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第七章 普通の人間になりたい
2月。女神アニタが人々を宮殿に招いたとされる週。
道の真ん中で花火をふりまわす若者がいたり、ファニージャンプ(地面に描いた点の上を飛びながら、奇抜なポーズや変な顔をしておもしろさを競う、くだらない遊び)に興じている人々が広場を跳ねまわっていたり、道を歩く女性の服装がいつも以上に過激に、派手に、露出過多になったり……。
とにかく、この期間のイシュハ人のテンションは、異常だ。
国民総ドラッグ中毒なのではないかと外国人が思うほど、彼らの興奮ぶりはすさまじい。道を歩く時も、うっかりよそ見をすると、花火攻撃にあったり、ファニージャンパーに追突されたりする羽目になる。夜中に集まって騒ぐ人も多く、騒音の苦情がもっとも多い季節でもある。
控えめで大人しい人たちは、この時期わざと、イシュハから海外へ逃げてしまうほどである。実際イシュハの旅行代理店では、そういう人向けの『静寂を求めて逃避行ツアー』がたくさん売りだされている。
イシュハ中がお祭りモードになり、日昼夜さわがしいこの季節。
首都で開かれるパーティに、アンゲルがなぜか出席することになった。シュッティファントが主催するもので、ヘイゼルが勝手に招待客のリストに名前を書いてしまったのだ。
「俺はバイトがあるんだっつの!」
「いいじゃないか、どうせ一日だけだし、タフサの大学に会場が近いだろ?それに、けっこう有名な心理学者も来るんだぞ?エレノアとシグノーのご令嬢もな」
「学者が来るんなら、まあ……」
「ほんとはエレノア目当てだろ、エンジェル氏」
「うるさい!ティッシュファントム!」
「ティッシュファントムじゃない!シュッティファントだ!パーティの主催者を化け物呼ばわりするんじゃない!」
「お前じゃなくて親だろ!……エブニーザは置いてくんだよね?」
「何をたわけたことを、無理矢理連れて行くに決まってるじゃないか」
「……またシートベルトで縛ったら、俺もお前とは絶交するぞ!」
「まあまあまあ、落ちつきたまえエンジェル氏」
二人がいつものようにこんなやりとりをしているのを、エブニーザはドアの向こうで聞き、真っ青になって震えていた。
そしてパーティ当日。
「エブニーザ!!!」
大地を揺るがすような大声で、アンゲルは目覚めた。
「なんだよ、朝から怒鳴るなよ」
「エブニーザが逃げた」
「は?」
寝ぼけているアンゲルに向かってヘイゼルは『出かけます。夕方まで帰りません』と書いてある紙をつきつけた。
「頭いいね」
アンゲルがにやけた。
別荘で痛い目に会ってるからな、学習してるな……。
「良くない!」
ヘイゼルがさらに大きな声で叫んだので、アンゲルは軽く飛び上がった。
結局、不機嫌なヘイゼルと二人で、会場に向かうことになってしまった。
会場に着いたとたん、アンゲルは、とんでもないことに気がついた。
「ヘイゼル」
「何かな?」
「お前、服装は普段着でいいって言ってたよな?」
「それが何かな?」
ヘイゼルは意地悪くニヤニヤしている。
「どう見ても、みんな、正装だろ!?」
そう、パーティ会場にいる人々はみな、男性はスーツ、女性はイブニングドレス姿なのである。
「いいだろ別に、どうせスーツ持ってないだろ?」
「そういう問題じゃない!」
「ヘイゼル~♪」
アンゲルが怒っていると、ストレートの金髪の女性が、ヘイゼルにとびついてきた。
ヘイゼルはそのまま、女性と一緒に会場の奥に消えてしまった。
一人残されたアンゲルは、二人が去って行くのをポカーンと見送りながら、コミュニティで言われた『首都に愛人が何人もいる』という話を思い出した。
おいおい、本当かよ?
フランシスは何なんだ?ここに来てるんだろ?
はち合わせたらどうするんだよ!?また大げんかか?
「あれが現地妻その4ね」
ふり返ると、姫君クーが、豪華なドレス姿で笑っていた。頭に、ヴェールを巻きつけたような帽子をかぶり、背後には、黒服のボディーガードの姿が見える。
「何だよその、現地妻4って!?」
「あら、知らない?主要都市にそれぞれ違う女がいるのよ」
「えええええ!?」
「驚くことじゃないわ。残念ながらイシュハには、そういうダメ人間がたくさんいるの」
クーは、両サイドについている、いかつい警備を両手で指し示しながら、
「今日はあまり自由に動けないの」
と困ったように笑った。
そのあと、知らない人たち(みんな金持ちそう)がアンゲルに『ノレーシュの姫君と知り合いですか?』とにこやかに声をかけてきたのだが、みな、アンゲルがただの学生だと知ったとたん、そつなく離れて行ってしまった。
どうせ俺は貧乏なただの学生ですよ!!
いじけながら会場をうろつくアンゲルだった。
どう考えても場違いだ。ヘイゼルにだまされて、いつもよりちょっとだけ上質なジーンズ(わざわざ買った、ただし、古着屋で)で来てしまったアンゲルだが、他に、こんなカジュアル、というより、貧乏くさい恰好の人間はいない。
……完全に騙された!!
しかたなくあたりを見回す。彼らはみな自信ありげな、いかにも『私は成功している!』と言わんばかりに輝いている人間ばかりで、思い思いのグループに分かれて話をしている。アンゲルは、いくつかのグループにそーっと近づいて、話題をうかがってみた。一体何を話しているのだろう?女神の祝祭の日に。
その結果わかった主な話題は、政治やファッション、最近の経済のことらしい。
そしてふと思う。
これって、女神アニタにからんだ行事なんだよな?
だれも女神の話をしてないな?
神話の話も……結局イシュハってのはこうなのか?
これが、管轄区の女神イライザの行事だったら、厳粛な雰囲気で、全員が整然と並び、聖書の朗読が始まって……。
ああ、やめだ、そんなこと思い出したくもない。
向きを変えたとたん、変な集団が目に入った。
若い女の子の集団だ。
ただし、他の年配の女性客とは明らかに趣向の違う、ファッションショーのような奇抜な格好をしている。先頭を歩いているのはあのフランシス。ちょっと後ろにエレノア(一人だけ大きな帽子をかぶっているのですぐわかった)が、気まずそうについて歩いていて、その後を、性格の悪そうな……いや、おしゃべりの好きそうな女たちが、きゃあきゃあ言いながら追いかけて行く。
なんだぁ?
