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『ただいま。』
キッチンにいるだろう母に声をかけ、背負っている重たいリュックをソファに下ろした。
肩を回しながらゆっくりとリビングを眺めると、そこには退屈なくらいの穏やかさがある。
あるのもは、変わっていないように見えて変化の多い日々。
夏休み中に転部試験を受けた私は、環境住居学部に学ぶ場所を変えた。
新しい学舎は、総合心理学部のあるメインキャンパスから電車で1時間ほど離れた場所。
あの日以来、夏樹には会っていない。
会おうと思えば会える距離で、それでも私たちは1度も会うことはなかった。
『お母さん、』
「ん?」
母がキッチンから覗かせた顔が随分と老け込んでいて、ひゅっと悲しくなるが、考えるのはやめにする。
きっとそれは、私も同じだからだ。
もしも、私の本当の親が私のことを探していたら。
もしも、夏樹が私のことを誰かに話したら。
ifで始まる想定は募っていくばかりで決して消えることはないが、起こりうる全てを想像して、それでもなお、私たちは毎日祈るように生きることを選んだ。
『テスト明けの連休さ、旅行しない?』
「…友達とじゃなくて、おばさん連れてくの?」
『女はね、卑下しちゃ駄目なんだよ、自分のこと。』
いつか、この毎日が一気に崩れ去る日が来るのだろう。
口に出さずとも、この歪んだ家に怯える気持ちは2人分。
それでも、「いつか」が来るその日まで、どうかこのまま。
過去化粧 Fin.
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