第九章 ソレア襲来

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第九章 ソレア襲来

 本屋でグーファー・レコンタのコーナーをあさっていたアンゲルは、イシュハで出されている『金儲け本』の種類の多さに圧倒され、呆れていた。  何だよこれ。医学の本より多いぞ!どっからどう選ぶんだよ!?  とりあえず、ヘイゼルに言われた『金持ちになる30の知恵』を探し出し、立ち読みしていると、 「そんなもの読むな!」  という声がした。振り向くと、予想通り、管轄区から来たらしき学生が立っていた。 「イシュハを知りたいだけだよ、本くらいいいだろ?」  アンゲルが言い返すと、 「シュッティファントに取り込まれたな?」  などと悪口を言いながら学生は去っていった。アンゲルはため息をついた。  何が『取りこまれたな?』だよ?たかが本だろ?どこまで人に干渉すれば気が済むんだ?  本を買おうか迷ったが、気が進まなかったので、やめた。  ヘイゼルに借りよう……。  そういえば、エブニーザも管轄区の人間だよな?宗教に疑問を持ったことがないのか?  アンゲルは寮に戻って、エブニーザの部屋をノックしたが、返事がない。  ドアも開かない。  あきらめて勉強に集中しようとすると、電話が鳴った。  エレノアだった。  エブニーザの様子が変だったと言われ『またエブニーザかよ』と思いながらも話を聞くと、トルマリンの指輪の話を聞かされた。 『ほんとに未来が見えているのよ』 「偶然じゃないのか?……それより、誕生日なの?」 『え?あ、そうよ』  ここで、フランシスがエレノアから受話器を奪った。 「図書館の隣のカフェでバースデーパーティをやるから、3人とも6時までに正装でいらっしゃい。プレゼント持参でね。言っとくけど、変なもの持ってきたら殺すわよ!」  いつか聞いたような怒鳴り声を発して、受話器を乱暴に置いた。  呆然としているエレノアにフランシスは、 「クーの発案よ。費用もあっちが出すの。ノレーシュの税金でただ飲みよ」  と笑った。  そのころアンゲルは、受話器を持ったまま顔をしかめていた。  またカフェに6時かよ……今からプレゼントって……3時間もないぞ!?  慌てているところに、ヘイゼルが大きな包みを持って入ってきた。 「エレノアの誕生日なのだが……どうして知らないのかな?」 「なんで俺が知ってるんだよ!?」 「それよりプレゼントはどうした?シグノーの令嬢は、殺すって言ったら本当に殺すぞ?」 「エブニーザは!?」 「さあ」  アンゲルはあわてて財布をつかんで外に飛び出していった。  ヘイゼルは、ニヤニヤと笑いながらエブニーザの部屋のドアに近づくと、ドアをがんがん蹴りながら、 「いるんだろ!?出てこい!」  とすさまじい声で怒鳴った。エブニーザがそーっとドアを開けた。ネックレスの入ったケースと、帽子の箱が机の上に置いてある。 「アンゲルの分も、シュタイナー・メルケリ商会に用意させたくせに、どうして教えてあげないんですか?」 「自分で選ばせたほうが面白いだろ。あわてて走っていったぞ……クックックッ……教会っ子が何を持ってくるか見ものだな!」  愉快そうに大声で笑うヘイゼル。エブニーザは、悪いことをしているような気分になって、気まずそうに、開けっ放しになっているドアを見つめた。  勢いよく飛び出して、ポートタウンに着いたアンゲルだったが、何を探せばいいかよくわからなかった。  エレノアの好きなものっていうと、まず浮かぶのは帽子だ……でも、どういうの選べばいいかわかんないんだよなあ……。  帽子屋があったので、ウィンドウをのぞいてみたが、エレノアがかぶっているような、つばの広い帽子はなかった。  カジュアルなハンチングだったら18クレリンで売ってたな。でも、そんなもの買って行ったら、フランシスに虐殺されそうだな……。  ポートタウンをふらふらと歩きまわって考えたが、何を選べばいいかさっぱりわからなかった。  通ったことのない道に入って、ぼんやり歩いていると、古本屋が目に入った。  入ってみるか、 俺はフランシスに殺されるな。もういいや。  アンゲルがふらふらと中に入ると、入口近くに、たくさんの本が無造作に積んであった。  少し奥に進むと、本棚があり、専門書や楽譜、コミックの棚がある。  古本屋に楽譜なんて置いてるのか……と思って通り過ぎたアンゲルだが、すぐに、あることを思い出し、飛ぶように引き返して来て、本棚からその楽譜を抜いた。 『フラネシア』  これ、エレノアが別荘で探してた楽譜じゃないか?たしか、絶版になってて本屋に売ってなかったって……。  アンゲルの胸が高鳴った。  これでいいじゃないか!欲しいって本人が言ってたんだから!  うわあ、俺はついてるぞ!!  古びた表紙に、クリップで値段がついていた。  手書きで書かれている数字は、200クレリンだ。  その値段を見たとたん、高揚した気分が一気に谷底に落ちた。  高い、  高すぎる。  数分迷った末、アンゲルは、店の奥の店員に近づいた。コーヒーを飲みながらグラビア雑誌をめくっていて、かなりやる気がなさそうだ。 「あの~」 「買い取りならしてないよ」  店員が雑誌から顔を上げずに言った。 「いや、そうじゃなくて、これなんですけど……」  店員がめんどくさそうに顔を上げたが、すぐ笑顔になった。 「ああ、なんだ、買う客か。いやいやごめんごめん。最近、本を売りに来るやつらが多いんだけど、どいつもこいつもうさんくさいんだよ。同じタイトルの本を何十冊も持ってきたり、明らかに万引きしたような新品の本を持ってきたりさあ。あんたいかにもそんな感じの顔だからさ」  かなり失礼なことを言われた気がしたが、アンゲルは言い返さずに、楽譜を差し出しながら尋ねた。 「これ、もっと安くなりませんか?」  アンゲルがあまりにも必死な、見開いた目をして尋ねたので、店員は何かを怪しんでいる顔をした。 「……いくらに?」 「20クレリン」 「はぁ?」  店員は、冗談じゃないという顔をした。 「だめだよ。それ、絶版になってて、今手に入らないんだから。貴重品なんだよ。オペラハウスにも原板が残っていないらしくてね、まあ、あまり人気のあるミュージカルじゃないからだけど」 「人気がないならまけてくれてもいいじゃないですか!」 