第六章 受難の始まり

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第六章 受難の始まり

 別荘での騒動が済んで、寮に帰ってきたアンゲルは、休暇中にもかかわらず、担当の講師から呼び出された。  エブニーザの事かな……。でも、シートベルトでぐるぐる巻きにしたのは俺じゃなくてヘイゼルなんだよな!カウンセラーに聞かれたら、はっきりそう言おう……。  そう考えながら、呼ばれた部屋に入った。 「アンゲル。落ちついて聞いてくれ」  不思議なほど無表情の講師に聞かされたのは、こんな言葉だった。 「クラウスという生徒が、寮で首をつって死んでいた」 「アンゲル?アンゲル?聞こえてるか?」  講師が必死に自分に向かって何かしゃべっている。  しかし、アンゲルの意識はどこかに飛んでしまっていた。 「仲が良かったんだろう?何か聞いていないか?」 講師が深刻な顔で尋ねた。 「同室の生徒は、何も変わったことはなかったと言っていて、遺書もないそうだ」  アンゲルは、何も答えることができなかった。  ただ、最後に見たクラウスの顔……今思えば、不審なほど機嫌の好さそうな顔だった……と、彼と話したことを、必死で記憶からたぐりよせようとしていた。しかし、記憶はつかもうとする手をかすめてしまい、肝心なことは何も思い出せない。 「そういうこともある、気にするな、おまえのせいじゃない」  講師や、偶然居合わせた他の学生は、口々にアンゲルを慰めた。  しかし、クラウスの、祖国や宗教に対する悩みを、自分のことのように考えていたアンゲルには、ショックが大きすぎた。  ……俺のせいだ。  ふらふらと寮に帰って来たかと思うと、部屋のソファーに倒れ込み、寝込んだまま、何日も動こうとしなかった。 「たまには外に出たほうがいいですよ」  3日ほど経ってから、エブニーザが声をかけると、 「お前に言われちゃおしまいだ」  とだけ返ってきて、やはり動く気配がない。  一週間ほど経って、寮費を滞納しているという電話があった。取ったのはヘイゼルだ。 「あっそ、はいはい、伝えておくよ」  ヘイゼルは一度電話を切り、またどこかにかけはじめた。 「今月は倍振り込んどいてくれ。いや、別に、何も破壊してないよ。ちょっと別な部屋も使わせてもらったんでね、今月だけさ……」  そして電話を切り、今度は銀行に電話だ。 「今月の寮費を振り込んでくれ。え?もう払った?だれが俺のって言った?人の話は最後まで聞けよ。アンゲル・レノウスだよ……ああ、つづりはエンジェルだよ」  電話を切ってから、ヘイゼルは、そーっと、アンゲルが横になっているソファーに近づき、毛布をめくって、アンゲルが眠っていることを確認した。 珍しくからかうようなことを言わず、何日も黙って様子を観察していたヘイゼルだが、8日目の夜、まだアンゲルが寝込んでいるのを見て、とうとうキレた。  アンゲルが寝ているソファーごと、力任せにひっくり返したのだ!! 「いいかげんにしろ!留年する気か!?」  建物中に響くすさまじい怒鳴り声だ。 「学費がもったいないから休みたくないとかほざいてたのはどこの誰だ!?アルバイトはどうしたんだ?」  さかさまになったソファーの下から、弱々しい声が聞こえてきた。 「お前にはわからないよ。管轄区は複雑なんだ。お前みたいな金持ちの坊ちゃんにわかってたまるか……」  ヘイゼルがますます怒り狂い、ソファーをがんがん蹴り始めた。しかも、寮全体にとどろくようなすさまじい大声で怒鳴り続けた。 「とっとと出てこい!!!ひ弱な教会っ子め!そんなに複雑なら自分で解決してみろってんだ!!何のためにイシュハに来たんだ!?寝込みに来たのか?ああ?」 「簡単に言うな!それと怒鳴るな!耳が聞こえなくなる!!」  アンゲルがさかさまになったソファーの下から、耳を押さえながら這い出てきた。そして二人でぎゃあぎゃあとつかみ合い&言い合いを始めてしまった。エブニーザは、怖くて自分の部屋から出ることができず、ドアにくっついて震えながら、じっと二人のやりとりを聞いていた。  そのうち、騒ぎを聞いた事務の職員がかけつけてきて、いつかのようにまた二人で怒られた。  エレノアとフランシス(二日酔い)が帰りの車の中で話していた。フランシスは具合の悪そうな顔で文句ばかり言っていた。 「ヘイゼルは悪魔、エブニーザは白い目の化け物、アンゲルは退屈な教会っ子」 「ヘイゼルのワインでしょ?きのう飲んでたの。そんなこと言わないの」 「ヘイゼルのじゃないわよ、シュッティファントのワインよ。腐るほどあるんだからいいでしょ、私が何本飲んだって」 「フランシス……」 「それよりあなた、アンゲルとはどうなの?」 「友達よ!」  エレノアが嫌そうな顔で叫んだ。 「どうしてみんな、アンゲルと私をくっつけようとするの、エブニーザだって……」  そこで、エブニーザのここ数日の冷たい態度を思い出した。  どうしてあんなに嫌われているんだろう……? 「あんな気味の悪いのはほっときなさいよ。あんたに合うのはもっとしっかりした男」  そこで、フランシスが思い出したようにこう言いだした。 「クーに電話しなきゃ、寮に帰るって」 「……どうして?」 「どうせ行事はもう終わってるし……ウフフ」  フランシスが意味ありげに笑いだした。  エレノアは理由を訪ねたが、教えてもらえなかった。  アンゲルは、クラウスの部屋で立ちつくしていた。  管轄区の女神イライザの聖書と、イシュハの女神アニタの神話が書かれた本が一緒に並んでいるのを見つめる。  前に二人で話したことを思い出しながら。  ルームメイトの姿もない。きっとコミュニティにでも行ったのだろう。あの、狂信的で陰惨な……しかし、心の底から女神を信じていて、間違っても自殺なんてしなさそうな連中のところに。  イシュハの奴らは、こんなことで悩まないよな。  どうして、管轄区の人間だけ、こんな面倒なことになるんだろう……。  生気のない目でぼんやりと立ち尽くしていると、ドアが開き、初老の男性が入って来た。  振り向いたアンゲルは、相手の顔を見て、驚いた。  そこにいたのは、タフサ・クロッチマーだった。  教科書に顔写真が載るほど高名な心理療法士であり、精神科医でもある、アンゲルが心理学を志すきっかけになる本を書いた人物だ。 「幽霊でも見たような顔をしているね」  タフサが、深みのある声を発した。 「タフサ・クロッチマー?」  アンゲルがかすれた声でつぶやいた。 「本物?」 「本物だよ」  アンゲルは知らなかったのだが、死んだ学生は、ずっと前から回りに『どうしても女神を信じられない』とむやみやたらに話して、家族や友人たちとトラブルを起こしていたため、一度タフサのもとに、学校から相談が寄せられていたのだそうだ。 「僕が管轄区出身だって学校は知ってるからね、適任だと思ったんだろう。同じように信仰の問題で悩んだ。だから助けられると思った。でも失敗だったな」  タフサがうつろな目で部屋の天井を見上げた。 「16歳か……」  タフサはそうつぶやくと、部屋から出ようとしたが、アンゲルはタフサを引きとめて、自分が同じように悩んでいることを打ち明けた。