雪が溶けて消えてしまう前に

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 高校一年の春。私はそのとき初めて、本当の意味で誰かに恋をした。  今までも、誰かを「良いな」と思うことはあった。でもそれは、先生に対する気持ちとはまるで違っていた。ほんの少しでも視界に入りたい。目で追っていたい。ずっと見ていたい。そういう感情の激しさを、私は初めて知った。いつのまにか、学校に行くのが楽しみになっていた。登校すれば、先生を見ていられる。  授業中、休み時間、昼休みのあいだ、気づけばいつも先生を探していた。先生と話している女の子や、好意をほのめかした冗談を交わす様子を見かけるたび、嫉妬で胸がはりさけそうだった。私はそこまで露骨になれなかったから。   色んな子が先生に告白したという噂を聞いたときは気が気じゃなかったけれど、誰にもなびかないことをどこかで知っていた。と同時に、心の奥が軋むように痛んだ。この気持ちを、みんなと同じにみなされたくなかった。焦がれるように、『たったひとりの例外』に憧れた。しょせん叶わないと知っていても。  職員室は、あっという間に特別な場所になった。  プリントが山ほど積んであったり、飲みかけのコーヒーが端に置かれていたり、採点途中のサインペンがキャップをしないまま所在なく転がっていたり、家族の写真が飾ってあったりする、さまざまな机の列。先生の席は一番隅で、予想に反してあまり散らかっていない。どちらかというと女の先生の机は整頓されていて、男の先生の机は煩雑な印象だけど、先生は割ときれいにしている方だ。  放課後、先生の机は空席になっていたけど、私は「失礼します」と言って足を踏み入れた。この時間はきっとベランダにいる、と直感して窓の方を見やると、寒空の下、私の大好きな広い背中が見えた。まるで静かに発光しているようだ、と思うたびにいつも触れたくてたまらなくなる背中。  少ししわの寄ったスーツは、既婚の男の先生と比べると好ましくくたびれていて、身近な奥さんの視線に守られていない先生の全部を私が整えてあげられたらどんなに素敵だろう、なんて妄想する。  日誌なら机の上に置けばいいのだけれど、それだけにならないために、私はちゃんと対策を練っていた。ベランダへ続くドアをノックしてから開けると、先生はふりむいた。  思ったより冷たい外気に頬がひやりとする。右手には吸いかけの煙草が握られていて、まだ大分残っていたけれど、先生は携帯灰皿で丁寧に火を消して、私を見てくれた。 「あ、日誌なら机の上に」と先生が言いかけるのと、「あの、数学分からないところあって」と私がつぶやくのが同時だった。わざとらしく聞こえませんように、と祈りながら。 「数学?」  と先生は日誌と一緒に持っていた数学のノートに軽く目をやって、部屋のなかに戻ると自分の机の席に腰かける。座った途端、吸っていた煙草の香りがふわっと立ちのぼって、あ、先生のにおいだ、と私はそれだけで胸がいっぱいになる。 因数分解の三乗の公式、  X³+3x²y+3xy²+y³=(x+y)³ が先生の赤ペンでノートに書き加えられるのを、私は頷きながら眺めていたけれど、本当は口実なんて何でもよかった。 こんな理由でしか近づけないことが、ときどきどうしようもなく悲しくなる。
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