第八章 アンゲル、襲われる

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第八章 アンゲル、襲われる

 バイトの帰り、夜道を歩いていたアンゲルが、何者かに襲われた。  ポートタウン駅に向かって歩いている途中、後頭部に強い衝撃を受けて倒れた。  地面で痛みにもがいているとき、 『女神を冒とくするからだ』  という、男の声が聞こえた。そして気を失った。  目を覚ますと、病院で、ヘイゼルとエブニーザが自分を覗きこんでいた。 「医療費はシュッティファントで払ったから安心しろ」  ヘイゼルが偉そうに言った。 「ここで死なれると、国際問題になって俺が困るんでね」 「そんな言い方あるか」 「ほう、じゃあ、何を言ってほしかったのかな?」 「うるさい」 「誰に襲われたか、わかりますか?」  エブニーザが、妙に冷たい顔つきで尋ねた。  アンゲルは、襲われた時に聞いた会話から、犯人は『管轄区の狂信的なイライザ信者』だと確信していた。 「女神がどうとか言ってたから、管轄区の奴だと思う」  3人とも黙りこんだ。  幸い傷は浅く、アンゲルはすぐに寮に帰ることができたが、初めて来た病院の印象と、医師や看護師の姿が、アンゲルの脳裏にはっきりと残った。  こういうのが、管轄区にもあったら……。  作れないかな?クレハータウンの近くとかで……いや、教会が近いとすぐ文句を言いに来そうだな。どこかに隠れてやるか……。  漠然とだが、 『管轄区で病院を作る』  というイメージが、アンゲルの頭の中にでき始めていた。  次の朝、母親から電話があった。 『教会の方々がうちにやってきて、あんたがイシュハで教会に逆らうようなことをしているって言うんだよ』 「……は?」 『どういうこと?あんたそっちで何をしてるの?学校は?』  母親の不安げな声が受話器から聞こえてくる……しかし、アンゲルは何が何だかわからなかった。  ……教会がうちに来た?  逆らう?  何の話だ? 「別に何もしてないよ。大丈夫だから」  母親をなだめて電話を切った。  眠そうな顔で部屋から出てきたヘイゼルに、そのことを話すと、 「いずれそうなるだろうと思ってたよ」  特別驚きもしなかった。 「どういう意味?」 「心理学を専攻して、しかもタフサ・クロッチマーと親交があるだろ?知らないか?タフサは教会に破門されてるぞ」 「えっ」  アンゲルがあわててタフサに電話をするが、仕事中で出られないと事務の女性に言われてしまう。  アンゲルは寮を飛び出して、タフサのいる大学に向かった。 「わざわざ行かなくても、俺が説明してやろうと思ってたのに」  ヘイゼルが、心底残念そうな顔でつぶやいた。実は、アンゲルに長々と説明してやろうと、いろいろ調べていたのだ。徒労に終わったが。  エレノアは、レッスンから帰る途中でアンゲルを見かけたが、急いでいるのか、アンゲルはエレノアに気づかずに、駅の方向に走り去ってしまった。  気になって、図書室にいるであろうエブニーザのところに行くと、やはりエブニーザは嫌そうな顔をしたが、 「アンゲルが昨日襲われたんです」  と、エレノアが知りたいことをすぐ口に出した。  まるで、最初から聞きに来るのがわかっていたかのように。 「襲われた?どうして」 「襲ったのは教会の信者らしいですけど」 「……なぜ?」 「ヘイゼルは、タフサとつながりがあるからだって言ってましたけど」 「どうして、タフサとつながりがあると、教会信者に襲われるの?」  エレノアは事情がよく飲み込めない様子だ。 「イライザの教会は、医学も心理学も、進化論すら認めていないんです。だから、タフサもアンゲルも、教会に逆らっているとみなされてしまうんですよ」 「……信じられない」  エレノアは呆然と、エブニーザの向いの椅子に座りこむ。 「アンゲルはどこ?」 「タフサのところに向かったみたいです……大丈夫ですよ」  エブニーザはそう言いながらも表情が険しく、全く『大丈夫』には見えなかった。 「でも……これからどうするのかしら、アンゲルは」 「どうするって……希望通り大学に進んで、医師の資格を取って、たぶん、管轄区に戻ると思いますよ」 「えっ?」  エレノアは、聞き間違えたかと思った。  管轄区に戻る? 「僕にはそう見える」 「見えるって……でも、管轄区に戻ったら危ないんじゃ」 「だから戻ったんですよ。あの国を変えたいんだ、アンゲルは……あ」  エブニーザはしまった!という顔をした。 「今の話、アンゲルには言わないでください」  あわてた早口でそう言うと、エブニーザは、怯えた目つきでエレノアを見上げた。 「どうして」 「僕が勝手に見ただけだから。アンゲルはまだ自分の運命を何も知らないんです」  エレノアは、エブニーザが何を言っているのか理解できなかったが、 「わかった、言わない」  と約束した。  その頃、アンゲルはタフサから『管轄区からすさまじい嫌がらせと迫害』があったと説明されて、ショックを受けていた。 「だからイシュハの国籍を取って、無宗教を気取ってるんだ」  タフサは深刻な顔でこう続けた。 「あまり言いたくなかったんだが、襲われたんならもう隠しておくのはやめるよ。あの教会は、海外に出た国民を監視してるんだ。普段から注意して生活したほうがいい」 「監視って……?」 「あまり、女神の話とか、管轄区の話は、しないほうがいい。ここはイシュハだけど、管轄区に近いし、けっこう会話を盗み聞きしてる連中がいるんだよ。残念なことだけどね」  アンゲルは、何を言われているか理解できなかった。  でも、いくらあの国でも、そこまでするか……? 「信じられないだろうけど」  タフサが、アンゲルの考えを見破った。 「事実だよ。そういうことをするんだ、あの国は」  ……俺はどうすればいいんだろう?  帰り道、首都の駅からアルターの寮までが、たまらなく長く感じた。  まわりを歩く人間が、みんな敵に見える。  道を歩いていても、ちょっとでも誰かが自分に視線を向けたり、ひそひそと話す声が聞こえると、まるでそれら全てが、自分を嘲笑っているように感じられるのだ。  疑惑が恐怖に代わり、足が地に着いた感覚が消え、目の前の景色はぐるぐると回りだし……。  重苦しい気分のまま寮に戻ると、エブニーザがソファーに座ってアンゲルを待っていた。 「エレノアが探してましたよ」  アンゲルは反応しない。向かいに座ると、逆にエブニーザに、 「お前将来どうする?管轄区に帰るのか?例の女の子と一緒に暮らすのか?」 と質問した。  するとエブニーザは、悲しげにこう言った。 「僕には時間がないんです。