クラウスから生前聞いた話も。  話を聞いて、これは死んだ学生と同じくらい深刻だと判断したタフサは、アンゲルにこんな提案をした。 「私のところに来てみないか?首都までは、アルターから列車に乗ればそんなに時間はかからない。教えられることはたくさんあるよ。管轄区から来たならなおさら、相談相手は必要だろう?アルターには管轄区出身の指導者はあまりいないからね」  タフサがアンゲルに名刺を渡した。受け取る手が震えた。 「何かあったらすぐに電話するんだよ」  そう言い残して、タフサは部屋を出て行った。  ……これは運命なんだ!  アンゲルはまた、お得意の思い込み発言を頭の中で繰り返した。しかし、すぐに、自分が今いる場所を思い出した。  クラウスの部屋。  死んでしまったものの部屋だ。  そこに、自分だけが生きて、チャンスをつかんで立っている……。  いいんだろうか、本当にいいんだろうか……。  俺はどうすればいいんだ?  アンゲルは、渡された名刺を見た。『タフサ・クロッチマー』と、よく見かけるフォントで印字されている。その下に、大学の研究室の電話番号と、タフサが運営している精神病院の住所が載っていた。  首都まで通うのか……やばいな、交通費が出せないぞ。  そう思いながら、こんなときにまで金の心配をしている自分が空しくなってくる。  アンゲルは名刺を財布にしまうと、寮を出た。  途中でロハンとすれ違ったが、話す気になれなかったので素通りしてしまった。ロハンも、同じ寮で自殺者が出て、それがアンゲルの知り合いだということを知っていて、アンゲルには話しかけなかった。何を言えばいいかわからなかったのだ。  エレノアは、ポートタウンで歌のオーディションを受けていた。  しかし、他の人が歌っているのを聞いているうちに、自分は場違いだということに、すぐ気がついた。  ……ロックとか、ヒップホップの人が来るところよね、ここ。  今、エレノアの目の前で、過激な服装のロックバンドが、耳をつんざくような大音響で、ほとんど罵声のような歌を怒鳴り散らすように歌っていた。  そのうち自分の番が回ってきた、エレノアは懸命に歌ったが、 「あんたの歌い方って、昔のオペラなのよね。そんな時代終わったわ」  と審査員に言われてしまった。  確かに、流行っているような音楽じゃないわ、私が作っている曲は……。  エレノアは、自分の音楽に疑問を抱き始めていた。  かといって、イシュハで流行っているロックやヒップホップが、エレノアはどうしても好きになれない。うるさいだけ、あるいは、八つ当たりをしているだけ、罵声を浴びせているだけにしか聞こえない。  どうしようか、悩みながら道を歩いていると、ヘイゼルとフランシスが言い合いをしながら歩いて来るのが見えた。  エブニーザが、泣きそうな顔でそのあとについて歩いているのも。 「フランシス?」  声をかけると、 「これ買っといて!」  フランシスは、エレノアにメモを投げつけ、その場を去ってしまった。  ヘイゼルとエレノア、エブニーザで、カフェに入って席に着いたが、楽しそうなのはヘイゼルだけだ。  旅先ではいつもみんな、私の歌に拍手してくれたけど、あくまでそれは旅芸人の歌だから、っていうことなんだわ。正式に歌手としてCDを出したり、大きなホールで演奏するには、私の歌は古すぎるのかもしれない……どうしよう。  そんなふうに悩んでいるエレノアを横目で見ながら、エブニーザが考えていたのはこんなことだ。  エレノア、どうしてアンゲルの気持ちに気がつかないんだろう?もしかして、もう気が付いているのかな?知っててわざと知らないふりしてるのかな?怖いな。女の人ってみんなそうなのかな?アンゲルは最近カフェに来ないのに、心配にならないのかな?  ヘイゼルがフランシスの悪口を盛大に述べている間、エレノアとエブニーザは聞いているふりをして頷きながら、こんなふうに、全く別のことを考えていた。 「とにかく、あいつは悪魔だ!間違いない!」  ヘイゼルが叫んだ。通行人が彼を胡散臭そうな目で見ているが、一向に気にしている様子はない。 「言い過ぎよ」  エレノアが注意した。 「あなたたち、しゃべり方が良く似てるわ」 「やめてくれぇ、気味が悪い」  ヘイゼルが本当にうんざりしたように首を左右に勢いよく振ったと思うと、フランシスの気取ったしぐさをまねて、両手で頬づえをついて目をぎょろぎょろと上に動かした。その様子があまりにもコミカルで、しかもよく似ていたので、エレノアは声を上げて笑った。エブニーザはそんな二人を黙って見つめていた。 「よかったら、夕食でもご一緒しませんかね?」  ヘイゼルがふざけた口調でエレノアを誘った。エブニーザがはっとしてエレノアの方を見た。 「一つだけ条件をつけてもいいのなら」  エレノアは挑発的な笑みを浮かべた。  エブニーザはその顔を見るのが苦痛だった。エレノアの笑い方が、エブニーザには、夢に出てくる痛めつけられた女の顔と同じように見えたのだ。 「何だね?」  ヘイゼルはそんな親友の様子にも気付かず、偉そうに頬づえをついたままだ。 「私の親友を、二度と『悪魔』なんて呼ばないって約束してくれたら」  エレノアが立ちあがった。 「夕食をご一緒してもいいわ」 「わかった。大変難しい課題だが、挑戦してみよう。ただし三日だけね!」 「三日?私の価値はそれっぽっちなの?」 「一週間。頼むよ、エレノア。君の価値の問題じゃなくて、俺の忍耐力の限界について話しているのだぞ?」 「大した忍耐ですこと!」  エレノアがわざと気取った口調で、皮肉っぽい笑いを浮かべながらその場を去っていく。 「大した女ですな!ん?」  ヘイゼルがエレノアの口調をまねて、エブニーザににやりと笑いかけた。  エブニーザは笑おうとしたが、うまく顔の筋肉が動かない。引きつっているのが自分でもわかった。  ……絶対何か企んでる!  ヘイゼルの楽しそうな様子から、エブニーザはこう確信していた。  そうだ、きっと、エレノアを誘えば、フランシスやアンゲルが動き出すと思ってるんだ、きっとそうだ!……それにしても、どうしてエレノアも、ヘイゼルも、こんなふうに軽い会話ができるんだろう。  いや、普通の人間はできるんだろうな。  そうだ、僕は普通の人間じゃないんだ。だからまともに人と会話もできないんだ……。  図書館で熱心に本を読んでいる(ように見えるが、実は上の空の)アンゲルに、 「いろいろ大変だったそうね」  と、声をかけてきたのは、クーだった。 「行事は?」 「とっくの昔に終わったわ」  隣の席に座る。アンゲルがタフサに出会ったことを話すと、 「タフサ・クロッチマー?聞いたことがある。そういうことってあるのね」  と驚いた様子だ。 「今、交通費をどうしようか考えてるところなんだ。それに、別に学費がかかるかもしれないし……」  アンゲルが力なく話すと、 「エブニーザに出してもらえば」  クーが平然と言い放った。 「そんなことできないよ」 「どうして」 「どうしてって……」 「あの子、どうせ稼いでも使わないのよ」 「ダメだよ、友達同士でそういう金の貸し借りはよくない。