「そういう問題じゃない。あくまで稀少価値の問題だ。楽譜のコレクターも多いんだよ、イシュハにはね。君外国人だろう?」 「イシュハ人の彼女が欲しがってるんですよ!」  店員がプッと、馬鹿にしたような声をあげた。 「いや、いや、必死になるのはわかるけどさ」  店員は手をぶらぶらと振って、多少は同情するけどさ、という軽い笑みを浮かべた。 「だからって、そんな大幅ディスカウントはできないよ」 「俺の人生がかかってるんだってばあああああああああ!!!」  アンゲルはおばさんのような甲高い声でそう叫ぶと、身を乗り出して、かなりの至近距離で店員の顔を覗きこみ、血走った眼でダイレクトに相手の目をにらみつけた。  店員は、後ろに大きく身を引いた。  そして、相手は正気ではないと判断した。 「100」  店員が口元を歪めてつぶやいた。 「それが限界だ」 「そんなに持ってないよ」 「じゃあいさぎよく振られるんだな」  店員がグラビア雑誌に目を戻した。 「待ってください」  アンゲルが出口に向かって走り出した。 「銀行に行って降ろして来ますから!すぐ来ますから!お願いだからそれを別な人に売らないで下さいよ!!」  叫びながら飛びだして行ったアンゲルを、呆れた顔で見ながら、店主は、 「こんなもん、100年経っても売れねえよ」  楽譜をかかげて、白けた声でつぶやいた。 「かわいそうになあ、イシュハの女にひっかかるなんてさ。貢ぐだけ貢いだら捨てられるに決まってるんだ」 「どこにいったのよあのバカは!殺してやる!!」  カフェ。  時間を30分過ぎてもアンゲルが現れないので、フランシスが怒り始めた。 「ご令嬢が怒るたびに人を殺してたら、イシュハはあっというまに滅亡しますな」 「お黙り!」  ヘイゼルとフランシスがいつも通りのやり取りをしている中、エレノアと、クー、そしてエブニーザが、同じテーブルに座ってコーヒーを飲んでいた。 「プレゼントを探しに行ったんですよ。後ろでケンカしてる二人のせいで」  エブニーザが、落ち込んだ顔のエレノアにそう言うと、『ケンカしてる二人』が同時にテーブルの方を睨んだ。 「いいからいいから、あんたたちは二人でケンカしてなさいよ」  クーが投げやりな声で二人に指図した。 「こっちも勝手に喋ってるから」 「だいいち、一週間も前に誕生日だって教えてたはずでしょう?何を当日になって慌ててるのよ?」 「それは……」  ヘイゼルが気まずそうに言った。 「俺が教えなかったからなのだが」 「えっ?」 「はぁ?」  その場の全員が、非難の目でヘイゼルを見た。 「どういうことよ!?」  フランシスがキンキン声を上げ始めた。 「ちゃんと伝えとけって言ったでしょ?」 「いやあ、あのエンジェル氏のことだから、てっきり知ってるかと思ってだな」 「ヘイゼル!?」  クーが叫んだ。 「知ってるわけないでしょう?個人情報ですよ?」  珍しく、エブニーザまで怒りだした。 「単に忘れてただけでしょ!」  フランシスがいつも通り怒鳴った。 「あんたっていつもそうなのよね!」 「いつもとはなんだ!?いつもとは!?」  みんなが言い合いをしている中、エレノアは、一人コーヒーに口をつけながら、 『早く帰りたいなあ』 と思っていた。  別に、わざわざカフェを借りて祝うようなことじゃないわ。寮の部屋で、ちょっとだけ豪華な食事があればそれでよかったのに……。  どうして何でも大げさにするのかしら?  自分の誕生日なのに、エレノアは大いに白けていた。もともと、歌のレッスンで『声がおかしい』と言われたことがまだひっかかっていて、楽しい気分になれなかったのだ。  年に一度の誕生日なのに……。  でも、声が変わったって、どうして?  自分で聴いても分からないなんて、どういうことだろう?  暗い顔で周りを見回す。他の面々はまだ言い合いをしている(主に例の二人が)  それより、アンゲルはどこに行ったんだろう?  一体何を買ってくる気だろう?  悪いけど、あまりセンスがよさそうには見えないし……。  エレノアは、アンゲルのいつもの服装を思い出していた……ジーンズ、古着屋で拾って来たとしか思えないよれよれのシャツ、あるいは時代がかった、いかにも管轄区らしい薄緑色のワイシャツ(エレノアは古い時代の服が好きなので、このシャツの色は嫌いではない)  ま、仕方ないわよね。お金がないんだから。それに、私と違って、服装が大事な職業を目指してるとは思えないし。    さらに20分後。  走りすぎて疲れた顔のアンゲルが、カフェにやってきた。 「いや~ごめん遅れて~」  軽い声で謝りながら入って来たアンゲルに向かって、フランシスがワインボトルを投げようとしたが、ヘイゼルに止められた。 「おめでとう。これ、古いけどプレゼント」  エレノアは、アンゲルが差し出した楽譜を見たとたん、驚きのあまりカップを落としそうになった。 「どこで見つけたの?」  エレノアが頬を紅潮させた。 「古本屋。だからかなり傷んでる。悪いけど」  アンゲルの疲れは、エレノアの喜ぶ顔を見て吹っ飛んだ。  フランシスが冷ややかな視線をアンゲルに送っていたが、とがめる気はないようだ。ヘイゼルと言い合いの続きをしていて、アンゲルどころではないらしい。  クーとエブニーザも、エレノアにプレゼントを渡したが、エブニーザの用意した高そうな帽子とネックレスを見て、クーが嫌味を言った。 「シュタイナーと知り合いだと、プレゼント選びも楽そうね」  エブニーザがむっとした顔をした。 「悪気はないの。でも、シュタイナーからは早く離れたほうがいいわ」 「どうしていつも同じことばかり言うんですか?」 「大事なことだからよ」 「うれしいわ。ありがとう」  エレノアがエブニーザに向かって、にっこりと笑った。 「こういう帽子って、今あまり売っていないのよね」  エレノアが、渡されたばかりの帽子をかぶりながら言った。  隣では、アンゲルが、  ああ、やっぱ帽子の方が強いよなあ。それともエブニーザかなあ。  と、さみしそうな顔をしていた。  クーのプレゼントは詩集だった。愛の詩。 「恋人に送るみたいじゃない」 「いいでしょ?これに曲をつけて歌ったら?」  エレノアは、セカンドヴィラでされたことを思い出し、プレゼントをつき返そうかとも考えたが、黙って受け取ることにした。  でも、もし本気だったら?