エレノアは、アンゲルに気がついたらしく、口と身振りだけで何か言おうとしていた。
『好きでやってるんじゃないのよ!!』
と言っているように、アンゲルには見えた。
「なあ、あの帽子をかぶった女の子は誰?」
後ろで誰かが話す声が聞こえた。アンゲルがふり返ると、イシュハ・ヴァイオレッドのスーツを着た男が二人、エレノアの方を見て話していた。
「シグノーのヒステリー女の友達らしいよ」
フランシス……どこでも有名なんだな、ヒステリーで。
アンゲルはそう思いながら、そーっと男二人に近づいた。
「それは可哀相だな。……あんな綺麗な人見たことがないよ。あとで誘ってみるか?」
「やめとけ、シグノーに噛まれるぞ」
「かまわないよ。どうせシュッティファントの息子とケンカするんだろ、その隙に」
男二人がクックッと笑った。アンゲルは不快になったのでその場を離れた。
やっぱりエレノアって、どこに行っても目立つんだな……。
まあいいや、飯食おう。ほかにやることないし。
そう思いながらドリンクを取ろうとした時、誰かに肩をつかまれた。
「これはこれはエンジェル氏、こんなところで会うなんて奇遇ですな」
ヘイゼルが、不気味なほどにこやかな顔で立っていた。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「ちょっと外に出て話そうじゃないか」
「はあ?」
アンゲルは心の底からの抗議の声を上げた。
「飯食わせろよ!」
するとヘイゼルは、後ろのヴァイオレッドスーツの集団を親指で指しながら、アンゲルの耳元で、
「あいつらから逃げたいんだよ!!!」
と嫌そうにささやいた。
「ああ、そういうこと」
二人で一緒に、会場の外に逃げた。
「さっきの女はどうしたんだよ?」
「ああ、何か、勝手に一人でしゃべって、怒りだして、どっかに行ったな」
「はあ?」
「どこにでもいるんだよ、勝手に何か期待して近づいてきて、相手が思い通りにならなかったら逆上して金切り声を上げながら物を投げてくる、シグノーのご令嬢じゃあるまいし……ああ~やだやだ!もうやだ!」ヘイゼルが、ロビーのソファーに倒れ込みながら叫んだ「いつまでこんな生活しなきゃいけないんだ。俺が何か悪い事でもしたか?」
「……毎日してるだろ」
「第一あいつらは、俺を金のなる木か何かと勘違いしてるんじゃないか?」アンゲルの言葉を無視して、ヘイゼルは延々と話し続けた「観葉植物であるだろ、葉っぱを切って土の上に置いておくと勝手に根が生えて増えてくのが。お手軽な培養方法だ。残念だが、シュッティファントの木はそんな簡単に増えないのだぞ」
「何の話?」
アンゲルには本当に、ヘイゼルが何を言っているのかわからなかった。
「エンジェル氏、勉強ばっかしてないでちょっとは想像力ってものを使えよ。要するに、俺をお手軽な金づるか、成功ツールだと思ってる奴がたくさん寄ってくるのさ」
「要するに、だれもかれも気に入らないんだろ?」
言いながらアンゲルは気がついた。
会場の男性はみな、黒かグレーか、イシュハの国旗と同じ濃いヴァイオレッドのスーツを着ているのに、目の前で偉そうにふんぞり返っているヘイゼルは、異様に目立つ真っ赤なジャケット(もちろん、いつも着ているものとは違って、高そうなフォーマルなものだが)を着ている。
何だろう?
自己主張か?反抗期?単に赤いのが好きなだけか?
「そんなことはない、同じ金切り声でも、シグノーのご令嬢には正当な理由があるし、毎日へろへろに疲れてる癖に、資金援助を受けないくそ真面目なエンジェル氏をからかうのはたいそう楽しいがね」
「……俺もう帰っていい?」
アンゲルはヘイゼルに背を向けて歩き出した。
「まぁ~まあ、待て待て待て」
ヘイゼルがアンゲルの肩をつかんで引き戻し、またソファーにどかっと音を立てて座った。
「お前さあ」
アンゲルがお説教のような口調でしゃべった。
「その、家の名前にこだわるのやめろよ。ティッシュだかシュッティファントだか知らないけどさ。そういうのを自分から外して、自分自身が何かって一回考えてみたら?」
アンゲルがこう言ったのは、ヘイゼルがみんなに思われているよりは『まとも』だと知っていて、変に思われるふるまいを止めてくれることを期待したからだ。
「エンジェル氏」
ヘイゼルの顔から笑いが消えた。
「その質問は駄目だな」
「何で?」
「自分の立場や背景を取って『自分探し』なんてするのは、無駄だ。俺からシュッティファントの影響を取ったら?そんな質問は無効だ。人間、自分だけで成り立ってるわけじゃない。育った国や家や環境と、分かちがたく結びついているもんだ。エンジェル氏だってそうだろう。くそ真面目な国で、信仰という名の思考停止な奴らに囲まれて育ったからこそ、そこから出たいと思ったんじゃないかね?」
「信仰は思考停止じゃない」
アンゲルは強く反論した。女神を信じているわけではないが、ヘイゼルの独断的な意見には、賛成する気になれなかった。それに、管轄区の信仰は、思考停止で説明できるほど根が浅くないのだ。
「まあ、それはいいさ、信じる神が違うからな。でもな、周りを無視して、自分の人格だけ取って考えろって?そんなことばかりやってるから、ただ『欲しい欲しい』だけのガキみたいな大人になるんだよ。そんな発想にはうんざりだ……しかし不思議だな。どうしてあのお堅い管轄区で、エンジェル氏みたいな、羽根の生えている自由人が誕生したのかね?」
「俺に聞かれても困るし、羽根なんか生えてない」
好きであの国に生まれたんじゃないからな!
アンゲルは心の中で叫んだ。ヘイゼルはそれを見破ったかのように、またニヤニヤと笑いだした。
「『自由そうに見える』って言われないかね、エンジェル氏」
アンゲルはびくりと肩を震わせた。
「だったら、何?」
声が震えた。
アンゲルは嫌なことを思い出していた。
クラウスやソレアに『自由そう』と言われたことを。
その不快さ、不可解さを。
「浮わついてるってことさ、立ち位置がないからそうなるんだ。俺に『シュッティファントが云々』言えるような立場かな?少なくとも俺は、落ちついてるよ、自分の場所がどこか知ってるからな。エンジェル氏はどうなのかな?でたらめに羽根をばたばたさせてるだけじゃないのかな?」
「……勝手に言ってろ」
アンゲルは再びヘイゼルに背を向けた。
ヘイゼルはもうほっといて、学者を探そう。
そのために来たんだった。忘れてた。
後ろから、ヘイゼルが何かわめく声が聞こえたが、あえてふり返らなかった。
しかし、言われたことだけは、しっかりと脳裏に刻まれた。
立ち位置がない……。
そのころ、フランシスと一緒に会場に来たエレノアは、フランシスの取り巻きの女性たちと一緒に、フルーツが並んだテーブルを囲んでいた。
「それでね、運営の嫌がらせでマイクの電源が入らなかったのに、エレノアってば、マイクなしで、会場全体まで響くような大声を出したのよ」
フランシスは、席に着いてからずっと、エレノアの話ばかりしている。
エレノアは小声で『やめてよ』と言い続けているのだが、気付いているのか無視しているのか、フランシスが話を止める気配はない。
「すごいわね」
「でもいやがらせなんて怖いわあ」
取り巻きの女性たちは、みんな妙に甲高い声で、作り笑いだと誰でもわかるわざとらしい表情で、大げさに感嘆しながらフランシスの話を聞いていた。
「ご令嬢はご機嫌がよさそうですな!」
ヘイゼルが席に近づいてきた。
「何の用?」
フランシスがきつい目つきでヘイゼルを睨んだ。
「ちょっと来てもらっていいかな?」
「嫌だって言ったら?」
「そう怒るなって」
そして、フランシスがヘイゼルに連れられてどこかへ行ったとたん、テーブルの女性たちが、一斉に安堵のため息をつき、
「あんなのと同じ部屋なんて大変でしょう?」
「いつもこんな風に連れ回されているの?」
「今でも物を投げるんでしょう?」
と、一斉にエレノアに同情し始めた。
驚いたエレノアは慌てて否定した。
「そんなことないわ。確かにたまに怒りだして物を投げることはあるけど……面白い人よ」
エレノアは本気でそう言ったのだが、女性たちは、
「いやだ、私たちにまでそんな嘘つかなくていいのよ」
まるでエレノアを信用していないようだ。
「嘘じゃないわ。本当になんでもないのよ」
「心配しなくてもいいの。私たちは何を聞いても黙ってるから」
ちょっと太めの女性がこう言った。
「私もルームメイトだったの」
「私は12番目」
青いドレスの娘がそう言った。
「私は22人目」
「私は16番目」
「私は8番目」
「私は……」
みなで口々に叫び始めた。エレノアが、よーく目の前の女性たちを見ると、アルターに来た時に見た、ソフトクリーム頭に似た顔が混じっていた(髪型は普通のストレートに変わっていたが)
どうやら、ここにいるのはほとんどが、フランシスの元ルームメイトのようだ。
一度口を開くと止まらないのか、『元ルームメイト』たちは、一斉に、フランシスの悪口を言い始めた。かなり辛辣に。
「とにかくヒステリーなのよ。すぐ物を投げるし、怒鳴るし」
「あの目つき!」
「絶対病気だわ。たまにいるじゃない、生まれつき性格がイカれてる女って」
「そうそう、そういう奴はたいてい目がつりあがっているのよね!」
「どうしてあんなのがシグノーに生まれたのかしら?」
「場末の娼婦でいいじゃないの」
「あんな性格じゃ、娼婦でも稼げないよ」
「けんかしてすぐに刺されて終わりってとこね」
「なまじお金持ちに生まれると、ああいう人が長生きして困るのよね」
エレノアは『そこまで悪い人じゃないのに……』と思いながらも口には出さず、黙って悪口を聞いていたが、そのうち、目の前の女性陣がだんだん怖くなってきた。
この子たち、きっと、私がここを去ったら、ものすごい勢いで、私の悪口を言い始めるに違いないわ……。
エレノアは不思議でたまらない。
どうしてフランシスは、こんな人たちと付き合い続けているんだろう……?