将来もない。彼女が見つかったとしても、一緒に歳を取ることは……できないんです」 「どういう意味?」  アンゲルは、エブニーザの言葉に何か、不吉なものを感じた。  エブニーザは、どこか投げやりな態度で、しかし、はっきりとした声で、こう言ったのだ。 「僕は、30代で、死ぬんですよ」  二人がいる部屋の空気が、その一瞬、固まったようにアンゲルには思えた。この場所だけ、時間が止まり、全く外界とは関係のない世界で、遠くから他人を観察しているような、そんな感覚に襲われた。 「それは、予言か?」  アンゲルの声は動揺でかすれていた。 「それともお前が決めたのか?」 「見える。もう決まっています。僕の人生はそこで終わりです」  エブニーザは、はっきりとした、自信ありげにすら思える口調でそう言った。 「それは、あの、ただの夢とか、妄想じゃないのか」 「違います」  エブニーザの目元が歪んだ。 「アンゲル、いつも僕の言うことを妄想って言うんですね」 「いや、そんなことはない。いくつかは当たった。でも、でもな」  アンゲルは必死に頭の中で言葉を選んでいた。 「人間って言うのは、たまに、現実と関係ない夢みたいなものを、見ることが、あるんだよ。眠っていても、そうでなくても」 「そうでしょうね。でも僕は違う」  エブニーザが顔をそむけた。 「人間じゃない」 「人間じゃない」  アンゲルはわけもわからずその言葉を繰り返した。 「前にも聞いたが、どうしてそう思う」 「……上手く説明できません」  エブニーザが薄笑い―アンゲルがぞっとするほど不気味な―を浮かべながら、ドアに向かって歩き出した。アンゲルは、以前読んだ自殺者の事例を思い出した。  もしかして、自殺の予言か!? 「エブニーザ!」  アンゲルがヒステリックな大声で叫んだ。 「どうしたんですか?」  エブニーザが振り返って笑った。 「今の声、ヘイゼルとフランシスを合わせたみたいでしたよ」 「あの二人と一緒にするなよ……なあ、あのさ」 「何ですか?」 「俺やヘイゼルの未来は見えるのか?エレノアでもいい、他人のことはわかるのか?」  エブニーザがこころもち上を向いた。何か考えているような、言うのをためらっているような……。 少しの間、目を空中に泳がせた後、エブニーザは、 「ヘイゼルしかわからないですね。自己主張が強すぎるからかな?ヘイゼルは大統領になる。そしてこのイシュハをもっと、悪い国にするんです」  そう言って、面白そうな、しかし、寂しそうな顔をすると、廊下に出て、静かに、ゆっくりとドアを閉めた。まるで中にいるアンゲルが病人で、眠っているから静かにしないと起こしてしまうと言っているみたいに。  アンゲルが深刻な顔で林の中を歩いていると、向かいからエレノアが来るのが見えた。大きなキャンバス地のトートバッグを持っている。 「私、これからポートタウンに行くのよ」  エレノアが彼に近づいてきて、バッグを振り上げて明るく笑った。 「向こうでフランシスと合流して、買い物するの」  エレノアは、アンゲルがあまりにも暗い顔をしているので、元気づけようと思って明るくしているのだが、アンゲルはぼんやりとした顔のままだ。 「フランシスがなんでポートタウンに?」  どうでもいいと思いながらも、アンゲルは尋ねた。  俺が襲われたことは聞いているはずなのに、何も心配してないみたいだな……? 「何か、慈善事業の話し合いって言ってたわ」 「慈善事業ね」  もっとどうでもいい話だな! 「話したいことがあるんだけど」 「何?私急いでるのよ」  エレノアの歩くスピードが速まった。アンゲルはむっとして叫んだ。 「エブニーザのことだ!」  エレノアが立ち止まった。  ああ、やっぱりエブニーザだと立ち止まるんだな!  アンゲルはうんざりした。  いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。 「さっき話してたら、あいつ『僕は30代で死ぬ』って言いだしたんだ」  エレノアが不安げな顔でアンゲルを見た。 「どういうこと?」 「早すぎる自殺の予言ってやつかな?それとも単なる自己嫌悪からなる発言かな?あるいは、あいつは自信がなさすぎるから、そんな年まで生きていけないと思ってるのかな?どうも俺には判断がつかないんだ。どう思う?」 「ほんとに見えてるんじゃないの」  エレノアが深刻な顔になってきた。 「あの女の子のことと同じで、まだ私たちは見ていないけど、でも、実際エブニーザの予想はおどろくほど当たるわ」 「そうなのかな……?俺は妄想だと思うけどな」 「アンゲル!」  エレノアが怒りだした。怒っても美しいんだから本当に魔物だとアンゲルは思った。 「あなたがそうやって、エブニーザの話を『妄想』とか『でたらめ』って決めつけるたびに、エブニーザは苦しむのよ!心理学やってるんならいいかげんわかってあげれば!?」 「そんなことは俺だってわかってるさ!」  アンゲルが怒鳴った。だが、自分の大声に驚いて声のトーンを下げた。 「精神を病んでる連中もよく知ってるさ!みんな言葉はでたらめだ、私は王様だの、だれかが追いかけてくるだの、雷に乗ったことがあるだの、みんな空想話さ!でも言ってる本人は本当だと思ってる!」  エレノアは、アンゲルが怒鳴るのを初めて聞いて、かなり驚いたようだ。明らかに動揺した顔をしている。持っていたトートバッグを両手でつぶすように握り始めた。 「そういうのとは違うわよ、エブニーザのは……」 「違わないさ!」  アンゲルはエレノアに背を向けて、やたらに足音を立てて歩き始めた。  本当は彼も分かっているのだ。エブニーザの話が、嘘でも妄想でも、作り話でもないということを。でも、彼の立場ではどうしてもそれが事実だとは断言できない、いや、したくなかった。犯罪の被害者、特に精神を病んだ被害者には、そういう妄想が継続的に表れることはありうる、そう診断する以外に選択肢が見つからない。  予知能力?ありえない!  アンゲルは早足で歩きながら考える。  ……いや、俺が今気に入らないのは、エレノアが、エブニーザのことになるとあんなに一生懸命になってかばおうとするってことだ。それが気に入らないんだ!しかも、俺には『大丈夫?』の一言もない!危うく殺されるところだったっていうのに!  嫉妬、そして自己嫌悪。それは、アンゲルがもっとも陥りたくない心理状態だった。  ああ、だめだ、自分の間違いを認められない奴はいずれだめになるっていうじゃないか。  でも、俺は間違ってるのか?  だから襲われたのか?でも何が間違ってるんだ?  何が正しいんだ?  ああ、わからない!  