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 「なに、これ」  「知らないのか?運命の赤い糸だ」  「バカなの?」  そうして、中田を眺めると、彼は子どものような快活な笑いを浮かべて、自身の小指にも結んだ、赤い毛糸をほこらしげに見せた。  なぜだろう。わたしは、今まで感じたこともなかった温かな泉が、冷えた心を暖めてゆくのを、感じた。  きみが本当に求めていたことは、きっと、もっとシンプルで、些細なことだったんじゃないのか。  そう言いながら、中田は、小指を立てて見せて笑った。  「ぼくと結婚しよう、ともか。きみが心から欲しかったものを、ぼくがきみの薬指にあげるよ。」  「わたしが、欲しかったもの、」  ああ。未来への約束だ。  そう言って、微笑んだ彼の笑顔をにじむ視界のなかで、ぼんやり、と眺めた。そうして、左手の小指に結ばれた赤を眺めながら、痕跡をよろこんで残す彼に、熱い何かが、こみ上げてきて、止まらなかった。  「本当は、化粧をしたり、かわいいワンピースを着たり、香水をつけたり、アクセサリーを身につけたかったの。ずっと」  「うん」  「一緒に出かけたら、写真を撮りたかったし、誰だってそうでしょ?すきな人の話をしたかったし、すきな人のためにご飯を作ったり、手をつないで歩いたり、そういう当たり前のことを、したかったの。ずっと」  止まらない。止まらない涙を、彼はぬぐいながら、わたしの頭を抱きしめた。わたしは、ただ、彼の胸元に顔をうずめて、子どものように、泣いた。  「だけどね、それはできなかった。彼が許さなかった。家庭が大事だって、いつも言って。目の前にいるわたしの過去も、未来も、どうでも良かったの。彼はね、いつも」  痕跡を消すの。まるで、わたしと過ごしている時間を、無かったかのように。それなのに、平気で言うの。「わたしのことを、愛している」って。  「ふふ、」中田は小さく微笑んだ。「そいつは、すごい暴力だ!生きたまま殺し続ける拷問だ!きみは、拷問されてなお、世間や家族からも、見放されるのか。すごいサスペンスだ。」  茶化した言い方をしながら、中田はわたしの頭を優しく撫でた。額にキスをし、頬に、くちびるに、キスをした。そうして、わたしの泣きはらしたぐちゃぐちゃの顔を眺めながら、やわらかに目を細めた。  「きみが世間から攻撃されるのは、その実情を知らない無責任な他人さ。そして、きみは無意識にあらゆる人々の欲望の実を、一人でかじりに行った。芳香で美味しい、誰もが一度は口にしたい果実を。だから、きみは、嫉妬されているのだよ。」  人間は、いつでも道を外したいんだ。だけど、それを理性で食い止めているから、簡単にその理性を飛び越えてしまうやつが、憎いし、うらやましいし、怖いだけなんだよ。だから、きみが後悔し、向きあうものは、他人ではなく、自分の中にある欲望そのものだ。そうだろう?だから、きみは、いつだって、孤独だったんだ。  「どうして、わかるの、わたしは、」  嗚咽のなかで、言葉を吐き出すことができなかった。柴崎に捨てられた日、辺りを見渡すと、世界はすっかり、わたしを除け者にして、穏やかに他人行儀に、回る時間の中に、一人放り出されていた。  手をつないで歩いてくれていた人は、当たり前のように自分の温かな生活に帰ってゆくなかで、わたしだけ、ボロボロになった生活の場に戻るしか無かった。  あの瞬間、よほど世界は、まったくわたしに無頓着だった。大人は、他人は、わたしに興味がない。だから、わたしも、大人に、他人に興味がない。  わたしが世界を求めるのを止めたとき、世界がわたしを見放した。本当は、それだけのことなんじゃないのかなあ。  程なくして、わたしは精神科に一ヶ月入院した。事情を知った市の人間から、「児童虐待」で、病院に保護された。その時、はじめて、わたしは履いていた壊れかけの、高いヒールが脱げたのが、わかった。  いつだって、背伸びをすると、人は歩き疲れて、転んでしまう。わたしは、脱げて転がったまぼろしの赤いヒールを、路上に手をついたまま、いつまでも眺めていた。
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