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「婚約指輪か」
鏡のような金剛石と、透きとおる紅玉が添えられた、美しい指輪です。
キヲク消去人は、その絢爛な宝石をためつすがめつ眺めました。
「これと同等以上の価値が、記憶にはある」
物凄く低い声が、地獄の底からせり上がったように響きました。
「人間を含む動物全般は、日常生活の仕方、飲み食いの仕方、自らの世界を生きる為の処世術など、種々雑多な様々なことを記憶することで生きている。たとえば、こうして物体をつまむことひとつ――人差し指と親指、あるいは他の手指の動かし方を知り、それを覚えているからこそ為せるのだ。たとえば、肉食が草食を食らうことひとつ――草食の生命に直結する急所を知り、それを覚えているからこそ為せるのだ。記憶とは、動物全般において生活を司る重要機能である。その種類のひとつとして……‘トラウマ’や‘思い出’がある」
キヲク消去人は、凍りついたように動かない波部を、黒い眼玉でじっと見つめました。
「この店に来る客はみな――自らのトラウマを消せだの、別れた恋人との思い出を消せだの、普段おのれ等がたった硬貨一枚で欲しい物を買うのと同じ調子で言ってくる。オマエもそうだ――波部冬真。無尽蔵に産まれてくる金なんかの端くれでもって、オマエは記憶を売り買いしようと言う。生命を売り買いしようと言う」
「……いのち?」
「それと同等のことをオマエは私に頼もうとしている。記憶とは生命だ。我々動物全般の営みを司る記憶を一部でも失うというのは、生命をごっそりと削り――その者を死に至らしめようとする行為である」
「さっきからワケのわかんねぇこと言ってんじゃねぇッ!! 指輪返せ!!」
「要領を得ない事を前にして怒鳴る――実に人間らしい」
キヲク消去人は、クツクツ、と、喉から不気味な音を立てて笑いました。
「返してやってもいいが、その代わり、オマエの依頼は無かったことにしてやるぞ」
「そっ、――あぁいいよ! それを取られるなら今の生活続けた方がマシだ」
波部は、骸骨の黴ついた手からリングケースを引ったくり、床に転がったリュックサックを乱暴に背負いました。
「気が変われば、また来い。こちらは未来永劫、待っているぞ」
「また来てたまるかよ。ここに来たおれが馬鹿だった」
「あァそっちの扉は……開けない方が良い。奈落に落ちるぞ」
「は?」
波部が、怒り勇んだ足で自分が入ってきた扉を開けると、どろどろに汚れた滝壺のような谷底が、目の前に現れました。
波部はとっさに足をひっこめ、そのまま尻もちをついてしまいました。
「どうなってんだよ、こっちから入ってきたのに。こんなの無かったぞ」
「この森は、ひどい気まぐれモノでね。その日の気分によって己の地形すら変えてしまう」
キヲク消去人は、またもやクツクツと笑って、反対側の向こうにある扉を指しました。
枯れて色褪せた苔がびっしりと貼り付いている、禍々しい雰囲気の扉です。
「自宅に帰りたければあれから」
と、黴ついた人差し指が示したので、波部は黙り込んだままその扉に向かって歩き、錆びたドアノブを捻りました。
押し開けば――悪霊のように突っ立っている無数の木々の奥に、バス停がぽつんとあるのが見えました。
「樹海のバス停……!」
波部が思わず数歩駆け出したあと、バタン、と、古い扉の閉まる音が聞こえました。
「おい」と叫んで振り返ると、真っ黒に苔むした地面だけを残して、屋台は跡形もなく、消え去っていました。
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