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階段を中ほどまで下りたあたりから、バターの焦げたような匂いが漂ってきた。
クロワッサンのような匂い。
廊下を進んでダイニングへ入ると、やはりテーブルの上にはクロワッサンがあった。
一カ月も前から、何となくもったいない気がしてとっておいた、冷凍のクロワッサン。オーブンでこんがり焼くと、パン屋さんの焼きたてクロワッサンと同じ味に
――はならない。チープな味。
でも、これはこれで結構好きだった。特別な感じがなくて好きだ。
席に着くと、スイが両手にグラスとマグを持ってキッチンから姿を現した。
グラスをわたしの席へ、カップを自分の席へ置く。牛乳少なめのバナナジュース。スイのカップからは湯気が立っているので、きっといつもと同じホットコーヒーだろう。
カップを眺めるわたしに、しかしスイはクロワッサンの話をした。
「すみません、ちょっと焦がしました」
「そう? わたしこのくらいが好き」
飲み物を飲んで、チープなクロワッサンをかじる。二人とも、いただきますは言わない。言った方がいいんだろうけど、なぜか言わない。
スイがシュガーポットから角砂糖を一つ取り出し、音もなく黒い海へと落とす。そのスプーンをそのままコーヒーへ浸し、カップの底で砂糖を転がすようにくるくるとかき混ぜる。
くるくる、くるくる――。
「シオさんは、今日、やっておきたいこととかないんですか?」
「というと?」
「だって、最後の日じゃないですか」
スイが顔を上げる。クラゲが揺れる。
その切れ長の瞳の奥を、ついと、遠い記憶が横切った。
――地球最後の日、何したい?
幼稚園だったか、小学校だったか。そんな質問の流行った時期があった。
遊園地で遊びたい。海外旅行をしたい。家でゲームをしたい。動物園。水族館。漫画。映画。ドラマ。サッカー。野球。プール。ショッピング。ライブ。カラオケ――。
恋人と過ごしたい。友達と恋バナをしたい。家族で外食をしたい。お祖父ちゃんと。お祖母ちゃんと。いとこと。はとこと。幼馴染と。先生と。飼い犬と。飼い猫と。ウサギと。カメと――。
時には、朝の会が始まる前から放課後まで、ずっとその話題で持ち切りだった。みんな、真剣に頭を悩ませては、瞳を輝かせて楽しく語り合っていた。私も、楽しく考えていた。
そんな日が本当に来ることになるとは、露とも知らず。
「スイは?」
「……小説ですかね」
一口飲んで、また砂糖をひとすくい加えながらスイが答える。
「時間ができたら読もうと思っていた本が山ほどあるんです」
「読めばいいのに」
「そうもいきませんよ。今読み始めても間に合いませんし。続きが気になる状態で終わるのは、なんとなく嫌じゃないですか」
へえ、そういうもの? わたしにはよくわからない。
喜怒哀楽、いずれともつかない感情が胸に揺蕩っている。言葉は特に出てこなかったので、代わりにクロワッサンをかじった。ザクザクと層が砕けていく。妙な気分も砕けていく。
バナナジュースを一口飲む。
少し色の変わった表面をかき混ぜれば、奥の方はまだ白いままだった。
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