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第一章 アルターにやってくる
一人の女性から、この物語を始めよう。
ここは北国イシュハ。
女神アニタをたたえて管轄区から独立したこの国は、外国からの移民を無尽蔵に受け入れて発展してきた。もうすぐ建国500年を迎える。公用語はイシュハ語だが、町にはさまざまな言語が飛び交い、肌の色も髪の色も目の色もみんな違う。基本はアニタ信仰だが、実際は宗教も価値観もバラバラだ。
そんなイシュハの東方の街レハルノーサ。
公演を終えた芸人たちが、一斉に旅支度を始めていた。テントをたたみ、囲いや骨組を撤去し、馬や象を追い立てる。ほとんどの芸人は、商業の盛んな北のセカンドヴィラか、首都か、港町ポートタウンに向かう。
ミゲル・フィリとヤエコ・ノルタの芸人夫婦も、別な大都市に向かうために荷物をまとめていた。
しかし、娘のエレノアは違った。
「アルターの学校から入学許可が下りたわ!」
エレノアが、ぶあつい封筒を持って、半ばスキップするようにうきうきとしながら部屋の中をくるくると回った。まだステージ衣装を来ていたので、長いスカートのすそが大きく広がり、エレノアが父ミゲルに書類を見せようとしゃがみ込んだ時、スカートが大きなかぼちゃのように丸くふくれた。
アルターには、イシュハで一番大きな歴史ある高校があり、そこからほとんどの生徒がストレートで、アルターか首都の大学に進学する。規模は世界一で、イシュハ中の優秀な子供はすべてそこに送られてくると言っても過言ではない。
そんな高校から、途中入学の許可が下りたのだ。
「ここでちゃんと勉強すれば、音楽大学に行けるの」エレノアが父の顔に書類を押しあてた「成績が良ければ、学費も出るのよ!」
「でもお前、歌なんかは」ミゲル・フィリは娘のうれしそうな顔を見つめながらつぶやいた「大学なんか行かなくたって、勝手に覚えりゃいいもんじゃないか」
「まだそんなこと言ってるの?」
エレノアは立ち上がり、自分のスーツケースを引っぱりだして、目についたものを適当に詰め込み始めた。ほとんど自分が集めている大きな帽子だったが。
世界中を旅する芸人のもとに生まれたハーフの娘エレノアは、だれもが驚くほどの美貌と、驚くべき音感を持って生まれた娘だった。黒髪は母ヤエコ・ノルタから、青い目は父ミゲル・フィリから受け継いだものだ。
ヤエコは東方のアケパリ人。そして父ミゲルは西方のドゥロソ人。3歳から歌い始めたエレノアは、他の旅芸人の誰よりも確実に、観客の心をとらえた。美しい声。父も母も曲芸専門で、娘に歌など大して教えてもいないのに、エレノアの歌は音程も表現技法も完璧だった。
「大学で音楽の修士号を取れば、学校で教えることができるし」エレノアは最後に残っていたシャツをスーツケースに無理矢理押し込んだ「オペラハウスに入れるかも」
「そんなもんに入らなくても、お前は一人でもやってけるだろう」
「いっしょに世界を回ってりゃ食うに困らないのに」
母ヤエコが、アケパリ風の蔦模様の弁当箱を持って部屋に入ってきた。中には『ノルタ風手抜き料理』が詰まっている。
「わざわざ余計な苦労しに行くなんて、やっぱりあんたに似たんだよ、ミゲル」
アケパリなまりの強いドゥロソ語で、ヤエコが夫にささやいた。
「俺がいつ余計な苦労なんかした?」
にやつくヤエコに向かってミゲルが、ドゥロソなまりのアケパリ語で抗議した。
「流れ者のアケパリ芸人を妻にしたこととか?」
エレノアはイシュハ語で、ふざけてそんなことを言った。
「流れ者なんて言うんじゃない。私も立派な芸人だ」ヤエコがエレノアの頭を指でつっついた「大いに勉強しておいで、そして大成功しなさい。でも、男にはまっちゃだめよ」
「俺もそれが心配なんだ」
ミゲルが娘を見つめながら目を細めた。
ほんとうに、なんという美しい娘だろう……女神が芸術のためにこの世にお遣わしになったのかと思うほどだ。きっと、女神アニタの祝福を受けたに違いない。
今までだって、父ミゲルは思い出した。娘が大きくなるにつれて、旅先でたくさんの男たちがうちの娘を追いかけたもんだ。うまく追い返した奴もいるし、しつこく次の旅先までついてきた奴もいた……。
まあ、ヤエコがレッドタイガーを放したら逃げて行ったが……。
「大丈夫よ」エレノアが自信ありげに笑った「私、男になんか興味ないわ。歌が恋人なの。よく知っているでしょう?」
エレノアは父親に抱きついて頬にキスをした。ミゲルは笑ったが、とても寂しそうだ。
まあいい、変な男がついたら、虎のえさにでもしてやろう……。
そう思っていたのだが、もちろん娘には内緒だ。
同じころ。
イシュハの南、教会管轄区。
厳格な女神イライザの信者が暮らす国だ。人々は女神の戒律に従って暮らし、週に一度教会で祈りをささげ、罪深い行為を絶対に許さない。他の神を信仰することも認められていない。
その管轄区の、人知れぬ田舎町の、ある小さな家の中。
「イシュハは文明の進んだところだ、そこで暮らすことはいい勉強になるだろう。でもな」
アンゲルの父は深くしわの刻まれた眉間にさらに重い懸念を足し、これ以上ないほど深刻な顔で息子に忠告した。
「お前はイライザ教会の敬虔な信者だ。それを忘れずに正しく生活しろ。アニタ教のやつらはおそろしく怠慢で放蕩だというが、決して流されるな。金の貸し借りはするな。放蕩者に近づくな。酒の誘いは断れ。女にも手を出すな。真面目に勉学に励め」
隣では母親が、心配そうな顔でアンゲルを見つめている。
言葉が通じるとはいえ、違う神を信仰する異国の学校に息子を送るのは、心配でたまらないのだ。
「わかってるよ」
そう答えて、わざとらしいほどにこやかに笑いながら家を出たアンゲルだが、内心穏やかではなかった。
家を正面から見上げる。両親は見送りには出てこない。管轄区の習慣では、子供が巣立つときに見送るのはいけないことなのだ。一人前の大人になるための儀式である。
玄関から数歩歩き、振り返る。
今にも崩れそうな屋根(実際一度台風で崩壊した)と、玄関に飾られている、女神をかたどった古ぼけたレリーフを見つめながら、アンゲルは、
『俺は敬虔なイライザ教徒なんかじゃない!』
『女神の存在なんか信じられないから、イシュハに行くんだ!』
そう家に向かって叫びたくなった。でも、それはできなかった。この国で『女神を信じていない』などと口走ったらどういうことになるか、アンゲルはよく知っていた。
同じ学校に通っていたある少年が『女神なんているとは思えない』と教室で言った。
教師が憤慨して少年をどこかへ連れて行った。
その後、少年の姿を見た者はいない。
アンゲルの頭に、懲罰室とか、退学とか、宗教裁判という文字が浮かんだ。
あわてて頭を振った。そんな単語とは縁のない国にこれから行くのだ!
とにかく、あのけちな……いや、清く正しく貧乏な両親が、狂信的な……いや、敬虔なるイライザ教会の信徒が、あの放蕩女神アニタの国イシュハの学校に行くことを許可してくれたのだ。これだけで奇跡だ。
そのことだけは、イライザ様に感謝してもいいだろうとアンゲルは思っていた。
しかし、別な女神を信仰している国というのは、いったいどういうものだろう?新聞や本でその存在を知ってはいたが、アンゲルには『別な信仰』というものがどんなものか、想像もつかなかった。神話では、女神アニタは毎晩パーティーを開き、騒ぎ、飲み、食い、音楽を愛し、地上から人を招いたというが(それで厳格なイライザとは仲が悪いらしいが)そんな女神アニタの信者というのは、どういうものだろう?
