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現在
背伸びをするときは気をつけたほうがいい。しなくてもいい背伸びは、一生しないほうがいい。
高いヒールで歩くときは、慎重に。転んでしまったら、怪我をするから。
「やっぱり、ここにいる。学年主任に怒られるよ」
階段を登りきった先、熱気につつまれたアスファルトの隅っこに、彼の秘密基地がある。
広い空、白い雲。遠くから聞こえてくる体育教師が鳴らす笛。たまに、鳴き始めの蝉が、しびれを切らしたように、ミンミンと鳴いては、休む。
彼は、日陰に引いた、白いレジャーシートの上で一瞬だけ、頭を持ち上げ、わたしを見た。
「なんだ、また君か」と、ため息をついて、切れ長の目を閉じて、また転がった。
太陽の陽があたる彼の髪の毛は、ほんのりと茶色い。
彼、中田一は、武蔵大学からきた国語教員の実習生だ。とは言え、まじめな実習生でないことは、見てわかる通りだ。
四限目の体育マラソンの笛の音が、鳴り響くなかで、ゴロゴロしているくらいなんだから、相当、図太い神経をしている。
「あのさ、」
「なんだ」
「わたしが言うことじゃないけど、」
「なら、言うな」
「あんた、本当に教師に、なる気あんの」
中田は、うるさそうにうなり声をあげてから、むくり、と起き上がる。眠たそうな目を細めて、わたしを見つめると、微かに笑みを浮かべた。
「島田フーズ株式会社か。」
汗をたらしながら、つぶやいた彼の言葉に、しばらく黙りこんだ。なんだ、暑いならこっちへ来い。と、笑いながら言う中田を睨みつけた。
「最悪」
「なぜ」
「見たの」
「何を」
「進路希望書。あれは、担任にしか見せないはずなのに」
中田は、愉快そうに笑い声をあげて、わたしの腕を引いた。勢いで、彼の腹の上に転がりこんでしまった。
彼のほんの少しだけ高い体温が、白いワイシャツをとおして、伝わってきた。
「君は、つくづくかわいいな。」
「バカにしている」
「君は、君は、さ。子供のくせに、よっぽど大人なんだから、面白いよ。」
「冗談。あんたが、成熟してないだけよ。」
彼は、真下からわたしを見上げ、やわらかな笑みを浮かべる。わたしの頬をつたって落ちた汗が、彼の額に点をつくる。
「ぼくら、大学生でさえ、就職先に希望を抱く。やりたいことや、向いていることに夢を見る。しかし、きみは、」
す、とのばされた右手のひらが、わたしの頬をつつみ、撫でた。中田は、切れ長の目を細めて、やわらかな笑みを浮かべた。
「食うために、仕事をするんだろう。」
「当たり前じゃない。それ以外にどんな理由があるの?」
「やりたいことはないのか」
「そうね、生きること。生活するためには、お金がいる。親だっていつまで生きてるかなんて、わからない。わたしは、だから、働く。それだけ」
わたしの突き放すような声に、中田は、良いなあ、とつぶやき、ゴロリ、とまた寝転がった。
「きみのような現実主義ばかりいたら、この国はよく回るだろうが、やはり、窮屈だろうな。」
「窮屈?」
わたしは、眉間に皺をよせて、怪訝そうな声をあげた。
中田は、にやり、と笑みを浮かべて頬杖をついた。額から流れた汗が、頬をつたい、手の甲をつたって落ちる。
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