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第五章 シュッティファントの別荘にて
冬の休暇前
道路には雪が積もっている。アンゲルは、よろよろと、慣れない雪道を歩いていた。
……雪なんて嫌いだ!!
アンゲルは、心の中で悪態をついていた。先日、いつもなら負けないイシュハ人(特にヘイゼル)の雪玉攻撃にあって、こてんぱんにやられてしまった。雪に足元をとられて、上手く逃げることができなかったのだ。
運動不足になっていると感じたアンゲルは、ロハンを誘ってジョギングを始めた。
しかし、ほんの4、5分走っただけで、ロハンは疲れ果ててうずくまってしまった。
「まだ全然走ってないだろ!?」
「だって……昨日バイトで遅かったし……もう1キロは走ってるじゃないか」
「それくらいで疲れるなよ!」
「金持ちには勝てないよ。いいもの食って高いジムに通ってんだから」
ロハンが、よくわからない言い訳を始めた。
「なんだよそれ」
「今日だって夕方からバイトなんだからさあ、体力取っとかないと」
「1キロ走る体力もないくせに、なにを取っとくんだよ!?」
仕方なく、アンゲルは一人で外を走っていたのだが、ちゃんとした防寒具を着ていなかったため、体が冷え切ってしまい、気分まで異常に落ち込んでしまった。
エブニーザが図書館から帰ってくると、死人のような顔で、ヒーターの前に座り込んで震えているアンゲルの姿があった。
「……何してるんですか?」
「寒いんだよ」
アンゲルが震えながらつぶやいた。
「さっきからヒーターの前にいるのに、ちっとも暖かくならないんだよ」
「寒い日に、長時間外にいると、冷え切ってしまうんですよ。それで、しばらく戻れないんです。ちゃんと保温しないで外を歩くからいけないんですよ。いきなり温めようとしても無駄で……」
アンゲルがきつい目でエブニーザを睨んだので、エブニーザは言葉を切って、自分の部屋に逃げた。
あいつ、自分も管轄区出身のくせに!!
そしてふと疑問に思う。エブニーザの口から、女神イライザとか、信仰とか、そういう言葉を聞いたことが一度もないな、と。
そういえば、祈ってるのも見たことがない……。
祈らない管轄区人なんて、俺以外に見たことがないぞ。
もしかして、あいつも女神なんて信じてないんじゃないか?
尋ねてみようかと思ったが、ヒーターから離れたくなかったので、やめた。
次の日、カフェで会ったエレノアに『寒過ぎて死にそうだ』と言うと、エレノアは笑ってこんなことを言った。
「体は常にあたためておかないとだめなの。声楽家は絶対に体を冷やすようなことはしないの。そうしないと声が出ないってわかってるから」
「ふーん」
「スポーツのウォーミングアップと同じよ」
「ああ、そういえばそうだな……」
アンゲルはサッカーを思い出した。練習しなくなってからもう半年は経っている。きっと、今チームに参加しても、前ほど上手くはプレーできないだろう。
「そういえば、この前ヘイゼルとサッカーをしてたわよね」
エレノアは何気なく言った(ついでにエブニーザについて聞こうと思った)のだが、アンゲルはびくっと体を震わせた。
「ああ、あれは、ヘイゼルが……」
「チームに入ってるの?」
もちろん、エレノアはわざと聞いたわけではない。
しかし、アンゲルにとっては、一番されたくない質問だった。
「そんな余裕ない」
冷たい声でつぶやくと、アンゲルは勢いよく立ち上がり、その場を離れてしまった。
……どうしたんだろう?
一人残されたエレノアは、アンゲルの後ろ姿を見ながら困惑していた。
休暇が始まる前の日に、アンゲルはクラウスと話をした。クラウスは管轄区の実家に里帰りしなくてはいけないのだが。
「行きたくないんだよ」
と力なくつぶやいた。
「行ったらまた、祈りだ聖書だ新年の行事だ……意味がわからないことを無理矢理させられるんだ」
「だったら行かなきゃいいじゃないか」
「寮が、新年の間、閉まるんだ。行くところがない」
「寮が閉まる?」
アンゲルはそんな話を聞いたことがなかった。安い寮だけだろうか?
「アンゲルは帰らないの?」
「帰らないよ。なあ。一度家を出たら、めったに帰らないもんじゃないのかな?なんていうか……出世するまで帰ってくるなみたいな」
「ずいぶん古臭い話だね」
クラウスが笑った。
アンゲルは衝撃を受けた。ごく当たり前の事を言ったつもりだったからだ。
こいつに古臭いなんて言われるようじゃ……。
クラウスは、いつもより明るく、元気そうに見えた。きっと休暇のせいだろうとアンゲルは思った。
いくら女神を信じてなくたって、慣れた家に帰れるんだから、多少は気が休まるだろう。
そういえば、うちの親はどうしているだろう……?
あの、標準的な、善良なイライザ信徒たちは……。
特に宗教の話にもならず、『また会おう』と約束して別れた。
アンゲルは、クラウスの事はすぐに忘れてしまった。休暇の時間をどう使おうか考えていたからだ。
もちろんアルバイトには行くし、勉強しなきゃいけないからな。でも、せっかくイシュハに来たんだから、もっといろんな所を見て回ったほうがいいかもしれないな……。
そんなことで頭がいっぱいだったのだ。
この日の事を、アンゲルは、一生後悔することになるのだが……。
エレノアは、ケッチャノッポにのどあめとチョコレートを没収されてしまった。
「のどあめは実はのどによくないの!糖分がだめなの!」
「えっ」エレノアがあわてて反論した「でも、今まで毎日チョコレートを食べていたけど、ちゃんと巡業でも歌えていたし……」
「だめよ、喉に良くないの!痰が絡むから!控えなさい!」
エレノアは仕方なく、甘いものをがまんすることにしたのだが……。
夕食のあと、フランシスは、スイーツを食べている自分を、エレノアがうつろな目でじーっと見つめていることに気がついた。
「食べる?」
フランシスが皿を差し出しても、エレノアは、
「いらない」
と言うのだが、やはり、じーっとスイーツを見つめ続けるのだ。
「ちょっと!いいかげんにしてよ!」
最初は『歌のためなら』と我慢していたフランシスだが、三日目の朝に突然キレた。
「気持ち悪いっつの!!飢えた犬みたいな目をしないでよ!ちょっと来なさい!」
フランシスは怒鳴りながら、嫌がるエレノアを引きずって、食堂を出て行った。
それを見ていた他の生徒たちは、
「ああ、とうとうあの子も追い出されるんだわ」
「フランシスってどうしてあんなにヒステリーなのかしら」
「次はどんなのが来るんだろう?」
と、口々に噂していた。
フランシスは、エレノアを連れて『アルターで一番スイーツがおいしい』レストランに入った。そして
「甘いものを全部持ってきて!全種類!!」
と叫んだ。
「フランシス!!」
エレノアが泣きそうな声で叫ぶと、
「全部食べなさいよ。あたしも手伝ってあげるから」
と、こともなげに言った。
「だめよ、糖分がだめなんだってば、喉に……」
「まったく食べられないってわけじゃないでしょ?コンサートの前だけ控えれば?極端すぎるじゃないの。いきなりチョコレート禁止なんて」
「でも……」
エレノアは泣き出してしまったが、それくらいで引き下がるフランシスではない。
「いいから食え!」
エレノアは仕方なく、目の前に置かれたチョコレートケーキを口に運んだ。
ああ、おいしい……。
フランシスがそれを見てにやりと笑いながら、
「ヘイゼルの別荘に遊びに行くから、あんたも来なさい」
と言った。エレノアは、抗議の目をフランシスに向けた。
「いいじゃないの、ほんの一週間よ?親のところにはそのあと帰ればいいじゃない?新年にはパーティもあるし」
「パーティ?」
「偉い人がたくさん来るから、顔を売るチャンスなのよ」
……つまり、もう出なきゃいけないって決まってるわけ?
最近、フランシスは、エレノアの行くところを、次々と、勝手に決めていた。オーディションに、パーティに、社交のなんとやら(エレノアには理解不能な場所)……。チャンスをあげたいという気持ちはわかるのだが、何もかも決められてはエレノアも困る。
でも、フランシスを止めるなんて、誰にもできそうにないわ……。
エレノアは、目の前に並んでいる『きれいなスイーツ』を見渡しながら、困り果てていた。
休暇がやってきた。
ヘイゼルは、みんなを連れて別荘(やや北西よりの地方都市)に行くことに決めた。人の都合を聞かないで勝手に決める、これがヘイゼルのやり方である。
アンゲルは行こうかどうか迷った。ヘイゼルと行動を共にすると、どんな厄介なことが起こるか想像がつかない。
……結局振り回されて、疲れ果てて終わるんじゃないか?