俺自身たいした信仰なんてもってないからな。なおさらわかるわけがないな!
まあいい。行けば分かるだろう。
アンゲルは力強く歩き出した。未知の国に向かって。
駅まで10kmほど歩かなくてはいけない。車もバスもない。
土埃が風に舞う。最近晴れた日ばかり続き、空気が異様に乾燥している。
まずポートタウンへの列車に乗らなくては。
「エブニーザは絶対、イシュハの学校に行かせるべきです!」
同じく管轄区の、大富豪シュタイナーの豪邸の一室。
ヘイゼル・シュッティファントが、国会の宣誓のような口調で宣言した。
彼は北の国イシュハの大富豪の息子であるが、アルターの学校で問題を起こし、停学になったため国を抜け出して、シュタイナーのところへ『経済のお勉強』と称したバカンスにやって来た少年である。全ては父親のコネがなせる業である。
「そうかな?」
ヨシュア・クルツ・シュタイナーは、デスクの上で華麗な革表紙の本をめくり、愛用のモノクル(片メガネ)をいじりながらつぶやいた。
「私は、ここにおいたまま、家庭教師をつけようと思っていたんだが。なんせあいつは音やら声やら、他人を怖がるだろう?監禁の後遺症で」
「だからこそですよ!シュタイナーどの!」
ヘイゼルが書斎の机にバン!と両手をたたきつけて、シュタイナーを覗きこんだ。
シュタイナーはこの呼びかけ方が気に入らなかったのか、顔をしかめた。
「確かにあいつは何にでも怯えるし、時々妄想めいたことをしゃべったり、勝手にパニックに陥ったり、困った奴ですよ。可哀相な奴です。さんざん暴力をふるわれたんだから仕方ありません。でも、今のうちに普通の、世間というものに慣れておかないと、本当に将来は危うい。今やみんな競争しているのですからね。甘やかしていたらあっという間にどん底に落ちちまう。それに、あいつは素晴らしい才能を持っているのですぞ!難解な本も簡単に読むし、学校に行ってない癖に何ヶ国語も読めるし(しゃべるのは母国語でも苦手なようですがね!)株の暴落も、世界情勢の行方もぴたりと当てるんです!予知能力というのか洞察力と言うのか、とにかく、ここでいつまでも被害者扱いしていたのでは、せっかくの才能がつぶれますよ。これはあいつだけじゃなく、あなたにとっても損失じゃないですか?」
シュタイナーは、選挙演説のように勢いよくしゃべるこの少年を、うさんくさそうな顔で見つめていた。
「ご心配なく。俺もアルターの学校に戻る決意をしたのです(ほんとは二度と行きたくないんですけどね、あんな古臭い年寄りだらけの監獄にはね!)あそこの寮は二人部屋だ。俺があいつと同じ部屋に住んで面倒見ますよ」
「そこまで君がエブニーザに入れ込む理由は何だね?」
「あいつは使えるからですよ」
ヘイゼルは、策略を含んだ、そして、それを隠さずに前面に押し出した上目づかいで、目の前の大富豪の顔を覗き込んだ。
「他に理由が要りますか?」
不敵に笑うその顔つきは、とても十代の少年には見えなかった。壮年期を過ぎて経験を積んだ策略家の顔だった。
「いかにもシュッティファントらしい発言だな!」
シュタイナーが人を呼んだ。執事が入ってきた。わざとらしくモノクルに手を当てながら、何か書類を見せて指示を与えているようだ。
小声で話していたのではっきりは聞こえなかったが、ヘイゼルは、事態は自分の希望どおりに動いていると思った。なぜなら、シュタイナーの小声の端々に『アルターの学校……医者は近くに…………そういう子供のサポートは……』というフレーズが聞こえたからだ。
「いいだろう。費用は出そう」
執事が去ったあと、シュタイナーが表情を変えずに言った「ただし、エブニーザ自身が行きたいと言うのであれば、の話だ」
「行きたいに決まってますよ」
ヘイゼルが自信ありげに笑った。
「僕はここから出たくない」
シュタイナー邸の図書資料室。
端正な顔の少年がテーブルの下にもぐりこんで震えている。ほとんど真っ白に近い灰色の目は不安げに瞬きを繰り返し、両手は美しいブロンドの髪をぐしゃぐしゃと引っかき回している。
誰が見ても、病的に神経質だとわかる動きだ。
「なーにを今頃わけのわからんことを言ってるんだ!?」
ヘイゼルはエブニーザの肩をつかみ、勢いよく彼をテーブルの下から引きずり出した。机の本が床に落ちた。
「お前が言ってたんだろうが!エブニーザ!学校に行ってる自分が見えたってよ!」
「確かに見えましたけど」
エブニーザは震えながら目を見開いている。
「そんなの、ずっと先の事だと思って……急すぎますよ。来週?せめてもう一年くらい」
「アホ!お前の年じゃもう学校に行くのが当たり前なんだよ!(俺は例外だ。イシュハのバカ学校が性に合わなかったんでな!)一年も遅れを取ってたまるか」
「無理ですよ……たくさん人がいるところに入っていくなんて」
エブニーザがまた机の下にもぐろうとしたので、ヘイゼルが足で彼の前をふさいだ。
「無理もくそもあるか!もう決まったんだ!」ヘイゼルはせせら笑うような笑みを浮かべた「シュタイナーもその気だ」
「えっ」
エブニーザの顔から一気に血の気が引いた。今にも死んでしまいそうだ。
「ここにいたらお前のためにならないから、学校に行って才能を生かせってよ」
明らかなる嘘であるが、ヘイゼルはこういう策略が大好きである。
「で、でも、そんなこと」
「前から言ってるだろうが、早めにシュタイナー爺さんのところからは出たほうがいいってな」
「確かに言っていたような気がしますけど、それは、僕がもっとまともになったらの話で」
「安心しろ!お前がまともになる日なんか一生来ない!」
ヘイゼルが裁判所の判決文を読み上げるように宣言した。
エブニーザは凍りついたように動きが止まってしまった。
「……ここにずっといたら、の話だよ。そんなに動揺するなよ」
エブニーザがあまりにもショックを受けたようだったので、ヘイゼルはあわてて優しく付け足した。
「それに、いつもお前が夢に見てるあの女の子、いるだろ?」
エブニーザの目がぱっと輝いた。顔色はまだ最悪だったが。
「お前がまともになって、少なくとも生活できるくらいの収入がないと、彼女を助けられないぞ?そのためにも学校で勉強しろよ。才能は活かすもんだろ?」
「それは……」ためらいつつも心が動いたようだ「そう、かも、しれません、ね」
「そうそう。それじゃ俺、学校と家に電話すっから」
「えっ?」
呆然と床に座り込んでいるエブニーザに背を向けて、ヘイゼルは部屋の隅に置かれている、金色の装飾が細かく入った年代物の受話器を取った。
そして彼はまず両親に『エブニーザと同室じゃないと学校に戻ってやらないぞ!』と脅しの電話をかけ、アルターの学校の事務に『部屋を一つおさえろ!シュッティファント様のご帰還だ!』とやはり脅し(いや、本人は普通の事務連絡のつもりだったのだが)の言葉を贈ったのだった。
なんだここは。車だらけじゃないか!
