荷物を勝手に開けるな!」
「まあまあまあ」
ヘイゼルがにやけながら、封筒をアンゲルの目の前にかざした。
「それより面白いものが届いてますぞ。『拝啓、アンゲル、ちゃんと勉強してるんだろうね、こちらは相変わらずお父さんが変なものを集めて……』」
アンゲルは逆上してヘイゼルにとびかかったが、あっさりかわされて、ソファーの上に倒れた。
「『……置き場所がないのにどうしてそんなものを持ってくるんでしょうね?何度言っても聞かないんだから。あんたが注意した方が聞くんじゃないかしら?それと、この前郵便局でカペットのおばさんに会いました。あんたが夢中になっていたミレアちゃんが……』おおお、何かね、スキャンダルの香りがしますなあエンジェル氏!」
「人の手紙を勝手に読むなあああああああ!!!!」
ヘイゼルは爆笑し、手紙を朗読しながら部屋中を飛び回った。アンゲルは真っ赤な顔でそれを追いかけ回し……。
部屋をひととおり駆け回り、アンゲルがやっと手紙を取り返した頃、エブニーザが帰ってきた。
アンゲルはビスケットを渡そうとしたが、
「遠慮します」
エブニーザはそれだけ、小さな声で言うと、自分の部屋にこもってしまった。
「あいつは偏食だぞ」
そう言いながら、ヘイゼルがビスケットを奪い取った。アンゲルがすさまじい目つきで睨んだが、全く気にならないようだ。
ヘイゼルはほっといて勉強しよう……。
アンゲルは本を開く……ふと、エブニーザが母の電話を予知したことを思い出した。
どうしてわかったんだ?かかってくる前に?
ヘイゼルにその話をすると、
「予知能力さ」
口にビスケットを詰めたまま、ヘイゼルが答えた。
「予知能力?」
「前にも言っただろ?未来が見える。何でも当てる。天才だ、だから連れてきたんだ」
「だからって、うちの母親の電話なんか予知してどうするんだよ!?」
「俺に聞かれてもわからんね……ブッ!」
ヘイゼルが食べかけのビスケットを吐き出した。
「なんだこれは!?足の裏みたいな味だぞ!教会っ子は味覚がないのか!?」
「勝手に食って文句を言うな!!」
アンゲルは、ヘイゼルからビスケットの袋をひったくった。
そして、妙なことを始めた。
まず、テーブルの上にビスケットを全て出した。
そして、一つ一つ選別し、二つのグループに分け始めた。
ヘイゼルはしばらく、アンゲルのこの奇妙な行動を見守っていたが、作業が半分ほど進んだところで、
「エンジェル氏」
めずらしく控えめに質問した。
「何をしているのかな?」
「分けてるんだよ。これは生焼け。これは黒焦げ。これは材料が混ざってないから、うっかり口に入れるとまずい。さっき引っかかっただろ」
アンゲルは当然のことのように言った。手を止めずに。
ヘイゼルは、何か、見てはいけない物を見てしまったような、困惑の顔をした。
「それは……」
うさんくさそうに目を細めながら、つぶやいた。
「なんというか……問題じゃないのかな?工業製品として、質が均一じゃないというのは」
「別に普通だろ。人間が作ったものなんだから、変なのも混ざるよ」
ヘイゼルはテーブルの上をじっと見ている。
アンゲルが分けたビスケットの山は、規格品より不良品のほうが多いように見える。
「……いちいち分けてから食わにゃいかんのかな?」
「何だよさっきから」
アンゲルがヘイゼルに抗議の目を向けた。
「別にビスケットじゃなくたって、何だって、まず袋の中身がちゃんとしたものか、確かめてから食うだろ?」
「確かめなくても食えるものが入ってるべきじゃないのかね?」
「確かめないで変なもの食ったらどうするんだよ?」
「メーカーに電話して、苦情を言って金でも取るさ……」
ヘイゼルは、ビスケットの空き袋を手に取った。
「何も書いてないな」
ヘイゼルは袋を持ったまま立ち上がり、
「ツルッパゲーノのレポートのネタにするとしよう」
と言いながら、部屋を出て行った。
アンゲルはしばらく『またツルッパゲーノ?』と考えながらビスケットを選別し、それが終わると、母親から送られてきた箱の中身を点検し始めた。
ビスケットがさらに2袋と、質の悪いノート。クルミが一袋。
空き箱を片付けようとした時、荷物の中に、見覚えのある黒い表紙の本を見つけた。
それが何か分かったとたん、アンゲルは身をひきつらせた。
聖書だ。
イライザ教の。
見間違いだったらいいのに、と思った。
しかし、どう見ても、それは、そこに存在していた。
アンゲルはそーっと、両手で『イライザ教の聖書』を箱から取り出した。
どうしてこんなものを送ってくるんだよ!?
アンゲルは頭の中で叫んだ。
いや、理由はわかっている。アンゲルの両親は普通の管轄区の人間だ。
つまり、『敬虔なる女神イライザの信徒』なのだ。
手の中にあるその小さな本が、アンゲルには、まるで、大きな鉛の塊のように、重く感じられた。そのまま押し潰されてしまうのではないかと思うくらいに。
頭がくらくらした。せっかく逃れた何かに、再び捕まえられたような感覚に襲われた。
アンゲルは、両手でその『黒い本』を本棚まで運ぶと、本棚の背につくように入れ、その上から大きめの本を何冊かかぶせた。視界に入らないようにするために。
自分は敬虔なイライザ教徒ではない。
そもそも、女神なんて信じていない。
親を騙しているようで辛かった。
アンゲルの両親は心理学のことを知っているのだが、それでも時々、勉強をしている最中に、アンゲルはふと、両親を裏切っているような気分になることがあった。
気にしないで勉強しよう。
そう思って本を開いても、いつのまにか、本棚の方を、虚ろな目でふっと見つめている自分に気がついた。
上から何をかぶせても、隠しても、確かにそれは、そこに存在していて、アンゲルに何かを語ろうとしていた。
知りたくもない、重苦しい何かを。
エレノアは今まで、旅芸人の親と共に、数か月おきに違う街を回る生活をしていた。そのせいか、何カ月も同じアルターの同じ学校で、同じ人間と毎日顔を合わせる……という生活に、なかなかなじめなかった。
人を避けて、一人で行動したいと思うのだが、フランシスはかまってあげないと機嫌が悪くなるし、姫君クーが一緒について来ると『近寄るな!』とは言いにくい。
音楽科の帰り道に、できるだけ、通ったことのない道を選んだり、道のない林や藪の中を通ってみたり、変化をつけようとしているのだが、それくらいでは倦怠感をぬぐえそうになかった。
ブースの中で一人で歌っている時が、一番気楽で、楽しい。
でも、練習を終えてブースを出たとたん、音楽科の生徒たちの、敵意に満ちた視線を感じる……。
エブニーザはあいかわらず気になる。
でも、向こうがエレノアを気にしている様子は全くない。
そもそも何にも興味がなさそうだ。
そして、アンゲルはいつも同じカフェの同じ場所にいる……。
お金がないと言いながら、ほぼ毎日カフェにいる。
なぜだろう?
やはり自分を待っているのだろうか?
エレノアは、図書館のカフェの前を通るたびに、アンゲルに声をかけようか迷う。かけるときもあるし、かけないこともある。
せっかくアルターの学校に来たのに、知り合った友人がみな、とてもうっとおしく思えることがあった。
もともと優しい性格のエレノアは、そんな自分が理解できずに戸惑っていた。
そういえば、父と母はどうして、ずっと一緒にいられるんだろう?
何十年も、同じ誰かと一緒にいる、ということが、急に不思議なことに思えた。
両親、曲芸師で、猛獣使い。
全くけんかなんかしない二人。
どちらも芸人だからだろうか、なんでも笑い飛ばして芸のネタにしてしまう。
そんなことより、フェスティバルは明日なんだから……。
エレノアが今向かっているのは、フェスティバルのリハーサル会場だ。この日のためだけに組み立てられた特設ステージで、音響や舞台装置の担当者が動き回っているのが、遠くからでも見える。
上の席に、フランシスらしき白いドレスの女性が見えた。
たしか、双眼鏡で上から見るって言っていた……。
「あー来た来た!こっちこっち」
演出担当者がエレノアを見つけて、両手を大きく振った。
他の出演者であろう、楽器や譜面台を持った学生が何人も集まっていたが、やはり、エレノアを見る目つきは冷ややかだ。
順番に歌って、マイクや楽器の音量、バランスを調整する。
エレノアは最後に歌うので、他の出演者の歌や演奏をひととおり聞いたのだが、やはり選考を通過しただけあって、みんなプロの水準に近い演奏だった。
できる人は、いくらでもいるのよね、世の中には……。
ぼんやり考えているうちに順番が回ってきて、エレノアが歌いはじめた。
あれ?
音が小さい?
エレノアはマイクを口元に近づけたが、何も変わらない。
異変に気付いたのはエレノアだけでなかった。
「おい、マイクの電源入ってないぞ!」
運営が機械担当に向かって叫んだ。
「ちゃんとつながってますよ」
機械担当と、歌い終わった何人かの学生が、意地悪くにやにやしていた。
遠くの席で、フランシスがその様子をじっと見守っていた。
……何?機械の故障?運営ってそんなにお粗末なわけ?
そのころ、裏口からこっそり入ってきたケンタ・タナカは、ステージにつながっているケーブルのまわりに、見覚えのある先輩が何人か集まっているのを発見した。
「ざまあみろって」
全員、ニヤニヤとあくどい笑いを浮かべている。
足元のケーブルは、引き裂かれていて、中の線がくにゃくにゃと曲がり広がっていた。
いじめも、ここまでくると犯罪だなぁ。
ケンタは、呆れながらその場をあとにして、遠くからエレノアを観察する。明らかに困っている様子だ。
……マイク、直らないの?
しばらく歌っていたら直るのではないかと、エレノアは期待していたのだが、いっこうに電源が入る気配がない。
……仕方ないわ!!