どうすればいいんだろう? 「それにしても、どこを走りまわってたわけ?」  クーがアンゲルにワイングラスを渡しながら尋ねた。 「来るのが遅いから、てっきりまた襲われたのかと」 「クー!」  エレノアが怒った顔をした。 「ああ、その可能性もあったね~」  アンゲルは軽く言い返した。 「すっかり忘れてたよ。自分が狙われてるの」 「……あなた、そんなことで大丈夫なの?」  クーが懸念の顔でつぶやいた。 「何が?」 「事態の重要性がわかってないんじゃないかしらと思って」 「そんなことないよ。十分わかってるさ」  アンゲルはまた軽く言い返した。  誰かに狙われている。深刻な事態だ。そんなことはもちろんアンゲルだってわかっている。  ただ、今ここで、そういう話をしたくなかった。 「だといいけど」  クーがエレノアにワイングラスを渡した。 「あなたが主役なんだから、存分に飲んで」 「ありがとう」  エレノアは笑ったが、口元がひきつっていた。アンゲルはそれを見のがさなかった。 「どうしたの?ワイン嫌いだったっけ?」 「違うの!」  エレノアがあわてた様子で言った。 「誕生日を祝ってくれるのは嬉しいんだけど……」  エレノアが、アンゲルの耳元に顔を近づけた。 「こんなに大げさにする必要ある?」  すこし身を引いて、エレノアの顔を見ると、ものすごく不満そうな顔をしていた。 「まあ、そうだけど。でも、イシュハ人って何でも派手に祝うんだろ?」 「そんなことないわ。私だって去年までは、家族とおいしいものを食べて、プレゼントをもらって、それで誕生日は終わりよ。大騒ぎなんて好きじゃないもの。自分の部屋で、ちょっといい食事があれば十分じゃない?わざわざカフェを借り切ってやるようなこと?しかも、フランシスとクーが勝手に決めたのよ!」  エレノアが耳元で、かなりの早口でささやいた。かなり不満がたまっているのか、かなり激しい息使いで、アンゲルの耳に息が強く当たった。 「どうして何でも大げさになるの?私はもっと気楽にやりたかったのに!」  アンゲルは、真っ赤になりながらも、笑いながらこう言った。 「俺も、実は、同じことを考えてたよ。ティッシュファントムの別荘に行った時から、ずっとね」    パーティが終わった後、ヘイゼルがアンゲルに、グーファー・レコンタの本を『やるよ』と言って差し出した。  アンゲル自身もヘイゼルに借りようと思っていた本だが、向こうから『読め』と差し出されるとなぜか不愉快だ。 「教会っ子は純粋だからこういうのはお嫌いだろうな。でもな、自分に合わない思想でも知っておくべきだ。イシュハのほとんどの人間はこういう発想で生きて、行動しているってことを知っておいた方がいい。お前がそれに賛成するかどうかは別の問題だ」 「不気味だな、なんで俺に本なんかプレゼントするんだよ」 「エレノアに楽譜買って、悲しきアルバイトで貯めた小銭が消えたろ?」 「……ダイレクトに指摘されると痛々しいね」 「それに、お前、イシュハに移住するだろ?」 「は?」 「もう教会に睨まれてる。襲われただろ?戻れないだろ?」  ヘイゼルの目つきは同年代の学生のものではなく、権力者『シュッティファント』の、脅すような目だった。 「覚悟しておけ。タフサみたいにな」 「ちょっと待て、俺はそんなつもりは……」  アンゲルの言葉を聞かず、ヘイゼルは部屋を出て行った。  アンゲルは本を見つめながら『なんか変だなあ……』と思ったが『自分に合わない思想でも知っておくべきだ』には賛成だった。  言ってることは正しいんだけど、あいつに言われるとむかつくな。  そう思いながら、もらった本をめくってみたのだが、 「富は求める人間のところに集まる……本当にそうだったら苦労しねえよ」  いちいち皮肉を突っ込みたくなる内容ばかり並んでいた。  すぐに投げ出して、ぼーっと考える。  イシュハに移住する?そんなこと考えたこともなかった……大学で資格を取ってからのことは、何も考えていなかった。  確かに、管轄区では心理学の資格を持っていても仕事はない……仕事どころか、また教会から言いがかりをつけられるかもしれない……どうすればいいんだろう?  エレノアはブースで、アンゲルにもらった楽譜を広げて、歌った。  小さいころに少し聞いたきりで、ほとんど忘れていたのだが、歌っているうちに記憶がよみがえってきた。  これ、すごくいい曲ばかりなのに。どうして絶版になってるの?  私が偉くなったら、『フラネシア』をもう一回上演するわ!  そんなことを考えて、舞台衣装や演出をどうしようか空想し、うきうきし始めたが、すぐに『声がおかしい』と言われたことを思い出し、また落ち込んでしまった。  今日のレッスンで、自分の声をテープにとって聞いてみたのだが、それが、自分の声とは思えない、妙な、気味の悪い声だった。  ブースで歌っているときは、そんな風には聞こえないのに。  自分が認識している声と、実際にテープで聞いた『他の人が聞いているであろう声』のギャップに、エレノアは驚いていた。  小さいころから旅芸人として歌ってきたのに、自分の声を、こういう形で聴いたことがなかった。  ……自分ではプロのつもりでいたけど、もしかしたら、全然ダメなのかもしれない。  エレノアは焦っていた。今のままではいけない。練習するしかない。  でも、元の声に戻るんだろうか?そもそも、元の声って何?  どんな声ならいいのか?  ロック?  声楽の声?  それとももっと別の?  悩みながらブースを出ると、ケンタが入口でエレノアを待っていた。  エレノアが誕生会のことを面白おかしく話すと、 「誕生日だったのか、もっと早く言ってくれればなぁ」  ケンタがしみじみとそう言ったので、エレノアは慌てた。 「前にピックをもらったわ!別にいいのよ!誕生日の話なんてするべきじゃなかったわ。物欲しげに聞こえるわよね」 「その発想はアケパリ的だな。こっちのやつらはみんな言いふらして回るだろ」  二人で笑った。 「それにしても、アンゲルは本気だな。エレノアが何を求めているかちゃんと分析してるんだ。心理学は怖いな」  ケンタが笑う。エレノアは、 「そうね」  と困った顔をした。  単なる心理学なんだろうか、それとも、本当に自分を思って、なのだろうか?  エレノアはずっと考えているが、当然答えは出てこない。 