アンゲルは、会場の隅で、高名な心理学者が、一人でワインを飲んでいるのを見つけた。
声をかけようか……でも、俺ってただの学生だしな……。
アンゲルが声をかけようかどうしようか迷っていると、クーが現れて、アンゲルを学者のところへ引っぱって行き、
「私の友達ですの」
と紹介してくれた。アンゲルは喜んだが、クーは去り際に、
「借りはきっちり返してもらうわよ」
と言い残して去って行った。
そのころ、ようやく『フランシスの元ルームメイトたち』から解放されたエレノアが、会場をうろうろしていると、学者とうれしそうにしゃべっているアンゲルを見つけた。
アンゲルにとっては、パーティーも勉強する所なのかしら……。
「誰かを探してるの?」
エレノアがふり返ると、そこには、イシュハ・ヴァイオレッドのスーツを着た男性が立っていた。上品な顔立ちで、エレノアの好みにはわりと近い。
「友達よ」
エレノアが、にっこりと笑いながらアンゲルの方を指さした。
「取り込み中みたいだから、いいの」
「シグノーの友達なんだって?」
「どうして知ってるの?」
「うわさになってるよ。君みたいな綺麗な人が、あんなヒステリーと友達なんて信じられないってね」
エレノアの顔から笑顔が消えた。
「悪いけど、失礼するわ」
エレノアはその場を去ろうとしたのだが、
「待って」
腕をつかまれた。
そこへクーが、にやにやしながら近づいて来た。
「あら、私のエレノアに何をしているの?」
男性が『ノレーシュの姫君』に驚いて、引き下がった。
クーは、まだ学者としゃべっているアンゲルを、白けた目で見やった。
「残念ね。お目当ての男性が取り込み中で」
「そういう言い方やめてよ」
「ちょっと来て」
エレノアはクーに引っぱられて、会場の外に出た。
そこにはクーの、黒塗りの高級車が停まっていた。
「二人で脱走しましょう。おもしろくもないでしょ?」
「でも……」
「エブニーザも来てないし」
「来てないの?」
「早朝に起きて脱走よ。指導したのは私だもの」
「えっ」
エレノアが露骨に嫌な顔をした。
「そんな顔しないでよ。早く乗って、ほら」
エレノアが車に乗ろうとした時、突然フランシスが飛び込んできて、
「早く出して!!」
とヒステリックに怒鳴った。
車は走り出した。
エレノアが後ろを振り返ると、ヘイゼルらしき赤い服の男の姿が見えた。
「何があったの?」
と聞くと、フランシスは訳を話さず、いつものようにすさまじい勢いでヘイゼルの悪口を言い始めた。
「冗談じゃないわよ!品性のかけらもないわね!礼儀ってものを知らないのよ!」
「いつものことじゃないの……パーティの恒例行事よね、あんたたちのケンカって」
クーは楽しそうに軽口でからかっていたが、エレノアは、ヘイゼルが可哀相だなあと思った。そして、フランシスにしようと思っていた『どうしてあんな人たちと付き合うの?』という質問を忘れてしまった。
パーティも終盤に入った頃、アンゲルは、酔いつぶれた学者を、同じ建物の上の階にある客室に運び、逃げるように会場を出た。
この学者、タフサと同じか、もっと有名な、精神医学の権威のはずなのだが、自分の話を延々としたあげく、飲み過ぎで寝込んでしまったのだ。
……やっぱり来るんじゃなかった!!
廊下を歩きながら、アンゲルは一人、自分に腹を立てていた。
そうだよな、ティッシュファントムの行事なんて、かかわったってろくなことになるはずもないよな。どうしてそれくらい判断できないんだ俺は!?
ロビーの椅子に座って、通る人を観察する。
みんな立派そうだ。
金持ちかどうかは知らないが、少なくとも『自分の立ち位置を持っている』人たちなのだろう。
……と思ったら、白髪の学者めいた男性数人が、ロビーでファニージャンプをしているのが目に入った。跳ねるたびに両手を振り上げたり、白目をむいてのけぞったりしている。
見ている方は全く面白くないが、あれでもジョークのつもりなのだろう。妻なのか同僚なのか、白髪の上品そうな女性が、彼らにカメラを向けてにこにこしている。
……イシュハ人って、大人になってもガキくさいな。
アンゲルは、管轄区の親せきや、近所の『白髪の男性』を思い出してみたが、気でもふれない限り、飛び跳ねて変なポーズなんてしそうにない。あちらでは大人というのは『落ちついて、知的で、バカなことは絶対しない人たち』の事を言うのだ。
もういちど、飛び跳ねている『お爺さん』たちを見る。
ばかばかしいが、本人たちは楽しそうだ。
……俺は将来、どうなるんだろう?
アンゲルには、自分の未来が、まるで想像できなかった。管轄区に戻って親と同じ仕事なんて、絶対にしたくなかったが、かといって、このままイシュハで勉強したところで、将来何か職に就けるとも思えない。
深刻に考えこんでいると、ヘイゼルがやってきた。
「ご令嬢とエレノアは、姫君の高級車で逃げたよ。ったく、用意のいい女どもめ」
「えっ!?」
エレノアを探すつもりだったアンゲルがショックを受けた。いや、今までエレノアの存在なんてすっかり忘れていたのだが。
「残念でしたな。せっかくの女神の祭りだったのに。手をつなぐ相手がいなくなって」
「どういう意味?」
「知らない?我らが忘れられつつある女神アニタ様が、右手に男性、左手に女性の手を取って、二人は結びついたという、あの日なんだよ、今日は」
「……そういえば、そんな神話あったっけ」
アンゲルはすっかり忘れていた。学校で習ったのだが、この神話は女神イライザとは関係がないので、管轄区の学校では軽く触れただけで終わっていた。
エレノアが……。
がっくりと落ち込んでいるアンゲルに、ヘイゼルが追い打ちをかけるように、
「もっとちゃんと調べておくんだったな。せっかくエレノアを捕まえるチャンスだったのに、酒飲みのジジイの話なんか熱心に聞いてるんだから、エンジェル氏は困るね」
せせら笑うような笑みを浮かべた。
「うるさい!ティッシュファントム!!」
「ティッシュファントムじゃないって言ってるだろうが!」
「君たち」
会場の職員が近づいてきた。
「掃除の邪魔だから、出て行ってくれないかな。それとも手伝うかい?」
パーティはとっくの昔に終わって、清掃業者が入り始めていた。二人は慌てて会場を出て車に乗ったが、ヘイゼルは延々と文句を言い続けていた。
「なんだあれは、俺が何者か知らんのか?何が手伝うかいだ!!厳重に苦情を申し立ててやるぞ!!いや!あんなやつは解雇してやる!!」
「だから、そういう態度を改めろって言ってるんだよ!」
二人の言い合いは、アルターに着くまで続いた。
エレノアたちの乗った車がアルター内に入った。
「あら、エブニーザ!ちょっと止めて!」
クーが窓の外を見ながら叫んだ。エレノアも同じ方向を見る。
エブニーザが本を何冊か持って、嫌そうな顔でこちらを見ていた。
「乗りなさいよ」
クーが声をかけてドアを開けたが、エブニーザは気が進まない様子で、
「いいです」
と言って、歩き出した。しかし、フランシスが
「早く乗れ!」
と怒鳴り始めたので、仕方なく、怯えた表情で、前の席に乗った。
男子寮の前でエブニーザは降ろされたのだが、ちょうど、アンゲルとヘイゼルも帰ってきたところだった。
エレノアとエブニーザ!