対等に話せなくなるだろ」  アンゲルがそう言うと、クーはにっこり笑って立ち上がり、 「友達ね?」  と言いながら、アンゲルを抱きしめた。 「その言葉が聞きたかったの」  真っ赤になってポカーンとしているアンゲルを置いて、姫君クーは、優雅な足取りでその場を去っていった。 「おい、今の、ノレーシュの姫君だろ?知り合いなのか?」  近くの席に座っていた学生が、興奮した声で尋ねてきた。 「……友達の友達」  アンゲルは呆然と、クーが去った方向を見つめながらつぶやいた。  エレノアが寮で本を読んでいると、クーがやってきて、とつぜん抱きついて来た。 「何?何なの!?」  驚いたエレノアがクーを押しのけると、 「友達に抱きついちゃいけない?」  クーが拗ねた顔をした。  フランシスが部屋から出て来た。 「クー、エレノアをからかうのやめてちょうだい」と渋い顔をする「ただでさえ最近悩み顔なんだから、見ててうっとおしいったらありゃしない」 「悩みって何?」  エレノアがしかたなく、イシュハで流行っている音楽と、自分の音楽が違う、と話すと、 「そんなの、あなたの個性なんだからいいじゃない」  クーは、何が問題なのかよくわからない様子だ。  エレノアはフランシスに、恐る恐る 「ヘイゼルが夕食に行こうって言ってたわ、冗談だと思うけど」  と話すと、 「いいじゃない、おごってもらいなさいよ。一番高いのを注文しておごらせなさい。あんたは出しちゃだめよ。相手はシュッティファントなんですからね」  予想とは違い、協力的な返事が返ってきた。  エレノアはほっとした。また怒りだしてもめるかと思っていたからだ。  次の日。アンゲルは、めずらしくカフェにいるエブニーザを発見した。 「珍しいな。どうした?」 「人に慣れようと思って……」  エブニーザが、弱々しい声でつぶやいた。 「人に慣れる?」  店内では、昨日行われたサッカーの試合をめぐって、学生が大声でさわいでいた。笑い声や怒鳴り声が響いて来るたびに、エブニーザがびくっと体を震わせて怯えたような顔をする。アンゲルは昨日の試合を思い出した。 「試合の審判ミスで盛り上がってるんだよ。お前を笑ってるわけじゃない」 「どうしてわかるんですか?」 「だって、ユニフォーム着てる奴がいるし、スポーツ雑誌持ってる奴がいるだろ?それに昨日の試合は本当に審判がいかれてたんだよ。誰が見たってあれにレッドカードはないだろ……」 「違います」  エブニーザが厳しい表情をした。 「僕が、自分が笑われてるような気がするっていうことを、どうして知ってるんですか?」 「それは……カウンセリングの事例にそういうのがあったから、たぶんお前もそうなんだろうと、人が苦手そうだし」  自分も時々そんな気がするんだ、とは、アンゲルは言えなかった。 「つまり推測ですか?」 「まあ、そうだけど……」 「自分はそうやって人の事を勝手に推測するのに、どうして僕の言うことはみんな妄想だって言うんですか?」 「……なんか話がずれてない?」  また大きな笑い声が響いてきたので、エブニーザは下を向いて黙り込んだ。  こいつ、人に慣れるだけで人生終わりそうだな。  アンゲルは心から哀れに思った。 「アンゲルはここで勉強してるんですか?うるさいのに」 「いつもはこんな騒いでないよ。お前、悪い日に来たな」アンゲルが笑う「エレノアがそろそろ来るころだ」  アンゲルが腕時計を見ながらそう言うと、エブニーザは急に立ち上がり、 「帰ります」  とだけ言って、騒いでいる学生を避けるように、遠くの座席を迂回して出て行った。  ……エレノアと何かあったのか?  その後やってきたエレノアは、アンゲルを見て目をしばたかせた。 「久しぶりね……もう、大丈夫なの?寝込んでたんでしょう?」 「平気とは言い難いけど」  アンゲルはうすく笑った。 「友達が亡くなったんだ」 「ヘイゼルに聞いたわ」 「ヘイゼル……」  ……なんでもべらべらしゃべる奴だな。 「別荘でも一緒に観劇してたよな……仲がいいんだな」  言ってから、嫌味だなと思ったが、遅かった。 「そういうことじゃないの」  エレノアが困った顔をした。 「そういえば、ヘイゼルに夕食に誘われたんだけど……」 「行けば?」  アンゲルはかなり投げやりな言葉を発した。  人が悩んでるのにそれかよ!!  ……いや、エレノアやヘイゼルには関係ない話だな。どうして管轄区だけこんなにややこしいんだろう。 「行くけど……フランシスもいいって言ってたし……」  エレノアが気まずそうに、小さな声で言った。 「フランシス?」  何となく嫌な予感がするアンゲルだった。その予感は当たるのだが。  ヘイゼルとエレノアがレストランで食事をしている……のだが、すぐ裏の席で、フランシスとアンゲル(強制連行された)が、じっと二人の会話を聞いていた。 「何で俺がこんなとこに」 「何よ、私に一人で食事しろって言うの?」 「クーと来いよ!俺は金がないんだ!」 「クーは別に用事があるって言ってたんだからしょうがないでしょ!」  アンゲルは仕方なくメニューを眺めていたのだが、そこには、外国語としか思えない意味不明な単語が並び、価格のところにはずらっと『時価』とだけ書いてある。  おいおいおい、時価って何だよ?いくらかかるんだよ? 「本日のプレゼペドロヒメネス、ウズラとエビのローストソースジュドクリュスタッセ」  向かいのフランシスは慣れた様子で注文しているが、この注文内容からして、アンゲルには何の事だかさっぱり理解できなかった。別な世界の呪文のようだ。 「アンゲルも同じものね」 「えっ?」 「かしこまりました」  固まっているアンゲルには構わず、ウェイターは去って行った。 「おい!勝手に決めるなよ!金がないって言ってるだろ!」 「いいでしょ、払うのは私なんだから」  フランシスは明らかに見下した態度だ。 「ところで、時価って何?」 「ハァ?」  フランシスが軽蔑の声を上げた。 「時期によって値段が違うってことよ。食べ物には旬があるでしょ?当たり前じゃないの」 「しょうがないだろ、レストランに客として来たのは初めてなんだから」  フランシスが驚愕の目でアンゲルを見た。 「信じられない。そんな人間この世にいるのね。新しい発見だわ」 「……そんな発見されてもちっとも嬉しくないね!」  相性の悪い二人が不毛な言い合いをしているころ、同じレストラン内の離れた席に、クーとエブニーザがいた。 「よくないですよ、こういうの」 「静かにして!」  困った顔のエブニーザに、クーが注意した。 「私が心配してるのはね、どうせフランシスの事だから、今は隠れてても、そのうち騒ぎだしてヘイゼルと大げんかを始めるに決まってるってことよ。あなたにも見えてるでしょう?」 「見えますけど……でも……」  エブニーザは気が進まない様子だ。 「そしたら、私とあなたでアンゲルとエレノアを連れ出すの。別な所で二人をくっつけるわ。おわかり?」  クーはとても楽しそうだ。  そして予想通り、ヘイゼルが自分の悪口を言っているのを聞きつけて逆上したフランシスが、エレノアとヘイゼルの席に向かって走り出し、ヘイゼルは、 「こんな事だろうと思ったよ!