「最近、例の奴、つけてこないな」 「たぶんヘイゼルにからかわれたんじゃない?」 「それはぁ気の毒にぃ」  ケンタが老人のような、変にしわがれた声を出した。 「全然気の毒に聞こえないけど?」 「じゃあアケパリ語で言いなおそう。『自業自得』」  ケンタがニヤケ顔でそう言うと、エレノアは声を上げて笑った。  アンゲルは校内でシギを見かけたので、声をかけて、グーファー・レコンタについて聞いてみた。 「ああ、でも、当たり前のことしか書いてないだろ」  無表情で、何でもないことのように言われてしまった。 「当り前?」  アンゲルは露骨に疑問の顔をした。 「その手の本はみんな、同じことばかり書いてある」 「そうか?変なことばっか書いてないか?これ、語彙は簡単だけど、読んでると頭が痛くなってくるぞ?」 「それはお前が教会っ子……」 「わかった、わかったよ。おれはどうせ気持ち悪い管轄区人だよ」 「まだ何も言っていない」  シギはいつまでも無表情のままだ。 「でも、イシュハだっておかしいぞ。科学的にありえないことばっかり書いてあるぞ」 「そういう問題じゃない……最近エレノアに会ったか?」 「なんでそこにエレノアが出てくるんだよ!」  廊下で怒りだしたアンゲルを置いて、シギは次の授業に消えた。  校内は何も変わらない。授業や実習もいつも通り進んでいて、何も問題がないように思える。  しかし、アンゲルはどこにいても、自分に向かっている視線を感じずにはいられなかった。生徒や講師の視線ではない。正体のわからない、管轄区の、あの狂信的な信者たちの視線だ……。  エレノアは新しい曲を書いている。  声が変わったなら、それに合う曲を作ればいいのでは……とふと思いついて、机に向かっていたのだが、なかなか曲の続きが思いつかない、  駄目よね、今の声じゃ何を歌っても……。  気晴らしに、散歩に出かけることにした。  音楽科の近くを通る。ケンタが路上で弾き語りをしていた。周りにアケパリ人が何人も集まっていた。エレノアが近づいていくと『おおー来た!噂の美人!』とアケパリ語の叫びが聞こえてきた。  エレノアは、苦笑いでそれに応えた。アケパリ人留学生にからかわれながらも、ケンタと一緒に音楽科のブースへ向かった。  同じころ、アンゲルが寮を出ると、入口に、なんと、ソレア・アークが笑顔で立っていた。 「アンゲル!!」  両手を振って笑っているソレアはとてもかわいらしい……が、アンゲルが彼女の姿を見て真っ先に思い出したのは、管轄区のあの、狂信的なイライザ教徒でもある『真面目に勉強しない女の子たち』だった。 「授業があるから」  アンゲルはそう吐き捨てて走って逃げたが、ソレアは追いかけてきた。  音楽科に向かっていたエレノアは、凄まじい恐怖の形相で走るアンゲルと、そのあとを追いかけている、古風な、かわいらしい女の子を目撃。 「なんだろーね、今の」  ケンタが苦笑いした。 「さあ……」  エレノアはちょっと寂しそうな顔をした。ケンタはそれを見逃さなかった。 「アンゲルが気になる?」  エレノアは答えずに歩き出した。 「心配しなくても、あのすさまじい顔つきから見て、ストーカーに追いかけられて逃走中ってとこじゃない?」  ケンタは明るく冗談を言ったが、エレノアは反応しなかった。  逃走中のアンゲルは、図書館の一番奥、つまり、エブニーザがいる資料室に逃げ込んだ。 「あれ?珍しいですね、アンゲルがここに来るなんて」 「女に追われてるんだ!!」 「えっ?」 「隠れるから追い払ってくれ!」 「ええっ!?」  アンゲルは戸棚に飛び込んで引き戸を閉めた。廊下から、 「アンゲル~♪」  女の子の高い声が聞こえる。  エブニーザは、得体の知れない恐怖を感じ、自分もどこかに隠れようと考えたが、見回したところで他に隠れるスペースはない。  ソレアは、すぐに部屋を見つけて入って来た。 「ねえ、アンゲルを見なかった?茶色い髪で、丸顔で、緑色の目をしてる」 「し、知りませんけど」  エブニーザは、明らかに引きつった声でそう答えた。  ソレアは出て行こうとしたが、ふと、思いついたようにふり返った。 「あなた、その目、どうしたの?真っ白ね。見えてないの?」 「見えてます。生まれつきこういう色なんです」  怯えた顔でエブニーザが答えると、ソレアはじーっとエブニーザの顔を見つめ始めた。 「あなた、きれいね?どこの人?イシュハ人?こんなところに閉じこもってちゃ出会いがないわよ。せっかく綺麗な顔してるのに」 「余計なお世話です」 「何を読んでいるの?」 「ロンハルトの魔術書ですよ」 「魔術書?」 「500年前には、ロンハルトには魔術を使う人間がいて、基本になる薬草や宝石、鉱石の知識が書かれた本と、それらを利用した呪術の手順を書いた本が、普通に流通していたんです。今で言う、基本教科の教科書みたいなものなんですが……」 「本当に?魔法が使えたの?」 「今でも使える人はいるみたいですよ。少ないですけど」  ソレアとエブニーザは、普通に会話を始めてしまった。  アンゲルは戸棚に隠れながら、  なんでこいつと喋るんだよ!?追い払えって言っただろうが!何が魔術だ!?  と、頭の中で文句を言っていた。  一時間後、エレノアと、入口で会ったヘイゼルがエブニーザを探しに来た。アンゲルは戸棚の中で顔をひきつらせた。  やばい、エレノアだ。誤解される!  ヘイゼルは、ソレアから話を聞いてニヤニヤしはじめた。そして、アンゲルが隠れている戸棚を横目で見た。 「居場所をおしえてやれんこともないが……いいのかな?エレノア」 「えっ?」  ソレアが鋭い目でエレノアを睨んだ。 「どういうこと?」  エブニーザは今にも泣き出しそうな顔でヘイゼルに、 「やめてくださいよ!」  と小声でつぶやいた。 「私帰るわ」  エレノアは不機嫌な声でそう言うと、部屋を出て行ってしまった。 「お嬢さんも帰った方がいいんじゃないかな?」  ヘイゼルがにっこりと笑うと、ソレアが不満げな顔をした。 「今の人、誰?アンゲルと関係あるの?」 「あー、それは帰り道でエブニーザに聞いてくれ」 「えっ?」  エブニーザが引きつった声を上げて、ヘイゼルのほうを向いた。 「駅まで送ってやれ」 「だめよ!アンゲルを探すわ!」 「どうせバイト先で会えるだろ?」  