雪が溶けて消えてしまう前に

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香山(かやま)、黒板サンキュな」  手渡す直前、先生はつぶやいた。  私は「はい」と答える声がふるえそうになった。なんてぶっきらぼうな声しか出せないんだろう。我ながら自分の女子力のなさに嫌気がさす。そういう何気ない一言で、どれだけ揺さぶられるか先生は分かっていない。私はまだ十五年しか生きてない子供だけれど、この気持ちの理由を、もうすでにちゃんと知っていた。  先生はミサンガの色合いや、付ける場所にまで願いが込められているなんて知らないだろう。右手首に巻かれたそれは小テストのあいだ、シャーペンの振動でチラチラと揺れていた。  先生が初めて胸の鼓動を鳴らしたのは、入学してまもない雨の日だった。  朝から重たい曇り空だったけど、降水確率50パーセントを信じていた私は、ふつうの傘も折り畳み傘も持っていなかった。同じ中学で仲の良かった友達とはみんな離ればなれで、特に親しい人も見つけられない私は、強く降りだした雨を前に立ちすくむしかなかった。  まるで世界から締めだされているみたいだ、と思った瞬間、私は泣きそうになった。こんなにも心細い気持ちになるなんて、と不甲斐なさに涙がこぼれそうになる。  ――と、いきなり背後から話しかけられた。 「香山、傘ないの」  落ちついた、深い男の人の声。  振り返ると担任の先生がいて、泣きそうな顔を見られたかもしれないと急に顔が火照った。先生は運動部の顧問なのかジャージ姿で、胸に紐付きの笛を下げていた。そして私に、 「ちょっと待ってな」  と言うと裏手側に回って、戻ってきたあと、男ものの傘を差しだした。  黒色で柄が木目の、握りがしっかりした、大きな傘だった。 「これ使って帰りな」  先生の傘だ、と私は思って、 「いいんですか」とつぶやく。 「ほんとはよくないかもな」  と先生は言ったけど、そう思っていない声だった。 「女の子を濡らすわけにはいかないから」  女の子、という響きに私は動揺した。  先生の本音だと、よく分かる声だった。誰にでも優しくするのに慣れているようで、対して私は優しくされることに、まったくもって慣れていなかった。  先生の傘をさして帰り道を歩いているあいだ、その大きな傘に私は守られていた。激しく傘をたたく雨音すら、まるで優しく響くようだった。世界の片隅にしかいられなかったのに、中心に引き戻されたようにも思えた。世界の縁が広がって、私の存在も認めてもらえたような。ちっぽけな私を見つけてもらえたような。胸の底にじんわりと灯がともって、熾火のように私の心の中心を炙りだす。その火は先生にしか点けられないものだ。チリチリと胸の奥を焦がすような。
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