アンゲルは、二人(他の2名は目に入らなかったらしい)が一緒にいるのを見ていじけてしまい、ヘイゼルもなぜか機嫌が悪く、部屋に戻ってからもみんな黙り込んだまま、気まずい空気が流れていた。
そこに電話がかかってきた。
アンゲルが出ると、エレノアだった。
『あのー……』
何を話していいのかわからないような、何かを躊躇している様子だ。
「何か用?」
アンゲルは不機嫌な声で尋ねた。またエブニーザじゃないだろうな?
『フランシスよ!!』
突然思い出したようにエレノアが叫んだ。
『そう!そう!フランシスが変なの。ヘイゼルに何か聞いてない?二人で行動してたみたいだし』
「変?」
『黙りこんでぼんやりしてるの』
「疲れてるだけじゃないか?」
『ヘイゼルは?』
「……今いないから聞いて、かけ直す」
アンゲルは電話を切った。
「おい、3人ともいるだろ、何だよ?」
ヘイゼルがソファーにもたれたまま文句を言った。
「フランシスの様子がおかしいんだって、何かやったの?」
「押し倒してキスしたらぶんなぐられた」
「ハァ!?」
アンゲルが驚いてふり返ると、エブニーザも、怪訝そうな顔でヘイゼルを見ていた。
「いいだろ別に、パーティなんだから。年に一度の。しかも女神の神話で……」
「良くないだろ!」
「だめですよ!」
アンゲルとエブニーザが同時に叫んだ。
「ったく、教会っ子が揃って何を驚いてるんだよ?」
また長々と話し始めるかと思ったのだが、ヘイゼルは立ち上がって、自分の部屋に戻ってしまった。
「……何か変じゃないか?」
「変ですね」
エブニーザが真面目な顔で言った。
「ふられたんでしょうか?」
「俺に聞かれてもなあ……」
アンゲルは、女性の集団の先頭を歩いていたフランシスと、後ろに着いていたエレノアを思い出した。
そうだ、エレノアにあとでかけ直すって……正直に話していいのか?
フランシスが落ち込んでいる。
窓のそばに座って、ぼんやり外を見ている。そして何もしゃべらない。
大変珍しく、不気味な事態である。
エレノアはアンゲルからの電話を待っていたのだが、いつまでたってもかかってくる気配がない。
どうしてだろう?何も聞き出せなかったのかしら?それとも、話せないようなことをしたのかしら……?ヘイゼルなら、何をやってもおかしくないけど……でも、フランシスが文句も言わずに黙りこんでいるなんて。
夜になっても、次の朝になっても、フランシスは静かだった。
朝になっても起こしに来ない。部屋にこもって寝込んでいるようだ。
夕方になって、エレノアが練習から帰っても、窓辺でぼんやりしていたので、
「帽子を買いに行こう!」
エレノアが叫んだ。フランシスが不思議な顔で振り向いた。
「帽子?」
「次のステージでかぶる帽子がないの!!」
「たくさん持ってるじゃないの」
「ドレスに合うのがないんだってば!!」
エレノアは強引に言い続けた。すると、フランシスは戸惑いながらも、好みの店をいくつか挙げたので、エレノアは全部回ることにした。
着替えたエレノアが部屋から出て来た時、自分宛の手紙がテーブルに置かれているのを見つけた。
うちの母だわ。何だろう?
読んでみると、
『あたしたちと、フェンキの曲芸師たちで、アルターで芸を披露するんだよ。許可が取れたから、駅前の路上でやるよ。見に来なさい。ポトラも連れてるし、久しぶりに会えるね』
と、アケパリ語で書いてあった。
しかもその公演の日付は、今日だ!
しかも、開幕まであと数時間しかない。
「うちの両親がアルターに来るのよ!!」
エレノアが叫んだ。部屋で着替えていたフランシスが、中途半端に上着をかぶったまま、飛びだしてきた。
「ほんと?」
「しかも今日で、もう時間がないの!!」
エレノアがフランシスに手紙を突き付けた。
「急がなきゃ!!」
二人であわてて寮を飛び出した。
エレノアの両親が、アルターにやってきた。
駅前に到着した時には、芸人の姿が見えないくらい、たくさんの人が集まっていた。エレノアとフランシスが人をかきわけて前に出ると、見覚えのあるフェンスに当たった。
「このフェンスがあるということは、ポトラが出るのよ!」
エレノアが興奮して叫んだ。
「ポトラって?」
「レッドタイガーよ!一緒に育ったの!!」
「虎と一緒に育った!?」
フランシスが叫ぶと同時に、巨大な一輪車に乗ったピエロが現れた。
「お父さぁーん!!」
ピエロに向かってエレノアが叫んだ。フランシスは目を丸くして、巨大な車輪のはるか上(落ちたら確実に即死だ)に乗っている、やせぎすの変なピエロを見上げた。
あれがエレノアの父親?
フランシスが想像していた父親像(絶世の美男子、だってエレノアが美人だから!)とは、あまりにもかけ離れていたので、フランシスはその事実をすぐには信じられなかった。
エレノアの父は、一輪車に乗ったまま、新体操のような芸を披露し、帽子から手品のようにキャンディを取り出すと、車輪の上から観客に向かって投げはじめた。そのうちのいくつかは、エレノアとフランシスの頭に当たった。
一輪車ピエロが退場した後、フランシスをもっと驚かせる人物が現れた。
コミックに出てくるスーパーヒーローのような、筋肉のついた、それでいて女性的なラインを保った、肉感的な黒髪の女性が現れた。体にぴったりとくっついたセクシーな衣装で、フラフープと、火のついたたいまつを掲げながら、観客を挑発的な目で見回している。
彼女の向いに現れたのは、レッドタイガーという、オレンジ色の毛をした虎だ。
「まさか、あれが母親とか言わないわよね?」
フランシスが弱り切った声で言うと、エレノアは、
「そうよ。あれがヤエコ・ノルタよ」
いたずらっぽくウインクしながら言った。フランシスは息をのんだ。
ヤエコ・ノルタは、レッドタイガーのポトラ相手に、闘牛のような芸を披露した。
火のついたフラフープを掲げ、レッドタイガーが炎の輪の中を通り抜ける。
どっと歓声が起こる。
「本当に、あれ、あんたのお母さんなの?」
フランシスが囲いから身を乗り出すようにして叫んだ。
「ええ、そうよ」
「全然似てないわね。魔女みたいに見えるわ」
どうしてあの二人から、エレノアみたいな子が生まれるんだろう……?
