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 「つまり、人生には、遊びというものが入り用なんだ」  わたしは、太陽の熱で温められたシートの上に座りこんだ。なにをめでたいことを、言っているんだ、こいつ。そうして、ため息をつくと、中田は声を上げて笑う。  「ぼくのゼミにもたくさん居たよ。大学は、学び舎ではなく、就活支援のサービス環境と、言い切るやつは」  「いいんじゃないの」  どうでも。と、いう言葉は飲み込んだ。中田は、憮然とした表情で、わたしを見上げる。  「きみのような真面目な働き蟻が、この国を回すように、ぼくのような不真面目な女王蜂が、きみたちを楽しませることもある」  「女王蜂は、あんたより真面目な生き物だと思うけど」  「比喩が良くないか」中田は、笑みを浮かべて仰向けになった。「ともか。息苦しいだろう」  汗が流れた。それは、アスファルトの熱気に呼応するように、静かに、す、と流れ落ちる。  「きみは、本当には、働きたい訳ではないし、少し悪いこともしてみたい。倫理や道徳なんか無視をして、赤信号を歩きたいんだ」  だけど、と、中田は声を低くして笑う。  「それをやったら、様々な兵隊から攻撃されることを、よく知っている。同じ輪の中に入れなくなる。だから、きみは真面目なだけで、本当に真面目な訳ではないし、真面目な生活をバカバカしい、と思っている」  「あんたは、インチキ占い師かなんかなの?」  「占いは、本来学術的なもので、別に人格を当てるゲームではないよ。それに」と、つぶやいて、中田はわたしの膝の上に頭を置いた。  「やわらかな肌だ」  「あんた、」  「きみは、すでに道徳から外れた自身をどう思うんだ?」  風が吹いた。  髪の毛を巻き上げ、シートをはばたかせるいやな熱風が、耳にぶつかるようにしては、消えてゆく。グラウンドから、響くマラソンの笛の音は、相変わらず規則正しい。  わたしは、しばらく空を見上げ、前髪を風にゆらしながら、黙りこんだ。中田は、太ももを微かになめ、わたしの頬に手をのばした。  「柴崎先生の車から降りてきたビッチ。か。まるで、小学校低学年のようなラクガキだ。それを、毎朝黒板消しで消す、先生たちはどんな気分なんだろうな」  「実習生のくせに、うるさいよ」  「ぼくは、きみの性癖に同情はするが、責めはしない。きみはいたって普通の女の子だ」  中田は、わたしの頬をぬらす汗を指ですくいとっては、舐めた。むくり、と体を起こし、まるで犬のように、わたしの目元や頬を舐め続ける。  「道徳から外れるのには勇気がいる。それを批判するのは、朝ごはんをお茶漬けにするくらい簡単で、なんの感情もないことだということを、ぼくは知ってる」そして、と、中田は小さく笑い、わたしの頭を撫でた。  「きみに殴られても、憎まれても、必死に止めようとした、きみの親友は、きみ以上に勇敢で愛のある良い子だ、ということもね」  「まるで、」  「まるで?」  「見てきたかのようね」  わたしは、表情を変えることなく、小さくつぶやいた。相も変わらず、頬をつたう汗は、止まることなく、アスファルトに落ちる。  中田は、わたしの目元を親指の腹で撫でながら、うっすらと笑い、キスをした。  「なにより、ともか。きみは、誰よりも優しい子だということも、ぼくは知ってる。体だけの関係を求められて、それに応じたのは、本当に愛していたからだろう。そして、」  「わからない、今となっては、」もう…。そう、囁いたとき、はじめてわたしは泣いていることに、気がついた。  風が吹く。鳴き続ける蝉はにぎやかだ。ふと、左手の小指を見ると、赤い毛糸が、結ばれていた。「きみは、心底、後悔している」
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