ヘイゼルが二人をつかんでドアまで引っぱって行き、放り投げるように廊下に出すと、ドアを乱暴に閉めた。  そして、足音が遠のいたのを確かめると、アンゲルが隠れている戸棚をがんがん蹴り始めた。 「出てこい!臆病な教会っ子め!」 「出るから蹴るな!叫ぶな!ばれるだろ!」  アンゲルは、小声で文句を言いながら戸棚から出た。 「執念深いお嬢さんだな。シグノーの令嬢並みだ」  アンゲルがヘイゼルを睨んだ。 「何があったのかな?」 「俺が聞きたいよ!」  アンゲルが叫んだ。 「普通に話でもして、穏便に帰ってもらえばよかったんじゃないかな?いきなり走って逃げられちゃ、追いかけたくもなるさ」  ヘイゼルがまっとうなことを言った。アンゲルも少しだけ反省した。  確かに、逃げる必要はなかったかもしれない……でも、何でこんなところまで来るんだ?  フランシスが買い物(憂さ晴らし)バッグをかかえて帰り道を歩いていると、エレノアが早足で歩いているのが見えた。 「エレノア!」  叫ぶが、聞こえていないようだ。追いかけて近づくと、かなり機嫌の悪そうな顔をしていて、眉間にしわがよっている。 「どうしたの。めずらしいわね。あんたがそんな顔するなんて」 「そんな顔?」 「今にも物を投げて叫び出しそうな顔」 「あなたじゃあるまいし」 「その話し方もあんたらしくない」  エレノアが、アンゲルを追いかけていた女の話をすると、 「へー。あの変な顔にそんな女が」 「変な顔って……」 「でも、教会っ子にしてはおもしろいわね、その女。あそこって、従順でつまらない古き醜き母親候補みたいな女ばかりなのよ?きっと、窮屈になってイシュハに来たんでしょうね。生まれる場所を間違ったのよ」  なぜか、フランシスは、知りもしない女に同情的だ。エレノアは黙っている。 「エレノア、どうしてあんたが機嫌悪くなるのよ。ただの面白い話じゃないの。アンゲルに気がある?」 「そうじゃない……どうしてみんな私とアンゲルを結び付けて考えるの?さっきのヘイゼルもそうだった」 「ヘイゼル……」  フランシスが立ち止った、そして、買い物バッグをエレノアに押し付けると、 「先に帰ってて」  と言って、どこかへ走り去った。 「フランシス……もしかして」  エレノアはあわてて後を追った。  嫌な予感がする……。  カフェ。ソレアとエブニーザが話している。駅に向かおうとしたエブニーザを、ソレアが無理矢理引っぱってきたのだ。 「早く帰って下さいよ!」  エブニーザはさっきから繰り返しているのだが、ソレアは聞く耳を持たない。 「いいかげん白状しなさいよ!さっきのエレノアって女とアンゲルは何か関係あるんでしょ?」 「僕に聞かれてもわかりません!」  エブニーザはあせっている。アンゲルかエレノアがここに来てしまったら困るからだ。 「とにかく、ここを出ましょうよ!」  エブニーザは必死だが、ソレアはその態度を不審に思ったようだ。 「なんで?」  ソレアは、ふてぶてしい疑問の顔で腕を組んで椅子にもたれた。 「ここにいると何か起こるの?誰かを待ってるの?あなたの彼女?」 「違います!」 「じゃあ何、その変な態度は」 「僕が変なのはいつものことですよ!」 「はあ?」  そこに現れたのはフランシスだ。  ただでさえパニック寸前のエブニーザは、フランシスがこちらに近づいてくるのが目に入った途端、軽く悲鳴を上げながらカフェを飛び出して行ってしまった。 「ちょっと!どこに行くのよ!」 「あんた誰?」  エブニーザが座っていた席にフランシスが近づき、誰もが震えあがるあの威圧的な目でソレアを見おろした。 「あ、あのー」  ソレアが後ろに身を引いた。 「私は友達を探しに来ただけなんですけどぉ」  さすがのソレアもフランシスは怖いらしい。  フランシスの後を追ってきたエレノアは、外からカフェの中を覗き、フランシスとソレアの姿を確認していた。  やっぱり……。 「買い物好きなんだ。意外だな」  後ろを振り向くと、ケンタが立っていた。茂みに隠れているエレノアと、その周りをとり囲んでいる、ブランドの名前が入った紙袋をじっと見ながら。 「全部フランシスのよ!」  エレノアは険しい表情をして小声で叫んだ。二人でその場を離れた。  カフェの中の二人が、エレノアとケンタに気づいた。 「なんだ、彼氏がいるのね」  ソレアが安心したようにつぶやいた。 「違うわよ。あれは音楽科の友達でしょ?アケパリ人の」  フランシスが冷ややかな声で言いながら席についた。 「じゃあ、やっぱりアンゲルと?」 「まさか。両目が離れすぎてるもの?」 「は?」  怪訝な顔をしたソレアに、フランシスが、悪役めいたニヤケ笑いを向けた。 「あんた、エレノアの顔をちゃんと見た?つりあわないでしょ?どう考えても。絶世の美女と爬虫類じゃ」 「何ですって?」 「あんた、教会っ子の割にはまともなお顔をしていらっしゃるからわからないんでしょうけどね、イシュハじゃ、見た目で人生の5割が決まるの。残りの5割が財産よ」 「そんなの変よ。見た目やお金じゃわからないことだってあるでしょう」 「管轄区じゃそうでしょうけど、ここはイシュハなの」 「アンゲルも私もイシュハ人じゃないから、わかりません。大事なのは心よ。気持ち。愛情」  ソレアが胸に手を当てて、反抗的な目でフランシスを睨んだ。フランシスは、 「面白いわぁ~」  とつぶやいて、好戦的な笑みを浮かべた。ソレアは恐怖を感じたが、弱みを見せてはいけないような気がしたので、フランシスを睨んだまま表情を変えなかった。  そこにヘイゼルがやってきた。 「美女二人で何を話しているのかな?」 「アンゲルをどこに隠したのよ?」  フランシスが面白がっている声で言った。 「ここに連れて来なさい。面白いものが見られるわ」  ソレアもヘイゼルもびっくりだ。 「やだね。女の金切り声なんて、シグノーのご令嬢だけで十分だ」 「いいから連れて来いって言ってるの!」 「そうよ!連れて来なさいよ!」  ソレアまでヘイゼルに向かって怒鳴り始めた。 「さっきから物知り顔でニヤニヤして、こそこそ人を隠すなんて、大した男じゃないわね」 「何ぃ!?」  ヘイゼルが怒りだしたが、ソレアはかまわずに悪口を言いまくり、フランシスは、 「わあ、最高!アハハハハ!!」 と一人笑っていた。  エレノアは音楽科の近くにあるコーヒーショップで、ケンタと話していた。 