フランシスには、それが、どうしても理解できなかった。
レッドタイガーが退場した時、ヤエコがエレノアのところにやってきて、
「あんたも仕事して」
と言うと、そのたくましい腕で、エレノアを囲いの中に引きずり込んだ。客からどっと、笑い声と歓声が聞こえた。残されたフランシスは、何が起こるのかと、じっと、怯えた顔でエレノアを見つめていた。
フェンキの曲芸師たちが、アコーディオンと変な形の笛を吹き始めた。
エレノアはそれに合わせて、昔からよく知っている歌を歌った。豊かな音色が会場を満たした。
曲の終わりと共にエレノアと曲芸師がお辞儀すると、観客がすさまじい喝采を浴びせた。父ミゲルと母ヤエコが並んで出て来て、二人で、自慢するようにエレノアを高く担ぎあげた。また歓声と拍手が沸き起こった。
……あの親子にして、エレノアありなのね。幸せそうだわ……。
フランシスはこの『へんてこりんな親子』に驚きあきれつつ、陽気で自由そうな一家を羨ましく思っていた。
実は、この会場に姫君クーがお忍びで来ていたのだが、通行人にばれてしまった。
「ノレーシュの姫君だ!」
人混みの後ろで歓声が上がった。エレノアとフランシスは驚いた。
「クー!?」
フランシスが声がした方向に向かって、人混みをかきわけて進んでいくと、黒塗りの車が、人に囲まれて立ち往生していた。
「どいて!どきなさいっつの!」
フランシスが人をかきわけて、車の窓をたたくと、
「あんたも乗る?」
クーののんきな声が聞こえた。
結局、みんなでクーの車に乗った。車は人混みの中を発信し、よけていく人々の中をゆっくりと進み、離れて行った。
「まさかうちのエレノアが、一国の姫君とおつきあいしているとは」
車に乗ってほっとしていたエレノアは、後ろから父ミゲルの声がしたので、驚きで飛びあがった。
最後列を見ると、なんと、ミゲル・フィリとヤエコ・ノルタが、ちゃっかり車に乗っていた。
「いつのまに乗ったのよ!?」
「だってぇ、大騒ぎになっちゃったし、姫様を一回生で見たかったんだもん」
悪びれもせずにヤエコが答えた。エレノアが呆れていると、
「いいじゃない。面白くて」
クーが後ろの座席を見ながら笑った。
「せっかくだから、うちに遊びにいらっしゃいよ」
「どうやって知り合ったんだよ?ん?姫様と?ああ?」
ミゲルがエレノアに詰め寄った。ピエロの顔で傍に寄られると怖い。
相手が姫君だと知っても態度が全く変わらない両親に、エレノアは困ったが、クーは逆に二人が気に入ったようだ。
クーの部屋に案内されてすぐ、ヤエコが、
「どうなの、うちの姫君には変な虫はついてない?」
と、フランシスに向かって尋ねた。フランシスがにやりと笑い、クーの部屋の電話を取った。
アンゲルが出た。
「エレノアのご両親がアルターに来ているの、6時に歓迎会をやるから、図書館のカフェに正装でいらっしゃい。エブニーザも連れてね。遅刻したら殺すわよ」
そう言って電話を切った。
「フランシス!」
エレノアが叫ぶが、フランシスはニヤニヤしている。
「ふふふ、大変ですよお母様。未来の旦那候補が二人来るわ。あ、先に言っておきますけど、ヘイゼル・シュッティファントにはかかわらないほうがよろしくてよ」
「シュッティファント!?」
ミゲルが大声を上げた。
「あのシュッティファントか?どんな顔をしているか見てみたいもんだな!」
困惑するエレノアだったが、今度はクーが満面の笑みで電話し、
「6時から貸し切りにしてちょうだい」
と注文を始めた。
お嬢様たちは、いつだってやりたい放題だ。
エブニーザが、図書館に行こうと部屋を出ると、そこには、受話器を持ったまま、凍りついたように立ち尽くしているアンゲルがいた。
「あのー、どうしたんですか?さっきから止まってますけど」
エブニーザは、本をアンゲルの目の前で上下させながら、心配そうに顔を覗きこんだ。
「エレノアの親父がここに来る」
「えっ?」
「お前も行くんだ!図書館のカフェで6時だぞ!遅れたらフランシスに殺されるぞ!俺はスーツを買ってくる!!!」
アンゲルが外に飛び出して行った。
エブニーザは何の話だかわからず、図書館に行こうとしたのだが、そこにヘイゼルが帰ってきた。
「エレノアのお父さんが来るそうです。フランシスがからんでるみたいなんですけど」
それを聞いたヘイゼルは、フランシスに電話をかけたが、誰も出ない。
「いないな……」
「6時にカフェに来いって言ってましたけど……」
「ほほう」
ヘイゼルが何か企むようににやにやし始めた。
「シグノーの令嬢め、魂胆は読めたぞ」
歓迎パーティ。
エレノアの父ミゲル・フィリには、特別な才能がある。
『娘に気がある男を一瞬で見抜く』のだ!!
この日も、アンゲルがエレノアを見る目つきから、
『娘に気がある!!』
とすぐにわかり、(エブニーザについては『心配いらない』こともすぐに気がついた)酔ったふりをしてアンゲルに絡んできた。
「お前は本を読むのか」
「え?」いきなりからまれて驚き、アンゲルの声が引きつった「ああ、読みますけど……」
「小説は読むか?」
「えーと、読まないですね、学校では心理学とか医学が専攻なので……」
「最近の小説は何でもあからさまに描きすぎる」アンゲルの言葉が聞こえていないかのように、ミゲルは勝手に話し続けた「なあ、セックスとか恋愛っていうのは、ひどく個人的でデリケートな問題じゃないのかね?なのに、最近は簡単に、だれとやったとか、誰を妊娠させたとか書きやがる。自慢するようなことか?己の低俗さをひけらかしているだけさ。もっとウィットに富んだ話題や、上品で美しい表現があるだろう?本当に腕のいい作家ならね」
苦手な話題に青ざめているアンゲルに向かって、ミゲルはさらにこう言った。
「君はどうなのかね?女と寝たことはあるのか?まさかどっかのお嬢さんを妊娠させたりしてないだろうな?ん?」
……このオヤジ、俺の苦手な話題をわざとふってるんじゃないか?
管轄区では、こういう話題自体がタブーなのだ。前にも説明したが、女性の裸を想像しただけで『罪』で、人によっては延々と懺悔するほどなのだ。
ミゲルが卑猥な話を(もちろん、わざと)している間、アンゲルはずっとイライラしていたが、もちろん顔には出さない……つもりだったが、目元と口元が引きつってピクピク震えていたので、それに気づいたヘイゼルが、ニヤニヤと笑いつつも、
「教会っ子にそういう話題はだめですよ」
と忠告した。そして、フランシスに近づこうとしたが、フランシスは彼を避けるようにクーのほうに歩いて行き、ワイングラスを手に取った。
「ご令嬢は機嫌が悪いのかな?」
「別に何でもないわよ」
ヘイゼルに背を向けたまま、フランシスがつぶやいた。ヘイゼルは珍しく何も言わず、ニヤニヤしながらその場を離れて行った。
……変ね、いつもならここで言い合いが始まるのに。
「今日は物を投げないの?」
クーが素朴な疑問を口に出すと、フランシスが無言で鋭い視線を向けてきた。
そのころ、エレノアの母ヤエコはというと、エブニーザの肩にがっちりと腕を回して、逃がさないようにつかまえて、
「かわいい子だねえ。こういう子はめったにいないわよ。うちのエレノアがいやなら私なんてどう?」
……要するに、遊んでいた。
彼女から見てもエブニーザは『天使のように可愛い美少年』なのだ。
しかし、エブニーザは、真っ青な顔でひきつった作り笑いを浮かべながら
……どうやって脱走しよう?
しか考えられなかった。
あまりにも気まますぎる両親に、エレノアは頭を抱えていた。
クーが傍に寄ってきて、愛しげな眼をしながら、
「おもしろいご両親ね。見てると笑えるわ」
と、おもしろがって言った。
エレノアは、走って寮に逃げ帰りたいと思い始めた。
「あんたの親は面白くていいわね」
フランシスはうらやましさを隠さずに、気ままな両親を見つめていた。
「ヘイゼルはどこ?」
「ヘイゼルなんてどうでもいいでしょ」
「そうだけど……」
エレノアは『何か変……』と思ってあたりを見回したのだが、ヘイゼルの姿が会場になかった。
そうだ、アンゲル、電話してって言ったのに!!
エレノアがそんなことを思い出して会場を見渡したが、アンゲルと父ミゲルの姿も見えない。
母ヤエコに近づくと、エブニーザが飛びあがるように走りだし、外へ逃げて行った。
「あらやだ。うぶなんだからもう……」
逃げたエブニーザの方を見ながら、ヤエコが残念そうな顔をした。
「お父さんはどこ?」
「ああ、なんか、あんたに気のある少年を連れてどっかに行ったよ」
「えっ?」
「かわいそうに、一晩中飲まされるよ。そんで、変な話を吹きこまれて、あんたに近づかなくなるんだ……それとも、持ちこたえるかねえ」
ヤエコはそうつぶやくと、にやにやしながら、アケパリ語で、
「で、あんたはどの子が本命なの?」
とささやいた。
エレノアがぎょっとした顔をすると、ヤエコはさらに楽しそうに、アケパリ語でエレノアに耳打ちした。
「白い目の美少年?管轄区の真面目な子?それとも、レズビアンのお姫様?」
「えっ?」
「アケパリのワイドショーで言ってたよ。ノレーシュの姫君はレズだって」
「そんな話をここでしないでよ!」
「私は自由な人間だから、どれを選んでもあんたの味方。ささ、白状しなさい」
「どれでもないってば!!」
エレノアはそう叫ぶと、いつまでもニヤニヤしている母から離れた。
お父さんも、きっと何かを疑っているんだろうな……。
だからアンゲルを連れて行ったんだわ!
