道化師と林檎パイ

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 マスターがコーヒーを淹れるその滑らかな手つきを、眺めていた。  幾度となく繰り返されてきた、その迷いのない無駄のない動きが立てる微かな音、沸騰する泡の弾ける音、少し遅れて脳髄を刺激する芳ばしい香りは僕を内側からゆっくりと調律してくれる。 「マスターは……稜が……彼奴が生きてるんじゃないかって、思ったことありますか?」 「……四季くん……前にも言ったと思うけど、彼女の……光ちゃんが亡くなったのは、四季くんのせいじゃないよ」  目の前に置かれた砂時計の最後の数粒が、落ちることなく硝子に張り付いているのを見るともなしに見ている僕に、マスターはコーヒーの入ったカップを差し出しながら言った。  カウンターに置いた陶器の触れる音が耳に響く。その衝撃は砂時計の砂を全部下に落とした。 「答えになっていませんよ」 「そうだね」 「どうなんですか?」 「……もしかしたら、と思っていたよ。彼の身体が見つからない時点で、おやっ? と思った……いくら捜索しても、見つからない……こう言ったらアレだけど……稜くんは危ういところがあったし……もしかしたら稜くんが……まさかね」  この先は口には出来ないとばかりに、下を向いて小さく首を振る。  それから「確信なんて、何も無いし。四季くんが気づいていないなら、その方が良いと思ったんだよ。それに稜くんは、見つけて欲しくないと思ってるんじゃないかと思っていたし」と続けた。  大きな溜息を吐きながら、カウンターに肘を付いた僕は顔を掌に埋める。 「それでも、光が死んだのは僕のせいだ」 「……違うよ。どんな選択があろうとも、すべてを決めることが出来るのは所詮、本人でしかないんだよ。周りにいる人間が出来ることには限りがあるんだ」 「そうでしょうか?」本当に、そうなのだろうか?  ふわりと強くバターの香りがした。  同時に胸を締め付けるシナモンと甘酸っぱい薫りは……。 「林檎パイだよ。そういえばこの間、糸ちゃんが……」 「そうだ……糸……」  突然顔を上げた僕の前に、皿に載せた林檎パイを持ったマスターの驚いた顔があった。 「今日はそのことで、マスターにお願いがあって来たんです」  僕がそう言い終えるのを待っていたかのように、扉につけたベルが軽快な音を鳴らす。  振り返るまでもなかった。  そこに居るのは……。 「あっれー? 【closed】のプレート無視して入っちゃったけど、良かったんだよね?」  相変わらず自分の魅せ方をよく分かっている宗田くんが、僕とマスターを交互に見て明るい笑顔を見せていた。  「えーっと、四季さんの言いたいことは、分かりました。分かったけど……それマジで? その稜って人、なんなの?」  コーヒーに砂糖とミルクを入れ、スプーンで掻き回しながら首を傾げる宗田くんにマスターが林檎アップルパイの載った皿を渡しながら「四季くんの……親友? だった筈なんだけどね」と同じように首を傾げる。 「や、それ親友とかじゃなくね? つか四季さんて恋人だった人寝取られてんの? ウケる」 「……え?」 「ええっ?!」 「えーっと? オレ何か間違ったコト言った?」  二の句が継げない僕と、驚くマスターを前に困った顔をする宗田くんだったが「でもまあ……その稜って人は、話を聞くとちょっとアレだよね。別に四季さんの恋人が好きだった訳じゃなくて、嫌がらせっぽいのにそれって結局そうなっちゃったのはさ、四季さんが二人のこと知って日和ひよったからでしょ?」と続けた。  何も間違っていないような気がしてしまうのは、多分その通りだからなんだろう。いや、認めればその通り……宗田くんの要約はいつも、しょっぱいくらいに残念で的確である。 「お互いの最低最悪な部分も知ってる親友かぁ……オレには居ないし全ッ然、分かんないけど……親友だからこそ壊したかったのかな? そしたらやっぱつまり二人は親友っちゃ親友? なのかもね」  どこをフォローしているつもりなのか、宗田くんの不器用な優しさに思わず笑いが込み上げた。 「何だかんだ言っても、宗田くんは優しいよね。……だから糸のこと、頼みたいんだ。もしかしたら、稜はまた僕に嫌がらせをするために糸に何かをするかもしれない。学校にまでは現れないとは思う。でも、どこかで接触してくるのは間違いない」僕はもう傍には居られないから。 「ふーん。それって四季さんが高桜さんのこと……あ、やっぱいーや。今のはナシで……試しに聞くけど……その人が、どんな顔か写真とかないわけ?」  林檎パイを頬張り、フォークで皿の上の細かなパイ生地を突きながら僕の方を見る宗田くんに、携帯スマホに入っていた昔の写真を見せる。  カウンターの上に置かれたそれに覆い被さるような姿勢で、肘を突き画面に見入る宗田くんはどんな表情をしているのかまでは、分からない。  動きを止めた宗田くんの所為で店内は静寂に包まれ、壁にあるアンティークの柱時計の秒針の動く音がやけに大きく聞こえた。 「……名前、なんだっけ?」  フォーク片手にそのままの姿勢で、じっと画面を見つめていた宗田くんは静かな口調で問う。 「雀部 稜だよ」 「この人なら、見たことある……つか多分オレ、この人知ってるワ。その名前じゃないけど……」  そう言いながら顔を上げた宗田くんは、先ほどまでの雰囲気から一転し、ひどく真剣な様子で僕を見つめ返していた。
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