エレノアは、発声の仕方を変えた。
歌には合わないが、オペラのような奥からの発声で、ありったけ大声を張り上げた。
訓練を積んでいないと、絶対に出せない響き。
エレノアの声は、会場全体に届いた。
ケーブルを切っただけで安心していた先輩たちは、ぞっとした顔で、ステージの上のエレノアを凝視していた。
フランシスはにやけながら手元の用紙に『エレノアの声はマイクなしでも、大きな会場の最後列まで届きます』と書きこむ。
そこには『新人オーディション、エントリーシート』と書いてある。
「マイク、いらないんじゃない?」
運営が話しているのが、歌っているエレノアにも聞こえた。
「すっげえ~」
会場の隅で、ケンタが、驚愕と歓喜の顔でステージのエレノアを見ていた。
その後ろに、いつもエレノアのあとをつけ回している男もいるのだが、ケンタは気付いていないようだ。
そのころ、アンゲルは道の真ん中で、管轄区のコミュニティメンバーにからまれていた。
「どうして顔を出さないんだ」
「いや、あの、アルバイトが忙しくて、働かないと生活できないし」
「敷地内に教会があるのは知ってるんだろう?」
「そうなんですか?どうもイシュハの教会ってうそくさくて行く気がしないんですよね」
「明日のフェスティバルで布教活動をしよう」
他の質問は適当にかわしたが、これにはアンゲルも困ってしまった。
「友達の手伝いがあるので!それじゃ!」
てきとうに言い放って、最後には走って逃げた。
冗談じゃない!!
楽しいはずのフェスティバルで、そんな陰気なことをさせられてたまるか!
アンゲルは心の中で叫んだが、かといって、フェスティバルで何かやることがあるのかと言われると『何もない』ことに気がついた。部活動も何もしていないので、アンゲルには所属先がない。そんなことをしている余裕がないからだ。実際、明日もアルバイトがあるので、エレノアのコンサート以外はほとんど見ることができない。
サッカーチームに入ってたら、行くところはあったんだな……でも、そんなことのためにここに来たわけじゃない。
しかし、イシュハの学生は楽しそうだ。
フェスティバルは、自分の作品を発表したり、出店で稼いだり、友達を作ったり遊んだりする格好の機会で、余裕のある学生にとっては年に一度の楽しい日だ。
こっちは勉強とアルバイトで手一杯なのに……。
考えれば考えるほど空しくなってきた。
やめよう。帰ろう。勉強しないと……。
アンゲルは、必死に自分にそう言い聞かせたが、一度頭にまとわりついた憂鬱は、なかなか去ろうとしなかった。
フェスティバル当日。
風船とか、意味のわからない言葉が描いてある紙吹雪とか、そんなものが視界をかすめて飛んでいく。
出店には、祭りのとき以外絶対だれも買わないような、色のおかしい食べ物がたくさん並んでいて、仮装という名の自己主張を楽しんでいる変な格好の学生が、思い思いの方向に歩いている。
残念ながら、そんな光景のほとんどは、アンゲルには縁のないものだった。
行くところがないな……。
「何が楽しいのかさっぱり分からない」
エブニーザが、いつのまにか隣に立っていた。アンゲルは驚いて飛びのいた。
「何だよ!?おどかすなよ!」
「エレノアの歌を聞きに行くんですよね?」
「だから何」
「僕も行くんです」
「だから?」
「だからって……一緒に行きましょう」
「一人で行けば?」
アンゲルはエブニーザを置いて逃げようとしたのだが、エブニーザはしつこくアンゲルについてきた。そして、まわりの学生が笑い声を上げたり、何か大きな音がするたびに怯え、泣き出しそうな顔をしたので、アンゲルは仕方なく一緒に歩くことにした。
途中で、楽しそうに歩くカップルとすれ違った。
ますます気分が悪くなってきた。
どうして俺は、よりによってエブニーザと、こんなところを歩かなきゃいけないんだ?
「ヘイゼルはどこに行ったんだ?」
「たぶん、VIP席に入ってると思いますけど」
「そんな席あんの?」
不機嫌が頂点に達した時、前方に、黒い服を着た学生の集団が見えた。
管轄区のコミュニティの集団だ。
布教活動のためのビラとプラカードを持っている。
「やばい!逃げるぞ!」
アンゲルは彼らに背を向けて、全力疾走でその場から逃げ出した。
「えっ!?」
エブニーザも慌てて走りだしたが、何が起きたのかよくわかっていないようだ。
さんざん走りまわって、二人が会場についた時、歌のステージはすでに始まっていた。
ステージ裏では、エレノアが出番を待っていた。
何組かの先輩が歌い終わって、出番が近づいて来るのを感じるたびに、足が震えた。
今までこんなことなかったのに……アケパリでも、ノレーシュでも、ほかにも、色々な街で、もっと多い人数の前で、平気で歌ってきたのに……どうしてこんなに怖いんだろう?やっぱり、音楽科の人たちの冷たい視線のせい?
エレノアは、演奏中のヤジや中傷には慣れていた。旅芸人ならみんな慣れっこだ。
しかし、長い時間をかけていじめられるのは、ここに来てからが初めてだ。
敵意がある人間が確実にいる、そんな場所で歌う。これもエレノアには経験のないことだった。
大丈夫よ。大丈夫。
エレノアは目を閉じて深呼吸した。
練習はちゃんとした、準備もできてる。マイクがなくてもちゃんと歌えたじゃない。
「エレノア!スタンバイして!」
運営の学生がエレノアを呼んでいる。
エレノアは深く息を吸うと、ゆっくりと、舞台に向かって歩いて行った。
エレノアは、自作の曲を素晴らしい声で歌いあげた。その声は、皆の想像をはるかに超えていた。誰も聞いたことのない音色が会場を満たした。
エレノアは、歌っている間も怖くて震えていたのだが、誰もそんなことには気がつかなかったに違いない。観客はみな、それぞれに、まるで違う世界に引き込まれてしまって、エレノアの姿など見てはいなかったのだから。
歌が終わり、エレノアが一礼した時、会場は驚きと歓喜の拍手に包まれた。
観客席にいたアンゲルは、衝撃を受けていた。
まさか、こんなにうまいとは思わなかった……まるで、昔学校で聞いた、ソプラノ歌手のレコードみたいじゃないか。こんな天才だったのか……きっと、あっというまに有名になってしまう……。
アンゲルは、急にエレノアが遠くに行ったように感じた。
ふと隣を見ると、エブニーザがエレノアを見上げて、心底から嬉しそうな顔をしていた。まるで遊園地に初めて来た子供のようだ。
それを見て、アンゲルはますます不安になってきた。
そういえば、こいつ、文学とか芸術好きそうだからな、きっと音楽も好きなんだろうな、きっとそうだ、別にエレノアが好きなわけじゃないだろう……。
自分に言い聞かせていると、
「複雑そうですなあ、エンジェル氏」
例の変な口調が聞こえてきた。後ろにヘイゼルが立っていた……が、見るからに眠そうだ。目が半分閉じているし、いつものおもしろがっている雰囲気がない。
「何だよ、その変な顔は」
「なんでだろうなあ、眠いんだ。昨日は10時間以上寝たんだがなあ……」
「……寝過ぎだろ?」
フランシスが、そんなヘイゼルを、高い位置にあるVIP席から双眼鏡で観察していた。
今年はじゃましないのね、珍しいわね……不気味なほど大人しいわね。
そして、本日の主人公であるエレノアは、楽屋に入ったとたん、疲労と脱力で床に座り込んでしまった。しかし、休む間もなくすぐに『にわかファン』の対応に追われることになった。『あんなにうまいとは思わなかったわ』『今日初めてあなたの歌を聞いて感動しました』という客が、次々と楽屋に押しかけてきたからだ。
「素晴らしい才能ですな……ファァァ」
あくびをしながらやってきたのは、ヘイゼルだった。眠そうな顔でエレノアにチョコナッツ(なぜコンサートにこんなものを?とエレノアは思ったが、顔には出さなかった)を差し出したが、
「悪いけど、強烈に眠いんでね、帰るよ。あとでワインでも送っとくからご令嬢と飲むがいいさ……ファァァ……」
あくびをしながら楽屋を出て行ってしまった。
エレノアは、前にエブニーザが図書館で言っていた『黒魔術』の話を思い出した。
まさか……本当に?
疑問に思ったのだが、花束を持った人がつぎつぎと楽屋に入ってきて、口々に歌をほめたたえたので、そんなことは忘れてしまった。
「ごめん、何も持ってこなかった」アンゲルが済まなさそうな顔で入ってきた「でも、すごかったよ。こんな天才だとは思わなかった」
「天才じゃないわ。練習したの」
エレノアが笑った。
ああ、かわいいなあ……でも、いつか、遠い存在になってしまうのかな。
花くらい持ってくるんだった……何も考えてなかったな。
「エブニーザが、すごく嬉しそうな顔で聞いてたよ」
「本当に?」
エレノアが真っ赤になって喜ぶ。アンゲルは余計に不安になったが顔には出さなかった。
ノレーシュの姫君クーが、大きな花束を抱えた従者とともにやってきた。
「あら、エブニーザは来てないの?」
お前もエブニーザか!