ほんとは俺の言うことが気になってしょうがないんだろ!」  と、相手の神経を逆なでするようなことを言ったため、やはり物を投げ合うケンカに発展した。  クーがエレノアを連れ出そうとしたが、エレノアは、フランシスを止めようと必死で、その場を離れようとしなかった。  エブニーザはアンゲルと一緒に外に出ようとしたが、フランシスが投げた皿が頭に当たって倒れてしまった。 「エブニーザ!」  エレノアが悲鳴を上げた。 「おまえらいいかげんにしろよ!」  アンゲルが怒鳴った。  レストラン内で暴れたため、警察がやってきて、6人とも追い出されてしまった。  クーは、飛び散った料理で汚れた服を見おろしながら、 「明日あたり、タブロイドにスクープされそうね」  と、つぶやいた。  フランシスとヘイゼルは、迎えに来たシグノーの運転手にむりやり車に乗せられて帰ってしまった。 「うちに来て、飲みなおさない?」  クーが残りの3人を誘ったが、エブニーザは 「頭が痛いから帰ります」  と、その場を離れてしまった。  アンゲルとエレノアは、クーの家(警備がいる)に向かった。  しかし、部屋に二人を案内するなり、クーはどこかに電話をかけ、 「あら?そう?今行くわ」  クーが電話を置いて二人に笑いかけた。 「用事ができたわ、遅くなるからごゆっくり!」  クーはそう言うなり、二人を置いてどこかへ出かけてしまった。  二人きりでとり残されて、気まずく黙り込むアンゲルとエレノア。 「どうしてレストランにいたの?」 「どうしても何も、フランシスに無理矢理連行されたんだよ。まさかエレノアがいるとは思わなかった」 「そうなの……文句ばかり言ってるけど、フランシスって、ヘイゼルが気になってしょうがないのよ」 「それはヘイゼルも同じだな。エレノアを誘ったのって、最初からフランシスに嫉妬させるためじゃないか?」 「そうかも……ああ、なんだか嫌な感じ。利用された気分よ」 「嫌な感じどころじゃないよ。俺はヘイゼルを殴ってやりたいね」 「だめよ」  また二人とも黙り込む。  エレノアは立ちあがって、クーの本棚を探った。 「読めない本ばかりだわ、全部ノレーシュ語」 「外国語は何を取ってるの?」 「ロンハルトよ。ロンハルトの歌をよく歌うから」 「そうか……」 「アンゲルは?」 「アケパリ語」 「アケパリ?」エレノアが、笑い声の交じった声で叫んだ「難しいのを選んだのね。漢字を覚えるの大変よ。父も苦戦してるわ」 「いや……アルファベットじゃない文字を一度学んでみたかったんだ」  本当は、エレノアの母親がアケパリ人だから選んだのだが、それは言わないことにした。  その時、アンゲルは、エレノアが本を開いたまま、硬直していることに気がついた。 「どうしたの」 「だめ!だめよ!これは見ちゃだめ!」  エレノアが見ていた本を慌てて本棚に戻した。 「なんだよ」  アンゲルが手を伸ばそうとすると、エレノアがつかみかかって止めようとした。本が床に落ちた。  ……なんとそれは、女性のヌード写真集だった!  しかも、修正なし、何もかもが写っている……。  エレノアがあわてて拾い上げて、投げ込むように本棚に戻した。  アンゲルの顔は真っ赤だ。 「どうしてクーがそんなものを」 「わからない……」  お互いを見て、目が会ったとたん同時に視線をそらして横を向く二人。 「……帰った方がよさそうだ」 「そ、そうね!」  アンゲルはわざとらしく腕時計を見て、 「うわあ、もう日付が変わる!」  と叫んだ。  二人はあわててクーの部屋を出て行った。  アンゲルは、エレノアを女子寮の前まで送ったが、道を歩いている間も顔を合わすことができず、二人とも終始無言のままだった。  そのころ、クーは別なカフェバーで、エブニーザと合流していた。 「ほんとに二人を置いてきたんですか?家に?」  エブニーザは呆れた。 「頭は大丈夫?」 「まだ痛いけど、たぶん、そんなに重症じゃないと思います」  クーは、時間をつぶそうとして神話の話を始めた。  神の一人であるカーリー・フェイウが、人間に子供を産ませる。その子はとても美しく、未来を予知する能力を持っていた。ところが、貧しい娘に恋をし、彼女を助けるために悪いことをしてしまったため、怒った女神イライザが『殺してこい!』カーリーを雷と共に地上に突き落とす。前にカーリーと争って負けた武神フレイグが、仕返しをしようと後を追って地上にやってくる。カーリーは息子を殺し、その恋人も手にかけようとするが、女神アニタが邪魔をする。嘆き悲しむ恋人を見たアニタは、二人を憐れんで、殺された息子の魂を探し出し、恋人のもとに返してあげた。それを聞いて怒ったイライザは、アニタと絶交して世界を二つに分けたと言われている。天界と地上。  この事件以来、神が何か間違いを犯すと、それを指摘する『預言者』が現れるようになったという。カーリーの息子の魂、未来が見える少年のことだ。 「500年ごとにこの神話が繰り返されると、ノレーシュでは信じられていて、実際、500年前に似たような事件が、イシュハが独立したあたりの時代に起きていたの。正確に言うとロンハルトに『未来が見える美しい少年』がいてね、王様に愛されていたそうだけど、その王の死後、好きな女性を守るために戦って、その人が別な人と幸せになったのを見届けてから、国を飛び出してどこかへ行ってしまったそうよ。ラナ・クドローという女性が旅日記に残しているのだけど……」 「何が言いたいんですか?」 黙って話を聞いていたエブニーザが、急に嫌な顔をした。 「あなたを見た時、美しすぎて、『神話の再来だ!』って思ったの。しかもあなたは未来が見える。神の子は未来を予知するって言われてるけど、どう思う?」 「関係ありませんよ。関係あるとしたら……」エブニーザが遠い目をした「たぶん僕は、殺されるんですよ」 「なぜそう思うの?」 「なぜって……」 「見えるの?」  沈黙。  クーはエブニーザの目をまっすぐに見つめた。何かを探りだそうとしているみたいに。  エブニーザはその目が怖くなって、顔をそらして立ち上がった。 「もう帰ります」 「待って」  クーがエブニーザの服の袖をつかんだ。 「アンゲルが帰ってたら、戻ってきて。あの二人が家を出るまで、私は帰らないから」  アンゲルはソファーに横になっていたが、眠れない。  エブニーザが帰って来たが、アンゲルを見たとたん、部屋を飛び出して行ってしまった。 「何だよ?」  ヘイゼルも帰ってきていないようだ。アンゲルは眠ろうとするが、さきほどクーの部屋で見たヌード写真が頭から離れない。 「うわああ、だめだ、だめだ」  と一人うめく。  管轄区では、婚前交渉どころか、女性の裸を『想像するだけ』でも罪だということになっている。当然だがポルノがない。(ただし、ヘイゼルが言った通り、売春婦の数は世界一である)  明日から忙しくなるんだから、眠れ!眠るんだ!  アンゲルは自分に言い聞かせるが、ますます目がさえるだけだ。  起き上がって本をめくり始めるが、数ページ読んだだけで『ああ~だめだ!