未来

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未来

 「ともかさん、ですか?」  鈴のような可愛らしい声に、振り返ると、淡いブルーのワンピースを着た女の子か、立っていた。  一瞬、誰か?どこで会ったのか?と、思案したが、思い出せそうになかった。しかし、目いっぱいに溜めた涙を見て、はじめて彼女が何者か、思い至った。  そう、この子が。  わたしは、小さくため息をつくと、干し途中だった洗濯物の皺をのばして、縁側に腰かけた。  「こちらに、いらっしゃい」そう声をかけたが、彼女は、黙って首を振るだけだった。干し竿にかけたシーツが、何枚か、パタパタ、とはためいた。  まるで、あの日の屋上のように強い陽射しのさす庭で、わたしは、中田の浮気相手を見つめる。白い肌。細い肢体。あざやかな茶色い髪の毛。  どれも、わたしとは正反対の可愛らしい女の子。おそらく、二十歳くらいだろう。かわいそうに、震える指で、何度も涙をぬぐっていた。  わたしも、あのころは、よく泣いていたっけ。いまはもう、涙さえでない。  縁石の向こう側で鳴いている蝉の声が、やけに耳に響いた。永遠の愛を誓ったはずの男は、いまやもう、ほとんど家には帰って来ない。  「ふ、」おかしくなって、小さく笑うと、彼女は、目を見開いてとまどっていた。  「ああ、ごめん。なんだか、おかしくって」  「そんな、だって、わたしは」  「うん、わかるよ。伊藤さきさん。あなたが、中田の新しい彼女でしょう。」  「新しい彼女、」  「そう」特段、めずらしいものを見る訳ではないと、肩をすくめて、にわかに笑うと、さきは、大きな目を更に大きくしていた。  「中田は、あれは、一種の病気のようなものね。性病よ、セイビョウ。」  「セイビョウ……。」  そう。だって、貴女でもう10人目くらいだから。新しい彼女。そう言うと、さきは、言葉の意味がわからず、呆然としていた。  一先ず、わたしは、あのころ、誰でもいい、誰かに言って欲しかった言葉を口にした。  「さきちゃん。貴女が、何に苦しんで泣いているのか、わたしにはわからないけど、もういいのよ。もう、自分を責めるのを止めなさい。」  あなたの人生は、あなたのもの。責任の取れない男に、支配されることを、止めなさい。そこに、心の安寧はない。  彼女は、息を飲むとせきを切ったように泣き出した。まるで、ミンミンと鳴く蝉のようだった。  「永遠なんてないけど、運命はあった。きみは、わたし自身だよ。さきちゃん。」  そう茶化して、言ってみたが、一度泣き出した子どもは、泣き止むことはなかった。  広い空、白い雲。青いシーツと、淡いブルーのワンピースが、ときおり、風になびいては、かすかな光の中に溶けてゆく。遠くから、聴こえてくる蝉の声と、呼応して、彼女の涙が乾いた土をぬらす。  いい歳を重ねた、いまだからわかることがある。運命とは、命運であり、避けようのない現実なんだ。そして、壊れかけた歯車のように、くるり、くるり、と回転し続ける。  純愛とは、本当に処女を捧げるに値するものだろうか。もはや、くり返し、男の前で足を広げ続けたわたしには、わからない解である。  あわよくば、彼女をゆるすことで、過去のあやまちから、自由になれる気がしていた。  ある夏の陽のこと。
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