国際都市ポートタウンで列車を降りて外を見たとたん、アンゲルは都会の風景に圧倒された。
どこまでも連なる真新しい家、信じられないくらい高いビルの連なり、地面を埋め尽くすように密集しているアパート……そして、無限に走っては消えて行く大量の自家用車。空気からは排気ガスのくぐもった匂いがし、遠くの地平線近くの空気も黒っぽく淀んで見える。
ポートタウンは南半分が管轄区領、北半分がイシュハ領で、駅はその境界線に建っているのだが、アンゲルが見ているのはイシュハ側だ。
アンゲルが育った小さな町では、車はめったに通らず、持っている人間も、教会の関係者か公務員くらいだったので、この、だれもが車に乗って移動している光景は、アンゲルにとってかなりの衝撃だった。乗り換えの時間も忘れて、しばらく外の光景を呆然と眺めていた。
こんなところで、やっていけるんだろうか……?
ホームの人の多さにも圧倒されていた。列車の発車時刻が近づくと、アンゲルが今まで見たことのある人間の総数よりもさらに多い人の列が、一斉にホームに現れる。そして、列車が到着すると、入れ替わりにもっと多い数の人間が列車から吐き出される。
いや、とりあえずアルター行きの列車に乗らないと。
アンゲルは頭を振って、額に手を当てた。頭の芯が締められるように痛みだした。ふらふらと外に出るための通路を探し、駅員に『アルター行きはどこですか』と聞き、あと5分で発車すると言われて、あわてて全力疾走して4番ホームまで走り、ドアが閉まるぎりぎりのところで列車に飛び込んだ。
疲れた……。
そのまま通路に座り込んでしまいたかったが、ドアの横に立っている客が、不審なものを見る目でこちらをうかがっていることに気がついたので、座席を探すことにした。
急に走ったせいで、荒くなった息がなかなか落ちついてくれない。とにかくどこかに座りたかった。3つほど車両を通り過ぎたが、混んでいて、開いている席がない。
次がだめだったら通路で倒れてやろうと思って4両目のドアを開けると、二人掛けの椅子の背もたれから、帽子らしきものが出ているのが目に入った。
隣の席には誰の頭も見えない。
「ここ、空いてますか?」
前に回って女性にそう聞いた時、アンゲルは驚きで息が止まった。
なんという美人だ!
そこにいたのは、アンゲルと同じ年頃の女性――しかし、全く別の世界から来たかのように美しい――だった。頭には古風な、花飾りのついた、紺色の、つばの広い帽子をかぶっている。黒髪は美しいつやをもっていて、肩の周りにゆるやかなウェーブを描いている。目は快晴の空のような濃い青だ。肌は光を放っているように見えるほど白い。黒髪と青い目という組み合わせをアンゲルは初めて見た。それに、穏やかな笑みを浮かべているその顔は、まるで聖女のようだ。服装は変わっていた。昔の絵本や芝居で見るような、古びた、乗馬服のようなスーツを着ている。まるでこの座席だけが、何百年も前に戻って、貴族の令嬢と向かい合ってしまったかのようだ。
「空いてるわ……どうしたの?」
アンゲルは、女性が不思議な顔つきで『座れば?』というしぐさで手を動かしているのにようやく気がついた。それまで彼女の顔を見たまま動けなかったのだ。
「すみません」
アンゲルは真っ赤になって席に着いた。隣の女性から何か、嗅いだ事のない香りがただよってくる。香水か?化粧か?アンゲルは女性の横顔をじっと見つめた。美しい。
「私の顔に何かついてる?」
隣の美女が彼に笑いかけてきた。
「人の顔をじーっと見るの、失礼じゃありません?」
「いや、あの、すみません」
アンゲルはその微笑みにすっかり心を奪われた。
「どこに向かっているんですか?」
「アルターの学校に行くの。入学許可が……」
「俺もアルターの学校に行くんです!」
アンゲルは頬を紅潮させて叫んだ。
「これはすばらしい偶然だ!何を学ぶんですか?いや、大学までは専攻なんてないか、俺は心理学をやるんですよ」
「心理学?」
彼女は、アンゲルの興奮した様子を怪しんでいるのか、目元を引きつらせて苦笑いをした。
「人の心を読むの?」
「ああ、みんなそう言うんですけど、ちょっと違うんですよ。人の行動を分析して『こういう傾向がある』っていうことを探る。べつに心を読むわけじゃないんです。それに、俺が目指してるのは心理療法士、臨床心理士っていうんです。聞いたことがないですか?」
「殺人事件の被害者のカウンセリングをしてる人?」
美女が少し首を傾けた。ますます可愛らしく見える。
「そうそう、でも、ほんとうはもっと一般的な悩みも扱うんですよ。離婚とか浮気で悩んでいる人とか、仕事上のストレスとか、試験前にうつ状態になった学生とか、そういう人を援助するんです。そういえば、学校にもカウンセラーが配置されているでしょう?」
「そうなの?」
「そういう時代なんですよ。病気を治すだけじゃなくて、心のほうもみてやらないといけなくなった。特にイシュハは精神病患者が激増してるらしい。だから学問も進んでいる。これはたぶん急激な近代化の弊害……あ」
アンゲルは、自分ばかり延々としゃべり続けていることに気がついた。
「しゃべりすぎたみたいだ。君は何を学びに?」
どうせ結婚するまでの暇つぶしだろうな、とアンゲルは頭の片隅で思った。女性なんてのはみんなそうなんだろう。
町の女の子たちを思い出す。何もかもが遅れている管轄区でも、学校はずいぶん前から男女平等になっているのだが、アンゲルの知っている同級生の女子たちはみな、学校の勉強なんて『花嫁修業』の一環くらいにしか思っていないように見えた。何か集まりがあると、町で一番かっこいい男とか、財産のある家の息子とか、公務員の息子なんかに女の子が群がっていく。アンゲルとその他『財産も地位も容姿も何も持ってない』男の子たちは、遠巻きに彼らを眺めているしかない。
「音楽よ」
エレノアが即答した。
「音楽?」
「私、歌手なの。両親が旅芸人で、私も一緒に仕事をしてきたわ」
「じゃあ、もうプロなんだね?」
「プロよ」
美少女が足元に置いてあった小さな赤いバッグから、カードを取り出した。
「エレノア・フィリ・ノルタ。フィリはドゥロソ人の父、ノルタはアケパリ人の母。どっちもマイノリティーだけど、私はオリジナリティーだと思っているの」
「素晴らしいね!」
何が素晴らしいのかはアンゲル自身よくわからなかった。でも、今目の前にいる美女は、過去に出会った女の子たち(管轄区の、真面目に勉強しない、ほぼ全員『公務員か金持ちの花嫁希望』の)とは、全く違うタイプの人間だということは理解した。
満面の笑みを浮かべながらエレノアのカードを受け取る。そこには、ピンクの地に赤い文字で彼女の名前が印刷してあり『歌の仕事、大歓迎』と小さな文字で添えてある。
「あなたの名前を聞いていないわ。心理学者さん?」
「アンゲル・レノウス」
アンゲルは握手を求めて手を差し出した。
「母親がこの子は天使だって、それがそのまま名前になった、かなり恥ずかしい」
「アンゲル」
エレノアが彼の手をとった。
「いい名前だわ。戯曲に出てきそうね」
アンゲルはその手ごとエレノアをひっぱって、抱きしめたい衝動に駆られたが、そんなことをしたらただの変態だと思って、必死で耐えた。
「実際古典には出てくるが、天使なんてみんな脇役で出番が少ないよね」