うわああ』と本を閉じて頭を抱えてしまった。  そこにヘイゼルが帰ってきた。 「なんだ、こんな時間までお勉強か?」 「今までどこで何をしてたんだよ!」 「シグノーの別邸でお説教だ。また白ひげだぞ?思い出したくもない」  ヘイゼルは部屋に直行。  アンゲルはまた本を読み始めるが、やはり『だめだ!だめだ~!』とわめいたため、ヘイゼルが出て来て怒鳴った。 「うるさいぞ!何時だと思ってる!?」 「お前の怒鳴り声の方がうるさい!ティッシュファントム!」 「ティッシュファントムって言うな!」  真夜中に怒鳴り合いが始まってしまった。  隣の部屋の学生が事務に苦情を言ったため、事務の職員がかけつけてきて、 「またお前たちか」  と、1時間近くお説教をされた。  戻ってきたエブニーザは、その間、廊下で待つはめになった。  結局、三人とも、この日は眠れなかった。  エレノアが、真夜中に帰ってきたフランシスに『クーの家にアンゲルと二人で取り残された。しかもヌード写真があった』と話すと、フランシスは心からおかしそうに『アハハハハハ!』と大声を上げて笑い始めた。 「最初からそういう作戦だったのね!」 「どうしてレストランにいたの?」  エレノアが聞くと、フランシスは急に不機嫌な顔になって黙り込んだ。そして、 「それはきっと、わざと置いておいたのよ」  と、話をそらした。 「えっ?」 「写真集よ。あなたたちを二人きりにして、エッチなものを置いておく。上手くその気になったら……」 「フランシス!」  エレノアが真っ赤になって怒り始めた。 「変なこと言わないで!」 「変なことじゃないわよ。実際どうなの?どういう関係なの?毎日カフェで会ってるそうじゃない?」 「じゃあ、あなたとヘイゼルはどういう関係なのよ?こんな時間まで何をしてたわけ!?」 「白ひげに説教されてただけよ!変な想像しないでよ!」 「こんな真夜中に説教なんかする?」 「するわよ!あんたは下賤な貧乏人だからわかんないでしょうけどね!」 「何ですって!」  二人が言い合いをしていると、部屋のドアをノックする音がした。  クーだった。  汚れた服のまま、神妙な顔で入ってきたクーを見て、フランシスは驚いた。 「あんた、どうやってここに入ったのよ」 「裏口が開いてるの」 「最低のセキュリティね」  フランシスがため息をついて、クーを睨んだ。 「あんた、わざとエレノアとアンゲルを部屋に連れてったでしょ。それに、何?ヌード写真まで置いて」 「えっ?」  クーが驚いて、動きが止まった。みるみる顔が真っ赤になる。 「……わざと置いたんじゃないの?アンゲルをひっかけるために」 「違うわよ!」  クーが真っ赤になって叫び、二人に背を向けた。 「ああ、だめ、だめ、エレノア、どうしてそんなもの見つけるの」 「見つけるって……普通に本棚に入ってたんだもん!」  エレノアも真っ赤になって叫んだ。  フランシスは妙に冷静な声で、 「ほんとに、わざと置いたんじゃないの?」  とクーに尋ねた。 「違うってば!」 「……もう反省した?」 「ごめんなさい。謝るわ。でも。フランシスが心配だったのよ。絶対暴れると思って。エブニーザもそう予言してたし」 「エブニーザ?」  エレノアが驚いた。 「ほんと?」 「ええ」 「何なの、気味が悪いわね」  フランシスは苦笑いしながらつぶやいた。 「みんな、何かを企んで、ことごとく失敗したってとこね……ワインでも飲む?どうせ今日は眠れないわよ」 三人で時計を見ると、朝の4時になっていた。  いつもはカフェでエレノアを待っているアンゲルだが、今日は寮に直帰。クーの部屋で見たヌード写真の衝撃がまだ抜けないのだった。  女神なんか信じてないのに、こんなこと気にしてどうするんだ?イシュハの連中はもっと自由に……待て、俺は何を考えてるんだ?  自問しながら、勉強に集中しようとするが、やはり思い出すたびに『だめだ!だめだあ~』と頭を抱えてしまった。  そのころ、エレノアは図書館に向かっていた。  資料室に行くと、エブニーザとクーがいて、ノレーシュ語で何か話していた。エレノアには話の内容がわからない。  帰ろうとすると、クーがエレノアに気づき、『いらっしゃいよ』と誘った。  エブニーザが広げているのはやはり、黒魔術の本だった。 「こわいのよ。カップルを引き離す方法が載ってるの」 「バラのとげを燃やすんです」 「そんな怖い話やめてよ」 「私、ためしてみようかしら……」 「えっ?」  クーが暗い顔でつぶやいたのでエレノアは驚いた。 「あの二人は運命の相手だからだめですよ。僕にはわかるんです。無駄ですよ」  エブニーザが真面目な顔で言った。 「誰の事?」 「いえ、あの……」 「ノレーシュのバカップルの話」  クーが白けた顔で言った。 「もう行くわ。授業があるから」  クーは、極上の笑顔をエレノアに向けて去って行った。エレノアはドキッとした。 「クーってときどき、びっくりするほど優しく笑うのよね」 「そうですか」  エブニーザは、悲しげな顔をしていた。  エレノアが去った後、やっと一人で本が読めると安心したエブニーザのところに、シギがやってきた。 「何ですか」  と聞くと、予想通りエレノアについていろいろと聞かれ『お前なら話しても大丈夫だろう』と、恋の相談を延々とされてしまった。 「美しすぎて、近づけないんだよ」 「……じゃあ、近づかなければいいんじゃないですか?」 「でも、キツネ目のアケパリ人や、アンゲルとは仲がよさそうじゃないか。それを見るたびに俺は身を割かれる思いがする」 「そうですか」  エブニーザは『僕より言葉が硬い人もいるんだなあ』と思っていた。  その後、エブニーザは『あきらめたほうがいいですよ』としか言わなかったのだが、シギはそれが聞こえていないかのように、延々と話し続けた。  夕方。ようやくシギが帰ったので、眠そうな目になりながらも『やっと本が読める』と『黒魔術』の本を開いたエブニーザのところに、よりによって険しい表情のフランシスが声をかけてくる。 「あんた、私が暴れるのを予知してたって本当?」 「……誰に聞いたんですか?」 「クーに決まってるでしょ。二人で変なことを企んでたみたいですけど、うまくいかなくて残念だったわね」  よりによって一番苦手なフランシスにまた読書を邪魔されて、露骨に嫌がる(正確に言うと『怖がる』)エブニーザに、フランシスは、 「あんた、そんなもの読んで何をする気?誰かを呪い殺す気?だったらヘイゼルにしてよ」  と言いだした。そして、 「あいつは悪魔よ!うるさいったらありゃしないわ!どこまでもつきまとってくる……あんた、どうしてあんな悪魔と知り合いなの?それともあんたも悪魔の一味?だからそんな本読んでるの?」  とまくしたてられ、エブニーザは困惑しながら考えた。  この二人、お互いを悪魔呼ばわりしてるんだな。エレノアの言うとおりだ。似てるな。  そのうちヘイゼルがエブニーザを探しに来てフランシスと口論を始めてしまい、エブニーザは、  今日は最悪だ……。  と思いながら、二人を置いて図書館を後にした。  首都のタフサ・クロッチマーの研究室で、アンゲルは、自分の事やクラウスの事をぽつぽつと、慎重に、話していた。