アルバイトをそんなに長く休んでいいのだろうかとも思ったが、レストランの店主は、
「休暇になれば学生はいなくなるもんだからな」
嫌な顔をしていたが、一応了承してくれた。
まあいいか、どうせどっかに旅行しようと思ってたし……。
アンゲルは行くことにした。
そして出発の日。
アンゲルがバイトを終えて帰ろうとすると、目の前に、いかにも高級そうな車が止まり、座席の窓からヘイゼルが顔を出した。
「乗れ!」
ドアが開いた。
通行人がみな、怪訝な顔でこちらを見ている。
ああ、俺まで、金持ちのダメ息子だと思われてるな……。
憂鬱な気持ちで車に乗った。乗り心地は悪くなかった。
しかし、後ろから、誰かがすすり泣く声が聞こえてきた。
「ヘイゼル」
アンゲルが疑惑の顔をヘイゼルに向けると、ヘイゼルはいつも通りニヤニヤしていた。
「ああ、実は、ノレーシュの姫君が、祖国の行事で不参加でね」
「そんなことより、後ろの席の……」
「エブニーザが『僕も行きたくない』ってわめきだしたのだが、行きたくないで済むことなんて世の中にはないからな、無理矢理車に乗せたのだが、暴れてね」
アンゲルは後ろをちらっと見たが、人の姿は見えない。嗚咽だけが聞こえてくる。
「置いてきた方が良かったんじゃないか?」
「そんなわけにはいかんよ。あいつは部屋にこもりすぎる。ほっといたら休暇の間ずっと部屋から出てこない可能性もあるわけだ。ただでさえシグノーのご令嬢にミイラ呼ばわりされているのに、図書館なんかに何カ月も籠られてみろ、本当に化石になっちまう」
「別にいいだろそれでも」
すすり泣きがバックシートから響いて来た。
……嫌な予感がする。
「良くない。エンジェル氏もこの前言っていただろうが『教育上よろしくない』って」
「それは金の問題だ。エブニーザの問題じゃない」
「だからな、シートベルトでぐるぐる巻きに縛り上げてやったのさ」
「何ぃ!?」
慌ててアンゲルが、身を乗り出して後部座席を覗くと、そこには、手足をシートベルトで縛られて、人質のように横たわっているエブニーザの姿があった。
「お前はアホか!?」
アンゲルがヘイゼルに向かって怒鳴った。
「これじゃ、人さらいと同じだろうが!何を考えてるんだ!?エブニーザに昔の事を聞くなって言ったのはお前だろ!?犯人と同じことをしてどうするんだよ!?犯罪だぞ!もっと症状が重くなったらどうするんだよ!?責任問題だぞ!?」
「ショック療法になるかと思ったのだが」
「なるか!」
アンゲルがエブニーザを助け出そうと、シートの上から後部座席に移ろうとすると、ヘイゼルが、
「余計なことをするな!」
とつかみかかってきた。アンゲルは全力でヘイゼルを蹴って、後ろの座席に移ろうとしたのだが、ヘイゼルに掴まれて引きずり戻されてしまった。
「離せこのティッシュファントム!」
「ティッシュファントムじゃない!シュッティファントだ!」
「どうでもいいから離せえええええ!!!!」
二人は車内で乱闘を始め、エブニーザはさらに激しく声を上げて泣き出してしまい……。
一人正常な運転手は、時々後ろの『狂った金持ちのバカ息子たち』を、呆れた顔でふり返っていた。
「あんたたち、何でそんなにボロボロなのよ」
別荘の前。車から降りてきた『乱闘二人組』を見て、フランシスが露骨に不愉快な顔をした。
アンゲルもヘイゼルも、服は破け、髪はめちゃくちゃになっていた。その後ろにエブニーザが立っているが、暗い顔で下を向いている。誰とも目を合わせたくないようだ。
「何かあったの?」
エレノアが心配そうに二人を見た。アンゲルは車内に逃げ込みたくなった。
「何でもない。ちょっとした権力闘争だ」
「またそれか……」
ヘイゼルは全く反省していないようだ。ニヤニヤとフランシスに近づいていく。
制服を着た使用人が何人かやってきて、フランシスとエレノアのスーツケース(どうしてあんなに荷物が必要なんだろうと、アンゲルは疑問に思った)を運び、全員を入口に案内した。
アンゲルは深く考えずについてきたのだが、『シュッティファントの別荘』を見たとたん、驚きで息が止まりそうになった。
別荘……というより、城だろ、これは。
アンゲルは、目の前の『豪邸』を見上げて、呆然としていた。もっとこじんまりとした、普通の家を想像していたのに、図書館より立派で大きな建物が建っていたからだ。
これが別邸って、別じゃない家はどれだけ大きいんだよ?
エレノアも『すごく立派ね!』と叫んでいたが、言葉ほど驚いているようには見えなかった。お世辞、社交辞令のような響きだ。
エブニーザはずっと、青白い顔で下を向いている、心の底からここに来るのが嫌だということが、沈んだ態度ではっきりとわかった。
きっと、休みの間ずっと、図書館にいたかったのだろう。
エブニーザは部屋に荷物を置くなり、
「本屋に行ってきます!!」
と飛びだしていってしまった。エレノアがあわてて追いかけて行った。アンゲルも追いかけようとしたのだが、ヘイゼルにつかまってしまった。
そして数時間が経過。
ヘイゼルとフランシスは、あいかわらずくだらないことでわめいている。
「こんなとこに別荘なんてダサイわよ」
窓の外を眺めながらフランシスが文句を言った。今日で7回目の『ダサイ』だ。
「お前こそ成金趣味だろうが。ポートタウンの一等地に趣味の城なんぞ建てやがって!」
「そんなことないわ」フランシスがお嬢様らしい気取った振り返り方をした「立派な文化事業なのよ。古い町並みを復興するの」
「そのうち使用人に金目の物を盗まれるぞ!あそこはそういう土地だ!」
「ポートタウンは立派な文化都市よ。それとも、未だに外国人を差別してるの?」
「外国人じゃなくて、下衆な連中を差別してるのさ!人から小銭をかすめ取ることしか考えてないような奴らをね!」
「下衆はあんたでしょ!」
二人が際限なく言い争っていると、傍でぼんやり様子を見ていたアンゲルが、
「金持ちはケンカのネタが多くてうらやましいね。俺なんて家は一つしかないし、住んでんのは両親だけだ。使用人がものを盗む心配なんてないからね」
とつぶやいた。けんかをしていた二人は黙り込んだ。
やれやれ。アンゲルは緑色の目を窓の外に向けてソファーにもたれかかった。細かい細工のついた、信じられないほど座り心地のいいものだ。
しばらく立ち上がりたくないなあ……ああ、だから金持ちは太るんだ。
アンゲルはこのイシュハという国の『贅沢さ』が嫌になってきた。何もない管轄区にいたころは、ものがあって豊かなことはいいことだと思っていたのだが、実際にイシュハに来てみると、そうとも思えなくなってきた。
「エレノアはまだ帰って来ないの?」
フランシスがソファーに向かって歩いて来る。古風な服装、くびれた腰のラインがまるでマネキン人形のようだと、アンゲルは思った。
生きた人間なのかな?本当に?
いや、こんなこと思う俺もどっか神経を病んでるな。
「エブニーザと一緒に本屋を回ってるんだろ。絶対帰りは遅いさ」ヘイゼルが手を空中で振り回しながら目をくりくりさせた「古臭い文学書だの哲学書だの……本の虫どもめ、俺は理解できん」
『哲学』という言葉で、アンゲルはクラウスを思い出した。
あいつは今頃どうしているだろう?