「まあ」
エレノアは自分の話を面白がっているようだ。アンゲルは嬉しくなって、彼が目指している心理療法士の話を始めた。エレノアは、音楽大学に行ってオペラ歌手になるのが目標だと言った。アンゲルは、
「心理療法士も、修士号がないと資格が取れないから、俺たちって似たようなもんだね」
と、無理矢理エレノアと自分を関連づけて喜んでいた。
そんな話をしているうちに列車はアルターにたどり着いた。アンゲルは、エレノアの大きなスーツケース(『何が入ってるの?』と聞いたら『衣装よ』と答えた)を駅の出口まで運んであげた。エレノアは昔の貴族のような大げさな一礼をして、それが服装とあまりに合っていたのでアンゲルが大笑いした。ついさっきまでイシュハの街に圧倒されていたことも忘れて、二人でアルターの学校の門をくぐり、女子寮の前で別れた。
「きっとまた会えるよね?」
「同じ学校だもの。見かけるわよ」
エレノアが女子寮の中に入っていく。その後ろ姿を見ながら、アンゲルは、
『これは運命だ!運命なんだ!』
と、若い男にありがちな勘違い発言を、頭の中で繰り返していた。
「3人だと!?」
アンゲルがエレノアと列車の旅をしていたころ、アルターの学生寮の事務室で、ヘイゼル・シュッティファントがカウンターに向かって叫んでいた。攻撃的な青い目は見開き、今にも目玉が飛び出しそうだ。
「ここはみんな二人部屋だろう?」
「それが、都合により3人で一部屋使ってもらうことになったんですよ」無愛想な事務員が、何の責任も感じていないように、平然と言い放った「学生が多くてね」
「どういう都合だそれは!」
ヘイゼルがカウンターを両手でバン!と叩いた。
「俺はエブニーザと二人なら戻ってもいいって言ったんだぞ?それが何だ?3人だって?部屋にはベッドルームは2つしかないだろうが!」
「一人はソファーに寝るとか、ご自分でベッドを一つ買うとか。お金はあるでしょう」
「お前は俺をバカにしてんのか!?」
ヘイゼルの叫び方がどんどんヒステリックに甲高くなっていく。
「ヘイゼル……」
後ろでその様子を見ていたエブニーザが、弱々しい態度で割って入ってきた。
「いいですよ、僕はソファーでも床でも眠れますから。慣れて……」
「ダメだ!お前はもう一生分床で寝ただろうが!」
ヘイゼルがエブニーザを怒鳴りつけ、そしてくるりと事務に向き直ってまた怒鳴り始めた。
「もう一人が到着する前に何とかしろ!さもないと、『3人目』は俺に暴行を加えられて実家に強制送還ってことになるぞ!」
「ヘイゼル!」
エブニーザが甲高い声で叫んだ。ヘイゼルが振り返ると、本当に、今にも声を上げて泣き出しそうな、涙でうるんだ目でこちらを見ているではないか。
「わかった、わーかった」
両手を振って出口に向かう。そして振り返り、高慢にカウンターを指さして、
「明日だぞ!明日!明日までに何とかしろ!」
と怒鳴りつけて、ヘイゼルは廊下に消えて行った。エブニーザはあわてて後を追った。
「どんなやつが来るのかね。見ものだね!いじめてやろうじゃないか!なあエブニーザ」
「きっと何も知らずに、二人部屋に入れると思って来るんですよ。僕らみたいに」
「知らないんなら『もう満杯です』って追い返してもいいんじゃないか?」
「ダメですって!」
そんな話をしながら廊下を歩く二人を、寮の学生が興味深い目で見ていた。
ヘイゼル・シュッティファントは、イシュハでは有名な大富豪の跡取り息子で、おしゃべりで、わがままである。学校ではすでに問題児として有名である。学費の総額より、破壊したものの弁償金額のほうがはるかに多い。
一方、エブニーザは常に何かにおびえてびくびくしていて、しゃべり方が奇妙に丁寧だ。出身地も不明。
そんな二人がなぜか同じ部屋にやってきた。学生たちはみんな、ヘイゼルが、面倒なことを押しつけるためにわざと、あの弱々しい少年を連れてきたに違いないと思った。
「もうだめ!あんな女とこれ以上一緒に暮らせない!」
女子寮の事務室、ある女生徒がそんなセリフを残して学校を去ろうとしているところに、エレノアが入ってきた。カウンターでわめいている女性の、ボリュームがありすぎてソフトクリームをさかさまにしたようになっている髪に驚きながら。
「ひどいヒステリーなの!!怒鳴りつける、物を投げる……きのうも私のフェイスクリームのビンを投げたんですよ!ロンハルトからの輸入品ですっごく高かったのに!フランシスって、何がきっかけで怒りだすか全然わからないんです。一緒にいると疲れて気が変になりそう……」
そんなソフトクリーム頭の話を聞きながら、エレノアは『困った人ってどこにでもいるのね』と思っていた。
彼女は両親と世界中を旅していたので、やっかいな人間には山ほど会っていた。演奏中にけちをつけて壇上に上がってきたり、曲芸や手品の種明かしをして『こんなのは子供騙しだ!』と文句をつけてきたり……。
ソフトクリーム頭が泣きながら出て行ったあと、エレノアがカウンターに近づくと、事務の女性が不自然なほどにこやかな笑いを浮かべて、
「ようこそ。ちょうど部屋が空いた所ですわ」
と、妙にうきうきした発音で言った。
エレノアも笑ったが、なんだか嫌な予感がした。
「あなたはとてもラッキーよ。この寮で一番格式の高い家のお嬢様と一緒よ」
「格式の高い?」
自由主義の国らしくない表現だなあとエレノアは思った。
「ええ。イシュハ名家のご令嬢よ。こんなことめったにあるものじゃないのよ!この国で2番目に資産のある家ですよ。財界や政界にも関係者がたくさんいらっしゃるの。このお嬢様と知り合えたら、あなたの世界もぐっと広がりますよ!」
事務の声がどんどん大げさに、早口に、甲高くなっていく。
エレノアは逆にどんどん心配になってきた。
「私、そんな偉い人とは合わないと思うけど……両親は二人とも芸人ですし」
「いいのいいの!そんなことこのイシュハでは誰も気にしないわ。自由国家ですからね」
事務員が押し付けるように書類を差し出した。
……じゃあなんで『ご令嬢』とか、『ラッキー』とか言うの?
矛盾を感じたが、エレノアはだまって微笑みながら、手続きを済ませた。
「3人部屋!?」
こちらは男子寮の事務。
叫んでいるのはヘイゼルではなく、今到着したばかりのアンゲル・レノウスだ。
「2人部屋って聞いてたんですけど?」
「それが、学生が多くてね、一部屋三人で使ってもらわんと入らないんだよ」
「それなら、僕はもう一つの安い寮に入りたいんですが」アンゲルは入学案内に載っていた、貧しい学生が入る古い寮のことを思い出した「僕は金持ちじゃないので、そちらのほうが合っているかなと。前からそう思ってたんですが、親が承知しなくって」
「あそこはね、両親がいないとか、外国からの移民で余分な財産がないとか、そういう人が入るところだからね。実際、事件も多いんだ。麻薬とか、不法なブランド物の密売とか。生徒同士のケンカも絶えないし」
「僕は管轄区の人間で、イシュハ人じゃないから、立派に外国の移民だと思いますけど」
「しかしね、君のご両親から『正しい生活をさせてください』っていう書簡が来てるんでね、ここに入ってもらわないと困るんだ。実は手続きも済んでいる」
「何だって!?」
アンゲルはそんなことは知らなかったので、驚いて大声を上げた。
なぜそんな余計なことをするんだ!?