アンゲルはますます嫌になってきた。しかも、エレノアとクーは、エブニーザがかわいいとか、天使みたいだと話し始めたので、気まずくなったアンゲルは、
「夕方からバイトだから」
と言って、その場を後にした。
「かわいそう」
アンゲルが出て行ったとたん、クーがわざとらしい声をあげた。
「アンゲルってぜったいあなたに気があるわぁ」
「クー……」
客がようやく来なくなったころ、ケンタが入ってきた。
「花はもうあふれてるみたいだから」
と楽屋を見回しながら、特殊な材質でできたギターのピックを二枚差し出した。
「音の抜け方が違うよ」
「ありがとう」
エレノアは微笑みながらピックを受け取った。
そういえば、音楽科でここに来たのはケンタだけだ……。
「やっぱすげえな、エレノア」
ケンタはそう言って笑うと、すぐに去ろうとしたが、入口でふり返り、
「この前つけてきた男が、ヘイゼルと話してるのを見たよ」
と言った。
「本当?」
「つけてきたって何?」
クーがエレノアの方を見た。エレノアは不安げな顔をした。
「今度、あれは誰だって聞いてみたら?」
ケンタが去った後、クーが怪訝そうな顔でこう言い始めた。
「今の男もあなたに気があるわね」
「誰にでもそう言うのね、クー……」
「これから歌姫を奪い合うのよ……やっぱ事実って、小説より面白いわぁ」
楽しそうなクーに、エレノアはただただ呆れた。
改めて楽屋を見回す、花でいっぱいになっている。
フェスティバルは終わった。
エレノアにとっては大成功だ。リハーサルの時のような妨害もなかった。自分の歌を聞いて、感激した人々が楽屋におしよせてきた……これ以上の成功なんてあるだろうか。
そうだ。やっぱり私は歌うために生まれてきたんだ……。
エレノアは物ごころついた時から、人前で歌ってきた。旅芸人の前で、サーカスのテントに集まった観客の前で、地方の小さな、あるいは、劇団のための大きなステージで。そして、その度に喝采を受けてきた……。
でも、今回ほど不安だったことは一度もなかった。
親と一緒だったし、子供だったから、どこかで甘えていたんだわ……もう、一人でやっていくしかないのね。
「どうしたのエレノア、しぶい顔しちゃって」
「えっ?」
クーが心配そうに自分を覗きこんでいる……エレノアは急に我に返った。
「なんでもないわ」
そういえば、エブニーザも聞きに来てた……ヘイゼルが元気なさそうだったけど、まさか、本当に黒魔術をかけたわけじゃないわよね?
「お祝いしましょうよ」
クーがドアを開けてエレノアを手招きした。
「今頃、フランシスがワインと料理を運ばせてると思うわよ」
「ワイン?」
「パーティよ、3人で」
もう、休みたいんだけどなあ……。
エレノアは困ったが、フランシスが準備しているのを断るわけにはいかない。それに、こういうお祝いができる機会なんてめったにない。
ま、いいか。
エレノアは、つとめて上機嫌な顔で、クーと共に楽屋を出た。
アンゲルが部屋に戻ると、ヘイゼルがソファーでぐったりと寝込んでいた。
「自分の部屋で寝ろよ!」
アンゲルが怒鳴ると、ヘイゼルがとつぜん目がさえたように飛び上がった。
「耳元で怒鳴るな!」
「ここは俺の部屋だぞ!」
「まだ言ってんのか!?」
二人が言い合っているところに、エブニーザが部屋から出てきた。
「図書館に行きます」
とだけ言って、二人を止めずに部屋を出ていった。
「こんな時間に図書館?」
「勉強したいんだろ?誰もがお前みたいに遊びたいわけじゃないんだよ、ティッシュファントム!」
「ティッシュファントムじゃない!シュッティファントだ!」
「大して変わらないだろ!」
「全然違うだろうが!」
ヘイゼルは完全に目が覚めてしまったらしい。そして、アンゲルも機嫌が悪い。
言い合いは深夜まで続いた。
エブニーザは、いつもの資料室で薬草辞典(シュタイナー邸に同じものがあったが、ヘイゼルに没収されて最後まで読めなかった)を眺めていた。
そこにクーが現れた。衣装は美しいが、疲れた顔をしている。
「フランシスとパーティじゃないんですか?」
「どうしてそんなことを知ってるの……ああ、そうだ、予知ね?」
エブニーザは黙ってうなずいた。クーは向かいの席に座り、つぶやいた。
「フランシスは飲み過ぎて眠っちゃったし、エレノアは疲れてるみたい」
エブニーザがお気に入りのレモングラスの話を始めると、クーは
「ハーブティーは嫌い。歯磨き粉の味がするから」
とそっけない返答をした。そして、エブニーザにこう聞いた。
「エレノアの歌を聞いていたでしょう?才能があると思わない?」
「思います」
「美しいと思わない?」
「思います」
クーはどこかさみしそうな笑みを浮かべていた。
「どうしたんですか?」
「何でもないわ。エレノアがうらやましいだけ。美しくて、自由で、強くて……」
フェスティバルは成功したが、エレノアはあいかわらず、同じ音楽専攻の学生に妬まれたり、いやがらせをされ……フェスティバルの前よりも、さらに孤立してしまった。
「才能がある人は試練も多いのよ」
クーがそんなエレノアを、愛しげな表情で慰めた。エレノアは、クーの、優しいながらもあやしい笑顔とその手つき(やたらにエレノアに触る)が気になった。
どうしていちいち触るんだろう……ノレーシュの文化にそういうのあったっけ?
寮に戻ってから、フェスティバルの写真を見ると、歌っている自分の姿が、知らない他人のように見えた。フランシスに作ってもらったドレスのせいかもしれない。
私って、着飾ると美人に見えるんだわ。アンゲルが私に好意を持っているのは、単にきれいな娘だからっていうだけかも。中身まではきっと見ていないんだわ。
エブニーザはいつも怪しげな本に夢中で、あまり人と話したくない様子だ。エレノアにも興味がなさそうだ。
そこで黒魔術のことを思い出す。眠そうなヘイゼルの事も。
あれは本当に?それとも偶然?
横ではフランシスが、ヘイゼルに電話をしていた。かなりきつい口調で。
「エレノアをこっそりつけまわしてる変な男が、フェスティバル会場であんたと話してたって言うんだけど、誰か知ってる?」
『フェスティバルの会場?あの麗しく空気の悪いVIP席じゃなくて?』
「普通の席の方よ」
『普通の席……話したのはアンゲルと、シギだけだな』
「シギ?」
フランシスはそこで電話を乱暴に切り、エレノアに向かった。
「エレノア、もしかしたらシギ・クォンタンかもしれない。シグノーほどじゃないけど、金持ちの良家よ。ただ、ヘイゼルの手下だけあってろくな性格してないけどね」
エレノアは驚いた。
ヘイゼルの友達?
「でも、狙い目よ。最近多いうさんくさい成金じゃなくて、ちゃんとした実業家だから。紹介してあげましょうか?」
ニヤニヤするフランシスにエレノアは、
「やめてよ……」
と困り果てて、嫌な顔をした。
どうして自分の周りには、変な人ばかり集まるのだろう?
数日後。
エレノアが図書館の資料室を覗くと、エブニーザが、こんどは古代の鉱物事典を熱心に読んでいた。
「古代には、宝石に魔力があると言われていたんですよ。薬みたいに、使い方が書いてあるんです」
あいかわらず本から目を離さず、無表情だ。
「宝石……あまり縁がないわ」
「そんなことないでしょう。こないだもピンク色のトルマリン……」
エブニーザはそこまで言って言葉を切った。
「トルマリン?何の事?」
「何でもありません」
エブニーザは本から視線をそらし、窓の外を見つめる。エレノアも窓を見るが、特に変わったものは見えない。
「どうしてこんなものに興味を持ったの?こんな、天使みたいな顔してるのに」
エレノアがそう言うと、エブニーザはとたんに不機嫌な顔になった。
「どうしてみんなそういうことばかり言うんですか?顔だけ見てあとを追いかけてきたり、騒いだり妬んだりする。それは僕自身とは何の関係もないことなのに……」
最後の方は小声でぶつぶつとつぶやいていた。
かなり根暗な性格だな、とエレノアは思ったが、自分も思い当たる節があったので、
「私も、歌を聞いてもらいたいのに、顔ばかり見られて困ってるの」
と言った。そして、旅先で追いかけてきた男たちの話(私が好きだっていうくせに、私の歌なんかまじめに聞いてないのよ!)をした。
「私は歌手なの。歌いたいの。歌を聞いてほしいの。顔を売りたいわけじゃないのよ」
「そうですか」
エブニーザはあいかわらず無表情だが、何か考えているようにも見えた。
外は曇っている。
「雷が来ますよ、帰りましょう」
エブニーザが立ちあがった。二人で一緒に図書館を出た。
エレノアが寮の部屋に着いた時、突然、夕立のざあっという音と共に雷鳴がとどろいた。
「ほんとに、雷が……」
エレノアが窓から外を見た。街全体が薄黒い雲に覆われていた。
黒魔術のことを聞き忘れた!と思いだしたが、遅かった。
アンゲルは、授業で受けた心理療法の最中に具合が悪くなってしまった。管轄区の学校に通っていたころの悪い思い出が、頭の中を駆け巡ったのだ。
どんな思い出かと言うと、なんのことはない、初恋の女の子に『カエルみたいな顔』と言われてショックを受けた、それだけの話だ。
こんなことでショックを受けるなんて、ばかばかしい……。
いつの話だよ?
何年も前だし、今はあんな奴の事は何とも思ってないんだぞ?
何でそんなことでふらふらしてるんだよ?バカじゃないのか?
廊下を歩きながら、アンゲルは自分自身を盛大にけなしていた。
俺でさえこうなんだから、エブニーザが昔を思い出したら、ショックで倒れてもおかしくないな。監禁されてたんだからな……。
落ち込んだまま道を歩いていると、
「あら!あなた!エレノアの友達でしょ!」
どこからか声がした。
見ると、黒塗りの車の前に、いつかエレノアと一緒にいた、褐色の肌の女性が立って、手を振っていた。
フェスティバルで見たな……ノレーシュの姫君か!