「哲学は大事だよ。仮にも政治家を目指している人間がそんなこと言うもんじゃない」
「目指してるんじゃない、無理矢理やらされようとしているんだ!」
「情けない男ね。自分の意思がないの?」
「なにぃ!?」
「こら、二人とも、やめろ」
アンゲルが今にも互いにとびかかりそうな二人の間に入るべく、立ち上がった。
「頼むから、ソファーから立ちあがらなきゃいけないようなことはしないでくれよ!それより、これどこで買った?気に入った」
「セカンドヴィラだ」
「授業料一年分より高いわよ」
フランシスが意地悪な笑いを浮かべた。
アンゲルは身を固くして目を丸く見開いた。居心地の良さが一気に消えた。
学費と同じ!?ソファーが?俺はバイトで苦労してるってのに、こいつらは……。
とはいえ、妬む気にもなれないアンゲルだった。あいかわらずこの『ティッシュお化けとご令嬢』は、くだらない理由で言い争いを再開してしまうし、本を探しに行った『流れ者二人組』は帰ってくる気配がない。
どいつもこいつもお子様だな!イシュハの将来はこんなんで大丈夫なのか?まあ、管轄区よりましだけど……。
アンゲルは、自分の生まれ育った国の惨状を思い出した。何もかも遅れていて……だから、自分はここに心理学を学びに来たはずなのだが……気が付いたら、あの富豪シュッティファントの別荘なんかで、高いソファーにつかまってしまっている。
「部屋に戻る」
アンゲルは暗い気分で立ち上がった。
「案内してくれ。まさかお前と一緒の部屋じゃないだろうな?」
急に勉強したくなったのだ。
こんなおしゃべりとつきあってる暇なんてないからな!
「おいおい、まだ寝るには早いだろ」
ヘイゼルが出て行こうとするアンゲルを止めた。
「本の虫たちもいいかげん帰ってくるだろう。もう店だって閉まるころだ」
「ちょっと一人になりたいだけだよ」
俺には贅沢をして遊んでる時間はないんだ。そう心の中でつぶやく。
「ノノカ!アンゲルを寝室に案内して!」
フランシスは、使用人がいるであろう方向に向かって叫んだ。
まるで彼女がここの持ち主のようだ!
「おいおい、エブニーザみたいなこと言うなよ」
ヘイゼルが、軽蔑の眼をアンゲルに向けた。アンゲルも同じ目つきで言い返した。
「実際俺とエブニーザは似てるよ、お前らと違っておしゃべりじゃないからな!」
廊下に出る。派手な装飾でいっぱいだ。柱にはなんだかわからないうねうねしたレリーフ(人間の脳みそみたいだ、とアンゲルは思った)や、誰が描いたのかわからない絵画(そのうち何枚かはエリ・クレマーシュだと彼にもわかった)であふれている。通路と言うより美術館のようだ。
何をどうしたら、こんなあぶく銭が集まってくるんだろうな……。
アンゲルはそう思い、しかし次の瞬間、金銭で判断するのは悪い癖だと思い直して、やってきた使用人には親切そうな笑みを浮かべた。
あいつらのために働くなんて、たまったもんじゃないだろうからな!
「それで、彼女は見つかったの」
エレノアが、エブニーザに本を一冊押し付けた。
『女性が分からない人のための本』だった。
「見つからないんです」
エブニーザは顔をしかめてその本を押し返した。
「やめてください、そういうの」
「エブニーザ……」
エレノアは押し返された本を、選び抜かれた『良書の山』の上に積んだ。「ねえ、彼女が見つかったらどうするのよ?顔を赤くしておどおどしてるだけじゃ、どんな優しい子でも嫌になるわよ?今から人に慣れたほうがいいわよ」
エレノアが早口で、しかし、嫌味さは全くない、同情的なトーンでそう言った。
横目でエブニーザの顔を見る。明るい色の金髪、グレーの目。よくいるブルーグレーではない。ほとんど真っ白だ。色素がないような、不思議な色だ。
綺麗。男なのに。
どうしてこんなに美しいんだろう?
天使の絵みたい……。
本探しを忘れて、うっとりとエブニーザに見とれているエレノアも、まわりから見れば美しい女性だった。完全に、芸術のために生まれてきたのだと、彼女を見る誰もがそう思う。そして、性格も旅芸人らしく、明るく、声も通る。
一方、もう話し慣れているはずの友達相手でもぎこちないエブニーザ。
さらわれて監禁されていたころの記憶に未だにさいなまれているのか、単に生まれつき気が弱いのか、未だに、人の目を見てまともにしゃべることができないようだ。
人さらいはきっと、この美少年を、どっかの金持ち女に売るつもりだったに違いないわ。
エレノアは勝手に、どこかの古風な婦人とエブニーザを想像してうっとりした。
「でも、どこにいるかわからない……」
エブニーザが消え入るような声でつぶやいた。夢に出てくる女が心配でたまらないのか、単にエレノアとしゃべると緊張するのか、もともと青白い顔色がますます悪くなってきていた。
「世界中の娼婦のところを回ってみたら……あ、うちの父がそういうの得意よ。旅芸人だもの。女は旅の楽しみって言って……」
「そういう話はやめてください」
エブニーザは露骨に嫌悪感を現した。
「ねえ。まだ何も危ない話してないわよ!いくつなのよ本当に……」
エレノアは呆れながら、本をぱらぱらとめくった。そしてがっかりした。
一緒に買い物に行こうって言うからついてきたら、こんな話?
エブニーザから話しかけて来て、しかもどこかに行こうなんて珍しいと思ったら……女の子を探してるなんてね!
エブニーザを追って来たエレノアは、一緒に本屋に入ったのだが、そこでエブニーザから聞かされたのは『売春をさせられている女の子を探している』なんていう、とんでもない話だった。ただ、エレノアは他の人と違い『それって妄想じゃないの?』とは言わなかった。単なる話題の一つだと思って受け流していた。親と世界を旅をしていた時に、変わった話をする人にはよく会っていたから、こういうときは反論しないほうがいいということはわかっていたのだ。
エブニーザは黙り込んだ。顔つきがひどく寂しそうだった。迷子になった子供みたいだとエレノアは思った。
「ねえ」
エレノアは別な棚をあさりはじめた。
「真面目な話。彼女がいそうな娼館をかたっぱしから尋ねてみたら?今のままじゃ、話を聞くと何だか……犯罪に巻き込まれているみたいじゃない?」
エブニーザは何も答えない。てきとうに手に取った本を乱暴にめくっているが、速度が速すぎる。明らかにちゃんと読んでいない。
夕方。
何をしても動きが遅いエブニーザに、いらいらしているフランシスが怒鳴りまくっていた。見かねたアンゲルが
「ヘイゼルじゃあるまいし、怒鳴るなよ!」
と注意すると、フランシスはもっときつい声で叫んだ。
「トロすぎるのよ!見ててイライラするの!!」
アンゲルは呆れた顔で立ち去り、別な部屋で休んでいたエレノアに話しかけた。
「あんなのとルームメイトなんて、よくやっていられるね」
「その言葉、そのままお返しするわ。ヘイゼルと一緒なんて大変じゃない?」
「たしかにそうだ……でも、みんながうわさしてるほど悪い奴じゃないよ」
そこにフランシスが入ってきた。
「何をいい子ぶってんのよ。本当はウンザリしてるんじゃないの?」
「まあね~」
アンゲルはコミカルに困った顔をした。
「人の荷物を勝手に開けて中身は食うし、人の手紙を勝手に読むし」
「手紙?」
「母親の手紙を大声で朗読されたよ」
「それがヘイゼルよ」
フランシスが嫌味な笑いを浮かべた。なんだかんだ言って楽しそうだ。
「本屋で何を探してたの?」
話すことが浮かばなかったので、アンゲルはてきとうに聞いてみた。
「何も……『フラネシア』っていうミュージカルの楽譜を探していたんだけど、絶版になっていて、なかったの。そのあとはずっとエブニーザと女の子の話」
「女の子って……妄想の?」
アンゲルが顔をしかめた。
そんな話をなぜエレノアにするんだ?あいつは……。
「妄想って……たしかに信じがたいけど、本人はすごく深刻な顔をしていたし……」
「だから施設に送れって言ってるのよ、絶対頭がおかしいのよ」
フランシスがいまいましそうに言った。
同じころ、ヘイゼルはエブニーザをフランシスから引き離し、絵のある部屋に連れて行った。
「本物のエリ・クレマーシュだ」
かかっているのは女神アニタの絵である。紫色のドレスを着た女神アニタが、胸元で両手を重ねて、祈るように目を閉じている。
目を輝かせているエブニーザとは裏腹に、ヘイゼルは横目で白けた視線を送っていた。
「そんなに感激するもんかな?シュタイナーのところにもたくさんあっただろ?」
「そういう問題じゃありません」
「フランシスをここに入れるなよ、絵を引き裂かれるぞ」
「自分が暴れて破壊する、の間違いじゃないですか?」
「お前最近嫌味になってきたな」
「どうしていつもフランシスを怒らせるようなことを言うんですか?本当は好きでしょうがないくせに……」
ヘイゼルがすさまじい目でエブニーザを睨みつけた。
「……わかりましたよ。もう何も言いません」
「あいつが俺に変なことを言わせるんだ!」