寮に戻り、ソファーに倒れこむ。  時計を見る。  アルバイトに行かなくてはいけないが、まだ1時間くらいは寝ていても大丈夫だろう。  しばらくは、混乱した頭のまま、ああでもないこうでもないと考えていたが、だんだん落ちついて来るにつれて、自分の間違いが少しずつわかってきた。  ……外国に来たからって、気が緩み過ぎたんだ。  あの国から逃げ出したい一心で、あとのことなんて考えてもいなかった……いくらイシュハに来たからって、管轄区がなくなったわけじゃないんだ。しかも、ポートタウンもアルターも、電車に乗ればすぐに管轄区に到着できるくらい近い……そんな近くで『女神を信じてない』なんて言ったり、教会が禁止しているものに手を出したら、すぐにばれるに決まってる!管轄区からの留学生だっているし、監視までされているっていう話だ……。  ソファーから起き上がって部屋を見回す。もちろん誰もいない。  まさか、ここまで監視されてないよな?  再びソファーに倒れこむ。  とにかく、甘すぎたんだ。考えが。  連中を騙してでも『女神を信じています』ってふりをしておくべきだったのか?  不気味なコミュニティの連中とも仲良くして、情報収集をするべきだったのか?  アンゲルは、どちらも『やるべきだった』と思ったが、『そんなことできたか?俺に』と考えると、その答えははっきりと出た。  ……そんなことできるか!!  いや、過ぎたことを考えても無駄だ。  これからどうするか……。  アンゲルは時間ぎりぎりまで考えたが、いい解決策が浮かばなかった。 「30」  ポートタウンのカフェ『テラスヴォリ』  フランシスが、アイスティーを飲みながら、その数字を空中に指で書いた。 「恐ろしい数字だわ。その年になったら、私たちって人間扱いされなくなるのよ」 「そんなことないわよ」 「エレノア、あんたはいくつになっても芸がお出来になるから、そんなことが言えるの。この世の大多数の女は、この進んだイシュハでさえ、年を取ると、どんどん人間扱いされなくなる、いや、自分を人間扱いしなくなるのよ。ぞうきんみたいな扱いをされても文句を言わなくなるの。私そういうの絶対いや」 「フランシス」  エレノアは、話している間に溶けかけたアイスクリームをかき回した。 「あなたはたぶん、90になっても文句を言ってるわ」 「相手はヘイゼルか、どっかの男ね。ああ、男ってむかつくわ。勝手に世の中を悪くしておいて、何かまずいことがあると女に押し付けるか、泣きつくか……ま、こんな話つまんないわ。エブニーザはきっと30どころか、あと数年で死ぬわよ。ヘイゼルが殺すかも」 「フランシス……」 「あ、違うわ。きっと、ヘイゼルに怒鳴りつけられて、ショックで心臓発作を起こすの」 「どうして何でもヘイゼルのせいにするの?」 「他に人が死ぬ原因なんてある?」  まるでヘイゼルが死神であるかのような言い草だ。 「わかってるわよ。私だってこんな自分をぶっ殺したいの」 「フランシス!」 「いちいち名前呼んで怒らないでよ!私が言いたいのはね、長生きなんてしたくないなあってことなのよ。30過ぎたら人間扱いされないのに、さらに40年も50年も、くたびれた雑巾みたいに生きるのって、どうなのよ?」 「人を雑巾と一緒にしないで」 「あんたは大丈夫よ、エレノア」  フランシスが手を上げて、ボーイを呼んだ。 「ワインをお願い。何でもいいわ。強いやつ」 「昼間から飲むの!?」 「私はもう大人だし、ワインだからいいのよ」  フランシスが鋭い目でエレノアを睨んだ。 「福祉団体のお婆さんがたのつまんないお話を4時間も聞いてやったのよ。酔わなきゃ疲れが取れないってのよ!」  そのあと、まるまる1時間、老人方の悪口をしゃべりまくるフランシスに向かって、適当な返事をしながら、エレノアは思った。  やっぱり、フランシスって、ヘイゼルとよく似てる……。 「大統領?」 「そうそう。エブニーザがそう言ってたんだ」 「おい!エブニーザ!」  ヘイゼルが、エブニーザの部屋に向かって怒鳴った。 「まだ帰ってきてないよ。図書館にでもこもってるんだろ」 「大統領なんて冗談じゃない」  ヘイゼルが心底嫌そうにふんぞりかえって宙を仰いだ。 「てきとーに国会議員か、まあ、せいぜいどっかの長官か、その程度でいいよ」 「お前らしくない発言だな!」  意外だな、とアンゲルは思った。ヘイゼルは常日頃『俺がこの世で一番偉い』という態度でいるので、てっきり大統領になると聞いたら喜ぶと思っていたのだ。 「だってめんどくさいだろ。常に国民に監視されてるんだぞ?」 「監視って……」  アンゲルはあきれた。 「政治家はみんなそうだろう?」  そう言いながらもアンゲルは『監視されている政治家』という表現に違和感を感じた。ただ、少なくともイシュハの政治家は、常に記者に囲まれているイメージがある。普段の行動には注意しないといけないのだろうということは想像がつく。  しかし、アンゲルは管轄区の人間だ。  管轄区を支配している教会の上位者は、めったに人前にも、マスコミにも出てこない。  そもそも、管轄区にまともな報道機関なんてない。 「政治なんて好きで専攻してるわけじゃない。だが、シュッティファントはみんな政治家になるって決まってるんだよ。親父もそうだし、その前もそうだ。でも、みんなせいぜい州知事か、国会議員止まりだよ。もともと金持ってるってこと以外にとりえのない一家だからな。商売だの技術だの、そんな才能は誰も持ってない。やたらに買収するのは好きだがね。要するに、自分には何も作る才能がないから、横から取るんだよ。だから政治家になるんだ。政界なんて、自己主張以外にとりえのないわがままの巣窟だよ。俺だってそうさ、弱気で自分のないやつらに怒鳴りつけるくらいしか能がない。無難な選択なんだよ、政治ってやつは」 「お前、意外と現実的だな」 「どういう意味だよ」 「てっきり、目標は世界征服なのかと」 「アホか!」  ヘイゼルが心底つまらなさそうな顔になった。投げやりだ。 「世界なんて征服して何かいいことがあるか?どこに行ってもバカどもが余計なことをしてるもんだ。イシュハも管轄区もノレーシュもアケパリもキュプラ何とかも、同じだ。どこにでもバカがいて、麻薬を売ったり女に売春させたり、気に入らない奴はとっとと撃ち殺したり、好き勝手に生きてるんだ。世界中どこだってそんなもんだ。そんな世界手に入れて楽しいか?バカじゃないやつらも性根が腐ってるからな。善良そうに見える上流の紳士どもが影でとんでもない取引をしていたりするしな」 「とんでもない取引って何だよ?」 「それは企業秘密だ」 「なんでそこに企業が出てくるんだよ?」 