アンゲルは、どんな態度を取ればいいのだろうかと迷った。しかし、姫君は運転手に『行って』と言い、にこやかにアンゲルに近づいて来た。
「ちょっと話をしましょうよ」
姫君クーが、いつもとは違う、第三校舎の裏にあるカフェを指さした。黙ってついて行くことにした。
「不思議に思って」
席に着くなり、姫君は楽しそうに喋り始めた。
「ほら、シュッティファントはイシュハでは大物、エブニーザはあのシュタイナーと関係がある、でも、あなただけ、そういう後ろ盾がないでしょう?どうしてあの二人と対等にやっていけるのかと」
「対等?」
自分には合わない単語が出てきたので、アンゲルは大声を上げた。
「冗談でしょう?ヘイゼルは常に俺を見下してますよ?あのティッシュファントムは、世界のあらゆる人間をバカにしてますよ!この前だって俺あての小包を勝手に開けて、中身を食ってたんですよ?常識がないんですよあのティッシュファントムには!!」
「ああー、それね」
クーが勝手に何かを納得したような、深い声を上げた。
「それ?」
「ヘイゼルにもそんなふうにはっきりとした口を聞いてる?」
「え?ええ、たぶん……」
「だからだわ」
「どういう意味ですか」
「私もそうだけど、いかにも『偉いお方に出会えて光栄です!』なんてふうに、にこにこしながら近づいて来る奴が嫌いなの。こびへつらうっていうのかしら?たぶんヘイゼルもそうなんじゃないかと思って」
「へえ……」
「エレノアはお好き?」
「えっ?」
アンゲルが真っ赤になった。
「ふふふ、かわいい反応ね」
クーは面白がって笑い、大人ぶった顔で立ちあがった。
「もうすぐエレノアが来るから、話でもしたら?あ、そうそう、私に敬語は使わないで。不愉快だから」
最後の一言は、かなりとげのある言い方だった。きっとアンゲルが控えめに丁寧な言葉を使ったのが気に入らなかったのだろう。
呆然とするアンゲルを置いてクーがカフェを出ると、ほぼ同時にエレノアが入ってきた。
「クーと待ち合わせをしていたんだけど……」
アンゲルがエレノアに事情を話すと、
「最初からこういうつもりだったのね……クーは人をからかうのが好きなのよ」
と困った顔をした。その顔がとても可愛いとアンゲルは思った。
「一国の姫君をクーなんて呼んでいいのかなって迷ったんだけど、『姫様』扱いされるのも嫌なんだろうな」
「そうね」
せっかく姫君が用意してくれた席だったのだが、あまり話は弾まず、アンゲルはバイト、エレノアはブースで練習、と言い訳して、その場を離れた。
本当はどちらも、まっすぐ寮に帰ったのだが。
アンゲルがソファーで勉強していると、エブニーザがやってきて、
「エレノアは歌を評価してもらいたいんですよ」
と突然話しだした。
「は?」
「歌手として認められたいんです。きれいだとかかわいいとか言われたいわけじゃないんです」
「ちょっと待て、何の話?」
「あの……アンゲルには言っておいた方がいいと思って……」
何か言いにくそうな様子だ。
きっと俺がエレノアに気があるのを知ってて、そういうことを言うんだろうな。
そう考えると、たまらなく腹が立ってきた。
「何で?」
アンゲルの口から、必要以上にきつい声が出た。
「何でって……」
「勉強の邪魔すんな」
アンゲルは本に目を戻した。
エブニーザは落ち込んだ様子で部屋に戻り、そーっとドアを閉めた。
エレノアは、音楽を専攻する人が全員受けるプレテストのために、歌の伴奏を弾いてくれる人を探したが、どの学生にも断られてしまった。
本格的にみんなに嫌われてる……。
そう落ち込んでいるエレノアに、なんと、クーが、
「ピアノなら、ここの学生より上手く弾けるけど?」
と言いだした。
「余計に大きな話題になって妬まれるわよ。姫君とステージなんて」
フランシスは、口ではそう言ったが、顔つきは明らかに面白がっているようににやにやしていた。
結局クーに伴奏を頼むことにして、二人でピアノがある防音室を借りて練習を始めた。
エレノアはクーのピアノを聞いて驚いた。
なんだかすごく、感情のこもった演奏をするのね……?
クーの弾き方は、情熱的で、音色が豊かだった。確かに、下手なピアノ科の学生に頼むよりはよっぽど上手いだろう。
クーはあいかわらず、曲の合間に、
「アンゲルとはどうなの?」
「いままで一番いい男が多かった国ってどこ?」
「男と寝たことある?」
などと、とんでもない質問をして、妖しい笑顔をうかべながらエレノアの肩や髪をなでまわし、真っ赤になって慌てるエレノアをからかって楽しんでいるようだった。
クーは、前から人の肩や髪によく触ってきたが、どんどん、触る場所が、胸の近くや腰など、きわどい場所になってきたため、エレノアはどう止めたものか悩んでいた。
つまり、練習に全く集中できなかった。
しばらくして、ブースのドアをノックする音がした。
ケンタだ。
「ちょっと話があるんだけど」
と、エレノアを廊下に連れ出したケンタは、心配そうな顔でこんなことを言った。
「アケパリのメディアによると、あの姫君はレズビアンだって話だけど、二人きりで大丈夫なの?」
「えっ?」
エレノアは驚きで思考が止まってしまったが、すぐに気を取り直して、
「と、友達だから大丈夫よ」
と返答して中に戻った。
しかし、クーにあの愛しげな笑顔を向けられ、練習中はまた肩や髪を触られ……疑惑はふくらんでいく。しかし『プライベートなことだし……』と、直接本人にただすことができなかった。
となりのブースからケンタのすさまじい早弾きギターが聞こえてくると、クーが手を止めて、感心したようにこう言った。
「わあ、ロックね。もしかして天才なんじゃない……だからあなたに惹かれたのかも、天才どうし」
「クー……」
「でも、アンゲルよりはお似合いだと思うけど」
「クー!違うってば!そういうのじゃないの!二人とも友達!」
エレノアは怒りだし、クーは、
「怒った顔も可愛いのね……」
エレノアのほおを指で突っついて、さらにからかい始める。
エレノアは、ますます歌に集中できなくなってしまった……。
アンゲルはカウンセリングを受けることにうんざりし『やっぱり心理学なんて取るべきじゃなかったかも……』と思い始めた。
そのことを講師に相談すると、
『実際にクライアントと話すところを見ないか?』
と誘われ、プロのカウンセラーの面談をミラー越しに観察することになった。
アンゲルが見たカウンセラーは、以前エブニーザが試験を受けるときについてきた二人の女性のうちの一人だった。クライアントはかなりやっかいな相手で『あんたに相談することなんか何もないわよ!』とひたすら文句を言うばかり。一体どうするつもりなんだろうとアンゲルはじっと話を聞いていたのだが、結局、この日は相手に言いたいだけ文句を言わせるだけに終わった。
「あのクライアントは今日来たばかりだからね、慌てて事態を変えようと無理矢理こちらから話をしてもダメなんだよ」
講師にそう説明されたが、アンゲルは何か納得できないものを感じた。
それから『わずかだが給料が出る』という文句に惹かれて、精神病の患者が通う作業所の『見張り』のような仕事を頼まれた。
「逃げようとする患者がいたら、つかまえるんだ。でも、乱暴なことはしちゃいけないし、怒鳴りつけてもいけない。話を聞いて、なだめて、連れて戻るんだよ。けっこう難しいよ?」
アンゲルは好奇心から引き受けたが、何時間経っても、特に逃げ出そうとする患者もいない。
みな、暗い顔ではあるが、黙々と作業をこなしていた。彫刻だったり、家具を作っていたり、何か書いていたり、あまり生産的な内容ではないが、熱心だ。
木を削っていた中年の患者が、アンゲルに話しかけてきた。
「あんたは留学生かね?」
「そうですよ」
アンゲルが普通にそう答えると、男は急に顔をアンゲルの耳に近づけ、
「わしは本当は、東の国の王なのだが、事情があってここにかくれているのだ」
とささやいた。
「?」
何の事だろう?
その『王様』は、長々と、不幸な身の上を話し続けたが、説明にまるで脈略がなく、どうやら『勝手に思い込んでいるだけらしい』ことが、アンゲルにもわかった。
てきとうに話を合わせて聞いていたが、ふと、エブニーザの妄想の女を思い出し、
「俺の友達に、こういう奴がいるんですけど」
夢で見たという女の話をしてみると、なんと『王様』は、真面目な顔で、
「ああ、そりゃあ妄想だよ」
と、断言した。
「そう思いますか?」
アンゲルは『おい、自分はどうなんだよ!?』と叫びたくなったが、黙っていた。
「きっと寂しいんだな。誰も相手にしてくれないからさ。きっと友達も彼女もいないんだろう、そいつには」
「はあ……」
『王様』はそう言うと、自分の作業場に戻って、また木を削り始めた。
自分の妄想は棚に上げて、他人にはあっさりそんなことを言うとは……。
でも、そうだよな、やっぱりエブニーザも妄想を抱いてるな。やっぱり精神病なんだろうか?ここで作業させるか?でも、これって治療になってるんだろうか?何のための作業なんだろう?
予定の時間が過ぎた後で、アンゲルが担当の医師に尋ねると、
「生活リズムをくずさないようにするために、来てもらっているだけ。作業の内容はあまり関係ないよ」
という答えが返ってきた。
その帰り道でのことだ。
アンゲルは図書館の近くで、同じく管轄区から来たという生徒に声をかけられた。
またイライザ教の話をされるのか……。
とうんざりしたが、その生徒はこんな質問をしてきた。
「君はアニタ教に改宗したのかい?」
「えっ?いや……してないよ」
アンゲルはその質問に驚いた。
「何で?」
「だって、君はすごく自由に見える」
痩せた、青白い顔の学生がそんなことを言った。
「管轄区から来た連中とはぜんぜん違うよ。重苦しさが全くない。本当に改宗してないの?」
「してない」
そんなこと、考えたこともなかったな……そういう選択肢もあったか。
「シュッティファントとつきあうと必ず改宗させられるんだろ?」
「ハァ?」
またしても思いがけない質問だ。
「そんな話聞いたことないし、ヘイゼルは宗教の話なんてしないよ」
学生が驚いた顔をした。
「破門されてない?」
破門とは、教会が言い渡す最高刑のようなもので『お前は人間ではない』と言われるのと同じ意味である。主に、殺人罪や、教会侮辱罪の被告人に言い渡される。教会に入れなくなり、社会復帰の機会もまず与えられない、社会的な死刑である。
……ただし、管轄区内でだけ有効だ。最近では、気にしない人は全く気にしないという話もある。
「されるわけないだろ!」
アンゲルが怒ってその場を立ち去ろうとすると、その生徒はあわててアンゲルを引きとめて、
「実は……改宗しようと思ってるんだ、アニタ教に」
と言い始めた。
アンゲルが驚いて振り返ると、学生の顔は深刻そのものだ。
何か嫌な予感がしたので、アンゲルは彼を図書館の隣のカフェに連れて行き、話を聞くことにした。
学生はクラウスという名前で、アンゲルが住んでいたところより、さらに田舎の出身だった。
「女神がどこかに存在しているなんて、どうしても信じられないんだ」
話を聞いているうちに、自分と同じように、管轄区の価値観や、女神イライザ信仰に違和感を抱いていることがわかった。
クラウスは延々と、祖国の暗い生活や、両親や友人と意見が合わずに孤立していること、普段考えている哲学的なこと(アンゲルにはなんのことだか理解できない内容だったが、とりあえず悩んでいるということは伝わった)を、延々と話し続けた。
いつまでも話が終わりそうにないので、アンゲルは、
「週に一回、ここで話をしようじゃないか、ほかのイライザ教徒には内緒で」
ということにして、その日は別れた。
しかし、自分の祖国に対する違和感を、改めて思い知らされてしまった。
こんな悩みをかかえたまま、心理学なんてやってていいのか……?