「はいはいはい」
ヘイゼルは、そのあとずっと文句を言い続けたが、エブニーザは絵に夢中で真面目に聞いていなかった。
エブニーザが疲れて『やっと一人になれた……』と部屋でぐったりしていると、ドアをノックする音がした。エレノアだ。
「何ですか?」
エブニーザは露骨に嫌な顔をした。
エレノアはさっき聞いた『夢に出てくる女の子』の話が気になっていたのだが、どう言い出していいかわからず、
「夕食まで時間があるから、話をしない?」
とぎこちないお願いをした。
「アンゲルは?」
「どうしてそこにアンゲルが出てくるの?」
「だって……」
エブニーザは口ごもったがすぐに、
「そうだ、フランシスは?」
とまた聞き返してきた。
「そんなに私と話すのが嫌なの?」
「そういうわけじゃないですけど……」
エレノアは傷ついた顔で立ち去った。そこに運悪くアンゲルが通りがかったが、エレノアはアンゲルを無視して行ってしまった。
「お前、エレノアに何を話したんだ?あんな顔初めて見たぞ」
「何も話してません」
エブニーザは弱った顔でドアを閉めようとするが、アンゲルが無理矢理中に入った。
「ヘイゼルとフランシスがまたケンカしてるから、部屋から出ないほうがいい。俺もヘイゼルと話したくないから、かくまってくれ」
「エブニーザ!アンゲル!どこだ!!」
廊下の向こうから、ヘイゼルの怒鳴る声が聞こえてきた。
アンゲルはあわててエブニーザをつかむと、クローゼットに飛び込み、扉を閉めた。
部屋のドアが乱暴に開く音がして、足音がうろついたが、すぐに出て行った。
アンゲルは安堵のため息をついて、外に出ようとした。
しかし、クローゼットの扉が開かない。
「おい、何で開かないんだよ!?」
「騒ぐと見つかりますよ」
慌てているアンゲルとは対照的に、エブニーザは、暗い顔ですみっこに座りこんでいた。アンゲルが睨みつけると、
「いいじゃないですか。ここの方が静かだし。普通の部屋くらいの広さはありますよ」
「お前なあ……」
クローゼットの中を見回す。
「確かに、寮の部屋と同じくらいの広さはあるな」
そこには服や荷物はなく、小さな木箱が一つ、奥に置かれていた。アンゲルが箱を開けると、そこには薬が大量に入っていた。
「何だこれ?」
「……これ、うつ病の薬ですよ」
エブニーザが錠剤を手にとってつぶやいた。
「え?」
「僕も処方されたことがあるんです。体質に合わなくて、ひどいめまいがしたので、すぐやめたんですが……」
「管轄区に医者なんかいるか?」
「シュタイナーには主治医がいるんです」
「シュタイナー?」
おかしい。
アンゲルは思った。
教会は、医学も心理学も認めていないし、医者なんてあの国にはいないはずなのに。
「それより……なんでこんなところにうつ病の薬なんかあるんだよ、しかも箱いっぱいに」
「僕に聞かれても分かりませんよ。ここはヘイゼルの……」
二人ははっとして顔を見合わせた。
「ヘイゼルが?」
そのころ、エレノアがフランシスにエブニーザのことを話すと、
「本にしか興味ないんでしょ、きっと。オタクなのよ。病的な。あんな気味悪いのにかまわないでよ」
ときつい口調で言われてしまった。
「ねえ、フランシスは、ほんとに、エブニーザを見ても何とも思わないの?」
「気持ち悪い、トロい、とは思いますけど?」
「どうして?」
「どうしてって、実際動きが鈍くて気持ち悪いからよ!しかも何なのよあの目の色は?真っ白じゃない。気持ち悪い。ほんとに人間なの?」
「でも、クーも、学校の女の子たちも、みんな、かわいい、きれい、美しい……って言うわよ?」
「そんなの私の知ったこっちゃないわよ!」
「やっぱりヘイゼルみたいなのが好み?」
「何ですって!?」
フランシスが逆上してヘイゼルの悪口を言い始め、そこに、アンゲルとエブニーザを探していたヘイゼルが来てしまい、また言い合いが始まってしまった。
エレノアは、二人から逃げるように廊下に出ると、騒ぎを聞きつけた女中が、
「ああ、またお二方ですか。しばらくお部屋に避難されていたほうがいいですよ」
と苦笑いしながら言った。
どうやら、慣れっこのようだ。
エレノアは一人で部屋に戻ったが。やることがない。
しかたがないので、買ってきた本を読もうと手に取ると、それは『女性がわからない人のための本』だった。
『男性がわからない人のための本』を買うべきだったかも……。
エレノアは本を床に放り投げ。ベッドに倒れ込んだ。エブニーザが言っていた『夢に出てくる、売春をさせられている女の子』のことを思い出す。
妄想?
でも、エブニーザの予想は当たるし、黒魔術の事だって……本当にその子が存在しているとしたら……?
エレノアは、世界各国を親と回って、裕福な人にも、そうでない人にもたくさん出会ってきた。その中にはもちろん娼婦も、過酷な労働をさせられている密入国者もいた。でも、みんな人間には変わりない。
……どうして世の中はこんなに不公平なんだろう?
こんな立派な別荘を持っている人間がいると思えば、人さらいにあったり、売春させられたりしている人もいる。
……エレノアは、しばらく、エブニーザになったつもりで、どこか遠くにいるかわいそうな少女を憐れんでいた。
なぜか、涙があふれてきた。
ああ、いけない、こんなことしてる場合じゃない。
エレノアは起き上がり、手の甲で目をこすり、部屋の鏡で化粧を直すと、部屋を出た。
やっぱりエブニーザとちゃんと話さなきゃ。
相手が自分と話すのを嫌がっているということを、エレノアはすっかり忘れていた。
アンゲルとエブニーザは、躁うつ病の薬のそばに座りながら相談していた。
「そうか、あの偉そうな態度、いつまでも終わらない長話、そしてあのへんてこりんな性格は、精神の病だったのか」
アンゲルが、謎を解いた探偵のような口調でそう言ったが、エブニーザは納得していないようだ。
「でも、ヘイゼルのものとは限らないでしょう?ここは別荘で、毎日暮らしている場所じゃないし……他の人のかも」
「そうだな……でもなあ、あの性格はやっぱり何かおかしいだろ?」
「そうですか?」
「そうですかって……」
「僕と違って、ヘイゼルは落ち込んだりしませんよ。『うつ』とは無縁だと思うんですが」
「じゃ、別な病気なんじゃないか?ハイになる病気とか」
「たしかに、この薬は飲むと落ち込みますけど……」
「そうなの?お前が飲んじゃダメだろ」
「僕もそう思ったんですけど、たまに、妙にニヤニヤしていることがあるから、おかしいって……」
「ニヤニヤしてる?」
エブニーザのそんな姿を、アンゲルは全く見たことがなかったので、不信の顔をした。
「その……彼女が見えて」
「彼女?ああ、妄想のね」
「妄想じゃありません!」
エブニーザがむきになって大声で叫んだ。
「わかった、わかったから。それよりこの薬は誰のなんだ?誰のにしても、こんなところに大量にあるのはおかしいぞ?処方を間違ってるか、もらったのに飲んでないか……」
そこで二人ははっとした。
「処方されたのに、飲まずにここに隠してるってことか?」
つまり、この薬の持ち主は、医者の診断を無視しているということだ。
……とにかく、ここを出て、ヘイゼルに聞いてみよう。
アンゲルはまた、クローゼットの扉と格闘を始めたが、エブニーザは部屋の隅に座り込んでしまった。
「ここから出たくない」
「はあ?」
アンゲルは心底から呆れた。
「何言ってんの?」
「ここの方が静かですよ。外に出たら……またフランシスとヘイゼルが怒鳴り始める……」
「そんなのいつもの事だろうが!」
「エレノアもいるし……」
アンゲルの動きが止まった。それを見たエブニーザは『しまった!』という顔をして身を引きつらせた。
「おい」
アンゲルがエブニーザに近づいて、しゃがんで、エブニーザを正面から睨んだ。
「エレノアが何だって?」
「なんでもありません」
「何だよ?」
「何でもないですってば!」
「何でもないならなんで『エレノアもいるし……』って嫌そうな顔でつぶやくんだよ!?」
「ほんとに何でもないですってば!」
クローゼットの扉が突然開いた。
そこにいたのは、なんと、エレノアだ。
「騒いでる声が聞こえたから」
ぼんやりした顔でエレノアがつぶやいた。
「そんなに嫌がられているとは思わなかった」
エレノアは部屋を出て行った。アンゲルがあわててその後を追った。
エブニーザは、部屋のドアを閉め、それから、またクローゼットに入って、扉を閉めた。
本当に一人になりたかったのだ。
不機嫌に廊下を歩くエレノアの後を、アンゲルは必死で追いかけた。
「ヘイゼルから隠れるために入ったら、扉が開かなくなって困ってたんだよ!ありがとう!ねえ、エレノア!何でそんなに怒ってるんだよ!」
エレノアは答えずに自分の部屋に入ろうとした。
「待って!」
アンゲルがドアを手で止めると、エレノアは鋭い眼でアンゲルを睨みつけた。
怒った顔もすごく美しいな……いや、そんなことを考えてる場合じゃない!