違うのに。私は……。
私は?
私、誰が好きなの?
誰かが好きなの?
何でもないの?
いや、アルターに来たのは歌を歌うためのはず……。
眠い。
だるい。
頭が重い。
吐き気がする。
アンゲルはそう思いながらも、必死で眠気と戦いながら、本のページをめくっていた。
昨日、エレノアの父親につきまとわれて、ラベルも読めないような異国の酒をむりやり飲まされ、聞きたくもない猥談(普通の管轄区人に聞かせたら、発狂して死ぬかもしれない凄まじい話)を延々と聞かされ、寮に帰って来てからも全く眠れなかったのだ。
しかも、話をそらそうと、エブニーザの話をすると、
『ああ、あれは問題ない』
と真顔で言われてしまった。
問題ないって何だ?親公認か?
幸い、あの『すさまじい両親』は、次の公演があるからと、早朝にアルターを離れたのだが……。
あんなとんでもない親父がいるとは思わなかった。
アンゲルは悩んでいた。
どうやって説得しよう……。
待て、
何を説得するんだ?
ああ、だめだ、頭が変になってきてるぞ……。
全く集中できないまま勉強していると、エブニーザが部屋から出てきて、
「僕のどこがおかしいのか、教えていただけませんか?」
と聞いてきた。アンゲルは、
「まず、その丁寧な話し方をやめろ。俺は国家元首でも雇い主でもない。ヘイゼルみたいに横柄なのもまずいけど、もっと普通に喋れよ」
「そうですか……」
「だからその『そうですか』をやめろって……何で急にそんなことを聞こうと思ったの?」
「普通の人間になりたい」
「は?」
アンゲルの呆れた顔を見て、エブニーザは落ち込んだような顔で自分の部屋に戻ろうとしたので、アンゲルはあわててその背中に向かって、
「あとで紙に書いて部屋に投げ込んどいてやる!」
と叫んだ。
勉強を再開したが、今のエブニーザの態度が気になって集中できない。
そのうち、ヘイゼルが戻ってきたので、その話をすると、
「それは面白そうだ」
と、自分の部屋から、金色の装飾が入ったきれいな便箋をもってきた。
「何だよ、この成金趣味な紙は」
「大事なことは、こういうのに書いたほうが気合が入るだろ?本物の金だぞ、このへんは」
二人でエブニーザの悪口を書きまくった。
最初は二人とも楽しんでいたのだが、部屋中を便箋だらけにして、しばらく書かれたものを眺めていると、とんでもない意地悪になった気分になってきた。
「なあ、これだけじゃなんの解決にもならないから、対策も書いてやろう」
そして、また二人で好き勝手に書き始めた。
そのうち、ヘイゼルが、アンゲルの悪口を別な紙に書き始めたので、アンゲルも対抗してヘイゼルの悪口を書きまくった。
そんなことをしているうちに、夜がふけていく……。
フランシスは、エレノアの服の趣味の古さに呆れていた。
ポートタウンに買い物に行こうと誘ったら、また古い衣装を広げはじめ、
「これは80年前の舞台衣装で、この布地は貴重品だから今は手に入らなくて……」
などと言い始めたからだ。
「古物商の品定めじゃないでしょ!!100年戦争はとっくの昔に終わったのよ!!」
フランシスは、エレノアをまたセカンドヴィラに連れて行った。もちろんクーもついてきた。ちょうどロックミュージシャンの衣装が流行っていて、あまりの露出の多さにエレノアはびっくりするが、試着室から出てきたクーが、かなり派手なパンクロックスタイルの服を着て、変なポーズをつけたので、
「あんた、その格好をおたくの国民が見たら泣くわよ」
フランシスはおもしろがっていた。
フランシスは、エレガントなドレスや『上流階級にふさわしい上品なもの』が好きで、エレノアにもそれを勧めたが、クーは、
「そんなの似合わない。もっとかわいらしいのが似合うわ」
と、レースをふんだんに使ったドレスを持ってきた。
二人とも、自分の服選びよりも、エレノアの服を選んで着せるのが楽しいようだ。
エレノアは、つぎつぎと服を持ってくるフランシスと、着替えを覗きこんで、
「手伝いましょうか?」
「ブラがはずしたくなったら言って」
ニヤニヤするクーに困惑しながらも、ショッピングを楽しんだ(と言っても、エレノア自身はほとんど買い物はしなかったのだが)
セカンドヴィラにはシグノーの別荘があるので、三人でそこに泊まった。
事件はその夜に起きた。
夜中に、エレノアの部屋にクーが入ってきて、エレノアが寝ているベッドにもぐりこんできた。
「どうしたの?」
目を覚ましたエレノアが寝ぼけた顔で言った。
「眠れないの?」
エレノアは、前にフランシスが部屋に入って来た時の事を思い出してそう言ったのだが、クーの事情はそれとはだいぶ違っていた。
クーは黙って、エレノアを抱きしめ、驚いている両目を愛しげに覗きこんだ。
「エブニーザのような、美しい少年に生まれたかったわ。そしたら……」
クーがエレノアの頬を撫でる。
「あなたをものにできたのに」
頬を撫でていた手が下に降りてきた。肩から胸を伝って、腰、そして……。
エレノアは、心臓が、早鐘のようにがんがんと打つのを感じた。二人の身体がぴったりとくっつき、クーの胸が自分の胸に押し付けられていた。
クーは両手でエレノアの顔を包むようにして、キスをしはじめた。
エレノアはショックを受けてしまい、抵抗できない。悲鳴を上げて逃げようかと考えるが、体が全く動かない。
「冗談よ」
怯えきっているエレノアに向かって、クーは笑いかけ、身を離すと、ベッドから起き上がり、出て行った。
混乱したエレノアは、当然、いつまでも眠れなかった。
朝。
エレノアがコーヒーに口をつけるのを、ニヤニヤと待ち構えていたフランシスは、
「で?クーと何してたの?」
とささやいた。
エレノアのカップから『ゴボッ』という音がした。
「あ、ごめん、間違えたわ。クーに何されたの?」
「フランシス……」
楽しそうなフランシスを、真っ赤になったエレノアがうらめしそうな目で睨んだ。
「何よ、まさか本当にやられたんじゃないでしょうね?」
「フランシス!」
エレノアが叫びながら勢いよく立ち上がった。フランシスは驚いたのか、
「ごめん」
とつぶやいて下を向いた。
クーは早朝に用事があると言って出かけたそうだ。
帰ってきたらどうしよう?