「そんなの無視したっていいじゃないですか、実際ここの料金を払うのはきついんですよ。その……アルバイトを探す予定なんです」
アルバイトが見つかるかどうかが問題だな、とアンゲルは思った。頭の中で、自分の持ち金を必死で計算したが、何度数えたところで2カ月も持たない。生活費を送金できるほど親は裕福ではない。学費だけで手いっぱいだろう。
「そういうわけにはいかないんだよね。いちおう学校ってのは保護者の許可があって入るもんだから」
「学校じゃなくて、寮の話をしてるんですよ!!」
アンゲルの声が神経質になってきた。
「生活費の話をしてるんです!」
「とにかく、君はここに入ってもらうから」
無愛想な事務員がプリントを差し出した。
「寮の内部。ここが君の部屋。もう二人入ってるから、せいぜい仲良くするんだね。それと、先に言っとくが……」
事務員がぎょろりとした目でアンゲルを睨んだ。アンゲルは怖くなってきた。
「同じ部屋に、ヘイゼル・シュッティファントがいる。覚悟したまえ」
何かの刑の宣告のような調子で、事務員がそう言った。
アンゲルは、事務員が何を言いたいのかわからなかった。
シュッティファント?……あれ?聞いたことがあるような気がするが……。
「何か問題なんですか、その、シュッ……えーと、何でしたっけ?」
「何だ、知らないのか」
事務員が呆れた顔をした。
「じゃ、今すぐ部屋に行きなさい。私が何を言いたかったかすぐにわかるから」
事務員はそう言うと、奥に引っ込んでしまった。
アンゲルは渡されたプリントを見ながら、ゆっくりと廊下に向かって歩き始めた。
やれやれ。2人部屋に3人か。これはもめそうだな……。
「何よ、その変な格好は」
エレノアが部屋の重いドアを開けたとたん、不機嫌な、攻撃的な声が耳に入ってきた。
ここは女子寮の最上階。
部屋の窓辺に女性が立っているのが見える。
逆光で顔が良く見えないが、スタイルがいいことがそのシルエットからわかる。
マネキン人形のような体のラインが、くっきりと浮かび上がっている。
美しいな、とエレノアは思った。
「今日から同室のエレノアです。よろしく……」
「その変な服は何だって聞いてるのよ!」
女性が怒鳴った。
エレノアは瞬きをした。
何で怒ってるの?
「これ?これは馬に乗る時に着るものよ。かなり昔のね。私の家族は旅芸人だからこんな服ばかり持ってるの。100年戦争時代の衣装とかね。実際馬にも乗るわよ」
エレノアが何の気なしにそんな話をすると、
「旅芸人の娘がわたしと同じ部屋?事務のやつら、何考えてやがんのよ」
不機嫌な声、お嬢様にしては乱暴な言葉遣いと共に女性が近づいてきて、その顔が少しずつ、はっきりと、見え始めた。
意思的な、つりあがった眉と目。その視線の鋭いこと!まるで野生動物のようだ。エレノアは母が曲芸のために飼っていたレッドタイガーを思い出した。獲物を睨む目つきだ!
イシュハ・ヴァイオレット(イシュハの国旗の紫色)の縦縞の入ったブラウスと、黒いロングスカート。地味な服装だが、材質は見るからに高価で、どこかのブランドのものだろうとエレノアは思った。
美しい金髪は頭上でまとめられていて上品に見えるが、口元が不機嫌に歪んでいて、全体の高貴さを台無しにしている。左手の中指には大きなアメシストのはまった金色の指輪が見える。
機嫌が悪そうだな……。
エレノアは長旅(と、列車で一緒だった変な男の長話)で疲れていたので、今すぐベッドに倒れこんで寝たかったのだが、そういうわけにもいかないようだと覚悟した。
「エレノア・フィリ・ノルタよ」
エレノアは自分から手を差し出した。
金髪の女性は、その手をじっと、まるで、汚いものかどうかを判断するような見下した目で観察し、しかたないわね、というふうに自分の手を一瞬重ねて、すぐに戻した。
「フランシス・シグノー」
「綺麗な名前ね」
「古臭い、ださい名前よ」
フランシスが腕を組んで、見下ろすような格好でエレノアを睨んだ。
「あなた、どこの出身?イシュハではなさそうね?」
「父がドゥロソ、母がアケパリよ」
「まあ!」
フランシスが嘲笑うような笑みを浮かべた。
「どちらもイシュハと戦争をした国じゃありませんか!シグノーの娘のところにそんな子を送るなんて、ここの事務って挑発的ね?そう思わない?」
「他に空き部屋がなかっただけよ」
「フン」
フランシスは鼻先で笑った。
「そんなお人よしな発言はやめなさい。ここはある意味、戦場よ?甘いこと言ってると騙されるわよ」
「誰に?」
「誰にって……いろんな人よ!いちいち聞くんじゃないわよ!」
フランシスはヒステリックに叫ぶと、右側のドアを開けて中に入り、バン!と勢いよく閉めた。そして、
「あんたの部屋はあっち!」
と叫んだ。
エレノアが逆側を見ると、もうひとつドアがあるのがわかった。
ああ、ようやく寝れる!
エレノアはスーツケースを抱えると、勢いよく『自分の部屋』に飛び込んだ。スーツケースを放り出し、勢いよくベッドに飛び込む。体全体が大きく跳ねた。柔らかい。
しばらくベッドの上でまどろんでいたが、ふと起き上がり、窓の外を見ると、そこには信じられないほど広く高い空と、どこまでも続く街並み。
空は暗くなり始めていて、街の明かりが無数の星のように大地を照らしている。
空と大地が逆になったようだ。
とエレノアは思った。以前ドゥロソの荒野を旅した時、空には満天の星、地面の方は荒野だから、ごつごつした岩だらけ。建物もなく、夜は真っ暗になった。
ここでは逆に大地が光で満ちていて、空には星が見えない。
本当に来ちゃったんだわ……。
エレノアは窓の外を眺めながら、自分がこの場所にいる不思議を思った。
「おーお来たか、迷える三人目よ!」
アンゲルが指定された部屋に入ると、劇のせりふのようなよく通る声が響いてきた。
見ると、そこにはソファーが二つ、テーブルが一つ、左右にドアがそれぞれ一つずつあり、そのうち一つの前に座り込んでいる男が、こちらを見てにやにやと笑っていた。季節に合わない、暑苦しい赤いジャケットを着ていて、染めたのか、髪は茶色と金髪が混じって不思議な色になっている。そして、見るからに人を軽蔑している笑いを浮かべ、偉そうにふんぞり返ってドアをふさいでいる。
もう一つのドアの前にも少年が座っていたが、こちらはちぢこまっていて、いかにも気弱そうだ。
「御覧の通りここには二部屋しかないんでね、お帰りいただこうかな?」
劇画のようなしゃべりの男が、嘲笑うような目でアンゲルを睨んでいる。
「僕、本当はこんなことしたくないんです」
気弱そうな少年がつぶやいた。こちらは学生らしく、白いシャツに黒のスラックス姿だ。
アンゲルはその少年のあまりの肌の青白さに驚いた。見るからにか細く、体が弱そうだ。
しかも目が白い。
アンゲルはその奇妙な目の色が気になって、じっと少年の目を見つめてしまった。
目が白いな。いや、グレーか?
いや、色がないぞ?なぜだ?盲目か?