「そんな怖い顔するなって!エブニーザは一人になりたいからって、あそこから出ようとしなかったんだよ。疲れてるんだ。常に一人でいたがるんだよ。いつものことだって。別にエレノアが嫌いなわけじゃない。それに、あそこで変なものを見つけたんだよ」
「変なもの?」
「うつ病の薬。しかも大量に」
「どういうこと?」
「誰かが、処方された薬を飲まずに、あそこに隠してたんだと思う」
アンゲルとエレノアがエブニーザの部屋に戻ると、誰もいない。クローゼットの扉を開けようとしたが、開かない。
「エブニーザ?まさかまだ中にいるんじゃないだろうな!?」
アンゲルが叫ぶが、返答がない。
「ったく。どこに行ったんだ?」
「ヘイゼルを探して、聞いたほうがいいんじゃない?」
「そうだなあ……俺はぜったいあいつが病気だと思う。2時間も一人でしゃべり続けるんだぞ、しかも人の荷物を勝手に……」
二人が去ったのを確認してから、エブニーザがそーっとクローゼットから出てきた。実は内側から開ける方法を知っていたのだ。
手には、薬の入った箱を持っている。
ヘイゼルとフランシスが物を投げあう大げんかをしていた。そこに入って行ったアンゲルの頭に、ヘイゼルが投げた花瓶が命中。アンゲルはあっさり倒れた。
「何をしてるのよ!」
エレノアが叫んだ。
使用人が何人か飛んできて、気を失ったアンゲルを運び出し、部屋中に散らばったものを片づけ始めた。
同時に、白いあごひげの、怖そうな男性が入ってきた。
ヘイゼルとフランシスがぎょっとした顔をした。
彼はシグノー家の執事で、フランシスの様子を見にやってきたのだ。
「一体何事ですか、お嬢様」
それから、2人は白ひげに延々とお説教されることになった。
そのころエレノアは、気を失ったアンゲルの様子を見ながら、女中に尋ねた。
「エブニーザを探してきてくれますか……それと、この館に、うつ病の人って、います?部屋に薬が置きっぱなしになっていたのよ」
「あの……言いにくいのですが」
女中がエレノアの耳元に、小声でささやく。
「フランシス様です」
エレノアはぎょっとした。
「フランシス?」
「あの、私から聞いたことは内緒にしてくださいね」
女中が、怯えた様子でささやいた。
「じゃないと、私が殺されてしまいます」
「わかったわ」
女中が部屋を出て行った。エレノアが、今言われたことを考えながらぼんやりしていると、アンゲルが目を覚ました。
「大丈夫?」
「……あれ?エレノア?なんで男子寮にいるの?……あれ?ここどこ?今何時?」
アンゲルは寝ぼけているようだ。
「うつ病はフランシスよ」
「うつ病?何の事……ええっ!?」
アンゲルが跳ね起きた。完全に目が覚めたようだ。
裏庭。
エブニーザが、焚き火に薬を次々と放り込んでいた。
「こんなもの見たくもないな」
箱ごと炎の中に投げ込む。
そして、しばらく一人でぼーっと炎を見つめていた。
どうして僕がこんなところで、こんなことしなきゃいけないんだろう?
彼女はどこにいるんだろう?
どうして僕に見えるんだろう?
見えても助けることができなきゃ、何の意味もない。苦しいだけだ。
何も見えなければいいのに……。
アンゲルとエレノアがフランシスの部屋に行くと、まだ白ひげが二人にお説教(常識がどうとかいう、いかにもヘイゼルが嫌いそうな話)をしていた。
「あれ誰?」
「さあ……」
「小さいころからお説教をされている方で、二人とも、あの方が苦手でいらっしゃるの」
女中がそーっと二人の間に割って入ってきた。
「とても話が長いですから、しばらく静かですよ」
仕方がないので、二人はアンゲルの部屋に戻った。
アンゲルはそこで初めて『エレノアと部屋に二人っきり……』と気づいて顔が真っ赤になった。
いや、別に、変なことを考えているわけじゃないけどな!!
「エブニーザはどこに行ったのかしら?」
エレノアがつぶやいた。
アンゲルは『またエブニーザか!』とがっかりしたが、一緒に探しに行くことにした。
しかし、館内をひととおり探しても見つからない。
「どこ行ったんだ?」
アンゲルがふと窓の外を見ると、誰かが倒れているのが見えた。
慌てて外に出ると、やはりそれはエブニーザだった。
そばには、何かを燃やした跡がある。
「エブニーザ!」
エレノアが慌てて、エブニーザをゆすって起こそうとしたが、反応がない。
「他に燃やすもの、ない?あと、食べ物」
「えっ?」
エレノアが非難するような目でアンゲルを見た。アンゲルは構わずに笑った。
「ヒマだから、三人でここでなんか焼いて食おう。あの二人がいないうちに平和な休暇を楽しもうじゃないか」
アンゲルはわざとらしい、おどけた声でそう言うと、
「寒いな。コートも取ってきた方がいいかも」
ひとり言のようなことをつぶやきながら、館に戻っていった。
「エブニーザ!起きて!風邪ひいちゃうってば!」
エブニーザは薄眼を開けたが、目の前にいるエレノアに気がつくと、
「……ほっといて」
と言ってまた目を閉じてしまった。
「ほっといてって……」
そんなに私と話すのが嫌なの?
エレノアはがっかりした。
それにしても……あいかわらず、なんて綺麗な顔をしているんだろう。
アンゲルは館の中に入って、まず自分の部屋にコートを取りに行った。それから、フランシスの部屋を覗いて、まだ白ひげが説教を続けているのを確認。
いいぞぉ、一生しゃべってろ!!
