雪が溶けて消えてしまう前に

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「それ、何て名前だっけ」  ふいにそう話しかけられた瞬間、私の鼓動はひとつ脈を飛ばした。ドクン、と体じゅうで心臓の鳴る音がして、聞こえるんじゃないかと心配になる。  次の授業が始まる前の数分の休み時間。私は日直で黒板を消す係だったけど、時間ぎりぎりまで消さなかった。十二月の四限目。先生が来るまで、わざと待っていたのだ。先生が教卓で準備するあいだ、少しでも長くそばにいられるように。  先生が指摘したのは、手首に巻かれたミサンガのことだった。  赤とピンクの糸を縒り合わせて作ったそれは、華奢な見た目の割にしっかりしていて、軽くて鮮やかなところが気に入っていた。先生が、私の体の一部に注目している。その事実が体の奥深くまで浸透していくと、世界のすべてが遠ざかっていく錯覚に陥った。目に見えない速度で。私だけを置き去りにしたままで。 「プロミス・リングだっけ。何か願い事するやつ」  先生が言うのと同時に、予鈴が鳴った。  なんでこういうとき、何も言えなくなってしまうんだろう。眼鏡をかけた先生のレンズの奥にある目と目が重なって、その瞬間何か言わなければ永遠に交わらない視線だったのに。予鈴が鳴ると、先生は私の返答を待たずにふいと目を逸らして、 「よーし、今日小テストあるから座れー」  と、声をはりあげた。教室じゅうから、 「えー、もう?」「はえーよ」と、不満そうな声が口々に聞こえたけど、先生はそんな野次などものともせずに、 「じゃあその分早く終わらせてやるから席つけー」  なんて言いつつ、もうプリントを配り始めている。  薄いグレーのスーツが冬の弱い日差しに照らされて、陽にまぎれていきそうな背中を目で追うだけで少し泣きそうになる。  ずっと眺めていたい。そばにいたい。話をしたい。先生のことを知りたいし、私のことも、もっと知ってほしい。  そんな願いはしまいこまれたまま、胸の底を握りつぶすだけで、決して口にすることはかなわない。言葉にできない想いを前に、いつも私は途方に暮れてしまう。どうしたって届かない《大人》の枠組みのなかにいる先生の、ただひとりの特別でいたいのに。  黒板を消し終えると、もうほとんどが着席している教室を横切って、自分の席に座った。  窓際の一番前。この席の良いところは、プリントを直接受けとることができるところだと席替えして早々、私は気づいていた。
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