時計を見ると、アルバイトが始まるまであまり時間がない。
あわてて駅に向かう。イシュハの街並みや、派手な広告を見回しながら歩く。
『信仰』なんて言葉自体、この町には存在していないように、アンゲルには思えた。
女神なんているわけないんだよな。いたとしても、信じなきゃいけない理由なんてあるか?酷いことばかり起きているっていうのに。
そこで、アンゲルの思考に、つんざくような叫び声が入ってきた。
屋根を直している時にも聞こえた。
夜眠るときにも聞こえた。地獄のような叫び声が。
一生眠れないのではないかと思った。
そして映像。妹が飛ばされていく。屋根と一緒に。
アンゲルは頭を振った。
昔の話だ。過ぎたことじゃないか。
どうしてそんなことを、今頃、思い出さなきゃいけないんだ?
暗い顔でレストランにたどり着くと、今度はソレアが、
「彼女がいないなら私と付き合ってよ」
と言い始めた。
「なんで?」
「同じ商人の出だし……管轄区の男ってみんな退屈だけど、アンゲルはなぜか自由そうに見えるもの」
まただ。
『自由そうに見える』だって?何の話だよ?
バイトしないと生活費が出せないし、学費だってギリギリなのに、何が自由なんだよ?
「そんな理由で相手を選ぶな!」
いらいらしていたアンゲルが神経質な声で叫ぶと、
「ほかにどんな理由がいるの?私たちは管轄区の人間よ?イシュハ人みたいにだれとでもつきあえるってわけじゃないでしょ?」
ソレアが言っているのは、身分が同じでないと結婚ができないというあの『古臭い階級制度』のことだ。
……そんな話をこれ以上聞きたくない!!
「俺はこっちに勉強しに来たんだよ!」
「でも、どうせ帰ったらだれかと結婚させられるでしょ?」
「うるさいな!仕事しろよ!」
二人とも黙りこんだ。
厨房の料理人たちはあいかわらず、『またシュッティファントが……』という話をしている。企業買収の成功がニュースになっているらしい。
イシュハのニュースはいつだって大げさで華々しい。株価の暴落で、国家予算と同じ額が消し飛んだとか、映画界の巨匠が亡くなって、借金が何億クレリン残ってたとか、新人女優の契約金が何千万クレリンだとか……。
エブニーザは、夢で、女の子が乱暴に扱われているのが見えたり、何かを思い出したりして、だんだん発作がひどくなってきていた。
震えながら倒れたかと思うと、叫んだり、泣き出したり……。
アンゲルも、ヘイゼルも、適切な対処なんてできない。しかたなく、前のように事務に走って医者を呼び、あとは寝かせておく……そんなことが何回も起きていた。
「やっぱり精神病んでるだろ、ちゃんとした病院に連れて行ったほうがいいんじゃ……?」
アンゲルがそう言っても、ヘイゼルは、
「寝てりゃおさまるんだから、余計なことをするなよ!」
何を勧めてもはねつけて、聞く耳を持たなかった。
「カウンセラーに連絡した方がいいんじゃないか?」
「どうせ毎週会ってるんだからいいだろ」
「どうしてそんなにカウンセラーが嫌いなんだよ?」
「何も分かってないからさ!」
「どういう意味だよ?説明しろ!」
「俺は特殊過ぎてあいつらにはわかんないんだ!」
「はあ?」
話はいつも、こんな風に平行線をたどっていた。
ある日、ひとしきり泣き叫んだエブニーザが眠った後、二人がまた口論していると、廊下から歓声が聞こえてきた。
何かと思ってドアを開けると、なんとそこには姫君クーがいた。
透けたスカーフを幾重にも巻いてドレスアップし、妖精が迷い込んできたのかと思うほど清楚で美しく見えた。
そういえば、姫君なんだっけ。こういう格好してるとそれらしく見えるな。普段着だとわからないよな……。
アンゲルは何を言っていいかわからず、無言でそんなことを考えていた。
「姫君、男子寮に一人で入ってきちゃ危ない、ちょっとした犯罪行為ですよ」
ヘイゼルがにやけながら、おどけた声で言うと、
「事務に許可はもらったわよ」
クーは許可証をヘイゼルに突き付けた。
「エブニーザに会わせて」
呆然としている二人を無視して、クーはエブニーザの部屋に入って、ドアを閉めた。
アンゲルとヘイゼルは、ドアにくっついて中の声を聞きとろうとした。
「また彼女なのね?」
クーが当然のことのようにそう言うと、エブニーザが弱々しい声で何か話し始めたが、声が小さすぎてよく聞こえない。
「なんでクーが妄想の女のことを知ってるんだ?」
「妄想じゃないって言ってるだろ。あいつら仲がいいから、しゃべっちゃったんじゃないか?女の方がこういう話は好きだろ?いかにも運命って感じで」
「そう?」
アンゲルは逆に、女性の方が現実的だから、そんな妄想は信じないのではないかと思ったのだが……。
「そういうエンジェル氏も、エレノアに運命を感じているようですがな!」
「うるさい!ティッシュファントム!」
「ティッシュファントムって言うなあああ!」
また二人は言い合いを始めてしまった。
部屋の中では、クーがベッドの枕元に座って、エブニーザの額を撫でながら話を聞いていた。
エブニーザの話だと、夢の中の彼女が『とても言葉にできないような酷い行為』を毎日強要されている、泣き叫んでいるのが毎日見える、ということだった。
「それって売春?性行為じゃない?あなたが見ているのは」
クーがはっきりとした声で言った。
エブニーザが目を見開いて、震えながらクーを見た。
クーは驚くほど静かな、怒りをたたえた目で、エブニーザを、いや、そんなふうに人を貶める世界全体を、見おろしていた。奇妙な沈黙が二人の間に生まれた。絶対的な不幸と、そんな不幸を起こし続ける人間に対する怒り……。
「世界中で同じようなことが起きているわ。たぶんノレーシュでもね……許せないわ、絶対に許しがたい行為だけど……止めるのは難しいのよ」
「でも!でも……ひどい!あんまりだ……」
またエブニーザが泣き出したので、クーはエブニーザを抱きしめた。
「かわいそう……優しい子なのにそんな場面を見せられるなんてね」
外から、アンゲルとヘイゼルが言い争う声が聞こえてきた。
クーは鋭い目つきでドアを睨んだ。
「うるさいわね……いつもこうなの?」
「いつもこうです」
エブニーザがうっすらと笑ったのでクーは、
「案外、ああいうのがいたほうが気がまぎれるんじゃない?」
と笑った。
「でも、二人とも、僕を友達だとは思ってないですよ」
「どうして、そう思うの?」
「僕がおかしいから」
「おかしくない人間なんていないわよ。それに、あなた、あのヘイゼルがまともな人間だと思う?」
クーが、いかつい銀の指輪をはめた指でドアを指し示すと、外から二人の叫び声が聞こえてきた。
『やめろ!髪を引っぱるな!反則だぞ!』
『ケンカに反則もくそもあるか!』
そして、走りまわるバタバタという音と、何かが倒れる音。
『こら!やめろ!お前の辞書に常識って文字はないのか?』
『シュッティファントの辞書にそんなクソつまらん言葉はない!』
クーがエブニーザに、呆れたような笑いを向けた。
エブニーザもつられてうっすらと笑った。
ドアの外では、アンゲルが乱れた髪(数本ヘイゼルに抜かれた)に手をやりながら、怒鳴り散らしていた。
「お前の家の辞書をよこせ!全部書き直してやる!常識的に!」
「無理だ。さんざん探したが出てこなかった」
ヘイゼルがまじめに困った顔をして両手をひらひらさせた。
「は?」
アンゲルはこの反応に困惑した。
「探した?」
「探したさ。家政婦も使用人も総動員でな。でも、どこにもないんだ。シュッティファントの広大かつ利用者のほとんどいない書庫もひととおり探したが、それらしきものは発見できなかった。台所も倉庫も全て、しまってあるものを全部出して捜索したのだが……」
「おいおいおい、待て」
アンゲルがあわててヘイゼルの話を止めた。
「ほんとに辞書を探したのか?本気で見つかると思ったのか?それともただの冗談か?」
「冗談なもんか。小さいころから親父が、俺が何かするたびに『シュッティファントの辞書にはそんなこと書いてない』とか言いながら怒ったのだぞ?普通、どこかにあるに決まってると思うだろ?実物を読んで確かめなければ気が済まないだろ?」
「……ヘイゼル」
アンゲルは、自分でも驚くほど低い声を出していた。
「何かな?」
「それは……ただの例えだぁぁぁ!!!!」
アンゲルが両手を震わせながら甲高い声で叫んだ。
「本気で辞書を探すバカがどこにいるんだよ!あるわけないだろうが!」
ヘイゼルもこの叫び声には驚いたらしい、目を丸くして、体を少々後ろに引いた。
興奮しすぎて、しばらく肩を上下させながら荒い息をしていたアンゲルだが、
「……なあ、それ、ただ親父に嫌がらせしたかっただけじゃないのか?」
ふと、思いついたことを質問すると、
「違う違う。あんなくそ真面目な男に嫌がらせなんてしたって、無反応で面白くもなんともないだろ?嫌がらせというものは、エンジェル氏のように、リアクションの大きい人間に行ってこそ意味のあるものなのだぞ?」