「エブニーザ!」
劇画男があきれたような声を出した。
「あー、俺はヘイゼル。ヘイゼル・シュッティファントだ。君も聞いたことがあるだろう?」
「ない」
「えっ?」
アンゲルが白けた顔で即答したので、ヘイゼルは驚いたようだ。
「シュッティファントだぞ」
ヘイゼルが立ち上がって、アンゲルに近寄ってきた。
「聞いたことないか?」
「俺は管轄区から来たんだよ。ティッシュファントムなんか知らないね」
「シュッティファントだ!人をティッシュお化けにするんじゃない!」
ヘイゼルが叫んだ。耳に響く大声だ。
「ティッシュファントム……」
目の白い少年が、くすくすと笑いだした。
宗教画の天使みたいだな。
アンゲルは笑っているエブニーザを見てそう思った。青白すぎる顔色は除くとして、明るい金髪、奇妙な白っぽいグレーの瞳、端正で美しい顔立ち、笑った顔の優しさ。
確か、エリ・クレマーシュが描いた女神の絵に、そっくりな天使が描かれていたような気がする。美術の教科書に載っていた……。
「そっちの君は、何て名前だっけ?」
アンゲルはヘイゼルを無視して、気弱そうな少年に話しかけた。
「エブニーザ……デリス」
エブニーザの顔から笑いが消え、怯えが走った。
「俺はアンゲル・レノウス。心配しなくても君の部屋はとらないよ。こっちのティッシュ何とかを退治することにしたんでね」
「ティッシュじゃない!シュッティファントだ!!」
ヘイゼルがまた叫んだ。その声があまりにも大きかったので、アンゲルは両手で耳をふさいで後ろに数歩下がった。
「僕は床で寝るのに慣れてますから、そこのソファーで寝てもいいですよ」
「エブニーザ!!!」
ヘイゼルが、部屋の空気が振動するようなすさまじい声でエブニーザを怒鳴りつけた。
エブニーザは怯えてびくりと体を震わせた。顔からますます血の気が引いていく。
まるで犬のような扱いだな!とアンゲルはエブニーザを気の毒に思い始めた。しかも、話し方が妙に丁寧だし、怯え方も普通じゃない。友達同士にしては何かがおかしい。
「床で寝るのに慣れてる?それは問題だな」
「こいつは苦労人だからな」
ヘイゼルがつぶやき、後ろのドアを開けたかと思うと、中からサッカーボールを持ち出してきた。アンゲルに向かってにボールをかざしてにやりと笑う。
「これで勝負だ!」
「サッカー?」
アンゲルはにやりと笑った。サッカーは誰よりも得意だ。管轄区では少年チームに所属してメンバーをまとめていたし、去年の大会では、管轄区の優勝チームのフォワードだった。何より、目の前のティッシュお化けに負ける気なんて微塵もしない!
「悪いけど、勝つのは俺だ!」
「おーおー言ったなこの野郎!」
ヘイゼルがボールを思い切り蹴った、アンゲルは胸で軽々と受け止めてリフティングを始めた。ヘイゼルがボールを奪うために飛びかかってきた。
「ああ!駄目ですって!室内でサッカーは禁止だって前にも……」
エブニーザはおろおろしながら二人を止めようとしたが、二人があまりにもめまぐるしく動き回るのでとても追いつけない。アンゲルはヘイゼルにボールを渡さないように部屋中を飛び回る。ヘイゼルも本気で追いかける、二人とボールはソファーや家具の上を飛び、あらゆるものを倒し、エブニーザは泣きそうな顔で『やめてください!やめて!やめてってば!』を繰り返し叫んでいた……。
「エレノア!エレノア!」
眠っていたエレノアは、誰かのヒステリックな叫び声で目が覚めた。
「夕食よ!出てきなさい!まさかもう寝てるんじゃないでしょうね!」
怒鳴り声と、ドアを乱暴に蹴る音が耳と頭に響く。
エレノアはしばしぼんやりと宙を見たのち、自分が今アルターの学校の女子寮にいて、同室の誰かさんがものすごくヒステリックだということを思い出した。
「旅で疲れて寝てたのよ。そんなに怒鳴らなくても……!」
ドアを開けたエレノアは、目の前の光景に驚き、息がとまるかと思った。
テーブルの上には氷で冷やされているワインと、芸術品のような、綺麗な彫刻の入ったワイングラスが二つ。絵画に描かれるようなフルーツが山盛りになった大皿が一つ。赤い、宝石のようにつやつやとしたロブスターを使った料理がふた皿。
他にもたくさんの料理が並んでいる。
細かい装飾の入ったろうそくが、料理と、頬づえをついて笑っているフランシスの顔を照らしていた。
あまりに幻想的で、まるで、何世紀も前の絵画の世界に迷い込んだようだ。
「言っとくけど、いいものは今日だけよ」
フランシスが、フォークを手元で弄びながら言った。
「特別にうちの料理人に作らせたの。明日の朝から、寮の食堂よ。あそこのビュッフェは最悪。ここの料理人は味覚がないのよ」
そりゃあ、こんなものを普通に食べてたら、なんでもまずく感じるでしょうよ。
エレノアは、ためらいがちにテーブルに近づきながら、フランシスの家のすごさを、そのテーブルから感じ取っていた。まるで、豪勢な料理がオーラを放ち、ふさわしくない客を遠のけようとしているようだ。
フランシスは、エレノアが席に着くのを待たずに、ロブスターをつっつき始めた。
「あなたの家って、お金持ち?」
「あら?ご存じないの?」
フランシスが気取った、見下した目つきでエレノアを見た。
「イシュハでは、シュッティファントの次にお金持ちなのよ」
「シュッティファントは聞いたことがあるわ」
エレノアは、どこから料理に手をつければいいのか迷っていた。
「これって食べていいのよね」
「当たり前でしょ?食べないでどうするの?まさか絵でも描く気じゃないでしょうね」
「私も今、絵画みたいって思ってたの、このテーブルも、あなたもね」
「私?やめてよ、古臭い絵になんか閉じ込められたくないわ」
「絵画がみんな古臭いわけじゃないでしょ」
「古臭いわよ。今は映像とイラストの時代なの」
フランシスが鼻にかけたような声で笑った。
「私、デザインもやっているのよ。趣味だけど」
「デザイン?」
「広告とか、ポスターよ。今はそういう時代なの」
エレノアはフランシスの会話の受け答えから、今まで会ってきた『お嬢様』とは何かが違うなと思った。にこにこ笑い、愛想を取ることしかしない女性を、エレノアはどこの国でもたくさん見てきた。特に、大きな家のご令嬢は、あたりさわりのないことしか話したがらない。相手が旅芸人ならなおさらだ。
でも、フランシスは違いそうだ。
「あなた、ここに来る前はどこにいたの?」
「最近は、セカンドヴィラとレハルノーサ」
「レハルノーサ?」
フランシスが馬鹿にしたような声を出した。
「あんなところで芸をやったって、だれも見ないじゃないの。田舎でしょ?おじいさんしか住んでない」
「そんなことないわ。独特な伝統があって……確かにお父さんの曲芸は反応が薄かったけど(すごく落ち込んでたのよ!)みんな歌は好きよ」
「歌うの?」
「私は歌手よ」
「へええ」
フランシスが試すような目つきになって、両手をあごにあてて肘をテーブルにつけ、見下すように目を細めた。
「歌ってよ」
「えっ?」
「何でもいいから、聞かせてよ」
エレノアはしばし、頭の中で知っている曲を反芻して、どれを選ぶべきか考えた。
そして、立ち上がり、歌い始めた。
澄んだ、力強い歌声が、部屋いっぱいに響き渡る。
その声は独特の流れを持っていて、部屋の中の空気を別な世界に塗り替えていった。
戦争に行った男を待っている女。
でも男は帰ってこない。
女は一人で街に出かける。
昔を思い出して泣きたくなる……。
さびれた町の飲み屋をさまよう女の姿が、フランシスの意識にはっきりと映った。それほど、エレノアの歌の力は大きかった。
歌が終わった時、フランシスの顔から、さきほどまで浮かんでいた、試すような顔も、見下したような態度も、消えていた。
「どう?これ、ロンハルトの歌を翻訳したものよ」
フランシスは何も答えず、無言で立ちあがり、自分の部屋に入っていった。
「フランシス?」
「食べてて!」
怒鳴り声が聞こえた。
気に入らなかったのだろうか?