「とにかく、家の中には秘密ありだ。ああ、これも世界共通だな。世界中の家庭は冷え切ってるぞ」 「もういいよ、その話は」  また長話が始まりそうだったので、アンゲルは話をまとめようとした。 「とりあえず政治の道を進めよ。嫌々」 「嫌々な。お前も嫌々心理学やってるだろ?」 「俺は違う。昔からやりたかったんだよ」 「今でもやりたいか?同じ気持ちか?狂った教会に襲われてまでやることか?」  ヘイゼルが、人を信用していない白けた顔で尋ねた。まるで『お前だって何か隠してるだろう?違うか?』と探りを入れられているように、アンゲルは感じた。 「同じだよ。変わらない」  アンゲルはそう答えながらも、予想外に動揺している自分に気がついた。  どうしてこんなに頭がぐらぐらするんだ?襲われたから?いや、そうじゃなくても、最近ずっと、何かが頭に乗っているみたいに感じていた……心理学がいやになった?いや、そんなことはない……きっと疲れているだけだ……。いろいろなことが起こりすぎたから……でも、どうして教会は、医学や心理学をあんなにも嫌うんだ?必要としている人がたくさんいるのに!毎年飢えと病気で何万人も死んでいるのに!エブニーザみたいな精神病の奴だってたくさんいるはずなのに!  どうすればいいんだ?今更専攻を変えろってのか?でも、このまま続けていたら両親のところにまた変な人間が来るかも……俺だってまた襲われるかもしれない。  でもなぜだ?  こんなに目の敵にするのはなぜなんだ?  化学は良くて医学や心理学はどうして駄目なんだ?  たかが学問の一つにすぎないのに?  ああ!わからない!なにもかもわからない! 「あれって、エブニーザじゃないの?」  フランシスが怪訝な顔をした。  ポートタウンから帰ってきたエレノアとフランシスが女子寮に入ろうとすると、門の前でうろうろしているエブニーザらしき人影が目に入った。 「アンゲルの次はあんたに相談ってとこじゃない?エレノア?」  情けないわね、とでも言いたげなフランシスだが、エレノアの表情は硬い。 「エブニーザ……」  エレノアは、さきほどアンゲルに言われたことを思い出していた。エブニーザはピクリと全身を震わせて、何か、怖いものでも見るようにそーっとうしろを振り返った。 「何かあったの?」 「あんたっていつも怯えているわよね」 「フランシス!」  エブニーザは二人を、恐怖にとらわれた目で見つめている。 「エレノアに、話があるんだ」  エレノアとフランシスが顔を見合わせた。 「フランシス、悪いけど、エレノアと二人で話をさせて」顔は怯えているが、いつもとはどこか様子が違う「すごく、深刻なことなんだ。今話さないといけないんだ」  何かおかしいと思った二人だが、突然気がついた。  エブニーザが敬語を使わないで普通に喋っている!しかもフランシスに! 「なんだか不気味だけど」  フランシスが歩き出した。 「二人で話したほうがよさそうね」  去っていくフランシスの背中をじーっと見つめるエブニーザを、エレノアは不安を抱きながら観察していた。  何が起きているんだろう? 「エブニーザ」  エレノアはおそるおそるエブニーザに話しかけた。 「どうしたの」 「アンゲルが殺される!」  エブニーザが突然エレノアの方を向いて叫んだ。 「えっ?」 「見えたんだよ。患者に刺し殺されるんだ」  エブニーザはがたがたと震え始めた。 「どうすればいい?アンゲルに、心理学をやめろって言えばいいの?でもそんなの無理だよ!アンゲルは僕の予知なんてみんな妄想だと思ってる!」 「ちょっと、待って!落ちついて!」  エレノアには、エブニーザが突然パニックを起こしたように見えた。女子寮の入口にいた学生がこちらを見ている。 「図書館に行きましょう、落ちついて話せるところに。ここじゃみんな見てるわ」  エレノアは震えているエブニーザの背中に手を当てて、ゆっくりと歩き始めた。エブニーザも抵抗せずに歩き出したが、震えはなかなか止まらなった。  図書館の奥、資料室。エブニーザはいつもの席に座り、その向かいの棚にもたれて立っているエレノアに、ぼそぼそと自分が見た光景を離し始めた。  アンゲルが患者と向かい合って話をしている。突然、患者が懐から刃物を取り出し、アンゲルの胸に突き刺した。アンゲルが椅子から落ちて倒れ、犯人はドアを開けて走って逃げて行った……廊下から女性の悲鳴が聞こえた。そして……。 「エブニーザ」  話の途中、エレノアが真面目な顔で割り込んだ。 「どうしてそれを、私に言おうと思ったの?」 「えっ?」  エブニーザは言葉に詰まった。 「どうしてアンゲルでもヘイゼルでもなく、私に言うの?」  だって!刺されたアンゲルのところに最初に駆け付けたのはエレノアじゃないか!  エブニーザはそう言いたかったのだが、よく考えたら、アンゲルが刺されたのを見たのも、その現場にエレノアが駆け付けるのを見たのも、自分一人なのだ。  そこでエブニーザははっと気がついた。自分の過ちに。  そうか!エレノアはまだ何も知らないんだ!  どうしよう……。  僕の中では二人は常に一緒にいるから、現実と区別がついてなかった……いや、だって、どっちも現実じゃないか!  でも、今の二人にはまだ何も分かってない……。 「エブニーザ?」  エレノアが心配そうにエブニーザの顔を覗いた 「聞こえてる?」 「あ、あの、だって」  エブニーザは言い訳を必死で考えた。 「こんなこと、本人には言えないし、ヘイゼルに言ったらすぐアンゲルに話すだろうし」 「アンゲルに話したほうがいいと思うけど?」  エレノアがそう言ったとたん、エブニーザが泣きそうな顔をした。 「だって!アンゲルは!」  エブニーザが叫んだ。 「僕の言うことなんか信じないじゃないか!」 「大声を出さないでよ!」  エレノアが小声で注意して、まわりを見回した。幸い誰もいない。 「本人に話すのよ。そしたら、防げるかもしれないじゃないの」 「でも……」 「それが嫌なら、私が言うわよ」 「えっ」  エブニーザが、息が詰まったような声を出した。今にも死んでしまいそうな顔色だ。 「とりあえず今日は寮に帰ったら?顔が真っ青」  エレノアは出口に向かって歩き出したが、すぐ立ち止り、振り返ってエブニーザに笑いかけた。 「アンゲルの事が心配なのね?」  エブニーザはしばらくぼんやりした目をしていたが、かすかにうなずいた。 「これ以上変なことを言ったら、友達を失くしそうで怖いんでしょう?」 「僕はもともと」  エブニーザが消え入りそうな、かすれた声でつぶやいた。 「友達だと思われていませんよ。