エレノアは悩む。そして、
「で?ほんとは何されたの?」
と興味津津のフランシスを、強烈な目つきでにらみつけた。
朝、便箋が散らばっている部屋の電話が鳴り、アンゲルが半分ねぼけて出ると、エレノアだったので、一気に目が覚めた。
アンゲルが『エブニーザの欠点』を聞いてみると、
「うーん、綺麗なのに、人に会うとびくびくしているところ?あの顔で堂々としてたら、すごくステキよね。きっともてるのに」
セカンドヴィラのお土産は何がいいか、と聞かれたので、てきとうに答えて電話を切ると、アンゲルはエブニーザの欠点一覧から、
『びくびくしすぎ……もっと堂々とふるまえ!』
と書かれている紙を取り出し、ゴミ箱に投げ捨てた。
ヘイゼルの姿が見えないことに気がついたアンゲルは、エブニーザの部屋のドアをたたいてみるが、こちらも反応がない。
アンゲルは、エブニーザについて書かれた便箋を集めてドアの前に置き、自分は着替えて寮を出た。
バイト先ではまたソレアに『一緒に映画に行こう』と誘われたが、
「映画にいい思い出がない」
ヘイゼルが暴れ、映画館の職員に睨まれたことを思い出した。
「ねえ、別に付き合ってなくたって、ちょっと一緒に遊ぶくらいいいじゃない!」
ソレアはなかなか引き下がろうとしない。
「そんなこと言うんなら、私がアルターに行ってやる」
とまで言われ、アンゲルはぞっとした。
「なんでそんなに強引なんだよ?教会っ子らしくないな」
「アンゲルだって」
アンゲルは相手にしないことにした。しかしソレアの話はまだまだ続く。
「アンゲルの好きな子ってどんな子?」
「うるさい」
「ねえ、私たちは管轄区の人間よ?イライザ様の信徒なのよ?今イシュハにいるけど、いずれ帰るのよ?帰ったら、またつまらない、代わり映えのしない人生しか送れない。同じような家の人と結婚して、同じように子供ができて、同じように同じ時間に仕事に行って帰ってきて、同じように死んでいく」
「同じじゃない、一人一人違うよ、人生は」
アンゲルは、自分で言いながら『うそくさい』と思った。
アンゲル自身も思っているではないか。
『つまらない国だ』と。
「どうせ同じような人生を送るなら、少しでもましな相手を選びたいと思わない?アンゲルも私も、あの国とは違う文化を知ってる。少なくとも、国を一度も出たことがない女の子より、私の方が面白いわ。違う?」
「俺は管轄区に帰らない」
アンゲルは無表情でつぶやいた。
「帰らない?」
「こっちで就職するよ」
「本気?」
ソレアは疑っているようだ。アンゲルは答えない。
「じゃあ、私も残る」
「はあ?」
「こっちで結婚したって言えば、うちの親だって帰ってこいとは言わないかも」
「おい、どうしていきなりそんな話になるんだ?」
「だめ?」
「俺はいやだ!」
「そんなにはっきり言わなくてもいいじゃない!」
ここで、店主に『うるさいぞ!しゃべってないで手を動かせ!』と怒られた。
帰り、やっと解放されると思って店を出ようとしたアンゲルに向かって、ソレアが、店中に響く大声で叫んだ。
「ねえ、管轄区人は不気味がられてるから、他の子に手を出しても相手にされないわよ!潔く私にしなさい!」
店にいた客がヒューとひやかす声が聞こえた。
アンゲルは、全力疾走で、その場から逃げ出した。
帰ってきたエレノアが、おみやげを持って図書館に行くと、いつもの資料室で、エブニーザが、紙の束を見つめながら難しい顔をしていた。
「それ何?」
と覗きこんだエレノアに驚いて、エブニーザは束を胸元に隠したが、エレノアにはもう何行か見えていた。
悪口?
「何なの?誰か書いたの?ひどいわね」
「違います。アンゲルとヘイゼルに頼んで、僕の欠点を書いてもらったんですよ」
「……どうして?」
「直そうと思って」
「見せて」
「嫌です」
「あの二人が書いた内容なんて、正しいかどうかわからないじゃないの!」
エブニーザが嫌そうに紙の束を差し出す。
エレノアはそれをざっと読み……。
「何よこれ!ただの悪口じゃないの!」
怒りだした。
「でも、ちゃんと対処法も書いてありますよ」
「だめよ、こんなの信じちゃダメ!」
「じゃあ僕はどうすればいいんですか?」
エブニーザが泣きそうな顔をしていた。
エレノアは一瞬言葉に詰まった。
「どうって……ねえ、まず敬語で話すのをやめるの。それと、もう少し堂々とする。それだけで十分よ。今のあなたはもう、いいところをたくさん持っているわ。物静かで、知的で、ヘイゼルみたいにすぐ人をからかったり怒鳴ったりしないし……」
エレノアは紙の束を持って立ち上がった。
「これは没収します」
「えっ……」
呆然としているエブニーザを置いて、エレノアは早足で部屋を出て、図書館の出口にあるゴミ箱に、乱暴に紙の束を投げ捨てた。
一体何を考えてるのよ!ヘイゼルも、アンゲルも……そうだ、アンゲルがこんなことをする人だとは思わなかった!!
エレノアに紙の束を取られ、ぼーっとしていたエブニーザのところに、思いつめた表情のクーがやってきた。
クーは、無言でエブニーザのとなりのイスに座り、エブニーザの目を覗きこんだ。
「何ですか?」
尋ねたとたん、クーはエブニーザにキスしようとした。
エブニーザが後ろに飛びのき、
「何を……」
と怯えた顔をすると、クーは、
「私には相手がいない、あなたの『彼女』はどこにいるかわからない……ちょうどいいでしょ」
妖しげな目つきでエブニーザに詰め寄った。
「ここなら、誰も来ない」
「でも、ヘイゼルが来るかもしれないし」
エブニーザは壁際まで後退したが、クーは追いつめるように寄ってきてエブニーザに手を伸ばした。
その瞬間、エブニーザは、何か別のものが見えたかのように目を見開いたかと思うと、
「僕は女の子じゃない!」
と叫んで、クーを思い切り突き飛ばした。
クーは床に崩れ落ち、衝撃を受けた顔でエブニーザを見上げた。
「知ってたの?」
エブニーザは震えながら荒い息をしていて、落ちつこうとして息を深く吸ったが、失敗してむせ始め、床に座り込んでしまった。
クーはエブニーザのそばまではっていき、激しく咳き込んでいる背中をさすった。
そのうちに、クーの目から、涙がとめとなくあふれて来て、床にぽたぽたとしずくが落ちた。
「クー……」
ようやく咳がおさまってきたエブニーザは、クーが泣いているのに気づき、クーの肩に手をまわして、抱きしめるように自分の肩に引き寄せた。
二人はしばらく、無言で寄り添い合っていた。
形は違うが、二人とも、この世界との、どうしようもない不協和音を抱えていて、静寂のなかに身をひそめてそれを和ませようとしているようだった。無限の夢、有限の静寂。
無駄な試みだとは、二人ともわかっていた。
でも、無駄だったら、何だと言うのだろう?
どうしようもなくても、何かせずにはいられない……。
少なくとも、この時の二人はそうだった。
数時間後、ヘイゼルがエブニーザを探しに来たころには、二人ともいつものように、古代の怪しげな本をめくりながら、ノレーシュ語で、二人にしかわからない昔話をしていた。
次の日。
アンゲルは、図書館のカフェで、ソレアの話を思い出してぼんやりしていた。
『管轄区人は不気味がられてるから、こっちの女の子には相手にされないわよ!』
本当にそうなんだろうか。
確かに『狂信的なイライザ信者』はみんな不気味で気持ち悪いと、アンゲル自身も思っていたのだが、自分だけは違うと思っていた。
でも、イシュハ人から見れば、アンゲルも立派な『管轄区人』なのだ。
……そういえば、エブニーザも管轄区の人間だよな。そんな感じがしないな。妙に綺麗だし、祈ってるのを見たことがないし……。
そして、エブニーザが『普通の人間になりたい』と言っていたのを思い出す。
『普通』って何だ?
何を基準にしてそんなことを言ったんだ?管轄区か?でも、ソレアや『気味の悪いイライザ教徒』が『普通』だとは思いたくないな。
イシュハ人か?