エレノアは不安になったが、まだ手をつけていないロブスターを見て、早めに食べたほうがいいなと思った。フランシスがまたヒステリーを起こす前に。
フランシスは、自分の部屋の電話を取り、直通のダイヤルを回した。
「今年のフェスティバルに出る歌手が決まったわ」フランシスは、相手が出るなりこんなことを言った「エレノア・フィリ・ノルタよ。ポスターに大きく名前を出すわ。あと、彼女が私のルームメイトだってことを忘れないでよ!」
男子寮。
アンゲルとヘイゼル、そしてエブニーザが、一様に疲れ切った表情でソファーに身を投げ出していた。
あれから一時間近く、アンゲルとヘイゼルはボールを奪い合って部屋を駆け回り、エブニーザは止めようとしたが、ヘイゼルの蹴ったボールが顔面を直撃して気を失ってしまい、騒ぎを聞いた他の学生が事務に連絡し、アンゲルとヘイゼルは頭の固い事務員に説教をされ……。
そして、今、二人揃って視線を宙に浮かせているのだった。エブニーザは眠っている。鼻血を止めるためにティッシュを鼻に詰めたままだ。
「なあ、エンジェル氏」
ヘイゼルがわざとアンゲルを別な読み方で呼んだ。
「あそこで寝ている哀れな鼻血君はな、小さいころに人さらいにさらわれたんだ」
「は?」
今度は何を演説するつもりだろう?
アンゲルはこの一時間で、ヘイゼルの話し癖がなんとなくわかりかけていた。すべては大げさに、劇画のように語られるのだ。そして延々と終わらない。
「管轄区じゃ、小さい子供がさらわれる事件が多発してたんだろ?」
「それは確かにそうだけど……」
アンゲルは小さいころのある事件を思い出した。
同じ街の端っこに、若い夫婦と小さな女の子が住んでいたのだが、ある日、人さらいに襲われ、夫婦は殺された。
女の子の姿は消えていた。
それからしばらく、町の子供たちは家から一歩も出ることを許されなかった。学校も半年近く休校した。当然その間授業は行われず、自学自習で不安を残したまま、次の学年に進級してしまった。
似たような事件が、管轄区じゅうで起きていた。
人さらいは必ず、両親や同居の祖父母を殺害していく。だから目撃者もいない。
何のために子供をさらっていくのか、誰もが不思議に思ったが、誰にも理由がわからなかった。さらわれた子供は誰ひとり発見されていない。管轄区の発表では。
「エブニーザも被害者の一人さ。どこかで強制労働をさせられていたらしい。詳しくは知らないが、おそらく、毎日重いものを運んで、殴られて、犬みたいに床で眠る生活さ」
「本当か?それ」
アンゲルが身を乗り出した。
「本当に人さらいの被害者だとしたら、大ニュースになるはずじゃないか?みんな行方を探しているんだぞ?」
信じがたい話だった。今目の前で眠っている少年は、見るからに(鼻血を除けば)上品な、恵まれた家の、身分の高い人間のように見えた。
ヘイゼルより、エブニーザのほうが、育ちがよさそうに見えるけどな……。
「本当なんだ。でも上手く逃げ出した。倒れているところをドゥーシンが、あ、俺の知り合いなんだけど、そいつが見つけた。シュタイナー爺さんに引き取られることになった」
「シュタイナーだって!?」
アンゲルがその名前を聞いて、驚愕のあまり跳ね起きた。
「おおお、さすが管轄区の教会っ子だ。シュッティファントは知らないくせにシュタイナーは知ってるんだな?」
ヘイゼルが軽蔑を含んだ口調になった。
アンゲルにとって、いや、管轄区のすべての人間にとって、シュタイナーは英雄だ。国一番の財閥。イライザ教会のもっとも富める後ろ盾……。
「ほんとうにあのシュタイナーなのか?あの黒い怪盗が?」
『黒い怪盗』というのは、シュタイナーのニックネームである。いつもモノクル(片メガネ)をかけて、黒い帽子、黒いタキシードという格好で、100年戦争時代の馬車に乗って人前に姿を現すため、こう呼ばれている。
シュタイナーが諸国を馬車で回っていた時に、アンゲルが住んでいた町の近くを通った。町じゅうの人が集まってその馬車を見送った。もちろんアンゲルも両親と一緒に馬車を見た。それからしばらく、町じゅうがその話でもちきりだった。
「そうそう、怪盗シュタイナーがエブニーザを引き取って、ここの学費も出している」
「何で!?」
アンゲルはあることを思いついた。
「そうか、犯人を探すためだな?シュタイナーならそうしようとするはずだ。人さらいを捕まえるためだろ?管轄区の実権はシュタイナーが握ってるんだからそれくらいの権限はあるだろ?」
「そんなことするか?あのシュタイナーが」
ヘイゼルがうさんくさい顔をした。
「お前ら教会っ子が思ってるような人間じゃないぞ、シュタイナーは。したたかで計算高くて策略がお得意だ。そんな面倒なことに自分から関わるとは思えない」
ヘイゼルが軽蔑のまなざしをアンゲルに向けた。
「イメージ戦略にはまるなよ。趣味で馬車に乗って旅をしてる気のいい爺さんだと思ってるだろ?教会っ子はみんな従順だからね~。女神様シュタイナー様だろ?」
「そんなことはない」
アンゲルは真っ向から否定した。確かに教会っ子にとってシュタイナーは特別な存在だが、良くない噂も時々入ってくる。敵対している人物を暗殺するとか、教会をビジネスに利用していて、実は女神を信じていないとか……。
「そんなことあるさ。騙されてるよ。うちは取引があるからよーく知ってる。商売相手として実にやっかいだ。そのうち俺が正しいってことが分かるさ。あのじいさんがエブニーザを引き取ったのは、単に、天才だからさ、エブニーザが」
「天才?」
「いずれわかる」
ヘイゼルが自分の自慢をするように、満足げににんまりと笑った。
「それにしても……信じられない」
アンゲルが背もたれに倒れこんで天を仰いだ。
あのシュタイナーの関係者に、この外国イシュハで出会うとは!
「じゃあ、エブニーザはシュタイナー本人に会ったのか?」
「会った?そんなもんじゃない。あの豪邸に一緒に住んでいたのさ、先週までな」
「ええっ!?」
アンゲルは、すぐにでもエブニーザをたたき起こし『本当か!館の中の様子はどうなんだ!?本物のシュタイナーはどんな人間なんだ!?』と質問したい衝動に駆られた。
「可哀相な奴なんだよ。未だにさらわれていた頃の記憶にさいなまれてる。びくびくしている感じがするだろ?しないか?」
「俺はさっき来たばっかだぞ?」
アンゲルはそう言い返したが、実はさっきから、エブニーザの妙に怯えた態度は気になっていた。
「てっきりお前が怒鳴りまくるから怯えているのかと」
「そんなわけないだろうが。おれはあいつを保護するためにここにいると言っても過言ではないのだぞ」
「それは大いに疑わしい発言だな!」
アンゲルはヘイゼルの大げさな話し方をまねて抗議した。
「追いつめてるようにしか見えないぞ。そういうのは、医者かカウンセラーの仕事だろ?少なくとも、もっと穏やかな人のほうが合ってる」
「そうそう、カウンセラーね。この学校にもいるな。エブニーザは週に一回そいつらに会わないといけないらしい。未だに原因不明の発作やパニックが起こるから、経過を見たいんだと。大いに同情するね。俺はあいつらが嫌いなんだ」
「何で?」
「何にもわかっちゃいないからさ。まあ、そんなことはどうでもいい、俺が言いたいのは……」
「どうでもよくない。俺は心理学をやりにここに来たんだ」
「教会っ子には無理だ。やめとけ」
ヘイゼルは有無を言わさない口調だ。
「俺が言いたいのは……」
「何だよ」
アンゲルは悟った。ヘイゼルがしゃべりたいときに口をはさむのは無駄だと。
「カウンセラーの悪口なら聞かないぞ」
「エブニーザにソファーで寝ろなんて、誰も言っちゃいけないんだよ」
ヘイゼルが急に、静かで同情的な、高慢さのない口調になった。
「監禁されている間、ずっと床で寝かされて」
「ああ、だからさっき『慣れてる』って言ってたのか」
「だから、お前に部屋を取られると困るんだ」
「だから、俺はティッシュファントムの部屋を取るって言っただろ」
「俺に向かって二度とティッシュファントムって言うなよ!」
ヘイゼルがすさまじい大声で、唾を飛ばしながら怒鳴った。
「今度言ったら本気で殴り殺してやる!」
「わかったわかった!どうしてそんなにすぐ怒鳴るんだ!?」
「お前が変なことを言うからだろうが!」
ヘイゼルの怒鳴り声があまりにも大きいので、アンゲルの耳がひりひりと痛んだ。
「わかった、わかったよ、もう言わない」
声と唾を防ぐように両手を前に出しながら、アンゲルは後ろに身を引いた。
「とにかく、俺が何を言いたいかというとだな」
ヘイゼルはまた、昔話のような口調に戻って話し始めた。
「いいから早く言ってくれ」
アンゲルはうんざりしてきた。この調子だと永遠に話が終わらない!