ヘイゼルが白い歯を見せて、目を半月型にしてニヤリと笑った。心の底から、人をからかうのを楽しんでいる顔だ。
アンゲルは、手元のものを、テーブルごと投げつけてやりたい衝動に駆られたが、必死で抑えた。相手と同じレベルに下がるのは嫌だったからだ。
「わかった、これからは何でも無反応で対応してやる」
「まあまあ、そう怒るなよ」
ヘイゼルが調子のいい笑いを浮かべて、アンゲルの顔の前で手を振った。
「どこかに辞書があるに違いないと思ってだな、一週間みんなで館中を駆け巡って探したぞ。家中の家具という家具を全部移動して探したのだが、結局何も見つからなかった。もとに戻すのに苦労したよ。ちょっとした天災だったな」
「天災じゃなくて人災だろ!100%確実に人災だろぉ!!」
「まあまあ、落ちつきたまえ……ああ、でも、もしかしたら親父の書斎にあるのかもしれん。書斎は探せなかった。あそこは親父と、巨乳の秘書しか入れないからな」
アンゲルは呆れて何も言えなくなった。そして、そんな間抜けな捜索に付き合わされたシュッティファントの使用人たちを、心から哀れに思った。
辞書をほんとに探すなんて、単純なのかアホなのか、わからないな……。
次の日、クーがエレノアに、エブニーザの発作のことを話した。
ただし、女の子のことは黙っていた。話の内容が過酷すぎるからだ。
エレノアが『クーとエブニーザって仲がいいんだなあ……』とぼんやり落ち込んでいると、フランシスが大声を上げた。
「あなた、一国の姫君ともあろう人が、男子寮に一人で突入したわけ!?」
「何お堅いことを言ってるのよ。許可は取ったって言ってるでしょ」
「私も連れてってよ!」
その発言にエレノアは驚き、クーは笑いだした。
「だって、そんなことできる機会めったにないじゃない!」
「また発作起こしたらお見舞いに行く?」
「そんな言い方良くないわ」
エレノアが神妙な顔で言うと、クーがショックを受けたように、
「そ、そうね、ごめんなさい」
と謝った。フランシスがそれを見て呆れた顔をした。
「なんで謝るのよ?いいじゃないの、今度何か起こしたら、三人で乗りこんでやろうじゃないの」
「あなたはヘイゼルの部屋が見たいだけじゃないの?」
「おだまり!クー!!」
そんなやりとりのあと、エレノアは歌の練習に行こうと寮を出た。
しかし、ふと、思いつきで図書館に立ち寄ってみた。
奥に進むと、やはりエブニーザが、あやしげな辞典をいくつかテーブルに広げて、じっと何か考えこんでいた。
「それ何?」
話しかけると、エブニーザがエレノアの方を向いたが、無表情。三つの辞典をそれぞれ指さしながら、平坦な声で説明を始めた。
「三つとも同じ呪術について書かれているんですが、手順がみんな違うんです」
エレノアが辞典を見ても、やはり読めない古代文字で書かれているため、内容がわからない。
「フェスティバルのとき、ヘイゼルが眠そうだったけど、あれもあなたが?」
「ほかに誰がいるんです?」
エブニーザがにやりと、何かを企んでいるような顔で笑った。
そんな顔もするんだ、とエレノアは意外に思った。
「これは何のおまじない?」
エレノアの質問に、エブニーザはむっとした顔をした。
「おまじないじゃありません。黒魔術です」
どう違うんだろう……?
エレノアにはよくわからなかった。
「雷を落とすんです、好きな場所に。たとえば戦争をしている相手の国とか」
「雷を落とす?」
エレノアが懸念の顔をした。
「そんなことしちゃだめよ」
「別に実行しようとは思ってませんよ」
「ほんとにできると思ってる?」
「ヘイゼルを静かにさせたでしょう?まだ疑うんならどこかに落としますか?雷を」
「ダメよ!」
「冗談ですよ」
エブニーザはそう言ったが、表情が険しすぎて冗談には聞こえなかった。
「それに、3つも違う手順がある、どれが正しいかわからないですからね」
「アンゲルが、あなたが未来を予想するって言ってたけど」
「予想じゃありません。見えるんです」
「見える?」
「まるで、目の前で起きているみたいに」
「映画のワンシーンみたいに?」
「映画……?」
エブニーザは目線を上にあげて考えている。
「見たことないです」
「えっ?」
エレノアは顔を輝かせた。
「じゃあ、一緒に見に行きましょうよ!!」
エブニーザが急に怯えた顔になったが、エレノアは気がつかなかった。いつもなら表情の変化に敏感なエレノアだが、エブニーザと一緒に出かけられる可能性が出てきたため、急にうきうきして、自分の考え以外に注意が向かなかったのだ。
「でも、人がたくさんいるところには……」
「学校より少ないわよ!」
「でも……」
「考えておいてね!」
そう言い残して、エレノアは嬉しそうな様子で走り去った。
エブニーザはため息をついた。
「そう言われるのは、もうわかってたけど……どうしよう」
エブニーザは未来を見ることができる……のだが、見えた事を回避することができないようだ。
エブニーザは寮に戻り、アンゲルに控えめな声で尋ねた。
「エレノアが僕に映画に行こうって言ってるんですけど……いいんでしょうか?」
アンゲルは目を見開いたまま、動きが止まってしまった。
同時に、ヘイゼルが口笛を吹きながら部屋から出てきた。ニヤニヤと笑いながら。
「聞き捨てならん話ですな!エンジェル氏」
「いや、別に俺に聞かなくても……」
「行けばいいじゃないか、お前が外に出たがるなんて珍しい。さすがエレノア、美人は違うな!」
「そうじゃないですよ!僕は行きたくな……」
「いいから行け!決定だ!」
泣きそうな顔のエブニーザに、ヘイゼルが強制的に命令を下した。
アンゲルは『どうしてヘイゼルが決定するんだ?』と思ったが、エブニーザとエレノアが仲良くなると考えるだけで、気が気ではかった。
エブニーザは、
「どうせまた面倒なことが起こるに決まってるのに……」
とつぶやきながら部屋に戻って、そーっとドアを閉めた。
それと同時に、ヘイゼルがアンゲルに飛びついてきて、読んでいた本を奪った。
「5クレリン持ってるか?」
「なんだよ!本を返せ!」
アンゲルは本を取り返そうとしたが、ヘイゼルがソファーの下に隠してしまった。
「映画の代金だよ」
「何で俺が出さなきゃいけないんだよ!?」
「そうじゃなくて、俺たちもこっそり行こうって言ってるんだよ」
「はあ?」
「いいかねエンジェル氏。あいつは、まともに一人で外出したことがないのだぞ。シュタイナーじいさんのところでは、図書資料室の一番奥の本棚の前からほとんど動かなかった。1年も!ここでも授業以外、ほとんど外に出てないだろ?」
「カウンセリングと図書館は?」
「それは別の話だ。とにかく、だれかと一緒に出かけるなんて、初めての経験なのだぞ。何を起こすかわからんだろう。保護者として見守る義務があると思わないかな?」
「お前一人で行けよ!俺は勉強が」
「エレノアがエブニーザと仲良くくっついてもいいのかな?」
「うるさいな!」
「素直じゃないなあ、エンジェル氏」
「うるさい!ティッシュファントム!」
「ティッシュファントムって言うな!!!」
また二人で言い合いを始めた。その様子をエブニーザはドアにくっついて聞いていて、一人困り果てていた。
どうしてみんな、ほっといてくれないんだろう……?
映画館。
エレノアはうきうきと微笑んでいて、頬がバラ色に染まっていてとても美しい。でも、エブニーザはまわりを気にしてきょろきょろと落ちつかない。
と、視界の隅にクーの姿を発見。
エブニーザは、救いの神が来たかと思って周りを見回した。しかし、クーの姿はどこにもない。見失ってしまったようだ。
そのころクーは、ヘイゼルとアンゲルが、売店の近くにいるのを発見した。
「あなたたち、いったい何をしているの」
クーはジーンズにTシャツ、スウェットのパーカーと超軽装だ。
「これはこれは、ノレーシュの姫君がここで何をしているのかな?」
「それはこっちのセリフ」
クーはヘイゼルを見て、あからさまに嫌な顔をした。
「クーも二人の様子を見に来たの?」
「二人?何の事?」
「エンジェル氏……余計なことを」
二人は仕方なく、エレノアとエブニーザの話をした。ふと入口を見ると、二人が中に入るところだったので、慌てて三人とも後を追った。
「フランシスにばれたら『なんで私も呼んでくれないの!』って怒られそうね」
クーが半ば呆れながらつぶやくと、ヘイゼルがにやにやと笑いながら、
「好きなだけ悔しがらせておけばいいさ!パンフレットでも買ってやるか?」
と言った。とても楽しそうだ。
アンゲルは、2つ前方の席の、エレノアとエブニーザをじっと見つめていた。
俺も映画は初めてなのに、なんでエレノアじゃなくて、ティッシュファントムと一緒に来なきゃいけないんだ?