正確に話さないといけないような気がしたのだが、自分でも何が正しいのか、何が間違っているのか、わからなかった。  一つだけ確かなのは、自分は女神なんて『信じていない』し、『いるとも思えない』ということだった。  ひととおり話し終わったところで、タフサは『あくまで僕が思っただけだけど』と前置きして、話し始めた。 「君はきっと、管轄区にいながら、信仰の輪の外にいたんだ」 「信仰の輪?」 「文化の輪と言ってもいい。同じ文化、同じ価値観で暮らしているグループがあるとする」  タフサが、紙に鉛筆で、大きな円を書いた。 「君は、生活していたのは管轄区だけど、心理的には、輪の外にいるわけだ」  タフサが、最初に書いた大きな輪から離れた場所に、小さな輪をぽつんと描いた。 「そして、クラウスはたぶん、ここにいたんだよ」  最初に描かれた大きな円の内側に、小さな円を描く。 「女神は信じられないかもしれない、そう疑ってはいたが、まだ確信を持っていたわけじゃない。文化の内側から、外の、異教徒の文化を見ていたわけだ。でもアンゲルはどうだい?最初から信仰の外にいたんじゃないか?そして、さしてそのこと自体に疑問を持っているようにも聞こえないんだが」 「それは……そうですね」  アンゲルは、クラウスが自分を見た時のあの異様な目つきを思い出した。教会信者が異端者を見る目つきだった。 「良いとか悪いと言う問題じゃない。ただ、同じ文化圏にいても、感じ方も信仰の度合いも、立ち位置も違うものなんだ。これは覚えておいた方がいいかもしれないね」 「はい」 『立ち位置の確認』ということで、最初の日は終わった。アンゲルは、定期的にタフサのところへ行く約束をしてしまった。  交通費は?  アンゲルは『バイトを増やす』というきつい選択をした。  おかげで、ほとんど寮には戻って来られず、タフサのところへ通う時間も入れると、ほとんど、エレノアや他の友人と話す機会もなくなってしまった。  それでも、死んだクラウスや、台風のときの悲鳴などを思い出すと、生きているんだから、文句を言うべきじゃない、今は勉強するべきだと思えた。  首都では、タフサと管轄区について話したり、精神病院の患者の話し相手になったりした。  とにかく忙しくしていないと、また余計なことを思い出してしまいそうだ……管轄区の狂信的なイライザ信者の事、台風のこと、まとわりついてくる悲鳴、クラウスの話し声、それに……。  実際、精神病院での体験は実践的で、学校の授業よりも得るものが大きかった。  しかし、アンゲルはまた疑問に思い始めた。  カウンセリングって……話し相手がいれば必要ないんじゃないだろうか? どうせ勉強するなら、やはり精神科医の資格を取った方がいいんじゃないだろうか?そうすれば、管轄区に帰らなくてもイシュハで生きていけるし、人を助けることもできるはず……。  バイト先では終始無言で、ソレアとは全く話そうと思わなかった。余計な気力を使いたくなかったのだ。 「シフトが増えて、一緒にいられる時間が長くてうれしいけど、何かあったの?」 「そういう言い方やめて」  アンゲルはできるだけ黙り込んでいたが、ソレアは自分の事とか、故郷の事を延々としゃべりつづけるので、それを聞いているとますます疲れた。  ヘイゼルは最初、ぐったりと疲れ切っていたアンゲルをからかっていたのだが、日が経つにつれて疲れすぎて、からかっても反応しなくなってきたので、 「お前そのうち死ぬぞ。アケパリ人みたいに、過労で」  と言い始めた。  見かねたエブニーザが貯金をおろしてきて、 「お願いだから受け取ってください」  と懇願すると、アンゲルは怒りだした。 「俺をバカにしてんのか!」 「だって!毎日疲れた顔して、ヘイゼルともほとんど話さないじゃないですか!おかげでヘイゼルもいらいらしてるし……二人とも最近怖いですよ」 「そんな理由で人に金を出すな!」 「それに、最近アンゲルを見かけないってエレノアにも言われたし……」  アンゲルはその言葉で怒鳴るのをやめた。 「……今大事な時なんだよ。会ってる暇がない。エレノアはどうせ俺に興味ないしな」  いじけてソファーで寝始めてしまった。 「そんなことないですよ。だってエレノアは……」 「出てけ」  アンゲルは毛布にもぐりこんでしまった。エブニーザは、落ち込んだ様子で部屋に戻り、ドアをそーっと閉めた。  カフェでコーヒーを飲みながら『最近アンゲルを見かけないなあ』と思っていたエレノアは、知らない男性に声をかけられた。話を聞くと、フェスティバルでエレノアが歌っているのを見てから、ずっと好意を寄せていたらしい。  しかし『やっぱり外見だけ見てて、歌をちゃんと聞いてないのね』と、話の内容から判断したエレノアは、 「もう帰る」  と彼を置いて寮に戻ってしまった。  それから、アンゲルがいないかと電話をかけるが、出たのはヘイゼルだった。 『バイトと勉強で疲れちゃって、話しかけても反応しないんでね。そのうち過労で死ぬんじゃないかな』  もっと話を聞こうとしたのだが、帰ってきたフランシス(紙袋をたくさん抱えている!)に受話器を奪われてしまった。 「何の話をしてたの?」 『ああ、アンゲルが死にかけてるって話をしてたんだよ、何だ、俺の話がそんなに気になるか……』  フランシスは乱暴に電話を切った。エレノアはぼんやりと、何か考えているようだ。 「何があったの?アンゲルとケンカ?」 「違うの、アルバイトで忙しすぎるみたい」 「あっそ」  フランシスの興味を引かない話だったようだ。 「さっき、ポートタウン駅の近くでエブニーザを見かけたけど、どこに行くのかしらね」 「ポートタウン?」 「ものすごく気持ち悪い……いえ、青黒い、暗い顔で、かなり慌てていたみたいだけど」  エレノアは何かあったのではないかと思い、もういちど電話をかけようとしたのだが、 「かけたってヘイゼルしか出ないわよ」  とフランシスに止められた。フランシスは『セールがあるから買い物に行く』と出て行った。  どうしよう、駅に行ってみようか……。  迷ったが、エレノアはまたヘイゼルに電話した。 「エブニーザはどこ?ポートタウンで見かけたって言ってる人がいるんだけど」 『ポートタウン?』 『様子がおかしかったらしいの』 『……わかった、探してみる。全く手のかかる連中ばかりだ!』  電話は乱暴に切られた。 「一番手がかかってるのはあなただと思うけど……」  エレノアは受話器に向かってそうつぶやきながら、苦笑いした。  アンゲルは、疲労が極限に達して、タフサのところで倒れてしまった。 目を覚ますと、タフサがすまなさそうな顔で、ベッドの横に立っていた。 「アルバイトまでしているとは知らなかったよ……無理しないで、まず大学に入れるように、学校の勉強に専念するべきだな」  がっくりと落ち込むアンゲルに、タフサは優しい声でこう言った。 「夏と冬に長期休暇があるだろう?どうせその間も私は仕事をしてるんだから、休暇に来ればいいじゃないか。若いうちに言っておくが、体をこわしたら、他人の悩みなんて聞いていられないぞ」  帰り道。