捨てた男 ①

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「オマエの大切なものを、ここに差し出せ。記憶ひとつにつき、ひとつ」 「……大切なもの?」  波部は、けげんそうに眉をひそめました。 「オマエの頼みを聞いてやる代わりに、それに見合う対価を示せと言っている。記憶を(、、、)消してやる(、、、、、)()ふさわしい(、、、、、)対価(、、)をだ」 「何言ってるかわかんねぇよ。金か? 金ならあるぞ」  そう言いながらリュックから財布を取り出そうとしましたが――リュックがありません。斜面を転がり落ちた時になくしたのだった、と波部は思い出しました。 「金銭ほど、無価値なものは無い」  キヲク消去人は、パイプをふかして言いました。 「無量大数の手垢にまみれた俗物に何の価値があると云う。誰にも必要とされるモノより、誰にも必要とされていない、孤独一貫の処女の方がずうっと価値がある。私は、それが欲しい!」 「なにワケのわかんねぇこと……」 「波部冬真という人間だけが保有する大切なモノは無いのか、と尋ねている。オマエの望みは叶えてやろう、それ(、、)を受け取ったあとで」  暗闇を色濃くした黒の眼玉が、波部の瞳を捉えました。  一度見た者を、その奥にある闇の世界へ身体ごと引きずり込もうとする、得体の知れない眼力が襲いかかってきたのです。 「安心しろ。人体には興味が無い。五体満足で帰してやる」  もう声ひとつ出せなくなった哀れな若者に、薄皮の骸骨が笑いました。それは、屋台に入った時に煙の向こうから聞こえてきた無表情の笑いと、まったく同じでした。 「で、私は何を貰える? その泥まみれの袋から勝手に漁れ、というなら漁ってやろう」 「あっ!」  いつからでしょうか。土埃をかぶったごくごく地味なリュックサックが、扉の前に置いてありました。 「何で。誰が持ってきたんだ」波部はすぐに飛びつきました。紺色の小箱やマスクポーチ、水筒、そこそこの紙幣が入った財布――中身は相変わらずです。 「人間、ひとつやふたつ、決して失いたくないものがあるだろう。これ(、、)なんかどうだ」  真横から、黴だらけになった骸骨の腕がリュックサックの中へ飛び込み、何かを鷲掴みにして出てきました。  それは、美しいハート型の、リングケースでした。  波部はすぐに血相を変えて、黴だらけの腕に飛びつきました。 「それはダメだ。返せ。人に渡すものじゃない」 「急にどうした? 獣返りして」 「これはダメだ。どんな幸せと引き換えでも渡しちゃいけないやつなんだ。他のものならいくらでもやる! でもこれはダメだ、勘弁してくれ。おれの大事なものなんだ」 「その大事なもの(、、、、、)が、欲しい。等価交換とは、そういうものだろう」 「何なんだよ等価交換って!! たかが記憶を消すだけだろ、何でこんな……」  波部がやけくそに黴だらけの腕を殴りつけると、その衝撃を受けたハート型のリングケースが宙へ飛び立ちました。泥で煤けた床板にコツン、とぶつかったその拍子にふたは外れ、厚い雲を押し込めたような綿生地から、ひとつ、星のきらめきみたいな輝きがこぼれたのです。 「あっ」  波部があわてて駆け出すよりも先に、その小さい輝きは、黴だらけの手に掴まれていました。
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