アンゲルは内心不満でいっぱいだ。
隣にノレーシュの姫君(一国の王位継承者)がいるのだから、普通の人間なら、一生忘れがたい思い出の日になるところだろう。
『ノレーシュの姫君と映画を見に行ったんだぞ!』
一般的な学生なら、あとあと自慢しそうなものだ。
しかし、アンゲルはエレノアの事で頭がいっぱいで、隣の『姫君』のことなど、全く考えていなかった。そもそもアンゲルには、相手の地位や立場をまるで気に留めないという、天性の鈍感さが備わっていた。だからこそ、反対側の席でニヤついている『ティッシュファントム』とも、毎日普通に怒鳴りあえるのだが……。
「そんなにエレノアが心配?」
クーがいたずらっぽく言うと、アンゲルはクーを睨みつけたが、特に言い返さなかった。
「健気だわあ」
「姫君、あまりエンジェル氏をいじめないでくださいよ」
「ティッシュファントムは黙ってろ」
「ティッシュファントムって言うな!」
「静かにしなさい!ばれるわよ!」
エレノアが後ろを振り向いたので、三人とも座席の下に隠れた。
なんか、今、ヘイゼルの声が聞こえたような……。
「ヘイゼルたちは、知ってるの?ここに来ること」
隣のエブニーザを見ると、顔をしかめて嫌そうな顔をしていた。
「たぶんこの会場のどこかで、こっちを見てますよ。わかってましたよ。こうなるのは」
「えっ?」
エレノアは驚いてあたりを見回した。
「どうしてそんなことを?」
「僕が何か起こしたら困るから」
「何か起こすのはあなたじゃなくて、ヘイゼルじゃないの?」
「そうですね。映画が終わったら、早くここを離れたほうがよさそうですよ」
「何か起こす前に?」
「隣の客のポップコーンを奪い取って、まき散らす前にね」
「それは、予知?」
「そのうち、わかりますよ」
エブニーザはいつまでも表情が険しい。
エレノアは、ヘイゼルを探そうと周りを見回したが、もうすぐ映画が始まるので、原作の本の話をすることにした。マリアン・デフォーの自伝的小説で、100年戦争時代の愛の物語だ。管轄区の男性と、イシュハの女性が国境近くで出会い、恋に落ちてしまうが、両国は戦争中のため二人には困難が襲いかかる。
エブニーザは、
「読んだことがありますよ。でも題名が違いますけど……」
だそうだ。彼女の本はほとんど読んだという。マリアンの小説のほとんどが、何回も繰り返し映画や舞台になっていると教えると、
「それは……見てみたいですね」
エブニーザが興味を示した。
映画が始まってすぐ、ヘイゼルが、
「隣の席でものを食べる音がうるさい」
と言いだした。
そして、映画の間中、いらいらと手足を揺らして落ちつかない様子だった。
アンゲルとクーは、
いつ爆発するかわからないぞ……。
と気になって、映画の内容が全く頭に入らなかった。
映画の名台詞『どちらの女神も、愛を迫害するようなことはなさらない』が出てくると、エブニーザは、
「女神なんて、いないのに」
と小声でつぶやいた。エレノアはそれを聞き逃さなかった。
エブニーザ、管轄区の人間よね?そんなこと言っていいの?
エレノアの心配をよそに、映画はどんどん進んでいき……そして事件は起こった。
映画終了直前、ヘイゼルは隣の客とケンカを始めてしまい、エブニーザが予言したとおり、隣の客のポップコーン(3つ目)を奪って回りに投げつけ始めた!
周りの客が悲鳴と共に逃げて行く。
「ああ、終わるまでもたなかったみたいだ……帰りましょう」
エブニーザが立ち上がった。エレノアは抗議の顔で彼を見上げた。
「まだ映画が終わってないのに……」
「早く!」
エブニーザはエレノアの腕をとって、強引に映画館の外に連れ出した。
こんな強気になることもあるんだ……。
エレノアはドキドキしていた。
そのあと、二人で手をつないだまま(手を離すタイミングをつかめなかっただけで、エブニーザには好意は全くなかったのだが)寮まで帰った。
エレノアにとっては、思い出に残る一日になったようだ。
そのころ、ヘイゼルとアンゲルとクーは、三人そろって映画館の事務室に連れていかれて、いかめつい顔の館長に、
「今度やったら警察に突き出してやる!」
と怒られていた。ヘイゼルは、
「俺じゃなくて隣の奴を連れてこい!」
いつものようにわめいたが、アンゲルとクーに両側から睨まれて黙りこんだ。
エレノアが寮に帰ると、フランシスが怖い顔で、目もとをひきつらせて立っていた。
「エブニーザと映画に行ったんですってね。クーに聞いたわよ」
エレノアは驚いた。
「どうしてクーがそのことを知ってるの?」
「どうして私に教えてくれないの!?」
フランシスが椅子を投げつけたかと思うと、その場に座り込んで泣き出してしまった。
エレノアがあわてて駆け寄ると、
「どうして私だけいつも仲間はずれなのよ!」
とわめきだす。エレノアは謝ったが、どうしてフランシスがこんなに泣くのかがわからなかった。
必死でなだめながら、今日起きたことをフランシスに説明すると、
「そうでしょうね。ヘイゼルが2時間も黙って座っていられるわけがないのよ。前にも映画館で暴れたことがあったわ」
「えっ?」
エレノアは驚いた。今日は驚いてばかりだ。「ヘイゼルと一緒に行ったことがあるの?」
「一回だけね。映画の内容が気に食わなくて、ずっと大声で悪口を言ってて、周りの客とけんかになったの」
「ほんと?」
エレノアは呆れた。
「そういえば、どうしてクーが映画館に?」
「偶然ヘイゼル達に会ったって言ってたけど、怪しいわ。きっと最初から三人で様子を見てたのよ」
フランシスがくやしそうな顔をした。
次の日。
練習の帰りにエレノアがカフェに向かうと、アンゲルが他の学生(顔色の悪い、エブニーザより暗そうな)と熱心に話しているのが見えた。最近よく見かける。二人ともいつも深刻そうな顔で話をしていて、近寄りがたい。
何を話しているんだろう……。
と 思いながら、奥のカウンターでコーヒーを受け取る。ウェイターが、エレノアに熱心に話しかけてきた。彼は前からエレノアが気に入っていたが、いつもアンゲルとしゃべっているので話しかけられなかったという。
「あれは彼氏?」
「違うわ。今日は別な人としゃべっているし」
「ああ、毎週長話してるよ、あの二人。馬鹿な男だね、君みたいな綺麗な子をほっといて、あんな暗そうなのと」
エレノアは一応笑っておいた。それから、ウェイターと当たり障りのない話をし、てきとうに話を切ってカフェを後にした。あまり気の合う相手ではなさそうだ。
外に出て振り向くと、アンゲルと学生が見えた。話がまだ終わらないようだ。
「エレノア」
フランシスが遠くから歩いて来て、エレノア前に来るなり、こう言った。
「ちょうどよかったわ。あんたはオーディションに行くのよ」
不気味なほどさわやかな笑い方で。
「えっ?」
何の話か、エレノアにはわからなかった。
「フェスティバルの映像と書類を送ったら、一次選考に通っちゃったの。二次選考があるから、行って!冬の休暇が終わった後だから、まだだいぶ先だけどね。それじゃ」
「ちょっと待って!」
エレノアは、立ち去ろうとしたフランシスを引きとめた。
「どういうこと?勝手に出したの?」
「だって、締め切りが迫ってたし、チャンスは利用しないともったいないじゃないの」
「フランシス!」
「怒らないでよ。言っとくけど、今はなんだって競争が激しいんだから。こういう機会があれば、ばんばん挑戦しないとダメなのよ!おわかり?それじゃ」
まだまだ文句を言いそうなエレノアを置いて、フランシスは早足に去って行った。
何考えてるのよ!オーディション!?
怒りと混乱でしばし立ちつくした後、エレノアはまた音楽科に戻ることにした。
ブースで歌の練習をするためだ。
アンゲルはクラウスの部屋に案内された。
ロハンが住んでいるのと同じ、あの古い寮だ。
壁際の本棚には、宗教関係の難しい本が、聖書と一緒にずらっと並んでいた。
……そうとう悩んでるな。
そして部屋を見回す。ロハンの部屋と全く同じ造りだ。
やっぱこっちの寮でよかったのになあ。なんでティッシュファントムの巣窟に住んでソファーで寝てるんだろう、俺は。
「ルームメイトは?」
「同じ管轄区の、コミュニティに入ってる」
「げっ」
アンゲルはあの、不気味な集団を思い出した。
あれと一緒の部屋って……ティッシュファントムの方がよっぽどましだ。
「ということは毎日祈ってるわけ?二人で?」
「当たり前じゃないか」
アンゲルは、クラウスが心の底から気の毒になってきた。
「集会に参加してるから、夜遅くまで帰って来ないよ」
「集会って……」
「聖書を回し読みする会」
「……はてしなく暗いね」
「ほんとに管轄区の人なの?そんなことを言うなんて」
クラウスが、非難に満ちた声をあげた。
「本当はイシュハにずっと住んでいたんじゃないの?」
「違うよ。クレハータウンって知らない?」
「知ってる。ポートタウンの近くだろ」
「そこからさらに10キロほど歩くと、俺の住んでいた町がある」
しばらく二人で管轄区の町の話をしていたのだが、そのうちクラウスが『懲罰室に一週間も閉じ込められた』という話を始めた。
「何やったんだよ?」
「わからない」
「わからない?」
「みんなは僕が、祭壇の飾りを壊したって言う。でも僕にはそんな覚えはないし、第一、祭壇に近づいた記憶もないんだ。でも、みんな、僕がやったのを見たって言うんだよ。友達も両親も、神父様まで」
「変だな」
「でも、神父様がそう言ったら、僕が何を言おうと信じてもらえないだろう?」
「だろうなあ……」
アンゲルは自分の町にいた神父を思い出した。クラウスの話に出てくる神父とは違って、人間的に善良な老人だった。町の人間の手本のような存在だった。
でも台風で行方不明なんだよな……。
「それで、女神が信じられないわけ?」
「それだけじゃないけど……それがきっかけと言えなくもない」
それから二人は、『いかにあの国の影響から逃れるのが難しいか』を話した。せっかくイシュハに来たのに、コミュニティの連中にはつけ回されるし、イシュハ人はあまりにも即物的で、精神性がない……。
「どうしてイシュハ人はあんなに気楽そうなんだろう?」
「さあね。生活に宗教が入ってないみたいだけど」
「でも、信仰なしで人間、生きていけるものなのかな?」
クラウスが深刻な顔でつぶやいた。
「どういう意味?」
「信じるものがなくて、それで精神を平静に保てるものだろうか?」
「……信じないほうが平和な気がするんだけど」
アンゲルには、クラウスが何を言っているかよくわからなかった。
「少なくとも、イライザ信仰は」
クラウスが、何か異質なものを見るような目でアンゲルを見た。
アンゲルはその目つきに見覚えがあった。
あの、狂信的な『管轄区コミュニティ』の連中と同じ目だ。
「アンゲル、やっぱり君は管轄区の人間じゃないだろう?」
「残念ながら、生まれも育ちも管轄区なんだよ。ただ女神が信じられないだけ」
「そんな管轄区人いないよ」
「じゃあお前は何なんだよ!?」
意見が合わなくなってきた。
どうも、アンゲルが抱いている違和感と、クラウスが抱いている違和感では、内容がだいぶ違うらしい。
帰り道、アンゲルは混乱した頭で、クラウスに言われたことを考えた。
『信仰なしで人間、生きていけるものなのかな?』
アンゲルは、そんなことを考えたことがなかった。そもそも、この問いかけの意味が理解できなかった。
どういうことだ?