アンゲルは僕が精神病だと思っているんです」 「ああ、敬語に戻っちゃった……」  エレノアは笑っていたが、目元が少し歪んだ。 「どうして友達相手にそんな言葉遣いするの?ま、いいけど。あなたは友達なのよ、私の、そして、アンゲルのね。少しは信用したら?」 「……ありがとう」  エブニーザが笑った。天使のような笑い顔だった。  ああ、やっぱり美しいわ!  エレノアは廊下を歩きながら考えた。  案外、ほんとに天使なのかもしれない。だから未来が見えるのかも。  でも、アンゲルが刺殺される?本当に?  エレノアは険しい表情で図書館の外に出ると、公衆電話のダイヤルを回した。 『誰だ?』  高慢な声が返ってきた。 「エレノア・フィリ・ノルタよ。アンゲルはそこにいる?」 『なんだ、エレノアか。てっきりエブニーザかと』 「エブニーザなら、さっき図書館にいたわよ」 『図書館だと!?』  耳に刺さるような大きな声がしたので、エレノアは危うく受話器を落とすところだった。 『今日は早く帰ってこいって言ったのに!何をしとるんだあのバカは!』 「ヘイゼル……どこかの若奥様みたいで気味が悪いから、『今日は早く帰って』なんてルームメイトに言うのやめてよ」 『だんだんシグノーの令嬢に似てきたな、エレノア』 「そんなことないわよ!」  エレノアが強く否定すると、ヘイゼルがヘッヘッヘッと妙な笑い声を洩らした。 『アンゲルもまだ帰ってないよ。せっかく俺が撃ち落とした鳥を、ずらっとテーブルに並べてやったのに』 「撃ち落とした?」 『狩猟だよ。雉さ。フランシスにも送ってやったから、部屋に戻って見てみろよ』 「何ですって!?」 『一番でかいのを、ドアの前に届けてやったから。煮るなり焼くなりして食えよ』  今頃フランシスが部屋で金切り声をあげているかも……エレノアは頭が痛くなってきた。 『まあとにかく、アンゲルはいないよ。伝言しとく?『愛してるわ』とでもメモに書いてからかってやるか?』  ヘイゼルは明らかに面白がっている様子だ。 「やめてよ。相談したいことがあるから、明日のお昼に図書館の前に来てくださいって言っといて」 『おやおや、本当に愛の告白みたいだな』 「違うってば!お願いだから余計なことは言わないで、私が言ったことだけ伝えてよ!」 『わかったよ。歌手のエレノア様がアンゲルにどうしても打ち明けたいことがありますからぜひ……』 「ヘイゼル!」 『わかったわかった。明日の昼に図書館だろ、怒るなって……あ!エブニーザ!』ヘイゼルがまたすさまじい声で怒鳴ったので、エレノアは軽く身震いした『早く帰ってこいって言っただろ!……じゃ、またね』  電話が切れた。  エレノアは受話器を握ったまま、電話の下に座り込んで深いため息をついた。  嫌な予感がする……。  エレノアが相談?  俺に?  何を?  部屋に帰ってくるなり、妙にニヤニヤしているヘイゼルから伝言を受けたアンゲルは、頭が真っ白になった。  しかも、勉強に使っているテーブルの上にはなぜか、鳥の死体が山のように積んである。 「おい、なんだこれは!新手のいやがらせか?外国人バッシングか?」 「いやがらせじゃない。狩猟に行ったんだ。雉だよ。俺が撃ったんだ。これから食うんだよ。旨いらしいぞ」 「はあ!?」 「エブニーザが今、食堂に、料理人を説得しに行ってるから」 「はあああ!?」  真っ白になったアンゲルの頭に、雉が何匹も飛び交い始めた。つまり、大混乱だ。 「まあまあ、ゆっくり話そうじゃないか」  一人楽しげなヘイゼルがソファーにどかっと、偉そうに腰を下ろした。 「ほんとは狐でも仕留めて剥製にしてやろうと思ったんだよ。でもな、最近異常気象で、前はたくさんいた狐が少なくてね。かわりに変な鳥がたくさん飛び始めた。どうも、アケパリから飛んできてるらしい。うちの召使にアケパリ人がいて、雉は旨い、あっちの国では普通に食べるっていうから、試しに撃ち落としてみたら、これが俺に合ってたんだな、バカみたいに獲れたよ。あまりにたくさん獲れたから、シグノーのご令嬢にも送りつけたがね」 「何ぃ!?」  アンゲルが混乱きわまって変な声で叫んだ。 「フランシスのところに!?つまりエレノアのところだろ?鳥の死体を送ったのか?お前は変態か!?」 「鳥の死体とは何だ!?雉だよ雉!食えるって言っただろ?鶏と変わらないだろ?」 「鶏をまるごとテーブルに山積みにする奴がいるか!?」 「ヘイゼル」  エブニーザが帰ってきた。 「食堂の人が言うには、調理したことないって」 「ああ?いい機会だろ。初挑戦しろって言ってこい」 「でも……」 「料理にしてから持ってこいよ!」  アンゲルがまた叫んだ。 「どうすんだよこれ!?俺は今日どこで勉強するんだよ!?」 「今日は勉強なんかしなくてもいいだろ?」  ヘイゼルがにやにやと笑い始めた。 「明日、エレノア様と大事なご相談があるんだろ?勉強なんかしてる場合か?」 「エレノア?」  エブニーザがアンゲルを見た。顔が不愉快そうに見えた。 「別に何でもない」  アンゲルは、エブニーザのその表情を見て不安になった。  まさかこいつもエレノアを……いや、こいつは妄想の女に夢中だしな、でも……。  電話が鳴った。ヘイゼルが受話器を取ったとたん、部屋中に聞こえるようなすさまじい金切り声が、受話器から放たれた。 『あんた!何考えてやがんのよ!雉をまるごと送るなんてバカじゃないの!?』  フランシスだ。 「耳が痛い!超音波を出すな!」  ヘイゼルも負けずに大声で怒鳴った。 「まあ、雉ってわかっただけましだな。アンゲルなんか『鳥の死体を置くな!』だぜ?育ちが知れるってもんだよ」  アンゲルがヘイゼルに向かってサッカーボールを蹴りつけたが、ヘイゼルは口笛を吹きながら余裕で攻撃をかわした。 「それより、とっとと料理にして食えよ。何にするんだ?そっちはシグノーの料理人がすく飛んでくるだろ?ついでに俺の分も作ってくれって言っとけ。材料はまだあふれんばかりにあるぞ」 『なんでうちの料理人があんたの分まで……』  ヘイゼルは受話器を置いた。すぐにまた、電話がけたたましく鳴り始めたが、ヘイゼルは取らずにテーブルに戻ってきた。 「アンゲル、鶏を解体したことあるか?」 「あるわけないだろうが!」 「管轄区に住んでたんだろ?血は撃ち落とした後に抜いてもらったから」 「管轄区は関係ないだろ!?」 「未だに鶏を飼ってる家が多いんだろ?」 「俺の家には鶏なんかいない!」 「……僕、やったことありますよ」  エブニーザが遠い目をしてつぶやいた。ケンカをしていた二人の動きが止まった。 「えっ」 「はあ?」 