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サイン会が終わり、家に帰ってきた。
ずっと、張り詰めていた緊張がすっと溶けていくような感覚に、俺は満足感を覚える。
そして佐田さんに貰った花束と、メッセージカードを見て思わず頬が緩む。花束に顔を埋めて花の香りを、胸いっぱいに吸い込むと優しい香りに包まれる。
「お礼しなきゃ……」
俺はカバンに入れていたスマホを取り出して、佐田さんの電話番号にコールをする。すると少し間を置いて、コールがプツッと遮られた。
『お疲れ様です、佐田です』
落ち着いたトーンで電話に出た佐田さんに、俺は何故か嬉しくなった。
「こんばんは、橋本です、今日はありがとうございました!」
俺は電話越しにしては、勢いをつけすぎてお礼を言ってしまった。
お礼を伝えたあと、少しだけ恥ずかしくなり誤魔化すように笑う。そんな俺の様子を察して、佐田さんは優しげな声で『こちらこそ』と言ってくれた。
「ふふっ。先生はもう、お帰りに?」
「はい、それと……花束のお礼をする為に電話をかけました。今日は来てくださって、嬉しかったです」
俺は花束を握りしめ、緊張する心臓に気付かないふりをして伝えた。
そんな俺の様子に、佐田さんは電話越しに息をのんだ気がした。なにかまずいことを、言ってしまったのかと少し焦る。
焦ってしまい癖でお礼の言葉をごまかそうとしたら、佐田さんが安心したように『届いてよかった』と息を吐きだしたのだった。
『事前に、先生に待合室まで来ていいと言われていたのは覚えていたのですが、実際に行く勇気がなくて………エレベーターですれ違った、本郷先生にお渡ししたんです』
俺はそのことを聞いて、なんだか嬉しくなった。
本郷先生にも後で後藤さんに頼んで、お礼のお菓子でも送っておこう。
「そうなんですね………! ありがとうございます。おかげで、サイン会の疲れが吹っ飛びました」
手元にある佐田さんからのメッセージカードを見ながら、俺は素直な気持ちを伝えた。
『ふはっ、それは良かったです。そういえば先生、メッセージカード見てくれましたか?』
「は、はい……っ! み、みました!」
俺はタイミング良いのか悪いのか、そのメッセージカードに見とれていた為、思わず声が裏返ってしまう。それを、誤魔化すように咳払いをした。
『そうですか、何か恥ずかしいですね……』
佐田さんは苦笑いを含んだ声で言う。
俺はそんな事ないですよと、ありきたりなことしか言えなかった。こんな時、口下手な自分が嫌になる。
『あの……もし良かったら今度お食事に行きませんか?』
そう恐々と伺ってくる佐田さんが、何故か酷く可愛らしくて笑ってしまう。
佐田さんに悪いと思いながらも、食事の誘いに了承の意を伝える。
『本当ですか!? お店とか調べておきますね!』
「ふふっ、分かりました。よろしくお願いします」
顔は見えないがウキウキとぱっと明るくなった声に、俺も何だか楽しくなってきた。その日はこれで会話が終わってしまったが、俺の心はずっとドキドキしていた。
何故ドキドキしているかなんて分からないが、イベントを終えた達成感と佐田さんとの次の約束が嬉しいから、と事付けて置くことにする。
◆◇◆◇◆◇
相変わらずパソコンに向かい、頭を悩ませている昼下がり。
俺は進捗を見返した。対して進んでいないのを見て少しばかり、諦めそうになる。それでも「もう少し」と、画面とにらめっこする。
けれど切れた集中力は、どうも戻らずに低迷した。
俺は一旦、やってる事をやめて昼食を食べる事にした。
急がば回れという言葉もある。早く原稿を終わらせたいなら、しっかりと休憩をするべきだろう。
しかし昼食と言ってもあまり食べすぎると、午後から仕事が出来なくなる為、程々に抑えよう。
俺はコンビニ飯を広げ、唯一の自由時間をぼーっと過ごす。すると、メールが来た。
俺は、コンビニ弁当に入っているカツを口に運びながら、中身を確認する。
メールの相手は佐田さんだった。内容は、食事の約束の事についてだった。お店が決まったと報告を受けて、俺はこまめな報告に少し張り詰めていた気がすっと抜けていく気がする。
今まで人生の先々が、楽しみと感じる事が少なかった。
だからか、こうやって誰かと過ごす為の準備や約束がとても楽しく感じる。
友人との約束事が嬉しく感じる経験ができるのは、ひとえに佐田さんのおかげだ。俺は心躍る気持ちで、カツにかぶりつくのだった。
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