にやけながら台所を探し出し、
「燃やすものと、食べ物あります?」
と聞いてみた。中にいた女中が怪訝な顔をしたが、説明すると、新聞紙の束、マッチ、じゃがいも、小魚の干物を渡された。
「なんだろうこれ、食べたことないなあ……」
小魚をかかげて見ながら外に出ると、まだエブニーザは寝ていて、そばにエレノアがすわりこんで、心配そうな、さみしそうな顔でエブニーザを見おろしていた。
アンゲルはため息をついた。
あの顔は、完全に恋をしてる顔だなあ……。
「こんなのもらったよ」
アンゲルは、無理矢理笑顔を作りながらエレノアに近づいていき、自分のコートをエレノアの肩にかけた。
「あなたは寒くないの?」
「平気」
「この前凍えてたじゃないの。寒いのは苦手なんじゃ……」
「……そんなこともあったね」
アンゲルは自分が嫌になってきた。
「エブニーザは?」
「一回起きたのに、『ほっといて』ってつぶやいてまた寝ちゃったのよ!」
エレノアは不満そうに叫んだ。
「よほど人に会いたくないんだなあ……さっきもクローゼットに閉じ込められた時『ここのほうが静かでいい』って言ってたんだよ。出てきたくなかったみたいだ。そもそもこの別荘にも来たくなかったらしいんだよ。クーがいないし」
「クー……」
エレノアが暗い顔をした。アンゲルはそんなエレノアを見たくなかったので、手元に集中した。新聞紙をばらばらにし、ジャガイモを埋めて火をつけた。幸い風はほとんどない。
「これ、どうするかなあ……放り込めばいいかな?」
小魚を見て悩んでいると、エレノアが、
「網か棒、ない?」
と言いだした。そして林に走っていって、細い枝を何本か拾い、小魚を突き刺して、炎の周りに立てていく。
「慣れてるね」
「旅芸人の生活って、キャンプみたいなものだから」
エレノアが笑って、旅先でのいろいろな出来事をしゃべりだした。アケパリの母方の祖母は薬剤師で、庭がハーブで埋め尽くされていること。アケパリの公演はいつも大盛況だったこと。母が猛獣使いなので、小さいころからレッドタイガーや蛇と遊んでいたこと。旅先で資金がなくなったとき、父が『釣り禁止』の川でこっそり魚を釣って、それで何とか栄養を取っていたこと。キュプラ・ド・エラのサーカスと共演した時、ピエロの女の子と仲良くなったのに、その子が公演中の事故で亡くなってしまったこと。ドゥロソでエレノアが男に追いかけられたとき、曲芸師の父親がトラの檻を開けたとたん、男が悲鳴を上げて逃げて行ったこと……。
「そりゃ逃げるだろ。食われたくないし」
アンゲルはそう言いながら『自分がやられたらどうしよう?』と内心怯えていた。
「でも、トラは檻から出てこなかったのよ」
エレノアが、焼けた小魚をかじりながら笑った。
「母の言うことしか聞かないの。入口を開けても逃げないのよ」
「へえ……」
エブニーザも、眠ったふりをしながら聞いている……。
白ひげの説教がようやく終わりそうになった。
「お嬢様、薬をちゃんと飲んでいますか?」
「毎回同じことを聞かないで」
フランシスが怒って出て行こうとしたが、白ひげが押さえた。
「いいかげん、ご自分の状態をご理解ください」
フランシスは、白ひげを振り切って出て行った。ヘイゼルが白ひげを突き飛ばしてフランシスのあとを追う……廊下を歩いている間も、二人で口論していたのだが。
窓の外に煙の筋が見えた。二人が窓の外を見ると、アンゲルとエレノアが何か燃やしていた。
フランシスが窓を開けて叫んだ。
「何やってんのよ!!」
「げっ、見つかった」
アンゲルが嫌そうな顔をした。フランシスの声で、エブニーザが起き上がった。
「フランシスも食べる?」
エレノアが焦げた小魚を振りかざして笑った。フランシスは走って下に降りて行く……それを見たエブニーザが慌てて逃げ出した。
「おい!どこに行くんだよ!」
アンゲルが叫ぶが、無視だ。
エブニーザは、裏口でヘイゼルとすれ違う時に、
「薬は燃やしました」
と言って中に入っていった。
ヘイゼルはにやにやしながら『夕食もここで食おう』と提案。使用人にテーブルやいすを運ばせ始めた。
……別に、焚き火の周りに座ってふつうに休みたかったんだけどなあ。どうして何でも大げさにするんだろう。楽しくないじゃないか。
アンゲルは疲れた顔で、使用人と、えらそうなヘイゼルを見ながら、そんなことを考えていた。
フランシスが、エブニーザを呼びに人を出したが、『食べたくない』という返事が返ってきた。
夜。
エレノアがフランシスの部屋に行き、クローゼットで見つけた薬について問いただすと、
「あんたに関係ないわよ!」
と怒鳴られた。エレノアはひるまずに厳しい声で言い返した。
「私は同じ部屋に住んでいるのよ!それに、友達でしょ?関係あるのよ!」
「私は病気じゃないわよ!」
フランシスが叫んで、また物を投げ始めた。
エレノアが、なんとかなだめて話を聞いたところによると、医者はうつ病だと言ったが、薬を飲むと自分じゃなくなったような気がして怖くなったので、飲むのをやめたという。家のゴミ箱に捨てるとばれるので、薬はヘイゼルに送っていたという。
「ヘイゼル?」
エレノアは呆れた。
「嫌いなんじゃなかったの?付きまとわれるって言ってたじゃない」
「だって……他に頼める人いないし」
「そうだけど……」
一体、ヘイゼルとフランシスは何なんだろうと、エレノアは改めて考えた。
確かに、フランシスにはクーとエレノア意外友人はいなさそうだが……。
「エブニーザ、頭がいいわね。燃やすなんて」
フランシスがつぶやいた
「いや、そんな簡単なことも思いつかない私がおかしかったんだわ。最初からそうすればよかった。そうすれば、ヘイゼルに付きまとわれずに済んだのに」
フランシスを寝かせてから、エレノアが疲れた顔で廊下に出ると、そこにヘイゼルが立っていた。
「何してるの?」
「そんな怖い顔をしなさんな。様子を見に来ただけさ。薬の事もばれてるんだろう?」
「悪いけど疲れてるの」
エレノアは、ヘイゼルを無視して歩き出したが、ヘイゼルは楽しそうについてきた。
「しかし、エレノアには驚くね。あのご令嬢はもう何人もルームメイトを追いだしているのだが……俺の知る限りでは、こんなに長く一緒にいた奴はいない。新記録だよ」
「そう」
そんなことを言われても、エレノアは全く嬉しくなかった。
「いやあ、不思議だ。どうしてあんなヒステリー女と一緒にいられるのかな?コツがあったら聞きたいね」
「ついてこないでくれる?」
エレノアは怖くなってきた。部屋までまとわりついて来る気では?
「わかりましたよ、綺麗な顔でそんな怖い顔をするもんじゃない……俺は純粋に不思議に思って尋ねに来ただけさ」
エレノアはふり返って、ヘイゼルを厳しい目で睨むと、軽蔑のこもった声でこう言った。
「短気な人なんて、世の中にいくらでもいるでしょう?(あなただってそうじゃないの?)ただ、落ちつくまで待ってあげればいいだけのことだわ。そんなことすらできないんだから、私たちみんな気が短すぎるのよ」
そして、わざと足音をたてて、怒りをあらわにした歩き方で去って行った。
「大した女ですな」
ヘイゼルは、エレノアの後ろ姿を眺めながら、偉そうにつぶやいた。
次の日。アンゲルは『心理学だけじゃだめだ。精神医学も勉強したほうがよさそうだ、薬の事も知っておいた方がいいかもしれない……でも、両方の資格を取るのは……きついかな……』と考え始め、街の本屋(先日エレノアとエブニーザがいたところ)で薬学辞典や精神医学の本を探した。しかし、
「高い……高すぎる」
載っている値段を見て顔をしかめた。
生活費が何ヶ月分も飛んでいきそうな金額だ。
「それ、アルターの図書館にありますよ」
という声がしたのでふり返ると、エブニーザだった。
「何やってんだお前」
「何って……本を探しに来たに決まってるじゃないですか。本屋なんだから」
「昨日も来ただろ?」
「もう全部読みました」
「えっ……?」
アンゲルは昨日、エブニーザが抱えてきた本の山を思い出して愕然とした。
「どうやってあんな量を一晩で読むんだよ!?」
「普通に読めば終わりますよ」
平然とそう言うと、エブニーザは、上に向かうエスカレーターに乗っていなくなった。
アンゲルが壁の案内を見ると、
『3F 文学・歴史学・宗教学・郷土史・伝記・エッセイ・占い……』
と書いてあった。
何を探す気だ……?
昼過ぎ。
ようやく目覚めた(目覚まし時計がないので早起きができなかった)エレノアは、自分の部屋のソファーで新聞を読んでいる男を発見。
怯えて引きつった声を上げてしまった。男が新聞から顔を出した。
ヘイゼル!
「どうして私の部屋にいるの!?」
エレノアが恐怖の顔で叫んだが、ヘイゼルは何とも思っていない顔でこう答えた。
「私の部屋?ここはシュッティファントの所有だぞ。どの部屋もうちの親のものだし、休暇中は俺が使ってるんだから、どこに入ろうが俺の勝手だね」
「だからって女の部屋に入らないでよ!!」
「何を騒いでいらっしゃるのかな?別に何もしてないだろ?」
「そういう問題じゃないのよ!」
「問題なんてそもそも何もないね。勝手に悩み事を作るもんじゃない。最近は何も起きていないのに、自分で不安の種を作ってキャーキャー言ってる変な奴が多くてね」
……だめだ、ヘイゼルに何を言っても通じない。
エレノアは文句を言うのをやめた。
「フランシスは!?」
「ご令嬢は出かけましたよ。白ひげが一緒だったからたぶんシグノーの邸宅だろ?ここからそんなに遠くないしな」
……どうりで、朝、起こしに来なかったわけだ。
エレノアが部屋に置かれた時計を見ると、もう1時を回っていた。
「どうして急に?」
「母親が会いたいって言ってきたらしい。同情するね。シグノーはシュッティファント以上にクレイジーだからな」
ヘイゼルよりクレイジー?そんなの、人間じゃないわよね?