もともと俺は信じてないぞ?それが何だ?
いきなり死んだりしないだろ?
いや、そういうことじゃない。わからなくはない……でも、何だ?
考え事をしながら歩いていたアンゲルは、自分が反対方向に歩いていることに気がつかず、アルターの駅が視界に入ったところであわてて引き返した。
自分の寮に帰った時には、日付が変わっていた。
エレノアがレッスンを終えて道を歩いていたとき、誰かに足をかけられて転んでしまった。
うずくまったまま後ろを見ると、音楽科の生徒らしき数人が、笑いながら去っていくのがわかった。
「こっちの校舎は質の悪い生徒が多いですな!」
いつのまにか、ヘイゼルが目の前にいて、エレノアに手を差し出していた。
「大丈夫かな?」
「ありがとう……どうしてここに?」
「あそこに用事があってね」
ヘイゼルは音楽科の校舎の隣の、集会場を指さした。
「女神アニタ様を信じている哀れな古代イシュハ人の集会があったんだが、またご令嬢がヒステリーを起こしてね」
「フランシスが?」
「隣の席の女とケンカして、水を浴びせて平手打ちして飛び出して行った」
「えっ?」
顔をしかめたエレノアに、ヘイゼルは両手を振ってなだめるような顔をした。
「いやいや、今回ばかりは相手が悪いのさ。『暇つぶしに学校に来てるんでしょ?どうせお金持ちとお見合いして終わりですもんね。シグノーのご令嬢は気楽でいいわね!』なんて言われてみろ、誰だって怒るさ。水どころか、灯油をかけて火をつけてやってもいいくらいだ。そう思わんかな?」
「火なんかつけちゃだめよ!」
「わかってるわかってる、たとえ話さ。そんなことを言われたら、シグノーのご令嬢じゃなくたって怒るだろ」
「でしょうね……フランシスを探すわ」
「頼みますよ。俺はボルディ・ツルッパゲーノの授業に出なくてはいかんのでね」
ヘイゼルは、偉そうにそう言いながら去っていった。
もしかして、わざわざ私に知らせるためにここで待ってたんじゃ……?
と疑うが、すぐに女子寮に向かって走り出す。
寮に戻ると、やはり中でガチャーン!と何かを破壊する音が聞こえた。
おそるおそるドアを開けると、皿と花瓶と、何本かの化粧品のビンが割れて床にちらばっていて、フランシスが荒い息で肩を上下させながら立っていた。後ろ姿なので顔は見えない。
「フランシス?」
エレノアが声をかけるとフランシスが振り返った。涙でマスカラが流れていて、顔がめちゃくちゃだ。
「どうしたの!?」
エレノアが叫ぶと、フランシスが声を上げて泣きながら抱きついてきた。まるで、いじめられて泣いている小さな子供のようだ。
フランシスの背中をさすってなだめながら、エレノアは不思議に思った。
この間の映画のときもそうだったけど、いいところのお嬢様が、どうしてこんなに子供っぽいんだろう……?
数時間経ってフランシスが落ちついたあと、エレノアは恐る恐る、気になっていたことを口に出してみた。
「ヘイゼルって本当は優しい人なんじゃない?今日のことも、エブニーザを連れ回していることも……面倒なことは避けるでしょう?普通は。どうしてあんな高慢なふるまいをするのかしらね」
意外にもフランシスは怒らず、冷静に、
「シュッティファントだからよ」
と答えた。
「黙っていたら、シュッティファントっていう家に押し潰されるからよ。私がシグノーに潰されているみたいに」
エレノアをじっと、深刻な目で見つめた。
やっぱり子供のような目だ、とエレノアは思った。成長していない目。成長したいのにできない人間の目だ。
「私だって同じ……そうね……家の名前が呪いみたいに、どこにいっても付きまとってくる。みんな、シグノーとかシュッティファントっていう名前しか見ない。ヘイゼルとかフランシスっていう人間がいるって知ってもらうには……そうね、だからよ、だからあんなとんでもない言動をするのよ。みんなが私やヘイゼルを家の名前でしか判断しないから……だからムカツクの」
そして、
「あなたがうらやましいわ、エレノア」
と、ささやいた。
「暴れたり物を投げたりするより、もっとましな方法がいくらでもあると思うけど……」
とエレノアはつぶやいたのだが、フランシスはそれを無視して、他人の悪口を延々としゃべりはじめた。
おおよそ脈略も根拠もない内容だったが、『イシュハの上流階級が大嫌い』だということと『自分も地位が高いはずなのに、好きなこともできずに親のいいなりになっている』ことが気に食わないのだということが、エレノアにはなんとなくわかった。
アンゲルは、エレノアがいないかな~と思って、本を読みながら図書館のカフェに座っていたのだが、残念ながら、そこに通りがかったのはヘイゼルだった。
「ここで誰を待っているのかな?」
とニヤニヤしているヘイゼルに、アンゲルはむっとした顔で、
「別に、勉強してるだけだよ!」
と言い返した。
ヘイゼルは、フランシスが起こしたことと、エレノアに会ったことを話した。
「だから、ここで待ってても来ないですぞ?ククク」
「……お前やっぱり悪魔だな」
アンゲルが立ち上がると、ヘイゼルはにやにやしながらアンゲルを引き止めた。
「まあまあまあ、たまにはここで話でもしようじゃないか」
「どうせ同じ部屋だろ、ここでまでお前となんか話したくないね!」
アンゲルはヘイゼルを置いてその場を立ち去ろうとしたが、クラウスが近づいて来るのが見えたので、声をかけて別な席に一緒に座った。
二人で管轄区の話やイシュハの話をする。クラウスの話はあいかわらず内容が暗く、哲学的で謎めいていた。
本人も、自分が何を話しているか、わかってないんじゃないだろうか……。
アンゲルは話題を変えようと思い、何を専攻しているのか聞いてみると、クラウスはそれには答えず、
「なんのためにここで勉強しているのかわからない」
と言って黙りこんだ。
アンゲルも返答に困った。
自分はなんのためにここにいるのだろう……?
次の日、アンゲルがカフェでぼーっとしていると、エレノアがやってきた。
エレノアは、フランシスが集会場で暴れた話をした。
「ヘイゼルって、本当は優しいんじゃないかしら」
「ヘイゼルが?」
アンゲルが抗議の声を上げた。
「おいおいおい、熱でもあるんじゃないか?練習のしすぎで疲れたんじゃないか?」
「違うわよ!」
「まあ……そうだなあ、少なくとも、俺とエブニーザはあいつの家のことなんかどうでもいいな。俺はそもそもシュッティファントなんて名前知らなかったし、エブニーザは自分の事で悩みすぎて、そんなこと気にしてる余裕もないんだ。俺たちはただ、ヘイゼル自身の性格の悪さに困ってるだけでね!」
「だから仲がいいのね」
「は?」
『仲がいい』という言葉の定義が知りたいと、アンゲルは思った。
「家の名前しか見てくれない、誰も『ヘイゼル』『フランシス』っていう人間を見ない……」
エレノアがぼんやりと遠くを見た。
「でも、あの二人だけじゃないわね。みんな、その人自身を見ているようで、表面的なことしか見えてないのかも。見た目とか、顔とか、髪や目の色とか……本人の気持ちとはまるで関係のないことばかりを」
エレノアが立ち上がり、冷ややかな目でアンゲルを見おろしながら、真剣な声でこう言った。
「ねえ、心理学で、人の本当の姿が見える?それとも、やっぱり表面的なことしか分析しない学問なの?私はそれがすごく気になるの」
エレノアが去っていく。アンゲルは考え込む。
その人の本当の姿……って何だ?
どうしてエレノアが心理学のことを気にするんだ?
アンゲルは困惑しながら、そのままカフェでクラウスが来るのを待っていたのだが、閉店する時間になっても、彼は姿を見せなかった。
何かあったのか?
寮に様子を見に行こうかとも思ったが『おせっかいすぎるのはよくないよな』と思い、自分の部屋に帰ることにした。
エブニーザとクーが、図書館裏の芝生のベンチで話している。
女の子に追いかけられるのが嫌でたまらないというエブニーザに、クーは呆れていた。
「贅沢な悩みねえ。好かれたくても嫌われる可哀相な人もいるっていうのに」
「でも、実際僕は誰にも興味がないんです」
「例の女の子以外ね」
「……彼女を探さなきゃ」
エブニーザが辛そうな顔で下を向いた。
「どうやって」
「場所がわかればいいのに……汚い部屋しか見えない」
エブニーザは下を向いたまま黙り込んでしまった。
クーは空を見上げ、優しく声をかけた。
「下じゃなくて上を見なさいよ。こんな綺麗な空は珍しいわ。夕陽がピンクと紫よ。独特の色ね」
エブニーザがゆっくりと上を向く。
「本当だ……どうしてこんな色なんだろう」
しばらく無言で空を見つめたあと、
「彼女にも見えるといいのに」
とエブニーザがつぶやいた。
「きっと見えるわよ」
クーが笑った。
姫君らしくない、弱々しいやり方で。
「どこだって、空は見えるわ」
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