「ここには、実は、部屋が三つあるだろ」
ヘイゼルが、まず自分の部屋のドアを指さし、次に、エブニーザの部屋のドアを指さし、最後に、自分が座っているソファーを親指で指した。
「ああ、ここも部屋だな。すっかり忘れてた」
「だから、三人目はここを使えばいい」
「おいおいおい。俺にずっとソファーで寝ろっての?」
「ベッドが欲しいなら買ってやるよ」
ヘイゼルが意地悪な目つきをした。
「男に買ってもらったベッドでぐっすり眠ればいいさ。できるもんならな」
「変な言い方をするなよ」
アンゲルは露骨に嫌な顔をした。
「勝手に毛布でも持ち込んで寝るよ。これ以上ばかばかしい言い争いをしたくない。ここが俺の部屋ってことでいいんだな?あのへんは」
ソファーの後ろの、何も入っていない棚を指さして、アンゲルが渋い顔をした。
「心理学の本で埋まるぞ?」
「勝手にすりゃいいさ。ほんとは追い出すつもりだったんだがな」ヘイゼルは残念そうな顔で、床に転がっているサッカーボールを拾い上げた「サッカーのできるやつは追い出せない」
「チームに入ってたのか?」
「あいにくチームワークは苦手でね」
「だろうなあ……」アンゲルは横目でエブニーザを見た。まだ眠っている「こいつは?」
「あーダメだ、全然ダメ。恐ろしくトロい。スポーツってものがそもそも嫌いらしい」
「だろうなあ……」
「その『だろうなあ……』は何だ?心理学的推測か?」
「単なる第一印象だよ。最悪だ」
アンゲルはヘイゼルに向かって、困惑の交じった笑いを投げかけた。
「ほんと、最悪だ」
「フェスティバル?」
「女神アニタ降臨祭。まあ、ようするにバカ騒ぎよ」
食事は一通り片づいて、フランシスが『もういらない』と言い張っているエレノアのグラスにむりやりワイン(本当は未成年だから飲んではいけないのだが、フランシスはそんなこと気にもしない!)を注ぎながらにやりと笑った。
「音楽をやってる連中が何人か歌うんだけど、最後に歌うメインの歌姫が決まってなかったの。毎年一人選出するのよ。私が決めるの。あんたがやって」
「ほんとに?」
エレノアはわくわくしていた。学校での初舞台だ!
でも、どうしてフランシスが決めるんだろう?他の生徒の意見は?
「フェスティバルっていつなの?」
エレノアは疑問に思ったことはあえて口に出さず、どうでもいい質問をした。
「9月に決まってるでしょ。降臨祭なんだから」
神話では、9月の最後の日に、女神アニタが歌うたいの声に惹かれて、地上に遊びに来た(彼女はめったに自分の世界から降りてこない)ことになっている。
「あ、あなたそういえばイシュハ人じゃないものね」
「国籍はイシュハよ」
「へえ」
フランシスがどうでもよさそうな顔でエレノアを見た。
「一つ忠告していい?」
「何?」
フランシスが鋭い目で、試すようにエレノアの目を覗きこんだ。さきほどの、獲物を睨む目つきだ。敵か味方か、生かすか殺すか、見定めている目だ。
エレノアは軽い恐怖を感じた。
「シュッティファントとは関わらないで」
フランシスが低い声でささやいた。
「シュッティファント?例のお金持ち?この学校にいるの?」
「ヘイゼル・シュッティファントよ!」
フランシスは急に荒い息使いで叫び始めた。
「悪魔よ!史上最悪の男よ。人につきまとって余計なことばかりべらべらとしゃべりまくるのよ。しかも嫌がらせまでしてくるわ。人が飲むワインに虫を混ぜたりね!」
「ほんと?」
「私は気がついたから飲まなかったけど。何人か犠牲者が出たわ。それに、舞台で歌ってた人に向かって『何だその下手くそな歌は!俺の方がうまいぞ!』って言いながら突進していって、マイクを奪って自分が歌い出したの。去年のフェスティバルの話よ」
「ひどいわね」
エレノアはそう言ったが、実は、『歌手のマイクを奪う客』というのは世界中どこにでもいるので、大した問題だとは思わなかった。歌い手の上手い下手は関係なく、酔っぱらった客が突進してきたり、妬み深い人々がじゃまをしに割って入ってきたり、警察を呼ばれたり……そんなことはよくあることなのだ。そんなことにいちいち怯えていては旅芸人など勤まらないと、父ミゲルがよく笑っていたものだ。
「停学になって、管轄区のシュタイナーのところに送られたって聞いてたのに、戻ってきちゃったのよ!変な精神病の男を連れてね!さっきうちの使用人が連絡してきたわ。冗談じゃないわよ!」
フランシスがつりあがった目をさらにひきつらせてわめきたてたかと思うと、ワイングラスを乱暴につかんで一気に飲み干した。そして、驚きで目を丸くしているエレノアに向かって、
「気をつけなさい。あいつはパーティーをぶち壊すのが趣味なの。絶対今年のフェスティバルもめちゃめちゃにするわよ」
と言った。
「大丈夫よ、少なくとも、歌はけなされるほど下手じゃないし……」
そう言いながらも、エレノアは心配になってきた。
『イシュハのお金持ち』という種族には、旅先で何人も会っているが、確かにあまり質の良い客ではない。金払いはいいが、あきらかに見下した態度をするか、人をパーティー会場のインテリアや音響機器扱いして、ただ何時間も延々と曲芸や歌を続けることだけを要求してくるか、後片付けを押しつけられるか……。
しかも、シュッティファント……イシュハ一の大富豪。
その息子?わがままそうだわ……。
「ま、いいわ、あんなバカのことは」
フランシスは新しいボトルを開け、エレノアと自分の両方のグラスになみなみとワインを注いだ。
「もう飲めないってば……」
エレノアは明日、新入生のための試験を受けることになっていたので、これ以上飲みたくなかったのだが、フランシスはそんなことを気にする様子は全くない。
「いいからいいから」フランシスは急に、はしゃいだ子供のような顔で笑った「アルターへようこそ、エレノア」
フランシスがグラスを掲げた、エレノアは控えめに、そうっと、自分のグラスをフランシスのグラスに当てた。
古い、使いならされた楽器のような澄んだ音が、キャンドルに照らされた部屋に響いた。
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