「エブニーザは?」
「さあ?アンゲルは本屋に行くって出て行ったよ。まったく、どいつもこいつも、別荘をなんだと思ってるんだ?会社の研修旅行じゃないんだぞ」
一人とり残されたエレノアは、これからどうしようか考えていると、
「劇場にでも行くか?昼すぎに公演があるぞ、すぐ近くだ」
ヘイゼルがそう言って、ニヤけ笑いを浮かべた。
「悪いけど、あなたと行動を共にしたくないわ。あとでフランシスに何を言われるかわからないもの」
「フランシスには了解を取ったよ」
ヘイゼルがそう言うと、エレノアが驚きで目を見開いた。
「ミュージカルだ。音楽の勉強になるだろ?」
「でも……」
「早く支度しろよ」
ヘイゼルはそう言うと、ニヤニヤしながら部屋を出て行った。
エレノアは不愉快だった。二人とも、他人のやることを勝手に決めて、相手の意向や都合は全く考えていないのだ!
人を何だと思ってるのよ!?私は使用人じゃないんですからね!
しかしエレノアにはわかっている、二人とも、悪気は全くないと言うことを。悪気どころか、いいことをしているつもりでいるということも。
エレノアは、重い頭でベッドから這い出た。
別荘に帰ろうとしたアンゲルは、ヘイゼルとエレノアが、二人で反対側の道を歩いているのを発見した。
ヘイゼルとエレノア?どこへ行く気だ?フランシスはどうした?
こっそりあとを追うことにした。
「どうしていつもでかい帽子をかぶっているのかな?」
ヘイゼルがエレノアに尋ねた。エレノアは花飾りがついた、つばの広い帽子をかぶっている。
それは俺がしたかった質問だぞぉぉぉぉ!
アンゲルは、物陰に隠れながら心で叫んだ。いつも、大きな帽子を目印にして、エレノアを見つけていたからだ。
「帽子が好きなのよ。昔の貴族は、帽子がないと外出できなかったのよ。服と同じ。着ないで外になんか出れないでしょ?」
「ほほう」
ヘイゼルが年寄りのような声を出して笑った。
「今、こういう帽子ってあまり売ってないでしょう?貴重品よ?」
エレノアが片手を帽子のつばにあてて笑った。死ぬほどかわいいとアンゲルは思った。
通行人もちらちらとエレノアを気にしている様子だ。ヘイゼルもさっきからニヤニヤと嫌らしい笑いを浮かべている。アンゲルは考えた。
足元にサッカーボールがあったら、ヘイゼルの頭に命中させてやるのに!
「私のスーツケースの中身は半分以上、アンティークの帽子なの。100年戦争時代のもあるし、もうすこし後の時代のも……」
アンゲルは、列車で運んだ大きなスーツケースを思い出した。
エブニーザは、また大量に本を抱えて部屋に戻ってきた。
幸いみんな出かけていて静かだ。
ずっと帰って来なければいいのに……。
つぶやきながら本を読み始める。
と、また女の子が見える。誰も助けに来ないので抵抗するのをあきらめてしまったのか、ぼんやりした顔でされるがままになっていた。
エブニーザは怖くなった。
とうとう抵抗もできなくなってしまったのか?
いや、それより……。
そこで、気づいてしまった。
今までは被害者の視点で彼女を見ていたが、自分は男なのだ。しかも彼女に惹かれている……。
自分も、いつか、同じような、恐ろしいことをしてしまうのではないか……。
震えながら、うろうろと部屋を歩きまわる。
再び映像がよみがえる。彼女の青白い足、だらりと力なく横たわっている手、はだけた下着から見えるまだ幼い、でも十分に丸みのある胸、ほとんど手入れされていない乱れたブルネットの髪、琥珀色の、どこを見ているかわからない虚ろな瞳……。
エブニーザは震えながら身をよじり、数歩よろけたかと思うと、音もなく床に倒れた。
夕方、ようやく親と白ひげから解放されたフランシスが、別荘に帰ってきた。
「みんなは?」
「エブニーザ様だけ帰っていますが、みんなお出かけです」
八つ当たりをしに……いや、様子を見にフランシスがエブニーザの部屋に向かった。
「エブニーザ!」
ドアをノックするが返答がない。
「エブニーザ!?入るわよ!」
ドアを開けると、エブニーザが真っ青な顔で床に倒れているではないか。
「ノノカ!ノノカ!」
フランシスは女中の名を叫びながら廊下に飛び出していった。使用人がやってきて、エブニーザをベッドに横たえて、医者を呼んだ。
ヘイゼルもエレノアも……どこで何をしてるのよ!
フランシスは、いらいらしながら自分の部屋に戻った。自分の気分だけで手いっぱいで、倒れていたエブニーザの事を心配する余裕がなかった。
まあ、余裕があっても、他人の心配なんてフランシスはしないのだが……。
ヘイゼルとエレノアが劇場に入ろうとしたが、ヘイゼルはとつぜんふり返り、
「そこのエンジェル氏も入りますかな?」
とにやにやしながら叫んだ。
アンゲルにつけられていることには、とっくの昔に気づいていたのだ。
「お前ほんとに悪魔だな」
物陰から出てきたアンゲルがヘイゼルを睨んだが、となりのエレノアが、不審者を見る目で自分を見ていることに気がついた。
「俺は帰るよ。金ないし。ティッシュファントムに出してもらうのは嫌だしね!」
背を向けて歩き出した。
「ティッシュファントムって言うな!」
という叫び声がうしろから聞こえたが、無視して立ち去ることにした。
金持ちと観劇か。女の子なんてみんなそんなもんだ。どうせ俺は貧乏なカエルだよ……エレノア、本当に嫌な顔をしてたな……気味の悪い奴だと思ってるんだろうな。
アンゲルは一人いじけながら別荘に戻った。
ソファーのある部屋に入ったとたん、フランシスが、すさまじい金切り声で怒鳴りつけてきた。
「どこに行ってたのよ!エブニーザが倒れたわよ!」
「えっ?」
慌ててエブニーザの部屋に行くと、エブニーザはまだ眠っていて、医者が診察しているところだった。たぶん貧血だろうと。
「妙に痩せているね。食事をちゃんと取るべきだな。鉄分があきらかに不足しているよ」
医者は、そう言って帰って行った。
「エブニーザ、きのう、夕食を食べなかったわね。ここに来てから食事してないんじゃない?」
「そういえば」
アンゲルも気がついた。
「こいつが何か食ってるところ、見たことないな」
「えっ?」
フランシスが怪訝な顔でアンゲルを見た。
「寮の食堂は?」
「こいつ、人が苦手だから、食堂には行かないんだよ」
「じゃあどこで食事を」
「それが……見たことないんだよ」
「一度も?」
アンゲルはしばらく記憶をさぐってみたが……ヘイゼルが部屋で何か食っている(人から奪うのも含む)ところばかり浮かび、エブニーザが何か食べているのを見た記憶が、全くないことに気づいた。
「ああ。一度も見たことがない」
しばらく二人とも無言で立ち尽くしていたが、突然フランシスが、
「……明日の予定は決まったわね」
と言い始めた。
「は?」
「エブニーザに食事をさせるの。全員手伝ってもらうわよ」
何かを企んでいるかのようにニヤニヤし始めたフランシスを見て、アンゲルはいやーな予感がした。
今のうちに逃げ帰ったほうがいいかも……。
「今、逃げようと思ったわね?無理よ。ヘイゼルが連れ戻しに来るわよ」
フランシスが断定的な口調で言いながら、横目でアンゲルを睨みつけた。
……どうして心を読むんだよ!?