「でも、この鳥は見た事ないですね」  驚いて目が点になっている二人を尻目に、エブニーザが部屋に戻って、ナイフを持って戻ってきた。 「おいおいおい、まさかほんとに……」  ビュッ。  二人の目の前で、エブニーザが鳥の尻から内臓を引きずり出した。 「できそうだ」  エブニーザがヘイゼルの方を向いた。 「肉の部分だけ取ればいいんですよね?」 「へっ?」  さすがのヘイゼルもこれには驚いたようだ。 「あ、ああ、そうそう。たぶん内臓は食わないだろ。よく知らんが」 「わかりました。でも、羽を取るのにちょっと時間がかかりますよ」  そう言うやいなや、エブニーザは、雉の羽根をむしり始めた。ピリッ、ピリッという音がリズミカルに部屋に響く。アンゲルはその音を聞きながら、自分が切りつけられているみたいに顔をしかめて身を固くした。  エブニーザが机に乗っている鳥を次々と『解体』していった。羽をむしった後、ナイフで肉を腿、胸、手羽などに切り分けて行く。アンゲルとヘイゼルは、そんな作業を平然とこなすエブニーザを唖然として見守っていた。まるで肉屋の主人のようだが、見ようによっては凶悪な犯罪者にも見える。目つきから何も感情が感じられないからだ。終始無表情で、ひたすら、一定のリズムで鳥の羽をむしり、肉を切り刻んでいく。 「ヘイゼル」  アンゲルはだんだん、目の前の光景が怖くなってきた。 「こいつ、監禁されてたときに一体何をしてたんだ?」 「俺はてっきり重いものでも運んでたのかと」  ヘイゼルがめずらしく困惑しているようだ。 「牛の解体工場にでもいたのかな?」 「お前、思いつきで言ってたのか?ほんとに何が起きてたか知らないのか?」 「昔の話をすると泣き叫ぶって言っただろ?」 「ヘイゼル……」  アンゲルがテーブルの上を見て顔をしかめた。 「頼む、頼むから、これが済んだらあのテーブルは処分して、新しいのを買ってくれ」 「わかったよ」  ヘイゼルが文句を言わずに承諾した。珍しい。  アンゲルはますます怖くなってきた。  それから2時間ほど、エブニーザはその『羽をむしって解体』という作業を繰り返していた。いつもなら延々とおしゃべりをするヘイゼルも、今日は黙ってエブニーザを見つめて、何か考え込んでいるようだ。アンゲルに至っては、テーブルの上が内臓や羽や肉の山になっている光景に耐えられず、かといって他の部屋に逃げるわけにもいかず、ひたすら部屋の隅で実習の資料を見ていたが、もちろん頭にはなにも入ってこない。  電話がまた鳴った。アンゲルが、電話に向かったヘイゼルを突き飛ばして受話器を取った。目の前の光景から逃避したかったのだ。 「アンゲルです!」 『エレノアですけど』  アンゲル、その声で固まってしまった。 『ねえ、聞こえてる?どうしたの?』 「いや、あの、ごめん」  アンゲルは真っ赤になった。 「ヘイゼルが鳥の死体を俺のテーブルに乗せて、それをエブニーザが切り刻んでるんで、気が動転して」 『ああ、雉ね。こっちにも来たわ。でもエブニーザ?意外だわ。動物に触るの嫌いそうに見えるけど』 「それが全然平気らしい。今目の前がちょっとした惨劇だ」 『惨劇?大げさね。こっちは私が羽をむしって調理室に持って行ったわ』 「えっ?」 『今焼いてもらってるの。私の母がアケパリ人だから、普通に食べるわよ……ハロー?アンゲル?聞いてる?』 「いや、うん、聞こえてるよ」  アンゲルは軽いショックを受けた。 「それはよかった」 『そういえば……管轄区の人って鳥は食べないのよね!』  エレノアが突然思い出したように叫んだ。 『大丈夫?』 「今頃思い出してくれて嬉しいよ」  アンゲルが弱々しい声で皮肉を言った。  女神イライザの神話では、鳥は女神の使いであるため、絶対に食べても殺してもいけないのだ。ただし鶏と卵は例外である。空を飛ばないので使いにならないということと、貧しい管轄区では鶏が貴重な食糧であるため、簡単に禁止できないという事情らしい。 『明日の昼なんだけど……』  エレノアが言いにくそうに話しだした。アンゲルは胸の鼓動が早まるのを感じた。 「あ、明日、昼に図書館だろ。聞いたよ。相談って何?」  言ってからアンゲルは後悔した。  今聞いてどうするんだ!? 『電話で話せることじゃないの。あした話すから……さっき電話した時、ヘイゼルが出たのよ。心配だからかけなおしたの。どうせまた変なこと言ってたんじゃない?違う?』 「いや、そんなことは、ないと思うな」 「おい、俺に代われ」  ヘイゼルが受話器を奪おうと手を伸ばしてきた。 「ああ、ティッシュファントムが俺を襲ってる!また明日な!エレノア!」 『また明日』  電話は切れた。 「お前、また俺をティッシュお化けにしやがったな?」 「そんなこと言ってる場合か……」 「全部終わりましたけど」  エブニーザの声がした。見ると、テーブルの上が肉と皮と内臓だらけになっていた。エブニーザの白いシャツも血と内臓の色に汚れている。 「どうするんですか、これ」  アンゲルは急に胃のあたりに激痛を感じ、うめき声をあげながら床に座り込んだ。今日はいろいろなことが、重なって起こりすぎたのだ。 「あー、とりあえず肉は焼いて食おう。ほかは捨てろ」  ヘイゼルは平静を装っているが、目のまわりがピクピク痙攣している。 「どこに?」 「……今確認する」  ヘイゼルがどこかに電話をかけ始めた。 「大丈夫ですか、アンゲル?」  エブニーザが座り込んでいるアンゲルに近づいてきた。ナイフを持ったまま。 「近づくな!俺に近づくなあああああ!」  床に転がりながらアンゲルが叫んだ。まるで殺し屋にでも狙われているかのようだ。 「おい!電話中に大声を出すな!」  ヘイゼルがアンゲルに向かって怒鳴った。  アンゲルはエブニーザを避けるように転がり、ソファーの前で立ちあがって、どさっと倒れこみ、テーブルの上が見えないように背もたれの方を向いた。  ああ、どうしてこうもわけのわからない奴が俺の周りに集まるんだ!?いや、それよりエレノアだ。『電話で話すことじゃない』っていったい何だ?そんなに重要な話か?もしかして……いや、そんなことは期待しないほうがいい。でも、そうじゃなかったら何だ?何を相談されるんだ俺は? 「エブニーザ。調理室の裏に生ごみを集めてるところがあるから、肉以外はそっちに持っていけ。ついでに肉も焼いてもらえ。さばいた後なら調理できるってよ」 「わかりました……でもこれ、一人で運ぶんですか?」  エブニーザがナイフで、目の前の肉と骨と皮の山を指した。 「アンゲル!行け!」  当然のことのようにヘイゼルが命令した。 「俺は嫌だ!死んでも嫌だああああ!」 「何だよ!?鳥のバラバラ死体くらいで怯えるな!