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「オマエの大切なものを、ここに差し出せ。記憶ひとつにつき、ひとつ」
「……大切なもの?」
波部は、けげんそうに眉をひそめました。
「オマエの頼みを聞いてやる代わりに、それに見合う対価を示せと言っている。記憶を消してやるにふさわしい対価をだ」
「何言ってるかわかんねぇよ。金か? 金ならあるぞ」
そう言いながらリュックから財布を取り出そうとしましたが――リュックがありません。斜面を転がり落ちた時になくしたのだった、と波部は思い出しました。
「金銭ほど、無価値なものは無い」
キヲク消去人は、パイプをふかして言いました。
「無量大数の手垢にまみれた俗物に何の価値があると云う。誰にも必要とされるモノより、誰にも必要とされていない、孤独一貫の処女の方がずうっと価値がある。私は、それが欲しい!」
「なにワケのわかんねぇこと……」
「波部冬真という人間だけが保有する大切なモノは無いのか、と尋ねている。オマエの望みは叶えてやろう、それを受け取ったあとで」
暗闇を色濃くした黒の眼玉が、波部の瞳を捉えました。
一度見た者を、その奥にある闇の世界へ身体ごと引きずり込もうとする、得体の知れない眼力が襲いかかってきたのです。
「安心しろ。人体には興味が無い。五体満足で帰してやる」
もう声ひとつ出せなくなった哀れな若者に、薄皮の骸骨が笑いました。それは、屋台に入った時に煙の向こうから聞こえてきた無表情の笑いと、まったく同じでした。
「で、私は何を貰える? その泥まみれの袋から勝手に漁れ、というなら漁ってやろう」
「あっ!」
いつからでしょうか。土埃をかぶったごくごく地味なリュックサックが、扉の前に置いてありました。
「何で。誰が持ってきたんだ」波部はすぐに飛びつきました。紺色の小箱やマスクポーチ、水筒、そこそこの紙幣が入った財布――中身は相変わらずです。
「人間、ひとつやふたつ、決して失いたくないものがあるだろう。これなんかどうだ」
真横から、黴だらけになった骸骨の腕がリュックサックの中へ飛び込み、何かを鷲掴みにして出てきました。
それは、美しいハート型の、リングケースでした。
波部はすぐに血相を変えて、黴だらけの腕に飛びつきました。
「それはダメだ。返せ。人に渡すものじゃない」
「急にどうした? 獣返りして」
「これはダメだ。どんな幸せと引き換えでも渡しちゃいけないやつなんだ。他のものならいくらでもやる! でもこれはダメだ、勘弁してくれ。おれの大事なものなんだ」
「その大事なものが、欲しい。等価交換とは、そういうものだろう」
「何なんだよ等価交換って!! たかが記憶を消すだけだろ、何でこんな……」
波部がやけくそに黴だらけの腕を殴りつけると、その衝撃を受けたハート型のリングケースが宙へ飛び立ちました。泥で煤けた床板にコツン、とぶつかったその拍子にふたは外れ、厚い雲を押し込めたような綿生地から、ひとつ、星のきらめきみたいな輝きがこぼれたのです。
「あっ」
波部があわてて駆け出すよりも先に、その小さい輝きは、黴だらけの手に掴まれていました。
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