イシュハ人って普通か?ヘイゼルはどう考えても普通じゃないし、イシュハが正しいとも思いたくないな……。
考えれば考えるほど、いろいろなことが複雑に絡まって、わけがわからなくなってしまった。
アンゲルが憂鬱な顔で座っていると、エレノアがやってきて、
「一体何を考えてるの!」
と、エレノアらしくない甲高い声で叫んだ。
何の事だろうと思ったら、エブニーザに渡した紙の束の話だった。
「違うって、あいつが書いてくれって頼んできたんだよ。普通の人間になりたいとかどうとか……」
「あなたがそんなことをする人だとは思わなかったわ!!」
「そんなことって……あのなあ、半分はヘイゼルが書いたんだぞ。それに、どうしてエレノアが怒るんだよ?そんなにエブニーザが……」
アンゲルが目をそらした。
「いや、そんなことはどうでもいいや。でも『普通の人間』って何だろうな?俺は今日それをずっと考えてて、授業をほとんど聞いてなかった。たぶん『こういうのがまともな人間だ』というイメージがあいつの中にある。でも、そのイメージと、今のエブニーザ自身が合わないんだ。自分じゃない何かに必死に合わそうとしてる感じがする」
「まともな人間……」
エレノアも怒りが収まったようだ。静かに、アンゲルの向かいの席に座った。
「エブニーザじゃなくて、ヘイゼルに自覚してほしいんだけどな。どう考えてもあいつはまともじゃないだろ?」
「その通りね」
二人とも黙りこむ。カフェでは、カップルや友達同士で、仲良くおしゃべりをしている学生がたくさんいる。
「たとえば、ああいうのかな」
「ああいうの?」
「人と仲良く喋ってる」
カフェにいる学生を指さしながらアンゲルが言った。
「そういうエブニーザを、俺は見たことがない。図書室にこもってクーと喋ってるか、部屋でヘイゼルにまとわりつかれてるのは見たことがあるけどな」
「そういえば、そうね」
エレノアは、セカンドヴィラで買ってきたネクタイをアンゲルに渡した。
「俺のことも覚えていてくれたとは、嬉しいね」
アンゲルは、踊りだしたい気持ちを抑えて、できるだけクールにネクタイを受け取った。
「てっきり、エブニーザのことしか考えてないのかと」
「そんなことないわよ!しばらく見かけなかったし、この前だって、父さんと一緒に姿を消したから、心配してたのに」
「あぁ~あれね」
アンゲルは苦笑いしながら変な声を出した。
「変わった親父だね」
「心配してるのよ、前、公演先まで男がついてきたことがあったの」
「虎を怖がって逃げてった奴?」
「それもあるけど、他にも何人かいて……」
エレノアは話題を変えたかった。
「それより、前、倒れたんでしょう?もう大丈夫なの?」
アンゲルは、エレノアが何を言いたいのか一瞬わからなかった。
倒れた?ずいぶん前の話じゃないか?
「もう平気だよ。長期休暇の時だけタフサのところに行って、それ以外は勉強に専念することにしたから」
「いつも勉強してるのね」
「エレノアだっていつも歌ってるだろ?同じことだ。必要だからやってるんだ」
アンゲルは当然のことのように言った。
エレノアの動きが止まった。
「私、もう帰らないと」
突然立ち上がると、エレノアは、足早にその場を去っていった。
何か、心の中で、いつもと違う感触がする。
でも、それが何なのか、エレノアにはわからなかった。
アンゲルは、エレノアの後ろ姿を見つめながら、
やっぱり、俺も不気味な管轄区人だと思われているんだろうか?
と、寂しげな目で考えた。
音楽科の芝生。
エレノアとケンタが芝生で話をしている。
ケンタは、アケパリの小学校の話を始めた。
冬の休暇に、いとこの子供が出る寸劇を見に行ったというのだが、
「『番長その6』なんだ、配役が」
ケンタが、目の端を歪めて言った。
「番長?その6!?」
エレノアが『ありえない!』という声を上げた。
番長というのは、アケパリ独特の、不良グループのリーダーの事である。リーダーが6人もいる非行少年の集団を想像できるだろうか?
「つまりね、何でも平等にしなきゃいけないから、みんな番長なんだ。ぜんぶで12人男子いるんだけど、みんな番長」
「えええええ」
「その前の年は、全員王子で、女子は全員お姫さん」
「そんなの変よ!劇として成立しないじゃないの」
「実際アケパリは変になってきてるよ。『おちこぼれちゃかわいそうだから』なんて言って、かけっこでも全員同じ1等をもらったりするんだ。おかしいだろ?だいいち、小さいころから『全員王子様でお姫さん』なんて育ち方をしたらどうなると思う?現実の世の中は、召使とか普通に働いてる地味な奴で成り立ってるだろ?みんな王子様だと思い込んだまま成長した奴が、そういう普通の人たちを見て、ちゃんとした大人として認識するかな?ずっと自分だけが偉いと思い込んだまま育ってしまうんじゃないかな?」
「不気味ね」
「不気味だよ」ケンタが神妙な顔で言った「だから、俺の仲間内でも、アケパリがいやになって、イシュハとか、ノレーシュに移住する奴が増えてる。俺も、今のところは、アケパリに帰る気がしないんだ。こっちでギターやろうと思ってる」
「そう……」
「一緒に組まねえ?」
「えっ?」
「冗談」
ケンタが寂しそうな顔をした。
「ギターが必要だったら、いつでも言って」
ケンタは立ち上がると、エレノアに笑いかけて、去って行った。
今のは何か意味があるんだろうか。
エレノアが考えながら音楽科の校舎に入る。あいかわらず、先輩たちの目つきが厳しい。
エレノアはいつも孤立していた。
そして、自分の声が『古臭い』ということも頭から離れず、ケッチャノッポ先生には、
「情熱が足りないわ!自己主張が足りないわ!」
とか、
「最近心が歌から離れているんじゃないの?」
と注意されていた。
このままでいいのだろうか。
エレノアは悩んでいた。
でも、声を変えるって、できるものだろうか。
自分の声で無理矢理ロックを歌ってもおかしいだけだ、それはわかっている。
でも、このまま、クラシック『らしい』曲ばかり作って歌っていて、未来はあるのだろうか……。
帰り道を歩く、雪がちらほらと振っている。
サッカー場の前を通りがかって、足を止めた。
……真っ白だ。足跡もない。
サッカー場には均一に、うっすらと雪が積もっていて、だれも練習していないせいか、足跡もなく、綺麗に四角い白い板ができていた、まるでキャンバスのようだ。
エレノアは周りを見回した。
だれもいない。
口元だけにやりと笑うと、サッカー場に入って、妙な姿勢でうろうろと歩き始めた。
図書館に向かっていたエブニーザが、サッカー場を一人でうろうろしているエレノアに気付いた。
近づこうとすると、
「ダメ!」
と、叫ぶ声が聞こえた。
エブニーザは立ち止まって、エレノアのつけている足跡を見ているうちに、あることに気がついた。
走って寮に戻り、不審がるアンゲルを連れて(ヘイゼルも勝手についてきた)サッカー場が見下ろせる校舎の3階に行く。
すると、サッカー場には、エレノアの足跡で
『Happy snow』
の文字ができていた。
「なにやってんだぁ?」
アンゲルが呆れた笑い声を上げた。
「他の奴らに見られないうちに証拠隠滅しよう」
ヘイゼルが走りだした。
「おい!やめろ!」
アンゲルがあとを追いかける。ヘイゼルは寮からサッカーボールを持ってきた。
エブニーザは二人の様子を3階から眺めていた。自分の出る幕はないと、最初から知っていた。いや、知っていたというよりは『決めつけていた』と言うべきか。
そんなふうに遊んでいられるのも、今のうちだよ、二人とも。
エブニーザが思っていたのはそんなことだ。
誰も見ていなかったが、彼の顔には、今まで誰にも見せなかったような、残忍な色が浮かんでいた。
……もう、何もかも、決まっているんだ。
結局、アンゲルとヘイゼルは二人でサッカーを始め、雪の上の文字は、二人の走りまわった足跡で、完全に消えてしまった。
そのころ、いたずらの張本人エレノアは、寮に帰って窓辺に座り、外の雪をぼんやりと眺めていた。
「何よ、またあの気持ち悪い白目のことでも考えてんの?」
フランシスが嫌味を言ったが、エレノアは、
「違う」
と答えただけで、そのあと何も話そうとしなかった。
アンゲルは、文字に気がついただろうか?
エブニーザはちゃんと教えに行ってくれただろうか?(彼が気付かないはずがない!)
エレノアはそんなことを考えて、歌の心配をするのを忘れていた。
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