がっくりと肩を落としながら歩くアンゲル。しかも、寮にたどり着く前に、あのフランシスに遭遇してしまった。 「あら、どうしたの、死人みたいな顔をして」  フランシスはいつでも、どこでも、容赦がない。 「ほっといてくれ」 「エレノアが来週ステージに出るの。伴奏はまたクーよ。来なさいよ!」  後ろから叫び声がした。  もうどうでもいいよそんなの。  そう思いながら寮に帰るが、部屋には誰もいない。エブニーザの部屋もヘイゼルの部屋も、からっぽだ。  日付が変わる時刻になっても、二人とも帰って来ない。  心配になったアンゲルは、外に探しに行ったが、どこにも二人の姿はなかった。  あきらめて部屋に戻り、ソファーに横になるが、眠れない。  ヘイゼルめ、またエブニーザを変な所に連れ回してるな……。まさか娼館に行ったんじゃないだろうな?妄想の女を探しに……。  アンゲルは、クーの部屋で見たヌード写真を思い出し『うわああ!だめだ』と叫んで毛布にもぐりこむ。目がさえてしまって、全く眠れない。  そのころ、ヘイゼルは、ポートタウンの駅でエブニーザ(真っ青な顔でふらふら歩いていた)を発見した。 「どこへ行くつもりだ!?」  つかみかかって怒鳴りつけると、エブニーザは真っ青な顔でつぶやいた。 「彼女を探さなきゃ」 「ハァ?」 「見えたんですよ、灰色の建物で……部屋の外にも似たような色の建物が並んでいて……同じ場所を探せば……早く見つけないと……本当に手遅れに……」  エブニーザがつぶやきながら震え始めたかと思うと、倒れてしまった。発作だ。 「お前一人で探すなんて無理だぞ!」  ヘイゼルはエブニーザを駅の外に引きずっていき、タクシーに放り込んだ。運転手は、 「アルター?今から?俺が家に帰れねえよ!」  と文句を言ったが、ヘイゼルは100クレリン札を持っているだけすべて投げつけ、 「いいから早く出発しろ!」  すさまじい剣幕で怒鳴りつけた。  朝5時、ヘイゼルが疲れた顔で帰ってきた。  ソファーでうとうとしていたアンゲルが 「どこに行ってたんだよ!?」  と聞くと、ヘイゼルは、アンゲルが寝ているソファーに近づき、しゃがみこんで、じっとアンゲルの目を見つめた。表情がない。 「何だよ?気持ち悪いな。エブニーザは?」 「お前が正しかったのかもしれん」 「は?」 「あいつは病院だ。もう出て来れないかもしれないな」 「何だって!?」  飛び起きた拍子に、アンゲルの頭がヘイゼルの額にぶつかった、二人してしばらく激痛にうめく羽目になった。  ヘイゼルの話だと、駅で発作を起こして倒れたので、病院に連れて行ったとのこと。 「やっぱりあいつをここに連れてきたのは間違いだったのかもしれん」 ヘイゼルは疲れ切って、いつもの傲慢……いや、元気が出ないようだ。 「そんなに深刻な状態なのか?」  アンゲルが起き上がってヘイゼルを見た。 「いや、いつもの発作なのだが……だが」 「だが、何だよ?」 「例の彼女を探すって言ってたんだよ」 「また?」 「どうも、いつもと違って、居場所がはっきり見えたらしいんだ。どっかの汚い娼館だけどな。だから探せると思ったんだろうな。でも、そんな建物、世界中にいくらでもある……なあ」  ヘイゼルが、今まで見たこともないような、弱り切った顔をしていた。 「このままその女が見つからなかったら、あいつはどっちみち気が狂うんじゃないかな?それとももう狂ってるんだろうか?俺にはどうしてもそれがわからないんだ」 「狂ってる……?」  アンゲルは返答に迷った、明らかに病気だと今まで思っていたのだが、 「いや、狂ってはいないと思う」  と答えた。 「思う?」 「確かに変わってる、思い込みも激しい、でも、違うと思う」  アンゲルはだんだん心配になってきた。すっかり忘れていたが、エブニーザだって管轄区の人間なのだ。そして、かなりやっかいな過去を抱えている。  クラウスみたいになったら大変だ……。 「病院からは?すぐ出られないのか?」 「わからん。診断は明日だ」 次の日。 「そんなに深刻な症状ではない。学校には通わせた方がいい。カウンセラーに会う回数を増やして、月一度こちらにも来るように」  という医者の診断が出て、夕方にはエブニーザが寮に戻ってきた。しかし、誰とも目を合わせようとせず、アンゲルにも何も話さずに、部屋にこもってしまった。  次の日。  ヘイゼルとアンゲルが学校に行ったあと、エブニーザは電話を取った。  クーが出ると、 「僕は、狂っているんですか?」  と、突然質問を始めた。 『……根拠は?』 「僕にははっきり見えることが、みんなには見えてないんです。ヘイゼルもアンゲルも、医者も、みんな妄想だと思ってる」 『医者?どういうこと?ねえ、今、私の部屋に来れない?一回くらいイシュハ語をさぼっても大丈夫よね?私ちゃんと話せてるでしょ?』 「僕よりお上手ですよ」 『あら、それは問題だわ……すぐ、いらっしゃい。警備には話しておくから』  アンゲルは、タフサに言われたとおり『今は学校の勉強に専念しよう』と熱心に授業を受けたが、やはり自分が精神分析を受けたり、カウンセリングの話になると、信仰や、その他いろいろな問題が浮かび上がってきて、気分が悪くなってしまった。  帰りに、ひさしぶりにエレノアの姿(やっぱり大きな帽子をかぶっていたが)を見て、あまりにも美しく、輝いて見えたのでぼんやりしていると、エレノアは、 「ねえ?どうしたの?」  いつかのように隣の席を指さして『座れば?』という顔をした。  やっぱりエレノアがいないと自分の人生は真っ暗だ、俺にはエレノア必要なんだ!  アンゲルは勝手にそう思いながら、先日起きたエブニーザの一件について話した。 「そんなことが起きてたの?全然知らなかったわ……」 「あのヘイゼルが真面目に落ち込んでたから、世界の終わりかと思ったよ」  アンゲルは軽口を言ったが、実際は心配でたまらなかった。 「何かできることがあったら教えてね!」  エレノアは、弾んだ声でそう言いながら、歌の練習に向かった。  やっぱりエブニーザが好きなのかなあ、エレノアって。  アンゲルはため息をついた。それでも、エレノアと話せたことを嬉しく思う自分がいた。  空は晴れていて、街の空気が、木々が、急に輝いて見える。アンゲルはぼんやりと周りの景色を眺めた。驚くほど、世界が光に満ちていた。  ああ、やっぱり俺はエレノアを愛してるんだ!  心が感激で満たされた。ここまで深く何かを感じたのは、久しぶりだった。 しかし、すぐに自分の立場を思い出した。そして怖くなった。いつかソレアが言っていたではないか『どうせ管轄区に戻ったら、誰かと結婚させられる』と。  でも、自分は女神を信じていない。管轄区にはどうせ居場所がない。  イシュハに残ることは可能だろうか……?  ……いや、今は勉強しないと。  そう思い直し、とぼとぼと寮に戻った。  授業の帰りにクーの家を訪ねたフランシスは、そこにエブニーザがいるのを見て驚き、持ってきたお菓子を落としてしまった。 「いやねえ、変な想像して、一緒に話してただけよ」  クーは余裕で笑うが、フランシスが怖いエブニーザはずっと下を向いている。 