過去

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過去

 白いレースカーテンのゆれる病室で、「ああ、精神科って本当に白い壁なんだなあ」と、まだハッキリしない頭で、辺りを見つめていた。  「ともか」  耳慣れた声に顔を上げると、そこには、目を真っ赤にはらしたまどかの姿があった。すっかり、痩せてしまっていて、わたしはほんの少し、心配になり、それを口にした。まどかは、ため息と共に微笑み、わたしの手を握った。  「あのね、あんたのほうが、痩せているし、目元はうす黒いし、目の焦点があってないよ。鏡みる?」  「やめとくよ。そんな気分にはなれないから。」  「そうね。それは、わたしも一緒」だけど、と、まどかは愉快そうに笑った。  「あんたには、本当にいつもハラハラさせられた。」  「過去形なんだ」  「もう過去でしょ、だって、」  あなたは、もうちゃんと現実に帰ってきてるじゃない。そうして、握った彼女の指は、きつくわたしの手をしっかりと、離さなかった。  「ゆるせない」  「ごめん」  「ともかのことじゃない」  「うん」  「だって、あいつ、ともかばかりに責任を押しつけて、逃げたじゃない。元はと言えばあいつが、あんたを襲ったのに。なんで、」  まどかは、悔しそうに泣きながら、わたしの手を握り続けた。陽光に照らされた彼女の黒髪は、きらきらと、かがやいて、きれいだ。  なんで、あんなやつかばうのよ。  そう、低くつぶやいた彼女の声は、涙をこらえて、濁っていた。わたしは、白いシーツにおちる光を眺めながら、ああ、生きていて良かった、と小さくつぶやいた。  「あのね、まどか。わたしは、彼を好きになってしまった。好きな人の不幸を望むことなんて、できないんだよ。」  それに、と微かに笑う。「わたしは不倫をした。それは、事実だ。だけどね、それは、結果が不倫だったんだ。最初から、不倫しようと思っていた訳では無かった。」  今となっては、なにを言っても、言い訳にしか聞こえないだろうけどね。そうつぶやくと、まどかは、泣きながらわたしを見つめた。  「知ってるよ。コントロールができたら、それは恋愛じゃない。ともかは、誰よりも純粋でまっすぐだ。だから、わたしはね、わたしは、あいつが許せない」  「なぜ」  「そういう、ともかに漬け込んで、ボロボロになるまで、振り回した。都合が悪くなったから、逃げた。ともかが、あいつの家庭を壊すことなんて、できないことを知っていたから。平気で、何でもやらせたんだ。」  「麻薬はやってない」そうして、いたずらっぽく笑うと、彼女は眉間に皺をよせた。  一際、強い風が吹いた。わたしの髪も、まどかの髪も、巻き上げて、いなくなった。彼女は、わたしの手を握りながら、ねえともか、絶対あんな、大人になんかならないで。と、小さくつぶやいた。  わたしは、うんとも、すんとも言えず、ただ微かに笑みを浮かべるだけだった。「永遠なんてない。いまこの瞬間が止まればいいとか、子どもみたいなことを、何度も考えて、だけど、わたしは結局、本物の愛を抱くことはなかったよ。」それなのに。と、指先がふるえた。  「彼に会うと、止まらなかった。」  ある人は、「罰があるから、罪がある。罰さえなければこの世に罪はない」と言っていた。わたしは、なぜかいまそんな奇妙な言葉を、思い出していた。  「人を愛するということと、罪を犯すということは、きっとまったく関係のないことなんだと、わたしは思うよ。」ねえ、まどか。だから、罪を責めても、愛を責めないで。本来、愛とは、とても公平で差別的な感情だから。  そう言うと、彼女は眉をひそめて、黙りこんだ。しかし、依然として握る手だけは離さなかった。
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