アンゲルは本気で恐怖を感じた。
エブニーザは何も知らずに眠っている……。
夕方、ヘイゼルとエレノアが帰ってくると、さっそくフランシスが『明日の予定』を発表した。
エレノアは『倒れた』と聞いてエブニーザの部屋に走っていったが、エブニーザはまだ眠っていた。ヘイゼルとフランシスは、何を食わそうか、どこのレストランに連れて行くか、いっそのこと料理人を呼んでここでごちそうを作ってもらおうかと相談を始めた。
いつもはケンカばかりしているのに、陰謀がからむと仲が良くなるらしい。
「目覚めないほうが幸せかもなあ、エブニーザ」
アンゲルがつぶやいた。
「何か思い出したのかしら」
廊下を歩きながらエレノアが言った。
「そうかもね。また女の子が見えたのかも」
アンゲルはどうでもよさそうにつぶやく。
「彼女、ほんとにいると思う?」
「思わない。妄想だよ」
アンゲルはそう答えて、自分の部屋に戻ることにした。
昼間の観劇の話をされたら嫌だからだ。
エブニーザが目を覚ました。
しかし、エレノアの顔を見たとたんブランケットの中にもぐって、
「近寄らないで!」
と叫んだので、エレノアはショックを受けて出て行った。
エブニーザは怯えていた。
夢で『彼女』を犯している男たち……いずれ自分も同じことをしてしまうのではないか……?
そう考えているので、女性|(エレノア)が近づくと、夢の女の姿とだぶって見え、全身で恐怖を感じるのだ。
アンゲルが様子を見に来たが、やはり何も話そうとしなかった。
「お前、なんでエレノアに冷たいの?」
「冷たい?」本気で驚いたような声だ「そんなことありません」
「じゃあなんだよ、最近の態度は」
「それは……」
口ごもる。『襲ってしまいそうだから』なんて言えないからだ。
エブニーザは質問に答える代わりに、
「僕は人間じゃない……」
かすかな声でつぶやいた。
「は?何それ?」
アンゲルが聞き返したが、返答はなかった。
次の日。フランシスとヘイゼルが、シグノーの料理人に大量にごちそうを作らせ、エブニーザに『食わないと寮に返さない』と宣言した。
もちろんエブニーザは真っ青だ。エレノアとアンゲルはそろって『無理に食べさせなくても……』と呆れた。フランシスが無理矢理料理を押しつけようとしたとたん、エブニーザは即座に脱走して部屋にこもってしまい、ヘイゼルがドアをがんがん蹴っても出てこない。
結局、残り4人で宴会となった。
「クーをつれてくればよかったのよ。エブニーザと仲良しでしょ?どうせノレーシュの行事なんて大したことないんだから」
フランシスがいつも通りの尊大な態度で言った。エレノアはずっと、落ち込んだ様子で黙っている。
「今からでも呼びましょうか?」
エレノアを気遣ってフランシスが言ったが、ヘイゼルは興味がなさそうだ。
「やめとけ。それより、確かにあいつは痩せすぎだな、寮に帰ったら……」
何か企みそうなヘイゼルに、アンゲルは、
「おい、帰ってからもこの陰謀は続くのか?ほっといてやれって。おしつけるとますます何も食わなくなるぞ。『やれやれ』って人に言われるとますますやりたくなくなるんだよ。心理学的に」
と警告した。
「あっそ」
ヘイゼルがうんざりした顔をした。フランシスが真面目な顔でアンゲルを見た。
「教会っ子が心理学なんかやってていいわけ?教会に捕まらないの?」
アンゲルは言葉に詰まった。
エレノアはそれを察して、あわててフランシスに料理を勧めたが、差し出した皿はヘイゼルに取られ、それがきっかけでいつもの口げんかが始まってしまった。
「物を投げ始めないうちに逃げようか」
アンゲルとエレノアは、急いで廊下に逃げ出した。
エブニーザを心配したアンゲルとエレノアは、二人でエブニーザの部屋のドアをノックしたが、返答がない。カギは開いていた。そーっとドアを開けると、エブニーザは眠っていた。
眠っている時は、とても安らいでいるように見える。
「やっぱこいつ、起きないほうが幸せなんだろうなあ」
アンゲルがつぶやいた。
「明日、エブニーザを連れて寮に帰ろうと思うんだ。これ以上ここにいてもやることないし。こいつはもとからここにいるのが苦痛そうだし、俺は帰って勉強したい」
エレノアが驚いた目でアンゲルを見た。
「エレノアは残ってフランシスと遊びなよ。せっかく来たんだから。でもヘイゼルとは付き合わないほうがいいと思うけど」
エレノアは不愉快な顔をして立ち上がり、
「そうするわ」
冷ややかに言って出て行った。
「明日帰るんですよね」
と声がしたのでベッドの方を見ると、エブニーザが目を覚ましていた。
「聞いてたのか?」
エブニーザは答えずに、またブランケットにもぐりこんでしまった。
「寝るのはいいけど、荷物まとめとけよ……って、ほとんど持ってきてないか」
アンゲルが立ち上がって出て行こうとしたが、疑問が頭をかすめたので足を止めた。
「おい。昨日『僕は人間じゃない』とか言ってたよな、あれはどういう意味だ?」
「説明できません」
きつい声が返ってきた。アンゲルは黙って出て行くことにした。
次の日、アンゲルとエブニーザが、自力で帰ろうと駅に向かっていると、
「待て待て待て、俺を置いて行く気か?」
ヘイゼルが追いかけてきたので二人とも驚いた。
「お前の別荘だろ?」
アンゲルが嫌そうな顔で抗議したが、ヘイゼルはかまわずについてくる。
「また白ひげが来たらどうすんだ?ここはシグノーのご令嬢にでも譲るさ」
結局三人で、ヘイゼルが呼んだ高級車に乗って帰ることになった。
車の中ではヘイゼルが、
「俺たちがケンカしてるとかならず現れるんだ。きっとどこかに盗聴器を仕掛けてるぞ。屋敷中を検査してやる!あいつの家もな!だいいち今時なんだあのヒゲは!独立戦争の肖像画じゃあるまいし……夜中にシグノーの家に忍び込んで剃ってやる!!」
などと、延々と『白ひげ』の悪口を言いまくり、エブニーザはずっと無言で窓の外を見ていて、アンゲルはその二人の間で、じっと耐える羽目になってしまった。
やっぱり、ティッシュファントムについてきたのは間違いだった!!
フランシスはヘイゼルの別荘を、自分の家のように堂々と使っていた。使用人たちも慣れたように、フランシスを主人として扱っていた。
エレノアは、そんなフランシスと使用人たちに驚きながらも、館内が急にがらんと広く感じられ、寂しくなってしまった。
エブニーザ、どうしてあんなに私を嫌ってるんだろう?
それにアンゲルも、急に帰るなんてどういうこと?
フランシスはワイン貯蔵庫を勝手に開け、高そうなものを選んで勝手に飲み始めた。
エレノアは驚いて、
「勝手に飲んじゃだめよ!」
と叫んでワインをフランシスから奪い取ったが、ノノカやワインの管理人(そんなものまでいるとは!とエレノアは驚いた)は、
「フランシス様には好きなだけ飲ませろとヘイゼル様が」
と言うので、呆れてしまった。
「つきまとわれたくないって言ってたじゃないの!どうしてこんな甘えるようなことをするのよ?」
「甘える?冗談じゃないわ。気持ち悪いこと言わないで頂戴。お互いに利用し合っているだけ」
フランシスがあっというまに3本もワインを開けたので、エレノアは、
もしかしてアルコール中毒なんじゃ……。
と不安になり、飲むのをやめるよう言ったのだが、当然フランシスは言うことを聞かない。
フランシスが酔いつぶれて眠った頃、なんと、あの白ひげがふたたび戻ってきた。
エレノアが、
「私は飲むなって言ったんですよ!」
とあわてて弁解すると、白ひげは無表情でこう言った。
「わかっております。本当に困ったお方だ。よくお嬢様と同じ部屋に住めますね。その忍耐力に敬意を称しますよ」
それはとても嫌味な声だった。
「この方は生まれつき精神を病んでいましてね、みな手を焼いているのです。何かあったらここにご連絡を」
白ひげは、名刺(ゴノ・フレウルと書いてある)をエレノアに渡し、使用人に『ワインを隠せ』と命じて去っていった。
エレノアは、名刺を服の中に隠した。使う日が来ないことを祈りながら。
「フランシス!起きて!もう寮に帰りましょう!」
フランシスをゆすって起こそうとしたが、深く眠りこんでいるのか、起きなかった。
使用人がやってきて、フランシスを担ぎあげた。
運ばれていくフランシスを見ながら、エレノアは悲しげな眼で考えた。
もしかしたら、フランシスも、エブニーザと同じで、目覚めないほうが幸せなのかもしれない、と。
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