教会っ子は軟弱だな!」 「お前だってさっきまで困ってただろぉ!」 「あー調理師さん?悪いけど人手が足りんから、肉だけ取りに来てくれ」  ヘイゼルが電話の向こうに命令した。 『自分が持っていく』という選択肢は、彼の頭にないようだ。  次の日。昼。図書館。  エレノアが、エブニーザが予言した『アンゲルが患者に刺される』という話をすると、アンゲルは期待した告白ではなかったことにがっかりしたが、自分が殺されると言われたので驚いた。  これがちょっと前なら『そんなの妄想だ!』と笑い飛ばせたのだが、今やアンゲルは一度襲われ、家には教会の人間がおしかけ……と、管轄区に目をつけられていることを知っているため、心の底から恐怖を感じた。  しかし、エレノアの前では動揺は見せなかった。見せたくもなかった。 「そんなの、俺じゃなくても、管轄区で心理学なんて言葉を吐いた時点で命が危ないよ」  わざと軽い口調で答えた。 「イライザ教の信者は、医学も心理学も認めてないんだから」 「そんなの変だわ」 「変だよ」  アンゲルは否定しなかった。 「だから俺は心理学を取ったんだよ」  アンゲルは、自分が発した言葉に驚いた。  だから心理学を取った? 「……どういう意味?」 「何でもない」  アンゲルはあわてて話題を変えた。 「そういえば、エレノアは、何を信じてるの?家族がみんな違う国でなんだよね?」 「歌に決まってるじゃない」  アンゲルは困惑したが、エレノアはあくまで真面目にそう答えたらしい。 「父はドゥロソのアニタ教……イシュハと違って厳しいのよ。祈るし、決まりも多いの。母はアケパリだからフレイグっていう闘神を信じているの」  フレイグは、アニタの恋人とされている男性の神だ。 「でも、アケパリの宗教は信者っていう言葉を使わないし、いちいち信じるかどうかなんて聞かないのよ。この世のあらゆるものが神聖なもので、フレイグは代表にすぎないの。象徴よ。何だってこの世のものは神聖なの。歌も同じ」 「何だって神聖ね……」  もっといろいろ話そうと思ったが、ふと横を見ると、管轄区出身の、イライザ教の布教活動をしている、あの黒服の集団の姿があった。アンゲルの顔に緊張が走ったが、彼らは特に彼を見ることもなく、通り過ぎて行った アンゲルは、寮に帰ってからヘイゼルに、 「アニタ教は布教する人がいないのか?」  と聞くと、 「あまり聞いたことがないな。だいいち、イシュハでほんとに女神を信じてる奴なんて、1割もいないんじゃないか?ほとんどは無宗教だろ?」 「無宗教?」 「別名『金を稼ごう教』だ。教会っ子はみんなイライザ様の聖書をお持ちだろ?こっちじゃ誰の家にもグーファー・レコンタって奴の『金持ちになる30の知恵』っていう本がある。それが聖典さ」 「俺は聖書なんか読まないよ。親が勝手に送ってきたんだ。読んだって意味がわからない」 「へえ~」  ヘイゼルがうさんくさい顔をした。 「じゃあなんで、時々変な目つきで本棚をじっと見ているのかな?あそこに聖書が隠れてるからじゃいのかね?」  アンゲルは気まずく口を閉ざし、視線をそらした。 「まあいいさ。しかし、『聖書が読めません』なんて、そんな奴が管轄区で生きられるとは思えないんだが。あっちじゃ女神を信じてませんなんてうかつに言えないんじゃないのか?宗教裁判がまだ続いてるんだろ?」  アンゲルは答えずに、借りてきた本をめくり始めた。  学校でみっちり教えられたので、聖書の内容はよく知っているのだが、アンゲルはそんなもの早く忘れてしまいたかったのだ。そしてふと、エレノアに言われた『患者に刺し殺される』というエブニーザの予言を思い出す。  管轄区では十分ありうる話だ。  ヘイゼルが部屋に戻った後、アンゲルは音をたてないようにそうっと立ち上がり、エブニーザの部屋のドアをノックしたが、返答はなく、ドアを開けて中を覗いても誰もいない。  電話が鳴ったので取ると、ソレアだった。 「風邪引いたから今日は休むよ、ごめん」  とだけ言って切ったが、すぐにまたかかってきた。 『お見舞いに行くわ』  と弾んだ声が聞こえた。  うっとおしいな……。 「だめだよ。男子寮だから女の子は入れない」  とまたすぐ切り、ソファーに座ってため息をつく。  ややこしいことばかり起きるな、最近……。  そのころ、エブニーザは学校の敷地内にあるイライザ教の教会(管轄区からの留学生のために建てられた小さいもの)を、厳しい表情で睨みつけていた。  どうして、僕と『彼女』だけがこんな酷い目にあわないといけないんだ?  どうして他の人じゃなく、僕らなんだ?  どうして未来なんか僕に見せるんだ?  しばらく、恨みのこもった目を教会に向けていたが、通行する学生の笑い声で我に帰り、急にいつもの怯えた顔に戻って、図書館の方向に歩き出した。  エレノアのところに、母ノルタから小包が届いた。中にはピンク色の石がはまっている指輪が入っていた。 『あんたの父さんがはじめてあたしに買ってくれたものさ。トルマリンだよ。あんたにあげる。誕生日おめでとう』  アケパリ語のメモが入っていた。  エレノアは指輪をはめて眺めながら、『ピンクのトルマリン……?』と、昔エブニーザに言われたことを思い出して考え込んだ。  やっぱり、エブニーザには未来が見えてるの?  じゃあ、やっぱりアンゲルは、本当に患者に刺し殺されるの?  考え事をしながら歩いていると、エブニーザが歩いて来るのが見えたが、エレノアに気づかずにすれ違ってしまった。 「エブニーザ!」  エレノアが声を上げると振り返ったが、表情があまりにも暗く、いつもはない敵意が顔に出て、残忍に見えたので、エレノアは背筋が寒くなった。 「何かあったの?」 「何でもありません」 「これを見て」  エレノアが指にはまっているトルマリンの指輪を見せる。 「……それが何か?」 「前に、ピンクのトルマリンって言ってたでしょ?うちの父が母に送ったものなの、あなた、これが見えてたの?」 「……まだ持ってなかったんですか?」  エブニーザは困惑している様子だ。 「さっき届いたばかりよ。あなた本当に未来が見えるのね」  エレノアが興奮気味にそう言ったとたん、エブニーザが傷ついた顔をした。 「今まで信じてなかったんですね……」 「え?いえ、そうじゃないけど……」  エブニーザは、エレノアに背を向けて歩き出した。  アンゲルは、どこにも行く気になれず、学校を休んでソファーで横になっていた。  これから、どうするか……。  いくら考えても答えが出ない質問で、頭がいっぱいになっていた。  昼頃まで悩んでいると、電話が鳴った。 