「みんなで私とアンゲルをからかって面白がってるのよ。ただの友達なのに。アンゲルは誤解してるし、エブニーザも私とアンゲルをくっつけようとするし……」 「で、エレノアは誰が好きなの?」 「だから!みんな友達なんだってば!」 「悪いけど、男はそうは思わないよ。エレノアは美人過ぎる。しかも控えめで性格もいい。歌の才能まで持ってる。そんな子が自分に話しかけてきたら、何か特別なことが起きたと思ってしまうもんなんだよ。残念ながら、男というのはそういう生き物だ」 「じゃあなんでエブニーザは私をアンゲルとくっつけようとするのよ!?」 「それは俺にもわからない。他に好きな子でもいるんじゃないの?絶世の美女が目に入らなくなるくらい好きな子が」  エレノアは黙り込んだ。エブニーザが誰を好きか、それはずいぶん前からわかっていたことだ。 「そういうエレノアも、自分の好きな奴ばかり見てて、そばで君を思ってる男には気がつかないんだな」  ケンタが静かにつぶやいた。エレノアがはっとしてケンタを見た。 「心配しない。俺もただの友達だから。ご存じの通り、俺も控えめなアケパリ人だよ。高慢なイシュハ人と違ってそのくらい自覚できっから」  ケンタは少しさみしそうに笑った。  エレノアは何と答えていいかわからず、コーヒーカップを無意味に手で弄んでいた。  寮の電話がさっきから鳴り続けているが。アンゲルもエブニーザも取ろうとしない。 「彼女と何かあったんですか?」 「何もないって!」 「じゃあなんでこんなところまで来るんですか?」 「こっちが聞きたいよ!」 「エレノアに誤解されたらどうするんですか?」 「うるさいな!」  さっきから二人はこの問答を繰り返していた。  バイトに行かないと……いや、だめだ、今日は休もう……ああ、でも生活費が。  アンゲルは、時計を見ながら頭を抱えていた。 「出ないわね」  女子寮の部屋でフランシスが電話を持って顔をしかめていた。 「ま、いいわ。今日はここに泊まって、明日の朝にでも待ち伏せしたら……ウフフ」  フランシスはとても楽しそうだ。 「でも……ここって、エレノアって人と一緒なんじゃ……」  ソレアが部屋を見回しながら心配そうにつぶやくと、 「いいの。エレノアには友達の家に行ってもらうから」  フランシスは常にニヤニヤしている。 「今夜も楽しみ、明日も楽しみ。フフフ……人生って面白いわあ」  エレノアとケンタが女子寮の前で、クーの黒塗りの車を発見した。 「遅かったわね!うちにいらっしゃい!」 車の窓から顔を出したクーが叫んだ。エレノアとケンタは顔を見合わせた。 「なんで?」 「フランシスが部屋に友達を泊めるんですって、だから、あなたは代わりにこっちに来るのよ」 「えっ?」 「ずいぶん横暴な話に聞こえるけど?」  ケンタが怪訝な顔をしてつぶやく。クーがレズだということを知っているので、エレノアと二人きりにしたくないのだ。 「あら、あなたも来る?ゲストルームはたくさんあるもの」  二人が驚いていると、黒服の男が出て来て、車のドアを開けた。 「とりあえず二人とも乗って!レストランに行くから!」 「でも俺金ねえ……」 「おごるから安心して」  エレノアとケンタがしかたなく高級車に乗りこむと、車はゆっくりと発進した。 「ポートタウンに向かいます」  運転手が低い声で言った。エレノアとケンタは困惑して顔を見合わせたが、クーはそんな二人を見て楽しそうに笑っていた。 「ゲストルームのドアにカギがかかるか、まず確認したほうがいいよ。かからなかったらタクシーで帰るんだ」  ケンタがエレノアの耳元でつぶやいた。  エレノアは、セカンドヴィラで起こったことを思い出し、全身をひきつらせた。 「えっ?」  コイン投げ(アンゲルの私物・両面裏)に負けて電話に出たエブニーザが、真っ青になった。 「だめですよ!そんなことしちゃ!」  アンゲルはその様子をソファーからじっと見ている。エブニーザは電話を切ると、 「出かけます!今日帰って来ないかも!」  と叫んで、部屋を飛び出していってしまった。  取り残されたアンゲルが呆然としていると、ヘイゼルが入ってきた。 「おい、あれは何だ?管轄区の魔女か?どうしてあんな恐ろしい奴を連れてきたんだ?」 「俺が連れて来たんじゃない!勝手に来たんだよ!」  アンゲルが叫んだが、ヘイゼルの様子がおかしいことに気がついた。 「……何かあった?」 「さんざん悪口を言われたぞ。あの口の悪さは悪魔級だ!シグノーの令嬢が二人いるようなものだぞ?ったく冗談じゃない!なんで俺があんな連中を相手にしなくちゃいかんのだ!?」 「普段の行いが悪いからだろ?」 「おおお、エンジェル氏、人の事が言えるのかな?そもそも魔女をこのアルターまで呼び寄せたのはどこの誰だったかな?」 「俺は呼んでない!!勝手に来たんだよ!」 「勝手に来るような態度を今まで取ってたんじゃないのか?女は簡単に誤解するからな」 「うるさい!ティッシュファントム!」 「ティッシュファントムじゃないって言ってるだろ!!」 「いちいち細かいことで怒るなよ!!」 「人の名前を間違えるのは礼儀に反してるだろ!!」 「お前に礼儀なんて言われたくない!」  二人のお決まりのケンカが始まった。    レストランに3人が着いたとき、入口にエブニーザが立っていたので、みな驚いた。  クーは、エブニーザを見たとたん、冷ややかな笑いを浮かべた。 「来るような気がしてたわ」  結局4人で食事することになった。  ケンタはやはり、エブニーザの目の色を不審に思ったようだが、エレノアに小声で、 「本人が気にしてるようだから、目の色については尋ねないほうがいいよね?」  と言った。エレノアは驚いた。しかも、エブニーザが図書館で読んでいる薬草辞典の話を始めた時、 「ああ、俺の実家に生えてるよ、それ」  ケンタが平然とそんなことを言い出した。 「俺のばあちゃんがよく摘んできて、餅に混ぜて食ってた」 「体にいいですからね。イシュハではあまり見かけませんけど……」  エブニーザのオタクめいた話にまで、ちゃんとついていく。これにはクーも驚いていた。 「アンゲルよりこっちのほうがお勧めじゃない?今頃管轄区の子と遊んでるんでしょう?」  クーがエレノアに耳打ちした。  エレノアは暗い顔で立ち上がり『トイレに行く』と、誰にも聞こえないような小さな声で言うと、席を離れた。