「クーに用があるから、あんた、帰って」  フランシスがエブニーザをにらみつけると、エブニーザは逃げるように部屋を出て行った。 「ちょっと、いろいろ大変なことがあったばかりなのよ、私のベイビーをいじめないでくれる?」  大人ぶったクーが笑うと、 「私のベイビー!?」  フランシスが目を丸くして叫んだ。 「また発作を起こして、ヘイゼルに病院に放り込まれたのよ。すぐ退院できたからいいけど、ショックを受けたみたいよ。自分は狂ってるんじゃないかって何度も聞かれたわ」 「実際精神病なんでしょ?どっかの施設にでも入れてやったらいいじゃない!それとも、シュタイナーのところに送り返すとか」  すると、クーが急に深刻な顔になった。 「シュタイナーのところには……関わらないほうがいいと思う」 「なんで?」 「さんざん利用されたあげく暗殺されそうだから」 「そんなにシュタイナーって危険人物?」 「ノレーシュの富豪はみんな」  クーが深刻な表情でフランシスを見つめた。 「あそこと関わると、死人が出るって知ってるわ」  フランシスは困惑していた。そんな危ない話になるとは思わなかったからだ。 「私、あそこの娘と文通してるけど、そんな話聞いたことないわよ」 「管轄区の人間は何も知らないのよ。外国から見たほうが、その国の裏事情はよくわかるものなの。イシュハだってそうでしょ?」 「そうだけど……」  アンゲルが寮に戻るが、またしても誰もいない。  ヘイゼルの部屋をノックすると、中から、 「何だ?」  という、不機嫌そうな声が聞こえてきた。 「何でもない」  一度引きさがってソファーで勉強を始めたアンゲルだが、集中できず、立ちあがってヘイゼルの部屋のドアを開けると、ヘイゼルは熱心に『心に傷を負った人への対処法』という本を読んでいた。 「何してんのお前?」  本の題名と、読んでいる人間があまりにも合わないので、アンゲルが噴き出しながら尋ねると、 「御覧の通りだ」  ヘイゼルは本をかざして、題名が見えるようにアンゲルの方に向けた。 「あいにく、シュッティファントの辞書には、人を操る手段とか、気に入らない奴を痛めつける方法とか、精神的に追いつめる手順とか、無理矢理服従させる戦略は書いてあるが、こういうのは……どこにも載ってないんでね」 「恐ろしい一家だな」 「エブニーザをここに連れてきたのは俺なんだよ。はっきり言って失敗だった。でも、最後まで面倒をみる義務があるだろ?」  お前がいつ面倒なんか見たんだよ!?お前が面倒かけてるんだろうが! とアンゲルは言いたくなったが、相手が落ち込んでいる様子なので口には出さなかった。 「確かに失敗だったな」  アンゲルがそう言うとヘイゼルが、攻撃的な目を見開いて睨みつけてきた。 「利用するために連れてきたんなら、大失敗だ。でもな、俺やエレノアやクーに知り合えて、勉強もできてる。友達を作って、成長させるってことを期待してたんなら、悪くないさ。大成功とは言わないけどな」 「エンジェル氏にしては優しいことを言うね!」 「うるさい、ティッシュファントム!」  ヘイゼルが怒鳴り返す前に、アンゲルはドアを閉め、廊下に逃げた。勉強する気になれなかった。  少し歩いて、いろいろ考えてみよう。特に何かいいことが思いつくとは思わないが……。  次の日。  本屋でエレノアが、ヘイゼルが読んでいたのとまったく同じ本を立ち読みしていた。後ろにエブニーザがいることも知らずに。  エブニーザは、エレノアを見つめながら、  いろんな人に迷惑をかけているんだな、僕は……。  と、一人自分を責めていた。  エレノアがその視線に気づき、後ろを振り向くやいなや、驚いて本を床に落とした。  エブニーザが、それを拾って棚に戻した。 「こんなの、読む必要ないですよ」 「え?」  エレノアがエブニーザを見たが、エブニーザはそれ以上何も云わず、その場を去ってしまった。  エレノアは公衆電話に向かった。出たのはアンゲルだった。 『そんなの気にするなよ。最近機嫌が悪いんだ』  と言われただけだった。  どうするべきなんだろうかと、考えながら音楽科へ向かうと、ケンタがちょうど練習を終えて出てきたところだった。 「顔色が悪いね」  二人で芝生に座ってエブニーザの話をした。 「それは難しいね」  ケンタもいい解決法を思いつかないようだ。 「でも、エレノアは優しいな。それが伝われば十分だと思う。人生をどうするかは本人が決めることだよ」 「でも、あのままで大丈夫なのかしら……」  エレノアがまだ何か言おうとしたので、ケンタは急に大げさなふりをつけて説明を始めた。 「エレノア、エブニーザだって男だろ?いくら病気でも、周りがみんな『大丈夫大丈夫?』ばかり言ってたら、情けなくもなるよ。どんなに仲のいい友達でもね。アケパリ人男子から見た視点で言わせてもらえば『ほっといてくれ!俺の問題だ!』ってとこだ。それか、自分のせいで周りが迷惑してるって、内向きに悩みだすか……どっちにしても、周りが心配したって本人のためにならないんだよ……エレノアは自分の音楽に集中しなよ。それが誰にとっても一番いいんだ。エブニーザにとっても、エレノア自身にとっても、俺にとっても」  エレノアは顔を上げてケンタの顔を見た。ケンタはどこか遠くを見つめていた。顔が赤くなっているように見えたが、夕陽のせいだろうなとエレノアは思い直した。  不思議な安堵感に包まれながら、エレノアは立ちあがり、 「ありがとう」  と言うと、その場を去って行った。  残されたケンタは一人でため息をついた。 「うらやましいな、エブニーザ」  エブニーザが暗い顔で部屋に戻って来たかと思うと、 「学校をやめて、シュタイナーのところに帰る」 と言いだした。 「アホか!」 「だって、ここにいてもできることなんてないし、みんなに迷惑をかけてるし……」 「そう思ってるんなら黙って学校に行ってろ!」 「でも……やっぱり僕には合わないんですよ」 「『合わないから行きたくありません』なんて話が通ると思ってるのか!?」 「でも……」  ヘイゼルが怒鳴りつけ、延々と文句を言い続けたが、エブニーザの決心は固いのか、なかなか考えを変えようとしなかった。  勉強するふりをしながらそのやりとりを聞いていたアンゲルは 「逃げようとしてるな」  とつぶやいた。 「まわりが自分に気を使うから嫌になったんだろ?さっきエレノアから電話が来てたぞ。機嫌が悪そうだったから、自分が何か気に障るようなことをしたんじゃないかって。心配されるのが嫌だったら自分がしっかりしろ。それが無理なら、人の好意をはねつけるなよ。簡単に逃げ帰るような奴に女の子なんて救えないな。問題なのはお前の病気でも弱さでもない。そういう逃げ腰の態度だろ?」  エブニーザは傷ついた表情をして、部屋に戻ってしまった。  そして、めずらしくドアを乱暴に、音を立てて閉めた。 「わお。そろそろ反抗期かもね」  アンゲルが笑うと、 「性格変わったな、エンジェル氏」  とヘイゼルが驚いたような、呆れたような顔をした。
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