『私が誰か憶えているかしら?』  クーだ。 「ノレーシュの姫君」  アンゲルが思い出したようにつぶやいた。 「最近見かけないね」 『エレノアから何か聞いていない?』 「聞いてない。何かあったの?」  そういえば、クーはレズビアンだったっけ……。 『あなたが聞いたら確実に怒ることをしたわ』 「は?」 『冗談よ……ウフフフフ』  クーが上品ぶった笑い声を上げた。 『今お暇?』 「悩むのに忙しくて、暇なんてない」 『エブニーザの話してもいい?』  クーがアンゲルにしたのは、ノレーシュの神話だ。  カーリー・フェイウという神が、人間の女と恋をして、子供が生まれる。その子供は、未来を予知する能力を持っていた。ところが、その子が貧しさのあまり娼婦となった恋人を助けるために悪いことをしたため、厳格な女神イライザが『殺してこい!』と命じて、カーリーを地上にたたき落とした。 カーリーは言われたとおりに息子を殺したが、嘆き悲しむ恋人を憐れんだ女神アニタが、息子の魂を探し出し、地上に送り返した。 それ以来、世の中で間違ったことが起こると、未来が見える『預言者』が人間の前に現れるようになったという。 「知ってるよ」  ノレーシュだけではなく、管轄区でもイシュハでも、誰でも知っている神話だ。なぜなら、この『事件』がきっかけで、女神イライザと女神アニタは仲たがいし、住む世界を分けたのだから。おかげでイライザ教は強固な一神教になり、時がたつにつれて狂信的になって、今に至るわけだ。 『ノレーシュでは、この神話が500年に一度『再来』すると信じられていて、実際、500年前に預言者が現れたの』 「……それが?」 『この神の子は、未来を予言すると言われているの』 「……だから何?」 『私が何を言いたいかわからない?』 「全然わからない」 『その神の子が、エブニーザなの』 「は?」 『神話が再来しているのよ。ノレーシュの神話の擁護者として断言するわ。エブニーザは未来を予知できるでしょう?しかも、女の子が見える、その子は売春をさせられているのよ。神話と子と同じようにね』 「……あのさ、姫君には申し訳ないんだけど」  アンゲルはできるだけ控えめに説明しようとした。 「そんな話は信じられない。確かにエブニーザは未来を予知してるかもしれないけど、だからって神の子って言われても……もしかしたら、エブニーザ自身がその神話を知って、自分の境遇と重ね合わせて夢を見てるだけなんじゃないか?」  クーは、アンゲルの言葉を厳しく否定した。 『エブニーザは夢なんか見ていない。残酷なほど思考がクリアなの。他の人には見えない凄まじい光景まで見えてしまうから、それで苦しんでいるのよ』 「そう言われてもなあ……」  実はアンゲルはこう思っていた。 『クー、お前も病気だろ?エブニーザよりひどいぞ、ある意味』 しばらく二人で話し合ったが、意見の一致をみないまま、電話は切れた。 「ちがう、ちっがーう!!!」  音楽科にこだまする、ケッチャノッポ先生の叫び声。  エレノアは慣れたつもりだったが、今日は妙に耳に障る。 「最近変よエレノアちゃん。心ここにあらず!しかも発声が変になってる」 「変?」 「喉で歌ってるでしょう?ちゃんとお腹から声を出さなきゃだめだよ!」 「そうですか?」  エレノアは、自分の発声が変わったことを、全く自覚していなかった。  いつもと同じように歌っているのに……? 「もしかしたら、ロックとかポップスが気になってるせいかも」 「どういう意味?」 「オーディションのときに言われたんです。私の歌い方は古いって。クラシックの発声だって」 「そんなの気にしなくていいわよ!今までどおりの声で歌いなさい!あなたにはそれが合ってるんだから!」 「でも……」  時代遅れになって、だれも聞いてくれなくなったらどうすればいいの? 「いいから、発声練習!」  ケッチャノッポが伴奏を弾き始めた。  そのあと、1時間ほど「ちがう!ちっがーう!!」を連発された。  ブースで一通り、発声練習や歌の練習をしたが、何がどう変わっているのか、やはり自分ではわからなかった。  しょんぼりと落ちこんで寮に帰ると、電話がけたたましく鳴っている。 『エレノア?』  クーの声がした。  エレノアは、前にされたことを思い出し、全身を硬直させた。 『お願い、怒らないで聞いて』  本気で懇願するような声が聞こえてきた。 『さっきアンゲルにも説明したんだけど、まるで理解できないみたいだから、あなたに聞いてほしいのよ。エブニーザの事なの』 「……何の事かしら?」  クーはこわばった声で、アンゲルに話したのと同じ内容の神話の話をエレノアに聞かせた。エレノアは半信半疑で聞いていた。  フランシスが帰ってきて。電話に向かっているエレノアを睨んだ。 「クーよ」 「ほんと?」  フランシスが急に楽しそうな顔をした。 「私にも聞こえるようにしてよ!」  フランシスがエレノアを押しのけて、電話のボタンを押した。 『ちょっと!エレノアと話してるのよ!』  スピーカーから発したクーの声が、部屋中に響いた。 「何の話よ?」 『神話の再来よ』 「またその話なの?」  フランシスが不愉快そうに眉をひそめた。 「どうしてノレーシュ人ってその神話が大好きなのかしらね」 『現実だからよ!』  当然のことだと言いたげにクーが叫んだ。 「ねえ」  エレノアが冷ややかな声を出した。 「それを、私やアンゲルに話して、どうするの?」 『理解してほしいだけよ。エブニーザは病気なんかじゃないし、女の子の話は妄想じゃないの。いずれわかるわよ』 「あんなのに入れ込んで何が楽しいのか、さっぱり理解できない。時間の無駄じゃないの?」  フランシスはどこまでもエブニーザが嫌いらしい。 「……悪いけど、今日は疲れてるの」  エレノアは冷ややかにそう言うと、受話器を置いて電話を切った。  フランシスは驚いた。エレノアがこんなに冷たい態度をとるのを見たことがなかったからだ。 「何かあったの?」 「発声がおかしいの」 「発声?」 「声が変わったらしいの。でも、自分では全然わからないのよ、何が変わったか」  そう言うと、エレノアは立ち上がって、自分の部屋に入って行った。  一人になりたかったのだ。  エブニーザがどうとか、神話がどうとか、そんなことを考えている余裕がなかった。  声が変わってる?  なぜ?  どうしよう、今までみたいに歌えなくなったら……。  他にできることなんてないのに……。  エレノアは、体験したことのない不安にとらわれ始めていた。
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