クーがあわてて追いかけた。  エレノアとクーがいなくなってすぐ、ケンタは、 「姫さんがエレノアに手出ししないか、心配で来たんだろう?」  とエブニーザに言った。エブニーザは、怯えた顔で視線をそらした。 「エレノア好きか?」 「違います。僕じゃありません。僕はただ……」  エブニーザは気まずそうに横を向いていた。 「まあいいや。とりあえず目的は一致した」 「えっ?」 「姫さんには悪いけど、二人でエレノアを守ろう」  そのころ、クーとエレノアはトイレで話をしていた。 「大変ね。もてて。誰が好み?顔はエブニーザの方が明らかに綺麗だけど、あのアケパリ人はそうとうなテクニシャンよね。ギターの。ベッドではどうか知らないけど……」 「クー!!」  エレノアが怒る。 「やだ、怒らないでよ」 「怒るわよ!」  エレノアが珍しく大声で怒鳴り始めた。 「セカンドヴィラで自分が何をしたかわかってる?あれからずっと怖くてたまらなかったんだから!男が同じことをしたら犯罪じゃないの!!訴えてたわよ!!」 「ごめんなさい、お願い、怒らないで!二度としないから……」  クーが泣きそうな顔で懇願した。 「それに、今日は私だって、驚いたんですからね。いきなりフランシスが電話してきたと思ったら、エレノアを泊めろっていうんだから」 「フランシス……」  エレノアは、頭に上った血が急に引いて行くのを感じた。いや、怒りの矛先が、クーからフランシスに移ったと言うべきか。  きっと今頃フランシスは、あのソレアだか何だかと一緒にいるのだろう。 「きっと、何か企んでいるのよ。私とアンゲルをからかって遊ぶ気なんだわ……どうしてあんな性格なのかしら?うつ病?親のせい?」 「あら、アンゲルも呼ぶ?あなたに気のある男が勢揃い……」 「クー!!ちょっとは反省してよ!!」 「ごめんなさい、もう言わない」  二人が席に戻ると、ケンタがギターを弾きながら変な歌を、変な抑揚で歌っていた。  『ぼくのママには愛人が三人  奥さんは強くて柔道が黒帯  家事をサボると投げられる  皿を洗うと視界がかすむ  ああ~一生に一度でいいから~  大人しくて優しい子に~出会ってみたい~』  アケパリの芸人の歌を勝手に翻訳したものだ。周りの客が『うちの女房だ!』と叫びながら爆笑していた。エブニーザも楽しそうに笑っていた。 「ほんと、笑ってると天使みたいね」  エレノアはつぶやいた。でも、エブニーザの笑った顔(かなり珍しい)を見たにもかかわらず、最初に出会ったころほど心は騒がなかった。どうしてだろう?  夜中。エレノアの寝室のドア。  ケンタとエブニーザが、ドアをふさぐように座りこんでいた。  実はエレノアも起きていて、中で二人の話を聞いている。 「で、俺はほんとにすげえギタリストになるんだな?」 「間違いないですよ。見えますから。イシュハ中のギター少年が、ケンタと同じギターを欲しがるんです」 「真似されるのは好きじゃねえし、ギターが良ければいいってもんでもないけど、まあ、悪い気はしねえな」  ケンタはエブニーザの『未来が見える』という話を普通に、ジョークだと思って聞き流しているようだ。 「エレノアじゃなかったら、むしろ大歓迎なんだけどなあ」  ケンタが、背中のドアを親指で指した。 「美女が二人、からんでいちゃいちゃしてるのを見られんだから、最高だぜ?」 「やめてください」  エブニーザが露骨に嫌な顔をした。 「わかってるよ。ああ、俺たちは何をやってるんだろうな」 「ケンタもエレノアが好きなんですか?」 「そうだよ」  ケンタは迷わずに即答した。中でエレノアが身震いしたのを知らずに。 「でも、俺は自分が圏外だって知ってるよ……俺はギターと結婚するさ」 「ギターと結婚?」  エブニーザが真面目に驚きの声を上げた。 「そういう手続きが、アケパリにはあるんですか?」  ケンタは驚き、背中を丸めてうずくまると、声を殺して笑い始めた。 「どうして笑うんですか?」 「おまえ、面白え」  ケンタがアケパリ語で呟きながら、低くうなるような笑い声を洩らした。  結局、二人が心配したこと(クーがエレノアの寝室に入ること)は起きなかった。 「久しぶりに徹夜した。眠い」 「ケンタ」  朝、あくびしながら部屋に戻ろうとするケンタにエブニーザが声をかけた。ケンタがふり返ると、エブニーザはどこかさびしそうな顔をしていた。 「アンゲルは長生きしないよ」  ケンタはそれを聞いて、無言で眉をひそめた。エブニーザはさらに続けた。 「僕もそんなには生きられない。だから、その時にもまだエレノアが好きだったら、エレノアを守って」  エブニーザが敬語を使わないのは珍しいことで、それだけ内容が深刻だということなのだが、ケンタはそんなことは知らずに、 「覚えとくよ」  とだけ答えて、歩き出した。  エレノアは部屋の中で、ドアの前に呆然と立ちつくしていた。  ……今のは一体どういう意味?  朝、電話が鳴ったので、寝ぼけたアンゲルが受話器を取ると、 『入口に例の子がいるから、そこから出ないで下さい!』  エブニーザだ。  アンゲルはぞーっとして、またソファーに倒れ込んだ。どうしてこうなったんだろうかと考え始めた。  たしか、管轄区はつまらないとか言ってたな。『どうせ帰ったら誰かと結婚させられる』『どうせ不気味がられるから』……管轄区が嫌でたまらないんだな。  アンゲルにはその気持ちが痛いほどわかった。 「わかるけどさあ」  つぶやいて途方に暮れる。  俺だってあの国が嫌で抜け出してきたようなものだからな。……だからって俺に迫られても困る。しかもエレノアに……ああ!絶対誤解されてる!  アンゲルは起き上がって着替え、しばらくドアの前に立ち止まって考えたが、思い切って外に出て見ることにした。  今はっきりしておかないと、もっとまずいことになるような気がする……。  男子寮の入口にいるソレアを、遠くの道に停めた車の中からクーとケンタとエレノアが見ている。 「本気ね。思いつめてるわね。怖いわね」  とクーがささやいた。 「そんなにいやならはっきり嫌だって言えばいいのに、どうしてアンゲルは逃げるんだ?どっちもキープか?」  ケンタが不満げに言った。エレノアは黙ったまま、ソレアの姿を見つめている。  電話をかけに行ったエブニーザが帰ってきて、車に乗り込んだ。 「寝てたみたいです」 「のんきねえ」  クーが呆れた。そのうち、寮からアンゲルが出てきたのでみな注目するが、何か話をしたあとに、ソレアが泣きながら走っていくのが見えた。 「あ、ふられたな」  ケンタがつぶやいた。エブニーザが突然ドアを開けて追いかけて行ったので三人とも驚いたが、クーがすぐに、 「何か見えたのね、未来が」  とつぶやいた。 「へえ、あんたにも未来の話したのか」 「だれにでもするわよ。何て言われたの」 「世界一のギタリストになる。当たり前だろ?」  そのあまりにも自信ありげな答えに、エレノアとクーは笑ってしまった。  車に気付いたアンゲルが近づいて来た。 「何やってんだよ」  アンゲルはケンタを睨んだ。ケンタは、 「俺帰るよ。昨日の夜は女二人の相手で眠れなかったからな」  ぎょっとした顔のアンゲルを置いて、あくびをしながら去って行った。クーが声を上げて笑い始めた。 「ねえ、何あれ?どういう意味?」  慌てているアンゲルに向かって、エレノアは苦笑いするしかなかった。  駅で涙をぬぐいながら切符を買っていたソレアに、エブニーザが追いついた。 「何の用?」  エブニーザに気がついたソレアは、攻撃的な声をあげた。 「言っとくけど、これくらいであきらめないから」 「アンゲルは教会に睨まれているんです」  立ち去ろうとしたソレアが、その言葉でふり返った。 「タフサ・クロッチマーと心理学に関わっているから。バイトの帰りに教会の信者に襲われているし、実家に教会の人間が脅しに来たそうです。アンゲルとつきあったら、教会を敵に回すことになるし、ご家族とも別れることになるかもしれない。あなた自身が襲われるかもしれないんですよ?アンゲルを思う気持ちに偽りがないとしても、そこまで本当に覚悟できますか?」  ソレアは驚きのあまり動きが止まってしまった。教会の事なんて全く知らなかったのだ。 「うそでしょ?たしかにあの教会は異常だし、おかしいけど、そんなことまで」 「そんなことまでするんです。残念ながら」  ソレアはしばらく立ち止まったまま考えていたが、 「……帰る」  とエブニーザに背を向けて歩き出した。 「あなたは国に帰った方がいいですよ。きっといい人が現れますよ。僕にはわかる」  エブニーザはそう叫んだが、ソレアはふり返らなかった。  ……かわいそうだな。  エブニーザは、しばらくソレアの後ろ姿を見ていたが、若者の集団が、大声で笑いながら近づいてきたので、改札に背を向けて、逃げるように歩き出した。  カフェで『ソレアと何を話してたの?』『そもそもあれって何者?』とクーとエレノアに質問攻めにされたアンゲルは、 「俺は友達だとしか思えないって言っただけ!ソレアとはバイトが一緒なだけ!思い込みが激しいの!それだけ!関係ない!」  と、ずーっと叫び続ける羽目になった。 「かわいそうねえ。かわいい子だったのに。うちに飾りたいくらい」  クーが残念そうに遠い目をしたので、エレノアはぞーっとしたが、アンゲルはその意味に気がつかず、 「やめてくれよ。たしかに、かわいいし、教会っ子にしてはぶっ飛んでるけど……」  と、心の底から嫌そうな顔をした。 「エブニーザはどこへ行ったのかしら」  エレノアがふと思い出したようにつぶやいた。またエブニーザか!とアンゲルが顔をしかめ、クーがにやりと笑った。 「さっきの女の子を追いかけて行ったのよ。何か見えたのね」 「どういう意味?」 「さあ?私はもう帰るわ……またね、エレノア」  クーがエレノアを愛しげに見つめて笑うと、優雅に車のドアを閉め、発進させた。 「ねえ、なんでケンタとエブニーザがクーの車に乗ってたの?しかもエレノアまで」 「フランシスのせい……そういえば、すっかり忘れてたわ!フランシスがあの子を部屋に泊めるから悪いのよ!」 「何だって?」  アンゲルは驚き、エレノアは立ちあがった。 「私帰るわ。文句言わなきゃ」  エレノアが走っていき、一人残されたアンゲルは、 「みんなして何だよ?」  いじめられた子供のような、弱り切った顔をした。  エレノアが寮の部屋に入ったとたん、フランシスが抱きついてきた。 「ごめんね!エレノア!よかった!帰ってきたのね!もうこんなことしないから許して!」  エレノアが、何が何だかわからず黙っていると、フランシスがいまいましそうに叫んだ。 「管轄区の女はやっぱり気違いだわ!」  要するに、フランシスの予想以上に、ソレアは曲者だったらしい。『敬虔なる女神イライザの信者』であるソレアは、寝る前も起きた後も、食事の前も後も『意味不明な祈りの文句をぶつぶつつぶやいて』フランシスにまで『イライザ教の聖書の説明をして、改宗させようとした』というのだ。 「そこまでするの?すごいわね」 「しかも、布教するのが相手のためになると本気で思いこんでるから怖いのよ。ああ、気持ち悪い!もう二度と教会っ子には関わらないわ。ええ、冗談じゃないわよ。そういえば、気違い女が作ったサンドイッチとスープがあるけど、朝食にする?」 「味は普通?」 「サンドイッチは祈らないし、スープは布教活動しないわよ」  フランシスが笑った。 「ところで、クーの家で何されたの?やっぱり脱がされ……」 「フランシス!」  エレノアがすさまじい大声で怒鳴った。  フランシスは両手を前に出しながら、キッチンまで後退した。  エレノアはそのまま自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。  ああ、どうして、よくわからないことばかり起こるの?  アンゲルには変な子がついてくるし、  声が変わってるし……。  エレノアは、突然あることに気がついて、起き上がった。  昨日の事件のせいで、自分の声に悩んでいることを、すっかり忘れていた!!  信じられない。  クーのせいだわ!!  エレノアはまたベッドに倒れた。でもわからなかった。  どうして、アンゲルが女の子に追いかけられていたからって、私が声のことを忘れるほど動揺しなきゃいけないの?  答えは、わかるような気がした。  でも、エレノアは、考えるのをやめた。  わかりたくなかった。  レッスンの開始時間が、近づいていた。  でも、疲れていたエレノアは、そのまま眠りこんでしまった。
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